青木規矩男覚書

熊本城炎上の真相

西区島崎へ紅葉狩りに行ったついでに,先祖の墓のある岳林寺にも寄ってみた.石段を上り,山門をくぐると本堂まで続く敷石や境内は一面銀杏の黄葉で覆われていた.落葉で木漏れ日が増え,さらに一面の落ち葉に反射した光で周囲の雰囲気が普段と異なっていた.そのためか,いつもは石畳左手の城 親賢公(隈本城主 )の墓の方に目をやるのだが,今回は新しい大きな石碑の方へ目が行ってしまった.碑文は「くずし字」で書かれているので,これまで気にとめなかったと言った方が正確かもしれない.取り敢えず写真を撮り,「くずし字辞典」で調べると「兵法二天一流第八代 ??青木規矩男師範?霊位?」と読み取ることができた.

二天一流第八代師範としての功績を顕彰するために弟子の人達が建立したものと思われる.熊本の古武道流派を紹介するページには,次の系統図が記されている. 

宮本武蔵(藤原玄信)―寺尾求馬助信行―寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪正弘―山東彦右衛門清秀―山東半兵衛清明―山東新十郎清武―青木規矩男―米原亀生 

現在の師範は第9代米原亀生氏である. 

宮本武蔵の直弟子である寺尾信行一門の墓(西の武蔵塚)は,北へ直線距離で500メートル程度のところにあり,また武蔵が「五輪の書」を書いた霊巌洞は峠を越え河内の方へ下った金峰山麓にある. 

青木規矩男という人,私が子供の頃,三賢堂境内で居合い抜きをやっていた人である.朝早く大声が石神山麓の谷合をこだましていた.親戚や友人が弟子入りして練習していたのを記憶している. 

長い時間が経ち,そのようなことも忘れかけていたが,まったく別筋の話で「青木規矩男覚書」に注目することとなった.明治10年熊本城炎上の際,火を 放った元官軍軍曹から放火の事実を打ち明けられた人物である.この話が熊本日日新聞(2002年5月21日号)に掲載されたことは知っていたが,過去記事の詳細を知るには,G-Searchという有料データベースにアクセスする必要がある.何か手掛かりはないかと調べていたら,熊商同窓会のホームページに紹介されていた.青木規矩男氏が熊本商業学校(現熊本商業高等学校)の教諭であったためである. 以下に転載させてもらった.

青木規矩男

熊本城炎上の真相 

明治40年ごろ、熊商の教諭青木規矩男は姉の勤めていた飽田中部高等小を訪ねた。姉を待っていると、54、55歳の屈強な用務員が十年の役の話を始めた。村上という元軍曹で、谷干城司令長官の従卒をしていたという。「50年たったら、天下に発表して下さい」と元軍曹が打ち明けた熊本城炎上の真相とはー。谷干城に命じられ、一の天守閣とニの天守閣の床下に夜1人でたきぎなどを運んで置いた。糧食や重要書類はその前に持ち出されていた。2月19日、 「村上、火をつけろ」と命じられ、火縄と付け木を持って走った。見る見るうちに火の手が回り、折からの金峰山下ろしにあおられ、火の粉が市街に飛散した。 天守閣が燃え落ちたとき、谷は「加藤清正が築いた名城を谷干城が焼いた。すまぬ」と独語し、本妙寺の方に向かって合掌した。 青木氏はニ天一流の達人だったが、昭和44年、84歳で没した。 (井上智重)

えびす会 平成21年 錦秋の昼食会 | 熊商同窓会(原文のまま転載) 

明治40年(1907 )から50年後といえば,昭和32年である.昭和44年に亡くなられているのでその間に公表されたのであろう(碑文 恩師青木規矩男 昭和44年2月11日没84才,同夫人仝49年8月13日没79才).以前,別稿(熊本城炎上の原因,西南戦争中の記事で紹介した西南戦争中の新聞記事(西南戦争記事 関徳著,明治十年八月出版)の内容と矛盾しないことを確信した次第である.

なお,私より6歳上の姉に確認したところ,青木規矩男氏は,三賢堂と岳林寺の中間付近に住み,熊本商業の教諭であったとのことである.

追記 青木規矩男氏は熊本市史蹟調査員でもあった.

関連リンク 岳林寺雲峯山(肥後国誌に見る) - Harano Kazunobu Web Site 

【熊本】西の武蔵塚、寺尾信行一族の墓:肥後国 くまもとの歴史 

「二天一流」の主な伝系 - 二天一流武蔵会

新熊本市史 新熊本市史編纂委員会 熊本市 1997.3/1997.3 (熊本商業学校 執筆者)

青木規矩男は関口流抜刀術の師範でもあった.資料1,資料2

(2012/11/25)

追記

訂正 山東彦左衛門清秀 → 山東彦右衛門清秀(2017.3.20)

親戚の原野一利氏は青木規矩男の弟子.関口流居合道要綱を残している.関口流居合道要綱の紹介記事および関連記事