全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
参考:『富士山と信仰』富士見市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/1015150000/p001611.html
1, 古から繰り返された噴火
古から日本人は、噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は、恐ろしく且つ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった。
富士山周辺には、富士山を意識したとされる(学説)1万3千年前~1万4千年前の住居址や配石遺構がいくつか発見されている。その後、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのもの或いは富士山に鎮座する神を「浅間大神」として祀るようになり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるようになった。
2, -修験道- 日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合及び普及
12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道の道場ともなり、修験者などが山中に分け入り、霊力を獲得するための修行する山へと変化していった。
この頃修行を行った人物として、数百度登山し、山頂に大日寺を構えたとされる末代上人(まつだいじょうにん)が有名である。
当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(または仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~16世紀には、修験者に引率された衆人による信仰登山が盛んになり、登拝する山として一般に広く知られるようになった。登山道はいずれも14~15世紀後半に開かれたとされている。この頃には参詣の道者のための宿坊も出来始め、大勢の登山者のための整備が整い始めた。
八ツ子ノ梯子(目録)
参考:『富士山の基礎知識 7.富士山頂富士「八葉」の歴史』富士砂防事務所 https://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/bosai/fuji_info/chisiki/c07/index.html
富士山頂部には「八葉」と呼ばれる8つの峰があります。古来、仏教でいう八葉蓮華(はちようれんげ:仏が坐(すわ)る八枚の弁をもつ蓮華座)にたとえられていたことに由来するもので、この八葉はこれまで様々な呼び名で呼ばれており、資料ごとでその名称が異なっています。明治時代の神仏分離令の影響を受け、富士山においても廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、富士山中の仏教系地名が神道系の名称に変えられました。
現在「お鉢巡り」と呼んでいる火口の周りを一周することも、この八葉の峰をめぐる「お八めぐり」が転化したものと考えられます。
この「八葉」の名称の歴史的名称の変化と、現在の「八葉」の名称及びその背景を紹介します。
●「八葉」の名称の由来
富士山の八葉についてはいくつかの由来があります。
・頂上の峰々を蓮の花の八弁に例えた説。
・富士山を蓮花に見立てたり、芙蓉峯と言ったりしたのは、
その姿が秀麗なところからきた説。
・八つの峰があることから芙蓉(蓮花)と称した説。
・芙蓉といわれることから「八朶」とつけた。
注)芙蓉とはハスの花の別称で美人の例え。富士山の雅称として芙蓉峰と呼ばれた。
●歴史的資料に見られる八葉の名称
歴史的な古文献(古図)等に見られる富士山頂の「八葉」は表-1の名称で呼ばれていた。
●現在の八葉の峰の名称由来と関係のある神仏
明治時代の廃仏毀釈前の神仏と関係の深い名称(表-1の名称)と現在の名称を繋ぐ山頂名と神仏との関係を表-2に示す。
○三保松原公式HP https://miho-no-matsubara.jp/
〇参考:『三保松原 【富士山世界文化遺産構成資産登録】』駿府静岡市 公益財団法人 するが企画観光局
https://www.visit-shizuoka.com/spots/detail.php?kanko=336
平成25年6月に富士山世界文化遺産の構成資産に登録されました。三保松原は約5kmの海岸に約3万本の松が生い茂り、松林の緑、打ち寄せる白波、海の青さと富士山が織りなす風景は歌川広重の浮世絵や数々の絵画・和歌に表現されてきました。
三保松原の一角には、天女伝説で知られる羽衣の松があり、毎年10月には松前で三保羽衣薪能が開催されます。また、世界遺産構成資産の一部であり、パワースポットとしても人気の御穂神社や常世神の通り道である「神の道」も付近にあり、ここを歩けば清々しい気持ちになります。自転車道も整備されており、レンタサイクルで三保半島を一周するのもおすすめです。
2019年3月には、静岡市三保松原文化創造センター『みほしるべ』がオープン!
富士山と三保松原、羽衣伝説、三保松原と芸術作品などの深い関わりについて様々な展示がされています。入口付近には足湯も設置されており、散策した後に松原を見ながら足を休めることもできます。
〇参考:『三保の松原』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%8E%9F
三保松原(みほのまつばら)は、静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地。御穂神社の鎮守の杜として守られてきた。その美しさから日本新三景(大沼、三保松原、耶馬溪)、日本三大松原(三保松原、虹の松原、気比の松原)のひとつとされ、国の名勝に指定されている。また、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。また、2020年(令和2年)6月19日には、文化庁の「日本遺産」のストーリー『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』の構成文化財の1つに認定された。
なお、国の名勝としての指定名称および世界文化遺産・構成資産一覧,日本遺産構成文化財一覧では「三保松原」と表記され、表記にゆれが存在する。新聞等ではハンドブックにより「三保の松原」で表記を統一しているところもある。
概要
平安時代から親しまれている三保半島の東側に広がる景勝地である。総延長7キロメートルで、5万4000本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。歌川広重の『六十余州名所図会』「駿河 三保の松原」を始めとする浮世絵にも描かれている。
また、日本最古の和歌集である『万葉集』に、
廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
(廬原いほはらの 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし)
— 田口益人、『万葉集』巻3-296
と詠まれて以降、多くの和歌の題材となり、謡曲『羽衣』の舞台にもなっている。
三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、日本平を擁する有度山を削りながら出来た砂嘴である。何百年にわたり流された土砂(漂砂)が静岡海岸、さらには清水海岸に100メートルを超える幅の砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島、および三保の松原の砂浜を形成した。
羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)には羽衣の切れ端といわれるものが保存されている。なお、三保松原は、御穂神社の鎮守の杜である。羽衣の松には毎年元日の朝に大勢の人々が集い、伊豆半島の山々から昇る初日の出を拝んでいる。
保全状況
名勝三保松原
1922年(大正11年)3月8日、史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身のひとつ)により、天橋立とともに日本初の名勝に指定された。名勝指定時の面積は339.8ヘクタール(国有地62.8ヘクタール、公有地14.3ヘクタール、民有地261.3ヘクタール)、松の本数は9万3千本(一説には12万本)あったが、第二次世界大戦中の松根油の採取による松林の伐採や、第二次世界大戦後の民有地開発などにより、1991年(平成3年)3月時点では198.2ヘクタール(国有地42.8ヘクタール、公有地14.3ヘクタール、民有地139.7ヘクタール)、松の本数も5万4千本に減少。2014年2月23日の「富士山の日」イベントで松の本数を調査した結果は3万699本であり、25年前とに比べて2万本以上も減少していることがわかった。
名勝指定時の範囲(地名は大正11年3月8日内務省告示第49号の表記による)
静岡県安倍郡三保村大字三保
字池、出来輪田、廣道、掛脇、榎窪、大山、宮方、羽衣脇、八木ノ全部
静岡県安倍郡三保村大字折戸
字内原上、前内原、東濱砂、濱砂、奥内原、東濱砂上ノ全部
静岡県安倍郡不二見村大字駒越
字東濱砂、中濱砂、西濱砂、新山ノ全部
1977年(昭和52年)の文部省告示第44号(名勝三保松原の一部指定解除)と1990年(平成2年)の文部省告示第31号(名勝三保松原の追加指定及び一部指定解除)により、前述の通り。
なお、名勝に指定されている範囲には「名勝三保松原規制地区」が設定されており、現状を変更する際には許可が必要である(文化財保護法第125条)。規制地区は、
特別規制A地区(海岸の浜地)
特別規制B地区(松が密生する範囲)
第1種規制地区(特別規制B地区の周囲にあって松が生育している範囲)
第2種規制地区(第1種規制地区の外側にあって松が散在する地域)
第3種規制地区(規制の緩衝地域)
の5つに区分され、松原を形成する「特別規制B地区」の規制が最も強く、これを取り巻くように規制が緩くなっている。許認可は、静岡市が策定した「保存管理計画」(2010年改訂)に基づいて判断され、特別規制A、B地区は国(文化庁長官)、その他の地域は静岡市の許可が必要である。
風致地区等
1933年(昭和8年)4月13日には三保久能海岸風致地区に、1951年(昭和26年)3月6日には日本平県立自然公園(現在の日本平・三保松原県立自然公園)区域、潮害防備保安林に指定されている。
世界文化遺産
三保松原は世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産のひとつに登録されている。当初のICOMOSによる登録勧告では三保松原だけが富士山から45キロメートルも離れていて、山としての完全性を証明することに寄与していないという理由で除外すべきと勧告されたが、最終的には登録されている。ユネスコに提出した世界文化遺産推薦書によると、構成資産は羽衣公園付近から真崎までの清水海岸(砂浜および松林)、御穂神社境内全域と「神の道」、清水灯台(三保灯台)などで構成され、資産面積:64.4ヘクタール、緩衝地帯面積:252.0ヘクタールが指定されている。
ガイダンス施設
みほしるべ
三保松原を含む富士山関連資産が世界遺産に登録されたことをうけ、世界遺産条約に基づき富士宮市に静岡県富士山世界遺産センターが開設されたが、登録時に問題となった三保松原と富士山の距離の隔たりや他の構成資産とは異なる性質(多くが登録名称にある「信仰の対象」であるのに対し三保松原は「芸術の源泉」)であることの基本的解説、環境保全観察の前線基地設置の必要性などから「三保松原ビジターセンター(仮称)」設立が計画され、2019年(平成31年)3月30日に「静岡市三保松原文化創造センター・みほしるべ」(北緯34度59分43.59秒 東経138度31分21.9秒)がオープンした。
鉄筋コンクリート造2階建て、正面ガラス張り。一部ピロティ構造。設計はアプルデザインワークショプ。延床面積 1143.73㎡、展示面積 587㎡。入館無料。年中無休。1階展示室では富士山信仰と三保松原、羽衣伝説、芸術の源泉など歴史・文化面の紹介や4K映像上映、2階では松の生態など自然科学分野を紹介。
羽衣の松
羽衣の松は御穂神社の神体で、祭神の三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命が降臨する際の依り代とされる。初代「羽衣の松」は1707年(宝永4年)の宝永大噴火の際に海に沈んだと伝えられる。
二代目「羽衣の松」は高さ約10メートル、外周5メートル、樹齢650年 のクロマツで、立ち枯れが進んだため、2010年(平成22年)10月に近くにある別の松を三代目の「羽衣の松」に認定して世代交代した。2013年(平成25年)7月3日に先代の「羽衣の松」は約3メートルの幹を残して伐採された。
海岸浸食の問題
三保松原の砂浜は1980年代から海岸浸食による消失の危機に見舞われている。原因は、1960年代に安倍川で大量に砂利を採取したこと、安倍川で砂防堰堤や護岸工事を行ったために川から供給される砂や礫が減少し、波や沿岸流で供給される流砂と波によって侵食される土砂の需給バランスが崩れたためと考えられている。静岡県は1989年(平成元年)2月に海岸保全事業を策定し、海岸から100メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置したり、離岸堤式ヘッドランド(人工岬)やL字突堤型ヘッドランドを設置して侵食を抑え、砂の補給による養浜対策を講じている。
松枯れの問題
「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する松枯れも進行している。静岡市などが対策に乗り出しており、松食い虫防除のための予防剤注入やシロアリの防除を行うほか、市有林については、松の防除履歴などの個体管理台帳を作成する予定である。
2015年からの調査で、松の付近の地中に砂が固くなった固結層があり、それが根に空気や水を通さないことが松が弱る原因の一つと見られていた。
2016年からの調査では、固結層に起因する降雨時の表面流出が深刻なことがわかった(参考:最近の雨での流出後の画像 … 2018年3月9日の20ミリの雨量を超えたあとで流出した際の映像)。
そして、羽衣の松周辺の地中にある砂などが固まった固結層の生成原因の一つが、周辺で営業する売店が店舗の回りに廃棄しているコンロの煉炭灰であることがわかった(固結層中にカルシウム、炭素、硫黄、煉炭を作る際につかう粘土の一種「ベントナイト」が観察されたことによる)。ベントナイト、多量の雨水、観光客による踏み固め、風による砂の供給などが固結層の生成と広がった理由と考えられている。
煉炭の灰については、50年ほど前から売店がそれぞれ1日一個分くらいの灰をだしていたと報道されている。
これまでの理由が不明なまま「松の木を守る」という対症療法的な対策から、今回同定された原因を除去する対策の検討が重要である。対策として以下が土木学会誌レポートに提案されている。
既存の固結層を除去する。
廃棄された煉炭灰を撤去する。
売店の屋根からの雨水を遠方に排水する。
固結層を破壊した部分の養生のために周遊ルートを変更する。
根への空気、水の供給を確保するために固結層を崩すことは、同時に、降雨時に固結層の上の砂が流れてしまうことも防ぐということで重要である。
固結層の問題が認識されて以来、ボランティアによる固結層の除去作業が折に触れて行われている。
羽衣伝説に関する逸話
羽衣の碑
フランスのダンサー、エレーヌ・ジュグラリスはさらなる舞踊を求めて日本の「能」を研究する中で「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を発表。彼女は来日して伝説の舞台となった三保松原を訪れることも希望していたが、病気により叶うことなく35歳の若さで亡くなってしまう。臨終の際には夫に「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」と遺言を残し、それに基づいて夫は彼女の衣装と遺髪を持って来日した。
この秘話に共感した地域住民により、1952年(昭和27年)にエレーヌの功績を称え「羽衣の碑(エレーヌの碑)」が完成、その碑の袂には彼女の遺髪が納められている。
歴史
江戸時代の絵図によると、当時は三保半島のすべてが松で覆われていた。三保は江戸幕府の直轄地(天領)であり、御穂神社の朱印地(寺社領)、いわゆる鎮守の杜として所領が安堵されていたが、明治維新後に杜の禁が解かれ、御穂神社周辺の松は旧幕臣の手により壊滅的に伐採されたと伝わる。
また、三保半島は過去の地震で度々沈降したと伝えられ、三保松原や砂浜も被害を受けている。
近代以降
1898年(明治31年) - 第1次森林法により保安林に指定
1916年(大正5年)5月 - 実業之日本社主催による日本新三景に選定
1918年(大正7年)6月9日 - 日本新三景記念碑(揮毫は元帥伯爵東郷平八郎)の除幕式を挙行
1922年(大正11年)3月8日 - 名勝三保松原の指定(内務省告示第49号)
1933年(昭和8年)4月13日 - 三保久能海岸風致地区に指定
1951年(昭和26年)3月6日 - 日本平県立自然公園に指定(静岡県告示第127号)
1977年(昭和52年)4月1日 - 名勝三保松原の一部指定解除(文部省告示第44号)
1987年(昭和62年)1月10日 - 日本の白砂青松100選に選定
1990年(平成2年)3月29日 - 名勝三保松原の追加指定及び一部指定解除(文部省告示第31号)
2007年(平成19年)3月27日 - 日本平県立自然公園から日本平・三保松原県立自然公園に名称変更(静岡県告示第313号)
2013年(平成25年)6月22日 - ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」(日本の世界遺産としては17件目)の構成資産に登録
2020年(令和2年)6月19日 - 文化庁の「日本遺産」ストーリー『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』の構成文化財に認定
周辺の観光スポット
御穂神社 - 三保松原は、常世の国から神を迎える御穂神社の鎮守の杜である。芸能の神、大漁豊作・商売繁盛の神である。
羽衣の松 - 天女が羽衣をかけたとされる老松。2010年(平成22年)10月に世代交代した。
羽車神社 - 「羽車磯田社」とも言い、御穂神社の離宮。
神の道 - 樹齢200 - 300年の老松の並木が500メートルほど続く、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ道。毎年2月14日の深夜にこの道を通って神を天からお迎えする神事が行われている。
エレーヌの碑(羽衣の碑) - 上述のエレーヌの顕彰のために建立された慰霊の碑。
伯良神社 - 羽衣伝説に登場する漁夫の屋敷跡とされる神社。
清水灯台(三保灯台) - 近代化産業遺産及び土木学会選奨土木遺産に認定されている。
東海大学海洋科学博物館
東海大学自然史博物館
みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター)
交通
東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線・清水駅、静岡鉄道静岡清水線・新清水駅よりしずてつジャストライン三保山の手線に乗車、「三保松原入口」下車、徒歩約15分、または「世界遺産三保松原」下車、徒歩約5分
江尻のりば(清水駅)、日の出のりばよりエスパルスドリームフェリー・水上バス乗船、三保桟橋下船。
静岡県道199号三保駒越線「三保松原入口」交差点右折、約5分
参考:『白糸ノ滝 (白糸の滝・音止の滝)』富士宮市観光協会 https://fujinomiya.gr.jp/guide/170/
天下の名瀑としてその名を轟かす白糸ノ滝。
富士山の雪解け水が、上部の水を通す地層である新富士火山層と下部の水を通さない地層である古富士火山層の境の絶壁から湧き出しています。
高さ20m・幅150mの湾曲した絶壁から、大小数百の滝が流れ落ちています。 その姿は白糸の名にふさわしく、幾筋もの絹糸をさらしているようです。
優しく、女性的な美しさで、滝壺近くに立つと、三方が水のアーチとなって幻想的な世界を見せてくれます。 国の名勝及び天然記念物。(平成2年日本の滝百選に選定)
白糸ノ滝の歴史
昭和11年、国の名勝及び天然記念物に指定され、昭和25年10月には「観光百選滝の部」で1位に選ばれ、古くからその見事な眺めが人々に愛されている滝。
戦国時代末から江戸時代初期、富士講の開祖とされる長谷川(はせがわ)角行(かくぎょう)が修行を行った地とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となったことでも知られています。
白糸の滝
幅150mの湾曲した絶壁の全面にかかる白糸の滝は、本滝の一部を除いてそのほとんどが富士山の湧水。マイナスイオンに包まれてパワーアップ間違いなし!岩壁の間から白い絹糸のように流れるさまは、白糸の名にふさわしく、女性的な美しさと、やさしい景観を見せながら周囲にキリリと冷えた風を運んでいます。年間を通じて水温12℃、毎秒1.5トンの湧水が流れ出ているといわれています。
おすすめポイント
白糸ノ滝は、『信仰の対象』としての富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠の構成資産であります。 富士講の文書によれば、白糸ノ滝は長谷川角行が人穴での修行と並行して水行を行った場所であるとされ、富士講信者を中心に人々の巡礼・修行の場であったことから構成資産となっています。富士講信者の描いた絵図からは、18世紀の白糸ノ滝における修行の様子が知られるのみならず、現在もなお現地に遺存する石碑等を確認することができます。
白糸ノ滝へのアクセス
東名高速道路 富士ICまたは、新東名高速道路 新富士ICから 車で約30分
JR富士宮駅から富士急静岡バスで約30分
〇『白糸の滝』富士宮市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/1025200000/p001794.html
天下の名瀑、世界遺産の構成資産にも登録されている「白糸の滝(しらいとのたき)」について紹介しています。
概要
天下の名瀑としてその名を轟かす白糸の滝。
この滝は、富士山の雪解け水が、上部の水を通す地層である新富士火山層と下部の水を通さない地層である古富士火山層の境の絶壁から湧き出しています。高さ20m・幅150mの湾曲した絶壁から、大小数百の滝が流れ落ちています。
その姿は白糸の名にふさわしく、幾筋もの絹糸をたらしているようです。優しく、女性的な美しさで、滝壺近くに立つと、三方が水のアーチとなって幻想的な世界を見せてくれます。
国の名勝及び天然記念物。(平成2年日本の滝百選に選定)
白糸の滝の隣には、曽我兄弟伝説でも知られる雄大な音止の滝もあります。
白糸の滝所在地・トイレの場所
所在地 静岡県富士宮市上井出・原
トイレ 駐車場そば隣接・車椅子対応トイレ有り
白糸の滝観光駐車場
所在地 富士宮市上井出273-1
営業時間 9時00分~16時30分
駐車料金 普通車500円(105台)
バス1000円(大型10台・マイクロ5台)
バイク200円(10台)
問い合わせ先 富士宮市観光協会:0544-27-5240
〇参考:『静岡県屈指の名瀑「白糸の滝」、絶景と周辺のオススメスポットを紹介!!』ハローナビしずおかブログ(静岡県観光公式サイト) https://shizuoka.hellonavi.jp/shiraitonotaki-1
日本三大名瀑にも数えられる「白糸の滝」
静岡県富士宮市にある「白糸の滝」は落差20m、富士山の地下水が約150mの滝幅から無数に流れ出る様子が白い絹の糸が垂れているように見えることからその名前が付けられたそうです。
また、その絶景に向かう途中には沢山のお店が軒を連ねていて、お土産や食事などを楽しむことができるそう…。
2016年に整備された連絡道を使い、周辺を散策しながら白糸の滝観光を紹介していきます。
「冬」の白糸の滝観光をするにあたって
筆者が白糸の滝に行ったのが2月。この季節で気を付けたいのが路面です。
雪が降ることもありますし、雨が降れば道も凍ります。車でお越しの方はチェーン、またはスタットレスタイヤを装着するのを忘れないでください!
