熊本明治震災当日の様子

熊本明治震災当日の様子

国立国会図書館近代デジタルライブラリーの蔵書,熊本明治震災日記(水島貫之著 明治六年活版舎を創設,白川新聞,熊本新聞へ発展 明治22年十月発行) については以前,明治22年熊本地震(液状化の有無)で紹介した.当日の様子と地震の前兆を知るために精読し始めたが,当該ページ(2−9頁)はノイズのため非常に読みにくいので書き写してみた.句読点がないので一部加筆した.濁点については前後から判断してほしい.また,國,醫,聲,游,壓,舊,縣廳などの漢字については新旧混用した.

当時の熊本市街図(クリック拡大)

◯七月廿八日晴 正午寒暖計九十八度 舊七月一日 注)摂氏36度

此日朝またきより一天晴れ渡り,曩(さき)に連霖(ながあめ)三旬餘に渉り各郡多少の水害あり.加ふるに市内瀬戸坂のことき七月廿三日高岸壞崩(くずれ)して,為に家を潰し人を壓死するの惨状を現出し,市内人心をして憂悶自ら禁する能はさらしめしも以降三日にして密雲漸く収まり,二十七日に至て始めて蒼天を仰き翌二十八日に至れは数旬の煩悶を忘れたるかことし.人々をして回春の思あらしむ當夜のごとき微雲處々に逗(のこ)りて纔(わづ)かに南風を送り来りしも晝間の残熱尚去らさるを感せり.迂雙家族と共に涼風をもとめて矮屋(いえ)の内外に散居し,時鐘(とけい)十一時を報せしかば?例のことく所々の戸鎖しを厳にし臥房に入るや若きもの等はいちはやく華胥(ゆめ)に遊ふ.迂叟(年寄りの男性が自分のことをへりくだっていう一人称の人代名詞)は戸を閉て,冷風を遮られ煩悶眼るに堪えす,蓆(むしろ)上に横臥して,徒然を医せんと煙管をとり,埋火を掻き出すの際,西方に當りて轟然たる響きを聞くかと思ふ間に家屋頓(にわか)に動揺を始めぬ.傍らに臥したる荊妻(つま)を呼ひ,愴惶(あわて)臥房を出て直ちに雨戸をあけんとするも動揺の為めに壓(おさ)れて寸隙を得ず.此時はやく家族は皆迂叟の背後に集へり.数分時にして稍ゝ(やや)微動に転せしかは筆生の力を出して漸と一枚の雨戸を繰り入れたり.続いてまた再び震動の興り来れば,皆庭前芝生の上に座せしむ.此第二の動揺収まりて初めて時計を検するに十二時五分前を示せり.迂叟戸を開くや庭に飛降りて泉水を見るにいまた激浪治まらず,南方は僅かにして北方は迸り殆ど深さ二寸餘の水を揺り出して庭上汎涵たり.初め震動の際戸を開得ぬまゝ板縁に佇立(たたづみ)して動揺の形勢(さま)を試るに,安政度の震動は身体透迤(よろよろ)として歩行に艱(なや)めるを覚えしかと.今回の震動は全く蹌浪(ひょろひょろ)の艱(なや)み尠かりしは大ひに異なるものあるを感じたりき.唯家屋造作の大軸(しん)を動揺せしめ,殊に強く覚えしは天井を四方より揉み崩さんとするかこときの響きは実に凄まじかりき.後にて想像するに安政度の震は,横動にして今回は縦動の強なるを以て其異なる所以を悟れり(縦動横動のことは學士の説または実蹟を後に言ひ明すへし (注)三十余年前の安政元年甲寅十一月五日に地震があった.

