『《アミーゴ・ガレージ》観察日記・観察日記/その3』



 ついに!《アミーゴ・ガレージ観察日記》が1ページになりました。前回小さいコラムになった時、気の弱いファンは「なくなるのではないか?」と心配したそうです。

 諸君!“こんな”雑誌をそう“買いかぶって”はイケマセンぜ。(^_-)単に“字数”を埋めているだけの《欄外》記事のオン・パレード。そのうち、このコラムだけでなく、本自体の“厚さ”が薄くなりますよ。(そんなに“悪く”いうこともないのですが(^_^))

 ま、冗談はこのくらいにして、編集部はこの観察日記の売り文句をアミーゴ・ガレージを“執拗に”観察する異色コーナーとしてきました。

 この《執拗に》という語句を敢えて持ってきたことに“座布団”。

 今回のヘッダは『まさか、このコーナーまでが“アミーゴ・ガレージ”で取り上げられるとは……!「大瀧さん、どうもすいません!」。今月はオモテとウラの更新が微妙に重なり合って、一瞬たりとも目が離せない“盗み読み”に明け暮れた日々が続いたのでありました』でした。

うーむ。“執拗に”“盗み読み”かぁ。

 やっぱりストーカーだな。(^_^)

 天下の「大滝詠一」からメールが届いただけで有難きこと。一応ファンである同居人もこの事実に驚いていた。大リーグ史上最後の四割打者、テッド・ウィリアムズが、引退試合でファンに挨拶しなかった理由について、作家ジョン・アップダイクが書いているそうだ。<神々は、いちいち返事を書かないものだ>と。いくら原稿チェックが「仕事上の必要連絡事項」とはいえ、その<返事>が来ちゃったたようなもんだよ、これは。たぶん。



高橋君が、私と同じ様に、もともと“大袈裟な”タイプなのか、あるいはナイアガラーになったことでそういう言い回しを身につけるようになったのかは分かりませんが、いかに大袈裟に語るか!というのはナイアガラーの必須条件なんですよね。テッド・ウイリアムスを引合いに出して頂くとは光栄の限りですが、高橋君がいかに“野球ファン”であるかということですね。

 私の場合『ぼくは“神々”じゃないよ』とばかりにあちらこちらに“直”で顔を出して、しばしば相手の方々をTILT状態にさせるのが悪いクセなんです。

「何も答えず」に隠れていた方が“神秘性が増す”、なーんてゲートーはワタシには不似合です。(“意外”でしょうか?)

 隠しネタのコーナーに新たな原稿が登場。あくまで、建前上は“非公開”だが、野球好きの私にとっては面白すぎる内容だ。それにしても、いつもながら膨大な文章量には恐れ入る。改めて、「忙しい」人なんだなと思う。



この「忙しい」が、感心されたのか皮肉なのかは分かりませんが、私はどちらでも構わないたち・ひろしですから安心して下さい。(「」で分かれ!って?(^_^))

 これを《非公開》にしたのには様々な理由があります。書くと長くなるので要点をいうと、日本では定着していない“公”というガイネンとまたまた戦わねばならないから“非・公”としたのです。

 《公》という言葉と《パブ》が“別けられている”うちはこのガイネンが定着したことにはなりません。真のPUBであるなら“ルール”、あるいは“しきたり”があるはず。

 そういう“前提”のない人に“突然”飛び込まれても困る、ということです。

 しかし、《タコツボ化》するのなら何もインター・ネットなどにホームページを持つ必要もない。

 そこであのような“手法”を思いついたのです。これを“編み出した”時は自分でもスゴイと思った。(^_^)

 こうなるキッカケは、「ナイアガラが何かは知りませんが」という出だしで野球や相撲を私に語って来る人が、ほんの少しでしたが、紛れ込むようになったことからです。詮索してみると、何とあの《ヤフー》に、別にこちらが申請したワケでもないのにオススメで登録されているではありませんか!

 しかもキー・ワードは《相撲》《野球》

 そりゃないゼ!セニョール!かぁちゃん!グラッチェ!

ナイアガラの“前提”(ルール)なしに突然“野球”と“相撲”で入り込まれてもナー。「これから楽しみにしております」なんていわれてもこっちは別にアンタのタノシミになるつもりなんて更々ないからナー。

 「何か“違う”んじゃないかな」

 と思ったのでああいう“手法”を考えた。

 イチイチ私のやることには“理由”があります。(これも“防御”から編み出したもの。縄文の血を濃く引いたせいか“攻撃”は不得意で“共存”が得意みたいです)

 今日の新たなネタは日米野球第2戦観戦の感想。私も編集長とともに観戦していただけに、リアリティ&リアルタイム度がびんびんに感じられる。「ノモの凱旋」についてどのメディアでも言ってない(言う頭をもたない)ことが書いてあり、読んでいて何とも痛快であった。小宮山の大げさなリアクションや、清原のホームランに関する話などはわれわれも試合後に飲みながら話してたことと同じだったのでウレシイ。