もちろん気温も低いので、防寒対策もきちんとしてくださいね!!
〇参考:『白糸の滝 (静岡県)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%B3%B8%E3%81%AE%E6%BB%9D_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)
白糸の滝(しらいとのたき)は、静岡県富士宮市にある滝。隣接する音止の滝と共に著名な観光地の1つとして知られ、日本の滝百選にも選ばれている他、日本三大名瀑に選ばれることがある。
国の名勝、天然記念物。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録されている。なお、名勝、天然記念物としての指定名称及び世界文化遺産・構成資産一覧では「白糸ノ滝」と表記される。
概要
古富士泥流堆積物の上に白糸溶岩流が位置し、溶岩流の各層の隙間から富士山の地下水が流れ出ている。その様子が絹糸を垂らしたようであることから「白糸の滝」と呼ばれる。水量は毎秒1.5トンで幅200メートル、高さ20メートルである。文化財上の「白糸ノ滝」は滝壺だけでなく周辺地も含まれており、「音止の滝」(およそ徒歩5分)も含まれる。
歴史
古くより風光明媚な景勝地として知られ、例えば『信長公記』巻十五には「西の山に白糸の滝名所あり」とある。また近世は富士講信者の巡礼地の1つでもあり、滝壺の近くには天保年間に建立された食行身禄の供養碑が現在も残る。嘉永7年(1854年)の富士講信者による自伝にも、これらが記されている。白糸の滝のすぐ上には岩窟があり、そこには「お鬢水」(帯の真奈井)という水が湧いている。このお鬢水で源頼朝は髪のほつれを直したと伝えられている。また、このお鬢水は富士講の霊場の1つでもある。
白糸の滝は絵画の題材としても選ばれ、その先鞭をつけた人物として池大雅等が挙げられている。大雅の「富士白糸滝図」や「白糸瀑布真景図」では富士山と共に白糸の滝が描かれ、この画題は後の画家に影響を与えた。
源頼朝が富士の巻狩りの際に滝に立ち寄り、以下の和歌を詠んだという伝承が残る。
この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝
年表
1936年(昭和11年)9月3日 - 「白糸ノ滝」として国の名勝及び天然記念物に指定される。
1950年(昭和25年) - 「観光百選滝の部」の1位に輝く。
1990年(平成2年) - 日本の滝百選に選定。
2006年(平成18年)9月 - 滝壷に掛かる「滝見橋」が崩落。
2011年(平成23年)
3月11日の東北地方太平洋沖地震やその余震である3月15日の静岡県東部地震の影響で、階段において落石が発生。また音止の滝でも一部が崩落。
9月21日に日本列島を縦断した台風15号による増水等の被害により滝壺が甚大の被害を受け、落石の危険等がある為、滝つぼへ立入(観光)が禁止となった。応急復旧対策が実施し、11月3日午前9時より観光可能となった。
2012年(平成24年)
2月8日~29日には滝壺周辺を歩行者立入禁止とし、本格復旧工事・測量調査を実施。3月1日より観光可能となった。
4月13日に富士宮市は、富士山の世界遺産登録に向け、滝壺にある土産物店や落石防止柵など人工の構造物を撤去して、風致景観の整備を行うほか、歩経路、展望場、休憩場等の整備を行う計画を発表[5][6]。100年以上滝壺で営業していた土産物店側も協力する旨を発表。なお土産物店は前年の台風15号で甚大な被害を受けていた[7]。
2013年(平成25年)
6月22日 - 「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録。
12月24日 - 新規に建設された滝見橋の通行が可能となる。
2017年(平成29年)- 環境省公開の「富士山がある風景100選」に選定
交通機関
身延線富士宮駅から路線バス
白糸の滝・足形・休暇村富士・猪の頭行(富士急静岡バス)で約30分、「白糸の滝観光案内所前」又は「白糸の滝」下車
富士山駅行(富士急バス)で約20分、「白糸の滝入口」下車。
東海道新幹線新富士駅から路線バス富士山駅行(富士急バス)で約60分、「白糸の滝入口」下車。
富士山麓電気鉄道富士急行線富士山駅・河口湖駅から路線バス新富士駅行(富士急バス)で約80分、「白糸の滝入口」下車。
東京駅から高速バス「ヤキソバEXPRESS」休暇村富士行(富士急静岡バス)で約3時間、「白糸の滝」下車。
東名高速道路富士インターチェンジから西富士道路および国道139号を経由し17km、車で約40分。
新東名高速道路新富士インターチェンジから西富士道路および国道139号を経由し車で35分。
〇富士サファリパーク公式サイト https://www.fujisafari.co.jp/
公式インスタグラム https://www.instagram.com/fuji_safari/
公式youtube https://www.youtube.com/@fujisafarimovie
〇参考:『富士サファリパーク』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B5%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
富士サファリパーク(ふじサファリパーク)は、静岡県裾野市須山字藤原2255-27にあるサファリパーク形式の動物園。
運営会社は小泉アフリカ・ライオン・サファリ株式会社。また、富士山こどもの国の指定管理者としての運営も営んでいる。
施設
面積・生息動物数ともに日本最大級のサファリパークである。屋外に設定されたコースをマイカー、専用バス、GPS搭載のサファリナビゲーションカーなどで走行することで、間近に動物を観察することが出来る[6][7]。車で周る以外にも、サファリゾーンの外周を歩きながら自然散策や動物観察ができるウォーキングサファリ(冬季休業)や実際に触れる(餌やり)ふれあい広場、猫や犬の館などがある[8][9]。また、テレビCM等により全国的な知名度がある。
園内では、ライオンの子供との写真撮影やアメリカンミニチュアホースのパレード、トナカイのソリ(期間限定)など様々なイベントが行われている。専用バスについては時間指定のチケット方式を取り入れているため、午前中に完売することがある。
施設・動物一覧
サファリゾーン
クマゾーン(アメリカグマ、ヒグマ、ヒマラヤグマ)
ライオンゾーン(ライオン)
トラゾーン(アムールトラ)
チーターゾーン(チーター)
ゾウゾーン(アジアゾウ)
一般草食ゾーン(キリン、エランド、シタツンガ、シマウマ、フタコブラクダ、ブラックバック、シロサイ、ラマ)
山岳草食ゾーン(アメリカバイソン、ダマジカ、バーバリーシープ、ヒマラヤタール、ムフロン、ワピチ)
ふれあいゾーン
ふれあい牧場(アカカンガルー、アメリカンミニチュアホース、カピバラ、ベネットワラビー、ポニー、マーラ、ミーアキャット、レッサーパンダ)
どうぶつ村(シマリス、アフリカタテガミヤマアラシ、カバ、シマハイエナ、ケープハイラックス、ヒョウ、モルモット、リカオン、リスザル、ワオキツネザル)
ネコの館
イヌの館
ウサギの館
CM
富士サファリパークが全国区で有名な理由の一つに、テレビCMで流れるその独特のコマーシャルソング(作詞:大久保真・目黒俊作、作曲:丸山雅仁)が挙げられる。「CMソングを歌っているのは和田アキ子? 松崎しげる?」という問い合わせが当時多く寄せられたが、歌っているのは歌手の串田アキラである。このCMは、現在は主に静岡県・首都圏・中京広域圏の各テレビ局の他、アニマルプラネットでも放送されている。
2005年発売の串田のアルバム『串田アキラ BEST~Feel So Nice』のボーナストラックにこのCMソング(30秒バージョン)が収録された。2006年には、串田が主題歌を担当した特撮ドラマ『ライオン丸G』において同曲が劇中で流され、話題を呼んだ。
なお、歌詞の前半ではライオンとゾウについて、後半ではクマについて歌われている。フルコーラスは約30秒で、通信カラオケでも配信されている
歴史
年表
1980年4月23日 - 開園。
2005年10月25日 - 飼育員2名がヒグマに襲われ、1人死亡、1人重傷の事故が発生し、休園[8]。
2005年11月17日 - クマ舎改修工事などの安全対策を実施し、営業を再開。
2012年6月9日 - 真っ黒なヒョウの仔が2頭誕生[12]。まれな突然変異。1頭はメスで人工哺育で育てられる。
2012年10月14日 - 日本国内5例目のゾウの仔が誕生する。
2012年10月16日 - 飼育員1名がゾウに襲われ、死亡する事故が発生し、同21日まで休園。
開園前の論点
当初の建設計画は予定地が富士山山麓かつ国立公園の地域内であるため、静岡県が国立公園の区域を避けさせて、再計画された。
1978年2月には、日本社会党(当時)の島本虎三衆議院議員が、委員会で質したが、静岡県は当時の権威である筑波大学の山本荘毅教授が環境影響予測調査を行い、問題が無いことが示されているとし、そして、建設予定地のそばにある「忠ちゃん牧場」(家畜300頭ほど)を例に出し、計画されている富士自然動物公園の2倍の環境負荷を持っているが、地下水汚染が発生していないことを答弁している。
また、開発区域の付近住民らは裾野市に対し、開発行為許可の取消訴訟を起こしたが、静岡地方裁判所は住民らの請求権は認めず(住民らは法律上の利益を有しないため、原告適格を有しない)、棄却した。
〇公式ホームページ 『久能山東照宮について』 https://www.toshogu.or.jp/about/
由緒
久能山東照宮は、徳川家康公をご祭神としておまつりする全国東照宮の創祀です。
徳川家康公は、天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末、戦乱の世に終止符を打ち、江戸時代260余年にわたる世界に其の比を見ない「泰平の世」の礎を築かれ、学問、産業、文化の基礎を確立し近世日本の発展に偉大な功績を残されました。
晩年は大御所として駿府城に在りましたが、元和2年(1616年)4月17日、波乱に満ちた75年の生涯を閉じられました。
徳川家康公は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)との遺言を残されました。
この御遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されました。当宮に対しては朝廷の御崇敬ことのほかに篤く、元和3年(1617年)2月21日には朝廷より「東照大権現」の神号を賜り、また同年3月9日には、正一位御追贈の宣下がありました。また、東照宮ははじめ「東照社」と称しましたが、正保2年(1645年)11月3日宮号の宣下があり以来「東照宮」と申し上げております。
御社殿は中井大和守正清を大工棟梁として元和2年5月着工、同3年12月に至る僅か1年7か月という短期間に造営されました。当時最高の建築技術・芸術が結集された、権現造、総漆塗、極彩色の御社殿は江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されています。
久能山東照宮は創建以来、平和の守護神、国家鎮護の神として朝廷・幕府はもとより広く国民に篤い崇敬を受けてまいりました。平成27年には御鎮座四百年大祭を斎行、今日でも、平和への祈りを捧げるため日本国内はもとより世界各国より多くの方々が訪れています。
皆様におかれましてはどうぞご参拝いただき、久能山東照宮の大神様の広大無辺なる御神徳をいただかれますよう心よりお待ち申し上げております。
〇参考:『久能山東照宮』駿府 静岡市 公益財団法人するが企画観光客 https://www.visit-shizuoka.com/spots/detail.php?kanko=239
徳川家康公はご幼少のころよりあらゆる艱難辛苦を跳ね除け征夷大将軍に就かれました。晩年を駿府(現在の静岡市)で過ごされた家康公は、元和2年(1616年)4月17日に75年の生涯を大成されました。
亡くなる直前、家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託されました。二代将軍徳川秀忠公は直ちにそれを実行し、また久能山に家康公を祀る神社を造営することを発令しました。これが久能山東照宮の始まりです。
大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で社殿が建てられました。当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式は、日光東照宮を始めとする全国の東照宮建築のひな形とされました
また、棟梁中井正清はその生涯で名古屋城(国指定特別史跡)・仁和寺(重要文化財)・二条城(国宝、世界文化遺産)など現在にも残る重要な建造物を手がけましたが、久能山東照宮は晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されております。
また、併設の博物館は徳川家康公が関ヶ原合戦で用いた甲冑である「重要文化財 歯朶具足」、二代将軍徳川秀忠公が久能山東照宮に奉納した「国宝 桐紋絲巻太刀拵(国宝 太刀 銘真恒 拵)」、徳川家康公の神像である「東照大権現像」など、徳川家康公をはじめとする江戸幕府の歴代将軍に関係する文化財を2000点超収蔵しています。
〇参考:『久能山東照宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E8%83%BD%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である。江戸幕府を創始して晩年を駿府(現:静岡市葵区)で大御所として過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去、遺命によってこの地に埋葬された。駿河湾に面した久能山の南斜面に設けられた表参道(1159段の曲がりくねった石段)を登った上に神社がある。
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。
歴史
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。「同年4月(4月)」は旧暦4月(新暦4月)、「同年4月(4月か5月)」は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。
門前より臨む久能山。表参道からは1159段の石段[2]を登り社殿に至る。
久能山(標高216m)は元々、北側にある日本平とともに太古の海底隆起によって形成された。長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。
推古天皇(592年- 628年)の頃、秦氏の末柄にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。
永禄11年(1568年)、駿河侵攻で駿府を制した武田信玄が久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、甲州征伐による武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光東照宮は第3代将軍徳川家光の代における「寛永の大造替」で、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(後述の事情で現存せず)、楼門が増築された。
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家であった。
造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。
年表
<>は関連事項。
近世以前
推古天皇(592年- 628年)の頃:久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立。
元和2年(1616年)
4月17日(6月1日):徳川家康が駿府(現在の静岡市)で死去。
5月(6月):久能山で東照社(現・久能山東照宮)が着工される。
元和3年2月21日(1617年3月28日):朝廷から当社祭神(家康の神格化)に神号「東照大権現」が宣下される。
元和3年12月(1617年1月):東照社(久能山東照社)創建。
寛永年間(1624年- 1645年):本殿、石の間、拝殿が檜皮葺から銅瓦葺きに変わる。
正保2年11月3日(1645年12月20日):朝廷から東照社に宮号「東照宮」が宣下され、これよりのち、「久能山東照宮」の通称が成立する。
近代以降
慶応4年3月(1868年4月):<神仏分離令>
明治3年12月(1871年1月):本地堂(薬師堂)を廃し、境内の日枝神社を遷す。
明治4年5月14日(1871年7月1日):<近代社格制度の制定>
1873年(明治6年)
2月18日:県社に列格。
神仏分離によって五重塔は競売に掛けられ、解体される。
