立野ダム建設促進問題

立野ダム建設促進問題 (環境)

2012年8月14日の熊本日日新聞に以下の記事が記載された.

立野ダム問題(新聞記事)

立野ダム問題

建設促進要望の熊本市に抗議文

市民団体

熊本市が、7月の豪雨災害復旧に関する国への緊急要望に立野ダム建設促進を盛り込んだことに対し、建設に反対する「立野ダムによらない自然と生活を守る会」(中島康代表)が13日、熊本市に抗議文を提出した。

抗議文は「白川の氾濫箇所はすべて河川整備計画で改修が未完成の箇所」と指摘。「求められているのは流域の河川改修。ダムに頼っている現行の整備計画は早急に改める必要がある」としている。

メンバー6人が市役所花畑別館を訪問。中島代表が、都市建設局の原田吉雄次長に抗議文を手渡した。(久間孝志)

2012年8月14日(火) 熊本日日新聞朝刊 社会24面

認識不足と思われるかもしれないが,立野ダム建設計画は沙汰止みになったと思っていた.ところが,7月水害の災害復旧の一環としてダム建設の凍結解除を申し入れたと聞いて少々驚いた.さっそく関連サイトを見ると,国内のあちこちのダムが直面している状況と同じであることが分かった.立野ダム - Wikipediaには次の説明がある.

立野ダム

治水を目的とする穴あきダムで、通常はダム最下部に設けられた3ヶ所の洪水吐(高さ約5メートル・幅約5メートル)から通水するが、流入する水量が増えた場合にダムへの計画流入量2,800立方メートル毎秒から600立方メートル毎秒を調節する。これにより熊本市代継橋に設けられている基準地点で基本高水流量3,400立方メートル毎秒のうち400立方メートル毎秒の洪水調節を行うとしている[1]。1983年(昭和58年)に事業着手したが、2010年(平成22年)の時点でも本体工事は着工していない。

計画が発表された当時,立野ダム建設にはかなりの違和感を感じたのを記憶している.南阿蘇へ行くには,旧国鉄高森線を利用する以外は,谷底の川を渡り七曲りを登る道しかなかった.昭和30年頃,肥後大津に住んでいた伯父に連れて行ってもらったことがあるが,旅館の横の川原に温泉プールがあった.この旧道沿い の戸下温泉,栃木温泉,それらを囲む北向谷原始林(関係者しか立ち入ることのできない保護林)が湖底に沈むことなど想像することができなかった.ところ が,計画から30年近く経って状況は大きく変化していた.明治時代に漱石,徳富兄弟が泊まった戸下温泉の「碧翠楼」は水没予定地になるため計画発表後すぐ に廃業している.また栃木温泉の小山旅館は高台へ移転した.昭和45年(1970),阿蘇大橋が完成すると,旧道を通る車も少なくなり,観光客の動きが変 化したのも影響したものと思われる(その後,平成15年2003には俵山トンネルが完成し,南阿蘇へのアクセスは大きく変化した).

熊本藩年表稿によると,戸下温泉は湯之谷温泉と同時に細川重賢の治世時に整備されている.明治時代になると多くの文人等がこららの温泉を訪れている.

熊本藩年表稿の記述

寳暦9年(1759)細川重賢 6月9日 布田手永永野村湯谷温泉湯小屋宿谷取建,栃木温泉同前にし1年銀1貫500目宛上納の事(湯谷温泉始まる)

国土交通省九州地方整備局立野ダム工事事務所の ホームページには,立野ダム建設の概要とメリットが書かれている.立野ダムは,下流の基準点(熊本市)において想定以上の流量にならないように調整する役割をすると説明している.

