第4代藩主細川宣紀(ちょうど300年前)
細川宣紀(ほそかわ のぶのり)は,ちょうど300年前の1712年に,肥後熊本藩の第4代藩主に就いた.ところが,熊本の歴史を語るとき,話題に上ることは殆どないと言っても過言ではない.近代デジタルライブラリーで検索しても,宣紀について触れた書籍は二冊だけであり,それもごく簡単に述べられているに過ぎない.
古英雄の生活観 足立栗園 著 (東亜堂, 1909) 目次:(四十六) 細川宣紀
座右之銘 : 先哲教訓. [正](先哲教訓) 裳華房 編 (裳華房, 1905) 目次:四十三 細川宣紀
比較のために初代から3代までの藩主の話題性を概観してみた.
熊本藩初代藩主の細川忠利は,細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・玉子(通称 細川ガラシャ)であり,加藤忠広が改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封された.島原の乱では長男の光尚と参陣して武功を挙げた.寛永17年(1640)には,宮本武蔵を客分として熊本に招いている.
第2代藩主の光尚は,就任直後に阿部一族による反乱が起きた.光尚の長男である細川綱利が第3代藩主となると,吉田司家を肥後に招き、相撲道を後援したことや,元禄赤穂事件後には大石良雄らのお預かりを担当し,厚遇したことでも知られている.3代までの藩主とは対照的に,第4代藩主の細川宣紀となると小説のネタになるような出来事はないが,治世の大半は,旱魃,虫害,地震,大風,飢饉,火災に悩まされ多難を極めている(文末資料参照).追記)前藩主の借金返済や幕府から命じられた大規模公共事業等も大きな負担になった.
細川宣紀は(延宝4年11月20日- 享保17年6月26日,1676年12月24日-1732年8月16日),熊本新田(しんでん)藩主細川利重(注)の次男であり,熊本藩第3代藩主で叔父の細川綱利の嫡男が相次いで早世したため養子に迎えられた.
注)兄綱利から3万5千石を分与され江戸に創設した支藩,幕末に三年間高瀬藩として存在,廃藩置県により藩邸等は建築中止になった.
郷土史家の資料によると,宣紀には六人の側室との間に8男13女の子供がいるが,そのうち男女十人が夭逝している.四男で第5代藩主の細川宗孝は殿中で勘違い殺傷事件で絶命している.宗孝に代わって,第6代藩主に就いた五男(異母弟)の細川重賢は,宝暦の改革を成し遂げたことで知られている.紀州藩第9代藩主徳川治貞と「紀州の麒麟,肥後の鳳凰」と並び賞された名君を育て上げたことは細川宣紀の最大の事績と言える.
注)重賢は,紀州藩第9代藩主徳川治貞の「麒麟(きりん)」,米沢藩第九代藩主上杉鷹山公(治憲)の「鷹山(たかやま)」と並んで肥後の「鳳凰(ほうおう)」と呼ばれることもある.
上述した書籍(座右之銘 : 先哲教訓)には,細川宣紀の項に「享保元年,令して藩訓を定む.熊本の士風は,此等の藩訓に溯源する所ありしか疑はず」と書かれている.近代デジタルライブラリーのスキャン資料の質が悪く,現在のところ完全な読取ができていないが,その内容は學文(学問),節操と道義,親孝行,武備,主従,質直朴素の在り方等であり,約3600文字に及ぶ.各条文の内容を象徴的に示す部分を太字でマークしたので主旨を理解してほしい.
