2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。開祖や教祖、教典を持たず、また、一神教とは対照的に森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づく。
神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている。
神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[12]。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。
日本人の生活と深い関わりのある神道は、当初から宗教として認識されていたわけではなく、仏教が大陸から伝来したのち、それまで日本国独自の習慣や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになった。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられおり、『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。
神道の特色の一つとして、外来の他宗教に対する寛容さが挙げられる。神道は仏教や儒教・道教などとも習合し日本文化に大きな影響を及ぼしたが、日本国独自の神観念は変わらず、現在まで脈々と受け継がれている。
神道は奈良時代(710年 – 794年)以降の長い間、仏教信仰と混淆してきた(神仏習合)。日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されている。宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた。明治時代には神道国教化を実現するために、神仏分離が行われた。
神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[8]。
神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが[20]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。
『神道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し、一つの信仰体系として再構成された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。習合、宗教的シンクレティズムの一種。
概要
日本に仏教が到来した当初は「仏教が主、神道が従」であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で「仏、菩薩が仮に神の姿となった」とし、「阿弥陀如来の垂迹を八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生した。一方、神道側からは「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられた。
江戸時代に国学が流行すると、神道が優位と説かれるようになり、神道から仏教的要素を取り除くことが主張された。明治維新後には、「神仏判然令」が出されて神仏分離が行われた。
日本では「神々」の信仰は、もともと土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。日本の「神」は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、日本の従来の「神」観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。
日本へ仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、さらに戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった[4]。
他方では、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って「一つの新しい宗教」となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性を保とうとして緊張関係が維持されていた側面もあった[5]。また、近年では神仏習合の時代における神仏隔離現象も注目されており、宮中祭祀や伊勢神宮では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されていて、神仏関係が全て習合の観念で捉えられていたわけではなかった[6]。神仏習合は、仏教が優位に立ちながらも、神祇信仰が仏教に吸収されてしまうものではなく、むしろ神祇信仰が仏教を媒介にして自立的な神道を形成していくものであった。
歴史
仏教の伝来
仏教が日本にもたらされた当初、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された[8]。日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)と『日本書紀』にはあるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたのをそのまま仏にあてはめたものと考えられている。また寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も生まれた、仏教には祟りという概念は無いため、神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できる[8]。
552年(538年説あり)に百済から欽明天皇に仏像と経文がもたらされた(仏教公伝)。欽明天皇は仏像の見事さに感銘し、群臣に仏教に帰依すべきかと意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西国では皆が帰依しており日本だけ背くことはできない」と受容を勧めたが、物部尾輿や中臣鎌子らは「日本には天地に180の神がおり、蕃神を拝めば国津神たちの怒りをかう[11]」と反対したという。意見が二分したことで欽明天皇は帰依を断念したが私的な礼拝や寺の建立は許可し、帰依したいと申し出た蘇我に仏像を授けた。蘇我が私邸に仏像を安置し寺とした直後に疫病が流行すると、物部・中臣氏らは蘇我が蕃神を拝んだことで国津神の怒りにより災いが起きたと奏上した。欽明天皇もやむなく仏像の廃棄、寺の焼却を黙認し、物部・中臣らは寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。これによる宗教対立は子(物部守屋と蘇我馬子)の代にも収まらず、用明天皇の後継者を巡る争いで守屋が滅ぼされるまで続いた。この争いには聖徳太子が馬子側に参戦していたが、四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺を建立、以後は仏教陣営が勢力を伸ばしていった。
このような豪族間での態度の違いは、物部氏や中臣氏などは朝廷の神事に携わっており外国の宗教には否定的(廃仏派)であったが、外交に関わっていた蘇我氏は仏教の受容に積極的(崇仏派)であったためとされる。
神宮寺の建立
宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされているが、一般的にはそれより後、日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている。これを神身離脱という。715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らにより鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。このような神のための神域内の造寺造仏を「法楽」という。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった。また、東寺・薬師寺に見られるように9世紀には神体が菩薩形をとる僧形八幡神も現れた。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。また、神の存在は元々不可視であり依り代によって知ることのできるものであったが、神像の造形によって神の存在を表現するようになった。神宮寺や神社に所属して神に奉仕し、神前で神のために仏事を行なった僧侶を総称して社僧と呼んだ。社僧の権威は大きく、時に神職の立場を凌ぐものであった。社僧の階層には、別当や検校などがあった。
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。
「神々が仏に帰依したいと神託を下してきた」と各神社の神職が訴え出てきたのは、律令制の重税から逃れたかったためという指摘もあり、当時、民が勝手に僧侶になる=優婆塞の例が後を絶たなかったことが根拠とされる。つまり当時は神道側も搾取される側であり、例外は仏教僧であったことも起因している(後世の神奴も税は免除されている)。
護法善神説の発生
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになり、寺院を守護する神を祀る鎮守社が寺院内に作られるようにもなった。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とした。これが現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫するものではなく、神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となっている。
神仏の習合と隔離
このように、奈良時代まで神身離脱説や護法善神説などの形で神仏習合が成立していったが、一方で神事においては仏法を禁忌する意識も、奈良時代後期から平安時代初期にかけて朝廷や神宮で成立した。
『貞観式』及び『儀式』の規定では、大祀である践祚大嘗祭に際しては忌みの期間は中央と五畿内の官司が仏事を行うことが禁止され、中祀及び小祀に際しては僧侶の参内を禁じて仏事を停止することとなった。平安中期以降には新嘗祭、月次祭、神嘗祭など天皇が自ら斎戒を行う祭りにおいては、斎戒の期間中は内裏の仏事をやめ、奉仕の官人も仏法を忌避することとされた。これらの宮中祭祀での仏法禁忌の制度は、近世まで受け継がれている。
また、伊勢神宮においても仏法禁忌が行われ、延暦23年成立の『皇大神宮儀式帳』では、仏教語を忌んで仏を中子、経を染紙などと言い換える忌詞の制度が規定された。忌詞は、斎宮でも同様の制度が行われた。また、伊勢神宮では僧尼が正宮まで近づくことは許されず、僧尼用の遥拝所が、内宮では風日祈宮橋のあたり、外宮では多賀宮のあたりに設けられ、僧尼はそこまでしか進むことができなかった。また、『太神宮諸雑事記』によると、伊勢神宮の神宮寺であった「大神宮寺」も、宝亀7年(776年)に廃寺となっている。
