相撲と私
text by Eiichi Ohtaki
相撲と私
text by Eiichi Ohtaki
野球とくれば“相撲”。これは「弥次さんと来れば喜多さん」や「アキラと言えばジョー」、更には「“おせん”と言えばキャラメル」「“おしん”と言えばピン子」とすぐに“連想”される〈付きもの〉のようなものです。
因みに《連想》こそナイアガラを解くキーワードであることはナイアガラーなら既に御存じのことと思います。連想方式にはいろいろあります。古典的には“芋蔓”が有名ですが、ナイアガラ方式には三者で行う“阿弥陀連想”というものもあります。(これには“布谷文夫的なるもの”の存在が必要です)
そもそも。
話は変わりますが“ナイアガラー”にはどうして“男性”が多いのか? これは〈はっぴいえんど〉以来の《伝統》なのです。なぜか?
大体女性なるものは《そもそも》などという書き出しで話しを始めるという“伝統”を持ちません。この《そもそも》は“男性の専売特許”なのです。
女人禁制
つまりナイアガラは“基本的に”『女人禁制』なんですな。近々ラジオ館にラジ関時代の有名人を紹介しますが、20年経った現在でも“独身”を続けているオールド・ナイアガラーが多いとのこと。彼等はナイアガラ・ワールドが『女人禁制』であることに気づかなかったのか、知り過ぎたのか。(;_;)
こう言うと、萩原健太夫人であらせられる、小学生の時からのナイアガラーを誇る能地祐子氏は「それじゃナニかい?アタシャ、女じゃないって言うのかい?」というセリフを発せられるかもしれません。
数行前を見て下さい。“基本的に”と書いてあるじゃアーリー大瀧詠一。いつでもどこでも何でも《例外のないものはない》のです。(能地さんは特に“例外”という語に相応しいと思いますヨ)
最近経験した例を一つ。NHK-FMで“イバリー・ブラザース”を聞いて“EVERLY BROTHERS”を知り、わざわざアメリカにレコードを買いに行ったほどの経歴の持ち主のナイアガラーが、結婚してもなお、自分が“ナイアガラー”であることを一切奥さんに話していなかった、という話しを聞きました。
自分がいかに強力なナイアガラーであったかを突然話し始めた彼の横で奥さんは「あなた。そんなこと今まで一言も言わなかったじゃないの!」というセリフを連発したとか。
また佐野史郎御夫妻のように、『ナイアガラ・ボックス』を始め、全てのナイアガラものを“夫用”“妻用”と別けて同じものを持っている、というケースもあります。(私はお二人の『ナイアガラ・ボックス』にサインをしました)
ことほどさように、ナイアガラーは男・女の区別がある“らしい”のです。
え?《相撲》はどうなったって?
野球では、最近も観月ありさが神宮のマウンドに立ちましたが、相撲では未だに“土俵”に女性が立ち入ってはいけないのです。(以前、女性官房長官が“女権拡張”の意味合いからどうしても「立つ!」とゴネて問題になりました。土俵に立つことと“女権拡張”をリンクさせているうちは本当の女権は拡張しないと、個人的には思うのですが...)
