NMRの化学シフトを非経験的MOで予測

修士,博士論文を審査する時,いつも実験の部からチェックすることにしていた.

本文は指導教官の手が入っているため,それなりに形になっているが,実験の部はチェックされていないことが多く,担当学生にとっても気になるところである.

ある修士論文の副査をした特,核磁気共鳴 (NMR) データの記載の仕方が奇麗過ぎるので(シグナルの重なりで読めないものまで読み出している,桁数の揃い過ぎ),学生を呼び出して訊いたら,ChemDrawという化学構造式描画ソフトに「おまけ」で付属している「NMR化学シフトの予想機能」で予測したデータをそのまま書き込んでしまったと言って恐縮していた.未測定のデータは「卒業までには間に合わせます」と言っていたが,その後どうなったか確認するようなことはしていない.

ChemDrawによる予想値というのは,数多くの二次元構造の分子データの平均的な値を表示してくれるだけであくまでも目安でしかない.PhCH2CH2CH3の様にベンゼン環に直接付いているメチレン基は2.62ppm,その隣のメチレンは1.65ppm,末端のメチル基は0.99ppmという具合である.同じ部分構造を有しているシクロファンの場合は,中央メチレンはベンゼン環上に位置する.そのため大幅に高磁場シフトする.三次元的な影響は考慮されていないので,π電子の影響を受ける場所に位置する水素原子の化学シフトは予想できない.

ChemDrawによる予測

もともと平面的な分子用に作られた経験的予測システムである. 分子鎖を伝わる電子効果は統計的に予測可能であるが,空間を隔てた立体電子的効果は無視されている. したがって右側のシクロファン等の予測には適していない.左側のn-propylbenzene分子と同程度の予測しかできない.


理屈抜きのデータベース依存は教育上よくないので,利用しないように言ったが,その後も使っているようである.助手の先生によると概略を知るために利用し,実測値と比較させているということだった.

そういうことなら,非経験的分子軌道計算で予測した方が科学的であると思い,計算を試みてはみたが,実際の分子はパソコンでは大きすぎて手に負えなかった(特にフリーソフトのGAMESSは必要メモリー量が大きく,演算時間も長いため合成実験の片手間でパソコンで処理できるようなものではなかった).

定年後,PCの処理速度も上がったこともあり,時間も十分にあるので,やりかけのデータを引っ張り出し再挑戦してみた.その結果,「結構使えるじゃないか」ということに気付かされた.

NMRの計算処理は,GAMESS(フリーソフト)とGAUSSIANで計算できるが,GAMESSはGAUSSIANに較べると極端に長い演算時間を必要とする.例えば,TMS分子のNMR計算 (hf/6-31g*) の場合,GAMESSはGAUSSIAN03より約160倍の時間を要した(CPU core i7 2600K, Windows7, 64bit).ジョブの実行は通常の構造最適化の後に,連続して計算させればよい.


連続ジョブの実行

%nproc=1

%mem=???MB

%chk=temp

# hf/6-31g* opt pop=minimal

cyclophane6

0 1

原子座標(最後に空文)

--link1--

%mem=???MB

%chk=temp

# geom=check guess=read hf/6-31g* nmr

cyclophane6 nmr

0 1


シクロファンの計算結果

シクロファンのHF/6-31G*計算値からTMSの計算値を差し引いた値を赤文字で示した.

ベンゼンの環電流は主磁場を打ち消す局所磁場を発生させるように流れる.そのため,ベンゼンの上に位置する水素原子は高磁場シフトする.

今回の計算はTMSより高磁場の負の領域で共鳴することを予想したが,これは実験事実とよく一致する結果である.

ベンゼンの真上からずれるとその程度に応じて低磁場側へシフトする.

シクロファンはNMRの講義の際に使う題材である.磁場の変化を説明するために「右ねじの法則」を持ち出すと皆「今更何事?」と言わんばかりの顔をしていた.「NMRは国家試験に出題される」と言うと目が覚めたように筆記し始めていたのを思い出す.

次図はオレフィンの上部に位置するメチン水素が高磁場シフトする例である.実測値を再現していることが判った.

有機反応機構の解明に分子軌道計算を利用することは日常茶飯事であるが,NMRの予測まで手を出すことは邪道と考え敢えてしなかった.しかし,今回最新のCPUを搭載したPCで試みた結果,NMR測定と同時にMO計算で予測した結果が添付されて返却される日も近いような印象をもった.その際,基底関数の適正な選択や測定溶媒の溶媒効果を配慮すればもっと実験結果に近い値を予測できるものと思われる.(2012/3/23)

追記 ChemDraw予測値を比較すること自体意味があるとは思えないが,参考までに記した.


参考資料

NMRスペクトルを計算してみよう : PC CHEM BASICS.COM