雲巌禅寺_東陵永璵

我家は岳林寺(禅宗)の檀家であるが,住職が忙しい時は宗派が同じ曹洞宗の寺の僧が経を上げに来る.寺の名は雲巌禅寺,奥の院に宮本武蔵が五輪の書を著した霊巌洞の在る寺である.また檀家を持たない寺としても知られている.地元では岩戸観音として,対外的には武蔵の霊巌洞として有名であるが,本院についてはあまり知られていない.霊巌洞のパンフレット「霊巌洞物語」には雲巌禅寺の由来が肥後国誌の記述をもとに書かれている.660年を超える歴史を持つ雲巌禅寺について肥後国誌(上巻 近代デジタルライブラリー)で調べたので,原文を含めて内容を紹介したい.

肥後国誌に記載された内容

雲巖寺寶華山幷霊巌洞 (書き写し)

禪洞家府ノ流長院末寺寺領十石山號或ハ巖殿山今里俗岩戸ト書ス岩洞(即チ霊岩洞ナリ洞中二百人ヲ入ルヘシ)ニ安置セル本尊ハ石體四面ノ觀世音也ト云ヘリ(府城ノ西二里)往昔何レノ年ニヤ異域ヨリ渡レリ其渡海ノ時船人 榜ヲ過チテ船ヲ覆ヘシケルニ霊像恙ナク板ニ乗リ今ノ岩洞坤ノ方ニ漂着ス其着岸ノ地ヲ今佛崎ト称ス乗板ノ所ヲ板迫ト称シ閑居ノ窟ヲ岩洞ト云 其後數百年ヲ経テ大元明州ノ沙門東陵永璵此所ニ来リ,霊窟ノ側ニ精舎(仏道に精進する者が住む舎という意味)ヲ建ント欲ル志アリト云へトモ其地ニ深淵アリ テ志ヲ遂ケス或夜東陵夢ニ異形ノ者来リ告テ云,我ハ此淵ノ主梭尾螺(ホラガイ)ナリ,此所ニ住スルコト?幾久シ師此地ニ精舎構営ノ志ヲ知ル故ニ此淵ヲ師ニ 授クヘシ我ハ今夜西ノ方杉谷ニ移ルヘシ,且龍ノ鱗一枚螺殻一個ヲ残シテ証トセント云々東陵夢覚メ翌日行テ見ルニ淵水悉ク涸テ其辺ニ鱗ト殻ヲ残セリ(此ニ品 今ニ傳ヘ存シテ寺宝トス)東陵奇異ノ思ヲナシテ即チ其地ニ梵宇ヲ建テ寶華山雲巌寺ト號ス故ニ岩淵ノ上ニ題セル霊巌洞ノ三文字ハ小篆書ニシテ東陵書ノ三文字 ハ楷書也.倶ニ東陵カ筆跡ナリ永璵ハ曹洞宗ニテ法ヲ天童山雲外和尚ニ嗣キ貞和十年本朝ニ来リ後ニ相州鎌倉圓覚寺ニ住メ東雲院ニ居リ又京師南禪寺ニ在リテ栖 雲院ニ居レリ貞治四年五月六日示寂謚妙應光国恵海慈済禅師 以下略

現代風に書きなおし,説明を追加したが,一部正確ではない部分がある可能性がある.

雲巖寺は流長院(熊本市中央区坪井)の末寺で,寺領十石,山號は巖殿山とも言われている.今は俗に岩戸と書く.

岩の洞窟は200人が入る広さがあり,安置されている本尊は石體四面ノ觀世音と言われている(城の西ニ里,8㎞).何時の頃か判らないが異国から渡って きた.その渡海の際に,船人が操船を誤り船は転覆したが霊像は恙(つつが)なく(無事で),板に乗り洞から南西の方角に漂着した.着岸した地は佛崎と呼ば れている(河内町?天山より西南にあたる.現在は熊本市西区河内町河内676).乗板の所を板迫と称し,世俗を離れて暮らした(閑居)窟を岩洞と云う.

その後,數百年が経ち,元の明州の沙門(出家し托鉢生活を送った人)東陵永璵(とうりょうえいよ)が此処に来て,霊窟の側に精舎(仏道に精進する者が住む舎)を建てようとしたが,其の地に深い淵があって志を遂げることはできなかった.