国土交通省ホームページの説明

立 野ダムは、ゲートがない洪水吐き(放流管:高さ約5m×幅約5m×3門)を設けた自然調節方式のダムです。ふだんは、ダムに水を貯めずに、いちばん下 (河床付近)の洪水吐きから川の水をそのまま流します。そのため、ダムの上流側には水が貯まっておらず、ふだんの川と同じようになっています。しかし、大 雨が降り上流から流れ込んでくる水の量が増えると、一時的に水を貯めて、洪水を防ぎます。雨がやんだら、貯まった水は少しずつ下がり、ふだんの水の量に戻 ります。  

立野ダムでは下流基準地点の代継橋での基本高水流量3,400m³⁄sのうち400m³⁄sの洪水調節を行います。

上図は,完成後の予想景観である.市民団体によるとトロッコ列車も架け替えられるようだ.

一見して,見慣れた阿蘇の景色にマッチしないと思うのは私だけであろうか.

ダム建設反対を表明している市民団体のメッセージ(図)を以下に示す.詳細は「立野ダムによらない自然と生活を守る会 | STOP 立野ダム LOVE 阿蘇」の ホームページ(詳細なPDF版掲載資料を含む)を参照

阿蘇の大自然を人間の力で制御することがいかに困難であるかはこれまでの想定外の事例が証明している.

◯大蘇ダムの漏水(1979〜,予定の4倍の予算をかけて未解決)

◯高森トンネルの異常出水(1975,工事中止)

◯俵山風力発電(2005以来赤字,風向予測の不備)

◯豊肥線の度重なる被害(復旧に1年以上を必要とする不通.1990, 1903, 2004, 2012)

◯スギ,ヒノキ人工林の崩壊(植林,間伐,砂防ダムの最適化問題)

◯昭和33年中岳大爆発(ロープウェイ開業直後,火口駅等被災),昭和54年噴火と火口東駅舎の被災,マウントカーの廃止,仙酔峡ロープウエイ運休等想定外の問題山積

阿蘇の神話によると,大昔の阿蘇は外輪山に裂け目がなく,カルデラには満々たる湖水が蓄えられていた.健磐龍命(タ ケイワタツノミコト,阿蘇大明神)は,水を流して田畑を作るため外輪山の一部を蹴破って湖水を熊本平野へ流出させた.その場所が立野の火口瀬である.国の 建設計画ではそこにダムをつくり,水の流れを制御しようというものである.ダム建設に反対している市民グループは,下流域の護岸工事で解決できると主張 し,計画からかなりの時間が経っているのに,布田川断層との関連,火山灰,土砂等で埋まる危険性についての答が出ていないと指摘している. 

以前,台風の後、根子岳の麓を高森に向けて車で走った際,山肌が「大量の楊枝」で覆い尽くされた様な光景を見てびっくりしたことがある.楊枝に見えたのは植林された大きな杉の倒木であった.それ以来,人工林の役割に疑問を持つようになった.大量の倒木は土砂と一緒に谷へ流れ下る際に,枝葉がもぎ取られ電柱状になって下流を襲い,橋脚に引っ掛かり川を塞き止め,洪水を引き起こすわけである.戦後の植林事業は国土荒廃の元凶であると主張する専門家の意見を新聞やネットで読んだことがあるが,実際に被災地の光景を目にしたら納得するはずである. 

阿蘇地域は国際的な自然公園「世界ジオパーク」への登録を目指している.今夏経験した712熊本水害クラスの災害が立野ダムで防げるのか,判然としない.いろいろな要因を加味した科学的かつ総合的検証が必要である.

参考資料

1)戸下温泉の「碧翠楼」の跡を訪ねたエッセイ「第26話 碧翠楼(2008年5月)」 に今昔が詳しく述べられている.

2)栃木温泉 小山旅館のホームページに記載されている「旅館の足跡」 

自 由民権思想の先駆者であった当館の2代目当主、小山雄太郎は、中国革命の父・孫文との交流も深く、日本亡命中の孫文は約ひと月をこの栃木温泉で過ごしてい ます。また、西郷隆盛をはじめヘレンケラー、野口雨情らもこの地を来訪。ロビーには幾多の資料を展示しております。彼らの足跡を辿るのも、また旅の醍醐味 ではないでしょうか。

3)近代デジタルライブラリーに見る戸下温泉と栃木温泉(角田政治 編 阿蘇火山 : 附・山下の温泉名勝 明治44年,1911) 

(2012/8/30)