田舎は田舎らしく

細川重賢

細川重賢は熊本三賢人の中のひとりとして三賢堂(熊本市島崎に安達謙蔵が建造)に祀られていることは別稿で紹介した.

重賢は,兄で第5代藩主であった宗孝が,江戸城内で殺害(人違い殺傷事件)されたため,急遽跡を継いだ.藩主になると,有能な人材を次々に登用しピンチヒッターとは思えない才能を発揮し,後に寳暦の改革(1751)とよばれる大改革を行い,肥後藩の基礎を築いた.

改革を行うにあたって自分自身も質素倹約を実行したことが知られている.近代デジタルライブラリー「 偉人と其生活」

に逸話が記されているので紹介したい.

重賢と妙解寺松洞

此の重賢の國主たりし時,其の菩提寺なる妙解寺にて或年,寺主松洞が領主を請じて饗應したことがある。 其時, 御馳走にとて,豆腐をおかしく拵へ,紅にて色を着けなどして興あるものとして差上げた。 所が重賢は一見して眉を顰め,「かゝる田舎の果まで,食物に徒らの巧みをなし,之が為に財をも暇をも費やすといふは憂ふべきことである。 如何にしたとて,豆腐の味は変るまじ」 といった。 之を聞いて和尚は大に赤面したといふことである。

又同寺にて松洞が侯に侍食した時,「此頃は當國は大に豆腐の製法精しくなり,都にもおさおさ劣らぬやうに覚えます」と言上した所,侯は反て喜ばず,「田舎は田舎にてあらんこそよけれ」と答へた. 又重賢は此寺へ詣づる途中,或市を過ぎり,某店に洗粉といふ物を繪の紙袋に入れて賣り出せるを,駕篭の中より認め,「我が所領もかゝる物を賣買ふばかり華奢に赴いたか,これやがて國の貧を招く基なり」と嘆息したといふ.

重賢が菩提寺である妙解寺で食事をした際,一緒に食事をしていた寺主の松洞和尚が,「此頃は當國は大に豆腐の製法精(くわ)しくなり,都にもおさおさ劣らぬやうに覚えます」と申し述べた.

ところが,重賢は喜ぶどころか,「田舎は田舎にてあらんこそよけれ」と応えたそうである.

この言葉は現代にも通用する.県や市の施政には,東京,博多に追いつくことを目指したキャンペーンが目に付くが,そのような発想をする人達はこの言葉を噛み締め原点に戻るべきである.

そのほか,この短い文章には,豆腐を素材にしたアレンジ料理を出したところ,所詮豆腐は豆腐,味は変わらない,そのようなことにエネルギーを費やすのは無駄であることや,ある時は町中で洗粉を装飾紙袋に入れて売っているのを見て,そこまで派手になったかと嘆いたことも紹介されている.

ちょっと極端過ぎるようだが,当時は想像以上に貧していたようでる.

節約令の詳細は別項で紹介したい.

参考資料

近代デジタルライブラリー 足立栗園 著 偉人と其生活 大正12 細川重賢の節約と儉約令

「細川重賢の事蹟」のサブファイル (2012/7/10)