島崎 石神山今昔
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島崎 石神山今昔
戦時中は,市中心に近い山崎町の家(薬局)に住んでいては危険というので,先祖代々住んでいた島崎団子原の家に疎開した.ところが,戦後一時的に貸した山崎町の家の住人が居住権を主張したため,再開局ができず,高校1年生の時まで島崎の家に住んだ.
島崎は史跡の町と言われるとおり種々の名所旧跡(釣耕園,叢桂園,百梅園跡,三賢堂,岳林寺,西の武蔵塚,長命水,石神神社,島田美術館等)が存在する.島崎地区全体を抱え込むように石神山があり,周囲の荒尾山や三淵山とともに金峰山外輪山の寄生火山を形成している.
2012年9月6日 追加写真
所有者のアルバムの構成から昭和20年代後半の撮影と考えられる.
大規模な石材切出しが行われる前の石神山を我家の庭先から撮影
ロッククライミングの練習場は向かって左側の岩璧(小高い盛土の裏側),山肌には人工的な発破等によるキズは認められない.
石神山は良質の石材が豊富で,加藤清正は,将来の熊本城の修復に備えて同山の石に手をつけず,石工の生活のためにだけ採掘を許したと伝えられている.ちなみに,明治22年8月に完成した第五高等学校本館(熊大五高記念館)の石材は石神山から運びだされたものである.完成寸前の同年7月28日震度6強の熊本地震に見舞われたが,まったく損傷がなかったとのことである.注 約100万年以上前に噴出した角閃石安山岩
島崎の家の庭から見た石神山(とんがり屋根の堂は安達謙蔵が建てた三賢堂)
石材会社の砕石により破壊された景観 採石場の下に竹が繁茂し,向かい側の公園は見えない
島崎の西端から,鎌研坂を上り峠の茶屋を経て有明海に面した河内,小天,天水へ抜けることができる.夏目漱石は「草枕」の中で,鎌研坂あたりの景観を次のように記している.
・・・・立ち上がる時に向うを見ると、路(みち)から左の方にバケツを伏せたような峰が聳(そび)えている。杉か檜(ひのき)か分からないが根元(ねもと)から頂(いただ)きまでことごとく蒼黒(あおぐろ)い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引(たなび)いて、続(つ)ぎ目(め)が確(しか)と見えぬくらい靄(もや)が濃い。少し手前に禿山(はげやま)が一つ、群(ぐん)をぬきんでて眉(まゆ)に逼(せま)る。禿(は)げた側面は巨人の斧(おの)で削(けず)り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋(うず)めている。天辺(てっぺん)に一本見えるのは赤松だろう。 注)鎌研坂に近い位置(三淵山の山腹)にも別の砕石場がある.
ところが,戦後,石神山の中腹に地元企業による採石場ができてしまった.石材を切り出すためのダイナマイト発破音が周辺住宅の窓を震わせ,石を砕く音は一日中響き渡たり,まるで無限に長い列車が走り通るような音であった.静寂であるはずの周辺の歴史的環境とは程遠い雰囲気が何十年にもわたって続いた.子供心に嫌悪感を覚えたのを覚えている.昭和57年に帰郷し,両親を島崎の家に隠居させた頃も騒音は続いていた.
熊本市もその不自然さに気付き島崎地区を本来あるべき姿に戻すため採石場を買い上げ公園化する計画を進めた.ところが,そのための経費(用地買収及び移転補償・営業補償費)がかなりの金額であったため,「これまで近隣住民に騒音などで迷惑をかけてきた赤字企業に対する熊本市による救済事業である」として2000年頃石神山公園建設裁判へ発展した.その後,事業費を減額して2007年に 石神山公園 は完成した.
公園の造成過程で,三賢堂と岳林寺の中間付近から公園へ登る道路が造られた.その際,途中に在る古い墓群を整備することになり,我家の旧墓地(父が岳林寺境内に纏めたため放置)も買い上げの対象になった.かなりの数の墓石に刻まれた戒名の確認をもとめられたが判明したのはごく一部であった.石神山の東側(写真向かって左側)には石神神社がある.経済活動とは云え,由緒ある山を崩し騒音公害を長年にわたってまき散らした行為は許されるものではない.
昔は,家の座敷に座って谷を隔てて左側の写真で示す光景が眺望できた.現在の眺めは写真(右)で示すように惨めなものである.安達謙蔵が建てた三賢堂は尖塔さえも見ることができない.(2012/1/7)
追記 正面から見て左側に切立った岩壁があり,大学の登山部が岩登りの練習をしていた.縁側から双眼鏡で眺めた記憶がある.
昭和30年始めに撮影した写真,右の写真から明らかなように削られた岸壁はごく一部だけである.
追記 戦前の地図(スタンフォード大学図書館)では164m,最新の国土地理院の地図では123mである.
参考資料
第五高等学校本館(熊大五高記念館)
キーワード 石神山,騒音公,熊本市島崎町,採石場