漢方薬 梅雨水

以前,黴を使った漢方薬があるという話を聞いたことがある.

誰に聞いたか記憶にない.ペニシリン発見以前に,ヒントになるネタが漢方薬にあったという話であったので印象に残っている.その真偽のほどを知りたいと思って,いろいろ調べたが分からなかった.ところが,最近,近代デジタルライブラリーの検索過程で,偶然その件に触れた随想を発見した.昭和22年,理化学研究所長の滝田順吾氏が「黄塵 : 科学随想」の中に”漢方藥の梅雨水とペニシリン”という短文を書いている.梅雨水は,宋時代(注 420年 - 479年 南朝の宋)の「本草綱目拾遺」に書かれているものであり,昔の漢方藥の中には,近代の科学から見て,敬服に値するものが他にも数多くあることは見逃し難いと述べている.


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梅雨水

漢方藥の梅雨水とペニシリン


じ めじめした梅雨の頃には,衣服にも黴がついて黒くきたなくなる.この様な衣服を,梅の葉を湯で浸出した梅葉湯と云ふもので洗ひ落すと,黒ずんだ水が出る. これを梅雨水と云ふて,漢方では薬の一つとして使用する.この梅雨水で瘡口を洗浄すると,化鰻もしないで,早く癒ると云ふ.その効能に「洗瘡疥減瘢痕」と ある.叉その説明に,梅雨は徽雨とも書くやうに,徽の生え易い五月前後の季節雨を云ふので,この時期には汚れた衣服は黒すんで來る.これは黒黴が生えるた めであり,叉この時期の水は醤(味噌)を作るのに使用すると,早く出来るが.酒を醸造するのには不適當であると書いてある.これは味噌の醸造によく作用 し,酒の酵母の発育には悪い影響を輿へる黴である事が察せられる.

扨て徽にもクモヌスカビ,ケカビ,モツレカピ,青カビ,カウヂカビ,鰹節カピ等多數の種類がある.梅雨水の中にある黴は,學名アスペルギールス,ニグルと 云ふ種類のものであらう.アスペルギールス属とは,麹カビ属を云ふので,廿酒や日木酒を造るのに使用する麹のアスペルギールス・オリゼと云ふ.此等の黴菌 類は,蛋白,脂肪,澱紛等を分解したり,一つの糖を他の糖に轉化させたり,酸を作つたりする多数の酵素をもつている.又発育も早く,増殖も盛んであり,微 量の栄養素があれぱぐんぐんと発育が出来る.その際の代謝物質中には,他の菌の発育を阻止したり,殺したりするものがが含まれる.それで此の代謝物質を, 種々の病原菌で起る病気に藥として使用される事もある.

一般に瘡口がなかなか癒らないのは,化膿菌や他の有害菌がその瘡口に感染しているためである.この主たる病源菌は,葡萄状球菌とか,連鎖状球菌と云われるもので.その形は圓いから球菌属の中に含まれる.

このような球菌属によつて起る病気に,特に有効である藥にペニシリンと云ふものがある.ごれは青カビの発育に際して出す代謝物質である.この代謝物質は 種々の病源菌の発育を阻止したり,殺したりする作用がある.この事を初めて見出したのは一九ニ九年英国のフレミングと云ふ人である(注 1940年 単離に成功,翌年臨床応用,1945年ノーベル賞). ペニシリンは病菌で起る種々の病気に効くが,特に形の圃い球菌属で起る疾患に有効である.この内でも,特種のグラム氏染色液と云ふもので染まるグラム陽性 菌属で起る病気には特に効果がよい.この染色液で染まらない所謂グラム陰性菌には,些程効果がないと云はれる.この内でも,腸チブス,赤痢菌のやうに形が 棒状をなしてゐる桿状菌で起る病気には効果がない.

それで,此のベニシリンが発見されて以來,ペニシリンで効かない他の病気にも有効に作用するものが,徽類や土壌の中にゐる細菌の代謝物質から作られた.こ のやうな研究は澤山あつて,中でも一九四一年グリスター氏によつて,アスペルギリンと名づけられたものが発見されてゐる.これは麹黴属の代謝物質であつて 球菌にも桿菌にも強く作用する.麹菌属はアスベルギールス属と云ふ學名であるから,アスベルギリンと名づけられたのである.

叉これと同じ菌属からニグリニンと云ふものも作られた.これは梅雨水の主成分の黒徽と同じ属である.アスペルギリン,ニグリニンの様なものは有効ではある が,毒性が強いので注射藥としては適さないから,腫物や病巣に塗る膏藥などに入れて使用される.既に梅雨水が瘡口を洗ふことに使用されてゐるのは,長い経 験から來たもので,近代の治療法に一つの指示を與へる.今日徽や細苗の代謝物質から,べニシリンや,これに類似の多くの藥が作られたのは,細菌學や生物學 の進歩の賜である.然し黒黴が発育して澤山含んでいる梅雨水が,瘡口の藥として記載されてゐるのは,「本草綱目拾遺」と云ふ古い医書にある.これは宋時代 (注 420年 - 479年 南朝の宋)に書かれたものであるから,今から約千五百年前である.昔の漢方藥の中には,近代の科學から見て,敬服に値するものが他にも数多くあることは見逃し難いと考へる.


書誌情報

タイトル 黄塵 : 科学随想

著者 滝田順吾 著(注 1896-1957)(北里研)

出版者 恒星社厚生閣

出版年月日 昭和22

注)梅葉水の実態は現在のところ判らない.宋については,宋(王朝,960年 - 1279年)と区別するため宋(南朝)と記した.

ところで,紙,火薬,羅針盤,活版印刷は中国の4大発明と言われている.かって中国民族の創造力や技術は世界に誇るものであり,現代文明を支える基盤となる技術を全世界に提供する余裕があった.しかし,最近の中国は,著作権侵害,にせブランド品,先進国技術のすり替えによる自前技術等々,見る影もない状況である.歴史を学び,本来漢民族が持っている創造性に満ちた能力を発揮してほしいものである.

中国医学は4大発明には入っていないが,西洋医学一辺倒だった西洋諸国が漢方療法に注目し,漢方薬の国際化が進んでいることを考えると大きな発明のひとつになることは間違いない.


参考資料

近代デジタルライブラリー 黄塵 : 科学随想国立国会図書館デジタルコレクションに統合されました.

中国の科学技術史 - Wikipedia

CiNii 図書 - 本草綱目拾遺

クロカビ - Wikipedia

(2012/11/7)