このように、朝廷や神宮では祭祀儀礼において神仏が別体系として存在していたのである。
大乗密教による系列化
神宮寺は、雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて基盤を強化しつつあったが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来するとされる租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院と認識されることを望むようになってきた。
朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ。
また、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を受けながら神仏習合とも強く関係しつつ、独自の発達を遂げることとなった。
熊野信仰
本地垂迹説により、普遍性を獲得する契機の先頭に立ったのが、八幡神や日吉神、熊野神など早くから仏教と深い関係を取り結んでいた神々であった。とりわけ熊野の神々は、修験道と結びつくと共に、院の帰依を受け、院政期以降に「熊野信仰」を全国に広げていった。熊野は本宮・新宮・那智の三社(熊野三所権現)で構成され、熊野本宮の本地・阿弥陀如来は、平安末以降の阿弥陀仏による救済願望に応える神として衆庶の信仰を集め、一大霊場として繁栄を極めた(蟻の熊野詣)。この時、浄土信仰を奉じる一遍も参詣し、託宣を受けて時宗開教へ踏み出している。熊野信仰の隆盛は、古代的な価値観の解体も示しており、熊野信仰の特質の一つの苦行が霊験を高め、現世的なもの、身体的なものを超えた、高次元の精神的なものを志向することとなった。その霊験をテコに「日本第一大霊験所」と称して、比類なき神格の尊貴性を主張し、伊勢・熊野同体論が登場するなどし、神々が互いの霊験を競い合うようになった。
怨霊信仰
「祟り」とは神の意思の表現方法であり、人の霊の一部が、神に比した「祟り」をなすという考えは奈良時代より見られる。これが「御霊信仰」である。御霊信仰は、政治的闘争において敗北して処刑された人の霊が、疫病などの祟りを行うと信じて、その霊を慰めようとする信仰であり、怨霊信仰の一種とされる。この御霊信仰が、人を神と祀る人神信仰の始まりであり、幽霊への信仰の始まりでもあった。
密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担いで王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった。
この動きは平安時代前期には御霊会の流行を引き起こしたが、民間の疫神への信仰と結びつき、疫病をもたらす疫神の跳梁と考えられて、それを慰めるための「御霊会」が催された。平安時代の怨霊信仰の、特に最大の存在が菅原道真の怨霊である[8]。道真の霊は、初めは恐ろしい怨霊とみられていたが、道真は文人として知られていた人でもあり、後には学問・詩歌の神として信仰されていき、慈悲に満ちる神として天神信仰へと変化していった。この変化に際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響だったと示している。
この典型的な例が平将門即位の状況に見られる。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書いたとし、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したものであり、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている。
一方で、御霊信仰と疫神信仰の融合から出たのが牛頭天王の信仰である[8]。京都では御霊会を受け継ぎ、祇園御霊会が恒例となり、その拠点として祇王天神堂が創建され、これが現在の八坂神社となり、祇園御霊会が祇園祭となった[8]。
北野天満宮の「北野御霊会」は応仁の乱以降途絶えていたが、2021年には新型コロナウイルス感染症の終息を願い、北野天満宮の神職と比叡山延暦寺の僧侶により行われた。
ケガレ忌避の論理
このように呪術的な信仰を求める大衆に対しての仏教の側からの浸透に対抗し、神祇信仰の側からも理論武装の動きが出てきた。
神祇信仰においては従来それほど顕著でなかった二極対立の考え方が発達し、浄とケガレの二極が強調されるようになった。このため9世紀から10世紀にかけて、従来は祓いで済んでいたケガレ除去の方法が、陰陽道の影響もあり物忌み中心に変わってきていることが確認されている[12]。
神祇信仰の論理性の強化は、仏教側からの侵食に対抗するとともに、仏教側と共生することを可能とした[12]。10世紀末には、浄土思想にもケガレ思想の影響が見られ、往生要集などには本来の仏教の浄穢思想理解のための手段として、神祇信仰のケガレを利用した論理が見受けられる[12]。
本地垂迹説
→詳細は一つ下の項の「本地垂迹説」参照
神宮寺の創建を経て、神仏の習合は進んでいき、十世紀頃には本地垂迹説が成立した。本地垂迹とは、仏菩薩が衆生を救済するために、仮に神の姿として現れたものとする説である。
本地垂迹説は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった浄土思想の普及により出てきた動きであり、仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる[12]。絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形を取ることにより、神仏の調和の理論的裏づけとしたのである。また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉え、以後の八幡神信仰や天神信仰の興隆にもつながることとなった。
八幡神は、神と仏の歴史をみる際に、重要な役割を担ってきた神である[8] が、歴史上では九州豊前国宇佐地方より奈良時代に登場し、平安京遷都には京都に石清水八幡宮が勧請された[8]。応神天皇と同体ともみなされ、天照大神とともに天皇家の始祖神とされた。747年の東大寺大仏造営事業の際には、神々を代表してこの造営に参画するために上京したとされ、あるいは一部の神々が「菩薩」と名乗るようになったのも八幡神が最初であり、明治維新まで「八幡大菩薩」と号していた。
更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道や山王神道による大祓詞(中臣祓詞訓解)の仏教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の仏教的説明の試みが活発化し、「中世日本紀」といわれる現象が見られるようになった。
仏教の天部の神々も元来はヒンドゥー教の神であったように、インドに起こった仏教は他国への伝播の過程において、日本だけでなく中国においても、その地域社会の土着の神々や歴史上の重要人物を仏菩薩の化身として包摂することで根付いていった歴史がある。仏教にはそのような性質が本来あったことが神仏習合を生んだ要因でもあった。
神本仏迹説
鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には儒学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生した。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した。
しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている。現在、仏教の寺院の墓地における墓石と板塔婆がそれぞれ石と木で作られることを、神社における磐座と神籬の影響とする説[20] があるように、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。
この「天道」の観念は、中国から流入した儒教道徳により浸透したとされ、古くは『日本書紀』『今昔物語集』にも見ることができる。天道は『周易』『尚書』などの古代中国にあり、「自然の摂理(道理)」や「天」の人格化に伴いその意志を示す語ともなった。日本では加えて、天道は「人間の運命」を左右するものとされ、「神仏」の加護と同等とみなされ、「世俗的道徳」の遵守、「内面的倫理」を重視することで「心中の実」が天道に適うことが大切とされた。戦国武将も天道に反する行いによって罰を受けるとして、神仏への起請を破ること、世俗道徳を破ることで、天道に見放されると感じていた。織田信長、豊臣秀吉、徳川幕府も天道思想の持ち主であった。
天道思想の拡大の背景のひとつには、五山禅林を中心とした諸教一致の思潮がある[8]。五山の禅僧は、禅学を中心としながら広く他の思想にも関心を示したが、これを保証したのが儒仏道の三教一致の思想であり、中国の禅林の思想が移入されたものであったが、日本では道教(道家思想)を神道に置き換えながら、神儒仏一致の思想として受け入れられた。
種類
両部神道
山王神道
御流神道
伊勢神道
吉田神道
三輪神道
垂加神道
雲伝神道
法華神道
『神仏習合』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
鳥居と五重塔(日光東照宮)
僧形八幡神
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。仏本神迹説と呼ばれる場合もある。
概要
本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。たとえば、仏教の天部の神々のほとんどはインドのヒンドゥー教を由来とする。この思想は、後に、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生んだ。
これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象(かくしょう)は『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。
そして、後秦代の僧肇がこれを仏教に取り入れた。僧肇は『注維摩詰経』で、魏の王弼などの“本末”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる解脱(悟りの内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した方便として使用した。
日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、皇祖神である天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った[1]。