1888年(明治21年)5月1日:別格官幣社に列格。
1946年(昭和21年):社名を「久能山東照宮」とする。(それ以前は「東照宮」)
2006年(平成18年):最近年に実施された社殿塗り替え事業の竣工。
2010年(平成22年)12月:本殿、石の間、拝殿が、国宝に指定される。
祭神
久能山東照宮にある徳川家康の手形
徳川家康(東照大神・東照大権現)
(相殿)豊臣秀吉・織田信長
祭事
■大祭
例祭 4月17日
春季大祭 2月16日 - 18日
秋季大祭 10月17日
■諸祭
月始祭 毎月1日
月次祭 毎月17日
月次誕辰祭 毎月26日
愛宕神社例祭 1月24日
稲荷神社例祭 4月9日
久能神社例祭 5月18日
日枝神社例祭 6月15日
厳島神社例祭 6月17日
竃神社例祭 12月17日
駿河稲荷社例祭 2月8日
文化財
国宝
久能山東照宮 本殿、石の間、拝殿(1棟)[注釈 2](附:安鎮法供養具11組、本殿釣燈籠4箇、拝殿釣燈籠2箇)
江戸時代初期の代表的権現造で元和3年(1617年)落成。寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きとなった。
重要文化財(国指定)
「久能山東照宮」13棟
唐門
東門
廟門
玉垣
渡廊
廟所宝塔(神廟) -本殿の裏手山頂付近にある、家康が埋葬された場所に立つ廟[4]。
末社日枝神社本殿(旧本地堂)(附:釣燈籠2箇)
神庫
神楽殿
神饌所
鼓楼
神厩
楼門
(附:廟所参道(廟門以内、石鳥居及び石柵付)、銅燈籠2基、手水鉢石1口、棟札10枚)
(指定年月日)
明治41年(1908年)8月1日 - 本殿・石の間及び拝殿(合1棟)が古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定。
明治45年(1912年)2月8日 – 唐門、東門、廟門、玉垣、渡廊の5棟が特別保護建造物に指定。
昭和30年(1955年)6月22日 - 廟所宝塔、末社日枝神社本殿、神庫、神楽殿、鼓楼、神厩、楼門の7棟を重要文化財に追加指定。このほか、附(つけたり)指定の安鎮法供養具、廟所参道、銅燈籠2基、棟札10枚もこの日付けで指定。
昭和42年(1967年)12月11日 - 附指定の釣燈籠8基、手水鉢石を追加指定。
平成22年(2010年)12月24日 - 「本殿・石の間・拝殿」が文化財保護法に基づき国宝に指定。同日付で神饌所を重要文化財に追加指定
社殿拝観料は大人:500円 小人:200円。(2016年1月現在)
[朝霧高原]
静岡県富士宮市(ふじのみやし)北方、富士山西斜面の裾野(すその)に広がる高原。標高500~900メートル。新富士溶岩やマサとよばれる固結した火山礫(れき)層からなる乏水地域で、三里ヶ原ともよばれた。第二次世界大戦中は戦車演習地であったが、戦後は開拓が進み、1954年(昭和29)集約酪農地域の指定を受け、放牧地、牧草地も広い。静岡県畜産技術研究所がある。駿河(するが)湾から暖湿な空気が南東の風で運ばれるときに霧が発生しやすい。国道139号が通り、観光地化も進み、野外スポーツ施設のある朝霧高原グリーンパークもある。JR富士宮駅からバス40分。[北川光雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
左が知多半島・右が渥美半島
三河湾も含め、位置再確認。既出問題。
愛知県南部、知多(ちた)、渥美(あつみ)両半島に抱かれた内湾。面積539平方キロメートル。知多半島寄りの知多湾、渥美半島寄りの渥美湾に区別してよぶこともある。伊勢(いせ)湾とは知多半島によって分けられ、水深は湾口の師崎(もろざき)水道、中山水道を除くと大部分が20メートル以下の浅海、湾岸は5メートル以下の遠浅の海で、埋立てによる臨海工業地帯の適地が多く、衣浦(きぬうら)港、三河港には広大な埋立地がつくられ、工業地帯となっている。湾内には島嶼(とうしょ)も多く佐久(さく)島、日間賀(ひまか)島、篠(しの)島をはじめ竹島、大島など小島が散在、それぞれ特色のある観光地となり、内湾、沿岸を含めて三河湾国定公園に指定されている。[伊藤郷平]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
本州ほぼ中央部太平洋岸の湾入。伊勢海ともいう。東は愛知県の渥美半島,西は三重県の志摩半島によっていだかれ,広義には三河湾,知多湾をも含んだ東西約 30km,南北約 60kmの広さとなる。狭義には知多半島と渥美半島先端を結ぶ線より以西の海域をさす。中央部で深さ約 30mの盆地状の海底をなすが,湾口は潮流に浸食され,水深 100mにも達する。更新世の間氷期には海進により内陸深くまで湾が入り込み,古伊勢湾を形成していたが,氷期には今日よりも狭かったことなどが,湾底の浸食谷によって知られる。湾奥部は濃尾平野,西岸は伊勢平野で,湾岸は名古屋市,四日市市,鈴鹿市の各市を中心とする臨海工業地域。水産物が豊富で,貝類は全国屈指の生産額を誇る。イセエビ,アマノリは特産。湾口付近は伊勢志摩国立公園,三河湾国定公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
愛知県南部にある半島。知多半島とともに三河湾をいだく。基盤は赤石山脈の延長で,古生層から成る。その上を洪積層がおおい,全体に台地を形成。最高点は大山 (328m) 。台地は太平洋側が高く三河湾側が低い。太平洋側は海食が著しく,東部では 78mの高さに及ぶ海食崖が発達し,100年間におよそ 100mも海岸が後退した。かつてはシラス,カタクチイワシの地引網漁業が栄えたが,現在は行われていない。大山山麓南部から半島西端は温暖な気候を利用してエンドウ,ダイコン,花卉などを多産し,電照菊,メロン,トマトの温室園芸も盛ん。一部は 1958年三河湾国定公園に,また一部は 68年渥美半島県立自然公園に指定された。伊良湖岬のシーサイドゴルフ場や国民休暇村など観光開発が盛ん。半島中央部を国道 259号線が通じる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年日本地理に愛知県の設問があり、伊勢湾と三河湾を隔てている半島名を聞く設問があった。
愛知県南部,伊勢湾に突出した半島。東部の渥美半島とともに三河湾を囲む。南北 40km,東西の幅は最大 14km,最小 5km。尾張丘陵の延長で,洪積台地や新第三紀層の丘陵が多く,標高は平均 100m前後。近世以来尾張藩の保護を受けて海運業が発達。半田の醸造業,常滑の窯業,知多の木綿工業などがある。1961年半島を南北に走る愛知用水が完成。この用水が北部の酪農,中部の花卉園芸,南部のミカン栽培に役立っている。名古屋市南部臨海工業地域の形成と関連して,北部丘陵地域の宅地化が著しい。南知多は気候温暖で風景が美しく,海水浴,潮干狩り,ミカン狩り,海釣りなどに名古屋から行楽客が多く集まる。三河湾国定公園,南知多県立自然公園に属し,国指定天然記念物の「羽豆神社の社叢」(ウバメガシなど),「鵜の山ウ繁殖地」や大御堂寺(通称野間大坊)などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
愛知県知多半島西岸の市。1954年市制。名鉄常滑線および空港線が通じる。平安時代中期に起源をもつ常滑焼で有名な窯業都市で,建築陶器,衛生陶器,陶管,鉢類,花器,茶器等を生産し,市の製造品出荷額の約4割(2003)を占めている。農村部では知多木綿を特産。愛知用水が通じ,ミカン,野菜の栽培も盛んである。北部の大野は近世江戸,大坂への回船の本拠地であった。伊勢湾岸にヨットハーバーや海水浴場がある。沖合には2005年2月に中部国際空港(セントレア)が開港,東海地方における空の玄関口となる。55.89km2。5万4858人(2010)。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[中部国際空港](セントレア)
伊勢湾東部の海上を埋め立てて建設された国際空港。2008年の空港法で定められた拠点空港の会社管理空港で,旧第1種空港にあたる。愛知県常滑市の沖合い約 3kmに位置する。愛称セントレア。市街地にあるため大幅な拡張が難しい名古屋空港に代わって建設されたもので,騒音問題を避けるため海上への建設を計画,海流に与える影響を考慮して沖合人工島の設計を行なうなど,環境問題への配慮がなされた。1998年に経営主体となる中部国際空港株式会社が設立された。2000年8月に着工し,面積 5.8km2の人工島に 3500mの滑走路が完成,2005年2月17日に開港した。滑走路は 24時間の利用が可能で,中部地方におけるハブ空港を目指している。空港としての機能に加え,充実した商業施設を併設。近郊主要都市とは中部国際空港連絡道路(セントレアライン),名古屋鉄道空港線,フェリー航路で結ばれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年日本地理に赤レンガ建物でかつて製造されて、今復刻販売されているその品物名を答える出題があった。
愛知県知多(ちた)半島東岸にある市。1937年(昭和12)半田、亀崎(かめざき)、成岩(ならわ)の3町が合併して市制施行。JR武豊線(たけとよせん)、名古屋鉄道河和(こうわ)線が通り、衣浦(きぬうら)湾対岸の碧南(へきなん)市へは海底トンネルが通じる。国道247号、366号、南知多道路が南北に走り、知多半島横断道路が通じる。半島中央の丘陵上を愛知用水が貫流し、酪農、花卉(かき)栽培が行われる。古くから清酒、酢、みそなどの醸造業が盛んで、成岩地区は知多晒(さらし)(知多木綿)が特産。酒造は江戸中期に始まり、海運業の発達とともに発展した。1957年(昭和32)半田、亀崎、武豊、大浜など衣浦湾内8港が統合されて重要港湾衣浦港となり、臨海埋立地には金属、機械、繊維、食料品などの工業地帯が造成された。そのなかにあって伝統工業の醸造、繊維業も着実な発展を続けているのが注目される。文化財も多く国指定の重要文化財に常楽寺(じょうらくじ)の木造阿弥陀如来(あみだにょらい)立像、天王町の旧中埜(なかの)家住宅があり、重要無形民俗文化財(およびユネスコ無形文化遺産)に亀崎潮干(しおひ)祭の山車(だし)行事がある。面積47.42平方キロメートル、人口11万7884(2020)。[伊藤郷平]
『『半田市誌』全6巻(1968~1977・半田市)』▽『『新修半田市誌』全3冊(1989・半田市)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[半田赤レンガ建物]
「半田赤レンガ建物」は、明治31(1898)年、横浜赤レンガ倉庫や日本橋(装飾部)なども手掛けた明治建築界の三巨匠の一人、妻木頼黄(つまきよりなか)の設計によるビールの製造工場として誕生しました。中空構造を持つ複壁や多重アーチ床など、現在ではほとんど例を見ない極めて貴重な建造物として、国の登録有形文化財、近代化産業遺産にも登録されています。
そして平成27(2015)年に耐震補強などの改修工事を終えてリニューアルオープンした「半田赤レンガ建物」。
建物内の「カフェ&ビアホール Re-BRICK」では地元の食材をつかった料理とともに、なんと“生”カブトビールが味わえます。
愛知県の公式観光ガイド AichiNow 『半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)』
◎醸造蔵のまち・武豊さんぽ
武豊町は、知多半島の中央部にある小さなまちです。JR武豊線の開通や衣浦港(武豊港)の開港によって醸造業が飛躍的に発展し、「みそとたまりの町」と呼ばれるようになりました。現在でも当時の歴史が色濃く残っている地域があり、ぶらり歩きにはもってこい。武豊駅から歩いて行ける蔵町さんぽ、新しい発見をお楽しみあれ。
◎黒板塀の続くノスタルジックなまち
温暖な気候と良質な水に恵まれた知多半島には、半田や常滑など醸造業の盛んな町が多くあります。その中でも武豊町は、昔ながらの製法が今も受け継がれている味噌蔵のまち。味噌蔵といえば、全国にある多くの蔵がステンレスタンクを使い、3か月ほどの温醸速醸で作られているのに対して、ここ武豊では、昔ながらの杉樽を使って2~3年もの月日をかけて天然醸造を行っています。しかもそのような蔵が、この時代にもかかわらず、5軒もあるというから驚きです。
◎「中定商店」で武豊の醸造文化を学ぶ。
小迎地区にある味噌・たまり蔵「中定商店」では、実際に使われていた蔵を醸造に関する展示施設「醸造伝承館」として公開しています。ここでは、味噌やたまりを醸造するときに使っていた道具や様々な資料が展示され、まるで小さな歴史民俗博物館のよう。
この「醸造伝承館」を、六代目当主・中川安憲さんに案内していただきました。
豆味噌は、大豆を蒸しあげて味噌玉にした後、種麹をまぶし、味噌玉麹を作るところからはじまります。中定商店では、「醸造物の味や香りの要となるのは、麹作りである」と、代々その研究に心血を注いできました。実際の味噌玉を見せていただきましたが、岡崎で見た八丁味噌の味噌玉よりもずっと小さいものであり、そのわずかな違いからも、異なる味わいを生んでいるのがわかります。
こうしてできた麹は、塩水を加えてもろみを作り、杉桶で3年熟成されます。様々な菌が棲みついた蔵や木桶を使うので、温度管理は非常に難しいものの、他にはない味わいが生まれます。とはいえ、それだけで美味しいものができるはずもありません。
冬場は仕込み、夏場は汲みかけと、職人が菌の働きをこまごまと手助けしながら、菌の育ちやすい環境を代々守り継いでいるからこそ、妥協のない美味しい味噌が生まれるのです。
そして、たまりも、豆味噌と同様の作り方をします。昔は味噌を作って、そこでできるたまりも同時に抽出し、販売していたそうですが、現在では別々に仕込んでいるそうです。
唯一違う点としては、底から上までつながっている筒を入れて、上がってきたたまりを表面にかける「くみかけ」。この作業を夏場は毎日、冬場は週に1回程度繰り返して、熟成の度合いを均一にしていきます。不思議なことに夏場には、天敵のカビから守るように、液が石より上まであがってくるのだとか。中川さんは、そういった瞬間に、菌はつくづく生き物だなと、より愛おしく感じるそうです。
この巨大な木桶は、大杉の八尺桶(高さ約2.4m)。これは、他の蔵で通常使われる六尺桶より約2.5倍も大きいサイズですが、中定商店では、20本も使われているそうです。
これだけの数を揃えている蔵は、全国的にみても珍しいといいます。
これらの立派な桶を見て思い出したのは、かつて、酒蔵を訪れた時に聞いた「今では桶やタガを作る職人さんがいない」という話。心配になって、こちらでは大丈夫ですか、と聞いてみたのですが、意外に問題ないとのこと。
そもそも江戸時代に栄えた知多の酒造業が廃業し、明治期にその蔵や杉桶、道具を再利用してはじまったのが、味噌やたまりの醸造業。これらは酒造りと違って桶が痛みにくく、何百年と長持ちするものだとか。
花子とアンロケ地
〇公式HP 博物館明治村 | 愛知県犬山市の野外博物館 https://www.meijimura.com/
〇『犬山市 博物館明治村』Aichi Now (愛知県の公式観光ガイド) https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/22/
明治時代へタイムトリップ
明治期を中心とする60以上の歴史的建造物を展示する野外博物館。高度経済成長の影で消えゆく貴重な明治期の建造物を何とか保存したいと建築家・谷口吉郎氏と名古屋鉄道社長(当時)の土川元夫氏の同窓生の二人が力を合わせて昭和40年に開村、平成27年に50周年を迎えました。
博物館明治村人気No.1の建造物は「帝国ホテル中央玄関」
博物館 明治村来村者に最も人気があるのは、大正12年竣工の「帝国ホテル中央玄関」です。設計はアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライト氏。独自の質感を持つ大谷石に幾何学的な彫刻を施す一方、透かしテラコッタも用いられた美しい建物です。ここで見られるのは、車寄、メインロビー、ラウンジなど。復原するには約17年の歳月を要しました。
女学生になりきって朝ドラのロケ地めぐり
博物館 明治村テレビや映画のロケ地としても有名な明治村。NHK朝の連続ドラマでは「花子とアン」「ごちそうさん」などに採用されています。当時風の女学生の衣装のレンタルもしているので、花子やめ以子になりきって記念撮影するのも楽しいですね。
「明治のグルメ」を食す
博物館 明治村せっかく明治村に来たなら、ここでしか食べられない「明治のグルメ」をお試しあれ。日本初のカクテル「デンキブラン」や文明開化の象徴「牛鍋」、日本のグルメ小説の先駆け村井弦斎著「食道楽」に描かれたコロツケー(コロッケ)を再現・アレンジ。
むずかしくって大ヒット!「謎解きアトラクション」
博物館 明治村さらに人気のイベントが広大な施設を利用した謎解きアトラクションです。参加キットを購入し、村のあちこちに隠された手がかりやヒントを集めて謎を解き明かします。 レベル別になっており、だんだん難しい謎解きに挑戦できるため、何度来ても飽きません。(春時期に開催)
とにかく広いので、見たいもの優先で!
