2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
「婦女者無問有夫無吏
及長幼欲進仕者聴」日本書紀
夫の有無
年齢の工程を問わず
希望するものは雇用」
氏女(豪族の女性)
采女(地方官の家の女性) 雑用
飯高宿禰諸高(采女から最高位(従三位)の女官に)(宿禰諸高は天皇から与えられた。元の名は、飯高縣造(あがたみやつこ)笠目。伊勢の飯高氏) 「根無し草ほど長く生きる」
音楽の才能で採用され安倍内親王を皇太子にする正当性を訴えるための五節舞を指導した功績により外従五位下に。後宮十二司(じゅうにし)内侍司(ないしのつかさ)、写経の責任者、光明子の一周忌供養の担当の功績として諸高の名を授かる。称徳天皇崩御の際には内侍司の次官に当たる典司になっていた。そして上級貴族にあたる従三位に昇進した。
「歴代四代終始无(無)失」(四代の天皇に仕えて一度も失敗がなかった)(続日本紀)
男も女も仕事をしていれば名前が残る→奈良時代は女性も公の仕事をしていたので本名が残った。
木簡に女官の勤務評価が残っていた。「○○牟須売」年五十九 年間329日(旧暦354日)勤務
後宮職員令(こうきゅうしきいんりょう)(女官の勤務規定を定めた法律) 女官は半月に3日休むことと定められていた。
参考:『先人たちの底力 知恵泉 奈良時代のキャリア戦略! 女官たちの立身出世術』NHKプラス(2024年7月16日まで) https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2024070926632?playlist_id=0d655b99-cc85-4201-a1d0-b0a9253e5ff6
『三輪氏を中心にした日本の古代のものがたり』 http://kaku-net.jp/kakuh/miwah.pdf
にのみ見られる。
続日本紀巻十七
立雙仕奉自理
在止奈母念須。父我加久斯麻尓在止念弖於母夫氣教祁牟事不過失家門不荒自弖天皇朝
尓仕奉止自弖奈母汝多知乎治賜夫。
平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。
平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏すなわち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙のいわゆる外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
平城宮跡の区域は2008年(平成20年)度に事業化が決まると、仮称「国営飛鳥・平城宮跡歴史公園」に含まれることとなった。開園後、公園中心部の第1次大極殿より南側の第1次朝堂院及び同南面広場を経て、南北に貫く通りに沿って朱雀門の面する二条大路と門外の朱雀大路まで整備を進めている。2018年3月24日から朱雀大路を挟んで向かい合う国営施設と県営施設の供用を開始。合わせて親しみやすいように国営公園の通常の名称「国営平城宮跡歴史公園」に代わって、「平城宮跡歴史公園」と呼んでいる[28]。 平城宮のメインストリートである朱雀大路と二条大路を復元、往時の広大さがわかる空間を設けてあり、東側に配した平城宮跡展示館では、奈良時代の生活文化の紹介など学習の機会を設けてある。また平城宮の正門であり、奈良時代にも都を訪れる人たちを迎えた・朱雀門に臨むことから、西側に奈良県が公共交通機関の発着所や食事・土産物販売などのサービス機能を集約している。
平城宮wikipediaより一部抜粋。
奈良県奈良市雑司町にある華厳宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である。 正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平15年(743年) 。
天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、ようやく大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)であった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。
創建
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていたことが分かっている。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られる、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺兼総国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。
以上、東大寺wikipediaより抜粋
『東大寺の歴史』華厳宗大本山東大寺 https://www.todaiji.or.jp/history/
東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を追修するために、神亀5年(728)に建てられた山房(後の金鍾山寺)に源を発し、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格してなった大和国国分寺(金光明寺)を前身とする。天平15年(743)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔が発せられ、都が紫香楽(滋賀県甲賀市信楽町)から平城に還ると、大和国金光明寺で盧舎那大仏の造像工事が始まり、天平21年(749)仏身が鋳造。同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養会が営まれた。その後、西塔や東塔、講堂や三面僧房などが造東大寺司の手によって造営され、東大寺としての七堂伽藍順次整った。
東大寺は国分寺として建立されたので、天下泰平・万民豊楽を祈願する道場であったが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗、さらに平安時代の天台と真言も加えた各研究所(宗所)が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。
平安時代に入ると、斉衡2年(855)の大地震によって落下した大仏さまの頭部は真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊した。しかも治承4年(1180)に平重衡の軍勢により大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼かれた。しかし翌年には俊乗房重源によって復興が着手され、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養が行なわれた。翌文治2年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、建久6年(1195)に大仏殿落慶(供養が行なわれた。こうした復興に伴い沈滞気味であった教学活動も活発になり、鎌倉時代には多くの学僧が輩出した。
ところが永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起こり、二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰した。時まさに戦国時代であったから、東大寺の復興は難渋をきわめ、大仏さまの仏頭も銅板で覆う簡単な修理しか出来なかった。ようやく江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏さまの開眼供養が元禄5年(1692)に、さらに大仏殿の落慶供養が宝永6年(1709)に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行された。
明治時代になって起こった神仏分離令と寺社領没収は東大寺の存立に危機をもたらし、宗制上華厳宗を名乗ることなど寺院改革を迫られたが、それでも明治・昭和時代の大仏殿の大修理をはじめ、諸伽藍の維持に努め、現在に至っている。東大寺はその歴史から貴重な文化遺産を今なお多く蔵しているが、そればかりでなく二月堂修二会をはじめ伝統的な仏教儀礼の宝庫でもあって、毎年日本全国はもとより、世界各地から多くの人々が参詣に訪れている。
参考:『国分寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA
国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
概要
日本の国分寺・国分尼寺の先例として、隋を建国した文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。その後の唐では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった。
聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。 天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
国分寺建設地の選定
国分寺の建設地の選定における条件は、石田茂作の諸国国分寺の調査成果により『東大寺と国分寺』により示されている。
地形的条件
①国華として仰ぎ見るのによい地形
②水害の憂いなく長久安穏の場
③南面(向)の土地
都市計画的条件
④人家の雑踏から離れている
⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地
⑥条里制区画(六町四方を一里とする方形地割にもとづく土地制度)の拘束を甘受すること
政治的条件
⑦国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる)