一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。
この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。
戦国時代には、さらに天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。
本地垂迹説の創始
吉田一彦によると、真言宗の東密小野流の僧勝覚が、師から伝えられた宮中における夜居(天皇の身体を守るために護持僧が夜を徹して伺候すること)の作法について記した『護持僧作法』には、他に先駆けて「本地」という言葉が見られる。吉田一彦は、日本の本地垂迹説は同派の護持僧によって説かれたもので、11世紀前半に成立したと述べている。
護持僧が伺候した清涼殿の二間(天皇の寝間の東の間)では、観音が本尊として祀られたが、この観音は、三種の神器の剣と璽とともに、三種の神器の中心的存在である神鏡を象徴とする天照太神の本地であると考えられた。
末法思想との関係
院政や武士の台頭による政治の流動化、天災や戦乱による社会の混乱を背景として、末法の世の実感とそこからの救済願望が生まれた。そのため浄土信仰が盛んとなり、法然を始め新しい仏教諸宗派が登場したが、それは伝統的な神祇信仰の変容と再生も促した。この終末意識には粟散辺土観も影響した。仏教のインド中心の世界観では、末法の世の日本の人間は堕落していて救済されがたく、正当な教化の方法では救済できないとされる。そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げた。
反本地垂迹説
鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。仏教から独立しようという神道側の考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道(度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。
反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった。
南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。
垂迹神と本地仏
神の正体とされる仏を本地仏という。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。
日本の神の仏号は菩薩が多く、八幡大菩薩は阿弥陀如来であるなど本地仏の仏号との相違もみられる。
垂迹神と本地仏の一例を以下に示す。
天照大御神=大日如来、十一面観世音菩薩
八幡神・応神天皇=阿弥陀如来
熊野権現=阿弥陀如来、善財王とその妃・王子(熊野曼荼羅)
日吉=天照大神=大日如来
市杵島比売命=弁財天
春日権現=不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音
愛宕権現=智明権現=勝軍地蔵菩薩
秋葉権現=観音菩薩
素盞鳴=牛頭天王=薬師如来
大国主神=大黒天
東照大権現・徳川家康=薬師如来
松尾=薬師如来
国常立神=薬師如来・胎蔵界大日如来・阿弥陀如来
豊宇気毘売神=金剛界大日如来
須佐能尊=熊野権現、阿弥陀如来
月読命=阿弥陀如来
菊理姫=十一面観音
大己貴神=阿弥陀如来
伊弉諾尊=釈迦如来、阿弥陀如来
伊弉美尊=千手観音
火之迦具土神=千手観音
瓊瓊杵尊=釈迦如来
木花之佐久夜毘売=浅間大菩薩、阿弥陀如来
山幸彦=文殊菩薩
天之忍穂耳命=弥勒菩薩
天手力男命=不動明王、聖観音
天思兼命=釈迦如来、虚空蔵菩薩
少彦名命=金剛蔵王権現・薬師如来
神変大菩薩=聖観音
御姥尊=大日如来
七面天女=吉祥天、弁財天
三宝荒神=大聖歓喜天
稲荷神=十一面観音、聖観音、荼枳尼天[5]
火牟須比命=伊豆山権現、千手観音
青龍=清瀧権現[6]=准胝観音、如意輪観音
北斗(北辰)信仰・太一=妙見菩薩
えびす=毘沙門天、不動明王
岐の神・塞の神・道祖神・庚申信仰・猿田彦=青面金剛、地蔵菩薩、馬頭観音
山の神・金精神=馬頭観音
天満大自在天神・菅原道真=大自在天、大威徳明王=十一面観音菩薩、不動明王、釈迦金輪、薬師如来、愛染明王、慈恵大師、阿弥陀如来、毘沙門天、大聖歓喜天、弁財天、千手観音、大日如来、地蔵菩薩、文殊菩薩、観音菩薩
歴史
9世紀のころ、それぞれの神の権現号がみられるようになった。
12世紀のころ、それぞれの神の本地仏が定められていった。
『本地垂迹』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
概要
この三女神は、日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する神。海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島)と辺津宮・宗像田島に祀られ、大和朝廷によって古くから重視された神々。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。
アマテラスが国つくりの前(天孫降臨より以前)、「うけい」により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇を助けると共に歴代の天皇から篤い祭りを受けよ」と神勅を示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。これが宗像大社が祀る、沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」である。古代、畿内から九州を経由し渡海した遣隋使や遣唐使、遣新羅使もこの海北道中の島々を目印としていた記録が宗像大社神宝館の説明にある。
この三女神はアマテラスとスサノヲの誓(うけい)の結果から生まれたという。スサノヲの邪心を疑ったアマテラスは彼の本心を確かめるために誓約する。スサノヲがたばさんでいる剣を天の真名井ですすぎ、口で噛みくだいてキリとして吐き出した。そうして生まれたという。娘たちに「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である。
『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。
『日本書紀』については、卷第一・神代上・第六段の「本文」とその「一書」で天照大神と素戔嗚尊の誓約の内容が多少異なる。最初の降臨地は、福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳という山で、筑紫国造の田道命の子孫、長田彦(小狭田彦)が、天照大神の神勅をうけて神籬を建てたのが祭祀の始まり。『宗像大菩薩御縁起「筑前国風土記逸文」』『香月文書』『六ケ岳神社記』『福岡県神社誌』など。天照大神が「汝三神(いましみはしらのかみ)、道の中に降りて居(ま)して天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて、天孫の為に祭られよ」との神勅を授けたと記されている。これは現代まで祭祀が続く御神名とその鎮座地が明確に記載される記述では、最も古い。
なお、第三の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしている。八幡神の比売大神である。
別称の「道主貴」の「ムチ」は「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は道主貴のほかには大日孁貴(オホヒルメノムチ、天照大神)、大己貴命(オホナムチ、大国主)のわずかしか見られない[5]。
化生した順
『古事記』
『古事記』では、化生した順に以下の三神としている。
沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たぎりひめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)
大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)
田島の辺津宮(へつみや) - 多岐都比売命(たぎつひめ)
この三社を総称して宗像三社と呼んでいる。
『日本書紀』
『日本書紀』では以下のようになっている。
本文
沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)
辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)
第一の一書
沖津宮 - 瀛津嶋姫(おきつしまひめ)
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)
辺津宮 - 田心姫(たごりひめ)
第二の一書
沖津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)
中津宮 - 田心姫(たごりひめ)
辺津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)
第三の一書
沖津宮 - 瀛津嶋姫(おきつしまひめ) 別名 市杵嶋姫(いちきしまひめ)
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)
辺津宮 - 田霧姫(たぎりひめ)
玄界灘に浮かぶ沖ノ島は世界文化遺産に登録され、島には沖津宮があり田心姫神を祀っている。島には古代祭祀遺構があり出土品は一括して国宝に指定されている(邊津宮にある宗像大社神宝館にて展示されている)。
宗像大社の社伝
宗像大社の社伝では、以下のようになっている(三女神の神名や配列などに 古来、種々の変遷もあったが現在では以下のようになっている)。
沖津宮 - 田心姫神(たごりひめ)
中津宮 - 湍津姫神(たぎつひめ)
辺津宮 - 市杵島姫神(いちきしまひめ)
宗像三女神を祭神とする全国の神社
海の神・航海の神として信仰されている。宗像大社のほか各地の宗像神社・宮地嶽神社・厳島神社・八王子社・天真名井社・石神神社などで祀られている。八幡社の比売大神としても宇佐神宮や石清水八幡宮で祀られている。
宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある。なお、八王子神社は五男三女神を祀る神社である。
神社一覧
宗像大社 - 福岡県宗像市田島鎮座 総本社
宗像神社 - 全国各地
厳島神社 - 広島県廿日市市厳島鎮座 安芸国一宮
厳島神社 - 全国各地
網走神社 - 北海道網走市鎮座 北見国一宮
善知鳥神社 - 青森県青森市安方鎮座
八戸三嶋神社 - 青森県八戸市鎮座
隠津島神社 (郡山市湖南町福良) - 福島県郡山市湖南町鎮座
隠津島神社 (二本松市) - 福島県二本松市木幡鎮座
都野神社 - 新潟県長岡市鎮座
江島神社 - 神奈川県藤沢市江の島鎮座
前川神社 - 埼玉県川口市鎮座
天宮神社 - 静岡県周智郡森町天宮鎮座
藤切神社 - 滋賀県東近江市甲津畑町鎮座
阿自岐神社 - 滋賀県鎮座
