身近な歴史

大江義塾跡 徳富旧邸

身近な歴史 大江義塾跡 徳富旧邸

島崎に住んでいた少年時代に家の近くに徳富蘇峰の髪塚ができた.高校進学後は現在住んでいる新屋敷に移ったが,近くにある徳富蘇峰,蘆花の旧居跡へは何時でも行けるし,きっかけもなかったので行ってみることはなかった.その後,20年近く博多に住んだため髪塚のことも忘れかけていたが,熊大異動後ホームページを制作する時に周辺の名所旧跡を紹介することになり,徳富記念館に写真を撮りに行った.その時も外観をみた程度であった.蘇峰,蘆花に対しては何となく暗いイメージを持っようになったのがそうさせたのかもしれない.

25歳で明治維新に遭遇した曽祖父の生きかたに関連して,不平士族,当時の白川縣権令,神風連の乱等について調べていくうちに,徳富蘆花の「恐ろしき一夜」の文章の存在を思い出した.明治9年の神風連の乱のときの体験(9歳時)をもとに「恐ろしき一夜」として文章化したものである.

近所(新屋敷一丁目)の神風連史跡「熊本鎮台司令長官種田政明旧居跡」は,今は個人宅になっており道に面して神風連史跡の碑が建っているだけである.実際に襲撃の現場跡に立ち,徳富旧居を眺めると井手を挟んで100メートル程度の距離である.文章には次のように書かれている.

吾家は熊本の東郊にあり。種田少將、高島中佐等の寓居とは、わづかに一條の小川數畝の圃を隔てて、夜は咳嗽の音も聞ゆるばかりなりき。

当時の静寂さ,暗さを想像しながら書かれている「音の描写」部分を読み返すとタイトルの持つイメージが容易に理解できる.

忽ちばたばた足音聞ゆ。頓て咽突かるゝ鶏の苦しむ様なる一聲、絲の如く長く曳いて靜かなる夜に響きぬ。一瞬の後、忽ちあつと一聲女の聲して、其聲のばつた り止むと思へば、更にひいと一聲悲鳴の聲悽く耳を貫き、ばたばた足音響き、戶障子の倒るゝ音して、其後は截つたる様に靜になりぬ。

事件から19年後に書かれていることもあり,風説を排して事実関係を明らかにしていると見なすことができるとのことである.

徳富邸と種田邸の距離は赤線で結んだ100メートル程度

当時の縣廳の位置は青字で示した現在の白川公園

集合場所の藤崎八幡宮は,熊本城西側の現在の藤崎台球場附近にあった.現在は白川公園の北側,明午橋通りを越えた位置


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「恐ろしき一夜」全文が熊本・蘆花の会 のホームページに掲載されている.

熊本鎮台司令長官や白川(熊本)縣權令が襲われた様子は以下のとおりである.

熊本鎮台司令長官 種田政明

種田に向ひたる一隊は、難なく蹈み込みて彼が首を打落せり、側に臥したる妾も刀下に死しぬ。彼女は十五の少女なりき。妾にはならじと拒みて聽かざりしを、貧しき父母は金の爲に强ひて彼女を種田の許に連れ來り、十圓の金を受取り女を殘し置きて欣々として歸りしは其日の晝頃なりき。吾等が聞きし最後の悲鳴は、種田が東京より連れ下れりし妓小勝が腕に傷負ひて隣家に逃げ込みし聲なりき。彼女は東京なる父母に「ダンナハイケナイ、ワタシハテキヅ」の電報かけて、名高くなりぬ。種田がおめおめ寢首かゝれし醜態に引易へ、彼が書生は棒提げて敵を追つかけ、終に棒切り折られて死しぬ。

白川(熊本)縣権令 安岡良亮(やすおかりょうすけ)

縣令安岡の宅に向かひたる一隊は、縣令參事大警部等が恰も神風連鎭撫の事を談じ居たる會議の席に切り込んだり。それと見るより、參事小關は立ちざまに、 椅子を投げつけたるも、敵は一刀に拂ひのけて、勢猛く斬り込み來れり。大警部仁尾は、縣令に聲をかけ「刀は?」「そ、其の簞笥に!」簞笥の引出明くる間一刀腕を切られながら、仁尾は安岡を後に庇ひて二刀三刀打合ひたるも、腕弱りてばつたり倒れ、小關は切り倒され、安岡は瞎(め)を抉(えぐ)られぬ。敵は「もう好いもう好い、少し活かして苦しますが好いわ」云ひすてゝ出で去れり。安岡は四ばひになりて裏口より芋畑に這い込み、創口より流れ出る腸を押へて此處に伏したるが、 程なく病院に死しぬ。翌日其のあとを見れば、血は絲の如く裏口より芋畑に曳きて、靑き芋の葉に赤き五指の痕掌の痕斑々たりき。

種田と安岡は対照的な人柄であり,前者が旧士族の反発をかう存在であったのに対し,安岡は「佐賀の乱」が起こると神風連をはじめ熊本士族の動揺を鎮めるなど良政(縣職,神職の斡旋等)を施したとされている.「佐賀の乱」の後,「神風連の乱」,「秋月の乱」,最終的に「西南の役」が勃発する.これらを乗り越えて我が国は近代化へ向けて進むことになるが,自信過剰が間違った方向へ突き進ませることになる.蘇峰はそれを肯定し,蘆花 はそのような兄と決別する.兄の蘇峰と和解するのは蘆花 (1868 - 1927) が亡くなる直前であり,蘇峰はそれから30年i以上長生きする. (1012/1/16)

追記 種田司令長官の横で寝ていたのは小勝と書いている文章もある.小島徳弥著「明治以降大事件の真相と判例」(1934)には.その夜深酒を飲み,小間使お小夜を引き入れて熟睡中,愛妾小満は別室にいたと記載されている(国会図書館近代デジタルライブラリー).

参考資料

敬神党の乱 (神風連の乱)