— 国分寺市教育委員会ふるさと文化財課『見学ガイド武蔵国分寺のはなし』(1989年)、16-17頁。
一覧
所在地はいずれも創建当初のもの[5]。(推定)は推定地、(未詳)は所在不明、複数記載は説のあるもの。
国分寺の一覧
総国分寺
東大寺 奈良県奈良市雑司町 国の史跡 東大寺
総国分尼寺
法華寺 奈良県奈良市法華寺町 国の史跡 法華寺
畿内
大和国分寺 奈良県奈良市雑司町 国の史跡
山城国分寺 京都府木津川市加茂町例幣 国の史跡(恭仁宮跡(山城国分寺跡))
国分寺 山城国分尼寺 (推定)京都府木津川市加茂町法花寺野
河内国分寺 大阪府柏原市国分東条町
真言宗河内国分寺 河内国分尼寺 (推定)大阪府柏原市国分東条町
和泉国分寺 大阪府和泉市国分町
護国山国分寺 和泉国分尼寺
摂津国分寺 大阪府大阪市天王寺区国分町
天德山国分寺
護国山金剛院国分寺 摂津国分尼寺 (推定)大阪府大阪市東淀川区柴島
天平勝寶山法華寺
東海道
伊賀国分寺 三重県伊賀市西明寺 国の史跡
上寺山国分寺 伊賀国分尼寺 三重県伊賀市西明寺 国の史跡(長楽山廃寺跡)
龍王山菊昌院法華寺
伊勢国分寺 三重県鈴鹿市国分町 国の史跡
護国山人生尹丸刀院国分寺
明星山国分寺
常慶山金光明院国分寺 伊勢国分尼寺 (推定)三重県鈴鹿市国分町
志摩国分寺 三重県志摩市阿児町国府 三重県指定史跡
護国山国分寺 志摩国分尼寺
尾張国分寺 愛知県稲沢市矢合町 国の史跡
鈴置山国分寺 尾張国分尼寺 (推定)愛知県稲沢市法花寺町
大齢山法華寺
三河国分寺 愛知県豊川市八幡町 国の史跡
国府荘山国分寺 三河国分尼寺 愛知県豊川市八幡町 国の史跡
遠江国分寺 静岡県磐田市見付 国の特別史跡
參慶山延命院国分寺 遠江国分尼寺
駿河国分寺 (推定)静岡県静岡市駿河区大谷 (国の史跡(片山廃寺跡))
(伝)龍頭山国分寺 駿河国分尼寺
(伝)正覚山菩提樹院
伊豆国分寺 静岡県三島市泉町 塔跡は国の史跡
宝樹山国分寺 伊豆国分尼寺 静岡県三島市南町
三島山法華寺
甲斐国分寺 山梨県笛吹市一宮町国分 国の史跡
護国山国分寺 甲斐国分尼寺 山梨県笛吹市一宮町東原 国の史跡
相模国分寺 神奈川県海老名市国分南 国の史跡
東光山医王院国分寺 相模国分尼寺 神奈川県海老名市国分北 国の史跡
武蔵国分寺 東京都国分寺市西元町 国の史跡
医王山最勝院国分寺 武蔵国分尼寺 東京都国分寺市西元町 国の史跡(国分寺跡に包含)
安房国分寺 千葉県館山市国分 千葉県指定史跡
館山市指定史跡
日色山国分寺 安房国分尼寺
上総国分寺 千葉県市原市惣社 国の史跡
医王山清浄院国分寺 上総国分尼寺 千葉県市原市国分寺台中央 国の史跡
下総国分寺 千葉県市川市国分 国の史跡
国分山国分寺 下総国分尼寺 千葉県市川市国分 国の史跡
常陸国分寺 茨城県石岡市府中 国の特別史跡
浄瑠璃山東方院国分寺 常陸国分尼寺 茨城県石岡市若松 国の特別史跡
東山道
近江国分寺 (推定)滋賀県甲賀市信楽町黄瀬・牧
(紫香楽宮跡内裏野地区)
(推定)滋賀県大津市野郷原・神領
(瀬田廃寺跡)
(推定)滋賀県大津市光が丘町
(国昌寺跡推定地) 1:国の史跡(紫香楽宮跡)
別所山国分寺 近江国分尼寺
美濃国分寺 岐阜県大垣市青野町 国の史跡
金銀山瑠璃光院国分寺 美濃国分尼寺 (推定)岐阜県不破郡垂井町平尾
飛騨国分寺 岐阜県高山市総和町 塔跡は国の史跡
医王山国分寺 飛騨国分尼寺 岐阜県高山市岡本町
(辻ヶ森三社) 高山市指定史跡
建正山国分尼寺
信濃国分寺 長野県上田市国分 国の史跡
国分寺 信濃国分尼寺 長野県上田市国分 国の史跡(国分寺跡に包含)
上野国分寺 群馬県高崎市東国分 国の史跡
国分寺 上野国分尼寺 群馬県高崎市東国分 国の史跡
下野国分寺 栃木県下野市国分寺 国の史跡
瑠璃光山安養院国分寺 下野国分尼寺 栃木県下野市国分寺 国の史跡
陸奥国分寺 宮城県仙台市若林区木ノ下 国の史跡
護国山医王院国分寺 陸奥国分尼寺 宮城県仙台市若林区白萩町 国の史跡
護国山国分尼寺
出羽国分寺 (推定)山形県酒田市城輪
(推定)山形県鶴岡市平形国分 1:国の史跡(堂の前遺跡)
護国山柏山寺 出羽国分尼寺
北陸道
若狭国分寺 福井県小浜市国分 国の史跡
護国山国分寺 若狭国分尼寺
越前国分寺
護国山国分寺 越前国分尼寺
加賀国分寺 (推定)石川県小松市古府町 加賀国分尼寺
能登国分寺 石川県七尾市国分町 国の史跡 能登国分尼寺
越中国分寺 富山県高岡市伏木一宮 富山県指定史跡
国分寺 越中国分尼寺
越後国分寺 (推定)新潟県上越市五智・国府
安国山華蔵院国分寺(五智国分寺) 越後国分尼寺
佐渡国分寺 新潟県佐渡市国分寺 国の史跡
医王山瑠璃光院国分寺 佐渡国分尼寺
山陰道
丹波国分寺 京都府亀岡市千歳町国分 国の史跡
護国山国分寺 丹波国分尼寺 京都府亀岡市河原林町河原尻
丹後国分寺 京都府宮津市国分 国の史跡
護国山国分寺 丹後国分尼寺
但馬国分寺 兵庫県豊岡市日高町国分寺 国の史跡
護国山国分寺 但馬国分尼寺 兵庫県豊岡市日高町水上・山本
天台山法華寺
因幡国分寺 鳥取県鳥取市国府町国分寺 (指定なし)
最勝山国分寺 因幡国分尼寺 (推定)鳥取県鳥取市国府町法花寺
伯耆国分寺 鳥取県倉吉市国分寺 国の史跡
護国山国分寺 伯耆国分尼寺 (推定)鳥取県倉吉市国分寺
出雲国分寺 島根県松江市竹矢町 国の史跡 出雲国分尼寺 島根県松江市竹矢町
石見国分寺 島根県浜田市国分町 国の史跡
東光山国分寺 石見国分尼寺 島根県浜田市国分町 島根県指定史跡
良松山光明寺
隠岐国分寺 島根県隠岐郡隠岐の島町池田 国の史跡
禅尾山国分寺 隠岐国分尼寺 島根県隠岐郡隠岐の島町有木 島根県指定史跡
山陽道
播磨国分寺 兵庫県姫路市御国野町国分寺 国の史跡
牛堂山国分寺 播磨国分尼寺 兵庫県姫路市御国野町国分寺
金剛山徳證寺
美作国分寺 岡山県津山市国分寺 国の史跡
龍壽山国分寺 美作国分尼寺 岡山県津山市国分寺
備前国分寺 岡山県赤磐市馬屋 国の史跡
金光山圓壽院善教寺 備前国分尼寺 岡山県赤磐市馬屋・穂崎
備中国分寺 岡山県総社市上林 国の史跡
日照山總持院国分寺 備中国分尼寺 岡山県総社市上林 国の史跡
備後国分寺 広島県福山市神辺町下御領 (指定なし)
唐尾山医王院国分寺 備後国分尼寺 (推定)広島県福山市神辺町湯野または西中条
安芸国分寺 広島県東広島市西条町吉行 国の史跡
金嶽山常光院国分寺 安芸国分尼寺 (推定)広島県東広島市西条町吉行
周防国分寺 山口県防府市国分寺町 国の史跡
浄瑠璃山国分寺 周防国分尼寺 山口県防府市国分寺町
浄戒山法花寺
長門国分寺 山口県下関市長府宮の内町
浄瑠璃山国分寺 長門国分尼寺 (推定)山口県下関市長府安養寺
南海道
紀伊国分寺 和歌山県紀の川市東国分 国の史跡
八光山医王院国分寺 紀伊国分尼寺 (推定)和歌山県岩出市西国分
淡路国分寺 兵庫県南あわじ市八木国分 塔跡は国の史跡
護国山国分寺 淡路国分尼寺 (推定)兵庫県南あわじ市八木
金雲山理祥院尼ガ寺
阿波国分寺 徳島県徳島市国府町矢野 徳島県指定史跡
薬王山(法養山)金色院国分寺 阿波国分尼寺 徳島県名西郡石井町石井 国の史跡
讃岐国分寺 香川県高松市国分寺町国分 国の特別史跡
白牛山千手院国分寺 讃岐国分尼寺 香川県高松市国分寺町新居 国の史跡
大慈山法華寺
伊予国分寺 愛媛県今治市国分町 塔跡は国の史跡
金光山最勝院国分寺 伊予国分尼寺 (推定)愛媛県今治市桜井 塔跡は愛媛県指定史跡
補陀洛山法華寺
土佐国分寺 高知県南国市国分 国の史跡
摩尼山宝蔵院国分寺 土佐国分尼寺
西海道
筑前国分寺 福岡県太宰府市国分 国の史跡
龍頭光山国分寺 筑前国分尼寺 福岡県太宰府市国分
筑後国分寺 福岡県久留米市国分町 久留米市指定史跡
護国山国分寺 筑後国分尼寺 (推定)福岡県久留米市国分町 豊前国分寺 福岡県京都郡みやこ町国分 国の史跡
金光明山国分寺 豊前国分尼寺 (推定)福岡県京都郡みやこ町徳政
豊後国分寺 大分県大分市国分 国の史跡
医王山国分寺 豊後国分尼寺 (推定)大分県大分市国分
肥前国分寺 佐賀県佐賀市大和町尼寺 佐賀市指定史跡
金光明王山国分寺 肥前国分尼寺 佐賀県佐賀市大和町尼寺
肥後国分寺 熊本県熊本市中央区出水
医王山国分寺 肥後国分尼寺 熊本県熊本市中央区出水
日向国分寺 宮崎県西都市三宅 国の史跡 日向国分尼寺 宮崎県西都市右松
大隅国分寺 鹿児島県霧島市国分中央 国の史跡 大隅国分尼寺
薩摩国分寺 鹿児島県薩摩川内市国分寺町 国の史跡 薩摩国分尼寺 (推定)鹿児島県薩摩川内市天辰町
壱岐島分寺 長崎県壱岐市芦辺町国分本村触 長崎県指定史跡
護国山国分寺 壱岐島分尼寺
対馬島分寺 (推定)長崎県対馬市厳原町今屋敷
天德山国分寺 対馬島分尼寺
参考:『正倉院』wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2
奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な正倉(高床倉庫)。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
正倉院が所蔵する宝物の9割以上は異国風のデザインを取り入れた日本産であるが、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品もあることから、日本がシルクロードの東の終点と言われる由縁となっている。正倉院は、絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面などの古代の美術工芸の粋を集めた文化財の一大宝庫であり、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵されている。
宝物の意匠や文様にはペルシャなど西アジア起源のものが多く、宝物に用いられている素材にもアフガニスタン特産のラピス・ラズリなどがあるが、西アジアで制作された宝物はガラス器(白瑠璃碗、紺瑠璃坏)を除くとほとんどなく、多くが日本で異国風を取り入れて制作されたものである。近年の調査研究によると所蔵する宝物の95%が日本産であると考えられている。
