重賢の節約令 衣服

熊本藩年表稿には次の記載がある.

寳暦5年(1755)2月21日

藩主,物頭列以上を招き諸法度の厳守,質素,倹約等につき指示,特に衣服制度に付いては細目を定め励行させる(家譜続・藩法573)

その具体的内容を,別資料の原文で紹介したい.


細川重賢の節約と倹約令


銀臺候の節約履行及訓令 注)銀臺は号

徳川時代中世の名君細川重賢は居常(普段)質素を旨とし,飲食は薄く,衣服は粗く,居所も卑陋(いやしい)に甘んじた.されば篠倉(参勤交代豊後街道 波野村?)といへる處に休憩の別荘あるを見て曰く,「身體にして疲るれば,草に枕して可なりである.何ぞかゝる館を用ふるを要せんや」と,吏に命じて之を毀(こぼ)たしめた.

又,熊本城南に三層樓のあったも,無用なりとて之を廃し, 別墅(べっしょ,別邸)水前寺村の林勝を愛し,其の幽絶の裡に身体を休めた.而して其の別墅にも,亭榭(ていしゃ,あずまや)結搆(家屋などを組みたてること)の壮麗を極むるを見て,命じて之を毀たしめ,唯だ小亭のみを存して之に憩ふた.

かく倹素であったから,某年江戸参勤の途次,江州醒ケ井(滋賀県米原市)に到って遊亭に宿した時,共の亭が頗る卑陋であったから,侍臣皆之を嗤ふた(あざけり)のを,重賢は聞き尤(とが)めていふ,「衣は寒暑を支え,食は飢餓に堪へ,屋は雨露を禦げば,それで十分である.それを思へば,此の亭の如き,假令(たとえ)陋なりとも,屋の用を缺かぬものである」と,かく言ひて晏然(落ち着いている)たるものであつた.


以上の見地より寶暦五年二月諸士を召し集めて,衣服の制度を下し,「驕奢は尤も戒むべきものであるから,自今此の制に従はせることとする.然し事急なれば反って下々の煩ひともなるから, 今より三年の間は在來の儘とし,來る己寅の八年より堅固に守る所あれ」と,かく言ひつゝ衣服の倹約令を布いたのであった.其の令文は左の如くである.

  • 士以上,衣服裏附上下,羽織袴凡て表は紬(つむぎ,綿を解いて紡いだいわゆる木綿糸),木綿を用ふべき事. 但し裏は心にまかす,軍羽織は紗綾(さや,平織り地に、稲妻・菱垣(ひしがき)・卍(まんじ)などの模様を斜文織りで表した光沢のある絹織物),加賀,日野,心に任す.

  • 獨禮以下(獨禮とは式日に藩主に謁するに當つて,單獨に進むものを謂ふ),諸役人段以上,衣服羽織袴,表裏共にすべて,布,木綿を用ふべき事.但し下着並に軍羽織は,加賀,日野心に任すべし.

  • 足軽以下,衣服,帯に至るまですべて木綿,布を用ふべき事,百姓の衣類も右同断,

  • 獨禮以下越後縮,帷子(かたびら,裏をつけない衣服の総称),絽(ろ,縦糸と横糸をからませて織った透き目のある絹織物),紋絽,羽織,絹平の袴,禁止の事.

  • 火事羽織,革,木綿用ふべき事,着坐己上,羅紗心に任す.

  • 賠臣知行取は,士席に准じ,中小姓以下は獨禮以下に准ずべき事.

  • 商家は獨禮以下に准すべき事.七十歳以上,十歳以下並に醫師, 出家は制外(制度の範囲外)の事.


資料 熊本藩年表稿(熊本大学リポジトリー) リンク先変更(2022.1.12)

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「細川重賢の事蹟」のサブファイル (2012/7/10)