市比賣神社 - 京都市下京区河原町鎮座
繁昌神社 - 京都市下京区繁昌町鎮座
日向大神宮 - 京都市山科区鎮座
八坂神社美御前社 - 京都八坂神社内末社
穴水大宮 - 石川県穴水町鎮座
四所神社 (豊岡市) - 兵庫県豊岡市鎮座
阿智神社 (倉敷市) - 岡山県倉敷市本町鎮座
亀山神社 - 広島県三原市鎮座
岩國白蛇神社 - 山口県岩国市鎮座
日招八幡大神社 - 愛媛県松山市鎮座
蒲生八幡神社 - 福岡県北九州市小倉南区蒲生鎮座
六嶽神社 - 福岡県鞍手町六ヶ岳鎮座
慈島宮(厳島神社に改名) - 福岡県宗像市地島鎮座
七夕神社 - 福岡県小郡市大崎鎮座
薦神社 - 大分県中津市鎮座
田島神社- 佐賀県唐津市呼子町加部島鎮座
淵神社 - 長崎県長崎市淵町鎮座
須賀神社(須加神社) - 東京都・三重県・兵庫県・佐賀県など各地に鎮座
粟皇子神社 - 三重県伊勢市二見町松下字鳥取に鎮座 (神宮125社の一つ)
宗像三女神のうち、田心姫神を主祭神とする神社。
宗像大社沖津宮 - 福岡県宗像市沖ノ島鎮座
日光二荒山神社 - 栃木県日光市鎮座
瀧尾神社 - 栃木県宇都宮市等各所鎮座
網戸神社 - 栃木県小山市鎮座
興津宗像神社 - 静岡県静岡市清水区興津中町鎮座
深島神社 - 愛知県名古屋市北区柳原鎮座
瀧浪神社 - 石川県小松市鎮座
小汐井神社 - 滋賀県草津市大路鎮座
新日吉神宮 - 京都府京都市東山区鎮座
一宮神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市中央区山本通鎮座 生田裔神八社の1社
津門神社 - 島根県江津市波子町鎮座
宗像三女神のうち、湍津姫神を主祭神とする神社。
宗像大社中津宮 - 福岡県宗像市大島鎮座
岩木山神社 - 青森県弘前市百沢鎮座 津軽国一宮
石峰山石神社 - 宮城県石巻市雄勝町鎮座
高津比咩神社 - 千葉県八千代市高津鎮座
奥津嶋神社 - 滋賀県近江八幡市沖島町鎮座
大嶋神社奥津嶋神社 - 滋賀県近江八幡市北津田町鎮座
三宮神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市中央区三宮町鎮座 生田裔神八社の1社
宗像三女神のうち、市杵島姫神を主祭神とする神社。
宗像大社辺津宮 - 福岡県宗像市田島鎮座
市杵島神社 - 全国各地
関川神社 - 愛知県豊川市赤坂町関川神社鎮座
八百富神社 - 愛知県蒲郡市竹島町鎮座
都久夫須麻神社 - 滋賀県長浜市竹生島鎮座
白雲神社 - 京都府京都市上京区京都御苑内鎮座
岩戸神社 - 大阪府八尾市大字教興寺鎮座
高天彦神社 - 奈良県御所市鎮座
氷室神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市兵庫区氷室鎮座
四宮神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市中央区中山手通鎮座 生田裔神八社の1社
丹生官省符神社 - 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院鎮座
宗像三女神のうち、多岐津姫命、市杵島姫命、田心姫神を主祭神とする神社。
田嶋神社 - 佐賀県伊万里市波多津町畑津鎮座
市杵島姫神は中津島姫命の別名とされ大山咋神と供に主祭神とする神社。
松尾大社 - 京都市西京区鎮座 総本社
松尾神社 - 全国各地
市杵島姫神は鎌倉時代に行勝上人により厳島神社から勧請され丹生都比売神社の主祭神のうち第四殿の祭神となった。
丹生都比売神社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町鎮座 総本社
丹生神社 - 全国各地
市杵島姫神は弁才天と同一視(本地垂迹)されることも多く、古くから弁才天を祀っていた神社では明治以降、市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多い。
弁財天宮 - 長崎県新上五島町有川郷鎮座
銭洗弁財天宇賀福神社 - 神奈川県鎌倉市佐助鎮座
宇佐八幡宮
天河大弁財天社 - 奈良県吉野郡天川村坪内鎮座
大神祖神社
須佐中嶋弁財天社 - 山口県萩市須佐鎮座
石清水八幡宮
鶴岡八幡宮
『宗像三女神』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%89%E5%A5%B3%E7%A5%9E
『神社と神道』神社神道 https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/
『神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE
神社とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料によれば日本全国に約8万5千の神社があり、登録されていない小神社を含めると10万社を超え、宗教法人格を有さない小さな祠等を含めると日本各地には20万社の神社があるといわれている。
祭祀対象は神道の神であり、「八百万(やおよろず)」と言われるように非常に多彩である。神聖とされた山岳や河川・湖沼などから、日本古来の神に属さない民俗神、実在の人物・伝説上の人物や、陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神も含まれる。また稲荷や猿、鯨、鮭など動物を祭神とする神社、子孫繁栄の象徴として男根の像を祀る神社もある。
古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。現在の社殿を伴う「神社」は、これらの神々が祀られた祭殿が常設化したものとされる。神は目に見えないものであり、神の形は作られなかった。神社の社殿の内部のご神体は神が仮宿する足場とされた御幣や鏡であったり、あるいはまったくの空間であることもあり、さまざまである。
参考『神道大辞典3巻』平凡社
『神道大辞典 : 3巻. 第一卷』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『神道大辞典 : 3巻. 第二卷』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『神道大辞典 : 3巻. 第三卷』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
伊勢神宮公式HP→https://www.isejingu.or.jp/about/
伊勢神宮(いせじんぐう)は、日本の三重県伊勢市にある神社。正式名称は「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。
「伊勢の神宮」、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ[4]、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる。
律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社となった。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
概要
伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
他の多くの神社は瓦屋根や朱塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる。これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている。また、式年遷宮が20年に一度行われる。この他、近世以前には、仏教用語を用いない「忌詞」の制度や、僧尼の立ち入りを制限する「僧尼遥拝所」が存在し、神宮寺も早期に廃止されるなど、伊勢神宮では祭儀が一定程度古儀のまま継承された。
伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い。神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿の賢所に祀られる御鏡と一体不可分の関係とされ[14]、神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われてきた。また、南北朝時代に途絶するまで、未婚の皇女が宮中から派遣され、神宮に奉仕する斎宮の制度が設けられていた。現代でも天皇・皇后が参拝するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され、神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い。
また、伊勢神宮は古代には国家全体の神として天皇による公的祭祀が行われ、個々人が私的な幣帛を奉る行為は禁止されていた。このため、創建以来一貫して、朝廷、幕府、明治政府といった歴史上の政府により、国家的な管理・維持が行なわれてきた。第二次世界大戦後に、伊勢神宮は国家の管理から離れ、法的には一宗教法人となったが、現代においても内閣総理大臣および農林水産大臣などが年始に参拝することが慣例となっている。
中世以降は、このような天皇の祖神としての性格や公的な性格に加え、「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集め膨大な数の参拝者を生むようになり、とりわけ江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった。
祭神
主祭神は以下の2柱。
皇大神宮:内宮(ないくう)
天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ) - 一般には天照大御神として知られる。
豊受大神宮:外宮(げくう)
豊受大御神(とようけのおおみかみ)
主祭神以外については、各宮の項目を参照。
役員
祭主:黒田清子(第125代天皇明仁第1皇女子、第126代天皇(徳仁)妹)
大宮司:久邇朝尊(旧皇族久邇宮子孫、第126代天皇(徳仁)再従兄弟)
創祀
神話
天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。」(『日本書紀』)として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれた。しかし、第10代崇神天皇の治世に、鏡は大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。これは、崇神天皇5年に、疫病が流行り多くの人民が死に絶えたことで、天皇の側で神鏡を祀っているのが恐れ多いことであると考えられ、崇神天皇6年に従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移したのである。
