岳林寺雲峯山

肥後国誌に見る

熊本市が,石神山の砕石場を買い上げ,緑地公園化石神山公園する際, 我家の旧墓地(石神山の北西麓, 三賢堂の上)が用地買収された(熊本市の書類では,曽祖父と従兄弟との共同名義). 昭和初期に父が岳林寺境内に移葬したので. 旧墓地に墓参りに行くことはなかったが, 今回の用地買収は, 菩提寺である岳林寺の歴史について考えるきっかけになった.

岳林寺は, 熊本市の観光案内には「春の熊本植木市」を始めた隈本城主 城 親賢城親賢(じょう・ちかまさ ? ~ 1581)の墓があるところとして,また, 夏目漱石の「草枕」の冒頭の舞台として紹介されている. また, 岳林寺は天平年間に創建されたとも書かれている. 島崎に育った者の一人として, そこまで遡った話は聞いたことがない. そこでいろいろ調べてみると, 肥後国誌に記載がある. 肥後国誌は大正5年(1916)に九州日日新聞社から出版されているが, 明治18年出版の肥後国志水島貫之熊本明治震災日記の著者)がもとになっている.

注)肥後国誌は近代デジタルライブラリーで閲覧可能

岳林寺は, 奈良時代(天平年間)に創建されたが衰退し, 慶長年間に禅定寺の顕岩宗允和尚が中興開山し, 爾来,末寺になったと書かれている. 延寳二年(1674)には,この一帯は坂崎清左衛門成政(綱利治世,延宝5年1677,10月23日, 家老, 慶安3年, 1650,佐敷番代)に與えられたため, 屋敷内に位置することになった当寺は, 替地を與えられ現在の位置に移転したということである. その際, 城 親賢の墓も子孫により石神山東南隅から岳林寺へ移されたと考えられる(緑字部分参照). 現在の寺境内とは異なる場所に墓地が存在していた事実は寺自体が移設された事実とよく符合する.

天平寳字年間(757-765)に建立したという資料の出所については判然としない. 熊本市のホームページやその他のウエブ情報は, すべて肥後国誌に由来するようである.


以下に肥後国誌の内容を記した.

「肥後国誌」の島崎村の項に記載されている岳林寺関連事項


岳林寺雲峯山 禅洞家府の禅定寺末寺なり. 天正九年(1581年)隈本城主越前守親賢(或記親政賢政國訓相同)建立之寺内親賢墓石あり. 或記に當寺は廢帝の御宇(帝王が天下を治めている期間)天平寳字(757-765)年中艸創(草創,創建)初は律宗也云々. 衰廢に及ひ慶長(1596年-1615年)年中禅定寺二世顕岩宗允和尚再興し中興開山とす. 爾来,末寺に属す. 延寳二年(1674)此地は野屋敷となり, 坂崎清左衛門成政(注)に賜ふ. 當寺も屋敷内に加るにより為替地今の地を賜ふ. 依之寺を此地に移す. 本尊観音なり境内一反三畝廿七歩の内六畝十八歩は免許, 余は年貢地なり.


注)坂崎清左衛門・成政,細川家臣。三齋に属し、元和九年頃、供之者。千三百石。(豊前御侍帳)

追記 熊本藩年表稿,延宝5年10月23日 坂崎清左衛門成政,家老に列す.


城親賢墓 岳林寺にあり. 城越前守親賢の墓石なり(親賢か父,親冬墓は玉名郡広村徳栄寺にあり. 城氏の事熊本古城の條下に出). 銘に岳林寺大檀那城越前守親賢霊峰道威大居士天正九年(1581年)十二月廿九日卒云々. 石神山東南の隅に葬と見えたり. 亦云此古墳は艮(丑寅)隅の山阿(山の入りくんだ所)にあり延寳年中(一説天和元年)故ありて當寺内に改移す.