 “小宮山”投手のあの“ポーズ”ね。見に来た人に“見せて”いるんじゃないか、ネー。それをマジになって「あんな打って下さいというボールを投げて」なんてコメントするヤボな監督もいるし...。(このオッサン、この後日本中に己が“ヤボ”なことを御披露しちゃったんだよね、ワザワザ)

 よくね、「プロ野球はショーでもあるが勝負事だ」といって、いかにも“勝負”が全てに優先するようなことをいう人がいますが、これはドシロートのセリフですヨ。

 《本物の勝負》をショー化出来て初めてプロ。あのセリフは《ショー》に出来る力量がない人物の“言い訳”なんです。

 清原のホームラン。私はレフトのポール際だったので、いかにもその打球が自分に向かって(自己中心主義だから、ワタシ)「来年はこのドームで打ちまくるデー」といっているように見えたのヨ。(^_^)数年前には西武球場で野茂の応援をしていたんだけど、清原がホームランを打った時は喜んでいたのでした。(三振した時も喜んでいたケド)

 イチローがケガしたイスについては、「どんなイスなんだよ。そんくらい勢い込んで座ったのかね」などと議論したが、大瀧さんのようにイスの粗末さに“日米”の差を語るまでには至らなかった。



 観客の椅子も、小さいし、粗末だしね。ヘンなところにお金をかけて肝心なところを手抜きする。第一、関係者も選手も“同じ”というのが考えられない。“億”の高級取りが、家に帰れば豪華なソファーにデンと座っているのに“戦場”である肝心な野球場の備品が粗末。

 基本的に“びんぼう”なクセに目先だけに金かけている。竜頭蛇尾。“底が浅い”ことをこの“椅子の粗末さ”に見てしまうのヨ。

 野茂がメジャーとなった“幸せ”は、もちろんレギュラーを勝ち得たというのが一番なんだけど、細かい配慮をされているからだと思いますよ。

 また“尊敬”があるしね、向こうは。どうして日本から《尊敬》が消えたんだろうね。「そんなに“尊敬”できるヤツなんていない!」というかもしれないが、それにしても《失礼と率直の区別》がつかないヤツが増えましたな。

 尊敬しないことが“美徳”であるような風潮が生まれたのは70年代前後からですが、私が見る限りでは「先輩も(やり方が)下手だし、後輩も下手」ですね。(我がナイアガラは“例外”ですよ。後輩が“良くできている”人物たちですからね。マジよ、これ)

 11月5日/実に久々のオモテの更新。で、私は大瀧さんの宣告どおり、すっかりタメゴロー状態になった。なんと、この観察日記の観察報告がなされているではないか! 



白夜の人にはプレッシャーをかけることになるかもしれないけど、《アミーゴ・ガレージ》の“更新”がこれから更に少なくなるのでネタを与える意味もありました。

 幸い喜んでくれたようで安心しました。私はどうも“TILTを呼ぶ男”のようで“逆効果”を恐れていたのです。

11月9日/朝日新聞掲載の大瀧さんの文章が載る。朝日とってるのにすっかり見落としていた。“アミーゴ・ガレージ”の更新だけに気を取られ過ぎの証拠だ。



 橋本内閣組閣の記事の脇でしたからね。ですから“意外な”ところから「読んだヨー」と連絡を頂きました。

 このように今までもいろいろなところへチョクチョク出ていたんですが、出方に一定の法則がない。地方局に突然出たりとかね。

 で見逃したり、聞き逃したり、買い逃した人に限って“声高”に語るんですよネ。これは自分の“不注意”を恥じるべきだと思いますよ。自分のミスを棚に上げて「再掲載しろ」「再放送しろ」「再発売しろ」。

“気持ち”は分からないでもありませんが「いつまでもあると思うなナイアガラ」です。(コレも“マジ”に取る人、多いみたいだねー。大体“七五”調で語ること自体シャレなんだけど、本当に“余裕”のない人って実際多いんでしょうか?)

 ウッカリと、あるいは必然的に“取り逃した”のなら、それは自分の“失策”(=運命)と考えて、それなりの“代償”を覚悟する以外にないのですよ。

 その(経済的、あるいは精神的)“代償”を支払うのに文句があるのなら、支払うことをやめればいいんです。何も“(国家的な)義務”じゃないんですから。

 常に《ある》という方向から“だけ”考えているから《ない》となると異常な状態になる。

 「ないならなくてよい」

 という“諦観”を持つことも大事ではないでしょうか。(「それなりに」というヤツ)

 11月11日/冷たい雨の降る夕方、西麻布で仕事上の待ち惚けをくらう。とぼとぼ歩いていると、交差点角の花屋に大瀧さんのCDチラシが張られているのを発見。ほかにも音楽関係のポスターなどがグチャグチャと張られている。どういう店主なのか…。結局、2時間も待たされた挙げ句に仕事は中止。寒いし、頭に来るしでバスなんか待ってられなく、タクシーを拾う。乗った途端に、トコトントンとお囃子の音がラジオから流れてきた。ちょうど橘家円蔵の落語が始まったところだった。くだらないオバサン向けギャグも妙に可笑しい。運ちゃんも思わずボリュームを上げる。ちょっと救われた気持ちになって帰宅。落語といえば、しばらくNHKラジオの落語を聴いてなかったと思い、メシを食いながら聴くことにした。今日は金原亭馬の助による『小言幸兵衛』という一席。



