熊本城炎上の原因

(西南戦争中の記事)

中津大四郎が龍口隊を結成し薩軍側について官軍と戦った動機のひとつとして,愛する郷土や住民に対する官軍の対応に不満を抱いたことが挙げられている.その契機になったのは熊本城炎上とその延焼を目の当たりにした時であった.

その時から135年が経った今,熊本城炎上の原因として三つの説がある.台所からの「失火説」,薩軍の「放火説」,鎮台自ら火を付けたとする「自焼説」である.大四郎は恐らく鎮台が作戦遂行上の理由から「放火という暴挙」に出たと感じたに違いない.

当時,萩城なども明治7年(1874年)廃城令により櫓など他の建物と共に破却されたことを考えると,明治政府としては旧藩時代の象徴である熊本城を焼却することに抵抗はなかったと思われる.

熊本城炎上の原因については,WEB上にいろいろな意見が述べられている.当時政府軍の中枢にいた人物の回想録みたいなものがあれば結論は出ているはずであるが,未だに謎に包まれたままである.何か客観的な手掛かりはないかと,国会図書館のデジタルライブラリーで調べると,当時の新聞記事をもとに書かれた西南戦争に関する書籍の中に出火原因に触れた記述があった.

近代デジタルライブラリーのPDFファイルを利用

挿絵に色付けしてみた

西南戦争が終わったのは9月24日である. この本(西南戦争記事 関徳著)は内戦真っ只中の同年8月に出版されている.緒言の日付は6月であり,当時の新聞各紙を情報源として「務めて其の正確に近き者を抜粋した」と述べている. その中に熊本城炎上の理由と市街地延焼の様子が書かれている.

第9回 谷少将遠慮を計りて熊本城を固守す

却説(さて,話かわって),賊魁(賊軍の大将)西郷隆盛,桐野利秋,篠原国幹等は,舊兵隊士族を引率し,抜山蓋世(ばつざんがいせい,意気盛んなこと,英雄の気概を表す)の威勢を頼み?一挙熊本鎭臺を蹂躪(ふみにじる)せんと,猛りに猛りて,既に肥境まで押出したるに,熊本鎭臺には,兼てより此模様なるを探偵し得たるの折柄なれば,己に夫々防御の準備を尽し,司令長官陸軍少将谷干城,参謀長中佐樺山資紀,其他與倉中佐,児玉少佐を始め士官の面々憤激して兵卒を鼓舞し,進で賊兵を只一撃の下に鏖(みなごろ)しにせんと計議,己に一決するに単表(ここ?にまた)熊本の士族中彼の神風連の残党ともいふべき頑徒の兼々賊徒に内通するものありて,鎮台兵の城外に出るを窺ひ直ちに兵を其後に起して賊徒と双方より挟撃(はさみうち)せんことを約しけるにぞ?台兵は疾(とく)に之を察せざるにはあらざれど,固(もと)より頑固の士族敢て危懽(おそる)るゝに足ざれば屑(もののかす)ともせざりしに,偶(たまたま)政府にも此事あらんを慮(おもんば)かり, 電信を通じて「堅く其進撃を制し,只賊兵をして東肥後を出しめざるを注意せよ」との指令ありければ,其厳命已むを得ず.且は僅々三千餘の兵を以て数万の敵に抗する衆寡(多少の意味)固(まこ)とに懸絶(かけ離れていること)し,或は万一の失敗援軍の継ざるあらんと思ひ,即ち退て持重固守の策を決し,先ず守禦の便を取んがため,(二月)十八日鎮臺より命を下して,明十九日第十二時市街人民の家宅を焼拂ふべき旨を達しければ,人民の狼狽言んかたなく,什具を背負て逃るあり,老幼を携て走るあり,東西に泣叫ぶものあれば,南北に逃迷ふものありて,上を下への混乱は宛(さな)がら鼎の沸が如く,号泣悲哀の惨酷はあはれといふも愚かなり.斯て翌日定斯の刻限を遅るゝ三十分ばかり,人民の悉く東西に退きしを見て,三発の号砲を相図に場内の天主閣を焼拂ふ,時しも西北の風烈しく,見る見る坪井千反畑等の町家へ延焼し,渦巻上る黒烟は忽ち満空に漲(みなぎ)りて,紅焔炎々天をも焦す勢ひなれば,さしもに廣き熊本城下も瞬く間に修羅の巷と化し,其僅に禍を免るゝ市街は西に細工町五丁目,花岡町北岡邉,南は向町,本庄本山無臼町,白川新町,新屋敷,北は出京町,新出京町,東は三軒町,松雲院町,立田口等に遇す.城の存する処は櫓二棟,土蔵一棟のみ.尤も市街は一時悉く焼失するにあらず十九日,二十日,二十一日の禍災を連ねて算する所なり(変体仮名を現代表記に変更し,句読点を入れた.画像のため不鮮明な部分は?)

