『《アミーゴ・ガレージ》観察日記・観察日記/その2』


 今月のタイトルは『〆切直前、トンデモない事実が発覚!』とのこと。発覚したのはどんな《事実》か。

 10月8日より20日間更新なし! と思いきや、実は、特例的な禁断の「更新」が延々となされていたのであった

 大瀧氏の仲間内だけで楽しむための「更新」のため、このページのことはメイン画面には告知されていない。いわば、公開された“隠れキャラ”か。野球好き必読の内容である。



ウーム。“members only”と書いたのに、やはり読んでいたのか。(^_^)《禁・口外&言及》と書いたが、彼は「“内容”は口外していないし“必読の内容”というくらいは“言及”してもお咎めはないだろう」と考えたのか。

 10月7日/昨夜は何の変化もなかったが、徹夜明け状態で朝っぱらからアクセスしてみると、なんとダブルでUPDATE! <資料館>の本のところと<ガラクタ>。ふたたび、エスクァイアの後日談。これまたかなりの文字量で参りましたよ。雑誌対談記事のかつてない楽しみ方を提示されたような気がする。眠かったけど、面白いので読破してしまった。



細野さんの「雪やコンコ」が入っているCDが発売された。この1曲だけ取り上げてこのアルバムを語るのは友人及び先輩としての細野さんには失礼になるのかもしれないが、私は前回書いたような“因縁”から、最初にこの曲から聞いた。

 私の想像した《三平 VS 痴楽》。当たっていた。

 三平さんの落語は“小話”を次々と繰り出していく手法。痴楽さんのは一筆書きのようにニョロニョロと続けていく方法。

 文節文節に切れ目のある、隙間を十分に意識したアレンジは細野さんの以前からのお得意のパターンであり彼の“特色”。

 一方の私の多羅尾バージョンは“息つぎ”がない。聞いていて“苦しい”。隙間が全くなくフルに埋められている。

 作品の“出来”からいえば細野作品は形としてシッカリ出来上がっている。一方の私のものはデモ・テープのような貧弱さを感じる。

細野作品の雪は“都会に降る雪”。大瀧作品の雪は“ドッサリ積もる山の雪”。細野はポツン、ポツンと降りてくる雪と戯れている。大瀧は雪を蹴って滑っている。

 お互い、そんなことを意識的に強く押し出そう、という意図はなかったハズなのに“色濃く”出ている。

 《比較の楽しみ》とはこういうことなのだろうか。

 10月15日/しばし更新がない。何となく、中5日ペースで2連投という感じの様子が見えそうだったが、今日で前回より6日経った。で、この日ついにアクセス数が1万の大台に乗る(引っ越し後のカウント)。大瀧さんは「カウンターは別にいらないかと思ってたけど、まあ励みになるから付けたんだよ」と言ってたっけ。

 ところで、選挙が始まって、NHKラジオでも政見放送がはじまり、『 ラジオ名人寄席』がお休み中。何たることだ。ラジオ番組も、ときに“不定期”の様相を見せるものなのだ。10月19日/ 前回の更新から10日以上が過ぎた。私は「毎日起きたらアクセス…」が日課になっているのでこの状況は“ちょっとツライんだ…”である。アクセス数はどんどん増えてるけど。



そう。『名人寄席』がお休みになっていたのは私もガッカリだったけど、この間、私は東京にいなかったので逆に好都合だった。

人間、「ある」という現実が続くと「(いつも)あるものだ」という“前提”を無意識に持ってしまう。(これを“期待”と呼ぶ)

 《アミーゴ・ガレージ》は不定期だと分かっていても「“ある”ものを“ない”と思えないこの人間の“性”(^_^)」。

 これをナイアガラ格言で《期待は 失望の母》という。“中5日”が二度続き、その後“6日”とたったの一日多くなっただけで人間“不安”に陥る。10日過ぎたら“ツライ”状態となる。(原稿のネタがないからね(^_^))

 つまり《期待》も《不安》も、受け取る側の“自作自演”である。更に『観察日記』なるものは、基本的に“相手本位”。自らは《隷属》の立場に置かれる。それが“ツラ”くする原因でもある。

 人間。どんな状況でも“縛られる”のは窮屈なもの。(望んでそうしたい!という人も中にはいるらしいが(;_;))

 『宵待草』じゃないけれど“待つ身はツライ”。なぜツライ?

 《待つ!》からだ。

 ツライ状態から解放されるには簡単だ。“待たなきゃいい”んだよ。

 外野守っていてもボールが飛んでこないものを、百年待ったって飛んできやしない。

 どうするか?

自分で打てばいいのサ。

一人で野球やるのなら“外野”守ったって野球にならないよ。“守る”ことなど考えずに“打て”ばいいのサ。打って打って打ちまくる。スッキリするよ。

 《アクセス・カウント》だけど。

 私は基本的には付けたくなかったのよ。以前NIFTYでもPC-VANでも“番号鳥”と称して、普段は書き込みが少ないのにキリのいい番号近辺になると短い書き込みだらけになる。

 私はああいうのはシュミではない。

 お前は“励み”を認めないか?