博物館 明治村博物館明治村は敷地がとても広く、見学の仕方によっては1日では回りきれないため、最初に見たいものを決めて見学するのがベスト。目安として重要文化財を見るだけで3時間半、西洋建築中心に回って約3時間、夏目漱石ら明治の偉人ゆかりの建物コースで約2時間。ルートを考えながら上手に回ってください。
スポットの概要 outline
多目的トイレお土産・売店駐車場飲食店バスのりば授乳コーナーWi-Fi
所在地〒484-0000
犬山市内山1番地料金【入村料金】
◎大人:2,500円
◎高校生:1,500円
◎中学生・小学生:700円
◎幼児(未就学児)・明治生まれの方:無料
《村内全域において外国人のお客さま向けにWi-Fi無料》
※ 料金は変更になる可能性がございますので公式サイト等でご確認ください営業日・時間【4月~7月、9月、10月】9:30~17:00
【8月】10:00~17:00
【11月】9:30~16:00
【12月~2月】10:00~16:00
【3月】9:30~17:00
※ 入村は閉村時間の30分前までとなります。
※ イベント開催等により変動有り。詳しくは公式サイトでご確認ください。トイレ有り定休日夏季・冬季に不定期で休村日あり
※ 詳細は、明治村公式HPでご確認ください。お問い合わせ0568-67-0314駐車場◎普通車(900台)
3月~11月:1,000円、12月~2月:500円
◎バス(100台) ※ マイクロを含む
3月~11月:1,500円、12月~2月:1,500円
◎自動二輪車(50台) ※ 原付を含む
3月~11月:200円、12月~2月:200円
〇参考:『博物館明治村』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%9D%91
博物館明治村(はくぶつかん めいじむら)は、愛知県犬山市字内山1にあるテーマパーク型の野外博物館。通称は明治村(めいじむら)。
明治時代の建造物等を移築して公開し、また明治時代の歴史的資料を収集し、社会文化の向上に寄与することを目的とする。管理運営は公益財団法人明治村。
敷地面積が大きく、日本のテーマパークとしては同じく名鉄インプレスが経営するリトルワールドに次いで第3位である。歴史的建造物の多さやその広さから、ドラマの撮影やアニメのモチーフに頻繁に使われている。また明治東亰恋伽などゲームとのコラボレーションや、世界コスプレサミットのサブ会場としての提供なども実施している。
なお、春にはタカラッシュ!が主催する謎解きイベントが2006年より毎年開催されている。秋にはその他毎回様々な企業の主催による謎解きイベントが開催されている。
歴史
第四高等学校の同窓生であった谷口吉郎(博物館明治村初代館長)と土川元夫 (名古屋鉄道会長) が、戦後の急速な経済成長の蔭で失われつつある明治時代の建築物のうち、歴史上にも文化芸術上にも価値があるものを末永く保ちたいとの意見で一致し、そのための財団設立を構想したのが「明治村」の発端である。
価値ある建築物ほど現状(元の場所)のまま保存するのが最善ではあるが、1960年代当時は経済発展(新しい街づくり)が最優先された時期でもあり、次善の策として、土地開発の妨げになるなどの理由で保存が難しい(建築物の歴史的価値を認めて貰えない)ものを譲り受けて移築し、その修復・保存に努めるための財団法人を1962年(昭和37年)7月16日に設立した。当初の計画では、集客に有利な東京も候補地の一つとなっており、別件で偶々買収した荒川区内の大和毛織工場跡地が当初考えられていた。なお、その土地は東京球場建設候補地となったため約2/3を売却したが、残りは子会社のニュー東京観光自動車(2006年に名鉄グループ離脱)が事業用地として保有を続けた。
1965年(昭和40年)3月18日、名鉄が用地の寄付をはじめ財政面で全面的に援助(基金拠出)し、博物館明治村は犬山市の入鹿池の畔に開館した。
開村当時の施設は、札幌電話交換局、京都聖ヨハネ教会堂、森鷗外・夏目漱石住宅など15件であったが、現在では67件(蒸気機関車等も含む)に達している。博物館の敷地も2倍近くの100万平方メートルに広がっている。移築された建物には重要文化財に指定されたものが11件(14棟)あり、それ以外のほとんどの建物も登録有形文化財になっている。
鉄道、郵便、酒造業、病院、裁判所、芝居小屋、学校、教会、灯台など、明治の社会、文化の様々な領域を取り上げ、当時の建物とその内部の関連の展示で、一望することが出来るようになっている。歴史的に貴重な文化財を保存しているとともに、明治時代を追体験できる日本のテーマパークの嚆矢である。鉄道資料は静態保存だけでなく、日本初の営業用電車である旧京都電気鉄道(後に京都市電)の車両(狭軌1型)や正真正銘の「陸蒸気」(名古屋鉄道12号 - 旧鉄道院160形)など、明治の車両を動態保存していることも特筆すべきことである。京都市電は1967年(昭和42年)3月18日、蒸気機関車は1974年(昭和49年)3月18日運行が開始され、いずれも館内移動用の乗り物として実際に乗車できる(京都市電と蒸気機関車は2010年12月20日より老朽による調査・点検のため一時運休していたが、京都市電は2012年9月28日より、蒸気機関車は12号のみ2012年11月8日よりそれぞれ運行を再開。12号は2019年に老朽化による点検整備のため運休していたが、2023年4月20日から営業運転を再開。9号 - 旧富士身延鉄道1形は2015年3月15日から運行を再開。2023年7月25日からオーバーホールのため運休中)。
なお、明治期以外の建物も存在する。例えば、坐漁荘は1920年(大正9年)、帝国ホテル中央玄関は1923年(大正12年)、川崎銀行本店は1927年(昭和2年)竣工である。
現在、名鉄は経営主体かつ「明治村」という名称の商標権者(日本第1823241号他)であるが、実際の運営は2003年に設立された同社の子会社(名鉄インプレス)により行われている。建物の復元もしばらく中断していたが、阪神・淡路大震災で被災し、解体保存されていた芝川又右衛門邸(旧所在地は西宮市。武田五一設計)の再建が2005年1月からはじめられ、2007年9月に公開された(新規公開は中井酒造以来13年ぶり)。
2022年度(令和4年度)には愛知登文会によって、明治村にある建物をイラスト付きで紹介する『あいちのたてもの 明治村編』が刊行された。
開館までの沿革
1961年(昭和36年)10月 - 第1回明治村設立準備委員会が行われる。名鉄が現在地の拠出を提案する。
1962年(昭和37年)
1月 - 第3回明治村設立準備委員会が行われる。札幌電話交換局が移設第1号となることが決まる。
7月16日 - 財団設立。
10月 - 西郷従道邸、学習院長官舎、森鷗外・夏目漱石住宅、名古屋衛戍病院の移築が決まる。
1963年(昭和38年)
4月25日 - 地鎮祭を行う。
10月 - 建物の移築を開始する。
1965年(昭和40年)3月18日 - 開館。
村長・館長
初代「村長」は徳川夢声(1965年 - 1971年)。初代村長が退任後、長い空席期間を経て2代目村長に森繁久彌(1990年 - 2004年)が就任。2004年(平成16年)3月、小沢昭一が3代目村長( - 2012年12月)に就任した。3代目村長の逝去に伴う退任後、しばらく空席が続いたが、2015年(平成27年)3月15日に、4代目村長として阿川佐和子が就任。阿川は初の女性村長である。
歴代の「館長」は、谷口吉郎(1965年3月 - 1979年2月)、関野克(1979年6月 - 1991年6月)、村松貞次郎(1991年6月 - 1997年8月)、飯田喜四郎(1997年12月 - 2010年3月)、5代目館長は鈴木博之(2010年4月 - 2014年2月)で、2014年7月より中川武が6代目館長に就任した(2014年 - )。
花子とアンの撮影時の花子の実家や教会が蔵座敷付近に移築されている。
参考:『韮崎宿豪商の蔵座敷』(山梨県韮崎市)(民俗資料館)
https://www.city.nirasaki.lg.jp/soshikiichiran/kyoikuka/bunkazaitanto/1_1/1/1364.html
名古屋市および周辺
〇参考動画『【総集編】名古屋城|千田嘉博先生が語る“天下の名城”の見どころと歴史とは(河江肖剰・お城博士・戦国時代・徳川家康・エジプト・考古学・遺跡)』河江肖剰の歴史探訪 https://youtu.be/CeTFRiPdUGQ?si=ptKRJnWHFxChCJoE
名古屋城のすべてをエジプト学者河江肖剰教授に千田嘉博教授が詳しく解説。
解説も楽しいが、映像も美しい。
〇関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1610年(慶長15)、
大坂の豊臣方への備えとして、名古屋城の築城を開始します。
築城を命じられたのは、加藤清正、福島正則など、豊臣家に従ってきた西国大名20家。
これを天下普請(てんかぶしん)といいます。
徳川の威信をかけて築かれた名古屋城は、金鯱を頂く巨大な天守、絢爛豪華な本丸御殿、
広大な二之丸庭園、高い石垣と深い堀、堅固で巧妙な縄張などを備え、近世城郭の完成形
といえるものでした。
名古屋城は、江戸260年を通じて御三家筆頭・尾張徳川家の居城として栄えます。
築城にあわせて清須から町ぐるみの引越し「清須越」が行われ、現在の名古屋の街の原型となる、碁盤割(ごばんわり)の城下町が形成されました。
名古屋城は往時の姿をよく伝える国内屈指の城郭として、国の特別史跡(※)に指定されています。
名古屋のまちづくりの原点であり、名古屋文化を物語る名古屋城。
次代に語り継ぐべき、近世城郭の真髄に出会えます。
※特別史跡とは、文化財保護法により指定された史跡のうち、特に価値が高いと認められるもので、国宝と同格とされます。
ホームページ→ 『特別史跡 名古屋城公式ウェブサイト』(名古屋市) https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
参考:『名古屋城』(【公式】名古屋市観光情報 名古屋コンシェルジェ) https://www.nagoya-info.jp/spot/detail/1/
参考:『名古屋城」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E
参考:『【名古屋城】お城博士と巡る「近世城郭の到達点」〜千田嘉博先生が解説(河江肖剰・戦国時代・徳川家康・加藤清正・エジプト・考古学・遺跡・歴史)』河江肖剰の歴史探訪Ch. https://youtu.be/iwNL8l93deE?si=1yXezcfihi7p2W0u
参考:『【本丸御殿】まさかのピラミッド発見!? 豪華絢爛の内部を“お城博士”こと千田嘉博先生が解説(名古屋城・河江肖剰・戦国時代・江戸時代・徳川家康・エジプト・考古学・遺跡・歴史)』河江肖剰の歴史探訪ch. https://youtu.be/BS-kio5j2V0?si=AU2BLkuQzhKCOi5y
2024年NHK朝ドラ『虎に翼』の舞台の一つ、東京地裁としてたびたび登場する。同じく名古屋市(昭和区)の鶴舞公園は、当時の日比谷公園、市役所本庁舎は大学校舎として登場する。同所は、過去にNHKドラマ『白洲次郎』『坂の上の雲』、TBSドラマ『VIVANT』にも登場した。なお、市政資料館は22年~79年に名古屋高裁・地裁として実際に使用されており、主人公のモデルである三淵嘉子も女性初の判事として地裁時代に勤務していた。
参考:『朝ドラ「虎に翼」のロケ地はどこ? あさイチでも話題「裁判所は…」』(毎日新聞) https://mainichi.jp/articles/20240411/k00/00m/200/403000c
HP JRセントラルタワーズ・JRゲートタワー・ゲートウォーク https://www.towers.jp/
参考:『JRセントラルタワーズ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%BA
JRセントラルタワーズ(ジェイアール セントラルタワーズ、英語: JR CENTRAL TOWERS)は、愛知県名古屋市中村区のJR名古屋駅に併設されている超高層複合商業ビル(駅ビル)である。東海旅客鉄道(JR東海)の本社所在地。
オフィス棟の高さは245.1 mで中部地方・東海地方で2番目に高く、ホテル棟の高さは226.0 mで同地方で3番目に高い超高層ビルである(中部地方で1番高い超高層ビルは当ビル南東に所在するミッドランドスクエアで高さ247.0 m)。
概要
百貨店のジェイアール名古屋タカシマヤ、名古屋マリオットアソシアホテル、オフィスなどで構成される複合商業ビルとして1999年に開業した。低層部の百貨店部分は隣接するJRゲートタワー(タカシマヤ ゲートタワーモール)と直結している。高さ200mを超える2つのタワーから成り、日本を代表するツインタワーの一つである。当ビルの開業を契機に再開発が進められ、名駅は日本有数の超高層ビル群へと発展した。
建物の高さはオフィス棟(245.1 m・地上51階建て)の方が高いが、階数はホテル棟(226.0 m・地上53階建て)が多い。竣工時は中部地方で最も高い超高層ビルであったが、現在は当ビルの南東に位置し2006年に竣工したミッドランドスクエア(247.0 m)にその座を譲っている。当ビルは日本国内で8番目の高さを誇る。晴天時には岐阜県の岐阜城(金華山)や三重県の御在所岳などからでもその姿を見ることができ、名古屋のランドマークとして人気スポットになっている。かつては期間限定ではあるものの、名古屋の民放ラジオ局が共同運営するサテライトスタジオがあった。
東京ステーションシティ(東京駅)、大阪ステーションシティ(大阪駅)、JR博多シティ(博多駅)、JRタワー(札幌駅)など、その後のJR各社のターミナル駅の巨大再開発の嚆矢となった。
2010年6月23日には、瀬戸デジタルタワーから送信されている地上デジタルテレビ放送の難視聴を解消することを目的として、NHK名古屋放送局とテレビ愛知がそれぞれ名駅中継局を開局した。
郵便番号は、超高層ビル番号として〒450-60xxがビル専用に設定されている(xxは階数、地階及び階層不明は90、90を除く53より多い数字は入居する特定企業専用の番号となる)。
建物概要
以下は『建築設備&昇降機』等による。
建物名称:JRセントラルタワーズ
建物用途:駅施設・百貨店・ホテル・オフィス・レストラン街・駐車場
建築主:東海旅客鉄道、ジェイアールセントラルビル
設計監修:阪田誠造(坂倉建築研究所最高顧問)
デザインアーキテクト:Kohn Pedersen Fox Associates PC
設計・監理:JRセントラルタワーズ設計共同企業体(大成建設・坂倉建築研究所・東海旅客鉄道)
施工:JRセントラルタワーズ新設工事共同企業体(大成建設・鹿島建設・大林組・清水建設・熊谷組・竹中工務店・鉄建建設・名工建設・ジェイアール東海建設・新生テクノス・東海交通機械)
所在地:愛知県名古屋市中村区名駅一丁目1番4号
地域地区:商業地域、防火地域、駐車場整備地区、名古屋駅都市景観整備地区
敷地面積:82,191m2[注釈 1]
建築面積:18,220m2[注釈 2]
延床面積:416,565m2[注釈 3]
階数:地上51階・地下4階(オフィスタワー)、地上53階・地下4階(ホテルタワー)、地上18階(低層棟)、地上18階・地下3階(一般駐車場棟)