つまり、ナイアガラと相撲は《女人禁制》の一点で共通性がある、と言えます。ですから相撲を語る上で、これを“まくら”にしたのです。
こう書きますと「大瀧詠一は、一見ものの分かったような人物に見えるが、内実は“男権”に固執する古いタイプの権威主義者だ!」と“一部”の女性から叱責を受けるかもしれません。
これは“甘んじて”お受け致しましょう。(昨今の方々は〈否定表現〉に“異常”に弱いですね。この《禁制》なる語句の深い意味を捉え切れないのでしょう)
しかし《そもそも》という書き出し・言い出しで始めると、何故か“女性”は積極的に聞いてくれないことが多いように感じるのですがいかがでしょう。(“独身”ナイアガラーは、ここで“ズキ・ズキ”)
「ナイアガラーに“独身”が多い」根本理由は“ここ”にある!と私は睨んでいます。(^_^)
それでは“ナイアガラー諸君”、よろしいかな。(枕、終わり)
相撲と野球
そもそも。
“相撲”は古墳時代の遺跡から“相撲人形”が発見されていることから分かるようにその歴史は“結婚式でのオッサンの祝辞”よりも長いのです。
『日本書記』に「七月七日 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)と力くらべをせしむ」とあります。ここから数えても1300年以上の歴史があることになります。この《野見宿禰》が“相撲の祖”とされ出雲大社を初め各地で祀られています。
ベースボールが輸入されたのは明治です。“誰が持ち込んだのか?”には諸説あります。英人、米人、宣教師、英語教師と様々あり、結局“ガイジン”ということだけは確かなようです。
《野球の名付け親》にもニ説あり、〈野球(やきゅう)〉と翻案したのは〈中馬庚(ちゅうまん かなえ)〉なそうですが、その先輩にあたる《正岡子規》が〈野球〉という語を作り“雅号”にするほどの相当なベースボール・クレージーだったそうです。(子規の本名が“のぼる”だったので“の・ボール”と読んだとか)
なにはともあれ、御用心。野球の歴史はたったの100年チョットということです。
〈相撲と野球〉と一口に並べても〈1300年 VS 100年〉という“歴”の差があるワケです。(だからどうだ、と言っているのではありません。“1300年”とはどんなものだろうか...と一息入れて見るのも肩のコリをほぐすのにいいのではないかと)
インドア派とアウトドア派
私は基本的には“インドア派”です。というのも“母一人・子一人”でしたからいわゆる〈カギっ子〉のハシリとも言えるのです。(カギっ子とは両親が共稼ぎで留守番をするところから言われたもので、マスコミに取り上げられたのは63年のこと)ですから一日中ラジオを聞いていたり、蓄音器を回していたり、漫画雑誌を読むのが“日課”でした。(漫画界は〈少年派〉〈画報派〉〈倶楽部派〉などと別れていましたが、私は“全部”購入しておりました)
《ナイアガラ野球館》に「小学校5年の時に転校した」と書きました。転校の経験のある人なら分かると思いますが、夏休み前までは自分も相手も“探り”の状態が続き、すぐには打ち解けないものなのです。自分の“手の内”も最初から全ては明かせません。徐々に溶け込んで行く、あるいは溶け込まずに次の場所に移る、というのが転校の大方のパターンではないでしょうか。
野球部にも自分から入ったのではなく〈クラス対抗野球大会〉というのがあり、そこでホームランを打ったことがキッカケでした。
今ではどうか分かりませんが、校庭というものは、どういうワケか“長方形”の学校が多かった。野球部が校庭を使用する。“右打”が多い。となると左打ちにとって校舎(フェンス(^_^))が近いということになります。
ソフト・ボールでしたが、力任せに打ちあげたら校舎の屋根にバウンドしました。その時の審判が野球部の先生で「野球部に入れ」と“命令”され、その日の放課後に私用の“ファースト・ミット”を購入しに野球用具店に連れて行かれたのです。(足が遅いことを既に見抜かれていたようで“ファースト”以外は守れないとの直感だったそうです)自分から入る意志など全くなかったのですが、この先生の電光石火の攻撃で“野球部員”となってしまったのでした。
