08.否定と肯定
これから書くのはゲーム作りのモチベーションについて話なのだが、ぶっちゃけ仕事で鬱になった話と深くかかわっていて、くらーい気持ちを吐露しているだけの文章なので、人によっては気分が悪くなるかもしれないので、見ないでもいいのよ?
それを踏まえた上で
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まあ、ことの始まりは、出版の仕事で病んでしまったことだ。
残業手当なし、ボーナスなし、昇給なし、引き継ぎなし、月休2日で日平均残業7時間とかいう狂った職場だった。編集という役職で入ったのだが、編集、ライティング、取材はもちろん、営業、販促、倉庫整理に通販管理、gzgzだったホームページのリニューアル担当までやってたものだからもう忙しいとかそういうレベルの話ではなかった。
その前の職場も残業手当なし、ボーナスなし、保険なし、日平均残業4時間くらいのそこそこ狂った職場で、30代を間近に控えていつまでも「フリーライター常勤」などというワケのわからない立場で仕事をしているのはヨクナイ、と思い立って正社員として雇ってもらえる出版社に就職したワケだが、前の職場に輪をかけて酷いところだった。
給料や労働時間は、まあ、良いんだ。本を作るのは好きだったから我慢できた。
でも、後の会社が本当に辛かったのは、「一切仕事を評価されなかった」ことだった。
上記の通り、編集以外にも膨大な仕事を任されて疲労困憊になりながらも、なんとか仕事を回していた。70~80ページ(まあ、半分くらいは営業・広告が担当してたので実質30~40ページくらい)の月刊誌の編集を行いながら通販と在庫の管理を行い、女性の多い職場だったから、撮影があればヘルプに入ったし、PC全然使えん人が多かったから全社PCのデータ管理もやってたし、前世紀レベルで止まっていたホームページのリニューアルと更新、ホームページへの広告営業、イベントもやってたから年4位で設営販促もやって、広告主におべっかを使い、新規開拓のために日に100本の電話をかけたこともあったっけ。
「そのくらい楽勝でしょ」「この程度で弱音吐くのは甘え」と言う人もいるかもしれんが、とにかく僕のキャパは完全にオーバーしていた。
これだけやって、一つ一つの仕事のクオリティが維持できるはずがない。何よりつらいのは、メインの仕事である月刊誌の企画がまったく出せなかったこと。ぶっちゃけ日々の仕事を回すのが精いっぱいで、編集者として最も大事な「アンテナを伸ばす」余裕が全然なかったのである。斬新な企画が出せず、過去号の焼き直しのお茶を濁す企画しか出すことができなかった。
そのうえ、直属の上司は社長と専務だったが、「広告をとれる可能性があるかどうか」でしか企画を評価してくれなかった。新しい分野を開拓したくても、「紹介してやるから宣伝料を払え」というスタンスで乗ってくれる人は極めて稀だ。
企画だけではない。文章、デザイン、レイアウト、あらゆる面でダメ出しをされた。上司からOKをもらった記憶は一度としてなかった。
僕自身の力量が足りなかったのはもちろんあるだろうが、仕事量と給料に対するクオリティでいえば、あの程度が限界だったんじゃないかと思う。
それでも、こなしている仕事に対する労いの言葉の一つもあれば、もう少しだけ頑張ることができたんじゃないかと思う。
実際、前の会社では、労働環境こそ褒められたものではなかったが、上司や同僚からある程度仕事のクオリティを評価してもらっていたし、クライアントからの評判も悪くなかった。自分の担当ページがアンケートで上位にきたときの感動は今も忘れることができない。給料が低くても、休む時間がなくても、努力や結果を正当に評価してもらえれば人間はモチベーションを維持できるものなのだ。
結局、ある案件で、「適切な対応をしたにも関わらずミスと決めつけられて一方的に詰られた」ことをきっかけに会社は辞めた。