その後八咫鏡は皇女の倭姫命に託され、倭姫命は天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をして各地を移動した。『日本書紀』に「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、さらに還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とある通り、垂仁天皇25年3月に倭姫命は伊勢に至った(元伊勢伝承)。倭姫命が伊勢に至ると、天照大御神から「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ」との神託が降り、伊勢の地に鎮座することが決まったのである。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。なお『古事記』には、この経緯について崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。
外宮は、平安時代初期の『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)によれば、雄略天皇22年7月に、天照大御神から雄略天皇に「吾一所に坐せば甚(はなはだ)苦し。しかのみならず大御饌も安く聞召(きこしめ)さず坐すが故に、丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井(ひじのまない)に坐す我が御饌都神(みけつかみ)、等由気大神(とゆけのおおかみ)を我が許に欲す」との神託があったとされ、この神託の通り、豊受大神を丹波国の真奈井原(まないはら)から伊勢山田原へ、天照大御神の食事を司るための神として遷座したことが起源とされる。
考証
津田左右吉の研究以来、歴史学においては『古事記』や『日本書紀』の応神天皇条以前の記述は神話であり、歴史的事実とは考えられていない。そのため、これまでに多くの研究者が、複数の学術分野から伊勢神宮の史実上の創祀年代について検討してきた。他方で、『日本書紀』の神宮創祀伝承の箇所の異伝に、神宮の創始を「丁巳年」と記していることについて、伝承の内容は史実でなくとも、干支に関しては実際の創祀年がそのまま記述された可能性が高いとして、丁巳に該当する西暦年の中から、最も可能性が高いと考えられる年号を伊勢神宮の創祀年と想定する見解も複数示された。
これまでに提示されてきた伊勢神宮創祀年の主な説としては、垂仁朝説、5世紀後半の雄略朝説、6世紀前半の継体もしくは欽明朝説、6世紀後半の用明・推古朝説、7世紀後半の天武・持統朝説、7世紀末の文武朝説などが挙げられる。
成立を最も早く見る垂仁朝説には、歴史学者の阪本広太郎、田中卓、岡田登らがいる。阪本は、日本神話の神宮創祀伝承を史実として認める立場をとり、伝承の通り倭姫命が垂仁天皇25年に倭笠縫邑を発し、その後の伊勢までの巡行に1年を要したとして、丁巳年に当たる垂仁天皇26年に伊勢神宮が創祀されたとする説を提示し、その西暦年代については『日本書紀』の紀年法に従って機械的に換算した紀元前4年とした。なお、阪本の説は、阪本が著し神宮司庁により発行された『神宮祭祀概説』が採用している説であり、現在の伊勢神宮の公式見解とされる。岡田登も、神宮創始を垂仁天皇26年とした上で、それに該当する西暦年代については、『日本書紀』の讖緯説に基づく暦の修正、箸墓古墳の炭素年代測定に基づく年代、他の文献の崇神天皇・垂仁天皇の崩御干支などから、297年に比定した。田中卓も、神宮創祀は垂仁天皇朝だとし、その西暦年代は3世紀であると推定した。
5世紀後半の雄略朝説と見る立場の主な研究者には歴史学者の岡田精司らがいる。岡田は、ヤマト王権が中国への朝貢を停止し、冊封体制から離脱を図った5世紀後半の雄略天皇の時代に、王権の強化を図る必要性から王権祭祀が改革され、東国経営の進展と相まって大王守護神の斎場が大和地域から伊勢地域に移されて伊勢神宮が成立したと主張した。そして、雄略天皇の治世下でかつ丁巳年に該当する477年を、伊勢神宮の具体的な創祀年代と結論づけた[30]。岡田は、『皇大神宮儀式帳』にも「度会宮」の創始年として雄略天皇の「丁巳年」(すなわち477年)とあることに着目し、この「度会宮」は外宮を指すものではなく、内宮と外宮が分離する以前の最初期の伊勢神宮の呼称であるとし、477年成立説の根拠の一つとした。
6世紀前半の継体もしくは欽明朝説をとる研究者としては直木孝次郎、前川明久、和田萃などがいる。直木は、伊勢神宮はもともと皇室の氏神ではなく伊勢在地の神であったが、王権が東国経営の観点から伊勢地域を重視しはじめ、6世紀前半の欽明天皇の時代ごろより伊勢の地方神が天皇から崇敬を受けるようになり、次第に皇祖神と習合し、天武・持統朝に伊勢神宮が国家最高の神社として確定したと主張した。ただし、直木の「地方神昇格説」は、上述の岡田精司から「王権守護神は王権の呪術的権力の基盤であり、よほどの事情がない限り祭神の変更はあり得ないことで、地方神が王権神に昇格するようなことは、世界の宗教史上でも例を見ない」などと反論を受けている。前川は、欽明天皇の時代にヤマト王権が三輪山の祭祀権を掌握し、三輪神の持つ農耕神的神格を、王権が祀る日神と習合させて天照大御神という神格を形成し、東国経営の基地として伊勢多気の地に遷座したとした上で、最終的に多気から度会に遷座されたのは、斉明天皇の治世下の「丁巳年」に該当する斉明天皇3年(657年)と推定した。一方、和田萃は、6世紀前半で「丁巳年」に当たる537年を神宮の具体的な創祀年として推定している。
6世紀後半の用明・推古朝説をとる研究者には、歴史学者の鶴岡静夫などがいる。推古天皇の在位下では、推古天皇5年(597年)が丁巳年に該当する。
7世紀後半の天武・持統朝説をとる研究者には、歴史学者の丸山二郎、建築学者の川添登らがおり、7世紀末の文武朝説をとる研究者には、神話学者の筑紫申真、仏教史学者の田村圓澄などがいる。これらの所説は、「伊勢神宮成立」の定義の要件を、アマテラスという具体的な神格を祀る神社としての成立に求めるため、相対的に新しく神宮の成立を考えるのである。
また、近年では考古学の分野における研究も進み、考古学分野では5世紀後半の雄略天皇朝の成立が最有力説となっている。考古学者の穂積裕昌は、4世紀代に伊勢地域に築造されたと考えられる前方後方墳や円墳に、ヤマト王権で重んじられた銅鏡や腕輪形石製品・儀丈形石製品が副葬されていることから、この時点でヤマト王権と伊勢地域は繋がりを有していたと考え、また5世紀に入り南伊勢地域に久居古窯などの須恵器窯跡群が見られるようになり、同地で須恵器生産が開始されたと考えられることを王権と南勢地域との関係の証左と捉え、さらに伊勢神宮内宮から広範に出土する各種祭祀遺物から、内宮に当たる空間が5世紀の時点で巨大な祭場であったと結論づけ、5世紀後半の雄略朝を伊勢神宮成立の画期と評価した。祭祀考古学者の笹生衛も、5世紀の各地の祭祀遺跡から出土する調理具類、紡織具類、琴、土師器・須恵器、製塩土器、案、高床倉部材などが、『皇太神宮儀式帳』に記載される伊勢神宮の祭儀で用いられる器具と一致すると指摘し、伊勢神宮の神宝・装束、祭式の構成は、5世紀以来の系譜を持つと指摘した[36]。また、考古学者の八賀晋は、全国に24面ある「画文帯同向式神獣鏡」が伊勢湾周辺だけで合計7面出土し、3割近くが伊勢地域に集中する事実に着目し、伊勢が祭祀の場としてヤマト王権により重んじられたことで、5世紀後半から6世紀中ごろにかけて集中的に配布されたと指摘し、伊勢神宮の成立を雄略朝に想定した。
他方で、伊勢神宮の存する南伊勢地域には、古墳時代を通じて前方後円墳はおろか際立った首長墳が築造されず、6世紀後半になってようやく横穴式石室をもつ高倉山古墳をはじめ後期古墳の築造が見られ始めることから、5世紀代にはヤマト王権と伊勢地域の関係は希薄であり、6世紀末になって初めて伊勢地域南部をも含めた伊地域全体が大和王権による統一管理体制下に入り、伊勢における王権の祭祀はそれと同時期の6世紀末に開始されたとする見解もある。
歴史
古代
律令祭祀制度の整備が進む天武天皇・持統天皇の時代に、伊勢神宮の祭祀の諸制度や社殿が整備された。天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。また内宮の式年遷宮も持統天皇の時代の690年に開始され、その2年後に外宮の式年遷宮も開始された。その他、神宮神嘗祭や月次祭など神宮祭祀の諸制度も整備され、奈良時代からは神嘗祭に際して朝廷より例幣使が派遣されることとなった[38]。さらに、伊勢神宮の現在の社殿の形式も、天武持統朝に整備されたと考えられている。また、国家祭祀の場として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)。
古代においては、伊勢神宮の経済基盤は律令国家により保証され、神宮の租税を負担する戸である神戸は大和国、伊賀国、伊勢国、志摩国、尾張国、三河国、遠江国の7カ国に1130戸を数え、収穫が伊勢神宮への御饌として献上される神田は36町1反におよんだ。また、伊勢国の度会郡・多気郡の二評は神郡とされて伊勢神宮に属し、租庸調などの税は伊勢神宮に収められた。これらの神税を以ってもなお足らぬところがあれば、正税や国庫によりその不足分が補われることとなっていた。なお、神郡は寛平年間に追加された飯野郡を皮切りに順次追加され、最終的には飯高郡、安濃郡、三重郡、朝明郡、員弁郡を含む8郡が伊勢神宮の神郡となった。
神職は、内宮・外宮・別宮あわせて86名が奉仕する構成となり、内宮では荒木田氏の一族で従七位の者が、外宮では度会氏の一族で従八位の者が禰宜を務めた。禰宜の下には大内人、小内人、物忌、物忌父などの役職が置かれた。この86名の他に、馬飼丁(うまかいのよぼろ)18名、神服織(かんはとり)50名、神麻績(かんおみ)50名の計118名が祭祀に奉仕した。ここまでの人員は伊勢国の土着の者により担われたが、中央からも伊勢と朝廷のパイプ役として大宮司・少宮司・祭主という役職が派遣され、大宮司は正六位上、少宮司は正七位上の大中臣氏から選任、祭主は五位以上の中臣氏から任じられた。
神宮に関する法令や祭儀の規定については、桓武天皇が延暦23年(804年)に作成させた『皇大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』や、醍醐天皇が作成させ延長5年(927年)に完成した『延喜式』巻4「伊勢大神宮」などに示された。また、延喜式神名帳では式内大社となり、平安時代後期に成立する二十二社では筆頭の神社となった。
また、伊勢神宮や斎宮では「仏」を「中子」、「僧」を「髪長」と言い換えるなど仏教用語を使わない「忌詞」の制度があるなど仏教を忌避する傾向があり、これらの仏法忌避は神宮祭祀においては維持されたが、神宮神官の間での仏教信仰は高まり、祭主・大中臣永頼が長徳年間に蓮台寺を建立して以降、神宮神主も積極的に氏寺や経塚を形成するようになった。
中世
