熊本藩「八代蜜柑」

献上大作戦

熊本藩年表稿を読んでいくと,八代密柑(正誤表 蜜柑)の語句が頻繁に出てくる.

幕府への献上品であり,毎年4,2000個必要との記載がある.

細川藩時代は忠利が家光に送ったのが最初であり,その後毎年恒例になったようである.

ところが,加藤家の時代にも前例あり,次の記載がある.

慶長12年1607,清正,秀忠へ 献上

慶長17年,慶長19年 忠広 秀忠へ

寛永7年 1630,忠広 家光へ

寛永8年 同様

蜜柑の個数に関しては,参考資料のブログ引用(上妻氏)を見ていただくと判るが,熊本藩年表稿の記載とは異なるようである.

1780年には,大量の蜜柑を円滑に江戸へ送るため,筑後原ノ町から宿継ぎにしたとの記載もある.

注)宿継,人や荷物などを宿場から宿場へ人馬をかえながら次々に送りつぐこと

注)原町(はらまち)宿(福岡県みやま市).現在ならトラックターミナルを格安運賃でリレー?


八代蜜柑の由来は,俗説として神功皇后の世,高麗より移植したと書かれている.

不作の時には困ったようで,量を減らして対応している.

蜜柑を献上することで,江戸との関係が上手く行ったわけではないと思うが,それなりの役割は果たしたのだろう.

加藤清正の三男である忠広は蜜柑を献上しているが,豊臣寄りの理由で家光に取り潰されている.

吉宗の時代も献上が続いている.吉宗の出身地,紀州は蜜柑の産地だが,苗のルーツは八代であることはあまり知られていない.キシュウミカンを参照


以下は細川藩時代の記載事項(享保前後)

寛永9年 1632 細川忠利 家光へ 八代蜜柑,献上 毎年恒例になる.

享保1年 1716

11月23日 天英院,月光院はじめ方々に八代蜜柑送る(実紀).

25日 方々に使して八代蜜柑送る(実紀).

享保2年 1717

12月2日 方々へ蜜柑をつかわされる(実紀)

享保3年 1718

11月 方々に八代蜜柑を贈る(実紀)

12月 宣紀 吉宗へ献上 今年は3度とす.又向後は毎年1回20箱宛献上のことと指示あり(家譜続).

享保4年

12月4日 方々に八代蜜柑つかわさる(実紀)

享保7年 日門,増上寺へ

享保10年 同上

享保12年以降も蜜柑献上

元文3年 1738 12,21 (吉宗) 八代蜜柑を献ず(実紀)

元文4年 1739 12,25 (吉宗) 八代蜜柑を献ず(実紀)

元文5年 1740 12,1 (吉宗) 八代蜜柑献上(実紀)

寛保1年 1741 12,19 (吉宗) 八代蜜柑を献上(実紀)

寛保2年 1742 12,19 (吉宗) 八代蜜柑を献ず(実紀)

寛保3年 1743 12,5-6 (吉宗) 八代蜜柑を献ず(実紀)

延享1年 1744 12.11 (吉宗) 八代蜜柑を献ず(実紀)

安永4年 1775

八代蜜柑の由来旧記なく相知不申.俗説神功皇后高麗より植柳村へ移す,征西将軍も賞味す,

秀吉征肥の折,同村庄屋,弥三左衛門献上,これ献上の始め(年合)

安永9年 1780

8月19日 八代蜜柑の献上,筑後原ノ町より宿継によることとなる.蜜柑の数量35箱844貫余(家譜続)

9月 八代蜜柑成実見込調査,4,2000個,35箱必要の処,本年見込28,000で14,000個不足の見込(年合).

天保14年 進上御用仏子柑不作につき八代蜜柑床仕立方達(年覚).

安永1年1772,重賢の時代になると献上残りの屑蜜柑は全て百姓へ払い下げとなった(覚).

献上した蜜柑の総数を知りたいものである.


参考資料

「八代蜜柑」についての郷土史家のブログ

加藤忠広 忠広の家系を継いだ化学者として,アセチレン重合の研究を行った加藤セチ(1893年 - 1989年、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号)がいる.

(2012/7/10)