建物高さ:233.55m(オフィスタワー)、214.0m(ホテルタワー)、95.0m(低層棟)、75.9m(一般駐車場棟)
最高高さ:245.10m(オフィスタワー)、226.0m(ホテルタワー)[注釈 4]
基準階階高:ホテル客室階:3,150mm、オフィス貸室階:3,950mm、百貨店売場階:4,400mm、一般駐車場:3,400mm
本体棟構造
基礎構造:場所打ち鉄筋コンクリート杭(拡底杭)及び場所打ち連続地中壁杭支持べた基礎構造
上部構造:鉄骨造及び一部充填鋼管コンクリート造
下部構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
制振装置:アクティブ型、60トン×4基(ホテル棟)、75トン×2基(オフィス棟)
駐車場棟構造
基礎構造:場所打ち鉄筋コンクリート杭(拡底杭)
上部構造:鉄骨造
下部構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
エレベーター:81台
共用部:乗用12台・貨物用1台(カーリフト)
百貨店:乗用10台・人荷用7台
ホテル:乗用11台・人荷用11台(うち非常用2台)
オフィス:乗用20台・人荷用4台(うち非常用3台)
展望台用:乗用2台
駐車場用:乗用3台(うち非常用2台)
エスカレーター:96台
共用部:乗用4台
百貨店:乗用70台
ホテル:乗用10台
レストラン街:乗用12台
リフター:4台(うちヘリポート用2台)
建設の経緯
旧駅舎の老朽化
1937年(昭和12年)に竣工した名古屋駅旧駅ビル老朽化により1990年(平成2年)に基本構想が発表される。
名古屋駅周辺の線路も敷地として含めて申請し、本来の名古屋駅の敷地面積では建設不可能な大規模なものとなったため、建築許可をめぐり問題とされたが、最終的には政治力で認可された。
当初の計画では「ホテル棟60階、オフィス棟57階(高さ270 m)、地下7階、延べ床面積45万m2、ホテル客室850、百貨店店舗面積9.5万m2」であった。このようなツインビルにした理由は、コンコースの下にはすでに名古屋市営地下鉄桜通線が通っていたために、その部分に深い基礎を打ち込むことが困難であったからである。
運営会社の設立
1992年(平成4年)、ホテル業務と百貨店会社を設立。当初は百貨店部門は株式会社松坂屋が支援の予定であった。
旧駅ビル解体
1993年(平成5年)12月2日、同年10月に営業を終了した旧駅ビルと東海旅客鉄道(JR東海)本社ビルを解体開始。
建設開始
1994年(平成6年)6月9日、ビル運営会社のジェイアールセントラルビルを設立。同年8月25日、「JRセントラルタワーズ」起工式。
百貨店運営協力会社決まる
株式会社松坂屋の支援断念に伴い、他の支援先を探し始める。その時点では、当時名古屋市に店舗がなかったそごうの名前も挙がっていた。
その後、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)までに株式会社髙島屋が協力、出資に合意、会社名が株式会社ジェイアール東海高島屋に決まる。
棟上から各施設オープンまで
1998年(平成10年)12月:棟上。
1999年(平成11年)
12月20日:竣工、賃貸オフィスの入居と駐車場が稼働開始。
12月23日:展望台「パノラマハウス」と、12階・13階の「タワーズプラザ」のうちレストラン街16店舗が営業開始。
2000年(平成12年)
3月9日:駅前広場に「タワーズガーデン」と遊歩道「タワーズテラス」がオープン。
3月11日:「タワーズプラザ」の残るレストラン街、多目的ホール、インドアガーデンが全面開業。
3月15日:ジェイアール名古屋タカシマヤが開業。
5月17日:名古屋マリオットアソシアホテルがオープン。
主な受賞歴
2000年 - 第32回中部建築賞
2000年 - 名古屋市都市景観賞
2000年 - 第8回愛知まちなみ建築賞
2000年 - 鉄道建築協会賞特別賞
2000年 - ディスプレイ産業賞2000
2000年 - 照明普及賞
2001年 - 第15回空気調和・衛生工学会振興賞 技術振興賞
2001年 - 2001年度グッドデザイン賞[3]
2001年 - 電気設備学会技術部門施設賞
2002年 - 第43回BCS賞特別賞
2002年 - ギネスワールドレコーズ(ギネス世界記録)
2002年 - 日本建築学会作品選集2002
現況
バブル期に構想されバブル崩壊後に竣工し、一時はその成功が疑問視されたが、竣工後はデパート、オフィス、ホテルとも人気で名古屋の商業中心として名駅を栄と並立する地位に押し上げ、いわゆる「名古屋摩天楼」の先駆けとなったビルでもある。一部では「髙島屋効果」との言い方もあるが、これは地方から一番行きやすい百貨店とJRが宣伝した影響もある。
低層階はジェイアール名古屋タカシマヤ(一部ハンズ)からなる。15階から18階は名古屋マリオットアソシアホテルの共用施設とスカイストリートがある。19階以上の高層階はオフィス棟とホテル棟のツイン構造となっている。オフィス棟には東海旅客鉄道(JR東海)本社、大成建設名古屋支店、三菱商事名古屋支社、株式会社全日警名古屋支社など多くの大企業が入っている。最上部には展望室がある。ホテル棟には名古屋マリオットアソシアホテルの客室が入り、最上部にはレストランとスカイバンケットがある。51階(最上階)にある展望台「パノラマハウス」は2005年(平成17年)10月2日にいったん営業を終了した。その後ジェイアール名古屋タカシマヤがエステ、ワインバー、カフェなどが連なる「パノラマサロン」として改装し再オープンしている。また、大名古屋ビルヂングの建て替えによる取り壊しに伴い、同ビルにあった大名古屋ビル献血ルームが2011年10月8日にオフィスタワー20階に移転し、新たに「献血ルーム タワーズ20」としてオープンした。
名古屋中央郵便局旧局舎(後の同局名古屋駅前分室店舗)の再開発(JPタワー名古屋)に伴い、名古屋駅前分室のゆうゆう窓口・私書箱機能が、同分室から分割される形で当館15階に設置され、同局(後の名古屋西郵便局)タワーズ内分室となっていた(2016年10月31日廃止)。なお1階には当ビル竣工時より、タワーズ内郵便局(2015年12月9日まで)が所在していた(2015年12月14日に旧名古屋駅前分室の仮店舗跡地(名古屋大同生命ビル1階)に移転し、名古屋柳橋郵便局に改称している)。
オフィスタワーに割り当てられている固有の郵便番号は450-60xx(xxは階層。地下・階層不明の場合は450-6090)。オフィス高層用エレベータ・パノラマサロン直通エレベータ(どちらも三菱電機製)は最高分速360mであり、中部一の速度である(現在はミッドランドスクエアや名古屋ルーセントタワーにも同じ速さのエレベータがある)。テナント料の関係上オフィスを撤退する企業も少なくはない。しかし同時に入居する企業もあるので、名古屋の経済状況をあらわすひとつの指標と考えられている。
ギネス世界記録登録および取り消し
完成当時、高さ245 m、また延べ床面積41万6565m2という規模は駅ビルとしては世界最大であったため、2002年に「世界一大規模な駅ビル」としてギネス世界記録に登録されていた。しかし、現在ではギネス社による定義の変更により記録が取り消しされている。同社ではギネス記録の見直しを定期的に実施しているが、JRセントラルタワーズの記録を見直す際、百貨店など多数のテナントが入居していることに着目し、「タワーズは複合施設であり、駅ビル記録の対象外」とした。
記録の更新ではなく取消という形で変更されたため、現在のギネス世界記録には「世界一大規模な駅ビル」という定義の記録自体が存在していない。なお、2012年12月頃には近鉄が大阪阿部野橋駅のあべのハルカスを「世界一高い駅ビル」として記録申請を検討する動きがあったものの、登録には至っていない(当ビルの記録取消時期が不明なため、2012年12月時点で当ビルが記録を保持し続けていたかどうかも定かではない)。
ライツプロムナード
開業した2000年以降、毎年クリスマスを含む年末年始には「タワーズライツ」と呼ばれるビルの壁面を利用したイルミネーションを行っていた。2003年までは神戸ルミナリエに似たデザインだったが、2004年にデザインを大幅に変更した。以後も徐々にデザインを変えていき、末期は白色LEDを多用したシンプルなデザインとなっていた。
「ライツプロムナード」と改称された2010年にはタワーズテラスでのイルミネーションのみ実施。壁面装飾を中止した理由として「名古屋ターミナルビルの建て替え工事でバス停が道路上に移転することに伴い、周辺道路の混雑を回避するため(バスのダイヤの遅れを防ぐため)」としている(2010年11月14日放送のスタイルプラスより)。
また、2010年以降の6年間は名古屋ターミナルビルの建替え工事に伴いビル壁面のイルミネーションを中止し、2017年に再開する予定としていた。だが、翌2011年に東日本大震災が発生。原発停止に伴う節電強化に伴って同年の開催は中止となったが、これ以降もイルミネーションは実施しておらず、事実上2010年で終了した。
上記工事が完了した2017年からは、隣接するJRゲートタワーと共にクリスマスイルミネーションを開始したが、かつてのタワーズライツに比べるとイルミネーションの規模は大幅に縮小した。
開業前の1998年年末から1999年正月にかけては、一部の部屋の照明を点灯させ、外から「98」「99」と見える演出を行っていた。特に1998年の大晦日には、新年のカウントダウンと同時に「98」から「99」へと表示が切り替わる演出も行われている。
名駅デジタルテレビ中継局
NHK名古屋放送局とテレビ愛知は、瀬戸デジタルタワーからの電波が届きにくい名古屋市の南西部をカバーするため、JRセントラルタワーズに地上デジタルテレビ放送専用中継局を設置した。
ミッドランドスクエアHP https://www.midland-square.com/
参考:『ミッドランドスクエア』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%82%A2
ミッドランドスクエア(Midland Square)は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、トヨタ不動産、トヨタ自動車、毎日新聞社の3社が共同所有する複合商業ビルである。正式名称は「豊田・毎日ビルディング」。中部地方・東海地方で一番高い超高層ビルである。オフィス棟のビル固有の郵便番号は、450-62xx(xxは階層。地階・階層不明は450-6290)。
概要
1937年(昭和12年)に高架化されるまでこの地は国鉄名古屋駅の構内だった。1950年代に豊田ビルと毎日ビル(毎日名古屋会館)が建てられたが、その後、阪神・淡路大震災クラスの地震が発生すれば、両ビルとも倒壊するおそれがあることがわかった。このため、トヨタ自動車が主体となって豊田・再開発計画が発案され、再開発が進められることになった。
それに伴い、トヨタグループは旧豊田ビルに入居していた豊田通商の名古屋本社を恒久的に移転させるため、廃業した旧名古屋都ホテル跡地を買収してセンチュリー豊田ビル(2002年竣工)を建設し、毎日新聞社は日本経済新聞名古屋支社の旧社屋を取得し中部本社を仮移転させた。
ミッドランドスクエアは地下6階、地上47階のオフィス棟と地上6階商業棟で構成されるが、オフィス棟には複数の顔がある。東和不動産(2022年にトヨタ不動産に社名変更)には賃貸オフィスビルであり、トヨタ自動車は国内外の営業拠点、毎日新聞社は中部の情報発信基地という位置づけである。計画当初は、駅前の立地を生かすには商業施設が不可欠といった意見がある一方、商業は必要ないとの声もあった。これらの異なる意見をいかに集約するか。これがこのプロジェクトの最大のテーマでもあった。これをまとめるため、設計者の日建設計は合宿方式を提案。毎週、定例会を開き、2~3ヶ月に1回のペースで3事業者の研修施設などを利用し、合宿することを3度繰り返した。
サンクンガーデンの配置やタクシー乗り場、さらに雨水貯留施設など公共貢献施設を取り込んだことによって、都市再生特別地区の提案第1号プロジェクトとして、容積率が1420%に緩和され、市街地再開発の補助金も受けた。展望高220mの屋外型展望施設「スカイプロムナード」があり、2023年(令和5年)4月には44階部分がリニューアルされ、最高階に非公共ヘリポートのトヨタ名駅ヘリポートが設けられている。
外部から各オフィスへの宅配サービス及びビル内の書類運搬等の物流管理システムは、ヤマト運輸が一括して受託運営している。
ミッドランド(Midland)とは「中部地方」の意味で、当初の設計ではJRセントラルタワーズ(高さ245.1m)と同じ高さになる予定であったが、更に2m高く変更され、高さ247.0mとなり中部地方で最も高いビルとなった。日本国内では、第9位の高さである。2008年(平成20年)12月に、東海旅客鉄道(JR東海)が名古屋市バスターミナルと松坂屋名古屋駅店(閉店)などの入居していた名古屋ターミナルビルを高さ260mのビルに建て替える計画を発表したため、ミッドランドスクエアの高さを超えて中部地方で最も高いビルの座を譲る可能性があったが、その後設計を220mに変更したため、ミッドランドスクエアは中部地方で最も高いビルを維持している。
エレベータ
エレベータ計画はシャトル、高層、中層、低層の4つのバンクで構成している[1]。外観の特徴ともなっている4基のシースルーダブルデッキシャトルエレベーター(三菱製)は定員66人乗り(33人乗り×2段)、速さ360m/minで2箇所に停止し、到着階のエスカレータにて結ばれている。このエレベータの設置により高層バンクと低層バンクを平面的に重ねることが可能となりレンタブル比の向上に貢献している[1]。また垂直方向の視覚的な動きで都市空間のダイナミズムを与えることで、"元気な街"と称される名古屋駅前のアイデンティティを創出することを目的としている。
オフィス棟
オフィス棟9階から40階が賃貸オフィスになっている。奥行き15.7m、幅約53mのコの字平面計画とし、約2000㎡の執務空間になっている。天井高さ2.9m、最大10分割が可能な計画となっており、さまざまなテナントに対応することのできる、ゆとりとフレキシビリティに考慮したオフィス計画としている。
17階から40階にはトヨタ自動車の国内外の営業部門などが入居。南北に120人が収容可能な執務スペースを設け、眺望の良い東側中央部にはコミュニケーションスペースと呼ばれる2層吹き抜け空間を互い違いに構成し、多目的空間を配置した[1]。また2023年(令和5年)6月には、東海地方の文化振興の一環として、25階のこれまでは会議や展示などに使われてきたスペースを日本将棋連盟に無償貸与し、名古屋将棋対局場が開設されている。
9階の半分近くは毎日新聞社が中部本社として使用する。
〇公式ホームページ https://www.higashiyama.city.nagoya.jp/
〇参考:『名古屋市東山動植物園』名古屋公式観光情報 名古屋コンシェルジェ https://www.nagoya-info.jp/spot/detail/4/
都会の中で豊かな自然に囲まれる「地球のいのちに出会う森」
2023年オープンのアジアの熱帯雨林エリアや新ジャガー舎も注目!