中世に入り律令制度が崩壊すると、それまで神戸や神田など律令制に基づく制度を経済基盤としていた伊勢神宮の経済基盤が揺らぎ始めた。そこで、伊勢神宮では11世紀ごろから役夫工米の制度が開始された。この制度は、権門勢家や有力寺社などを問わず、各国の荘園に神宮の役夫工使が在庁官人とともに入り込み、不輸不入などの特権を無視して課税を行う制度である。この制度により、豪農や武士団などの荘園の開発領主層が伊勢神宮を権門勢を上回る権威として認識するようになり、自らの荘園を伊勢神宮に寄進する者も増え、中世には多くの神宮御厨が形成され、これが伊勢神宮の新たな経済基盤となった。例えば、大治5年(1130年)には平経繁が相馬御厨を、源頼朝は寿永3年(1184年)に外宮に大河土御厨を寄進している。伊勢神宮の御厨には、伊勢神宮の神を勧請して天照大御神や豊受大神を祭神とする神明神社が建立されるようになった。伊勢神宮から御厨へ勧請されて成立した神明神社としては、芝大神宮(飯倉御厨)、仁科神明宮(仁科御厨)、神明社(榛谷御厨)、天津神明宮(東条御厨)などが挙げられる。
神宮御厨からの税の取り立ては、中世に入り新しく生じた神主身分である権禰宜を務めた下級神主により担われ、そのような職務に当たった神主を口入神主と称する。口入神主は税の取り立てに当たって伊勢神宮の神威を説き回ったり、伊勢神宮への祈願を取り次いだりしたため、これが東国を含む武士や土豪などの層へも伊勢神宮の信仰が広がる一つの理由となった。そして、朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝もあり、日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬された。口入神主の活動は次第に庶民にも広がり、中世には庶民層まで広く大神宮信仰が広がった。
このようにして伊勢信仰が広がったことで、僧侶の間にも神宮への関心が高まり、中世には重源、西行、貞慶、叡尊、無住、通海などの高名な僧侶も神宮に参拝した。このような中で、内外両宮を金胎両部とみなす両部神道などの神仏習合説が盛んになった。中世に盛んになった神仏習合の教説においては神宮は神道側の最高神とされた。外宮祠官の度会行忠や度会家行は、両部神道の影響を受けつつ、伊勢神宮の外宮と内宮の同格を説く伊勢神道(度会神道)を唱え、伊勢神宮での厳格な祭祀を背景に「正直」「清浄」を指針とする神道思想を説いた。
中世には、内宮と外宮はその地位や収益の差を巡ってしばしば対立し、永仁4年(1296年)には外宮が豊受宮の名称として「豊受皇大神宮」と「皇」の字をつけたことに内宮側が抗議し、論争となった。さらに、元弘2年(1332年)には参詣者の幣帛を外宮が独占しているとして、内宮から祭主に陳情書が提出され、論争となった(中世においては、交通の便で有利な外宮が内宮を上回る参詣者を集めていた)。また、中世後期には内宮には宇治会合、外宮には山田三方という門前町が形成されたが、この両者も対立してしばしば紛争を引き起こした(詳細は伊勢神宮#鳥居前町(門前町)参照)。
南北朝時代に入ると、相次ぐ戦乱により伊勢神宮の祭儀にも途絶えるものが出始めた。斎宮制度は延元元年/建武3年(1336年)に祥子内親王の代で途絶し、以後復活されなかった。また、神嘗祭における朝廷からの例幣使発遣は、応仁の乱以降中絶した。さらに戦国時代に入ると、戦乱により神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮が行えない時代もあった。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭した。戦国時代には、尾張国(現在の愛知県西部)の織田信秀のように寄進を行う武将もいた。
近世
安土桃山時代に入ると、戦国時代の戦乱の中で中断していた神宮の祭祀も復興し始めた。慶光院の守悦上人は浄財を募り、まず宇治橋の架け替えを復興した。この意志を継いだ清順上人は後奈良天皇より院号を賜って勧進に奔走し、永禄6年(1563年)に外宮の遷宮が遂行された。さらに次代の周養上人は織田信長から三千貫文の寄付、豊臣秀吉からは金子500枚と米1000石の寄付を受けて内宮の遷宮を遂行するに至り、ここに式年遷宮が完全に復興された。以来式年遷宮は両宮が同年に行われることとなった。
豊臣秀吉が天下を統一すると太閤検地が実施されたが、伊勢国宮川以東は伊勢神宮の神領として検地が行なわれず、神領として保護された。徳川家康により江戸幕府が開かれた後も宮川以東の地域は検地が行なわれず、本州では唯一石高制が適用されない地域となった。神宮の神領は、幕府が両宮領として3500石、内宮領として500石の朱印を下附して安堵し、さらに二見郷2000石余りを御塩調進領として寄進した。さらに、幕府は遠国奉行の一つとして山田奉行を設置し、伊勢神宮の警衛、造替や修繕、遷宮、神領自治組織の監視、鳥羽港出入船舶の監視といった業務を行わせた[59]。また、江戸幕府の将軍が毎年年頭に伊勢神宮に使者を派遣して代参させる「伊勢御代参」が、幕府の年中行事の一つとなっており、伊勢神宮は幕府の権威とも結びついていた。
中世に断絶していた神宮神嘗祭の際の朝廷からの例幣使発遣も、正保4年(1647年)に後光明天皇の特旨により再興された。
伊勢神宮の祠官の間では、中世以来の戦乱で廃絶した伊勢神宮の摂社や祭儀などを再興する動きが広がった。神宮権禰宜の出口延佳は、伊勢神道の教義を復興して「後期伊勢神道」と呼ばれる神道説を形成した他、外宮の近くに豊宮崎文庫を創設して伊勢神宮関連の典籍の集成、保存、公開を行なった。また、子の出口延経や、河辺精長、松木智彦、河崎延貞などの神宮神官らが、神宮殿舎の再整備、神宮祭儀の復興、摂社・末社の再興など実践的な活動を行なっている。
民衆においては、お蔭参り(お伊勢参り)が流行した。庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝した。これには、神宮が中世以降、各地に派遣して寄進を募ったり、参拝を進めたりした御師の役割が大きい。住民が資金を積み立てて代表者が参詣する伊勢講も広まった。
寛政2年(1790年)、安房国の庄屋が自分の代理として愛犬を伊勢に派遣している。以後、犬の伊勢参宮が流行するようになった。
近現代
明治2年3月12日(1869年4月23日)、明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した[注釈 7]。天皇による参拝が長期にわたり空白だった理由については諸説が唱えられているが、決定的なものはない。
明治元年に神仏分離令が発出されると、伊勢神宮もその影響を受けた。宇治と山田では109カ寺が廃寺となり、さらに上述の明治天皇の行幸に際しては1か月前に行幸の道筋にある寺を全て撤去せよとの命令が度会府より出て、宇治山田に残った寺の数はわずか15カ寺となった。
明治維新に伴い、神宮の組織も近代化が図られ、神職や神宮傘下の諸社を統括する組織として「神宮司庁」が置かれた。神職の職制は明治4年(1871年)に改められ、禰宜が内宮と外宮で各5名となり、安政5年(1855年)には内宮68名、外宮79名いた権禰宜もそれぞれ5名と大幅に削減された。さらに大内人、内人、大物忌、大物忌父、大物忌母、物忌神戸などの職制も廃止され、変わって主典(さかん)が両宮に各8名、権主典が各15名、宮掌(くじょう)が各10名設置された。祭主、大宮司、小宮司はそのまま置かれたが、江戸時代には360名程度いた神宮の神職が、この改正により89名程度まで減少することとなった。同時に、神職の世襲制廃止に伴い、これまで神宮の神職を世襲していた荒木田氏や度会氏もその職を解任され、以後は国が神職を選任した。また、これまで全国各地の檀家を回って神宮大麻を頒布したり、参拝者の宿泊や案内の役割を担ってきたりした御師も廃止された。
神宮大麻の頒布業務は、神宮司庁から分離して教派神道の一派となった神宮教院が担当することとなり、1899年(明治32年)には崇敬者の財団法人である「神宮奉斎会」へと改組された。
司庁の調査により、神宮の摂末社のうちで所在が不明になっていたものの同定や再興、それまで集落の鎮守として村人の崇敬を受けてきた経緯および独自の祭礼との調整などが行われたほか、社殿の規模や様式についても、数次の社殿造替を経て、統一が行われた。神道国教化政策により、全国神社の頂点の神社として位置付けられ、近代社格制度において別格とされた。
祭祀については、1914年(大正3年)の勅令第9号「神宮祭祀令」により規定された。神宮祭祀を大祭・中祭・小祭に区分。神嘗祭、月次祭、祈年祭、新嘗祭、神御衣祭、遷宮祭、臨時奉幣祭が大祭とされた。日別朝夕大御饌祭、歳旦祭、元始祭、紀元節祭、風日祈祭、天長節祭などは中祭とされ、これ以外が小祭に振り分けられた。それぞれの祭祀の細かい祭式については1875年(明治8年)に制定された「神宮明治祭式」に従うこととされた。
第二次世界大戦以後は政教分離が図られ、宗教法人神社本庁発足に伴い、全国神社の本宗とされた。内宮前に神宮司庁があり、神職約100人、一般職約500人が奉職している。
戦後に廃止された紀元祭は、1954年(昭和29年)、神社本庁の通達に基づき復活した。
佐藤栄作首相が1965年(昭和40年)に参拝して以来、現職内閣総理大臣と農林水産大臣が、(正月三が日に多い初詣の混雑を防ぐため)主に1月4日の官公庁仕事始めの日に参拝するのが慣例行事である。
式年遷宮
神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。原則として20年ごとに、内外両宮の正宮の正殿をはじめとする別宮以下の諸神社の正殿を造替して神座を遷し、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎といった全社殿を造替する他、714種1576点の御装束神宝(装束と須賀利御太刀などの神宝)、宇治橋なども造り替える。
記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上におよぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、2013年(平成25年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている[8]。第63回目の式年遷宮の年は2033年予定で準備が進められている。
なお、伊勢神宮が世界遺産に登録されていない理由として、この式年遷宮が世界遺産に求められる「不変性」「保護」の観点と噛み合わないためとされる。
年表
遷宮に関しては「神宮式年遷宮」を参照。西暦の年月日はユリウス暦によるが、「1871年7月1日」はグレゴリオ暦。年と月の西暦との対応はおおよその目安である。
垂仁天皇26年:皇大神宮(内宮)創祀。
雄略天皇21年(477年):豊受大神宮(外宮)鎮座。
天武天皇2年(673年):大来皇女が斎宮に入る(斎宮制度の起こり)
天武天皇14年(685年) : 式年遷宮の制を制定。
持統天皇4年(690年) : 第1回内宮式年遷宮。
持統天皇6年(692年) : 第1回外宮式年遷宮。
大宝元年(701年):『大宝律令』「神祇令」制定。
和銅2年(709年) : 第2回内宮式年遷宮。
和銅4年(711年) : 第2回外宮式年遷宮。
