「熊本藩年表稿」

熊本大学学術リポジトリ

熊本大学学術リポジトリ「熊本藩年表稿」(1974年3月)という書籍が登録され,web上で公開されている(pdf文書).注)図書館内の公開に変更されていると思われる(2022.1.12).

細川藩政史研究会編(代表者 森田誠一,共同研究者11名)によるものであり,文部省科学研究費の助成を受けた研究業績のひとつである.1964,1965の両年,細川家より熊大に寄託された永青文庫(細川家文書)を中心に数多くの資料をもとにまとめられた総合年表といえる.

本稿は, 418頁(40文字×43行)にわたる膨大な資料であり,天正15年(1587)から明治4年までの出来事を網羅している.単なるキーワード的項目の羅列ではなく,最低限必要な説明が含まれているので史料内容を手短に読み取ることができる.

以前,我家の古文書(御禮次第書法段格等之雑録 他見不相成)の中に貞享2年3月5日,向後切支丹の「支」の字は「死」の字を当てるようにとの達しがあったことが書かれていた(私が古文書の崩し字勉強のきっかけになった文書である).

原文 切支丹ノ支ノ字向後ハ此死ノ字当可申旨段江戸申来候段貞享二年三月五日被為御達候事(一部,略字の誤読の可能性あり)

ところが,この達しの元となるものを熊本藩の文書で調べようと思ったがまったく手掛かりがない.そこで,今回「熊本藩年表稿」で調べると 3月の項に「切支丹と甲文字向後はこのように書くようとの達(触)」と書かれている.「触」は触状扣頭書(永青文庫)のことである.どのように書くべきなのか,何日に達しが来たのかは書かれていない.

取り敢えず,永青文庫にも史料があることが分かった.

「熊本藩年表稿」には加藤清正時代も含まれている.

全文について,キーワードの出現頻度を集計すると下記の通りである.

熊本藩は,幕府との関係,災害対策,飢饉対策,切支丹対策に如何に腐心していたかがよく分かる.

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参勤 111件 熊本発 218件 江戸着 143件 就封 36件 熊本出発 6件 江戸出発 10件 上洛 19件

拝謁 16件 登城 143件

家康 55件 秀忠 43件 家光 42件 綱吉 46件 吉宗 51件

献上 79件 ・・を献ず 65件 八代蜜柑 55件

相続 137件 拝領 157件 改易 15件

熊本城 48件 八代城 62件 宇土城 11件 川尻 408件 長崎 211件 鶴崎 164件 南関 64件 天草 208件 山鹿 109件 小倉 76件 佐敷 97件 薩摩 44件 花畑(館)67件

本妙寺 91件 泰勝寺 19件 妙解寺 19件 藤崎宮 43件

検地 56件 検地帳 25件 許可 294件 命ず 467件 達す 220件 廃止 47件 廃す 10件 禁ず 117件

御茶屋 34件 犬追物 19件 鷹 68件 鶴を賜う 21件 賜う 63件 賜る 19件


時習館,再春館 54件

人口 28件 疫病 51件 痘瘡 15件 流行 96件


阿蘇山 72件 噴火 13件 地震 58件

洪水 182件 大水 14件

大風 95件 強風 33件

出火 117件 大火 37件 火事 89件 焼失 133件

落雷 18件 雷 54件

損毛 66件 飢 32件 不作 30件 不足 51件 虫入 23件 倹約 77件

小物成(租税の総称) 59件 損毛高 39件 破損 57件 修理 33件 金山 25件


切支丹 85件 影踏 41件 キリシタン 19件

一揆 47件

取締 83件

喧嘩 7件

切腹 13件 刎首 8件 処刑 12件 追放 37件 仕置 25件

長六橋 27件(洪水による流失,処刑に関連)

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具体例を以下に紹介した.

「阿部一族」に関連した項目

寛永18年(1641)藩主 忠利・光尚(将軍 家光)

3月17日 忠利,七ツ時分に歿す.56才,妙解院壹雲宗伍.家臣19名殉死す(度支年譜)(御奉行所日記抄出)(本藩年表).

寛永20年(1643)藩主 光尚(将軍 家光)

2月21日 殉死者阿部彌一右衛門遺子権兵衛,20日妙解院3回忌法要の時,不信の所為あり.弟4人権兵衛の屋敷に篭り,命に従わざるをもって誅伐せらる.ついで権兵衛も井出の口にて仕置あり(阿部茶事談)(本藩年表).

3月14日 阿部権兵衛召仕下々の者,の豊前の者4人,国の者8人計13人のうち,豊前以来の3人誅伐,他は放免,また従弟なども従来通りの召仕を命ぜらる(奉書).

その他 阿部弥一右衛門に関する記述 4件

「宮本武蔵 」に関連した項目

寛永17年(1640)忠利(将軍 家光)

是春 宮本武蔵肥後に来り,千葉城内に居住す(二天記).

8月13日 宮本武蔵,7人扶持合力米18石を宛行わる(奉書).

12月5日 宮本武蔵に米300石を遣わす.以後18年9月26日,19年11月8日も同様である(奉書).

寛永18年(1641)忠利・光尚(将軍 家光)

2月 宮本武蔵,三十五ケ条の兵法論を呈上す(肥後先哲偉蹟正続)( 二天記)

寛永20年(1643)光尚(将軍 家光)

宮本武蔵,「兵法五輪之書」を著す(二天記)(先哲)

正保2年(1645)光尚(将軍 家光)

5月12日 宮本武蔵,独行道を著す(二天記).

19日 宮本武蔵歿す.62才(二天記).飽託郡弓削村に葬る(先哲).

是月 五輪書 諸家 宮本武蔵

元禄1年(1688)綱利(将軍 綱吉)

6月12日 宮本武蔵の剣統を嗣ぎし寺尾求馬信行歿す.年68(先哲). 島崎 西の武蔵塚関連

古文書は,理系人間にとっては,想像できないような崩し字で書かれている.このように現代活字として読むことができるのはたいへん有難い.編集に携わった方々に感謝したい.急いで纏められたためか校正ミスがかなりある.そのため巻末に正誤表が付けられている.

八代蜜柑等の興味ある事項については別稿で述べたい.

追記 本pdfファイル (25.2 MB) は,ダウンロード後Abobe Readerで検索はできるが,文章をコピー&ペーストはできないように設定されている.Amazonで中古書籍として購入も可能である.(2012/7/7)