鞠智城跡

Googleのニュースを見ていたら次の記事が目についた.

鞠智城は667年築城、熊本県教委が推定

山鹿、菊池両市にまたがる国史跡「鞠智(きくち)城」について、県教委文化課の小田信也課長は23日、特定されていなかった築城年を「667年」と推定したことを明らかにした。城の歴史がより具体的になり、「国の文化審議会で特別史跡指定への答申を得たい」としている。

小田課長は山鹿市内で開かれた同史跡の国営公園化促進期成会で明らかにした。

鞠智城は続日本紀の文武天皇2年(698年)の項目で、福岡県の大野城、佐賀県の基肄(きい)城とともに大宰府が修築したと記されている。しかし、築城年は記録がなく、665年に建てられた大野城などとほぼ同じ年代と考えられていた。

県教委は改めて遺物を精査し、▽出土した軒丸瓦が大野城より少し新しい▽「日本書紀」には大野城などに続く第2弾として667年に長崎県対馬の金 田城、香川県の屋嶋城などの築城が記されている――ことから金田城などと同時期と判断。小田富士雄・福岡大名誉教授(考古学)らの同意も得られたという。 また、土器など遺物の精査で鞠智城は10世紀第3四半期までの約300年間存続したことも判明したという。城跡には、八画形鼓楼、兵舎などが復元されてい る。 (2012年5月24日 読売新聞)

鞠智城(きくちじょう・くくちじょう)は国指定の史跡である(平成16年2月27日指定).

熊本県教育委員会は昭和42年頃から発掘調査を行ってきた.鞠智城跡では,国内の古代山城では例を見ない,4基の八角形建物跡が見つかり,「八角形鼓楼」として復元している.

国営公園指定を前に,「ついに結論が出たか」と思い,その後の調査報告書等を調べてみた.現在までに,鞠智城跡-第32次調査の報告書がwebで公開され,関連資料(総括報告書,鞠智城東京シンポジウム,館長講座)を入れると600MBに達するPDFファイルが,自由にダウンロードできる(インターネット情報としては秀逸).

続日本紀に鞠智城についての記述があるということが判ったので,続日本紀データベースをさがすと,文武天皇(もんむてんのう)の項に赤で示した記述がある.

天之真宗豊祖父天皇 文武天皇 巻第一 698

○ 甲申。令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。

これを現代風に訳すと以下のように解釈できるとのことである.

文武二年五月二十五日 大宰府に命じて,大野・基肄・鞠智の三城を修理させた.

北側の礎石.熊本県調査報告書より引用

一階内部は48本の柱で占有されて階段はない.撮影日 2012/5/29

国内の古代山城では類を見ない,4基の八角形建物跡が見つかっている.韓国の二聖(イーソン)山城に類似のものがある.

鼓の音で時を知らせたり,見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元された.

高さ15.8mで,重量約76トンの瓦が載る建物である.

熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館

鞠智城の位置が,現在の山鹿市菊鹿町の米原(よなばる)地区ではないかという説が出たのは江戸時代から明治時代にかけてである.

注 肥後国誌の442-443頁には深川村菊ノ城跡の項で続日本紀との関連が述べられている(近代デジタルライブラリー).

昭和12年 (1937)に現在の位置を示唆する論文(坂本経尭が発表され,熊本県教育委員会は「史跡・伝鞠智城跡」の指定をした.昭和34年(1959年)には県指定史跡に指定されたが,史跡指定から「伝」の文字が外されたのは昭和51年(1976年)になってからのことである.

その間,昭和42年(1967年)から始まった発掘調査により多数の礎石,昭和62年(1987年)には炭化米などが出土し,古い記録(火災)と一致することが明らかになった.平成3年(1991年)には八角形建物跡が出土し,平成6年(1994年)より歴史公園鞠智城・温故創生館として整備が開始され,校倉造りの米倉や兵舎が平成9年(1997年)に,八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元され公開された.平成16年(2004年)に国指定史跡となった.

左上 礎石

左下 兵舎

右上 校倉造りの米倉

鞠智城の規模は面積55haと非常に大きく築城の目的との関連できわめて興味深い.7世紀末,朝鮮半島との間で緊張が高まったため,福岡県の大野城、佐賀県の基肄(きい)城とともに大宰府が修築した.そのため,兵站基地のひとつと云う説が主流であるが,そのことに疑問を持つ研究者も居る(以下の論文を参照).

鞠智城についての一考察

熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository Systemその1

江田船山古墳」の被葬者と「鞠智城」築城の背景をさぐる

熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository Systemその2

山鹿市菊鹿町米原の地は,太宰府から距離的に遠いことから,福岡県の大野城、佐賀県の基肄(きい)城と同じ役割を期待していたかは疑問であるという意見も無視できない.どのような目的で3.5 kmにわたって70棟以上の建物群が建てられたのか明らかになるには,さらなる調査が必要と思われる.

平成20年,2008年には,貯水池跡の池尻部から7世紀後半の百済菩薩立像(青銅製)が出土している.このことは鞠智城の築城に百済の貴族達が関わったことを強く示唆している.なお,百済菩薩立像については第30次調査報告(平成22年3月,2010年)および熊本県文化財調査報告 第249集 鞠智城跡 総括報告書(2009年7月)に写真入りで解説されている.

報告書の図を利用 クリック拡大

復元された百済系菩薩立像

撮影日 2012/5/29


地図

山城の標高はGoogleマップの「地形」に切り替えるとわかりやすい.

ストリートビューを以下に示した.鞠智城跡をGoogleストリートビューで角度を変えて見ることができる.

鞠智城の歴史(古文書概観をクリック)

注 858年の古文書には菊池と記載されている.

外部リンク

KIBS「鞠智城歴史ロマン」 - YouTube

熊本県立装飾古墳館

熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館 | 博物館 ...

西日本新聞の記事

(2012/6/4)