野球と私
text by Eiichi Ohtaki
text by Eiichi Ohtaki
⚾️右投・左打(1958年)
1948年生まれの少年にとっての三大プロ・スポーツと言えば《野球・相撲・プロレス》でした。
私が〈プロ野球〉に本格的に入り込み始めたのは9才の1958年。神宮のスーパー・スター〈長島茂雄〉が巨人入りした時からです。(あと二年で“野球観戦歴40年”ということになりますね)
この58年は《野球と私》にとって記念すべき年でした。私の利き手は“右”です。(麻丘めぐみちゃんに好きになってもらえないのが残念)ですから野球でも“右投・右打”でした。ところが、いつも野球をやる空き地のレフト側に川があり、大きいのを打つとボールが川に入るので困っていたのです。
すると、一人が知恵を出しました。「右打は左で、左打は右と“逆”で打とう。そうすればボールを取りに行かなくて済む」と。確かに逆の打席では遠くへ飛びません。最初はゲラゲラ笑いながらの楽しい野球となりました。しかし、ボールの件はそれで落着しましたが、私はこのアイディアのおかげで、「何とかして逆打ちをマスターしたい」という気持ちになったのです。(ついでに《両投・両打》を目指したのですが、“左投げ”は途中で挫折しました)
ということで、投げるのは右、打つ方だけ“左”になったのがこの58年でした。(篠塚や田尾・掛布、そして現在の広島・野村、前田。そしてあのイチローの“先駆”ということになります(^_^))
写真は左に変更した当初の写真で、まだ構えにギコチなさが残っています。(当時のプロ野球ではこの打ち方は少なく、レギュラーでは大毎(現ロッテ)の八田選手ぐらいなもので、巨人の森捕手(前西武監督)もこの打ち方でしたが、この頃はまだ“控え選手”でした)
この《右投・左打》というのが、実に“ナイアガラ”を象徴しているような気がするのは...私だけなんでしょうネぇ。
⚾️サンデー・マガジン(1959年)
翌1959年(10才)、初の子供向け週刊誌『少年サンデー』と『少年マガジン』が創刊されました。『サンデー』の表紙は野球の長島。『マガジン』の表紙は相撲の朝潮でした。(最初は“附録付き”だったのが、重すぎると国鉄(現JR)からクレームがつき、両誌とも附録を廃止して出し直すという一騒動になったのです。今で言えば、ゲームの新製品騒動に似ていますが、“子供もの騒動”のハシリでした)
この後〈漫画〉は更に“爆発的”に若者に広がり、〈サンデー派〉と〈マガジン派〉とが出来たのですが、私は創刊当初から“両誌”を“購入”しておりました。(^_^)
因みにこの年は“週刊誌ラッシュ”で、『週刊ベースボール』『朝日ジャーナル』『週刊現代』『週刊文春』『週刊漫画サンデー』が相次いで登場しました。
⚾️12球団帽子
私はこの年に“転校”したのですが、移った学校の先生から“右投左打は珍しい”と気に入られ、強引に野球部に入れられてしまいました。左の写真は早朝練習の時のスナップですが、この当時より“早起きは苦手”で、かなり眠そうな顔をしています。(構えはこの年が最後となった“打撃の神様・川上哲治”を真似ているつもりです)
右の写真のこの“帽子”に着目して下さい。ここにはナント! “12球団のマーク”が書いてあるのです。 もちろん自分で書いたのですが(絵心はありませんね)真ん中の〈DM〉は大毎オリオンズ(現ロッテ)。〈CO〉に見えますがこれは〈CD〉で中日ドラゴンズ。その右の〈K〉は国鉄スワローズ(現ヤクルト)。真ん中左の〈TO〉は何のつもりだったのか思い出せません。(“T”で考えられるタイガースは“TH”か“O”、大洋(現横浜)は“W”か“TW”ですから、“東映”(現日ハム)のつもりだったのか?)