もちろん“嫌い”じゃありませんから、入部したのですが、もともとはインドア派の証拠に、当時エポック社から発売された《野球盤》は二台持っていたのです。(バージョン違いのもの)
更に私の“自慢”(^_^)はもう一台、エポック社以外の珍しい野球盤を持っていたことでした。(社名を忘れました)エポック社のものはレバーを引いてボールを投げる方式でしたが、私の持っていた三台目のものは“空気式”で円筒からボールが出るのです。投げる方はゴムまりのようなものをつまむ。更に方向が右左に動かせて、打席の前方に磁石が二個埋められている。つまりカーブもシュートも自在に投げられたのです。この野球盤は楽しかった。
野球もインドア派からアウトドア派に移行しましたが、ナント!相撲にもそのような歴史が私にあります。
私の相撲アウトドアの歴史は“行司”から始まりました。(“らしい”デショ)教室や体育館で昼休み時間に行われる相撲の時、もつれた試合は必ず“喧嘩”になるのです。そこで全員の“指名”で“行司”をやりました。(;_;)これがラジオをいつも聞いていたのでうまいんですな、間の取り方が。それで“行司は私”という定番になったようです。(実は自分から“仕切った”という説も)
野球部に入部した時、キャッチャーが実に体格のいい人物で、彼は相撲部のキャプテンも兼ねていました。(後で聞いた所によると、高校に入ってから全国大会に出たとのこと)秋の相撲大会で、相撲部員の一人が急病、急遽“私”に白羽の矢が立ったのです。友人のキャプテンからの依頼と実はこう見えても私はクラスの相撲大会で結構いい勝負をしていた、という“実績”もあったのでした。(“力士”(^_^)になったのは、「行司ばっかりやっていてオマエは口だけのヤツだ!」と“批判”されたのがキッカケでした)
これが〈大瀧相撲部在籍秘話〉の内実ですが、私が相撲大会に出場したことを、クラスの担任は笑って信じてくれませんでした。
話変って、我々のアソビの定番に“ビー玉とメンコ”がありました。メンコに描かれているのは子供のヒーローでしたが、中には今で言うなら“マイナーな存在”のような力士や選手もいて、詳しいとか詳しくない以前に、子供の世界に“日常的に”野球や相撲が存在していたのです。インドアでは“紙相撲”(トントン相撲)も流行しましたが、漫画雑誌の附録に必ず付いて来たものです。
私は野球ゲーム同様“自分なり”のものを考案し、力士の顔写真を貼りつけて、更に“まわし”にはカラー・ビニール・テープを巻き付けるという独自のものを作りました。
手にしているのは“朝潮”ですが、単純に一番大きな写真だったからです。“大仏の構え”をしているところがミソですね。CMスペシャルの裏ジャケットの構図は既にここにあったと言えます。大きな写真は吉葉山、千代の山、若羽黒、鏡里等ですが、たまたま大きな写真があっただけのことで特別な贔屓ということではありません。中に引退してプロレスへ行った“力道山”がいますが、私の相撲ゲームには“力士”として存在し続けました。(このへん、沢村投手がいた野球ゲームのココロと同じです)
一般的に紙相撲は“指”でトントンやるものでしたが、私の場合は箱を使って、棒を差し込み、土俵の中心点を下から叩くというものでした。力士の四つ身の得意を調べて“右四つ・左四つ”に組ませて下から叩く。これが面白く動いて時々〈うっちゃり〉などが出て興奮したものでした。(もちろん、自分の“実況入り”です)土俵を細かくチェックすると分かりますが、細かいワザとして“特俵”もあります。
そして箱土俵の上で《土俵入り》をしているのが“若ノ花”です。(太刀持ち・露払いは若ノ海と若秩父)
若ノ花と私
私が相撲に入り込むキッカケは1956年(昭和31)の映画『土俵の鬼(若ノ花物語)』でした。(考えて見ると小学二年の時、だったのですね)
この“若ノ花”は現在の“若貴”の叔父さんです。(花田勝治さん。前二子山理事長)この時はナント!横綱を目の前にしている時で、しかも“自分”が出ているんですよ、セリフありで。(これが“笑える”)しかも相手役は石原裕次郎夫人となる“北原三枝”でした。