凡家中の士,不レ撰二貴賎一,可レ致二學文一,學文とは別にかはりたるにても無之候,人たるものゝ道にて候へば,朝夕第一可心得處,脇々の儀の様に心得,學文不仕候ても,其分と存能在躰に候,不吟味成事不過之,乍去常人學文仕よし申輩に,結句不學文の人より劣り申者有之候,其故は此人元来己の才智に傲り,名利の心深くして,不學文なりと人の申を無念と存,書籍を取扱ひ,少し學文を知り,古事はしはし學候て,人をあなどり,己が行のたすけと致候才智有之ての上に,文藝も有之候へば,能士の様に見え候得共,實は仁義の心なくして,偏に盗人の振舞候,さればとて抜群不學の人におとり申候,其外或は詩文を作り,或は書籍を観て,いたづらに日を渉る輩有之候,是は一向に慰に仕る迄にて,何の益も無之事に候,今右に申渡は,右之通りの儀にては無之候,學文は右申通り,人たる所の道にて,人と生れ是をしらず不レ行候ては,偏に禽獣の有様にて候,然らば朝夕に飲食よりも,急用の儀と心得べし,・・中略 ・・學文必ずしも文字の上に有事には無之候,一日なりとも命の内に,此道をさとり候て相果候はば,生れたる甲斐有之候,百年存命候共,無學にて人たる道も不存候はば,何の益なき事にて候,されば志ある士は勤學油断仕間敷儀候.
各父母には孝順を盡し,兄弟には友愛を専とし,親類には遠類たりと云うも筋目は違へず,念頃に申通し,傍輩には互に信を本として,心底に僞を不挟,家来には憐慰を加へらるべし,是等は肝要の儀に候,つねづね心掛尤候,右申通り學文被致候へば,聖賢の書には皆これらの儀にて候,某の口舌を費し候に不及事に候.
家中の士常々不 レ懈嗜二節義一可申候(不懈:怠らないこと),一言一行も,士の道において,不詮儀なる事不可有之候,節義の嗜と申は,口に偽をいはず,身に私をかまえず,心直に外に飾なく,作法不乱,禮儀正しく,上に不レ謟(うたがわず),下を不レ慢(おごらず),かいがい敷,頼母敷,假初にも下様の賎き物語,悪口抔,言葉の端にも出さず,さて恥を知て,首を刎らるゝとも,己がすまじき事はせず,死すべき場をば,一足も引ず,常に節義をおもふして,其心鐵石の如くになるものなり,又温和慈愛にして,物のあはれを知て,人に情有を,節義の士とは申候,昔より和漢ともに,世間を廣候て,人の情を能存候者に,わずか個様の六ヶ敷被存たる振舞候哉,某が家臣たるもの,諸事無造作に,繕ひなき様に可被致候.
昔孔子の門人子游,魯の武城の宰と成し時,孔子能人を求めぬるかと尋給ひければ,澹臺滅明と云者候,路次を行に,必ず本道よりして近道をゆかず,公用にあらざれば某家に不来,是以能人と定めしなり,古人の風儀大形如此に候,是式の儀候へ共,此両様にて滅明の心根正しく,大様にして身の便を求ず,才學を専とせず,己を曲げて人に謟らはぬ所顕れ候,今時かやうの者候はば,鈍なる振舞候様可申候,又人に頭にして其下の者,我方へ公用の外,付属?無之候はば,不快に可思所に,流石孔子の門人とて,是を以て称美するにて,子游が公やけなる心の程も知れ申候,如此にてこそ下の賢否も有やうに知れ申?候,箇様の儀は何れもとりどりにかぎり,やさしき事に候,其論語を讀候に,此所に至りて大形感涙を押?候,某家臣たるものは,家老頭分は子游を鏡に致し,諸士は滅明を手本に可致候,させる事なきに家老頭分たるものゝ方へ,音物無用候,家老頭分たる者も,一圓に下々追従を悦ざる心得肝要候,何卒筋目有之親敷者には,自分の志は尤候,某にかはりて人をゑらみ,忠節は親疎に搆なく,其者の平生の行ひを考て,善悪を定るこそ,家老頭分たるものゝ役にて候,元より依怙 贔屓(えこひいき)は,士のすべき儀にては無之候得ども,満一左様の仕形有之候はば,急度詮議を可遂候,よくよく可心得候.