ま、それはいいとして、その〈TO〉の左横に〈YG〉があります。未だに“巨人ファン”ではありますが、どうも“ストレート”な巨人ファンとは言い難いかもしれません。
⚾️王選手の一年目
そして今回、この写真の“裏”を見て初めて気がつきました。そこには「王さん、打って下さい 栄一」と10才当時の私の字が書いてあったのです。
“右打”だった時のヒーローは文句なく〈長島〉でしたが、“左打ち”に変えてからのお手本は前述の〈川上〉でした。しかし58年、〈神様・仏様・稲尾様〉の“奇蹟の西鉄逆転日本一”で巨人が優勝を逃した時に引退を表明。空いたそのファーストのポジションを継いだのが“甲子園のヒーロー・早実のエース”王貞治でした。
この時に私の“左打ちのヒーロー”は川上から〈王〉に移ったのです。後に“世界のホームラン王”となる王選手は、この59年がデビューでしたが、なんと開幕から“連続27打席無安打”で、球場では「王! 王! 三振・王!」とやじられていました。(“無謀なファン”が増えている昨今、もし今の時代に王選手が登場していたら“世界の王”は誕生していないと断言出来ます。当時の水原監督は辛抱強く王選手を使い続けましたが、それは“観客が(シブシブながらも)それを許した”ということでもあるのです)
王選手の新人一年目は193打席でたったの“31安打”。三振が“72”! ホームランは7本打ちましたが結果は“1割6分1厘”でした。(それでも約“200打席” も立ったのですからね)
その打った7本のホームランの中の“1本”が、あの《天覧試合》での1本です。あれが最初の〈王・長島のアベック・ホーマー〉でした。(“アベック・ホーマー”とはスゴイ“造語”ですが(;_;)長島引退試合でも最後は“アベック”で飾りました)
とにかく最初は打てない王さんでしたが10才の私は“期待”して“応援”していたのですね。それがこの写真の裏書だったのでしょう。(《アミーゴ・ガレージ》を作らなければ、自分のことながら、この事実は一生思い出す事がなかったでしょうね。そういう意味からもこれを始めたことには意義がありました)
⚾️王選手の一年目
そして今回、この写真の“裏”を見て初めて気がつきました。そこには「王さん、打って下さい 栄一」と10才当時の私の字が書いてあったのです。
“右打”だった時のヒーローは文句なく〈長島〉でしたが、“左打ち”に変えてからのお手本は前述の〈川上〉でした。しかし58年、〈神様・仏様・稲尾様〉の“奇蹟の西鉄逆転日本一”で巨人が優勝を逃した時に引退を表明。空いたそのファーストのポジションを継いだのが“甲子園のヒーロー・早実のエース”王貞治でした。
この時に私の“左打ちのヒーロー”は川上から〈王〉に移ったのです。後に“世界のホームラン王”となる王選手は、この59年がデビューでしたが、なんと開幕から“連続27打席無安打”で、球場では「王! 王! 三振・王!」とやじられていました。(“無謀なファン”が増えている昨今、もし今の時代に王選手が登場していたら“世界の王”は誕生していないと断言出来ます。当時の水原監督は辛抱強く王選手を使い続けましたが、それは“観客が(シブシブながらも)それを許した”ということでもあるのです)
王選手の新人一年目は193打席でたったの“31安打”。三振が“72”! ホームランは7本打ちましたが結果は“1割6分1厘”でした。(それでも約“200打席” も立ったのですからね)
その打った7本のホームランの中の“1本”が、あの《天覧試合》での1本です。あれが最初の〈王・長島のアベック・ホーマー〉でした。(“アベック・ホーマー”とはスゴイ“造語”ですが(;_;)長島引退試合でも最後は“アベック”で飾りました)
とにかく最初は打てない王さんでしたが10才の私は“期待”して“応援”していたのですね。それがこの写真の裏書だったのでしょう。(《アミーゴ・ガレージ》を作らなければ、自分のことながら、この事実は一生思い出す事がなかったでしょうね。そういう意味からもこれを始めたことには意義がありました)
⚾️ボール中略
色々ありましたヨ。
⚾️長嶋復帰と野球メディアへの登場(1992-1994)
92年10月、長嶋球界復帰。93年3月、スポニチ小川記者と共に宮崎キャンプへ。 この時にFM東京・萩原健太君の“音楽番組”に生出演し“巨人軍キャンプ情報”を伝える。スポニチに『長嶋論・ナイアガラ風味』というコラムを執筆。
93年5月3日。ニッポン放送『巨人-ヤクルト戦』にゲストとしてラジオ解説初登場。家を出る時の家族への“予言”通り(^_^)松井がプロ入り初ホーマー。
94年10月8日。プロ野球史上第二位の“48.8%”という視聴率を獲得したあの《名古屋決戦》で勝利を収めた長嶋が、日本シリーズで森・西武を破り“初めて”日本一監督となった翌日のスポニチにコメントを寄稿。これで“一仕事を終えた”実感があり、これ以降は野球関連の関り合いはありません。
⚾️プロ野球・ナイアガラ風味の未来
来年は“野球モード”に復帰しようか、と考えていますが、今年は開幕から殆ど“参加”していません。(大方の予想通り“勝負は9月から”でしょう。今年の巨人はチョト無理、というのが開幕前の予想でしたが)
しかし、《アミーゴ・ガレージ》で、大瀧の“ナイアガラ解説を聞こう!”という企画は深く潜航しつつ進んでおります。
もちろん、それは“私の一仕事”を終えてからのことですから、いつになることやら...。
以上、《野球と私》のオハナシ・第一話はオシマイです。
P.S. 『恋のナックル・ボール』に入っている“スイングの音”は、私が実際に振ってサンプリングしたものです。