“ホニオリン”とは、60年代始め、ジーン・ピットニーの「ルイジアナ・ママ」をカバーした飯田久彦氏(現ビクター役員)が歌の終りに言った言葉“ホニオリン”から来ています。飯田氏は「シッカリと“唇を噛んで”FROM NEW ORLEANSと発音している!」と現在でも“力説”されておられます。
確かにそのように“発音”されてはいるのですが、当時の日本人は(今でもそう大して変わったとは言えませんが)“ホニオリン”と聞く“耳の解像度”しか持ち得なかったのです。(ルイジアナ・ママがニューオリンズ出身、などということは日本人には馴染みが薄いですからね。「函館の女」が“北海道出身”なら分かりますが)
子供は“聞こえたまま”を歌います。意味は問いません。意味を考えていたら発音出来ませんからね。第一“ホニオリン”そのものは聞こえたままの言葉で“意味不明”のものです。(一方“ロニオリン”と聞いた人も多く、世の中に〈ホニオリン派〉と〈ロニオリン派〉に二分されました。タモリさんは“ロニオリン派”だったようです)
野村義男とプロデューサー・飯田
この《聞き間違い》もナイアガラの重要なテーマです。「ハンド・クラッピング音頭」でアシスタントとして付いてくれた人がタイトルを「ハンド・キャプテン音頭」と聞いたようで、録音テープの箱にそう書いてあったのです。そこで私はくり返しの後半で“一度”だけ〈ハーーーーン“キャプテン”音頭〉と歌っています。
(写真は『LET'S ONDO AGAIN』78年でのスナップ。当時は“漫才”としてはセント・ルイスが一番でした。因みに高信太郎さんは“ツー・ビート”を応援していて、漫才会の企画までやるほどの入れ込みようでした)
山形大学工学部の柴崎章さんから頂いたメールでは「友達に「あの娘に御用心」を聞かせたら〈御用心♪御用心♪〉の歌詞が「四十五、四十五」に聞こえるそうです。そう言われるとそう聞こえるような…」とありました。
あれは確かに“御用心”の繰り返しなのですが、途中から私は“用心・御”と歌っているんです。“よーじんご”、つまり“四十五”と聞こえる人は“物理的”には正解、ということなんですね。ファンの柴崎さんは「あの娘に御用心」というタイトルが前知識として刻み込まれていますから頭の中で“御用心”という言葉に結実する。友達は別に大滝ファンではないのでその前知識がない。私は確かに“用心・御”と歌っている。既成概念のない人には“四十五”と響く。
これは“ナイアガラ歴”を誇るナイアガラーの落とし穴でもあるのです。これは自戒も込めてのことですが、知れば知るほど既成概念が増えて行くことでもあり、それに囚われる危険性も増大するということでもあります。別にナイアガラーだけのことでなく、いわゆる“経験値”なるものは万能ではなく、時として逆に作用する場合もある、ということをこの例から知ることになります。(と言って、柴崎さんが〈御用心〉と聞いたことが間違いというのではありませんヨ。〈御用心〉の聞き間違いそのものとこの“ナイアガラ空耳論”とは類似していますが別のテーマです)
ことほどさように(古いね、言い回しが)聞き間違い一つをとっても
《深いと思う人には深く 浅いと思う人には浅い》
のですね。これもナイアガラ格言の一つです。
アルバム『ナイアガラ・カレンダー』発売時に「カレンダー・ボーイ」というシングルが企画されました。レコード・マンスリーにも掲載されましたがB面として企画されたのが「恋の骨折」という曲でした。これは「ルイジアナ・ママ」のカバー・ソングで、スキーに出かけて“骨を折る”という内容で、最後が“ホネオリン”というオチでした。(もちろん、このシングルは企画倒れに終わっています)
飯田久彦氏はキョンキョン主演映画『快盗ルビー』のプロデューサーで、その際個人的に「ルイジアナ・ママ」の替歌を作ったのですが、結局歌ってもらう機会を逸してしまいました。
『快盗ルビー替歌』
BY 多羅尾伴内(ルイジアナ・ママの節で)
あの娘は快盗ルビー
髪は黒色 目は茶色
マイ快盗ルビー
やって来たのは梅が丘
小泉だよ 今日子だよ
ホニオリン!
(梅が丘はロケが行われた場所)
尚『快盗女ねずみの唄』という替歌は録音されました。(「快盗ルビー」の節で)「誰かの熱いご飯 いつでも米は きらめくシャリね」という出だしで、これをオペラ調で歌ったのはビクター社員の野沢君。現在は“SMAP”の担当ディレクターです。
飯田久彦さんとの初仕事は森進一の「冬のリビエラ」でしたが、現ダブル・オー・レコード役員の川原伸司(ペンネーム:平井夏美)は、この飯田さんの部下で、ピンク・レディーの宣伝、更には杉真理・竹内まりやをデビューさせた人物です。因みに“平井夏美”のデビューは松田聖子の「風立ちぬ」のB面 「ロマンス」。更に井上陽水の「少年時代」渡辺満里奈の「約束の場所」も彼のペンによるものです)
(『私の部屋』76年秋号より:大瀧はこの当時川原の存在は全く知らなかったのです。しかしこの号のカラー・グラビアには福生スタジオが取り上げられていました。ビクターの一介の社員でしかない川原の最初で最後の自分の部屋が載っている雑誌に私も一緒に載っていたことに、不思議な因縁を感じてしまいます)
1996.7.5 大滝詠一