和銅5年(712年)1月28日 : 『古事記』完成。
養老4年(720年) : 『日本書紀』完成。
延暦23年(804年):『皇大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』完成。
延長5年(928年)12月26日 : 『延喜式』完成。
康保4年(967年)7月9日 : 延喜式施行。
永保元年(1081年):伊勢神宮を筆頭とする二十二社制度が確立。
永仁4年(1296年):「皇字論争」。外宮が社号に「皇」の字を付けたことに内宮が抗議。
元弘3年(1333年):斎宮制度が廃絶。
寛正3年(1463年)12月27日 : 第40回内宮式年遷宮。この後、戦国時代で式年遷宮が中断。
応仁元年(1467年):応仁の乱。この年以降、神宮神嘗祭に際しての朝廷からの例幣使発遣が中絶。
永禄6年(1563年)9月23日 : 第40回外宮式年遷宮。
天正13年(1585年):第41回式年遷宮。この回以降、式年遷宮は両宮同時催行が通例となる。
慶長8年(1603年):山田奉行設置。
正保4年(1647年):後光明天皇の特旨により神嘗祭の例幣使発遣が再興。
慶安3年(1650年)1月 : 慶安のお蔭参り。
宝永2年(1705年) : 宝永のお陰参り。
明和8年(1771年)4月 : 明和のお陰参り。
延享元年( 1744年):伊勢神宮を筆頭とする上七社奉幣が再興。
文政13年(1830年) : 文政のお陰参り。
慶応3年(1867年) : ええじゃないか。
明治4年(1871年)
5月14日 :太政官布告第234号により 近代社格制度制定。神職の世襲が廃止され、度会氏、荒木田氏らが解任。神宮司庁設置。
6月7日 : 新たな職制が布告。大内人、内人、物忌などの職掌が廃止。
7月12日:太政官布告第346号により御師が廃止。
1914年(大正3年)1月26日:神宮祭祀令制定。
1945年(昭和20年)12月15日 : 太平洋戦争敗戦に伴う神道指令。
1949年(昭和24年) : 第59回式年遷宮延期。
1953年(昭和28年)
10月 : 第59回式年遷宮。
12月 : 崇敬団体の伊勢神宮奉賛会設立。
1959年(昭和34年)9月26日 : 伊勢湾台風により内宮・外宮とも倒木などの被害。
1965年(昭和40年)9月 : 伊勢神宮奉賛会が伊勢神宮崇敬会へ改称。
2016年(平成28年)5月 : 第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)を記念してG7各国首脳が内宮を訪問[76]。
信仰
伊勢神宮への信仰である「伊勢信仰」は、身分の貴賎や職業を問わず広い階層の間で成立し、膨大な数の参宮者を生み出した。伊勢神宮は、長い歴史を通じて日本人の信仰の中心に位置してきた。
概史
前史
古代においては伊勢神宮は民衆から離れた存在であった。延暦23年(804年)に成立した『皇大神宮儀式帳』には
「王臣家ならびに諸民、幣帛を進めせしめず。重ねて禁断す。若し欺事をもって幣帛を進むる人をば流罪に准し、これを勘え給う。」
として王臣・庶民の幣帛を私幣として禁止する条目(私幣禁断)があり、さらに『延喜式』巻4「大神宮式」には
「凡そ王臣以下、たやすく大神に幣帛を供するを得ず。その三后・皇太子もしまさに供すべきものあらば、臨時に奏聞せよ。」
とある通り、東宮・皇后の幣帛も臨時の許可が必要な私幣に分類されていて、伊勢神宮は律令国家全体を司る国家神として、律令の代表者である天皇のみが祭祀を行うものと厳格に捉えられていた。ただ『大神宮諸雑事記』において、承平4年の記録に勅使やそれに付随する人数が「参宮人十万」もしくは「千万」と比喩で表現されている(写本によって数が異なる)通り、伊勢神宮への奉幣にあたっては勅使と膨大な数の付き人が都から参宮しており、そういった人々が都へ帰った際に口頭で神宮について広めることにより徐々に伊勢神宮の存在が多くの人々に知られるようになったと考えられている。また、古代において神宮の神田や神郡とされた地域や神宮の神戸とされた戸の人々は神宮への年貢の運搬やその他の労役に際して神宮へ赴き、神宮の存在を知ったものと考えられる。
伊勢信仰の成立
このように平安初期まではあくまで天皇や貴族、都の住民などを中心とする信仰しか成立しておらず、庶民層や東国まで神宮の信仰が広がることはなかった。この状況が変わり始めるのが、律令制が弛緩して荘園制が成立する平安時代中期以降である。もともと、伊勢神宮は神戸や神田、神郡からの年貢を経済基盤としていたが、律令制度の崩壊と荘園制の成立に伴い、こういった経済基盤が揺らぎ始めた。そこで、伊勢神宮では11世紀ごろから新たに役夫工米制度が生じた。これにより、神宮の下級神職である権禰宜が役夫工米使となって各地に成立した荘園に在庁官人と共に入り込み、権門勢家や有力寺社の荘園であっても不輸不入の特権を無視して徴税を行うことが許された(徴税を担当した神職を口入神主と称する)。この制度により、各荘園において在地の支配者として年貢の納入などを行っていた田堵、名主、下司、開発領主などの豪農層や武士団が伊勢神宮を権門勢家を上回る権威として認識するようになった上、徴税に当たっては口入神主から神宮の神威が説かれたり、伊勢神宮への祈願を取り次いで貰ったりしたことから、土豪層において伊勢信仰が広がり、伊勢神宮を本所と仰いで領地を寄進する例も増えた。こういった上級武士層の伊勢信仰は、元寇における神風伝説などにより、鎌倉時代中期以降御家人や地頭級武士層にも広がり、彼らが強い影響力を持った農村にも次第に伊勢信仰が浸透した。また、伊勢神宮に寄進された領地は神宮御厨と称され、年貢が神宮へ納められたが、この御厨に伊勢神宮の神を勧請して天照大御神や豊受大神を祭神とする神明神社が建立されるようになったことも、さらに東国を含む全国の神宮領内の民衆に伊勢信仰が広がる要因の一つとなった。
さらに、伊勢信仰に先行して庶民に広がっていた熊野信仰も伊勢信仰の拡大を手伝った。熊野大社には、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほど人々が大挙して参拝していたが、この際に伊勢路を通ると、必ず伊勢神宮を通ることになり、それにより伊勢神宮に立ち寄る人も増加した。熊野大社は、早くから浄土信仰と結びつき三山が浄土とされたこともあって、僧徒の参拝も積極的に受け入れていたため、もともと仏法を忌避していた伊勢神宮も僧徒の参拝を認めるようになり、中世には重源、貞慶、叡尊、無住、一遍、虎関師錬、後深草院二条などの僧侶や出家者が伊勢神宮に参拝し、手厚くもてなされている。このような仏教者の伊勢信仰の高まりにより、両宮を金剛界・胎蔵界とみなす両部神道など神仏習合系の神道説が形成されていく。
中世後期に入ると、戦乱の影響や、荘園制度の崩壊などにより、御厨からの収益から断たれて神宮経済は危機的状況となったため、御師の活動が一層本格化した。御厨などの土地関係を離れて全国的に檀家を広げてゆくようになり、その活動内容も御厨などの社領管理から、参宮に際して宿泊や観光案内を提供するなどの直接的な業務が中心となった。檀家の階層も、室町時代には御師の檀家帳に商人や苗字を持たない百姓の名まで記載されるようになっていることから、旧来の武士層からさらに広い庶民階級にまで広がったと考えられる。御師の活動の変化に伴い、その担い手も「神人(じにん)」と呼ばれた旧来の神職層から、手代として人々との直接的な接触に慣れてきた「神役人(じやくにん)」と呼ばれる新興の町人層に変化し、山田三方や宇治会合と呼ばれる宇治山田の町衆による自治組織も形成された。また、「御師株」と呼ばれた御師の職権の売買も行われるようになった。
伊勢信仰の発展
近世に入ると、伊勢信仰は一層発展する。その背景の一つには、各村で形成された伊勢講がある。伊勢講とは、伊勢信仰を持つ複数の人々が集まって参詣のための費用を出し合い、講員の中からくじ引きで選ばれた人が代参をするための集まりのことである。その史料上の所見は、京都の中流貴族山科教言が著した日記『教言卿記』の応永14年(1407年)条に「神明講」とあるものである。伊勢講は次第に農民層の間でも結成されるようになり、治安の回復や関所の撤廃、輸送組織の発達など交通事情が大幅に改善する江戸時代に入ると、参宮の機運が高まり、郷村制の発達とともに伊勢講が一般化し、全国に広がっていった。伊勢参宮のための積立費用の支出は村の公的な支出を記した帳面に記され、伊勢御師へ渡す初穂料は、山手米、判銭などと並んで村の租税の一環として、無高の者も含めて村民の石高ごとに所定の初穂料を徴収することが定められているなど、伊勢講は村全体で公的に構成されるようになっており、近世には伊勢講はほぼ全国の村に形成されていた。伊勢講は、講親や講元などと呼ばれる講のリーダーが選ばれ、年に数回程度講員同士の親睦も兼ねた寄り合いが行われて代参の日程などについて話し合われ、代参は主に農閑期にあたる正月から4月にかけて集中して行われた。伊勢講への加入期間が一定程度長ければ、すべての講員が一生に一度は伊勢神宮に参詣できる仕組みとなっており、数年に一度は全員で参拝する総参りを行うなど、講員全員が楽しめるように各講で工夫がされていた。伊勢講に加入できたのは、代参費用を支払うことができる本百姓などの正規の村民であり、下男、召使い、子供などの下級階層は認められなかった。そこで、彼らは主人に無断で家を飛び出し、伊勢神宮へと向かう抜け参りによって参宮を目指した。江戸時代には、伊勢参宮に限っては無断で抜け出したとしても罪悪視されず認められる風潮があり、伊勢神宮側も1626年の『伊勢大神宮神異記』で抜け参りを止めた主人に神罰が下る話を集めるなど、抜け参りを推奨した。
残存する数少ない旧御師邸宅跡の一つ、御師葉山太夫門。嘉永6年に創建され、もともと常盤町にあったが、昭和40年に伊勢市倭町に移築された。
伊勢の御師は、各村の伊勢講を握り、伊勢講の講員を中心に師檀関係を結んで自らの檀那を拡大していったため、先述の通り伊勢講が全土に展開した江戸時代においては、伊勢神宮の御師との師檀関係はほぼ全ての国民に浸透し、御師が檀家に配った神宮大麻の頒布数に関しては、安永6年に438万9549体におよび、御師の檀家数も安永年間に約420万戸と記録されている。これらは当時の全世帯の9割に該当する数字であり、実に当時の全世帯の9割が伊勢神宮の御師と師檀関係を結んでいたことになる。御師は、全国に「伊勢屋」「お伊勢宿」などと呼ばれた出先機関を設け、先達や家来とともに年に1回から3回程度村々を巡回して檀家をめぐり、神宮大麻、伊勢暦、薬、白粉、帯、伊勢茶、海苔、熨斗、扇などの土産物を渡し歩いて、檀家から初穂料を受け取りつつ、神宮の神威を説き参宮を勧めた。そして、御師は参宮してきた檀家の人々に対するもてなしも最大限を尽くした。伊勢参宮者は、伊勢本街道や伊勢別街道を通り、松阪や小俣町のあたりで御師の手代から送迎を受け、宮川を無償の運賃で渡り、宮川を渡ると駕籠で出迎えを受けて、宿泊先となる御師の邸宅へと向かった。そして、御師邸で御師は、酒に伊勢海老や鯛、鮑など伊勢の珍味を用いた豪勢な食事を提供し、立派な羽二重の布団を敷いてもてなし、太々神楽もあげ、伊勢両宮のほか朝熊や二見などの名所旧跡の案内も行い、「あこがれの伊勢参宮」を演出することで、伊勢信仰を広げた[107]。このように、江戸時代には御師の介在による庶民の伊勢神宮の参詣ルートや参詣方式が整備された。御師にとっては檀那からの返礼が主要な収入源でもあったことから積極的に布教活動を進め、しばしば同一の檀那を複数の御師が競合する例も見られるほど、布教に熱心であった。近世に入り伊勢参宮者が増加すると、これに伴い御師の数も増加し、享保9年(1724年)には外宮の御師数は615家、内宮の御師数は記録のある正徳年間のころに141人を数えている。