家中之士,武備を怠間敷候,武備とは,分限相應之人馬,其外武用の道具所持いたし,射騎劔技術も無案内に無之程に可有稽古候,但し其の道の師を致者の外,余り精出し相極候儀に無之候,不断手馴候やうに可致候,軍法は常々詮議可有有事候,但し軍中の法令は,内々定置候道にて,平生存被致,戦場に臨て,失念無之様可被相心得候.
武備をわすれ不申は,平生の嗜にて候,常躰をやわらかにいたし罷在候て,然も其心得可有事,以下略・・・・
士は右申通り,節義を嗜,人柄貞信にさへ候へば,世話のごとく,立居振舞不調法にして,物いひあしく候事も,士の瑕(欠点)にては無之候,少しもくるしからぬ儀にて候,以下略・・・・
家中の士,別て禮讓謙退(礼儀をつくして謙虚,へりくだって控え目)を本とすべし,昔文王は鰥寡をもあなどらず,賎男賎女をも侮り給はず,以下略・・・・
當代の士風俗は,質直朴素の気味すくなく,外見を飾り身を穏に存なし,我同列又は下輩の者に対し候ては,一人高位にとりつくろひ,偏にかざりたる人形のごとくにて候よし及承候,箇様の作法に叶たる事にて候は尤候,士は分限より身を引さげ候て,諸事の仕方無造作に形を繕ひ,身を飾申心なきこそ本意にて候と聞傳へ,周公は賎士にても,来るといへば対面し給ふ,髪あらひ給ふ時は,口に有食を吐て出給ふとなり,時の天子成王の叔父にて,天下摂政にて御座ませ共,勢ひを忘れて形にかゝはらず,如斯無造作なるふるまひなりしが,況や少々世帯をもてども,高位の躰を致は,偏に井の内の蛙にて候.右之通り晝夜相勤,無レ怠心掛可レ申候,追々申渡品々書候て可レ遣候,以上.(2250文字分)
本藩訓では,中国の賢人(孔子,子游,文王等)の言葉や行いを引用して,具体的に訓じている.最後には,「近頃の武士の風俗は地味で真面目な素朴さが少く,外見を気にする傾向がある」と苦言を呈している.もともと家中に向けて書かれたものであるが,その後の重賢の改革等に大きな影響を与えたことは明らかである.
熊本藩年表稿によると,細川宣紀40歳の時,肥満のため歩行不自由になり殿中での杖の使用を許されている.吉宗が第八代将軍に就くと自ら製作した甲冑をお目にかけるなどしている(細川越中守宣紀みずから製作せし甲冑を吉宗の御覧に供す).
享保16年(1731)には,吉宗が宣紀の病状を案じ,自ら調製した漢方薬「七宝美髯丹」を送ったり,医師を遣わしたりしたとの記載がある.
1.25藩主(宣紀)の病状,将軍(吉宗)の上聞に達し,是日医員河野松庵を経て将軍自ら調剤せる七宝美髯丹を与えらる.此の後もしばしば薬を賜い医師を遣さる.
12.29 細川宣紀の病重きよし,内々将軍手製の七宝美髯丹送らる.
享保17年6月26日卒す.
細川宣紀は翌年6月に57歳で亡くなるが,病名は明らかではない.
吉宗が送った「七宝美髯丹」は,現代風に言えば,アンチエイジング治療薬である.その詳細については次稿に掲載予定である.
