龍口隊 中津大四郎

曽祖父が西南の役で西郷軍に呼応して立上がった熊本の不平士族の一員として参戦したことを紹介した.ところが,西郷軍に味方した集団は以下に示すように,熊本隊,協同隊,龍口隊の3隊と言われている.曽祖父がどの隊に所属したのかはっきりしない.

西南戦争 - Wikipedia(引用元)

熊本隊(池辺吉十郎)・熊本隊一番小隊長(佐々友房) ─ 約1,500名

協同隊(平川惟一・宮崎八郎・崎村常雄)(隊員高田露・有馬源內・野満安親・野滿富記) ─ 約500名

滝口隊(中津大四郎) ─ 約200名

気候もよくなったので,資料収集に県立図書館へ自転車(駐車場がないので)で行こうとしていたら,東京八王子在住の方から電話があり,内容を聞いてびっくりした.何と龍口隊の中津大四郎隊長の子孫の方からであった.その方の話によると,「父から断片的なことしか聞いていない」ので熊本に資料が残っていないかということであった.さっそく郷土史家の方が公開している旧藩文書,県立図書館等の県政資料,WEB上の情報等をメールでお送りした.

国立国会図書館近代デジタルライブラリーの「西南の役」で調べると,中津大四郎についての記述は西南記伝 (黒竜会編,黒竜会本部, 明42−44,5,6巻)に見つけることができた.

また,WEB上にも中津大四郎についての詳しい記述があることが分かった.私が説明するより下記の総説的なふたつの記事を読んでいただいた方が理解していただけるはずである.

(西南戦争の十一人)中津大四郎と竜口隊①   リンク変更(2023.2.11)

(西南戦争の十一人)中津大四郎と竜口隊②   リンク変更(2023.2.11)

中津大四郎は,弘化元(1844)年,肥後藩士福田五左衛門の次男として,熊本城下の京町で生まれた.馬医および画家としても有名な福田大華の弟である(本ページ 小さな話題で紹介).幼い頃,肥後藩の乗馬(馬術)師範役を務めていた中津八角の養嗣子となり,以後中津姓を名乗ることになった.

明治10年(1877年)2月19日,薩軍総攻撃の3日前,午前11時頃,政府軍の拠点,熊本城が炎上しその火は城下町へ燃え広がり多くを焼き尽くした.天守閣炎上と民衆の嘆き狼狽する姿を見た大四郎は落涙,同志40人を糾合し,久本寺(薬園町)に本営を置いて龍口隊を結成した(龍田口に通じる参勤交代の街道添いに在ったため龍口としたのだろうか).薩軍の糧食を供給する炊飯所を設け,もっぱら後方から支援していたが,薩軍が熊本城包囲を解いた後も共に各地を転戦した(後に200名程度になったと言われている).延岡の北方「和田越」における政府軍との決戦において敗北が濃厚になった時,大四郎は全隊士に向かって「生きること」の意義を説いたとのことである.裁判などで堂々と挙兵の理由を公にするように説いたとも言われている.自分一人が隊長として責任をとれば十分として,長井神社付近(宮崎県東臼杵郡北川町)の山中で自刃した.34才であった.軍幹部の野口勝蔵(小隊長,大四郎の介錯をした),長峰信清,日下部正一(分隊長)は大四郎の遺志に従い,隊士と共に官軍に降り懲役の刑に服している.大四郎は自刃する前に愛馬を駆って西郷軍や熊本隊,協同隊の本営に出向き交誼に感謝し別れの挨拶をしたと伝えられている.大四郎の人柄を語る時に触れられるエピソードの一つである.

曽祖父は,どの隊に加わり官軍と戦ったのか分からないが,長崎裁判で赦免され故郷に生還した.恐らく中津大四郎のような上官が居たのであろう.西南の役に参加し政府軍と戦い,その後新しい時代に順応できた人,先祖伝来の故郷を捨てた人など様々である.

私は第二次大戦後,初の小学校入学生である.歴史教育では戦争に繋がるような史実は意識して避けるような教育を受けてきた.中津大四郎についても郷土の烈士でありながら知る人は少ない.インターネットの情報もリンク切れでキャッシュでないと見ることができないものが多くなってきている.今回のような史実に興味を抱き書き綴った人達の高齢化が進んでいるためであろう.

最近報道されているように,社会を指導する立場にあるにも関わらず無責任な行為を行っている人達は,このような歴史に目を向けたことがあるのだろうか,中津大四郎の半生だけでも学ぶことが多いことに驚かされる.(2012/3/31)

関連資料

(西南戦争の十一人)中津大四郎と竜口隊②  の記載内容を引用

「我が軍の敗亡の運命はもう決まったも同然である……。諸君、よく聞いてくれたまえ。決戦をもって屍を原野にさらすことよりも、むしろ諸君達には一時の屈辱を忍んでも、生き残ってもらいたい。そして、裁判などで我々の挙兵の素志を公の場で堂々と論じ、そして下される処分を受けるのが良いだろう。しかし・・・、私はそうはいかない。隊の総裁として、私は責任を一身に背負い、自決することに決した。諸君、私の決心を止めないでくれたまえ」

決起の時に詠んだ歌

「もろびとの なげきのこゑを ききかねて いまうち出づる もののふの道」

辞世の句

「義を立てし 身はこの山に捨てて名を すえの世にまで 遺す嬉しさ」

久本寺 上で紹介したウエブページでは九品寺となっている.(薬園町,新屋敷側から子飼橋を渡ったらすぐの所,我家から700m程度)

追記

県立済々黌高等学校の前身である同進学舎を創った佐々友房(西南戦争に熊本隊の池辺吉十郎らとともに一番小隊長として転戦)は10年の刑を言い渡され宮崎の監獄に収監されたが病気のため出獄,青少年教育に奔走した.現在,筆者は崇城大学の理事を仰せつかっているが,理事長は佐々友房の子孫である.


参考ホームページ

延岡西南役会