756年(天平勝宝8歳)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である『東大寺献物帳』も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されている。
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。
北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)・双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年(文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。
『献物帳』記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また大仏開眼の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説がある。
正倉院の代表的な宝物
本節では正倉院の代表的な宝物について取り上げる。
赤漆文欟木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし) 漆塗りの物入れ。高102cm。正倉院の中で最も由緒があり、飛鳥時代の天武天皇まで遡る天武天皇の遺愛の品である。「古様作」とあることから、天武天皇の時代に作成された本厨子は、1300年前の当時から見ても古い様式であったようである[独自研究?]。天武天皇→持統天皇→文武天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇と受け継がれ、孝謙天皇が東大寺に献納した。国家珍宝帳によれば天皇の身近に置かれ、聖武天皇筆の「雑集」、元正天皇筆の「孝経」、光明皇后筆の「楽毅論」、王羲之の書法20巻、刀子、笏など天皇の身の回りの宝物が大切に納められていたようである。元正天皇筆の「孝経」などは失われて現存していないが、聖武天皇筆の「雑集」、光明皇后筆の「楽毅論」などは現存している。天武天皇から始まり6代もの天皇に伝えられた。
平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)・平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)
鏡の背面を異なる材質で飾った宝飾鏡である。正倉院には56面の鏡が伝わっているが、螺鈿細工の鏡は、平螺鈿背円鏡7面と平螺鈿背八角鏡2面、計9面が伝わる。ただし、内5面は鎌倉時代に盗難に合い、粉々に砕かれた1面を除き4面は破片を接続して補修したものである。径27cm前後。夜光貝の螺鈿細工を鼈甲、琥珀、トルコ石、ラピスラズリで飾った非常に豪華な鏡である。この宝物は正倉院宝物の華やかさと世界性を象徴するものの1つで、夜光貝、鼈甲は東南アジア産、琥珀はミャンマーあるいは中国産、トルコ石はイラン産、ラピスラズリはアフガニスタン産だと考えられている。
金銀山水八卦背八角鏡(きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう) 径40.7cm。平螺鈿背円鏡、平螺鈿背八角鏡と同じく宝飾鏡であるが、この鏡は背面に銀の板を張り細工を施している。さらに主要な箇所には鍍金を施してあり、非常に精巧な鏡である。中央のつまみに蓬萊山を表し、その周囲に水鳥、亀、鶴、鳳凰、龍、孔雀、オシドリ、オウム、鹿などを配置している。注目すべきことは外側に五言律詩が刻まれている。
「自分の一人ぼっちの姿に旅人として異国にある身を嘆き憂え、楽を奏で歌を歌っても唱和する者も無いまま幾年が経ったことか。今新たにこの心胆を照らし出す素晴らしい鏡が出来上がった。それにしてもこの鏡に映すに相応しいあの美しい人を遥かに思い出す。この鏡の中を舞う鳳凰は近くの林の棲み家へ帰りゆき、同じく龍は海を渡って来たばかり。この鏡をしっかりとしまいこみ故郷に帰る日まで待とう。そしてその日にはこれをひもとき愛しい人を照らし出そう」
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう) 銀製の宝飾鏡で背面が七宝でできている。正倉院唯一の七宝製品であるが、古代において七宝自体の資料は極めて少ない[注 1]。本鏡の一部は成分が未溶解のままの不透明な部分も多く、未熟なガラス制作技術に起因し、七宝の起こりを伝える貴重な資料となっている。またこの鏡には箱が現存しており、漆皮八角鏡箱と呼ばれる。生皮を鏡の箱用に形成し、布の上から黒漆を塗って金銀泥で仕上げている。この製法は奈良時代に盛行したが、室町以降には忘れられてしまい、明治時代の正倉院宝物修理の過程で再発見された。
鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ) 唐風の女性が描かれた六扇の屏風。現在では国家珍宝帳に記載される聖武天皇遺愛の宝物として有名である。樹木の下に唐風の女性を一人ずつ描いた六枚一対で、かつては女性の着衣などに鳥の羽毛が飾られていた。今ではほとんど脱落してしまっており、三枚目の女性の肩部分にわずかに残るのみである。この羽毛は日本特産のヤマドリの羽毛であり、色濃い唐の趣にかかわらず国産である事が判明している[14]。江戸時代にかなり修理補筆が行われており、第6扇は顔をのぞいてほとんど住吉内記の補筆である。
鳥毛篆書屏風(とりげてんしょのびょうぶ)・鳥毛帖成文書屏風(とりげじょうせいぶんしょのびょうぶ) 漢文を設えた大型の屏風。鳥毛立女屏風と同じく光明皇后により献納されたもので、聖武天皇のもとで使用された品である。鳥毛篆書屏風は篆書と同じ字の楷書を交えて書いたもの、鳥毛帖成文書屏風は肉太の楷書で書いた屏風で、文章は君主の座右の銘というべきもので、天皇の身近に置かれた屏風に相応しい。文字は鳥の羽毛と金箔で飾られており、鳥毛立女屏風と同じく羽毛は日本特産のヤマドリである。この2つの屏風は江戸時代に幾度か大幅な修理を受けているが、古代天皇の執務室を飾った姿を現在までよく伝えている。またそれぞれ収納用の袋も現存しており、こちらも献納当初まで遡る由緒ある品である。
象木臈纈屏風(ぞうきろうけちのびょうぶ)・羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)文字通り象と羊がデザインされた屏風である。856年7月30日(斉衡3年6月25日)に行われた宝物点検の記録から、元々は1つの屏風であったことが判明している。ろうけつ染めによって図があらわされている。樹木の下に動物を配したこの様式は、サーサーン朝ペルシアの聖樹禽獣紋から影響を受けている。伊藤義教は、羊木臈纈屏風のモチーフはゾロアスター教起源として「ブンダヒシュン」との照合を考察している。象のモチーフはインドあるいは中国の動物に由来する。屏風からは緑溢れる中でさまざまな動物が息づく楽園の情景が見てとれる。
紫檀木画挟軾(したんもくがきょうしょく) 挟軾とは座ってくつろぐ際に肘置きとして使用する補助具の事である。正倉院には挟軾が本品を含め3つ伝わっているが、他の2つは脚回りしか残っていない。本品は3つの挟軾の中で最も豪華であり、唯一1300年前の姿を留めている。金銀絵、象牙細工など贅を尽くした装飾が施されているものの、軽量化を追求し、日用品としての完成度の高さも備えている。国家珍宝帳にも記載されていることから、聖武天皇の日常のくつろぎのひと時を受け止めた品であったと想像される。なお挟軾の上面を覆う薄手のクッションのような白羅褥が付属する。
御床(ごしょう) 聖武天皇と光明皇后のベッドである。檜材で作成されており、脚部などの所々には白色顔料の痕跡が見られることから、元々は純白に塗られていたとされる。また別の宝物名ではあるが、ベッドシーツや布団などが御床とセットで伝えられており、当時の実用家具、寝具を知る上の貴重な品となっている。御床は聖武天皇と光明皇后がそれぞれ用いた2張存在するが、ベッドシーツである廣長亘両床緑は2人分のベッドを覆うサイズである。この事から聖武天皇と光明皇后はベッドを並べて眠っていたのがうかがえる。
花氈(かせん) 花などの模様を織り込んだフェルトの敷物である。この模様は敦煌やトルファンで発掘された染織品に類似している。また繊維調査の結果、材質は中央アジア産の古代ヤギの毛を用いたものであることが判明し、他にも花氈の中から中央アジア産のウマゴヤシの実が混じりこんだままになっていた。この事から恐らく本花氈はコーカサスなどで暮らす遊牧民族の手によって織り込まれ、遥々日本に運ばれたのであろうと考えられる。
銀薫炉(ぎんくんろ) 純銀で作成された球形の香炉である。球形の真ん中で上下に割れ、上が蓋、下が実とされる。特徴はその大きさで直径18cmである。国外を含めこれ程大きな球形香炉は例がない。全体に精巧な透かし彫りを施されており、その技術は極めて高い。しかし1300年前のオリジナルは蓋の方であり、実は明治時代の復元品である。
青斑石鼈合子(せいはんせきべっこうす) 蛇紋岩(じゃもんがん)から掘り出されたスッポン形の容器である。腹部を八稜形に刳り込んで、そこに同じ八稜形の皿がすっぽりと納まるようになっている。一見しただけならスッポンの置物そのもので、注目すべきはそのリアルな写実性である。柔らかな甲羅、鋭い爪と口、一方で琥珀を埋め込んだつぶらな瞳で、正倉院宝物の中でもユニークな物である。もう1つの特徴は甲羅に北斗七星の文が金と銀で刻まれている事で、星座が刻まれた宝物は正倉院の中でも極めて少ない。
蘇芳地金銀絵箱(すおうじきんぎんえのはこ) 脚付きの箱であり、蓋、本体に金と銀で宝相華模様が描かれている。30.3×21.2×8.6cm。箱の中は淡い桃色に彩色され、白の花弁が描かれ、丁寧な造りとなっている。このような箱は献物箱と呼ばれ、仏に供える供物を入れるのに用いられた。正倉院にはこのような献物箱・机が数十点伝えられており、その代表がこの蘇芳地金銀絵箱である。底の部分に「東小塔」と書かれており、東小塔とは西小塔とともに神護景雲元年(767年)、称徳天皇発願の百万塔を納めるために建立された。当初この宝物は東小塔の備品だったが、東小塔廃絶の後正倉院に移管されたと考えられている。他にも平安時代に東大寺羂索院の倉庫が朽損し、中の宝物を正倉院に移したと言う記録がある。このように何らかの原因で廃絶した東大寺諸堂の備品も、正倉院に納められ伝承されている。
