© 高 信太郎
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パパパヤ 其の参: 『明治三陸津波の「津波石」、実は偽物』 (2002.9.9)
朝日のWEBで見たニュース。
このタイトルだけでは“ニセモノ”という言葉の印象が強いが、このハナシの実体は“こう”です。
まず、明治29年(1896)に《明治三陸津波》が岩手県釜石市を襲い“2万人”を超す死者が出たそうです。この津波は、高さが最高で38メートルに及び、唐丹村へは高さ16.7メートルの津波が来て、青森から宮城までの三陸海岸全域で大きな被害が出た、とのことです。
私は昭和37年(1962)から5年間、この地で過ごしましたが、「《明治三陸津波》の海水がここまで来た」という看板を見たことがあります。海岸から10キロぐらい離れていたところでしたが「こんな遠くまで海水が来るほど凄い津波だったのか!」と驚きました。
その“津波”から1カ月後の明治29年7月15日付東京朝日新聞の「付録」で、この津波がいかに“凄い”ものだったかが《写真》付きで初めて紹介されたそうです。記事の内容は「海岸沿いの唐丹(とうに)村(現釜石市)に打ち上げられた《津波石》。いかに潮勢の猛烈なりしかを想見すべし」とあったそうです。
同じ写真は、7月25日発行の雑誌「文芸倶楽部」の臨時増刊号『海嘯義捐(かいしょうぎえん)小説』にも掲載。写真をもとに描いたと見られる絵も同日発行の「風俗画報」臨時増刊号に載った。その後も、津波のパワーを象徴的に示す証拠として、明治三陸津波をとり上げた本やテレビ番組でこの写真が繰り返し紹介されたそうです。
ところがこの写真!
“ニセモノ”というより、実は《唐丹(とうに)》から約40キロ離れた《遠野(とうの)》の【続石】だったのだそうです。
なんで100年以上も経ってからこんな事実が判明したのか?
この事実を“発見”した方も言っているようですが、ワタシ”もこれは《東北弁》が介在した珍事であろう、と思います。
明治29年ですから、“東京”朝日新聞が直接取材に行ったのではなく“間接的”に取材が行われたのではないでしょうか。
で。
“とうに”と“とうの”
“つなみいし”と“つづきいし”
は、中間音の多い東北弁に慣れていない人には全く“同じ”に聞こえる可能性は大いにあり得ます。(《とうに》は“とうぬ”に聞こえるでしょうし、《とうの》の“の”も中間音で発せられます。また「つなみいし」も「つづきいし」も、土地では後半の《いし》の“い”にアクセントがあります。しかも最後の《し》は“ス”に近い中間音です。これを更に東北弁特有の“もごもご”と発声されますから、土地と石の名前の両方が取り違えられたとしても無理のないハナシだと思います)
それよりもなによりも、その写真が掲載された《唐丹(とうに)村》の“津波石”は、現地には“ない”そうです。(そりゃそうですね。違う写真なんですからね)
つまり“朝日”はその場所の確認もせず、そのまま違う“写真”を載せた、ということですね。
それを『明治三陸津波の「津波石」、実は偽物』という見出しは変です。何か唐丹村が“観光名物を偽造した”ような印象を与えます。実は“写真”が違っていただけでしょう。更にそれを掲載したのは朝日新聞で、朝日としては自分達の“先達”がいい加減な取材をしていたのを「石がニセモノ」と書いて以前の誤報を誤魔化そうとしているような、意図的ではないにしろ、結果はそうなっています。(もっともその原因が《東北弁》であるなら“いい加減な取材”はちょとキノドクな形容とはいえますが・・・)
どう考えても、もともと(そこに)ないものを“ある”として記事を(勝手に)載せておいて、「実はニセモノ」という言い方はないです。
私も以前に“新聞連載”をしたことがありますが、記事を書く人と《見出し》を作る部署は違うんですよね。私も以前に“松井の初球”に関して、内容と全く“逆の”見出しをつけられて驚いたことがありました。《見出し》だけで判断するのは危険です。
最近《見出し》で“間違い”だと思うのは、
『イチロー、スタメン落ち』
おいおい。“休養日”なんだよ。メジャーはレギュラーに定期的に休養を与えるシステム!それを「スタメン“落ち”」はないだろうが。《見出し》しか読まない人が多いことは分かっているわけですから、もっと“注意深く”つけて欲しいですね。
しかし、100年以上もその場所があるのかないのかも探さなかった、というのも実に“のんびり”した話で・・・。
間違えて載せられた“唐丹(とうに)村”側も、どこかの《原人村》のようにそれに“便乗”して名所作りなどをしていなかったのも、いかにも“商売下手”な《岩手》を象徴しているように、ワタシには感じます。(でもそのおかげで“藤村教授”の捏造事件の二の舞にならなくて済みました。《正直は財産》です)
ま、コトが“大災害”ですから、ちょと《観光》には不向きではありますが、“探す”くらいはしておいても良かったんじゃないでしょうか。(笑)
因みに。《津波石》とは「地震で起きた大津波によって、陸上まで運ばれた海底の岩のこと。明治三陸津波の津波石は、岩手県大船渡市などの海岸に残っている。1771年に沖縄・石垣島を襲った八重山地震津波の津波石は、観光名所になっている」、とのことです。
さて、このハナシには“個人的な続き”があって。
その間違えられた“遠野”の《続石》のある場所にも、ワタシは昭和34年から3年間住んでおりました。しかし、住んでいた時はその場所には行ったこともなければその“存在”すらも知らなかったのですが、97年に初めて行って参りました。(この《続石》は民俗学者・柳田国男の「遠野物語拾遺」で“弁慶が運んだ”と紹介されているそうです。確かにこの石の“すぐ側”に『弁慶昼寝場』という所があり、そこのベンチで私も“昼寝”をして参りました。弁慶さんもここまでこの大石を運んだので、かなり疲れて昼寝をしたのでしょう。そのキモチがよーく分かりました)