このようにして、近世に入り伊勢信仰が一層拡大したことで、参宮者の数も近世に入り急増した。江戸時代初頭にはすでに年間2、3万人の参宮者があり、江戸時代中期以降には平均して例年40万人前後、少ない年でも20-25万人の参宮者があったと推定されている[110]。さらに、神札の降下を契機に、60年周期で爆発的に抜け参りが流行して伊勢参宮者が急増する「お蔭参り」が江戸時代を通じて見られたが、このお蔭参りでは、宝永のお蔭参りで362万人、明和のお蔭参りで207万人、文政のお蔭参りで476万人が参拝するなど、膨大な数の人々が伊勢神宮へと赴いた。参宮者の集団は、お伊勢参りの証である笠、わらじ、柄杓、旗を身につけることで、伊勢へ参る街道筋において富裕者や有徳者などから食事や宿の提供(施行)を受けることができ、無事に伊勢までたどり着くことができた。伊勢まで赴いた人々は、宮川や二見ヶ浦で心身を清めた後、茶店の並び立つ中河原から外宮の域内に入り、岡本から古市・中之地蔵を通り、牛谷坂からおはらい町に至り、宇治橋を渡って内宮へとおよんだ[113]。外宮と内宮の間にある古市には、遊郭や芝居小屋などが立ち並んでおり、少なくない数の参詣者が古市を目当てにして伊勢まで赴いた。また、江戸時代中期以降は伊勢参りが「伊勢大和参り」とも称されるようになったように、伊勢参宮者は伊勢神宮への往路または復路で大和国をはじめとし日本各地の名所や旧跡を巡ることが一般的であった。お伊勢参りでは、人々は伊勢神宮まで至る道中も醍醐味としており、道中における様々な地域や人との出会いも旅の一環と考えていた。
近現代の伊勢信仰
明治時代に入ると、従前までの伊勢信仰は大幅な変革を迫られた。明治政府は、伊勢神宮を「我が国の宗門」として各神社の最高神とし、国民精神を統合するための国家的なシンボルとすることを図った。このため、中世以来の庶民と神宮の直接的な結びつきは軽視され、より国家としての公的な側面から信仰することが推進された[116]。神宮は天皇の祖神であるから、天皇の赤子である日本国民は必ず神宮へ参拝するべきであるという考えが強調され、明治30年代から学校教育の場においても修学旅行に伊勢神宮が選ばれることが増加した。このため、これまで参宮者の案内や宿泊を担い、神宮と庶民をつなぐ媒介としての役割を果たしてきた御師は、明治4年の通達で全て廃止された。失職した御師に対しては、経済的救済のために授産所が設けられたものの、経済的な打撃は計り知れず、御師達は財産の切り売りを行なった。かつて宇治山田合わせて600軒以上あったはずの御師邸のほとんが残存せず、関係資料の多くが失われたのもこのためである。なお、御師の中にはこれまでのノウハウを生かし、旅館経営や観光業に転身した例も多くある。
他方、私的祈願の要素も完全に消滅したわけではなく、これまで御師が担ってきた神宮大麻の頒布は、本来神宮で私祈祷をあげた証として配布されるもので、私的な領域に属するものであったが、御師の廃止後も神宮司庁により奉製と頒布が引き継がれることとなった。また、これまで御師邸で上げられていた神楽も、私祈願を行うものであるため不適当とされ、御師の解体とともに廃止されたが、神宮において個人祈願を行う場が一切無くなったことで大きな混乱を生じたため、翌明治5年に内宮祈祷所、明治8年に外宮祈祷所が設置され、神楽奉納が復活した。(両宮の祈祷所は、後に現在の神楽殿となった)。また、伊勢神宮が国家の総氏神として強調されたことに加え、伊勢では1894年に津と宮川を結ぶ参宮鉄道が開通するなど交通網が格段に発達したことにより、伊勢参宮者自体は1897年から1945年にかけて一貫して増加し続け、特に国家意識が高まる1937年以降は参宮者の数も急増している。上述の御師廃止に加え、このように鉄道網が発達したことから参宮も容易になり、明治以降は伊勢講も徐々に解散していった。
第二次世界大戦後は、戦後の混乱や神道指令により神社の参拝が憚られたことで一時参宮者が激減したが、1953年以降は200万人を超え、参宮者の数も復調した。近年では、第62回式年遷宮のあった2013年に1400万人、その翌年の2014年に1080万人、改元のあった2019年には860万人を数えるなど、伝統的行事への関心とも結びつき、参拝者数は例年800万人を超える盛況となっている。また、1993年には往時の伝統的な街並みを再現したおかげ横丁がオープンして例年400万人の観光客を生み出し、御木曳などに伊勢市外の人も参加できる「特別神領民」の制度が導入されるなど、観光面でも伊勢神宮への参拝者が増加している。また、伊勢志摩サミットの影響もあり外国人の関心も高まっており、2018年には10万人を超える数の外国人が伊勢神宮に参拝した。
信仰の性格
このように伊勢神宮は長い期間を通じて膨大な数の人々が参宮してきたが、その要因の一つとして、伊勢神宮が神道の最高神で天皇の祖神でもある天照大御神を祀るという性格から、「国家の総鎮守」として信仰されたことが挙げられる。古くから、伊勢信仰において神宮が「国家の総鎮守」として信仰されてきたことを示す例としては、例えば中世において、源義宗が伊勢神宮に領地を寄進するに当たって「是れ大日本国はすべて皇大神宮・豊受宮の御領たる故なり」との文言を寄進状に載せて両宮を日本全体の神と認識していることや、『吾妻鑑』に見える源頼朝の寄進状にも「公私の御祈祷のため」という文言が見えて、「私」とともに「公(=国家)」も神宮の祈願対象となっていることが挙げられる。この意識は農民層においても同様であったらしく、中世の百姓が書いた起請文に、天照大御神を称して「日本国主」「日本鎮守」と書かれたものが見つかっている。また、仏教勢力においても、重源が「天照大御神は我が朝の本主、此の国の祖宗なり」と述べたり、無住が『沙石集』の中で「我が国の仏法ひとえに大神宮のご加護によれり。当社は本朝の諸神の父母におわすなり」と述べたほか、安房国出身の日蓮は『新尼御前御返事』で「安房国東條郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり」として安房国東郷荘に神宮御厨があることを理由に、この地は辺境であるものの日本の中心に等しいと述べている。このように、仏僧においても伊勢神宮が日本の主神であり、仏教をも伊勢神宮により鎮護されているとみなす考え方が広まっている。元寇後は、伊勢神宮が神風を起こしたと信仰され、一層国家鎮守神としての側面が強調された。室町時代中期の辞典『壒嚢鈔』には「和国は生を受くる人、大神宮へ参詣すべき事勿論…」と記されており、国家鎮守神である大神宮には国民は必ず詣るべきとする観念が広がっている[127]。伊勢信仰が本格化する江戸時代においても、当時伊勢参宮者の間で広く流通していた市販の伊勢神宮の携帯用ガイドブックである『伊勢参宮細見大全』では、皇大神宮を、その皇室との関係性を説明した上で「天下第一の宗廟」や「日本第一の宗廟」と表現している。また、同書の「参宮大意」の項目には「内外両宮は四海太平、国家安全を守り、万民百姓はその恩恵を蒙っているのだから、その霊地を踏み、神の広前に拝して神の御恵にこたえるべき」という旨が書かれ、国家全体を守る神としての側面を強調しており、外宮の祭神については「君臣の二祖」と表現され、天皇と国民の両方にとっての祖神であると観念されている。伊勢神宮の国家神としての側面は明治時代以降に強調されたが、神宮を「国家総鎮守」とみなす信仰自体は中世以来存在するもので、伊勢信仰を支える一つの要因となった。
他方で、人々は伊勢神宮を国家の総鎮守としてだけでなく、豊作や出世、病気平癒などの、個人的な現世利益をもたらす神として信仰する側面も有していた。上述の通り、伊勢神宮は中世には私幣禁断の風潮が弱まって個人祈願が多く行われるようになっており、夢窓疎石の『夢中問答集』には神宮の神官・度会家行が「世のつね、幣帛を捧げ法楽をなすことは皆これ名利の望みを祈り奉らむがため」と参詣の人々の現状を話した記録があり、記録に残る足利将軍の神宮への祈願内容も、病気平癒や安産祈願など私的な内容である。今神明や飛神明などと称された、室町時代に盛んになる京都洛中への伊勢神宮の勧請においても、神明勧請は怨霊や悪霊の鎮魂や祓いを求めての勧請であった。江戸時代の参宮ガイドブックである『新撰 伊勢道中細見記』には「夫れ、伊勢参宮は家内安全所願成就を祈らんための参宮なり」と冒頭に記され、庶民の私的祈願を行う神宮であると記されている。農村の田植え歌においても、天照大御神を豊穣をもたらす神として歌うものが各地に残されており、五穀や豊作の神、あるいは全般的な幸福をもたらす神としても、伊勢神宮は庶民から信仰を受けていた。また、『伊勢太神宮続神異記』には障害を持った人や病の人、貧しい人などが伊勢神宮に参拝することで障害を治癒したり病を克服する霊験譚が多く集められていることからも、伊勢神宮が人々を救済する神として信仰されていたと考えられる。
また、伊勢神宮は人々からしばしば霊的な聖地としても信仰され、神宮に訪れた人は霊的な力を身につけると信仰されることもあった。腹が痛む時には伊勢参りの経験者に跨いでもらうと良いとか、伊勢参りから帰ってきた者は「御位」が上がるからと平常では使わない入り口から入ることになっているなどの風習が各地にあり、村の成人儀礼として成人となった者が伊勢参宮を行う風習が多くあったことも、少年から成人へと再生する聖域として伊勢が意識されていたことを示している。
神宮125社
神宮が管理する宮社は125社あり、俗に「神宮125社」と呼ばれる。内訳は内外両正宮に別宮14、摂社43、末社24、所管社42。伊勢市だけでなく、三重県内の度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町の4市2郡に分布する。
正宮(しょうぐう) - 皇大神宮 (内宮)と豊受大神宮 (外宮)の2宮。
別宮(べつぐう) - 「正宮のわけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされる[137]。
摂社(せっしゃ) - 『延喜式神名帳』に記載されている神社(正宮、別宮を除く)。定義では摂社は全て式内社となるが、戦国時代にほぼ全てが廃絶となり、江戸時代の寛永年間(1630年代)から明治初頭(1870年代)にかけて復興されたため、式内社の比定地とされる場合がある[138]。
末社(まっしゃ) - 『延暦儀式帳』に記載されている神社(正宮、別宮、摂社を除く)。
所管社(しょかんしゃ) - 正宮・別宮・摂社・末社以外の神社。
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