135年前の同志(西南の役の戦友)

135年前の同志(西南の役の戦友)

135年前の曾祖父の同志(西南の役の戦友)が見つかったようである.

父方の曾祖父(原野則旦)が西南戦争に熊本隊(西郷軍)の一兵士として参加したことは以前紹介した.

ところが,近くに住んでいた則旦の従兄弟(原野利一,注1,2)や母方の曾祖父(緒方熊次郎,明治3年弥五七かから家督相続,注1)の名前は「丁丑感旧碑」(西郷軍に加わった全員の氏名が記載されている)に見出すことはできなかった.

注1)両名とも有禄士族基本帳に記載がある.注2)原野利一の住所,第四大区四小区島崎村二八五番宅地,明治4年亥作から家督相続,柏原弥九郎旧臣. 石神山公園造成の際に原野家の旧墓地の土地は則旦と利一の共有の名義であることがわかった(父が昭和初期に岳林寺境内へ移葬).

曾祖父は一人で島崎村から健軍神社へ馳せ参じ出陣したのかと思い,いろいろ調べたが,手掛かりがない.熊本城の真下を通って健軍神社までは最短で9キロの距離,前の年(明治9年)には神風連の乱があり,城下は不穏な空気が漂っていただろう.維新前は仕事場であった城郭に駐屯している官軍の目を避け夜陰に乗じて遠回りして駆けつけたのだろうか.妻と6歳の長男(一男,祖父)を残し屋敷の石段を駆け下る時は,永の別れを覚悟したはずである.

第四大区四小区嶋崎村326番の旧屋敷から段山へ通じる道へ下りる石段

父は大正6年までこの屋敷に住んだ.

現在,跡地は宅地化され雑掌や苔に覆われた石段,門柱だけが60年前に見た旧屋敷の風景を思い出させてくれる.

曾祖父の当時の住所(第四大区四小区嶋崎村三百二十六番屋敷)を手掛かりにWEBで調べていたら,下記のエッセイに米良左七郎という人が第四大区四小区島崎村三一五番宅地に住んでいたことが書かれていた.しかも西南戦争に参戦した事実も記されていた.

エッセイ-米良四郎次と屯田兵(1)

エッセイは米良家の子孫である小山次男氏(ペンネーム)の筆によるものである.

「・・・・その後左七郎は、明治十年に勃発した西南戦争に熊本隊として西郷軍に合流し参戦。大口方面の戦いで戦死している。熊本隊は熊本鎮台の軍(明治新政府軍)ではなく、池辺吉十郎を隊長とした不平士族一五〇〇人に よって組織されたものであった。このとき左七郎の屋敷は、熊本城にほど近い第四大区四小区島崎村三一五番宅地にあった。」

さらに,次の記述もある.

「明治九年(一八七六)八月二十日、左七郎から家督を受けた四郎次の兄亀雄は、十月二十四日に熊本で勃発した明治新政府に対する士族の反乱、神風連の乱に参加し、翌日に自刃している。」

「四郎次は、兄亀雄の自刃から一年後の明治十年(一八七七)十一月十九日(除籍謄本では同月三日)、十二歳で家督を相続している(「改正禄高等調」熊本県立図書館蔵)。」

「明治二十二年七月、妻と三歳の長男義陽(同十九年七月十四日生まれ)、それと生後五カ月に満たない長女榮女(同二十二年二月十三日生まれ)を伴って、熊本を発っている。屯田兵に応募し、札幌の篠路(しのろ)兵村、つまり第一大隊第四中隊へ入隊すべく出発したのである。 」

当時の住所から判断し,ごく近い隣人であったことは間違いない.ここまでわかった時点で,さっそくエッセイを掲載している所属先(?)の会社経由で本人に連絡をとった.

135年前に想いを同じくした同士として政府軍と戦ったことは間違いないという主旨のメールをもらった.米良佐七郎氏は戦死し,家督を継いでいた長男は前年神風連の乱で自刀し,次いで家督を継いだ四郎次氏は屯田兵として北海道に渡ったとのことである.その時の様子がエッセイ-米良四郎次と屯田兵(2)に書かれている.島崎に別れを告げ妻子と共に旅立たれる時の光景が目に浮かぶようである.菩提寺も我家と同じ岳林寺である.旅立たれた直後,熊本は大きな地震に見舞われた.明治22年7月28日のことである.(2012.3.18)

岳林寺

曹洞宗の寺.

戦国時代末期,隈本城主 城親賢の墓がある.

現在の建物(山門,本堂等)は昭和の時代に改築された.

資料

米良家は、二代勘助の代に三百石の知行を拝領し、三代市右衛門のときに赤穂義士堀部弥兵衛金丸の介錯を勤めるなどしたが、その後知行を返上するなど紆余曲折があり、十代左七郎のときに一五〇石で明治維新を迎えている。(エッセイの原文を引用)

WANTED - 津々堂のたわごと日録(そのコメントを参照)

明治維新前後の熊本の動き(治世,変革への対応)を手短に知るための資料

熊本県の歴史 - Wikipedia

熊本明治地震について

明治22年熊本震災_市街地の被害

熊本明治震災当日の様子

明治22年熊本地震(液状化の有無)