三賢堂の建立

安達謙蔵の想い

国会図書館近代デジタルライブラリーを検索していたら,安達謙蔵(1864-1948)の著書「十年間の八聖殿」[横浜:八聖殿事務所,昭和18(1943)] の中に「三賢堂の建立」についての記載があった.

三賢堂は,隠宅の座敷から石神山を眺めると谷を隔てて真正面より少し右下側に見える位置に建っている.隠宅から100m位坂道を下り,小さな橋を渡ると左手は古荘公園,釣耕園,右手は三賢堂前を経て岳林寺,荒尾橋へと続くバス道路(一方通行)が通っている.四季折々に毎日眺める独特の円錐屋根と中心の避雷針は周辺地域の守護神的存在として記憶に残っている.雨模様になると金峰山から流れ下る霧雲のため眼前の山塊は霧に包まれて見えなくなり,霧がはれてふたたび姿を現す時,トンガリ屋根が陽光に輝いていたのが印象的であった.

当時,三賢堂は地元民にとっては講演会,映写会の場であり,私の少年時代は夜学の場でもあった.三賢堂を建立した安達謙蔵の銅像や祀られている三賢人についてはそれなりに聞かされてはいたが,戦後精神と合わないためか,建立の背景や三賢人の武功について詳しく語ってくれる人は居なかった.

近代デジタルライブラリーのPDFの画質が悪く補正しても文字として認識してくれるのは少ないため,ワープロで書き写すことになった.そのようなわけで新旧漢字の混用状態である.昭和十一年十月十八日三賢堂より全国中継放送された原稿の抄録を以下に書き写した.

採石場が山北面全域に及びロッククライミング練習のための岩場も失われた.

Googleの3DグラフィックツールSketchUpで描画 立体画像を二次元出力(寸法は概略)

「石神山の今昔」については別稿を参照

石神山は戦後まもなく採石場と化し,我家はその発破と石を砕く騒音に悩まされることとなった.

現在,採石場は市の所有地になり石神山公園として生まれ変わった.その間,藩政時代,ご大身の下屋敷や別荘などがあった名所旧跡はかなり荒れてしまった.三賢堂もその一つである.

最近ようやく河川改修や周辺道路の整備がおわり,散策ルートとして見直されつつある.

島崎地区の名所・旧跡

第十四 三賢堂の建立

八聖殿(注 横浜市中区)の落成を告るや,私は直ちに三賢堂建立の準備に着手しました.元来我が郷土肥後熊本に於て縣民崇敬の中枢たり標的たるものは,菊池武時公,加藤清正公,細川重賢公の三賢にして,此の三賢の遺芳を後昆に伝へ,以て社会強化に稗補せんとするのが三賢堂建立の目的であります.依りて堂宇の一階に等身大の三賢坐像を安置し,而して二階には八聖殿同様に大宇宙を象徴し,大神洲を表現する神鏡を奉安してありまして,晝間だけは公開し,参拝者には自山に昇堂することを得せしめ,又個人が堂の一隅に静坐瞑黙,苦修練行することも,或は又多数の學生を引率したる各學校の諸先生が堂内に設けある演壇を學校講堂の延長として使用し,講演をなす事も差支なきことにしてあります.


因に記す.私が三賢堂を建立するに就きまして三百里外に在りて工事の監督,寄附募集等の世話を為すことは不可能の事でありますから,親友田尻昇蔵君に其代行を一任しましたが,君,熱心誠意,思慮周到,一絲紊(みだ)れずして萬事何等の遺漏なく完了せることは私の肝銘忘る能はざる所,而して君逝いて今や無し,感慨無量ならざるを得ません.

三賢堂

安達謙蔵

書籍転載(拡大可)

三賢の偉蹟一班

昭和十一年十月十八日三賢堂より全国中継放送したる原稿を抄録す.

私は只今熊本市の西端島崎町に,今般新に落成致しました三賢堂の演壇に立って居ります.此堂の在る所は金峰山の麓にして石神山と本妙寺山との谿(谷)間でありまして,其周囲は鬱蒼たる樹林でありますが,紅葉の季節にはまだ尚ほ早きも,既に秋色を催して居ります.