(人々の様子)初震前の轟々たる響音は我人無意無心の折り忽焉(こつえん)と発せしにとなれば確呼(しかと)形容し難きも西方より来れうの感ありて,初震再震とも激動の後微動の響きは延(ひ)ゐて東方に向つて去るかごとき感覚あるは疑ふへからす.當夜この再震の興るまては響きに紛れて人聲のあるや否や気もつかざりしか.迎(や)かて四方八方互ひに交わるの聲は宛然(さながら)慟?哄(ときのこえ)のことく耳を澄して遠く望めば,親は児を呼ひ子は親を慕ふの愁聲林響(こえごえこだま)に冴へて遙かに物凄く近く幼児の啼泣喧(かしま)しきを覚えたり.数時間を経て較々(やや)人民恐懼の聲は静まりしも震動は絶間なく鳴響を交へて強弱互想に起り遂に人々家宅に入ることを恐れ慎?夜露を侵して大地に筵(むしろ)を敷き,或は畳を持出して一夜を明かせり.斯る形勢なるより市街一万余の人家悉く燈火を戸外に掲げ或ひは洋燈を吊し或ひは提灯を用ゆ.思ひ思ひに徹夜(よどうし)の用意を整へしかは市街の一天を遠く眺望は恰も火災かと怪しまるはかりの光景なりき.

(県市の対応)被害の町々より急報を得て警吏は四方に疾驅(かけまわり)し救助と保護とに力を盡くし又は警鐘を急打して消防夫を喚集め各町の倒家に走せて救助せしむる様警察署の繁忙言語に述へかたく.縣廳には長次官を始め職員皆登廳し廳前の広庭に臨時掛を設けて庶務を沙汰し,市役所市長助役を始め吏員悉く出頭し各吏手を分ち市街を巡視して災害を点検し当座救助の手當を施すなと混雑云んかたなし.縣廳は當夜震災より市の内外に懸け施行せられし措置(さた)の大略を八月五日付を以て本省へ報告中に一項あり,以て當夜官吏の盡力ありしを見るに足れり(八月二十日官報以下倣之) 

初震の時先つ参集の官吏をして一面は市民及監獄等の救護警戒に従事せしめ,一面は阿蘇山其他噴火の處ある地方及ひ海岸の状を實査せしめ,又郡市役所に注意し規に依り救済の方を為さしめたり.就中警察官吏は専ら各市町村を巡視し,人命財産の救護を力め又消防組を指揮して火災を予防せしむ.故に熊本市及隣接町村震災の最も劇しき地方も火災盗難の患なきを得たり.熊本警察署管内に罹る被害の概況死傷の員数等は震動後僅かに二時間余にして調査報告を受け,且つ其検視を遂るを得たるは夜中忽卒の際稍々(やや)其周?(さく,めぐる)なるを見るに足る云々 

(家屋の状況)人民は相互ひに親戚知古の安否を慰問し此所に走り彼處に駆くるもの街上踵を接し提灯の火映縦横に行違ひ通宵(よもすがら)履聲(あしおと)を絶たさるの形勢にてありき.斯て迂雙は燭をとりて居宅を検するに,障子襖も皆敷居の外にはずれ土壁は貫材の通りを引割りて柱に接する處悉く崩れ或ひは家釣と共に全く隕(おち)たるもあり.透戸(すきど)は南方の隅に輾(きし)りて自在ならす.されと是しきの損所はまづ無難といふへしと強力(りきみ)を入れたるも可笑し(壁は南北に聯れる所損所多し).市街の人家半倒れ,潰れ家は言ふまてもなきことなれと堅牢の造作附所謂居蔵造り及び土蔵外部(そとめ)の損害を蒙りしは実に意外のことなりき.斯る形状なれば我舎の職に従事するもの皆多少の損害を蒙らさるものなれば何れも居宅の保護を為すへしとて能く二十九日は休業した?廿八日震動己後の実況を採録して號外を発兌することに協議決せることを報せり 

(天空の様子)迂雙は當夜世上稍々静りたる此に及ひ家族は庭前芝生の上に起居し独り縁側軒端近く座を設け?茶を焚きて身心の労を癒す仰ふて天を眺望めは惑星特に赤色を帯ひ光輝燦然(ひかりきらきら)たり.南天の恒星常に其處を変するを見て転(うた)た心に感するものありて左の一章を標し日を過して熊本新聞に送れり