白橡綾錦几褥(しろつるばみあやにしきのきじょく) 長さ99cm、幅53cmの布であり、東大寺の毘盧遮那仏に献納する品物を載せていた。正倉院には同じような大きさの布が十数点伝わり、それらと同じ天板の几(つくえ)が伝わることから、それぞれの机の上敷として用いられていたとされる。いずれも豪華で贅を尽くした華麗なものである。その中で本品は麻布を2つ折りした芯を綾で包み、裏面に薄緑色の絁を縫い付けただけのシンプルな布である。しかしながら本品は極めて特異なもので異彩を放っており、獅子(ライオン)を御する半裸の人物像は日本のみならず西方にもほとんど類をみない。綾の組織も極めて珍しく、西方でも発見されていないことから、舶載品か国産品か、未だ結論が出ていない。
紺夾纈絁几褥(こんきょうけちあしぎぬのきじょく) 白橡綾錦几褥と同じく机の上に載せる敷物である。本褥は正倉院に伝わる褥の中でも数少ない染物である。文様は蓮華風の花座の上で相対する水鳥を、満開の花樹の下に配置したものである。花葉唐草と雲形を組み合わせた円弧状の帯により上方二方と下方一方に区画されている。文様と文様の間は防染し白くくっきりと残り、赤、黄、緑、濃紺と見事に染め分けられている。例外的に文様の1つである葉の先端を、任意に防染せず黄色と緑色を混ぜ黄緑色に暈かしているが、驚くべきことに赤や紺色など他の染料が入り込んでいない。この技術はすでに失われており今でも解明されていない。
蘭奢待(らんじゃたい) 天下第一の名香と謳われる香木。正倉院の中倉薬物棚にあり、現在までに、足利義満、足利義教、織田信長、明治天皇らによって切り取られている。
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ) 聖武天皇の遺品で、インドに起源をもつとされる5弦の琵琶としては世界唯一。唐からの移入品と推定されている。捍撥(撥受け)には螺鈿で熱帯樹と飛鳥やラクダに乗って琵琶を弾く胡人を表し、側面には紫檀に夜光貝の切片を貼る。五弦
白瑠璃碗 正倉院 透明でごく薄い褐色味のついたカットグラスの碗。アルカリ石灰ガラス製。ササン朝ペルシアで製作されたものといわれる。
2024歴
『大仏殿』東大寺公式HP https://www.todaiji.or.jp/information/daibutsuden/
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に東大寺大仏[1]、奈良の大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。
概要
東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。
のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。
大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(天平勝宝元年に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。
大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。
現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。
現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものがある。よって「世界最大の木造軸組建築」という表現の方が正確であろう[注釈 1]。
なお江戸期においては方広寺大仏(京の大仏)の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた。これは豊臣秀吉が発願したもので、秀吉の造立した初代大仏、豊臣秀頼の造立した2代目大仏、江戸時代再建の3代目大仏と、新旧3代の大仏が知られるが、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。『東海道中膝栗毛』では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である (なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している )。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う [6]」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也 [6]」という感想を日記に残している(在京日記)。一方方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也」と記している。
方広寺(3代目)大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。
略年表
正史『続日本紀』、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する「大仏殿碑文」「延暦僧録」によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。
天平12年(740年) - 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。(続紀)
天平13年2月14日(741年3月5日) - 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を発する。(類聚三代格など)
天平15年10月15日(743年11月5日) - 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(続紀)
天平16年11月13日(744年12月21日) - 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(続紀)
天平17年(745年) - 恭仁宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文)
天平18年10月6日(746年11月23日) - 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解される。
天平19年9月29日(747年11月6日) - 大仏の鋳造開始。(碑文)
天平勝宝元年10月24日(749年12月8日) - 大仏の鋳造終了。(碑文)
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日) - 大仏開眼供養会が盛大に開催される。(続紀)
なお、開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了であった。
大仏造立の思想的・時代的背景
華厳経と盧舎那仏
大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、『華厳経』に説かれる盧舎那仏という名の仏である。『華厳経』は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国大陸経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。
『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした『華厳経』に基づく信仰があった。
大仏造立の詔
聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発した。詔の全文は『続日本紀』にあり、以下のとおりである。
「朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志(こころざし)兼済に存して勤めて人物を撫(ぶ)す。率土の浜、已(すで)に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰(あいやすら)かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難し。但恐らくは、徒(いたづら)に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪(ひぼう)を生じて罪辜(ざいこ)に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜(よろし)く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当(まさ)に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば、恣(ほしいまま)にこれを聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾(しんじょう)して強(あながち)に収斂せしむること莫(なかれ)。遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。
(大意)私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、動物、植物など命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。天下の富や権勢をもつ者は私である。その力をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは私の願いを叶えることができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。」