治世 (1712年 - 1732年)の天災,災難
1712(正徳2年)6 所々に洪水、長六橋落っ
7.6 綱利隠居,宣紀相続
8.9 大風吹く,倒木倒家多し.8.10 戌の刻より巳の刻まで大風
1713(正徳3年) 2 凶作のため在中難渋,柿原村にて無高百姓に西山の山石販売を許す
7.13 大風吹く
財政困窮,幕府より拝借金37万両余に上る
1714(正徳4年)9.19本藩経済不如意に付,5・6年簡略の旨願出
1715(正徳5年) 去年以来上益城矢部地方に悪疫流行
2.2 風雨強く塘破る
4.2 熊本城石垣破損
1716 (享保1年)
4.16 藩主肥満にて歩行不自由に付城内競願許さる
4.30 将軍家継逝去、吉宗嗣ぐ
9.30 午刻,千葉城長岡内膳家より出火,飛火にて竹の丸下,竹小屋焼失,下通から宝町筋,白川端まで焼失
1717(享保2年)1.1 竜口上屋敷焼失
1.29 宣紀邸先火災
6 益城矢部・中島手永疫病流行
1718(享保3年) 4.27宣紀第4子宗孝生る。幼名主税
1719(享保4年) 4.28藪の内より出火,1403軒焼失
5.22 肥後洪水田畑13万石心損毛
飲食に節約を命ず家中衣類その他 吉凶の諸礼、飲食に倹約を命ず(
1720(享保5年)12.16宣紀第5子重圧生る。幼名六之助
1721(享保6年)2.9 江戸大火八丁堀屋敷類焼
1722(享保7年) 3.15 幕府献上物並に被下物を従来の10分の1に減ず
1723(享保8年)11.22 辰の下刻,肥後大地震 山鹿 慈恩寺温泉湧出 山鹿辺最も烈しく山本郡慈恩寺温泉湧出 つ
1724(享保9年)8.14 大風吹く
11.7 本年旱魃大風に付本藩損毛31万560石と届出
1725(享保10年)9.25 是夜,天草地方大地震,引続余震あり
1726(享保11年)9 立田山にて3日間猟師に猪を狩らせる
1728(享保13年)10.8 藩主此此俄かに気分あしく右の手不自由となる(中気)本年滞府して就封せす
1729(享保14年)是年 大風及び虫勝ちにて不作
3.2 藩主幾分快方につき是日下屋敷に移る
4.28 大風,藪の内より出火,上林,内坪井,本町,御座打町京町まで残らず焼失す
5.19 この昼山崎町勘兵衛宅より出火,折柄西南の風強く,付近焼失
8.19 矢部大洪水.矢部大洪水菅村白谷社後の山崩れ神殿拝殿流失 大風吹く
8 当夏虫に虻田根付困難江戸へ達のため調査
9.13 強風吹く
9.22 細川越中守宣紀みずから製作ぜし甲冑を吉宗の御覧に供す
1730(享保15年) 1.11六之助(山雪)紀雄と名乗る.13 主税(宗孝)六丸と改む
5.28 藩主病後、お礼の為登城
虫害,旱魃にて領民困窮す,山野のすず笹に実なる,諸人餅にして食う
8.19 幕府,諸国に凶作に備えて囲い米を命ず
1731(享保16年)1.25 藩主の病状、将軍の上聞に達し、是日医員河野松庵を経て将軍自ら調剤せる七宝美奪丹を与えらる此の後もしばしば薬を賜い医師を遣さる(実紀・肥)。
12.18上益城浜町出火,本町より横町まで悉く焼ける
12.29 細川宣紀の病重きよし、内々将軍手製の七宝髭丹送らる
1732(享保17年)5.7是日より洪水,13日迄減水せず,そのため田作腐れ害虫発生被害甚大
6.2 藩主容体悪化し,是日卒す.
11.4 夏より秋にかけ蝗虫発生多く稲の被害前代未聞,夏期の水害損毛14万7800石,秋期の虫入損毛33万390石合計47万8190石に上る,この旨幕府に届出る.
参考資料
放牛上人についての記述「放牛の時代背景」の中に同時代の災害の一部が記載されている.詳細
細川家譜--細川宣紀譜(郷土史家のホームページ)
宣紀の側室について(詳細) リンク切れ
江戸幕府が西国の藩に命じた利根川の工事 「根川上流河川事務所|利根川に関する資料の閲覧について」 ウェブ公開から資料閲覧方式に変更されている(2022.5.20)
(2012.10.12)