新規に広告を検討してくれそうな人だか結構大事クライアントだかの電話を、外出中の営業担当に紹介し、折り返し連絡をいれてもらう、という対応だった。営業担当が引き継いで対応し、問題なく話は進んだのだが、何故か僕の対応が悪かったと詰られたのである。何をどう勘違いしていたのだか未だに解らないが、営業担当が適切な対応だったと弁護したにも関わらず、上司は一切の反論を許さずに私の非を詰り続けたので、何もかもどうでもよくなった。同僚には申し訳なかったので全ての仕事についてきちんと引き継ぎをしていったけどね。
ともあれ、この会社にいた2年間で、僕は根強い自己否定観を植え付けられてしまった。端的に言えば、「どれほど努力しても評価してもらえない」という思い込みと、「また否定されるのではないか」という恐怖感と不安感に常に苛まされている感じ。そのお蔭かどうか、ちょっとでも緊張すると凄まじい吃音になってしまう。復職しようと就活するも悉くはねられ(まあ、面接の現場で「わ、わわわ、わ、私ははは……」とかなってたらとってもらえるはずがない)て、ますます自己否定感が増大。過食と拒食が交互にやってきて体調最悪だわ、睡眠障害でなんとか滑り込んだ会社の会議中に眠っちまうわでもう散々。
結局、就職を諦めて実家に帰り、2年ほど心療内科に通って自己分析に努め、どうにかこうにか、極端な神経衰弱から抜け出すことができたのである。神経衰弱中、弱り切った体は年齢のこともあって未だ完治とは言い難いし、自己否定感がなくなったワケでもなく、単に問題点を洗い出すことができた、というレベルであるが。まあ、とりあえずこうして吐き出すことができるようになったのは進歩と言えるだろう。
しかし、今度は年齢の問題が重くのしかかってきた。既に30を過ぎ、神経症を患い、体調にも不安がある身、しかも身に着いたスキルは編集関係だけだ。そもそも、僕は新卒時に就活に失敗していて、正社員の経験すらたったの2年間しかないのだ。一応、実家の薔薇園の園丁として働いてはいるものの、将来は最早絶望的という他なかった。
……それで、最後に縋り付いたのがTRPGだったのである。
「なんでやねん!」と言う声があがるかも知れないが、僕にとってTRPGは唯一残った成功体験だった。GMとしてプレイヤーを楽しませ、シナリオに感激してもらった経験。プレイヤーとして自分のキャラクターを演技で表現する経験、ナイスな掛け合いで場を盛り上げた経験。それらを成し遂げることで、僕は失ってしまった「成功体験」を取り戻すことを決めたのだった。
元々、「本を作る仕事がしたい」という気持ちがとにかくあって編プロや出版社を渡り歩いてきたのだが、下請けや丁稚としての生活を8年も続けた結果、「自分の企画を立ち上げる」「自分の創作物を売る」という発想をすっかり忘れていたのに気付いたのもこの頃。
また、ちょうどこの頃、ちょっとした縁で、オリジナルTRPGの企画に関わらせていただき(オリジナルシステムとリプレイの制作)、自分がこれまでに身に着けてきたモノづくりのノウハウが無駄でなかったことを実感できた。不足している技術も確認できたので、無理してDTPの専門学校に通ったのも確実に肥やしになった。
その後、半年に1~2冊のペースで制作を続けて現在にいたる。
今のところ、「好きなものを好きなように作る」「完成させる」という成功体験を得るのが主目的って感じで、売ること、利益を出すことまでは思い至っていない。そもそもTRPGなんつーニッチなジャンルを選んだこと自体アレだし。
それでも、少しずつではあるけど、作品を評価してくださる声なども聞こえてきて、本当に少しずつだが僕の「自己否定感」は解消されつつある。完全に解消されたら、きちんと売れるモノを作って名を上げたい、という野心も出てきた。ちょっと前までは考えられないことだ。
不安なことは色々あるけど、もう少し、納得いくまで「TRPG作り」を続けていきたい、とつくづく思う。そんな今日この頃なのでした。