聖武は大仏造立のためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言っている。実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、庭園研究家の森蘊による東大寺境内の地形調査で判明している。
時代背景
大仏造立の詔の2年前の天平13年(741年)、聖武天皇は詔して、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じた。そして、東大寺は大和国の国分寺であると共に、日本の総国分寺と位置付けられた。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である『金光明最勝王経』(10巻、唐僧の義浄訳)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王の下には、仏教の護法善神である四天王が現れ、国を護るという。聖武は、日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、『金光明最勝王経』を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。
聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が、天然痘(疫病)の大流行により相次いで死去した。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。
大仏鋳造の経緯
鋳造手法
『東大寺要録』に引く「大仏殿碑文」によれば、天平17年8月23日、平城東山の山金里で大仏造立が開始されている。『続紀』によれば、天平18年10月6日、聖武天皇は金鐘寺に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行っているが、これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。「碑文」によれば、鋳造は天平19年9月29日に開始され、天平勝宝元年10月24日に終了した。「恋」は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言っているが、実年数は2年間強である。「八ヶ度」は、巨像を下から上へ、8段に分けて順次鋳造したという意味に解釈されている。その造像手法は次のように推定されている。
まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。
大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。
中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」をやはり粘土で造る。巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむ、あるいは雲母をまくなど、何らかの方法が取られたはずである。
外型を適当な幅で割り、中型から外す。
外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。
中型の表面を削る。この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。
一度外した外型を再び組み合わせる。外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。
炉を持ち込み、高温で銅を溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。
鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。
作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われる。銅に含まれていた砒素と鍍金に使用された水銀による推定数百人の中毒患者のため、これを専門とする救護院が設けられていた[11]。また、巨大な大仏製造のための銅による鋳造過程での環境破壊の問題についても指摘[12]されている。
開眼供養
こうして、天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)には大仏開眼供養会が挙行された。聖武太上天皇(すでに譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。
開眼会当日の様子は次のようなものであった。大仏殿前の庭には五色の幡と宝樹が飾られ、中央には舞台が、東西には『華厳経』の講師と読師のための高座が設置された。大仏殿内は造花と繍幡(刺繍を施した幡)で荘厳されている。玉座には聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が座す(『続日本紀』、『東大寺要録』)。孝謙天皇は中国風の冕冠を被り、和神事用の白の帛衣という、和中混在した礼服。聖武の礼服も白色と伝わり、和神事用礼服だと推定されていて、唐礼を受容して中国の皇帝的な在り方を目指す過渡的な姿だとされる。
孝謙天皇の冕冠の残闕「礼服御冠残欠」と冠架・箱は正倉院に伝わる。南門からは上位の僧1,026人が入場。当日の開眼導師を務めるのはインド僧の菩提僧正(菩提僊那)、『華厳経』を講ずる講師は大安寺の隆尊律師、『華厳経』を読み上げる読師は元興寺の延福法師である。
大仏の瞳を描き入れる儀式は、聖武太上天皇が体調不良のため、菩提僊那が担当した。菩提僊那が開眼に使用した筆には長大な縷(る)が取り付けられており、列席の人々はこの縷に触れて大仏に結縁した。このあと、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)という四箇法要が行われ、続いて『華厳経』の講説がある。続いて衆僧・沙弥9799人が南門から入場し、幄(仮の座席)に着座した。大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の四大寺の僧が数々の珍宝を大仏に献ずる。
さらに日本、中国、朝鮮の楽人・舞人らによる楽舞が披露される(『続日本紀』、『東大寺要録』)。当日奉納されたのは大歌女・「大御舞(おおうため・おおみまい)」、「久米舞」、「楯伏舞(たてふしのまい)」、「女漢躍歌(おんなあやおどりうた)」、「跳子(とびこ)」、「唐古楽」、「唐散楽」、「林邑楽(りんゆうがく)」、「高麗楽」、「唐中楽」、「唐女舞」、「高麗女楽」であり、これらが夕方まで舞われた(『東大寺要録』)。このうちの林邑楽が、仮面劇の伎楽にあたるとみられる。
『正倉院文書』に『蝋燭文書』と称する巻物があり、内容は不明とされていたが、のちにこれが大仏開眼会に列席した万僧の交名(名簿)であることが判明し、「1万数千人」は誇張ではなかったことがわかった[14]。開眼会の際に使用した「天平宝物筆」と呼ばれる仮斑竹(げはんちく)製の長さ56.6センチの筆や、長さ52.5センチの墨「天平宝物墨」、筆に結び付けられた長さ190メートルに及ぶ紐の「縹縷(はなだのる)」、大仏に奉納された伎楽で用いた「伎楽面」などは、正倉院宝物として現存している。
『続紀』は開眼当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。
仕上げ作業
なお、開眼供養(かいげんくよう)の時点で、大仏の仕上げはまだ完了していなかった。『東大寺要録』に引く「延暦僧録」によると、「鋳加」作業は天平勝宝2年正月(750年)に始まり、開眼供養より後の天平勝宝7歳正月(755年)まで掛かっている。鋳加とは、鋳造後、溶銅がうまく回らなかったり、空洞ができたりした箇所に再度銅を流し込んだり、銅板で補強したり、はみ出した部分を削ったり、8段に分けて鋳造した継ぎ目を接合(鋳からくり)したりといった一連の仕上げ作業のことである。こうして仕上げが終わり、表面をやすりで平滑にしたところで、初めて鍍金の作業に入る。「大仏殿碑文」によると鍍金開始は開眼会直前の天平勝宝4年3月14日(752年4月2日)、完了は「正倉院文書」に天平宝治元年(757年)と記載されていることから、開眼会の時点では鍍金は未完成である。光背はさらに後の天平宝字7年(763年)に着手し、宝亀2年(771年)に完成した。
このように、大仏の仕上げが未完成の状態で開眼会を挙行した理由については、聖武天皇が病気のため、実施を急いだという説もあったが、天平勝宝4年(752年)が、『日本書紀』などの主張する仏教伝来の年(欽明天皇13年・552年)から200年目の節目の年に当たり、この年の仏誕の日(4月8日)に合わせて開眼会を実施したとする説が有力となっている。開眼会は、実際には1日順延されて旧暦4月9日に実施されているが、順延の理由は定かでなく、天候のためかとも言われている。
台座
大仏の台座には奈良時代当初の部分が比較的多く残っている。台座は大小各14枚の蓮弁からなり、表面には釈迦如来像を中心に、蓮華蔵世界を表した図様が線刻され、奈良時代仏画の遺品としても貴重である。蓮弁の図像については、『華厳経』に基づくとする説、『梵網経』に基づくとする説、『華厳経』・『梵網経』の両方の要素を取り入れているとする説がある。
平安時代後期に東大寺を訪れた大江親通は、『七大寺巡礼私記』(保延6年・1140年頃成立)の中で、大仏の台座は天平勝宝4年(752年)から同8年(756年)にかけて造られたものだと書き残している。これが正しいとすれば、大仏は像本体が初めにでき、台座は後から鋳造されたことになる。最初にこれを取り上げたのは足立康で、彼は昭和9年(1934年)、台座後鋳説を主張した。以後、技法面から考えて台座が先に鋳造されたはずだとする説(香取秀真など)と、台座後鋳説が対立しており、台座内部の本格的な調査が行われていないこともあって、現在まで結論は出ていない。
