細川重賢の事蹟

身を切る改革

中学生の頃,島崎の町内にある三賢堂の講堂を借りた夜学に通っていた(学習塾等は存在しない時代,親達が中学校の先生に頼んで補習授業を実施していた).肥後三賢人(菊池武時,加藤清正,細川重賢)の銅座像が祀られている堂内講堂での補習は,一日中「機械いじり」に熱中していた私にとっては,緊張を強いられる貴重な勉学の場であった.また.近くには,細川重賢が宝暦7年(1757年)に藩の医学校・再春館を開設したときにその教授として力をつくした村井家の別荘(叢桂園)や兼坂止水の私塾(百梅園)があった.

その後,薬学の道に進むと,これらの断片的な点としての知識が線となり,時習館,再春館,繁滋園など,重賢公の治世時に実現した郷土の「教育の原点」を強く意識することになった.

重賢の時代[享保5年1721 ~天明5年1785]は,私から7代前の理三次,6代前の武平次(1771-1816)が仕えた時代である.天明の大飢饉(1772-1778)などがあり,宝暦の改革が人々を飢餓から救ったと言われている.

当時の生活の一端を知るために改革の内容を改めて調べてみると,「何も決まらない政治」,「自らの身の切り方」,「人材登用の的確性(任命責任)」が繰り返し問題視される現在,お手本となるヒントが隠されていると言っても過言ではない.

細川重賢,「勘違い殺傷事件」で急遽藩主に

重賢の兄で第5代藩主であった宗孝は,延享4年(1747年)8月 ,江戸城内で旗本板倉勝該に斬りつけられ絶命した.原因は家紋が酷似していたため,安中藩主板倉勝清と勘違いされたことによると言われている.宗孝はまだ後継ぎが居なかったため細川藩は改易必至と思われたが,仙台藩主伊達宗村の機転で窮地を救われた.まだ息があるとして城中から細川藩邸に運び,その間に弟の重賢末期養子として幕府に届け出,翌日になって宗孝は死去したと報告,細川藩にはお咎めはなかった.

以下,肥後国史略に見る重賢の事蹟を紹介したい.分り易い文章であるので,原文に適当に句読点と説明を加えた.

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細川重賢の事蹟

寛永十八年(1641)三月,忠利率し,子光尚(初め光利と称し又光貞と称す)継き,爾来,綱利,宣紀,宗孝相続きて後を承け,寛延ニ年(1749)重賢嗣き立つに及ひ,弊政(悪政,弊は敝と大)を艾除(がいじょ,取り除く)し,藩制を釐革(りかく,改革)し,寳暦ニ年(1753)竹原玄路の議を用ひ,堀勝名を擧けて家老と為し,藩政を掌らしめ,大に入材を登庸(登用)し,刑律を改め,政綱を振ひ,殖産工業を奨励し,倹素し,自ら率ゐしかば闔藩(こうはん,藩全体)彬々(外見と実質とがほどよく調和していること)治化に向ひ,備前の池田光政,米澤の上杉治憲と共に天下の名主と称せらる.

是を熊本藩寳暦の改正と称す.

  • 倹約 重賢の封(采地)に就くや藩政漸く弛み,國用(国の費用)疲耗し,弊政(悪政)多かりしを以て,先つ五條の訓誡を下し,自ら奉する.甚た薄く衣食奢らず, 居室紙を以て壁を貼し,客殿と雖も虚飾を禁し,常に日く家士を扶助し非常に備ふるは是れ余の職なり.又何そ温袍を求めんやと故を以て上下相倣(なら)ひ倹素風を為すに至れり.

  • 別項(衣服) 別項(飲食) 節約逸話

  • 政綱 是より先,家老は私邸に於て政務を處理したるを改めて,新に城内に奉行所を設け,家老奉行等此に會して庶政を執らしむ.凡そ選擧,學校,刑律,勘定,郡郷寺社町等皆職務章程を設けて,其の職責を守らしめ,勤むれは賞あり懈(おこた)れは責を受く,是より紀律厳繍政綱大に振ふ.

  • 民生・税法 重賢,最も民政に留意し,税法を改めて民の負擔を軽くし,田地の經界を正して,兼併(一つにする)犯干の弊を絶ち,又諸郡に九十餘所の倉廩(穀物を蓄えておく倉)を設けて租税の幾分を割き儲蓄して非常凶荒に備へしめ, 或は製絲所を設けて繭を購ひ京都江州より織工を聘して機業を奨励し,或は畦畔河岸(土手,あぜ)の空地には櫨(はぜ)楮(こうぞ)を栽培して,製蝋製紙の業を興し,山林繁殖の法を講する等殆と枚挙あらす