小さなメダカから大きなアジアゾウまで飼育種類数は日本一で、多種多様な動物たちを観察することができます。
イケメンで有名なニシゴリラのシャバーニが暮らすゴリラ・チンパンジー舎、ゾージアム(アジアゾウ舎)やコアラ舎などの多様な展示施設では、動物を観察するだけでなく、その生態や生息地の紹介など学習展示も豊富。楽しみながら学ぶことができます。
植物園には大温室や丘陵地の自然林を利用し約7,000種の植物を展示しています。桜の回廊には約100品種1,000本の桜が春を彩ります。秋には奥池や日本庭園を中心に約500本の樹木が色づき、市内屈指の紅葉スポットとなっています。その他にも椿園、バラ園、お花畑など四季折々の趣のある風景を楽しめます。
〇参考:『東山動物園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%8B%95%E6%A4%8D%E7%89%A9%E5%9C%92
東山動植物園(ひがしやまどうしょくぶつえん)は、愛知県名古屋市千種区東山元町の東山公園内にある市営動植物園。1937年(昭和12年)に開園した。
概要
名古屋市東部の丘陵地にあり、1937年(昭和12年)3月3日に植物園、同24日に動物園が開園した。その後、1968年(昭和43年)に動物園及び植物園を統合して有料公園施設「東山動植物園」となった。
動物園
動物園は主に本園と北園で構成されている。本園ではアジアやオセアニアに生息する動物、ネコ科の動物を中心に展示している。北園ではアフリカやアメリカで生息する動物を展示しているほか、世界のメダカ館、両生・爬虫類や夜行性動物等を展示した自然動物館がある。このほか展示コーナーや図書室を備えた動物会館、こども動物園などがある。
収容動物は哺乳類104種526点、鳥類65種245点、は虫類77種220点、両生類46種164点、魚類182種11,432点、節足動物13種134点となっている(2016年3月31日現在)。
植物園
園内の約60%はアベマキ、コナラが優先する二次林となっている[2]。また、国の重要文化財である温室前館などの鑑賞温室のほか、お花畑や桜の回廊、地域の自然学習林、東海モデル林などがあり、万葉の散歩道や東海の森などの遊歩道も整備されている。
保有植物は羊歯植物門29科(70属)265種、種子植物は裸子植物亜門が13科(35属)142種、被子植物亜門が203科(1,556属)6,650種となっている(2016年3月31日現在)。
2017年(平成29年)の年間入場者数は、日本国内で上野動物園に次ぐ約240万人となっている。2005年(平成17年)から2009年(平成21年)までの5年間は、北海道の旭山動物園に次ぐ3位だった。2017年(平成29年)現在、飼育種類数は日本一。
施設
施設概要
正式名称:名古屋市東山公園 動植物園[1]
開園:1937年(昭和12年)
敷地面積:59.58ヘクタール(動物園32.21ヘクタール、植物園27.37ヘクタール)
所在地:愛知県名古屋市千種区東山元町3-70
最寄り駅:名古屋市営地下鉄東山線 東山公園駅
展示物:動物550種1万5,690点、植物230科7,000種(2009年現在)
管理運営:名古屋市
スカイビュートレイン
1987年(昭和62年)3月、二代目モノレール(跨座式)として「スカイビュートレイン」が開業した。スカイビュートレインが開通する以前には、動物園と植物園との間におとぎ列車や本格的な懸垂式モノレール(東山公園モノレール)が走っていた。このうち後者はサフェージュ式モノレールの実用試験として当園に導入されたものだった。
歴史
動物園
開園当時(1937年(昭和12年))から現存する正門の4基の門柱(左)と噴水(右)。共に認定地域建造物資産。
1890年(明治23年)に、動物商の今泉七五郎により公開された「浪越教育動物植物苑」を起源としている。1917年(大正6年)に名古屋市議会で「動物園建設に関する意見書」が可決され、翌1918年(大正7年)3月20日に今泉が動物を寄付。同年4月1日に鶴舞公園において「名古屋市立鶴舞公園付属動物園」として開園した。
1935年(昭和10年)4月3日に東山公園が開園すると、同年10月30日に名古屋市議会で動物園の移転拡張を可決。1937年(昭和12年)3月3日に東山植物園が先行して開園し、3月24日に東山動物園が開園した。
第二次大戦前には、ゾウ・キリン・ライオン・トラなど700種1,200点という動物数を誇る大動物園となる。戦中、上野動物園や天王寺動物園と同様、空襲によって暴れだしたら問題だということで多くの動物が殺されたり(戦時猛獣処分)、餌不足により餓死するなどし、終戦まで生き延びたのは5種26点(ゾウ2頭、チンパンジー1頭、カンムリヅル2羽、カモ20羽、白鳥1羽)だけであった。しかし北王英一園長や千種警察署長の大野佐長などの努力があり、日本国内では唯一ここの2頭のゾウだけが終戦時まで生き延びたため(厳密には京都市動物園にも1頭が終戦時には生存していたものの、戦後間もなく死亡した。)戦後になるとゾウを見ようと全国から小中学生団体が詰めかけた(象列車の項目も参照)。
1984年(昭和59年)には、日本で初めてコアラが来日し、コアラ舎には連日の行列ができた。
2015年(平成27年)、ニシローランドゴリラ「シャバーニ」が「イケメンゴリラ」として話題になった。
植物園
先述のように、東山植物園は1937年(昭和12年)3月3日に開園した。植物園用地は覚王山東一帯の森林地帯で、東区田代町と天白村八事付近のもともと御料林だった場所であり、各地主が名古屋市に寄付した土地である。
東山植物園温室が地元企業の寄付で建設され、開園前の1936年(昭和11年)に前館(鉄骨造)と後館(木造)が竣工した。このうち温室前館は建築面積596m2、東西長さ66.5m、最高高さ12.4mで「東洋一の水晶宮」と称された。
温室前館は日本最初期の本格的な鉄骨造温室建築であるとともに全溶接建築物として建築技術史上高い価値があるとして、2006年(平成18年)に国の重要文化財に指定された。名古屋市は文化庁と協議し、2013年(平成25年)から2020年(令和2年)にかけて開園時に近づけるための保存修理事業を行った。そしてイタリア風洋風庭園と合わせて2021年(令和3年)4月23日より一般公開されている。
温室後館については建て替えのため2025年(令和7年)5月11日に閉鎖となっており、2030年度以降の再オープンを目指している。建て替え前の温室後館の建物は1960年(昭和35年)開設の「ハワイアンハウス」が基になっており、増築により1988年(昭和63年)からは5つの温室で構成されていたが、建て替えにより5室を一体化する。
1996年(平成8年)には「東山植物園の野鳥」が日本の音風景100選に選ばれた。
東山動植物園再生プラン
名古屋市は、松原武久市長時代に「東山動植物園再生プラン」を策定した。のちに市長となった河村たかし市長はこのプランの撤回を表明した。
その後、2010年(平成22年)に「東山動植物園再生プラン新基本計画」が策定され、社会情勢の変化と新たな視点の追加として基本計画の見直しが行われている。
年表
1890年(明治23年) - 動物商の今泉七五郎が中区前津町に「浪越教育動物植物苑」を開設。
1910年(明治43年) - 「浪越教育動物苑」として大須門前町へ移転。
1918年(大正7年)
3月20日 - 今泉七五郎が動物を寄付。
4月1日 - 前身の「名古屋市立鶴舞公園付属動物園」が開園。
1937年(昭和12年)
3月3日 - 東山公園内に「東山植物園」が開園。
3月24日 - 鶴舞公園より移転し「東山動物園」として開園。
1940年(昭和15年) - 国内で初めてオグロヌーの繁殖に成功する。
1944年(昭和19年)12月13日 - 名古屋空襲を受けて、ライオンなど7頭の戦時猛獣処分を実施。
1945年(昭和20年)1月13日 - 一般観覧を中止(園舎が陸軍の倉庫として提供されたため)。
1946年(昭和21年)3月17日 - インドゾウ、チンパンジー、鳥類など収容動物26点で再開園[5]。
1953年(昭和28年) - 国内で初めてエランドの繁殖に成功する。
1959年(昭和34年) - カメルーンからゴリラが来園し、ゴリラショウが始まる(1968年まで)。
1960年(昭和35年) - 国内で初めてブラジルバク、ムーアモンキーの繁殖に成功する。
1964年(昭和39年) - モノレール開業(1974年廃止)。
1966年(昭和41年) - 国内で初めてクーズーの繁殖に成功する。
1967年(昭和42年) - 国内で初めてトムソンガゼル、ボブキャットの繁殖に成功する。
1967年(昭和42年)10月22日 - 北園で10歳の娘とゴーカート(ホンダ製)に乗っていた33歳主婦の三つ編に結われた髪が、座席後部50センチ下のむき出しになったエンジンシャフトに巻き込まれ、背板に頭を強打して首の骨を折り即死する事故が発生。
1968年(昭和43年) - 動物園と植物園の共用を開始。
1969年(昭和44年)10月17日 - ロサンゼルス動物園と姉妹動物園になる。
1970年(昭和45年) - 国内で初めてベンガルヤマネコの繁殖に成功する。
1976年(昭和51年) - 国内で初めてラーテルの繁殖に成功する。
1978年(昭和53年) - 国内で初めてビクーナの繁殖に成功する。
1981年(昭和56年) - 国内で初めてドールシープ、クロコンドルの繁殖に成功する。
1984年(昭和59年)10月25日 - タロンガ動物園からコアラ2匹が来園。コアラの名は「コロコロ」と「モクモク」[5]。
1986年(昭和61年)9月15日 - 日本で最初にコアラの繁殖に成功。「ハッピー」(メス)が誕生。
1987年(昭和62年) - 開園50周年記念「なごやHAPPYフェア」開催。サンディエゴ野生動物公園からボンゴが来園。スカイビュートレイン竣工。国内で初めてヤブイヌの繁殖に成功する。
1989年(平成元年) - 国内で初めてリビアヤマネコ、ボンゴの繁殖に成功する。
7月11日 - 東山スカイタワーが開館。
10月28日 - 自然動物館が開館。
1991年(平成3年)11月 - インドサイの「ニルギリ」が来園。
1993年(平成5年) - 世界のメダカ館が開館。
1996年(平成8年)9月30日 - タロンガ動物園(オーストラリア)と姉妹動物園になる[5]。
1999年(平成11年) - インドサイ「ドラ」誕生。国内で初めてマヌルネコの繁殖に成功する。
2000年(平成12年) - 国内で初めてジャガランディの繁殖に成功する。
2002年(平成14年) - 国内で初めてパンケーキリクガメ、ビルマホシガメの繁殖に成功する。
2003年(平成15年) - ゴリラ「アイ」、インドサイ「セラ」誕生。
2004年(平成16年) - 植物園温室前館が国の重要文化財の指定を受ける。
2007年(平成19年) - ワ〜オチューブ、カンガルー広場が完成。6月2日にコアラのチロル生まれる。母親のミルクが十分に出ず、成長不良だったため2月24日から人工飼育となる。
2009年(平成21年)
4月18日 - 「地域の自然学習林」完成記念式典を開催。
5月4日 - コアラ舎の前にスカイビュートレインの車輪の部品が落下する事故が発生したことを受けて運休。2010年(平成22年)3月18日より運行再開。
2010年(平成22年) - 7月17日にコアラのチロルが白血病により死去。
2013年(平成25年) - 日本6例目のアジアゾウの出産に成功する。「さくら」と名付けられた。
2013年(平成25年)10月 - 国内で飼育する唯一のドールシープ「ラン丸」が死去。
2014年(平成26年) - 植物園温室前館修理。
2014年(平成26年)12月 - 2008年10月にインドネシアのスラウェシ島・ティウ湖で採集し、同園で飼育していたメダカが新種と認められる。名称は「ティウメダカ」で、採集地であるティウ湖から名付けられた。
2015年(平成27年)1月 - 新種のメダカであるティウメダカの公開が始まる。
2018年(平成30年)9月 - 新ゴリラ・チンパンジー舎がオープン。
2021年(令和3年)3月 - レッサーパンダ舎がオープン。
2023年(令和5年)
7月 - 本園内にアジアの熱帯雨林エリアを開設。(展示動物:スマトラトラ、スマトラオランウータン、コサンケイ)
10月 - 北園に新ジャガー舎開設。
2024年(令和6年)
8月23日 - コモドオオトカゲの展示(国内では唯一)を開始[23]。
11月25日 - スマトラトラの「ダマイ」が亡くなる。
〇ジブリパークHP https://ghibli-park.jp/
〇参考:『ジブリパーク』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
ジブリパーク(英語: Ghibli Park)は、愛知県長久手市の愛・地球博記念公園内にある「スタジオジブリ」(以降「ジブリ社」)の世界を表現した公園施設、テーマパーク。2022年11月1日に開園した。
概要
園内には『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『ハウルの動く城』など、ジブリ社が制作した映画作品を題材にした展示・演示施設が広大な公園敷地内(総整備面積は7.1ヘクタールで、公園全体の3.7%となる予定である)に分散した形で設置されている。2017年に計画が初めて発表され、上述の開設日には第一期として3エリアが開業。
その後、2023年11月1日に「もののけの里」エリア、2024年3月16日に「魔女の谷」がオープン。ジブリパーク専用の駐車場はないため(公園の駐車場があるが、駐車可能台数に限りがあるため)、公園付近にあるリニモの愛・地球博記念公園駅が主なアクセス手段となる。
運営会社は、中日新聞社とジブリ社の共同出資により2019年11月1日に設立された株式会社ジブリパークである。
沿革
2005年3月から9月にかけて行われた愛・地球博(以降「万博」)の長久手会場(現在の長久手市)にはジブリ作品の一つである『となりのトトロ』に登場する「サツキとメイの家」を再現したパビリオンがすでに設置されていた。
この万博開催から10周年にあたることを記念して、2015年9月から11月にかけて愛知県と公益財団法人都市緑化機構は、「第32回全国都市緑化フェア」を会場の跡地である愛・地球博記念公園にて開催。あわせてジブリ映画に関連した前述の建物がすでに存在したことから、特別企画として「ジブリの大博覧会」が開催された。
これをきっかけとして愛知県知事の大村秀章はジブリ社に対して「ジブリの世界観を永続的に楽しめる施設を作りませんか」と提案。自身の上京のたびに事務所へ足を運んだ大村の7、8回にわたる懸命な説得の末ジブリ側もついに了承した。なお、東海地域におけるジブリ展は2008年に第1回が開催されている。
2017年5月31日、大村はジブリ社の鈴木敏夫プロデューサー(愛知県名古屋市出身)と面会し、愛・地球博記念公園の敷地内に「ジブリパーク(仮称)」を建設する構想について正式に合意した。11月1日、建設部公園緑地課内に「ジブリパーク構想推進室」を設置。
2019年5月31日、愛知県とジブリ社、中日新聞社は、県がジブリパークを整備し、ジブリ社と中日新聞社が共同出資して設立する新会社が管理運営を担うことで基本合意した。同年10月2日、愛知県はジブリパーク整備について、設計段階から建設会社の知見などを反映する「ECI方式」を導入し、鹿島建設中部支店と設計段階から協力する業務契約を結び、11月1日、新会社「株式会社ジブリパーク」が設立された。
2020年2月4日、愛知県はジブリパークの概算事業費が約340億円に上ると発表した。その後7月28日には本体工事の起工式が行われた。
2021年6月2日、「もののけの里エリア」「魔女の谷エリア」と周辺の公園緑地の工事について、愛知県が鹿島建設と仮契約したことが発表された。請負金額は約106億円。
2022年1月27日、ジブリパークに関するメディア向け発表会が開催された。その中で「青春の丘」「ジブリの大倉庫」「どんどこ森」の3エリアは2022年11月1日に先行開業し、「もののけの里」「魔女の谷」の2エリアは2023年秋頃に開業すると発表された。県は波及効果を年間480億円と試算している。
6月、翌年末に終了予定の第2期工事で追加が予定されていた「魔女の谷」「もののけの里」エリアに関して、建設に用いる木材の調達に時間を要するとして「魔女の谷」エリアのオープンが2024年3月に延期されることが発表された。また、併せて「もののけの里」の隣には、誰でも無料で遊べる『猫の恩返し』をモチーフにした遊び場が設置されることも公表された。7月にはチケット販売に関するスケジュールが発表され、その中で「ゆっくりきて下さい。」というキャッチコピーが記載されたポスターも公開された。
7月16日、長野会場を皮切りに、「ジブリパークとジブリ展」と称し、ジブリパーク誕生の舞台裏を紹介する展覧会を開催。長野、愛知、熊本、兵庫、山口、高知、新潟、東京、青森の各都市で開催し、岡山が最後の巡回地となった。
10月、愛知県はジブリパーク開園に伴う交通アクセス向上のために「愛・地球博」開催時に用いられていた「リニモ」1編成を広島県三原市の三菱重工業株式会社の工場から買い戻し、再活用することを発表した。また同月12日には国内外から100社以上の報道陣を迎えての内覧会が行われた[33]。10月31日に掲載された日本経済新聞で、鈴木敏夫は以下の通り語っている。
「お膳立てをやってくれた方はいっぱいいる。最初にこの公園にジブリを持って来てはどうかと言ったのは、当時中日新聞社の会長だった白井文吾さんだった。それが7年前でスタートした。それと前後して大村秀章知事が東京の僕の事務所に来た。数えたら8回も足を運ばれた。それに負けた。愛知県でジブリパークをやったら、忙しくなるに決まっている。それが嫌だからなんとか避けようとしたのだが[34]」
11月1日、第1期エリアが開業した。当日の中日新聞・東京新聞と北陸中日新聞・日刊県民福井は本来の1面を変更し、「ジブリパーク 11月1日より」の見出しで全面広告が展開された。
11月11日、ジブリ社監修の下、Apple Music独占で名古屋市営地下鉄東山線名古屋駅からジブリパークまでの行き帰りを楽しむプレイリスト『ジブリパーク:行き』と『ジブリパーク:帰り』が公開された。
2023年2月、愛知県は「もののけの里」「魔女の谷」エリアの詳細な整備内容を発表。また、それと同時に愛・地球博記念公園内の移動手段としてトヨタ自動車が開発した電動低速モビリティ「APM(Accessible People Mover)」を活用し、「となりのトトロ」に登場するネコバスをイメージした車両の導入を検討していることも明かされた。
テーマ別のエリア
愛・地球博の会場や当時用いられていた建物内に、以下の5つのテーマ別エリアが設けられている。各々のエリアごと、1つ(あるいは複数)のジブリ作品が題材となっている。
ジブリの大倉庫
2018年に閉館した温水プール内部に設置された。全長6mの「空飛ぶ巨大な船」や、『天空の城ラピュタ』の廃墟となった庭園、子どもが中に入れる「ネコバス」、それまで三鷹の森ジブリ美術館で限定上映されてきた短編上映作品を上映する「映像展示室オリヲン座」(上映用機材はスタジオジブリ社屋内の試写室と同程度のものを使用している)等が位置している。ロボット兵など、ジブリのキャラクターも展示される。2022年11月1日オープン。
青春の丘
主に『耳をすませば』をモチーフにしており、同作に登場した骨董品店である「地球屋」が設置される。また、『猫の恩返し』の「猫の事務所」が猫サイズの建物として再現されている[42]。2022年11月1日オープン。
どんどこ森
2005年の万博ですでに建設されていた「サツキとメイの家」周辺のエリアとなる。改修工事のため一時的に閉鎖されたが、他の園内施設とともに再オープンした。エリアの名前は、映画のワンシーンでサツキ、メイ、トトロが踊る「どんどこ踊り」に由来している[44]。また、裏山には木の遊具も設置され、「サツキとメイの家の裏手にある裏山の頂上には『どんどこ堂』が待っている」と公式サイトで紹介されている。2022年11月1日オープン。
もののけの里
『もののけ姫』を表現するエリア。体験学習ができる施設として「タタラ場」の整備や乙事主(おっことぬし)をモチーフとした滑り台などが導入された。2023年11月1日オープン。
魔女の谷
『魔女の宅急便』や『ハウルの動く城』など、「魔女」の登場するジブリ作品からインスピレーションを得ている。このエリアにはレストランや遊具も設置された。また、『魔女の宅急便』に登場するオキノ邸(キキの実家)や、劇中でキキが働いていた「グーチョキパン屋」なども再現された。さらに実物大のハウルの動く城があり、映画で登場した帽子屋も登場した。パーク内で最も大きなエリアとして2024年3月16日にオープンされ、オープン前には約1ヶ月にわたっての大規模メンテナンス休園の実施を発表している。
チケット
園内には3つのエリアが存在するが、チケットは各エリアごと日時指定の完全予約制である。