 「認める」。

 が、“自分が”番号を取ろうと近辺になるとリロードを繰り返すということには何の意味合いも認めない、ということだ。(“心理”は分かるが)

 私が“好きな”パターンは、例えば999番になったとして「1000番になる次の人はラッキーだな。どんな人なんだろう」と思ってリロードをしない、というのが私の“美観”。

 「何を体裁つけてんだ」とか「イザとなりゃお前だって分からないサ」と、思う人間は(イヤな意味合いで)大人だと思うけど、私の分類では下衆に入れることにしている。

 但し!“心理”は分かる、と言った。

 だからキリのいい番号の直前でリロードする人間を“非難”はしない。

 が、ソレが“現実”だから《カウンター》付けても“無意味だな”と思った、というだけ。

 「でもやっぱり“励み”はあった方が」という助言に賛同して、つけることにした。(一度は《003》というカウンター画像を作り「なんだ、たった3人しかアクセスしていないのか」というメールを頂いたこともある)

何事も“数値に置き換えないと判断できない”という人が多いうちは“好き”になれそうもないな、カウンターは。(ただ間違いやイタズラの“監視”という意味では必要と思う。《アミーゴ・ガレージ》の“セコム”である)

 ひょっとすると広い“世の中”だから心優しい人がいて「カウントが増えれば大瀧の励みになるだろうから増やしてやろう」という努力型の積極人間がいるかもしれない。そういうタイプの方々のタノシミを奪うことになるかもしれないが、私は“外的な要因”で自分の方向を決めることはしない。(“ダシ”に使うことはある。が、ダレソレが辞めたとかどこが勝ったとか負けたで《自分の行動》まで決めるホドのイカレ者ではない。そういう話しを聞いたことがある、というのならそれは「話しを面白くするためにその時の“演出”でそう話しただけ」。例え枕で「本当のことを話す」といったとしても“本当の本当の本当の本当”は“絶対に”いわないし、またこんなところにも書いたりもしないから、安心して欲しい)

 10月28日/うーむ。今日で20日間更新なし。編集の内山さん、どうしましょ?

 10月29日/編集長と夜中に“野球太郎”の件(注)で長電話してたら、トンデモな事実が判明。彼が言うには「大瀧さんのページ、野球のところが更新されてたよ」!?早速アクセス。うわ、すげえ量だ。なんで?俺はこの20日間何やってったんだ! 内山さーん、マジにどうしましょ?



この《野球太郎》は内山君や高橋君が関係している野球のホームページ。“西鉄の旗”の“カラー”を見たのは、私は、初めてかもしれない。(映画も『野球界』も『週間ベースボール』も殆どモノクロだったからね。見た事があったのかなかったのか。それにしてもアリガタイものを見せて頂きましたヨ)

ま、このやり方は高橋君にはキノドクだったな、と思っています。

 「チョットぐらいは知らせようかな?」という気持ちが1%(仏心)は起きましたが、ここで“甘く”してはガチョンの修行にならない。

 だって「キビシイことは承知の上で始める」といったのだから。

ナイアガラに《定型》 はない。決ったことだけやるのならこんなヤクザ商売になどなっていない。《不定期》は“不特定”でもある。“不意打ち”をくらうのはどこかに“安心”のある証拠。

 多分、ここで彼は“自発”なるものは“無償の行為”(“隷属”ではない、という意味で)に近いものであると気づいたのではないでしょうか。

 “やらされている”と思うからおっくうになるし、注意力も散漫になるし、身にもつかない。何でも“自発”だと考えて《日常の一部》にしてしまえば注意力も増す、と。

 以前《生活向上委員会》(略して“生向委”(^_^))というグループがあった。彼等は普段は“墓掘り”を職業としてた。

 インタビューアーがいった。「“墓堀り”とは“珍しい”職業ですね」

 彼等は平然と答えた。「いや。回りは“全員”墓堀りだから、我々にとっては珍しい職業ではない」と。

 全くだ。

 彼等には墓掘りは“日常”。《異常》と見たのは、何でも“自分”を基準にする人、何でも“数の多さ”を基準にする人、“常識”から逃れられない人。

“異常”と思えるものでも自分で《日常》にすればラクである。

 「相手の文字数が少ないと自分も少ない」という現状こそが“異常”であることに、高橋君はこれで気づいたはずだ。自分の文字数の少なさを“相手のせいにして”自分に甘えていたことも。

かくして来月号の『観察日記』は一挙に文字数が増える。(先に見せてどうすんだヨな(^^ゞ)

 「相手を“観察”するということは、それを“観察している自分を観察”すること」と気づいたからだ。(単に相手を観察する“だけ”ならストーカーと大差はない)

将来的に、《アミーゴ・ガレージ》がなくなっても彼が『観察日記』を続けたとする。心の中で架空の《アミーゴ・ガレージ》を想定して。

 その時の文章をオリジナルと呼ぶ。