扨(さて)之れより簡単に三賢堂建立の由来に就て御話致さうと思ひます.抑も(そもそも)三賢とは菊池武時,加藤清正,細川重賢の三公を併称したるものでありまして,此三賢こそは吾が郷土歴史の精華であり,吾々の典型であり,模範であります.故に三賢の霊像を祀るの堂を建立し,一般民衆の崇敬の標的として日夜三賢の英姿を仰ぎて修養し得る所の道場を作ることは,頗る(すこぶる)有意義な事でありまして,私多年の宿願でありました.而して昨年意を決して之れが建立に着手しましたが,幸ひに熊本県出身先輩同志の賛同を蒙り浄財の喜捨を仰ぎまして茲に愈々竣工するに到りました事は私の最も欣幸( 幸せに思って喜ぶこと)とし感謝するところであります.

菊池氏歴代の誠忠は今更茲に申上げる迄もありませぬ.頼山陽は彼の有名な筑後川を下るの詩の中に「四世の全説誰か儔侶(なかま)」と言って居りますが,唯だ単に四世や五世位ではありませぬ.其純忠至誠の志は菊池氏二十四代五百年を貫く大精神であります.斯く終始一貫,忠節を全うした家は絶対に他に比較すべきものはありませぬ.殊に後醍醐天皇が武時公に綸旨を賜はりました頃は,天下の諸豪族は皆形勢を観望して其方向を定め得ず,或は勤王方に附かうか,或は北条方に組しようかと迷うて居た時であります.其時に楠正成公と菊池武時公丈けが成敗利鈍に拘らず敢然起って勤王の大義を唱へ,全国の諸豪族に大義名分に依て向ふべき所を示したのであります.武時公は九州探題北条英時襲撃の計画を立てられ,一族挙つて出陣せられましたが,小貳,大友の裏切に依り,戦ひ利あらず壮烈なる戦死を遂げられたのであります.其戦死の前夜,嫡男武重公との袖ヶ浦の決別は,楠公父子櫻井の驛の決別と共に,日本歴史上の花であります.而かも袖ヶ浦の決別は,櫻井の驛の決別に先だつ事三年餘であります.そこで山陽は又菊池氏の忠節を称へ「翆楠必ずしも黄花に如かず」と言ひ,菊池氏歴代の忠節が決して楠氏に比して劣るものではない事を高唱して居ります.只菊池氏一族中には勤王軍に参加して活躍した人もありますが,本部隊の活動は九州でありて中央ではなかったために,楠公の活動のやうに後世史家の目に映じなかったのでありまして,実際の功績は決して楠公に劣るものではありませぬ.而して菊池氏歴代の中には人材が輩出したのであります.就中武時公の嫡男武重公は文武兼備の名将で,実に日本精神の権化とも云ふべき方であります.又其弟にして武重公の後を継がれた武光公は筑後川の詩で有名である通り,絶倫の勇将で,其の武威は全九州を席捲したのであります.されば三賢堂に武時公の尊像を奉安する事は,武時公としては勿論,一面に於ては菊池氏歴代の代表と云ふ意味もあるのであります.

加藤清正公の忠節,武勇,信仰,治績は三賢中一番広く世間に知れ渡りて居りまするが,公は実に純忠至誠の人であります.幼少より豊太閤の訓育の下に成長し,一生を通じて奉仕されたのであります.殊に晩年は太閤の遺弧を奉じて豊臣家の維持に肝膽を砕かれたのであります.其の武勇の絶倫なる事は年少時代より顕著でありまして,単に国内の戦に於て計りでなく鶏林八道(朝鮮全土)を風靡し武威を海外に輝かされたのであります.併し清正公は武人の典型であるのみならず,政治家としての典型であります.今日の詞で申せば国民生活の安定を政治の要諦(物事の最も大切なところ)と致しますが,此の要諦を把握実行した者には清正公のごとき人は稀であります.公が肥後の国主となられて以来,力を民政に致され諸般の法制は寛厳其の宜しきを得たるのみならず,驚異すべき化学的(科学的?)の天才を治水土木の事業に発揮せられて,吾々は三百年後の今日に至る迄其恵澤に浴して居る次第であります.若し夫れ公の宗教に対する信仰に到りては,熱烈極まるものがありました事は世人の皆知るところであります.之を要するに公の純真なる至誠の発露は所謂頑夫(道理のわからない男)も廉(いさぎよい),惰(懦?)夫(意気地なし)も志を立てしむるものありて単に我国史の上に輝き居るのみならず,或は稗史小説(民間の俗話)に於て,或は演劇に於て,一般民衆に非常の感動を與へ社会教育に裨益する所尠からざるものがあります.且つ又本妙寺に於ける公の墓前に日々参拝者が絶えることなく,香烟濛々たる光景は公の遺徳を如実に説明して餘りあるものであります.