資材調達
銅
大仏建立に用いられた銅の量は記録によって差異があるが、約500トンと考えられている。『東大寺要録』が引用する縁起文によれば、大仏建立に用いた銅は「西海から」集めたとしており、銅のほとんどは山口県の長登銅山やその近隣の銅山で産出された銅でまかなわれたことが推察される[18]。大仏創建当時のままと思われる部位、大仏殿西回廊横から出土した銅塊、長登銅山の銅鉱石のヒ素濃度との間には強い近似性が認められている。
金
当時の日本では金は産出されないと考えられており輸入に頼っていたことから、大仏の鍍金のために全国で探索が行われていた。天平21年(749年)に陸奥国遠田郡涌谷で金が採掘されると、聖武天皇は神仏の奇跡であるとして天平から天平感宝へ改元した。遠田郡を治る陸奥国守の百済王敬福が大仏の鍍金料として金900両(約13kg)を献上した(『続日本紀』)。産金関係者には位が授けられたが、その1人である日下部深淵は自身が神主であった神社を黄金山神社と改めた。
蓮華座と線刻画
大仏の坐す蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、ともに28弁(大小各14)の花弁を表す。仰蓮にはそれぞれにタガネで彫った線刻画がある。2度の兵火にもかかわらず、台座蓮弁の線刻画にはかなり当初の部分が残り、奈良時代の絵画資料として貴重である。なお、現在、銅の蓮華座の下に石造の円形の台座があるが、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があった。『信貴山縁起絵巻』には治承4年(1180年)の兵火で焼ける以前の大仏の姿が描写されているが、そこにも銅と石の二重の蓮華座が描写されている。
蓮弁の線刻画はいずれの蓮弁にも同じ図柄が表されているが、細部の寸法を計測すると完全に同じではなく、一枚一枚異なっている。これは同一の原図をもとに、フリーハンドで作図したことによると考えられている。蓮弁の上部には釈迦如来と諸菩薩が描かれ、下部には7枚の蓮弁をもつ巨大な蓮華がある。これらの中間の部分は26本の水平線を引いて25段の層に分かれている。これらは全体として『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」のありさまを表したものである。『華厳経』の世界観によれば、「香水海」という清い真水の大海の上に一輪の巨大な蓮華がある。その上は大地になっており、そこにはまた無数の香水海があって、そのそれぞれに一輪ずつの大蓮華がある。その上には無数の世界が積み重なり、それぞれの世界に無数の仏国土があるという。前述のとおり、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があり、蓮華を重ねることによって「蓮華蔵世界」を表していた。
なお、蓮弁の画像については、『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」ではなく、『梵網経』の説く「蓮華台蔵世界」に基づくものだという説が、小野玄妙によって1915年に提出された。『梵網経』の説く「蓮華台蔵世界」とは、盧舎那仏の坐す千弁の蓮弁のそれぞれに一つの世界があり、そこには盧舎那仏の化身である釈迦如来がいて、一つひとつの世界には百億の須弥山(世界の中心にあるとされる山)と百億の閻浮提(われわれが住むとされる世界)があるというものである。蓮弁の画像が『華厳経』と『梵網経』のいずれによるものかについてはその後論争があったが、現在では、『華厳経』、『梵網経』、『大智度論』などの説を合わせて用いたものと考えられている。
各蓮弁の線刻画の図様をくわしく見ると以下のとおりである(説明の都合上、線刻画を「上段」「中段」「下段」に分ける)。上段は中央に説法相の釈迦の坐像をひときわ大きく表し、その左右には各11体ずつ、計22体の菩薩像を表す。これらの周囲には雲上の化仏が飛翔している。中段は26本の水平線を引いて25段の層に分けられている。このうち、上から1段目から3段目までには何も描かれていないが、4段目から下には菩薩の頭部、楼閣などが描かれる。11段目までは水平線が蓮弁の幅一杯に引かれているが、12段目から下では左右の幅がしだいに狭まっていく。19段目から25段目までの計7段分は、縦方向に6つの切り込みが入って、7つの部分に分かれている。これはその直下にある7弁の蓮華に対応している。この25段に、上段の釈迦と諸菩薩のいる区画を加えて26段となるが、これは仏教の世界観で、須弥山の上にある26の世界(境地)を象徴している。下段の7つの蓮弁にはそのそれぞれに須弥山世界を描く。具体的には、須弥山を中心に、その周囲にあるとされる七金山や四大洲が表されている。その四大洲のうち、われわれが住むとされる南の閻浮提は手前に大きく描かれている。蓮弁の線刻画は全体として、仏教の説く「三界」(欲界、色界、無色界)を表している。三界については『倶舎論』という経典に説かれているが、松本伸之は大仏蓮弁線刻画は『倶舎論』ではなく『大智度論』に依拠したものだと解釈した。『大智度論』によれば欲界は六天、色界は初禅、二禅、三禅、四禅の4つに分かれて計十八天、無色界は四処に分かれるとされ、以上を合計すると28になるが、欲界の六天のうち最下部の二天(地居天)は須弥山上にあるとされており、これを除いた残りの26の世界(境地)が蓮弁線刻画の26段に対応すると解釈されている。『倶舎論』では色界を1つ少ない十七天とするため、段数が合わなくなるという。
前述のとおり、線刻画の中段では上から19段目から25段目までの計7段分の幅が狭くなっているが、この7段は六欲天のうち上の方にある四天(空居天)と、色界初禅の三天に相当する。欲界は須弥山と同じ広さ、色界初禅は須弥山と四大洲を合わせた広さとされる。色界二禅はその千倍の広さ(小千世界)、三禅はそのまた千倍(中千世界)、四禅はそのまた千倍で、これらを合わせて「三千大世界」という。線刻画の中段で、下の方の段ほど幅が狭く表されているのは、こうした世界観に基づく。線刻画のうち、釈迦と諸菩薩のいる上段と、その直下の何も描かれていない3段とが、無色界に相当する。
東大寺と橘奈良麻呂
天平勝宝4年(752年)に、大仏の鋳造が終了し、天竺(現在のインド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が盛大に挙行された。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことである。だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、聖武太上天皇が没する。その翌年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。旧暦7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いはないし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。
東大寺と藤原仲麻呂
これに対して飯沼賢治は「そもそも東大寺での大仏建立は聖武天皇の意思であったのか?」という事に疑問を呈する説を出している。飯沼説は聖武天皇による大仏建立計画は甲賀寺での建立中止時に挫折し、東大寺における大仏建立は光明皇后および彼女を支えた藤原仲麻呂が深く関与していたとするのが主旨である。
皇后の父で奈良時代初期の政治を主導した藤原不比等の仏教政策は所謂「国家仏教」の確立であり、行基教団の弾圧もその政策の一環であった。娘である光明皇后もその遺志を継承して国分寺の建立など官寺の建設計画に関与していった。ところが、夫の聖武天皇が行基や知識集団に接近して民間の協力を得て大仏建立を決意した事はその政策の否定につながるものであり、許容できない物であった。このため、聖武天皇と光明皇后の仏教観の対立は政治的対立も絡んで大仏計画に深く影を落とし、その結果皇后が勝利して大仏建立計画は白紙化されて、彼女の建立した福寿寺をルーツの一つとし、「国家仏教」の中核になる筈である奈良の東大寺にて国家事業として大仏を建立するという天皇の計画とは全く異なる計画が開始されたとする(なお、皇后の仏教政策には唐の則天武后の影響も受けていることを指摘する)。また、政治的には天皇に近かった玄昉や行信が左遷され、政権の中枢も橘諸兄から皇后の後ろ盾を受けた藤原仲麻呂主導に移ることになったとする。
なお、飯沼は紫香楽宮放棄の原因になったとする宮周辺での謎の不審火は皇后側によるもので、天平勝宝元年(749年)に起きた宇佐八幡宮の託宣の入京も天皇側の大仏建立の主導権を取り戻すために仕掛けた反撃の一環と解する。更に光明皇后の崩御後に藤原仲麻呂が急速に没落した背景の1つに、父である聖武天皇の仏教観に共感しながらも母の光明皇后に抑圧されていた孝謙天皇が母の崩後にその意向を公然と表明して政治的にも巻き返しを図ったことが原因で、宇佐八幡宮が聖武ー孝謙派であったことが後の宇佐八幡宮神託事件にもつながっていくと説く。
焼損と復興
大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震で被災し、首が落下した。真如法親王(高岳親王)が東大寺大仏司検校に任じられ、造東大寺所に属していた斎部文山らの活躍によりほどなく修理され[29]、貞観3年(861年)朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行っている。
その後大仏および大仏殿は、平安時代末期と戦国時代に兵火で焼損、焼失している。
平重衡の兵火による焼失(南都焼討ち)