今で言うならば、横綱を目の前にした貴花田が宮沢リエとの婚約騒動がありましたが、あの時に自分が主役で映画出演するようなもで、現在では300%考えられないことです。しかし相撲に限らずあの時代にはこのようなことが普通にありました。良い意味で“アメリカ的”とも言えるダイナミックな時代で、現在の方が体形や風俗は外国人チックになりましたが、内容は非常にドメスティックなチマチマした文化が増えているように私には思えます。
この映画で“子供心”にグッと来たのは次のようなエピーソードでした。
横綱獲りの九州場所直前、若ノ花の長男・勝男ちゃん(4)がチャンコ鍋をひっくり返して熱湯を浴びて急死するという不幸に見舞われます。その場所では数珠を首に場所入りし、12日間、霊が乗り移ったように勝ち続けました。(相手がやりにくかった、という事実は反面にあるでしょうが“入り込んでいる”時の力も相当なもので、今ビデオで見返しても片岡千恵蔵の机龍之介のような“殺気”を感じます)
ところが13日目に突然発熱。それでも「出場する!」と言い張りますが意識がはっきりせず入院。この場所の成績は12勝2不戦敗1休みとなって優勝出来ず、横綱は“お預け”となってしまったのです。
映画『若ノ花物語(土俵の鬼)』はこの“実話”を即映画にしたのです。先程も言ったように“本人主演”でです。スゴイでしょう、このダイナミズム。“現在の大衆”のようにチマチマと文句を言わなかったのですね“当時の大衆”は。(“マスコミ”と言い換えても意味は同じですが)
1958年(昭和33年)、長嶋の後楽園デビューより数ヶ月前、若ノ花は第四十五代の横綱に推挙されたのです。(四十五♪四十五♪)結局〈私の野球と相撲〉はこの“昭和33年”が一番重要な年だったのですね(59年にはコニー・フランシスの「カラーに口紅」と出会います)。
また漫画にも『若ノ花物語』というのがあり、同門の先輩・力道山にしごかれて琴ケ浜と一緒に脱走するエピソードが書いてありました。私の場合“力道山絡み”の“若ノ花ファン”なんですね、実は。“栃錦”も嫌いではなかったのです。ところがどうもこういうタイプは少ないらしく、世の中は〈若ノ花ファン=アンチ栃錦〉、〈栃錦ファン=アンチ若ノ花〉と完全に二分されていました。栃錦の部屋の“栃ノ海”も大好きで、野球同様ワザのキレル力士なら誰でも好きだったのですね。この《栃若時代》と長嶋入団によるプロ野球ブームが“同じ時”だったことも我々の世代にとって〈野球と相撲〉がセットとされる要因だったと考えられます。
《栃若時代》での一番の語り草が60年春場所の両者共14戦全勝での千秋楽対決。なんと“千秋楽全勝対決”というのはこの時が大相撲史上“初”のことで凄い盛り上がりでした。(しかし、この年の夏場所に栃錦は引退し、これが最後の“栃若戦”ともなりました)
ルーキーで二冠王の長島、横綱に昇進した若の花、ブルーリボン新人賞を受賞した石原。この33年の大当たり三人男に、稲尾(日本シリーズ最優秀選手)、朝汐(九州場所優勝)、山本富士子(ブルーリボン主演女優賞)、三船敏郎、有馬稲子とスポーツ、芸能界のスターが顔を合わせた(34年1月1日付けの報知新聞の企画)
1961年、若ノ花の同門で稽古をつけて来たニ所ノ関部屋の大鵬が柏戸と共に横綱となり《柏鵬時代》が到来し、62年に若ノ花は引退します。(二所ノ関部屋の力道山に稽古をつけてもらった若ノ花が、その二所ノ関の大鵬に稽古をつけた、ということです)最後の土俵入りには太刀持ちを大鵬が、露払いは柏戸が務めました。
この時にまたまた私は転校するのですが“相撲クレージー第一期”が終ると共に《ポップス時代》が始まりました。それは本当に偶然でしたが、若ノ花の引退と共に自分の心の中に“空席”が出来ました。そこへ“ポップス”が登場、それまで野球・相撲に入れ込んでいた情熱がそのまま雪崩込んで行きました。
ですからプレスリーもビートルズも、更には作曲家別の分類という“徳俵”まで、私の“ポップス・ゲーム”の中にはあるのです。
〈中略〉
貴ノ花と私
プレスリー・ビートルズという、ポップスの中でも強烈なものをリアルタイムで浴びた60年代、野球・相撲からは少し遠ざかっていました。(特に柏鵬時代の相撲はあまり見ていません。野球はV9の6年目ぐらいまでですね、見ていたのは。後半は「もういい加減に他のチームに勝たせてやれ!」という気分でした)
