兼松 顕先生の思い出

兼松 顕先生の思い出

1月20日夕刻,兼松 顕先生の訃報を知らせるメールを受けた.6年間研究生活を共にした間のいろいろな思い出が甦ってきた.

私が九州大学薬学部の助手に就任したのは昭和43年,すぐに大学紛争が起り研究どころではなかった.紛争解決後は助手も教官会議に参加していた.権利を主張するならそれなりの責任を持てというので,教官会議の司会,記録係りなどもさせられた.教授選考には当該研究室の助手は参加させられ,自分の運命は自分で決めろといわれた.恩師である田口胤三教授は昭和51年に退官したが,退官前に後任教授の選考委員会が発足した.公募の結果十数人のそうそうたる候補者が応募してきた.選考の際,九大を一時的な腰掛けにせず,どっしり腰をすえて研究する人,学生受けのする人,問題を起こさない温和な人であることが求められた.その理由は,それ以前にその条件に合わない先生が複数いたためである.

選考の結果,兼松 顕先生を名古屋大学工学部から迎えることになった.すぐに赴任することができないということで,1年間はこれまでの研究の整理と新しい研究への移行準備をすることができた.1977年に赴任されるとさっそく兼松先生らしい細かい研究方針が打ち出された.その内容については,私が熊大薬学部の最終講義で紹介したスライドで理解してほしい.


博士論文

有機化学の指導原理として「フロンティア軌道論」を利用したいという提案があった.九州大学薬学部では教養課程で量子化学が学生に講義されていたので,スムースに受け入れることができた.院生,学生もWoodward-Hoffmann則よりも理解しやすいといって興味を示してくれたため,研究は思ったより早く軌道に乗った(と思っている).古典的電子論に代わって「フロンティア軌道論」を採用されたのは正解であった.4年後の1981年には福井謙一博士は「フロンティア軌道論」の発案でノーベル賞を受賞した.その時は自分たちの研究室のことのように喜んだ.

職員はネクタイを付けること,孫にも衣装という考えの具現化であった.テーマは研究室内公募,科学研究費の申請書類みたいなものにテーマと成果予想,予算を書いて教授に提出した.ほとんどの提案は,「あなたが独立された時のテーマとしてリザーブしておいてください」と言われ,結局先生のテーマで研究は進んだ.リザーブしたために独立後に役に立ったテーマとして,不飽和チオン炭酸エステルの一連のペリ環状反応を挙げることができる.頭からリジェクトしない先生の作戦は見事だった.

ゼミは原則として総説と直近の成果,学生はたいへんだったが多忙な先生にとっては勉強になったようだ.博士論文は英語ということで,助手層にとってはたいへん勉強になった.投稿はアメリカ化学会,国内の学会誌はレフェリーが顔見知りのため,顔(先入観)で審査するということで,以後その方針にそった投稿活動を行った.助手の任期は原則5年ということで同僚は次々に異動して行った.私は6年後に熊大へ異動した.次々とそれなりのポジションを確保する努力をされる方であった.長く助手を務めたのは先生を定年で送り出す役割をした方だけではないかと思っている.

私は,大型計算機センターに出向き単結晶X線解析や分子軌道計算を担当していたが,先生の過去の報告に化学構造が間違っていたものがいくつかあった.名大時代にJ. Org. Chem.に投稿された熱的[6+2]反応の発見(光でしか起きない反応が段階的熱反応で起こったと結論),九大でChem. Comm.に発表したdiazaazulene合成成功の報告である.前者はもともと気になっておられたようだった.後者は英国の学者に誤りを指摘されたものであった.解析を頼まれ終了した時,「構造が間違っている」ことを先生に報告するのに躊躇感をおぼえたものである.先生との間に何となく気まずい雰囲気を感ぜざるをえなかった.しかし,今思うと,速やかに論文を出すという意味ではミスも仕方ないことだったかもしれない.なぜならそれがきっかけでその周囲領域が拡がるからである.注)解析後,上記の化合物は色が黄色結晶であることから提案構造ではないことが予想できることが判った.私がX線解析を始めたのはインドール回転異性体の構造の誤りを指摘されたためである.C13-NMRが実用化される前の構造決定にはこのような例が散見される.

助手を5年程度したらその成果をまとめて学会賞等に応募するように促された.フロンティア軌道論を指導原理とする「共役中員環化合物のペリ環状反応を利用した分子設計」が一応まとまったということで,先生の勧めで,日本薬学会奨励賞に応募したがNOであった.当時薬学部でそのようなことを研究対象にしている人はいなかった.福井博士がノーベル賞を受賞される1年前だったので,「時期が悪かった」と慰めてくれた人もいた.その後,熊大へ異動し,熊大薬学部百周年記念講演に福井博士を招くことができたのはそのようなことが幸いしたためと思っている.

兼松先生のほとんどの提案はまともであったが,実験室の学生の机に仕切りをつくることには抵抗を感じた.名古屋で行われた討論会の際に,名大工学部の研究室(佐々木 正教授)で拝見したが,少々やり過ぎの感があった.研究室内ポスト設置は,その後私自身熊大で経験した人間関係を考えると仕方なかったかもしれない.

先生は日曜日も大学に来られていた.私はX線解析を行っていたため,記録用紙取替に日曜日も大学へ出かけることもあった.その際,たびたび先生の姿を見かけた.娘さんが受験勉強しているので,邪魔しないためと後になって聞いたおぼえがある.

研究室では,アメリカ化学会誌への投稿が受理されると共著者一同教授室で乾杯,当事者以外はちょっとくやしい思いをさせるのも作戦だったかもしれない.コンパでは女装踊り,その後は中洲のディスコに行くことがダンディーな先生以下研究室全員の楽しみになっていた.それが楽しみで研究に精を出していた者もいたといっても過言ではない.酒の飲めない私には真似のできないことであった.九大での研究室立ち上げに協力することができたのはたいへん光栄であった.

兼松先生のご冥福をお祈りする.(2012/1/22)

関連項目

兼松先生の九大在職期間 昭和52年5月〜平成8年3月

共著論文(フロンティア軌道制御によるペリ環状反応)

研究室BGM許可顛末記 BGMの後半部分

異常に長い単結合(回想 兼松研究室)

構造解析ミスから思わぬ展開(兼松研究室)

単結晶の依頼解析をやって良かったこと, 悪かった?こと

兼松先生と