1回目は治承4年(1180年)の東大寺と興福寺の僧兵集団と平重衡との戦いの兵火の延焼によるものであった。この時、南都の街は炎に包まれ、興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失した。兵乱後、重源が大勧進職として再興に奔走した。「勧進」とは仏と縁を結ぶように勧めることで、転じて寺院の再興などのために寄付を集めること、またその役を担う僧のことを指した。平氏政権を倒した源頼朝が再建の主導となり、重源は当時来日していた宋の鋳工陳和卿らの協力を得て大仏を再興した。文治元年(1185年)に開眼法要が営まれた。この時、開眼の筆を執ったのは後白河法皇であった。また、大仏殿の落慶法要は建久6年(1195年)、後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われた。
松永・三好の兵火による焼失
大仏と大仏殿の2回目の焼失は永禄10年(1567年)、松永久秀と、松永と対立関係にあった東大寺にあえて布陣した三好三人衆軍の戦いの最中に焼失した。この火災の原因について、大仏殿を狙った攻撃、夜襲の際の失火、三好三人衆軍の陣中にいたキリシタンによる放火、などの諸説があり定かではない。
前回の焼失の際とは時代背景も違い、復興事業はなかなか進まなかった。豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏の造立を計画し、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造営されたが、東大寺大仏再建への着手は行わなかった。なお京の大仏は地震等の被害のため何度か再建されているが、寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、規模(大仏の高さ、大仏殿の面積と高さ)で、現在の東大寺大仏・大仏殿を上回っていた。
東大寺大仏殿は仮堂で復興したが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊した。大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した。
貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まった。こうして元禄4年(1691年)完成し、翌元禄5年(1692年)に開眼供養された大仏と、宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存する。大仏殿は創建当時と比較して約4分の3の規模になっている。
前述のように宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していたが、方広寺大仏は寛政10年(1798年)に落雷で焼失した。
大仏の現状
大仏のどの部分が天平当初のものであるかについては、資料によって小異がある。『奈良六大寺大観 東大寺二』によれば、右腋から下腹にかけての部分、両手の前膊と袖の大半、両脚のすべてが奈良時代のものであるとする。『週刊朝日百科 日本の国宝』の解説(1998年)は、右腋から腹、脚部にかけての部分が当初。蓮肉、蓮弁は台座後方に当初のものが残るとし、体部の大半は室町時代末期の補修、頭部は江戸時代のもので、鎌倉時代の補修部分は背中の一部に残るのみだという。
これまで像の螺髪は、平安時代に編纂された『東大寺要録』に基づき966個と言われてきたが、東京大学生産技術研究所准教授の大石岳史の研究グループが行ったレーザー光解析により、実数は492個(うち9個は欠けている)であることが判明した。
『東大寺盧舎那仏像』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)には大仏開眼供養会が挙行された。聖武太上天皇(すでに譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。
開眼会当日の様子は次のようなものであった。大仏殿前の庭には五色の幡と宝樹が飾られ、中央には舞台が、東西には『華厳経』の講師と読師のための高座が設置された。大仏殿内は造花と繍幡(刺繍を施した幡)で荘厳されている。玉座には聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が座す(『続日本紀』、『東大寺要録』)。孝謙天皇は中国風の冕冠を被り、和神事用の白の帛衣という、和中混在した礼服。聖武の礼服も白色と伝わり、和神事用礼服だと推定されていて、唐礼を受容して中国の皇帝的な在り方を目指す過渡的な姿だとされる。孝謙天皇の冕冠の残闕と冠架・箱は正倉院に伝わる。南門からは上位の僧1,026人が入場。本日の開眼の導師を務めるのはインド僧の菩提僧正(菩提僊那)、『華厳経』を講ずる講師は大安寺の隆尊律師、『華厳経』を読み上げる読師は元興寺の延福法師である。大仏の瞳を描き入れる儀式は、聖武太上天皇が体調不良のため、菩提僧正が担当した。菩提僧正が開眼に使用した筆には長大な縷(る)が取り付けられており、列席の人々はこの縷に触れて大仏に結縁した。このあと、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)という四箇法要が行われ、続いて『華厳経』の講説がある。続いて衆僧・沙弥9,799人が南門から入場し、幄(仮の座席)に着座した。大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の四大寺の僧か数々の珍宝を大仏に献ずる。さらに日本、中国、朝鮮の楽人・舞人らによる楽舞が披露される(『続日本紀』、『東大寺要録』)。当日披露されたのは大歌女・大御舞(おおうため・おおみまい)、久米舞、楯伏舞(たてふしのまい)、女漢躍歌(おんなあやおどりうた)、跳子(とびこ)、唐古楽、唐散楽、林邑楽(りんゆうがく)、高麗楽、唐中楽、唐女舞、高麗女楽であり、これらが夕方まで行われた(『東大寺要録』)。このうちの林邑楽が、仮面劇の伎楽にあたるとみられる。開眼法要で使用された伎楽面は東大寺および正倉院に現存している[14]。
『正倉院文書』のうちには、『蝋燭文書』と称する巻物があり、内容不明とされていたが、これが大仏開眼会に列席した万僧の交名(名簿)であることが判明し、「1万数千人」は誇張ではなかったことがわかった[15]。開眼の際に使用した筆や墨、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。「天平宝物筆」と呼ばれる仮斑竹(げはんちく)製の筆は長さ56.6センチ、「天平宝物墨」と呼ばれる墨は長さ52.5センチ。縹縷(はなだのる)は長さ190メートルに及ぶ[16]。『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。
大仏開眼wikipediaより引用
奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
興福寺wikipediaより引用
奈良県奈良市春日野町にある神社。 全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
社伝では、神護景雲2年(768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって春日社の創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。
春日大社wikipediaから引用
奈良県奈良市五条町にある律宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。開基(創立者)は唐出身の僧鑑真である。鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧・宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。
鑑真(688年 - 763年)の渡日については、淡海三船撰の『唐大和上東征伝』(宝亀10年・779年成立)が根本史料となっている。
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」・「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため官の承認を経ず私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて社会秩序の乱れにつながっていた。
こうした中天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないのでしかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時唐から出国することは国禁を犯すことであった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。
753年、6回目の渡航計画で遂に日本に帰る遣唐使船に遣唐副使の大伴古麻呂の機転で乗船が叶い、ようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。天平勝宝6年(754年)4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)に前述のように今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。
唐招提寺wikipediaから抜粋引用。
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。
元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は、奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺塔跡」、同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は、奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺塔跡」、同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺(新元興寺)」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。