霊感公即ち細川重賢公は宝暦時代に,肥後の鳳凰として一世に畏敬せられたる名君であります.公の偉大なる業績は一朝一夕に述べ盡す事は出来ませぬが,公は此点に於ては確かに古今独歩とでも申して宜敷き程偉大なる所があります.即ち公の周囲には偉材奇傑が雲の如くに集つて居つたのであります.公は之等の人材を駕御し(思うように他人を使うこと),或は財政の建直しに,或は文運の振興に,或は武道の興隆に貢献せしめられたのであります.公が肥後国主となられた時は肥後の国の財政は疲弊困憊其極に達して居ったのでありますが,公は各方面の人材を登用し殊に堀平太左衛門を抜擢しても最も焦眉の急務たる財政爕理(やわらげ治めること)大任を托し,君臣協力,萬難を排して遂に財政の建直しを行ひ,其基礎を確立せられたのであります.同時に時習館と云ふ學校を創設して,文運を作興し,尚武の風を奨励し,肥後をして文武両道の國たらしめたのであります.思ふに近世に於ける肥後の文化及び其國民性は,此時代に胚胎し陶治されたもの尠からずと申しても差支へなきかと思はれます.要するに,公の人格,識見,手腕は実に卓越したるものがありまして,若し肥後の國と云ふ局限された小天地でなく,天下の廣居(心を広く保つ意)に立って思ふ存分巨腕を振はれたならば,日本国史の上に大なる功績を残されたであろうと思ひます.

三賢の事は此位にして置きますが,元来人は歴史の雰囲気の裡にありて,不知不識の間に大なる感化を受くるものであります.されば歴史なき土地には高遠なる国民性は涵養せられませぬ.同時に史上偉大なる人物が後世子孫に與ふる無言の訓化は,実に甚大なるものがあります.然るに,我が郷土に於て萬民崇敬の中心たる三賢の如き偉人を有する事は,真に我等の誇りであり幸福であります.

私が三賢堂建立の宿願を起しましたのも,三賢の尊像を一堂に奉安し,一般民衆に朝夕,其高風英姿を仰がしめて己れの心を正しうし,身を修め,徳を養うて茲に立派な日本人となることを切望するの微衷(自分のまごころ)に外ならぬのであります.

然るに,三賢堂には、階上に特に宮遣りにした神鏡殿があり、神鏡が安置されてあります.其の神鏡の銘に「大宇宙を象徴し大神州を表硯す」とありまして,此の神鏡が我が大日本帝國を表現して居ります.之れは八聖殿も同様であります.元來私は神社、佛閣、教会堂等に対して一種の希望を有して居ります。それは宮でも寺でも乃至は教会でも日本帝国を表現する物を安置して欲しいのであります.其表顕物が一番宜いと思ひます.けれども璽でも剣でも宜しい.其理由を極く平たく言へぱ,日本帝國ありての宮であり寺であり教会であるからであります.(以下省略)

最後の階上の神鏡殿の部分は省いていたが,当時の社会的背景を知るために追加した.

ついでに

三賢堂における夜学(中学生の頃)

三賢堂は円形の二階建の建物である.外側には一周できる回廊が設けられている.

一階は玄関ドアから入ると正面に三賢人を祀る祭壇がある.

二階へは円柱の柱に巻きつける様に設置された階段を昇る.二階には神鏡殿がある.

子供の頃,親達がセッティングした夜学が開かれていた.反響する堂内で詩吟を吟じることを練習させられた.「偶成」(少年老い易く學成り難し 一寸の光陰輕んず可からず 未だ覺めず池塘春草の夢 階前の梧葉已に秋聲)を今も記憶している.

島崎地区の名所・旧跡(シリーズ島崎)

(2012/4/22)