 テーマは“落語”のようですが、実に長い“枕”ですナ。だんだんナイアガラ流になって来た証明でしょうか。(^_^)

 私の落語に対する考え方は以前にも述べましたが、簡単にいえば“聞くもの”というより“使うもの”です。知恵の宝庫であり、例えの宝庫。すぐに使えますよ。(使う人次第ですけどね)

 私は落語を“研究”するという態度にはイマイチ馴染めません。特に落研出身には学生相撲の限界に似たものを感じます。何か一生懸命になって“落語”を自分のものにしようと“努力”している。これでは「落語家に“なる”」ことは出来ても「落語家で“ある”」とはならない。

 最近つくづく感じるのは落語(話し)を聞いているのではなく“その人を聞いている”のではないか、ということです。

 確かに一番重要なのはストーリーですが、語り手に“魅力”がないと、いかに面白い話しでもこちらの体内に入ってこない。

 話し方が上手でも、その人間に“魅力”がなければ残るものがない。逆に、人間に魅力があれば話の内容はどうでもいい。(は少し“乱暴”ですが)

 落語家を目指すなら、噺を覚える前に“人間”を磨く方が先じゃないですかね。

 『小言幸兵衛』ですが、圓生さんのバージョンでは「バアさんや、羊羹を出しな、羊羹を。あー、そんなに新しいんじゃなくて、あー明治3年のものがあったろう」とやります。そして“何もそこまで古くなくても”と笑いを誘います。興が乗った日は「“文化文政年間”のものがあったろう」とかなり“古物”を出して来ます。

 大家に気に入られたら新しい羊羹が。気に入られなければ“出ない”し、少し気に入られても“文化文政年間”のものから出る。

 この《観察日記/観察日記》は“羊羹”としては結構新しく“昭和33年”あたりのものだと思うのですが...どうでしょう。

 《縁側文化》の羊羹。実に“示唆的”です。

 11月12日/落語づいていた昨日は今日の前兆。今日は念願の古今亭志ん朝の「生」を観に行く。わざわざ横浜まで来た甲斐があった。これまで映像では何度も観ていたが、やはり生は違う。テレビでは必ずカットされているまくら、これがかなり辛辣なことを言ってるじゃないですか。いつも談志を一緒に観に行っているI氏も同意見。彼も生の志ん朝は初めてだ。落語のほうは、極まった芸ここにありという感じ。実に幸せな気分になって、中華街で大いに飲み食いした。



 そうなんですよ。やはり《生》なんですよね、何でも。

 だからね。芸能やスポーツだけでなく《情報》も“生”でなければ意味がない。

 生の中で“格闘”することによって得られる“実体験”がありますよね。あれが《知恵》を生むモトなんですよ。

 それを《結果》(=死体)だけを追い求める、あるいは囚われるといつまで経っても同じ事のくり返しになります。

現在の世の中は、録音・録画が発達し過ぎたせいか“過去”に囚われる人間が増えました。つまり“相手が動かない=自分は安心”の死体愛好家が増えた、という気持ちワリー状況になっています。(“生きた”人間の相手が下手なのは何も巨人フロントだけではない)

 あまりこんな所で“喧伝”する結果になるのも気が進みませんが、志ん朝さんの枕に驚かれましたか。(志ん朝さんの“良さ”は“喧伝”とは逆の方向にあると思うので)そういえば三田村邦彦が宮沢賢治を演ずるにあたって「気性の激しい人だったと聞いて驚きました。イメージが違って」といっていましたね。

 志ん朝さんを《金松梅》のニコヤカなおじさん、と、ついついTVからそういうイメージを植えつけられているのですね。

 11月13日/ガラクタ・コーナーに大瀧さんのパソコンが大クラッシュを起こしたと報じられる。えっ?ハードディスクが6ギガ!? 早速、編集の内山さんに電話すると、「6ギガですかあ。一体何のためにそんなに…。凄いというか、狂ってますねえ」とただただ驚愕していた。



 dosの時代、90年前後には320mbのMO(リバーシブル640mb)を所持しており、2台をリンクさせ「ラスト・ドライブが“P”!」と自慢していた時もありました。(何の“自慢”だぁ!って?)

 現在、実際は7ギガ+640mbリムーバブルMO+外づけCD-ROMドライブ4台。であります。(^^ゞ (MO取り替えればもはや∞)

何してるって?

 「狂ったように忙しい!」(^_-)

 P.S.

 《いとうまいこ女史》に嫌われた“らいたあ”って、誰かね???(^_^)

 それにしてもこの『インター・ネット・マニア』は《アミーゴ・ガレージ》のこの“ラガクタ館”ソックリですね。藤脇君。(^_-)