(補)事蹟通考系図に云,法名霊峯道威葬石神山東南隅延寳二年仍孫(自分から七代後の子孫)出田某移建島崎村岳林寺云


禅定寺

禅定寺とは-辞書辞典解説@JLogos(Google に保存されているキャッシュ)を転載

熊本市横手1丁目にある寺。 曹洞宗。 山号は玉竜山。 本尊は釈迦牟尼仏。 開山の宣安明言は肥前国有江城主有馬修理太夫義純の三男とも, 義純の弟とも伝える。

天正・文禄年間頃,肥前江東寺から肥後国へ移り, 立田村の天台宗の古刹寿福山常楽寺を禅院として再興。 宣安を尊信した加藤清正の重臣並川志摩守が大檀越となり, 自分の茶屋を古町に引き移して一寺を開設, 禅定院と号し宣安を開山とした。 当時の寺地は現在西流寺のある西阿弥陀寺町22番地という。 たびたび火災にあったため,町中を避けて現在地の横手へ移転,現山寺号に改称した(肥後国誌)。

一方,「陣迹志」では, はじめ西岳山禅定院と号し, 宣安が慶長2年に入寂すると, 益城郡田代城主の子息顕岩宗允が2世を継ぎ, 3世の融山長祝の時, 境内が狭いのを理由に, 並川志摩守と佐々備前に頼って寺地移転を加藤清正に願い出て現在地へ移る。 並川志摩守が堂舎を再興して山号も玉竜山と改めたとあり, 寺地8反7畝15歩のうち年貢免許地5反3畝9歩が認められた。 その後,檀越の寄附で寺地は1町以上になると記される。 3世融山は寛永12年に示寂, 並川志摩も同7年に故人となっており, 禅定寺の移転はそれ以前のことと考えられるが, 融山の時代であれば元和2年以降となり, 加藤家では2代忠広時代のこととなる。

江戸期の本寺は長門国大津郡大寧寺で, 島崎村岳林寺や高森村含蔵寺など9末寺をもった (延享度曹洞宗寺院本末牒)。 山門は二層で屋根は入母屋造り, 2階部分は外に勾欄を巡らし, 内側は格子造りである。 「肥後国誌」も「大門ハ宇土城ノ城門也」として, 注に「宇土廃城ノ後志摩守挽之テ寺門トナス, 今ノ大門也」と記し, 「肥後見聞雑記」にも「同寺外之かぶ木門ハ宇土城ニ有シ黒門也シ, 宇土落城之節並河持来テ建ルト云, 於于今其節之柱其外瓦等迄残レリ」とある。 ただし宇土落城は慶長5年, 宇土廃城は同17年のことで, 移築されたのは後者の時とみられる。 門前の観音堂は当寺8世湛然の代, 並川志摩守の霊屋を移転したもので, 普応閣と名付けられた(肥後国誌)。 山門両脇の長屋には右側に三十三観音石像, 左側に肥後三十三観音石像が並び, 下方には長禄4年在銘の六地蔵竿石がある。 加藤家の重臣並川志摩守・三宅角左衛門・庄林隼人佐・同淡路・南条玄宅・同元信などの墓石があり, ほかに細川家の重臣槙島家や平野家歴代の墓も並ぶ。 また幕末・維新期に活躍した上田半田(休兵衛)・白木為直の墓と墓碑銘・墓道碑もたてられている。

境内裏手を流れていた旧井芹川は祓(しめ)川とも呼ばれ, 寺裏の地は深い淵になっていて, 河童の伝説があり, 大旱魃の時はこの淵で鐘巻と称する雨乞が行われた。

肥後国誌に見る禅定寺の歴史(拡大 クリック)

禅定寺の文化的,歴史的価値(新聞記事)

禅定寺の墓地の一部を通る県道の建設計画があったが,調査の結果,文化的,歴史的に貴重な資料であることが判明したため,見直しが検討される予定である.

計画段階で検討されるべき事例であることは明らかであり,縦割り行政の弊害と郷土史に疎い役人が多くなった典型的な例である.

禅定寺の記事 加藤・細川家の家臣団の墓 建立時のまま現存「貴重」(新聞記事を掲載しているブログ)


関連リンク

島崎 石神山今昔 - Harano Kazunobu Web Site

?石神山公園周辺のストリートビュー

大きな地図で見る


(2012.6.14)


追記

熊本市は, 石神山公園をつくる際, 造成予定の用地内にある墓地の整理に関する通知を近くの道路脇に立看板を立てて公告していた.

一般的に, 一定の期間内に申出がない場合は, 市の所有地になるようである. 身内の者が公告に気付き申し出たので, 交渉に入ったが, 市の担当者は墓地の用地所有者のリストを持っていた.

知っているなら市の方から, 個別に交渉を申し出ればよいのに, 公告だけで済ませようとするのは納得がいかない.