NECOと私
text by Eiichi Ohtaki
( 2002年8月31日)
《日本映画と私》に書きましたが、ありとあらゆる方法を駆使して何とか“見なければいけない”と思われる映画は殆ど観ました。
そこで“次なる”タノシミは珍作探検。
音楽でもそうでしたね。一応有名どころのヒットソングを全部聞くと、未発表とか別バージョンとか、そういうものが楽しみになってくる。アメリカン・ポップスも大筋が分かると、今度は日本の“歌謡曲”が聞きたくなってくる。(洋画から“日本映画”へ、と興味が移ったのと同じですね)
それで《日本ポップス伝》というようなラジオ番組に発展したのですが、これも大体分かって来るとまた洋楽が聞きたくなる、と。
自分の分野である“音楽”ではこういう流れでしたが、映画に関してはもう洋画に戻ることはないのではないかと思います。
それというのも、《字幕》についていけなくなりました。
一つは加齢による視力の低下!画面と字幕の往復は疲れます。若い時はそんなに感じなかったのですが54歳にもなると、かなり“来てます”(涙)。
が、本当の原因は実は視力の低下よりも、“字幕”を見なければ理解出来ないという《形式》が面倒になりました。そこまでして分かりたくもない!という《努力の放棄》(笑)です。
こう強く思うようになったのはキネマ倶楽部に入会して日本映画を沢山見るようになった頃からです。(それまでは洋画の新作は殆ど見ていましたし、特に封切り前日のオールナイトには必ず行っていました)
“言葉”が(字幕を通さずに)ストレートに入って来ることのラクさ。そして心の奥底が理解する快感と感動。
やっぱりアタリマエだけど《母国語》はいい!(あの“努力”、して見ていたものは、本当に“理解”していたのだろうか・・・。ま、でも、洋楽も“誤解”が楽しかった面もありましたからね。この前、紳助さんがテレビで「歳をとるごとに“誤解”の入る余地が減る」といっていたけどーひょっとするとコレの(C)は上岡さんかもー確かにそうだネ)
昨今、“表情”や“しぐさ”を読み取れないワカモノが増えている(日本語本来のコミュニケーションがとれない)のは、この《字幕世代》も原因の一つではないでしょうか?日本映画を見ていると、“表情”の変化に敏感になるし、ちょっとした仕草や言葉の抑揚などにも注意するようになります。
《字幕》みちゃうと、表情とか全く見ないですからね。
もっとも、“カイセツ”を介して理解することの方が(直接に分かるより)《高級》なもの、という妙な基準が暗黙にこの“コトダマ”の国には存在している、といえないこともないですから、その構造に《字幕》なるものはピッタリはまった、ということでしょうか。(昨今は“歌番組”も全部いちいち《歌詞》が出て、歌手の表情や仕草がマトモに見られていないのではないでしょうか。カラオケ世代へのサービスらしいですが、私には“邪魔”です。母国語ぐらい“字”ぃ見んでもわかれや!とフライデーの番長風に言いたい。必要な人はいるでしょが、表示・非表示が選べるようになって欲しいですね、クローズド・キャプションのように)
ま、それはそれで横に置いて。(by 柳家金語楼&水の江滝子)
NECOです。ここで“名作”以外の佳作・珍作、沢山見ました。
特に《SPシアター》と銘打たれたシリーズは最高でした!
そして来月(9月)、今度は『陽のあたらない名画祭』と題した佳作・珍作が登場します。
日本映画そのものが“陽があたらない”のに、その上更に「陽があたらない・・・」のですからね。(コケが生えているでしょうナ)
ということで、これから“気がむいた時に”NECOで見た映画の感想を書いて行きたいと思います。