毎月27日(11月27日に愛知県政が施行されたことによる)は「愛知県民デー」として、愛知県民を対象にしたチケットの優先販売が行われる。
株式会社ジブリパーク
GHIBLI PARK Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
〒460-0001
愛知県名古屋市中区三の丸一丁目6番1号
中日新聞社内
設立 2019年11月1日
業種 サービス業
法人番号 8180001138707
事業内容 愛知県「愛・地球博記念公園」内公園施設「ジブリパーク」の管理運営、「ジブリパーク」関連グッズの製造・販売、「ジブリパーク」展示物等の企画・製作・請負、レストラン・カフェの運営。
代表者 大島宇一郎(中日新聞社代表取締役社長)
主要株主 スタジオジブリ
中日新聞社
外部リンク ジブリパーク
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株式会社ジブリパークはジブリパークの管理運営を行う施設運営会社である。
2019年11月1日、ジブリ社と中日新聞社の共同出資により設立された。ジブリパークの管理運営を行い、ジブリ社に対してに施設使用権など権利料を支払う。代表取締役社長は中日新聞社社長の大島宇一郎、運営本部長兼開発準備室長は岡村徹也が就いた。
2022年3月31日、ジブリパークの理念に賛同し、「ジブリパーク」の名称を使ったPR活動に協力する「オフィシャルパートナー」を発表した(2023年4月に日本航空がパートナーに加わった)。園内にはパートナー企業が協賛していることを示すロゴなどは設置されない。企業の内訳は下記のとおり。
カシオ計算機
KDDI
JTB
敷島製パン
島村楽器
増進会ホールディングス
中部電力
東海東京証券
豊島
トヨタ自動車
豊田通商
トヨタホーム
名古屋鉄道
NTPホールディングス
南山大学
日清製粉グループ本社
日東工業
日本特殊陶業
日本生命保険相互会社
乃村工藝社
プリマハム
三菱UFJ銀行
日本航空
熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まります。
第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。
尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。
以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお社として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社(※)に列せられ
国家鎮護のお社として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました。
約6万坪の境内には、樹齢1,000年を越える大楠が緑陰を宿し、宝物館には信仰の歴史を物語るものとして、
皇室を初め全国の崇敬者から寄せられた6,000余点もの奉納品が収蔵展示されています。また、剣の宝庫 草薙館では、当神宮に奉納された名刀約450口を順次展示しています。
境内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられています。
祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。
天照大神は、言うまでもなく、皇室の祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。
当神宮の鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東征の帰途、尾張国造の御子(みこ)である宮簀媛命をお妃とされ、やがて草薙神剣をこの国に留めておなくなりになります。宮簀媛命は尊の御遺志を重んじて、神剣を今の熱田の地に祀られました。今からおよそ1,900年前になります。
公式HP https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/
愛知県名古屋市熱田区神宮にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。
三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている(「天叢雲剣」を参照)。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は景行天皇43年、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年(大化2年)と伝わる。古くは尾張国(現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)(『熱田明神講式』)、「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る。
建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。
初詣には毎年200万人以上の参拝客が訪れる。
参考:『熱田神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE
西尾市岩瀬文庫HP https://iwasebunko.jp/
愛知県西尾市亀沢町の鶴城公園内
西尾市岩瀬文庫は、重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書8万冊余りを保存・公開する書物の博物館です。日本の本の長い歴史やゆたかな文化について体験しながら学べるユニークな展示を行なっています。
西尾市岩瀬文庫は、明治41年に西尾市須田町の実業家である岩瀬弥助が、本を通した社会貢献を志して創設した私立図書館として誕生しました。戦後に西尾市の施設となり、平成15年4月に日本初の「古書の博物館」としてリニューアル、平成19年12月7日に登録博物館となり、平成20年5月6日には創立100周年を迎えました。
重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書8万冊余りを保存・公開し、日本の本の長い歴史やゆたかな文化について体験しながら学べるユニークな展示を行なっています。(HPより)
2025年5月24日(土)〜2025年8月24日(日)
江戸の出版文化と蔦屋重三郎〜日本出版物語〜
岩瀬文庫企画展100回記念特別展(前期)開催
展示終了後、手に取って読むことができる。
2022年日本地理問題に岐阜県、木曽山脈、島崎藤村を問う問題が出題。馬籠宿と島崎藤村は出題頻度多し。
◎馬籠
岐阜県中津川市東部にある一地区。長野県木曽(きそ)郡山口村に属していたが、2005年(平成17)山口村は中津川市に越県編入された。近世、中山道(なかせんどう)木曽十一宿の最南端にある宿駅として繁栄した。当時を示す民家や石畳、芭蕉(ばしょう)の「送られつ送りつ果ては木曽の秋」の句碑がある。また、島崎藤村(とうそん)の生地で、藤村の小説『夜明け前』の舞台として知られ、藤村記念館、藤村の筆になる「是(これ)より北木曽路」の碑などがある。馬籠峠を越えて妻籠(つまご)へ至るハイキングコースがある。
[小林寛義]
『瀬沼茂樹著『木曽路と島崎藤村』(1972・平凡社)』
[参照項目] | 島崎藤村 | 中津川(市) | 馬籠峠 | 山口
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
◎木曽山脈
本州の中央部を長野県の木曽谷と伊那谷に跨って南北に連なる、木曽川と天竜川に挟まれた山脈である。
伊那谷断層帯(伊那谷)と木曽山脈西縁断層帯(木曽谷)の間に連なる隆起山脈である。飛驒山脈(北アルプス)や赤石山脈(南アルプス)とともに日本アルプスを構成するが相対的には規模が小さい。最高峰は木曽駒ヶ岳の2,956mで、長野県歌「信濃の国」の歌詞にも出てくる。
◎島崎藤村
[生]明治5(1872).2.17. 長野,馬籠
[没]1943.8.22. 大磯
詩人,小説家。本名,春樹。 1891年明治学院卒業。 93年北村透谷らと『文学界』を創刊,浪漫主義文学運動の渦中に身を投じ,青春彷徨の日を過した。 97年近代詩の黎明を告げた詩集『若菜集』を出版,1901年の『落梅集』にいたる間,詩壇の第一人者として君臨。 04年それまでの詩集の合本『藤村詩集』を刊。その後詩作を絶ち,06年小説『破戒』により自然主義文学の出発を導き,その後も『春』 (1908) ,『家』,『桜の実の熟する時』 (14~18) ,『新生』を経て,『夜明け前』の大作を完成。 36年ペンクラブ会長,40年芸術院会員。『東方の門』 (43~) 執筆中に急逝した。常に新しいものへの情熱と知性の調和を失わない求道者的作家であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『島崎藤村』
参考:『不破関跡』関ケ原観光ガイド(関ケ原古戦場おもてなし連合 関ケ原観光協会事務局) https://www.sekigahara1600.com/spot/fuwanosekiato.html
参考:『関ケ原の歴史 古代(飛鳥・奈良時代)』関ケ原町歴史民俗資料館 https://rekimin-sekigahara.jp/main/history/
参考:『不破関』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E9%96%A2
不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所の一つ。現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあり、史跡としては不破関跡(美濃不破関跡)と呼ばれる。
歴史
創設
『日本書紀』巻第28壬申紀(天武天皇元年(672)6月壬午(22)条)によれば、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依らに命じ、安八麿郡(安八郡)湯沐令の多臣品治(多品治)が郡で兵の徴発を行って「不破道」を塞ぎ、これが大きな勝因となった。
壬申の乱後、律令体制のもとで都の警護のため、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関(あらち)とともに東山道に不破関が「三関(さんげん)」として整備された。
不破関の創設時期については、遺跡からの出土遺物のほとんどが8世紀初頭以降のもので、史料上「三関」の初見が『続日本紀』和銅元年(708) 3月乙卯(22)条であることなどから8世紀初頭と考えられている。
管理
軍防令置関条においては、関を置いて守固すべき場合は兵士を配し、分番で勤務・非番することとされた。特に不破関は三関であったことから、美濃国府の国司4等官が分番守固した。
不破関の範囲は1974年(昭和49年)からの調査で、藤古川の段丘崖を西側に、北、東、南の三方を土塁で囲む台形状で広さは12.4ヘクタールに及んでいた。
2023年(令和5年)には初期の政庁と考えられる8世紀前半の遺構が初めて確認された。
廃止
789年(延暦8年)、突如として三関停廃の詔が出され、兵器や粮糒(ろうび、食料のこと)は国府(美濃国府)に運収され、館舎は郡衙等へ移建された。ただし、三関停廃の詔以降も、灰釉陶器や山茶碗などの出土品がみられ、何らかの施設があったと想定されている。
関の停廃後も幕末まで儀礼的な「固関」(こげん)の儀式が行われた。最初に「固関」の儀式が行われたのは養老5年 (721年) 12月の元明太上天皇崩御の際で、持統太上天皇や文武天皇崩御の際に何故固関が行わなかったかについては議論がある。
現況
不破関資料館
現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾が不破関の所在地である。岐阜県と関ケ原町の指定史跡[4][5]。
敷地の一角には不破関資料館が設置され、発掘された和同開珎や陶器が展示されている。
参考:『不破関「正殿」跡か発見 構造や変遷手がかり 名大教授「大収穫」』読売新聞オンライン 岐阜のニュース
https://www.yomiuri.co.jp/local/gifu/news/20240909-OYTNT50148/
奈良時代に交通、軍事の要衝として東山道に設けられた「不破関」跡(関ヶ原町)に、関の中心的な建物「正殿」と推測される跡が見つかった。現地を発掘調査している名古屋大考古学研究室の梶原義実教授が明らかにした。正殿跡より新しい 掘立柱ほったてばしら 建物の跡も確認されており、「不破関の構造や変遷を明らかにする重要な手がかりだ」としている。
参考動画:『【古代関所の謎を解く!】令和6年度不破関跡発掘調査成果報告』名古屋大学考古学研究室 https://www.youtube.com/watch?v=mh-MkpScG-I
参考動画:『【潜入】不破関の発掘現場!その地で何が起こったか?(梶原義実・河江肖剰・名古屋大学・日本史・関ヶ原の戦い・歴史・遺跡・考古学)』河江肖剰の歴史探訪 https://youtu.be/XhDePkiC4fg?si=TJSTX4T_Ej90jeoi
上記2つにある正殿跡?の発掘研究をされている名古屋大学大学院人文研究科梶原義真教授にエジプト考古学の第一人者の名古屋大学高等研究院の河江肖剰准教授がインタビューしている。入門編としてわかりやすい。
(古代)三関(さんげん、さんかん)=愛発関(9世紀初~逢坂関)(福井県)、不破関(岐阜県)、鈴鹿関(三重県)
〇【公式】白川郷観光協会 3分でわかる白川郷 https://shirakawa-go.gr.jp/highlights/
日本の原風景ともいうべき美しい景観をなすこの合掌造り集落が評価され、1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、さらに1995年には五箇山(富山県)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
近年では、世界遺産に登録されたことで知名度が増し、また交通網の整備により国内外から毎年多くの観光客が訪れています。日本の原風景である農村文化・生活・暮らしを深く感じることができる「日本の故郷」のような場所です。
〇『白川郷すんなりガイド』白川村役場 https://shirakawa-going.jp/index.html
〇参考:『白川郷』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%83%B7
白川郷(しらかわごう)は、岐阜県北西部の庄川流域の呼称で、白山の東麓に当たる。すぐ下流の富山県南西部の五箇山と共に、合掌造りの家屋があることで名高い。
概要
大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶ[1]。今日では白川村のみを指すことが多い。
白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」などがその保存にあたっている。毎年1月と2月頃の週末には夜間ライトアップが行われる。なお、2019年からライトアップ見学は完全予約制となった。
白川郷は五箇山と共に「平家落人伝説」があるが、はっきりとしたことは分らない。
公開施設・名所
合掌造り民家園 - 野外博物館。県の重要文化財が9棟ある。
和田家住宅 - 国の重要文化財
明善寺 - 庫裏と鐘楼門は県の重要文化財となっている。
明善寺郷土館
長瀬家住宅
神田家住宅
焔仁美術館
じ・ば工房
どぶろく祭りの館
周辺
道の駅白川郷
白川郷の湯(宿泊・日帰り温泉)
交通
自動車
東海北陸自動車道 白川郷インターチェンジからすぐ。名古屋市から約2時間15分、岐阜市から約2時間、高山市から約50分、富山市から約1時間15分。
国道156号で岐阜市から約3時間、高山市から約2時間。
白山白川郷ホワイトロード(旧白山スーパー林道)の、岐阜県側の入口が当地にあたる。
路線バス
下記路線を利用。いずれも白川郷バスターミナル下車。
鉄道駅から
高山濃飛バスセンター(高山駅)より、濃飛乗合自動車(濃飛バス)・北陸鉄道(北鉄バス)・富山地方鉄道(富山地鉄バス)・加越能バス・イルカ交通が1日に21(平日は22)往復運行している(下記の下呂・富山・金沢・高岡発着便を含む)。
下呂駅前より、高山経由で濃飛バスが1日に1往復運行している。
富山駅前より、富山地鉄バス・濃飛バスが1日に6往復運行している。
金沢駅前より、北鉄バス・濃飛バスが1日に10往復運行している。
高岡駅前より、新高岡駅経由で加越能バス・イルカ交通・濃飛バスの高速バスと、加越能バス「世界遺産バス」がそれぞれ1日5往復運行している。
城端駅前より、加越能バス「世界遺産バス」が1日に6(土休日は9)往復運行している(上記の高岡発着便を含む)。
名鉄バスセンター(名鉄名古屋駅)より岐阜乗合自動車(岐阜バス)「高速名古屋白川郷線」が1日に4往復している。
空港から
富山空港より、富山地鉄バスが1日に2往復運行している。
フィクションにおける聖地
映画
砂の器(監督:野村芳太郎・松竹・1974年製作)
テレビドラマ
最愛(TBSテレビ)
ゲーム
『ひぐらしのなく頃に』 - 作中の舞台である雛見沢村のモデルとして登場した。
その他
ドキュメンタリー
NHK特集「奥飛騨白川郷 〜合掌屋根を葺く〜」(1982年、NHK)
映画『君の名は』で主人公が食べた。
長良川は日本の河川の項へ→日本の河川の項
参考:『TABITABI郡上』一般社団法人 郡上市観光連盟 https://tabitabigujo.com/gujo/
参考:『郡上市』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%B8%82
岐阜県の中濃地域にある市。郡上八幡の街並みや郡上おどり、白山信仰の地として知られている。
郡上市の中心市街地である八幡地区には近世以来の城下町の姿が保全されており、その景観から「奥美濃の小京都」と呼ばれ、全国京都会議にも加盟している。
位置
岐阜県のほぼ中央に位置し、飛騨高地の南にある山岳丘陵地帯である。平成の大合併前の郡上郡7町村全域を市域としているため、面積は1,000平方キロメートル以上と広大であり、岐阜県では隣接する高山市に次いで面積が広い。北に行くほど標高が高く、最高峰は標高1,810メートルの銚子ヶ峰である。
長良川の源流は大日ヶ岳であり、長良川の流域となっている地域が多いが、旧和良町などは飛騨川→そして木曽川に流れるほか、市域北部のひるがの高原は庄川流域、石徹白地区は九頭竜川流域に属し、太平洋・日本海それぞれへと流れていく。
人口の多くは旧郡上郡の政治・経済の中心である八幡町と福井県への玄関口であり交通の要所である白鳥町に集中する。
地域としては美濃地方の中濃地区に属し、地元では北濃や奥美濃とも呼ばれている。
参考:『水の町 郡上八幡』TABITABI郡上 https://tabitabigujo.com/appeal/traditionalwatersystem/
(わかりやすい地図イラストあり)
[郡上八幡]
参考:『八幡町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%94%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C)
八幡町(はちまんちょう)は、かつて岐阜県郡上郡にあった町である。2004年(平成16年)3月1日に郡上郡の7町村が合併して郡上市が発足し、八幡町は廃止された。
飛騨高地の南部に位置する。長良川が町域を北から南に貫流しており、市街地の標高は約200mで、町の東西の山地から支流が流れ込む。集落は長良川とその支流沿いに形成されており、長良川と支流の吉田川の合流点付近が市街地である。
郡上八幡(ぐじょうはちまん)と呼ばれることが多い。古くから郡上郡の政治・商業などの中心地として栄え、郡上市となってからは郡上市役所や岐阜県の出先機関が置かれている。
参考:『郡上八幡』観光公式 http://www.gujohachiman.com/kanko/
[郡上おどり]」
2024年7月13日~9月7日
徹夜踊り:2024年8月13日~16日
郡上おどりHP→『郡上おどり』郡上八幡産業振興公社 http://www.gujohachiman.com/kanko/odori.html
参考:『日本三大盆踊り 郡上おどり』TABITABI郡上 https://tabitabigujo.com/hachiman/gujo-odori/
日本三大盆踊りの一つ
郡上おどりは、徳島の阿波踊り、秋田の西馬音内盆踊りと合わせて日本三大盆踊りとされています。
また、1996年には全10曲が国重要無形民俗文化財の指定を受け、2022年には、郡上踊を含む「風流踊」がユネスコ無形文化遺産無形文化遺産に登録されています。
約30万人が来場!