相撲に再び注目し始めたのは65年、当時水泳でメキシコ・オリンピックのホープと言われた若ノ花の“実弟”花田満くんが水泳を諦めて角界入りした、というニュースを聞いた時です。テレビを見て驚きました。顔がソックリなんです。兄弟だから当たり前と言ってしまえばそれまでなんですが、更に体つき、特に足腰の構えが同じだったので、もうファンとしてはたまりませんでした。いつもハラハラさせられる“サーカス相撲”でしたが、トントン拍子にスピード記録を達成して出世、68年に十両入りしました。
この時は3時からテレビの相撲中継を見て、十両が終わると切る、という変則的な見方をしました。本名の“花田”が四股名でしたが、いつ〈若ノ花〉を名乗るのか、ファンとしてはそれが最大の興味の的でした。
〈はっぴいえんど〉がファースト・アルバムをリリースした直後の70年九月場所。この“花田”が〈貴ノ花〉となって入幕、当時“不敗横綱”と言われた大鵬に初挑戦で勝ち一躍脚光を浴びます。更に翌71年五月場所でも破り、この場所で大鵬は引退を決意します。
若ノ花に稽古をつけてもらった大鵬としては、いつかは引退するワケですから、若ノ花の弟に引導を渡されたのなら本望だったのではないでしょうか。(因みに〈若ノ花-大鵬〉という取組が以前になかったのは、当時“同門”同士の取組がなかったからです。《完全部屋別総当たり制度》が実施されたのは65年1月。この制度になったので〈大鵬-貴ノ花〉戦が実現したのです)
そして長嶋監督が誕生し、福生スタジオの最初のアルバム『ナイアガラ・ムーン』が作られた75年の春場所、北の湖を決定戦で破り“初優勝”。この時はテレビのスピーカーがビリビリ言って、大声を出しているアナウンサーが何を言っているのか全く聞き取れないほどの、まさに館内“割れんばかりの”大歓声でした。“感動のピーク”という意味合いでは相撲史上《双葉山の連勝ストップ》に匹敵するものだったのではないか、と私は思うのですが。(双葉山の時には“タバコ盆”が飛んだという記述があります)今でもこの時のビデオを見ると同じ興奮が蘇って来て、つい力が入ってしまいます。
貴ノ花初優勝の時に一番注目を浴びたのは〈優勝旗授与〉でした。賜杯授与は時の理事長・栃錦の春日野親方でしたが、優勝旗は理事だった“兄”、つまり“若ノ花”が直接手渡したのです。
貴ノ花が大活躍していた時期と福生スタジオが“アクティブ”だった時期が全く同じで、場所中の午後5時から6時の間は仕事そっちのけで相撲を見ていました。この時に〈相撲の見方〉を山下達郎君に“伝授”(^_^)したのです。
アルバム『ロング・バケーション』が発売される2ヶ月前の81年1月。その〈貴ノ花〉に引退の時がやって来ました。そして私の“相撲クレージー第二期”も終了し、80年代《ナイアガラ第二期》(ソニー時代)が始まったのです。(このようなめぐり合せが“野球-相撲-私”にあって、80年10月は例の“長嶋解任事件”でした)
若貴登場
そして87年『ナイアガラ・ブラック・ブック』をリリースして、一応アナログ・CD共全作品をラインナップ出来た時点で《ナイアガラ第二期》が終了。翌88年春場所、ついにあの“兄弟”が初土俵、私の“相撲クレージー第三期”が始まったのです。
この時は衛星放送で午前中の試合を見て、後は消す、という変則パターンでした。
名前が《勝》のお兄ちゃんは、あの『若ノ花物語』での4才で亡くなった若ノ花の息子“勝男君”を思い出してしまいます。(年齢的には“貴ノ花”がその存在だったのですがね)この若貴兄弟は、若花田は若ノ花、貴花田は貴ノ花になることは入門の時からのレールでした。この二人を見届けるまでは死ねない、という気持ちになりました。(表現がいつも大袈裟なのが私の特徴です)
そして92年の初場所、《夢のまた夢》という“貴花田初優勝”の時がやって来たのです。土俵下には父の貴ノ花。そして今度は“賜杯”を若ノ花の二子山理事長が手渡したのです。(因みに、この92年10月には、もう一方の“夢のまた夢”であった《長嶋復帰》が発表されました)
今年で《花田家ファン歴》は“40年”です。現在では、最初のアイドル横綱若ノ花は“花田相撲博物館館長”。大関貴ノ花は“二子山親方”。貴花田は“横綱・貴ノ花”、若花田は“大関・若ノ花”になっています。
それにしても若貴共に子供は“男の子”ですよねー。ウーム。間に合うでしょうかね、私の人生...。