熊本縣の変遷

明治初期の書物を読んでいると古い地名が出てきて,一体どこだろうと考え込んでしまう.

特に,西南戦争に関する書物では九州全域にわたる地名を知る必要がある.

いろいろ調べても文字による地理情報はあっても,平面地図がないので,もうひとつ分かりにくい.


まずは熊本県について調べてみた.

国会図書館の近代デジタルライブラリーで,明治35年熊本県統計要覧の中に,熊本県の生い立ちを示す記述を見つけた.「熊本縣管轄地の沿革」となっている.

明治元年において,熊本藩,幕府所管の天草および八代の一部,人吉藩,日向国の一部である米良氏采地が,明治4年7月に再編され,熊本県,長崎県の一部,人吉縣になる.さらに同年11月に熊本県と八代県になる.5年に白川縣と美々津県,6年にそれらが統合され,9年に現在の熊本縣になったことがわかる.

天草は,明治2年に長崎県の管轄になるが,明治4年には八代県に属している.明治6年には白川県に編入,明治9年には白川県が熊本県と改称されたため,熊本県天草郡となった.

米良氏采地に関しては現状とは異なるようである.

最近の情報としては,熊本県の資料をインターネット上で見ることができる(エクセルファイル).ここではGoogleドキュメントに変換し,以下に掲載した.米良氏采地に関しては最後部に記されている.

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1034792_1053580_misc を開く

本資料によると米良氏采地は現在は宮崎県に属している.菊池一族の末裔と伝えられる米良氏采地の変遷は当時の中央と周辺勢力に翻弄された歴史と言ってもよい.詳細は下記資料を参照.(2012/4/16)


資料

米良氏采地については以下を参照.

米良家

武家家伝_米良氏

旗本札 - Wikipediaに次のように書かれている.

米良氏は、南北朝時代には南朝方につき、敗れた後、九州山地の肥後国米良郡米良山中に逃れた名族菊池氏の末裔である。徳川家康より米良山が鷹巣山に指定されたことが縁で召し出され、交代寄合衆(四衆に準ずる家)となった。肥後国米良の中心地小川(現・宮崎県児湯郡西米良村小川)に館を構えた。領地が山中のため米は収穫できず、石高は無高とされたが、材木、楮、茶、椎茸などを金穀に換えて収入としていた。米良氏が発行した旗本札には、文久2年(1862年)頃発行と推定される五百文、百文、四十八文の額面の御勝手座発行の銭預札がある。米良氏は軍事的・政治的・経済的に肥後国人吉藩、日向国諸藩、薩摩藩など領境を接する諸藩と強いつながりを持っていたが、これら3地域は、藩札の額面表記(銀建て、銭建てなど)や様式についてそれぞれ異なった特徴を有する。米良氏の旗本札は、銭額面表記、札面の様式などから日向国諸藩の藩札の影響が強い。

西米良村

明治以後の市郡の変革 - 熊本県

天草の歴史年表

鶴崎などの飛び地について

江戸時代には,豊後国のうち豊後街道沿いの久住,野津原,鶴崎が熊本藩の飛び地となっていた.熊本藩の参勤交代は,これらの地を通っていたため,役人が配置されていた.

豊後街道 - Wikipedia

日向往還をゆく(熊本県上益城地域振興局)

「町在」事項一覧 藩方役職