『《アミーゴ・ガレージ》観察日記・観察日記/その4』
今回の中心は《落合・清原騒動》。あれが二ヶ月前とは月日の過ぎるのは早いですね。“燃えました”な、あの時は。(^_^)
それにしても益々一般の人にはナニガナンダカわからないモノになって来ましたねぇ。
談志師匠
談志師匠の『蟇の油』でオモシロイ話しがあります。
12月の《SOMIDO寄席》、主任の談志師匠が花緑の『蟇の油』を聞きながら「へたくそ、俺の客の前で蟇の油をやるんじゃない」と言ったとか。(その後花緑にアドバイスをしたそうですが)
こんな裏話、ここで紹介していいものかは少し判断に悩みましたが“サーフィン”で偶然見つけたもので、インター・ネットの醍醐味の一つとして紹介してみようと思いました。(場所は自分で探すのがこれまた“サーフィン”の醍醐味であります)
この話題の提供者氏、今日は談志師匠から映画の『軍曹さんには暇がない』と『くたばれヤンキース』に両方出ていた役者は誰だ?と質問されてインター・ネットの検索で苦労していましたね。因みに『軍曹さん~』の原題は“no time for sergeants”、主演はアンディー・グリフィス。『くたばれ~』はグエン・ヴァードンとレイ・ウオルストン。その“両方”に出ていた役者っていたかなぁ???私はその『軍曹さん~』が未見なので彼に情報をあげる資格がありません。歯痛でほっぺたが膨らんでいるところへ実にオキノドク。
背番号
『背番号・四股名論』は以前にスポニチにも書いたものです。清原の《5》、何か“違った”印象を私は受けました。早く“打つ”ところを見たいものです。
また石井の《6》も以前とかなり違った印象を受けましたね。清原も石井も『3』でしたね。そして落合さんが今度はその《3》。
今回の騒ぎは、結局『“背番号3”をめぐる騒動』であったようです。(これも“因縁”か“妄念”か“執念”か(^_^))
リンク
問題の《ヤフー検索》ですが、それ以外にファン関連の相撲のページにシッカリとリンクされていたことも一連の“非公開騒動”の一因だったようですネ。(もっともここはリンクを許可したところですから問題はありません)
なるほどこれでは“相撲のプロ”のような人からメールが舞い込むワケですワ。
この《アミーゴ・ガレージ》は“ナイアガラー”である限りはリンク・フリーが“建前”。書籍関係からのリンク依頼が時々ありますが、全てお断りしています。(“一般”を相手にしたら《築地の路地裏》が実現出来ませんからね)
あのように“非公開”のような異様なスタイルを取るにはそれなりのワケがあるんです。(それはイチイチ報告するようなものではないし、私のとった行動から、分かる人には分かる、と思っています。が“分からない人”には「ファンをいたぶって楽しんでいる」という風に見えることもあるカモしれません。もっとも単純なhtmlミスも“深読み”する人もいるようで、なかなか“いい具合”というのはムズカシイものですナ)
文章指導
いやはや“指導”とはこちらこそ“恐れ入り”ですが、昨今、このインター・ネットを考えていて特に感じることがありました。
以前にも書きましたが『“関係”のあり方』についてです。
家庭では“親子”。学校では“先生と生徒”。会社では“上司と部下”。そして“アーティストとファン”。
これらを全て《上下》という概念で捉えているのではないか、ということです。(《上司と部下》なんて、“上”と“下”という漢字がシッカリと入っていますし《生徒》には“従う”が入っていますからネ)
現在“会社のエグゼクティブ・クラス”といわれるジェネレーションはまさに“私”たちの世代です。
パソコンのお店に行くと、棚の前でじーっと腕組みしている同年輩を見かけます。
彼等は「何をどうしていいのか分からない」が「何かをしなければならない」という使命感でああしているんでしょうね。
会社にいけばオタク調に詳しい“部下”がいるハズです。
しかし“上司”は部下には聞けないんですね。目下の者に教えを請うというのは“恥”なんです。体裁も悪いし威厳もなくなる。
そう考えているんでしょうね。
そして休日は家に籠って参考書と首っ引き。(これがものの見事に分からない。だって天下のコンピュータ関連会社が「どうして“取説”が解り難いのか?」と翻訳者に聞いた、というハナシがあるくらいですからね。初心者が数日で解ったらむしろそれこそ“異常”)
「自分は“上”にいる」というような“意味のない”プライドは“先を進む”にあたっては障害になりますね。昨今会社のリストラ・ブームは、経費節減だけでなく、単にそれまでの“経験”だけを売り物にしていて、もはや“先”を読む力のなくなった人を追放しているという側面もあると思われます。
さて《上・下》は見た目にも分かるものですが、これを《主・従》という概念に置き換えてみます。
結局はコレも“上下関係”なんですね。
必ず何かこのような“収まりのいい”構造にはまらないと落ち着かない、ということがあるのではないでしょうか。(あるいは“関係”を持った時点で、意識無意識に拘わらずこのような“構造”にはまってしまう、というか)
『ファン=“主従”の《従》』というのが、まあ世の中の、一般的なあり方なんでしょうね。70年代に「『カレンダー』を聞いて“もうついていけない”と感じた」と言われたこともあります。
『シベリア鉄道』では“ついて行くのに疲れて”という文句もありますよね。
まさにコレなんです。
私に言わせると「“ついて行く”という“気分”が“疲れ”を呼ぶ」です。
「同じ方向に向かっている」。あるいは「歩いていたら“たまたま”行く方向が同じだった」という考え方はどうでしょうか。
特に“後者”は〈はっぴいえんど〉の時がそうでした。(“ナイアガラ”に関しては全てコレでやって来ましたから“ストレス”を持った経験がありません。音楽関係も人間関係も。大体私はエルヴィスにもスペクターにも“ついて行った”というガイネンを持った覚えがありませんから。エルビスの家に行きたいとも思わないしスペクターに会いたいとも思ったことがない。でも両者とも“愛して”いますケドね。頼まれたワケでもないのに(^_^))
“ついて行く”や“待つ”はとにかくストレスの原因です。また物事を“否定的”に捉えてしまいます。(『岸壁の母』のように帰ってこないムスコを一生待つ、というのも一つの“人生”ではあるのでしょうが)
要するに自分で“向かえばいい”んですね。
あとはその方向がどうなのか?同じなのか“同じよう”なのか?あるいは“違う”のか“違って来た”のか。
“上下”“主従”からの脱却。横の連携。
これを『観察日記』と『観察日記/観察日記』で“公開”して行きたい。
とこういうワケです。
まあそろそろ編集部もこの連載についてはアタマを痛めているでしょう。(^_^)どこまで続くか分かりませんが、ま、あるうちはヨロシクお願いしますヨ。
“文章”では少々カタイ感じになっていますが“気楽”にネ。(オフやろうよ、オフ。藤脇君!会費ぐらい捻出してヨ。苦しい?台所?)
《巨人ー中日OB戦》の詳細なレポート、楽しみました。行きたかったなぁ、最後のナゴヤ球場。
だんだんキャンプ・インが近づいて来ましたねぇ。清原・松井などのの特打のシャシンを見ているとムズムズして来ます。(オープン戦が始まったら一緒に見に行きましょうか)
今年はセ・リーグは“巨人”だけ。(^_^)パ・リーグの方が面白そうなのでそっちに入れこもうかなぁ、と思っています。