  • 刑法 刑律は大低明律(明の刑法典)に原つき軽減に従ひ,刎首,斬,磔を以て絞,斬,凌遲,死,に准し,雜戸に附するを流刑に准し,徒は三年に止り笞ちて後黥(いれずみ)し,眉を剃り期を定めて之を使役し,共の労銀三分の一を控留し,放免の際之を與ふ,暇あれば手技を営み市に鬻く(ひさぐ,売る)を許す.笞(むち)は十より百に至り,重罪は更に黥す(いれずみをする)徒來人を刑するは大抵死及ひ追放に処す.偶々笞刑あれば五十,百の二等に過ぎざりき.勝名(家老),笞杖を其の家臣に授け,己れを打たしめて其の苦楚を試みたりと云ふ

  • 人材の登用 重賢の人を用ふる門地(家柄,血統,門閥)を問はす,農民を奉げて諸職に任するに至る.是を以て家老には堀勝名あり,奉行には蒲池正定,志水清冬,清田征恒,藪安,吉海景純,村山某等あり.侍讀には片岡維良あり.近臣には竹原玄路あり.其の他稻津頼勝の部監と為りて萩原塘(萩原堤は球磨川が八代に入ったあたりから新萩原橋にかけて大きくカーブを描いている右岸にあたる)を築き,平野時成の獄長と為りて法延を整理せるか如きあり. 教官には秋山定政,藪愨?,草野 雲、池邉匡郷,若下通亮,古屋鼎, 辛島儀,高本順等あり.醫學には村井見朴,岩本原理あり.米田著、伊形質の詩賦に於ける.横田景一(兵法)木原正明(弓術),長沼恒(槍術),井烏為長 (剣術)の武藝に於ける.水足至孝の林業,嶋巳兮の蠶(蚕)業等皆卓絶せるものにして何れも重賢の藩政改革の業を賛翼して功労尠からず.

  • 文武,学制(時習館,再春館の創建) 寶暦四年,時習館及ひ東榭西榭を城内に設け,一藩子弟をして文武の業を修めしめ,六年再春舘を郭外角井に創建して,醫學を督励し更に繁滋園を郭内竹部に設け薬園とす.時習館に総教教授(各一人)助教(ニ人)訓導(六人)を置く.學規學則を制し,學政を整理し,講読を掌らしむ.叉,句讀齋習書齋を設け,讀書習字を教へ,又禮式數學音楽の諸科を置く.各教師ありて諸生を教授す.東榭西榭は剣槍射馬等武藝を練習する所,師範數十人に及ふ.凡て館榭は藩士の子弟教育を以て目的とすれども,才能衆に秀でたるものは庶人と雖も入學を許す. 重賢,最も文武を好み, 夙夜(しゅくや,一日中)懈(おこた)らず.東覲(参勤)の途,猶儒臣(儒学をもって仕える臣下)秋山,片岡等をして書を読せしめ,服元喬子式を延きて詩社(詩人の組織する結社)を開き,或は政務を諮詢(諮問)し,時々自ら館榭に臨み,文武の業を試みしかは一藩化に向ひ人材蔚然(物事の盛んなさま)として輩出せり.爾後,藩主相継ぎ文武を奨励し共の業衰へず.明治三年に至り之を廃す.

  • 再春館は明和八年城下山崎に移せり.醫員を置て普く醫學を誘掖(世話)す.別に醫學監を設け,領内の醫員をして,年々治療の案を 提供せしめ,醫業を督励せり.且つ繁滋園に種々の薬種を栽培し,新種を移植し,本草學を奨励せしかは醫學薬物學是より盛なり.明治三年に至り再春館を廃す .

追記)再春館の場所 寳暦年中に宮寺村(二本木)に造建せられ,明和八辛卯年の冬此処(山崎)に移さる.

(補)銀臺遺事日寳暦六年の此郭外の角井(古府中跡即ち二本木にあり)と云所に医学寮を建て再春館と名つけ(此寮明和八年郭内に移さる)村井見朴,岩本原理を師として領内の医者に医学をすゝめらる云々(肥後國誌).[肥後国史略 出版者 私立熊本県教育会 出版年月日 明36.11(1903)]

追記)熊本藩年表稿(熊大附属図書館)

寳暦5年(1755)1月7日 藩主初めて時習館に臨み開講式挙行

寳暦6年(1756)12月 再春館,薬園を設く.

寳暦7年(1757)1月19日 時習館総教長岡内膳ら臨席して再春館開講.

寳暦8年(1758)再春館会約,法制,村井見朴.

明和8年(1771)12月 再春館位置不便利につき,山崎町に移し,明年正月より開講の事とす.

藩財政(明和4年,1753)総収入35万6000石余,総支出42万9360石余

藩財政(寳暦2年,1767)総収入34万〜35万石,総支出39万5000余石

藩財政(安永9年,1780) 総支出35万2800石余

人口(安永3年5月,1774)総人口549,687 男289,672 女260,015

(2012/6/30)

追加史料

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講演録 江戸時代の徒刑制度皆由刑の誕生とその系離離