落語と私
text by Eiichi Ohtaki
text by Eiichi Ohtaki
落語は一般的に“イコール笑い”と捉えられているかもしれませんが、笑いは落語の要素ではありますが、基本的には単なる“噺”なんですね。イソップ物語やアンデルセン童話と同じ“お話”です。
更に私にとっての落語は《哲学》です。何も『ソフィーの洗濯』を読まなくても“哲学的”な思索は、落語を聞いていても出来るのです。〈哲学書〉を読まなければ哲学を語れないということはなく、むしろ“哲学”などというカタイ言葉ではなく、“落語”と一歩引いているところに哲学以上の深さと、哲学ではあまり重要視されていないと思われる“実用性”を感じます。
これは《ナイアガラ哲学》の基本中の基本ですが、(近代以降の)日本語に関して「簡単に言えるものを、難しく表現する必要があるのか」という疑問を私は常に抱えています。(私は文章がキライなので、三行読んで分からない本はサッサと捨てます。「だから結局何なのサ!」とツッコミを入たくなるような文章も途中で止めて捨てます。短気なんです(;_;))
“言語”がたった一つの意味しか持たないのなら《辞書》はあれほどの厚みは必要ないでしょう。“曖昧”なのは日本語に限りません。どの国の言葉でも〈一語が一つの意味だけ〉というケースは少ないのです。
それでも人間同士のコミュニケーションを可能にしているのは、人間に“状況判断能力”が備わっているからですね。(もっとも、これは“学習”によって身につくものですが)言語の意味や使用法は学校で教えてくれますが、この“状況判断”は学校では教えてくれません。(実は一番大事なのがコレです)
落語はこの状況判断についての話しが多く、最高の教科書です。そしてこの状況判断なるものはパターン化が難しく、一つ一つ事情が違えば各々答えも違って来るという、人生の深淵を暗示してくれています。ということは、どれだけ多くの類例を知る事が出来るかが問題となり、落語はその一つ一つのパターンを提示しているのです。
彦六師匠は客のノリが悪い時、「今日の客には日本人がいない」と表現したそうですが、“同じ日本語”ですから聞き慣れると分かります。私は歌舞伎を時々見に行きますが、イヤフォンでの解説を聞かずにセリフが分かるようになったキッカケは「同じ日本語なんだから」と思った時からでした。(歳を取っただけだ、とも言われていますが)
但し、落語はナイアガラ同様、“勉強”するものではありません。このアミーゴ・ガレージ同様、入り口もなければ出口もない。どこから入ろうがどこから出ようが自由です。そして“楽しむ”ものです。(“楽しむ”ということは“笑う”だけではありませんゾ。悲恋ものは“泣いて”楽しみますし、怪談は“震えて”楽しむものです)
1996.7.2 大滝詠一