或る夜,東陵は夢で異形の者(怪異,化け物)が来て以下のように告げられた.

「我は此の淵の主の梭尾螺(ホラガイ)である,此所に住むこと幾久しい,師が此の地に精舎を構営する志を持っていることを知ったので此の淵を師に授けることにした,我は今夜西の方の杉谷に移る.且龍(かりそめの龍?)の鱗一枚と螺殻一個を残して証としたい云々」.

東陵は夢から覚め翌日行って見ると,淵の水は悉く涸れて其辺に鱗と殻が残っていた(このニ品は現存し寺宝となっている).

東陵は奇異に感じ,すぐさま其の地に梵宇(寺院)を建て,寶華山雲巌寺と號した.故に,岩淵の上に題せる霊巌洞の三文字は小篆書であり,東陵書の三文字は楷書である.倶(とも)に東陵の筆跡である.

左下隅から右上隅へ向けて引いた対角線上に霊巌洞の文字(篆書体)が刻まれている.

右上隅 霊

中心 巌

左下隅 洞

2012年10月撮影

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永璵は曹洞宗にて法を天童山雲外和尚に嗣ぎ,貞和十年1354本朝に来り.後に相州鎌倉圓覚寺に住み,東雲院に居り又京師南禪寺に在りて栖雲院に居れり.貞治四年1365五月六日示寂(高僧が亡くなること)謚(おくりな)妙應光国恵海慈済禅師 以下略

寺を建立したのは元から渡来した東陵永璵(とうりょうえいよ)(1285~1365年)である.

「東陵は,足利直義(ただよし)の招きで1351年(南朝 : 正平6年; 北朝 : 観応2年)に来日。曹洞宗であったが,京都の天竜寺・南禅寺,鎌倉の建長寺・円覚(えんがく)寺などの住持をつとめた。」 と書かれている.

その東陵が,熊本の中心地から2里程度の距離とはいえ,なぜこのようなところに?との疑問が残る.

当時の九州は・・・・

懐良親王(元徳元年(1329年)ー弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は,南朝の征西大将軍として肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ,九州における南朝方の全盛期を築いていた.正平5年(1350年),幕府の内紛(観応の擾乱)で将軍足利尊氏とその弟足利直義が争うと,直義の養子足利直冬が九州へ入ったが,正平7年/文和元年(1352年)に直義が殺害されると,直冬は中国地方へ去った.

このような時代背景を考えると,当時の隈本(熊本)は菊池を中心に中央との交流はかなり活発だったと言える.九州北部を中心にした戦乱を避けて.数百年前に海を渡ってきた観音像が安置された静かな此の地に寺院を建立したと考えると納得がいく.

熊本市立熊本博物館に東陵永與倚像(重要文化財)が展示されている.説明には次の記載がある.

「ヒノキの寄木造り、玉眼で全面に彩色があります。東陵永與は熊本市松尾町の雲巌禅寺を開いた曹洞宗の僧、元の人です。観応2(1351)年来朝、京都・鎌倉の大寺院に歴任し、貞治4(1365)年没。81歳。

この像は没後まもなくつくられたものと思われます。熊本の肖像彫刻のなかでも代表的なものです。」

雲巌禅寺を建立したのは1352年?と言われている.これが事実なら来日した翌年ということになる.東陵永璵をはじめとして歴代住職の墓地も境内にあることから亡くなる前には九州にいたことになる.肖像彫刻の存在も辻褄が合う.

追記

街中の寺は檀家のお布施以外に収入を得る工夫をしているが,雲巌禅寺は観光収入(霊巌洞の拝観料)だけで寺を維持しているのであろうか.

禅宗でも派を異にする臨済宗妙心寺派の場合,寺は全国に3400寺くらいあるが,そのうち1000寺は専任住職が不在で維持困難な状況であり,掛持ちや 定年退職後のシニア世代を僧に育てることで維持しているという話を聞いたことがある(11月26日のNHK「ゆうどきネットワーク」).社会構造の変化で 寺離れ傾向も顕著のようである.寺を維持するためには近隣の寺の手伝いをするのは当り前なのかもしれない.


参考資料

東陵永璵を東陵永與と書いている資料もある.王+興である.

近代デジタルライブラリー 肥後国誌

熊本市立熊本博物館ホームページ 歴史展示

その他 Wikipediaを利用した.


(2012/12/23)