二十八日の夜一大劇震ありしより続いて動揺幾度なるを知らす.黎明に及ふも更に歇時(やむとき)なし其間惑星の光輝燦然として赤色を帯び南方の恒星絶へす位置を変し(俗に夜這星といふ)晃々(きらきら)として左右斜めに飛行するや数ふるに遑あらす.傍人云炎暑の候に遭へは平素斯のごとしと.然るに二十九日三十日の雨夜も家族の気を安めんため徹夜して軒端にあり.當夜に至りては震動稍々静穏になり暁天(あかつき)まて六度の小動ありし位にて惑星及び南方の恒星も前夜に比し光輝をなく嘗て其位置を変するもの一星も見及はされは傍人の言も証とするに足らさるを知れり.然らは大地の劇変恒星天にも波動せしものならんと憶測せり.敢て博識家の教示を乞ふ云々 

(前兆)前にも述ることく震動を起すの前数分時迄は屋外を逍遥して天を仰き涼風を得んことを望みしこと幾度なるを知らすといへともこの惑星の光輝に異色あるはた恒星の其位置を変するかことき更に心に感することもなかりし.今や恐懼胸に満ち天候を伺ひ西方を眺めて鳴響の来るや否や暫時心に忘るゝの隙なきよりかゝる星天の異状にも心を駐(とむ)るに至りたるなり.故に地震の前兆には月は赤色を呈するなとの説は迂雙か地変恒星天に及ふやとの疑を述へたると相同くして是等前兆と云るは価値なき説なるへしと考ふ 

(前兆 九州日々新聞)今回の地震に就て前兆なと云へることは多く耳にせることなかりしに九州日々新聞は七月三十日の紙上に左の二件を載せたり 

一 昨夜十一時三十分に大地震の来らんとする時東方にあたり凄ましき電光閃めき西方に當りても未明まで電光の閃々たるを見認めたり 

一 昨夜雨天に雲間を貫き一個の火柱を見認めしものありこれも地震の前兆なるへしと噂せり云々 

迂雙も東方の電光は見認めたりしも普通の俗に云稲妻てふものと覚えかゝる奇観とも思わさりき.次項の火柱はこれも二十八日の夜の事と思わるれと同夜は震動後程経て雨降り出し前夜即ち十二時迄は微雨さへもなかりしに雨天雲間を貫きとおれは所に依り雨の降りたる處ありしや.いといと不審(いぶか)しけれ.又同新聞は翌三十一日の紙上に左の一事を報せり 

去る廿八日の震災は夜半俄に爆発せしものなれとも天候は早くもは?れを表せしものなり.當地にて筭學(算学)に有名なる甲斐隆道氏の風雨鍼は本月六日より彼の大霖雨?りしにも係らす針頭依然として晴天を指し少しも移動せす.同氏は當尋常熊本師範学校の職員なれは該器を同校に持参して其異状なる徴候を示しことありしも皆器械の狂ひとなし,格別意に介せす.然るに氏は猶他の精確なる器械に照合せしに孰(いず)れも同徴候なれは不安心にて居りしか遂に二十八日の大震災を発するにいたる.これ全く気圧の然らしむる處よりこの異常の徴候を表せしなるへし.若し當地に験震器あらしめなは早くこれか予防をなすを得しなるへし.また商船会社所有の汽船に備付ある該器械も同しく数日前より異常の徴候を示し居たりと云々 (2012/1/11)

追記 この後は,八月三十一日までの日記(各種通達,新聞記事,集計資料等を含む)が214頁(444文字/頁),最後に理科大学教授理学博士小藤文次郎等の実査結果に基づく科学的考察が33頁が続く.当日の日記に書かれているように「西方からの鳴動」は金峰山が震源のように思わせるが,学者により否定される.立田山断層すなわち立田山ー熊本城ー万日山ー花岡山ー城山を結ぶ線の海側の端附近で起こったとみなすことができる.

    立田山断層(リンク切れ)水前寺・立田山断層 - 熊本市を参照

追記 熊本には地震観測所は存在しなかったため,詳細は不明.調査資料には次のように書かれている.初震後,4,5分間毎に数十回の微動あり.翌29日午前1時半頃やや強く揺り.午前3時頃亦強震せり.此時天気は前夜の蒸気に反し,晴快となりしも未だ震動全く止まざれば全市の人心・・・・

リンク先修正 2023.2.10