2026年4月29日時点で全てのリンクが切れていたため、内容を含めて修正しました。
私は13歳の頃,徳富蘇峰 [1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日] に会った.江戸時代(明治維新の4年前)に生まれた郷土の偉人が島崎の家の近くにやってくるというので見に行ったわけである.正確には昭和27年,徳富蘇峰が90歳の帰郷の時である.実は,その2年前の昭和25年11月23日に,家の近くの霊樹庵(島崎7丁目)に,徳富蘇峰の米寿を祝って,吟詠家の人たちが髪塚を建立して,除幕式が行われた.当時,蘇峰は戦犯容疑による蟄居の身であったため,髪塚除幕式への出席は叶わなかったようである.その間の経緯に付いては香雲堂吟詠会のページ(2012年時点)に記載されていが、現在は見当たらない.
今もはっきり覚えているが,真綿をふんわりと冠ったような白髪の仙人様の風貌だった。その時の写真が香雲堂吟詠会のホームページに掲載されていたので、リンクを張っていたが見当たらないので、徳富記念館に掲載されている写真を引用させてもらった。
当時、霊樹庵に隣接して「西の武蔵塚」があるので,宮本武蔵に関連しての訪問かと子供心に思ったが,そうではなかった.
注)島崎地区は,藩政時代はご大身の下屋敷や別荘などがあった場所であり,霊樹庵は霊樹院という寺院の寺地跡である.霊樹院は明治の神仏分離の際に廃寺になった.霊樹院については興味ある話が伝えられている.隣接して,西の武蔵塚、寺尾信行一族の墓がある.
【熊本】西の武蔵塚、寺尾信行一族の墓:肥後国 くまもとの歴史
当時,霊樹庵の跡地を所有していた人が熊本市街地,遠くは阿蘇外輪山を一望できる庭先を提供したため髪塚建立が実現した.蘇峰は石の神を祭った山の麓に自分の髪塚ができたことに感謝し,漢詩を寄せている(吟詠会Webページ参照 リンク切れ).
徳富蘇峰は,平民主義者から帝国主義者へ転じ,太平洋戦争宣戦の詔勅に筆を入れるなど戦時中は戦意高揚の言論活動を行った.1943年に文化勲章(80歳)を受賞するが戦後に返上している.東京裁判ではA級戦犯容疑者となったが、高齢と病気で訴追されなかった.晩年は「近世日本国民史」を著し完結させている.熊本洋学校 教師L. L. ジェーンズの感化によってキリスト教に入信していることなどから,その後の言動は日和見主義者の典型と言う人もいる.没後50年以上が過ぎ,語られることは少ないが,「国を想う」という意識が薄れている現在,今一度再考さるべき人物と指摘されていることも事実である.
国会図書館デジタルコレクションの著者名で検索すると関連著書が画像として読むことができる.
徳富蘇峰 戦時下の国民の心表現 戦争と言論人 足跡を訪ねて(5)
我家は父が薬局を再開局したために島崎から新屋敷へ居を移したたが,近くには徳富蘇峰,盧花が住んでいた旧居や大江義塾跡があり、徳富記念館(建物は熊本市の有形文化財,跡地は熊本県指定史跡)として公開されていたが、2016年の熊本地震で損壊してしまった。6年後の令和4年(2022)12月に修復が終わり、再会館した。
2026.4.29 大幅に変更しました。