(Rally)Monkey Time! (2002.10.27)
Rally!大活躍でしたね!
思ったことは“沢山”あります。
まず、今年のシリーズは“接戦”は多いのですが昨年と比べて“シビレる”ような展開がなかった。「やはり“ヤンキース”がらみでないとあのような試合にはならないのかなぁ・・・」なんて思っていましたが今日のは“シビレ節”でした。
結局ポイントはベイカー監督の投手交代。それまで好投していたオルティーズを、まだ失点ゼロなのに(しかも5点差があって)交代させた。
これの“是非論”じゃないんですよ。(もう“結果”が見えてますからね、“非難”は誰でも出来る)
昨日、“たまたま”《江川 対 金森》について触れましたよね。オルティーズを降板させた時、あの時を思い出したんですよ!藤田さん、“焦った”んですよね、あの時。「これで“勝った”!」と。
今日のベイカー監督にもそれと“同じ”ものを感じたのです。
ホント、勝負は「ゲタを履くまで分からない」ものです。それまでは「やはり“若さ”で負けたエンジェルス」なんてコメントを用意していたんですが、逆転すると「これが“若さ”の強みか」なんてね。実に《無責任》なものです。(笑)
要するに《若さ》というのは強みであり弱みでもあり、《勝負》というのはこのような“一語”に因果を集約出来るほど単純なものではなく“複合体”なんですね、勝負って。(だから、勝因や敗因の分析は間違いではないが、どれをとっても「それだけではない」が必ず付く。しかも勝ち負けの“要因”というのは単独で存在しているものではない。有機的に結び付いている。それを“単体で”分析しても無意味。「ヒットの構造」などというのが無意味なのと全く“同じ”)
ベイカー監督は「人事は尽くした」と言えるでしょう。しかし降りた《天命》は望んだ方向のものではなかった、と。
今年のSFというチームは、とにかく“バラバラ”な構成要員をいかにまとめあげるか、というのが眼目で、ベーカーでなければここまで来るようなチームには仕上がらなかったのではないでしょうか。
“個人”(のわがまま)をスベテ受け入れる!
それがボンズやケント、そしてダンストン、更にはベイカー自身の《子供》のベンチ入りに現れているような気がします。選手に“たが”をはめることなく“自由”に振る舞わせる。このようなバラバラ集団をまとめるには“これ”しかない。(ソーシア・タイプなら選手との軋轢が凄かったでしょうね)
「DIRTY DOZEN」のような“ならず者集団”の映画がアメリカには多いですが、このような場合は縛ったり囲ったりすると失敗します。“バリア・フリー”がいいんですね。最後はどうなったとしても《ベイカーの手腕》というのは高く評価されると思いますよ。
新庄ではなく、飽く迄も“経験”を買っての《ダンストン》起用は先制ホームランというカタチで結実しましたし、やはりベイカーの目は“確か”です。(新庄は“守備固めの選手”という評価も正しい)
今日もまた《ボンズ》に触れない訳にはいきません。
もう“唖然”ですね。「ボールが真ん中」も何も、関係ないですよ。あれだけ歩かされて、少ない打撃機会で、それを“ホームラン”にするなんて芸当、ベーブ・ルースでもハンク・アーロンでも出来ませんでしたよ。“今の”バリー・ボンズはメジャー・リーグ史上《最高》の打者です!!!
私はボンズ選手に感じるのは、弾丸を《一個》しか入れていない拳銃を持って歩く“ガンマン”を感じます。
「一球で仕留める!」
“初球”だろうが“10球目”だろうが、「勝負は一球」。
以前、落合さんの凄い時にも“これ”を感じました。(弾が一発しか残っていない時の“マタギ”が、熊に出会った時、というのを例えとして文章を書きました)
そういう場合の《集中力》。
選手の集中力が“そこまで”高まってしまうと、投手というのは(無意識に、吸い込まれるように、打ちやすいところへ)投げてしまうのではないでしょうか。
(そういう時に、《投手の失投》とか、トンチンカンなコメントで水をさすのはやめて欲しいですね。打者側の“集中力”がいかに高いものであったか!これをカイセツすべきです)
しかし!無造作に見せて大きくまとめているベイカー采配も、神懸かり的なホームランを増産したボンズも、
《RALLY MONKEY》
には勝てなかった。(笑)(rallymonkey.com というのがあるのには笑った!)
彼のfavourite groupは(もちろん!)“MONKEES”なそうですが、彼らのヒット曲に、
「I'm A Believer」というのがあります。(最近、テレビのCMでカバー・バージョンが流れていますね)
冗談ではなく、人間最後の最後は、
『祈り』
しかないんですね。つくづく感じました。