郡上おどりは「おどり発祥祭」から始まり、盂蘭盆会(徹夜おどり)を含む「七大縁日」や各町内の縁日など30夜以上繰り広げられるロングラン。毎年訪れるファンも多く、2019年には約30万人が来場しています。
4日間徹夜で踊り明かす
8月13日~16日までの4日間、徹夜で踊り明かす「徹夜おどり」。現在は20時~翌朝5時までノンストップで踊り続けます。クライマックスとなる夜明けには、賑やかなはずのおどり場の空気がピンと張り、神聖な雰囲気をも感じることができます。
誰でも気軽に踊れる
郡上おどりは誰でも、どんな服装でも気軽に輪の中に入り、手や足を動かしているうちに踊れるようになるのも魅力。大きな輪に入り三味線・太鼓・笛・唄囃子に合わせて踊れば、きっと郡上おどりの虜になるでしょう。
参考:『郡上おどり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8A
郡上おどり(ぐじょうおどり)或いは、郡上節(ぐじょうぶし)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り[1]、三大民謡(郡上節)に数えられる。 毎年7月中旬から9月上旬まで32夜開催され、特に盂蘭盆会の徹夜踊りには、全国から数万人の踊り子が来場する。
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
[宗祇水]
参考:『水の町 郡上八幡』TABITABI郡上 https://tabitabigujo.com/appeal/traditionalwatersystem/
参考:『宗祇水』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%A5%87%E6%B0%B4
宗祇水(そうぎすい)は岐阜県郡上市八幡町本町にある湧水。
小駄良川と吉田川の合流地付近に位置している。白雲水(はくうんすい)とも言われ、1985年(昭和60年)宗祇水(白雲水)として名水百選第1号に指定されている。また、1974年(昭和49年)に岐阜県指定の史跡にも指定されている。また郡上市の旧八幡町は人と自然が調和した交流文化のまちとして水の郷百選に選定されていて、宗祇水は名水スポットの一つになっている。
郡上八幡地域は年間2,800mmの降雨量がある豊かな水源林に涵養され、縄文鍾乳洞に代表されるカルスト地形の石灰岩に浸透し、八幡市街に数多く湧出する。
由緒
1471年(文明3年)篠脇城主東常縁が宗祇に古今伝授を終え、宗祇が帰京する際にこの泉水で東常縁が宗祇に
「もみじ葉の流るる竜田白雲の花のみよしの思ひ忘るな
の一首を、はなむけに詠ったと伝えられている。」
江戸時代には、郡上藩主金森頼錦や遠藤常友等らによって泉の保存と古今伝授が顕彰され、石の水場が整備された。水場は湧口から水源、飲料水、食糧米等洗場(スイカ冷やしにも利用)、野菜等洗場、さらし場(桶等をつけておく)と仕切りで分かれていて、現在でも地元の人達がとても大切に利用している。また、1917年(大正6年)9月、有志が集まり宗祇水奉賛会を結成して史跡保存に努めている。
[水舟]
参考:『八幡町(岐阜県)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%94%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C)
水の町
近世以降、伝統的水利用施設による山水や井水、河川等の利用が行われてきた。まず、河川や谷川の自然の流れや河川から引込んだ水路を利用した洗い場があり、「カワド」「洗い場」「水屋」などと呼ばれる。カワドは野菜の泥落とし、洗濯のすすぎ、夏の打ち水、積雪の処理(消雪)などに利用されている。このほか水路に板(セギ板)を落とし込んだ小規模の洗い場である「セギ」や、水路から水を引き込んですぐに水路に戻す「エイ箱」「エ箱」などがある。北町にみられる「セギ」は各戸の前の水路に溝が切られており、使用時にはセギ板を溝に落とし込んで水位を上げて洗い物などを行い、使用後はセギ板を抜いて水位を元に戻しておくもので、共同の洗い場ではなく各戸が随時使用できる個別の洗い場である。
また、山水を引き込んで段階的に使用する水受け用具を「水舟(みずぶね)」、それに上屋が付いたものを「水屋」といい、湧水を地面に埋められた水舟に引き込んで使用する施設を「清水(しみず)」という。水舟は2~3段になっている水槽で、上段は飲み水、中段はすすぎ水、下段は洗い水などに利用されている。カワドや水舟を紹介するものに大和ハウスのテレビCM、共創共生シリーズ「郡上八幡」篇がある。
1996年に水の郷百選に認定された。また、1996年に日本の音風景100選として「吉田川の川遊び」が選定された。
いがわこみち
最長の水路。遊歩道として整備されている。
やなか水のこみち
おもだか家民芸館・齋藤美術館・心の森ミュージアム 遊童館・ロートレックミュージアムといった観光施設が集中している。
吉田川親水遊歩道
郡上八幡について
城下町・水の町: 吉田川を中心に発達した城下町。町中に水路(水舟)が張り巡らされている。
郡上八幡城: 16世紀に遠藤盛数により築城。現在の城は1933年に再建された木造再建城として最古の部類に入る(日本最古の木造再建城は清洲城との説もあるが、郡上八幡城は「模擬」ではなく「木造」で再建された点で特徴的)。
郡上おどり: 日本三大盆踊り(または三大民謡)の一つ。約400年の歴史を持つ。7月中旬から9月上旬まで長期間開催され、特に盂蘭盆会の「徹夜おどり」が有名(国の重要無形民俗文化財)(ユネスコ無形文化遺産「風流踊」の一つ)。
職人町・柳町・鍛冶屋町: 江戸時代の雰囲気が残る重要伝統的建造物群保存地区。
食品サンプル: 郡上市は食品サンプルの生産量が日本一(半数以上)。
公式→日本三名泉 下呂温泉旅館協同組合オフィシャルホームページ https://www.gero-spa.or.jp/
参考:『下呂温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%91%82%E6%B8%A9%E6%B3%89
呂温泉(げろおんせん)は、岐阜県下呂市森にある温泉。室町時代には万里集九が有馬温泉や草津温泉とともに「三名泉」とし、江戸時代には林羅山もこれらの三温泉を「天下の三名泉」と記した(日本三名泉)(ただし、当時は下呂ではなく湯島と表記)。
泉質
アルカリ性単純温泉、源泉温度84度
温泉街
下呂駅から飛騨川(益田川)沿いを中心に旅館・ホテルが林立している。川沿いのほか、両岸の山腹部にも宿泊施設があり、多くは下呂駅とのシャトルバスの便がある。なお、下呂市の町名では川の西側が幸田(こうでん、下呂駅も含まれる。)、川の東側は下呂大橋(いで湯大橋)の先の道路(阿多野通り)の北側が湯之島、南側が森であり、この3地区にほとんどが含まれるが、最も北西側にある宿泊施設は旧・益田郡萩原町域(現在の下呂市萩原町西上田)に所在するものもある。
ホテル・旅館
旅館や高級ホテルからビジネスホテルまで、各種ホテルが多数ある。詳細は下呂温泉旅館協同組合のウェブサイトを参照のこと。ただし、一部に旅館組合非加盟の宿泊施設がある。大江戸温泉物語下呂新館など。
下呂温泉旅館協同組合では「湯めぐり手形」を発売している。有効期限はあるものの、「湯めぐり手形」1枚につき、手形加盟旅館の中から3箇所を選んで立ち寄りで、入浴することができる[5]。
外湯
外湯(公衆浴場)はクアガーデン露天風呂・白鷺の湯・幸乃湯の3ヶ所がある。
気候
下呂温泉の気候は山間内陸性気候である。周囲を山に囲まれている。1日のうちでも寒暖差があり、春や秋は着脱できる上着が必要である。
飛騨地方では南部、水系では太平洋側にあたるため、積雪はあるもののそれほど多くはない。
参考:『日本三名泉を楽しもう』下呂温泉観光協会 https://www.gero-spa.com/
参考:『飛騨の塩ブリ』ファミリーストアさとうネットショップ https://www.takayamasatou.com/free_9_79.html#:~:text=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AF%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E4%BB%A5%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%82%89,%E5%A1%A9%E3%81%8C%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
参考:『飛騨鰤』コトバンク(デジタル大辞泉プラス ) https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E9%B0%A4-2097419
ぶりが山地の飛騨でとれるわけではなく、塩をして富山湾から運ばれてきたぶりを旅人に供していたところから始まったという。
[ブリ街道]
参考:『ぶり街道祭り』飛騨高山観光サイト https://www.hidatakayama.or.jp/event/detail_2304.html
かつて富山で取れたブリが飛騨を通り、信州まで運ばれ、その道を「ぶり街道」と呼んでいました。昔も今もブリは飛騨の年越しに欠かせない食材です。「ぶり街道祭り」では海鮮市場や汐ぶりの解体ショーを開催。当日限定の海鮮鍋や宮城県女川町から直送のさんまも販売します。飛騨の山奥で海の幸をどうぞ!
奥飛騨温泉郷と神岡間の国道471号
参考:『天生峠(国道360号)』白川村 https://www.vill.shirakawa.lg.jp/2216.htm
白川村と飛騨市を結ぶ境界にある峠で、天生県立自然公園に指定されています。白山連峰を望む絶景を満喫できます。
国道360号は冬季閉鎖となりました。
参考:『天生峠』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%94%9F%E5%B3%A0
天生峠(あもうとうげ)は、岐阜県飛騨市と大野郡白川村の境界上に位置する標高1,289mの峠。
概要
神通川流域の飛騨市から庄川流域の白川村へ抜ける国道360号にあり、白川郷からの標高差は約800mにもなる。峠に至る道は狭く、急坂・急カーブが連続する山岳路である。大型車(長さ8m以上)は通行不可である。普通車についても、積雪期である冬期は通行止めになるほか、元々地盤が弱いため無雪期も度々崖崩れによって通行止になる事が多い。閉鎖期間は例年11月半ば~5月末である。
峠一帯にブナをはじめとする落葉広葉樹の原生林が広がり、紅葉の名所として知られる。また、峠の周辺には岐阜県の天然記念物に指定されている天生湿原などの高層湿原が点在している。峠周辺の天生湿原を含む籾糠山など山域は、岐阜県の天生県立自然公園に指定されている。
なお、止利仏師は渡来人の一族とされるが、この峠を生誕地とする伝承もある。
泉鏡花の作品である『高野聖』において、語り部である僧侶がかつて旅をした地として、天生峠が登場する。
平湯温泉、福地温泉、新平湯温泉(元は一重ケ根温泉)、栃尾温泉、新穂高温泉
国道471号沿い
伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
他の多くの神社は仏教建築の影響を受け、瓦屋根や朱塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる。これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている。また、式年遷宮が20年に一度行われる。この他、近世以前には、仏教用語を用いない「忌詞」の制度や、僧尼の立ち入りを制限する「僧尼遥拝所」が存在し、神宮寺も早期に廃止されるなど、伊勢神宮では仏法禁忌が比較的維持され、祭儀が一定程度古儀のまま継承された。
伊勢神宮wikipediaより
MAP→ https://ise-kanko.jp/cms/wp-content/uploads/2022/07/MAP_Iseoharaimachi-okage_202206.jpg
参考:『おはらい町・おかげ横丁』伊勢市観光協会 https://ise-kanko.jp/purpose/oharaimachi-okageyokocho/
参考:『内宮前 おはらい町・おかげ横丁』伊勢バリアフリー https://www.miebarifuri.com/isemymap/pdf/naiku.pdf
鈴鹿サーキット(すずかサーキット、Suzuka Circuit)は、三重県鈴鹿市にあるレーシングコースを中心としたレジャー施設。F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる事から日本モータースポーツファンの聖地でもある。レーシングコースの他に遊園地やホテル等があり、モビリティリゾート(自動車を題材とする行楽地)を形成している。
日本初の全面舗装と観客席の両方を備えたサーキットとして、1962年に本田技研工業(ホンダ)によって建設された。現在はホンダグループでモータースポーツ関連施設を運営する会社、ホンダモビリティランドによって運営されている。
1961年2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現ホンダモビリティランド)が設立され、同年6月に工事着工。1962年9月にサーキットが完成し、同年11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された。付帯施設を含む総工費は15億円(現代に換算すると255億円)に達した。
開業60周年を迎える2022年、3月1日にモビリティランドは社名を『ホンダモビリティランド』に変更するとともに、鈴鹿サーキットは30年ぶりにロゴマークを変更した。また、モートピアは『鈴鹿サーキットパーク』に変更された。