中津大四郎が涙を流した姿が目に浮かぶ.

この記事は,官軍が戦略上の理由から,前日(2月18日)に「19日に熊本市街を焼き払うこと」を告知し,市民が避難したのを確認し,三発の号砲を合図に天守閣に火を付け,その火が西からの風に煽られて坪井方面へ延焼し市街地を焼き尽くしたと記している.後世になって書かれたものではなく,西南戦争の最中に出版されていることからそれなりの取材源が有ってのことと思われる.本書の現物の所在を調べたが,所蔵しているのは国会図書館と熊本県立図書館(複写版)だけである.この書籍を引用した二次情報がないのは本書が文字データではないためであろう.熊本城のキーワードで検索してもヒットしない.熊本城や谷干城に関する記述を目で追ってようやく探し出すことができた.

熊本城公式ホームページによると,最近は鎮台自ら火を付けたとする「自焼説」が有力としている.金峰山からの風に煽られて坪井方面へ燃え広がり,市街地で火災を免れた地区はほんの一部である.もし,延焼していなかったとしても第二次大戦の米軍空襲により古い家屋は焼失したと思われるが,旧藩時代の幾多の民間文化財が失われたのは確実である.両戦火を免れた古町,新町あたりの古い街並みが,最近観光客の街歩きルートとして見直されているが,上記のような背景を知り歴史散歩してほしいものである.(2012/4/3)

明治40年代の熊本市全図,赤◯坪井川に囲まれた部分が延焼したと思われる

明治22年熊本地震の際に描かれた地図を利用

追記(関連ブログ)

青木規矩男覚書(熊本城炎上の真相) 👈 この後に書いた記事です.

参考資料

熊本城公式ホームページ 天守閣炎上 記事が削除されています(2022.5.20)

西南戦争記事(目次だけ文字データ,本文は画像データ) リンク修正(2022.5.20)

関徳編

[目次]

標題紙

目次

第一回 薩人暴発の起原

第二回 私学校党弾薬庫を掠奪する挙働

第三回 薩人中原警部を捕へ強て口供を要す

第四回 真宗僧徒等宗意布教の為め不測の危難に遇ふ

第五回 西郷隆盛等弥々兵を挙て肥後地に侵入す

第六回 聖上畆傍山陵に御参謁遂に西京御駐〓

第七回 仁礼大佐諸艦を装置し海岸を固むる

第八回 鹿児島逆徒征討仰出され西郷桐野篠原等官位を〓る

第九回 谷少将遠慮を計て熊本城を固守す

第十回 賊徒兵を部署して高瀬山鹿の諸要害を扼す

第十一回 吉松少佐衆を劇まして戦死す

第十二回 福岡県令管下へ諭達を廻わされ海軍諸艦を各港に配置す

第十三回 野津少将木の葉口の激戦三好少将微傷を負ふ

第十四回 柳原議官勅命を鹿児島に入る黒田参議弾薬製造所を破毀す

第十五回 勅使の一行使事を了し幽囚の警部を護送して復命す

第十六回 大山綱良官位を褫れ直ちに神戸港に拘留せらる

第十七回 篠原国幹吉次越に戦死す

第十八回 田原坂劇戦賊兵横平山の陣を暁襲す

第十九回 賊軍敗走西郷隆盛貴島宇太郎に援兵を依頼する条り

第二十回 野津少将田原坂の役にて賊軍に連隊旗を取かへす

第二十一回 賊将桐野利秋官軍に取捲れ危難を避て遁走す

第二十二回 福原大佐和勝勇戦附諸有志献金す

第二十三回 西郷人心を計て租税を免し聊か偽仁を施す

第二十四回 野津大山の両将更に諸校と軍略を議し大進撃を成す

第二十五回 官軍田原坂を乗取り山鹿口に連絡を通づるを得る

第二十六回 賊軍植木の陣営を襲ひ増見少将近衛兵奮劇して之を却く

第二十七回 官軍火を木留村に放ち大に進撃して賊軍を敗る

第二十八回 福岡県士族暴挙して官兵之を夷らぐ続で中津の激徒暴発す

第二十九回 中津暴徒に与せし力士警察官吏を欺通券を請ふ

第三十回 中津の賊魁増田の徒別府の山間より間行して薩賊に通ず

第三十一回 頑民兇器を擁し中津に暴挙し同国士族鈴木閑雲自之を制す

第三十二回 官軍鳩山に登り大進撃続て八代口に激戦す

第三十三回 谷少将熊本籠城賊兵花岡山ヨリ炮撃す

第三十四回 一等大警部佐川官兵衛豊後鶴崎に於て勇戦す

第三十五回 征討総督の宮への勅語山県河村黒田の三氏へ御沙汰書

第三十六回 官軍賊巣を屠り熊本城に連絡す

「近代デジタルライブラリー」より