以上、元興寺wikipediaより引用。
奈良県奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山の仏教寺院。山号はなし。本尊は薬師三尊。南都七大寺の一つ。開基は天武天皇。
1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)により世界文化遺産に登録されている。
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城京への遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒 東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。 『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」旨が記されている。
その後、和銅3年(710年)の平城京遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。
奈良県奈良市の市街の東方に位置する原始林で約250haの広さがある。春日大社の神域として古より狩猟や伐採が禁止され、積極的な保護により原始性を保ってきた。奈良の景観保全上においても重要な役割を果たしており、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一要素となっている。
春日山は春日大社の山として神聖視され、樹木伐採が841年(承和8年)から禁じられてきたため、森林が極相に達した原生林が広がっている。暖帯北部に属する地域であるが、暖帯南部の植物が非常に多く、繁殖もさかんである。主な樹種はナギ・ヤマモモ・シイノキ・アラカシ・ツクバネガシ・イチイガシ・カゴノキ・アオガシ・イスノキ・サカキ・クロバイなどである。林中には蔓性植物も多く、とくにカギカズラの群生が多い。このほかビナンカズラ・ウドカズラ・テイカカズラ・オオイタビ・ヤマイバラ・ゴトウヅル・フジなども多い。暖地性シダのナチシダ・オオバノハチジョウシダ・ヘラシダ・ウラジロなども多い[3]。また、このような暖地性の草木の中に温帯性のホオノキ・タラノキ・リョウブ・クマノミズキ・ウリハダカエデ・シナノガキ・イモノキなどの樹木が分布錯綜しており、林相的にも興味深い[3]。
市街地(奈良市)に近接して原生林が存在することは極めて珍しく、学術上の価値も高いことから1924年(大正13年)に国の天然記念物に、1955年(昭和30年)2月に特別天然記念物に指定された[3]。また春日山の照葉樹林は国の名勝にも指定されている。
春日山原始林wikipediaから一部引用
日本の歴史の時代区分の一つで、第43代元明天皇により平城京(奈良・現奈良県奈良市)や聖武天皇の難波宮に都が置かれた時代。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。
広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間を、狭義では同じく710年から784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が遷されるまでの74年間を指す。
「奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたことから、「奈良時代」や「平城時代」という。740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。
平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。平城京は、中国の都長安を模した都を造営したとされる。政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。
平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。
710年(和銅3年)、元明天皇は藤原京から平城京への遷都を行い、都は平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。
皇位は、天武天皇と持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、天皇の神聖さを保つ観点から、近親婚が繰り返された。その結果として、天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、病弱であり、相次いで早死にした。そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、結果として、天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。
政治的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる。
奈良時代wikipediaより一部引用
一部、2022年出題
奈良時代の日本の首都。710年に藤原京から遷都するにあたり、唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。現在の奈良県奈良市、大和郡山市に存在する。
中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8坊 (約 4.3 km) の面積をもち、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画され、全域が72坊に区画設定されていた。
大阪湾や淡路島(八島のひとつ)にも近い奈良盆地(奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部)には、5世紀中頃にはすでに天皇陵である佐紀盾列古墳群が作られ、またのちには大神神社、7世紀には興福寺も建立されているが、京となった8世紀には、東大寺や巨大な仏像である東大寺盧舎那仏像、法華寺などが建立された。本州の政治・文化の中心地となるに至って、門前町は現在も外京(げきょう)として残っている。
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の慶雲4年(707年)に審議が始まり、和銅元年(708年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、和銅3年(710年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
弘仁元年(810年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。
薬子の変以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に宇多上皇が南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされるが、大和国は江戸時代まで存続している。
平城京wikipediaより一部抜粋
参考:『平城宮跡歴史公園「大極門」第一次大極殿院南門復原整備工事 総集編』(【公式】平城宮跡歴史公園Ch.) https://youtu.be/1zC45peHQIc?si=hEOXVYMLsEPMRtb0
8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化という。
その後、平安時代になると国風文化となり、日本で独自に文化を進めていくことになる。
平城京には碁盤の目のような条坊制が布かれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てられた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」(万葉集)と歌われた平城京が出来上がった。
聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺、法華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。
代表的な仏教建築
唐招提寺経蔵、宝庫 - 長屋王邸の遺構で正倉院より古い。
薬師寺東塔[要出典] - 平城京遷都後、白鳳様式で建立された天平建築とするのが通説だが、本薬師寺からの移建説もある。従って移建説に従えば、白鳳建築。
東大寺法華堂(三月堂)、転害門
法隆寺東院夢殿
栄山寺八角堂
東大寺の造営を管轄する役所である造東大寺司のもとで官営の造仏所が整備され、多数の工人によって仏像制作が分業的に行われていた。一方、都には民間の仏像制作工房:私仏所があり、また僧侶で仏像制作を行う者もでてきた。指導的仏師としては、東大寺大仏の責任者:国中連麻呂、興福寺の十大弟子八部衆制作の将軍万福などが記録に残っている。 東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、天平時代の部分は台座、脚部などごく一部)に代表される金銅仏のほか、乾漆像や塑像が主流であり、金像銀像、石仏も制作され、塼仏、押出仏の制作も盛んであった。
仏像
乾漆像
塑像
工芸品
正倉院宝物(楽器、調度品など)
詩歌
天平文化wikipediaから一部引用
2022年出題
奈良県天理市布留にある,もと官幣大社。「記紀」の神武天皇東征神話に登場する布留御魂 (布都御魂〈ふつのみたま〉とも書く) 剣を祀る。国家鎮護神または氏神として,物部氏 (のちの石上氏) が代々祭祀にあたった。垂仁天皇のとき,剣 1000振りを奉納するなど,武器に関する伝承が多い。これは大和朝廷の軍事を担当したという伝承をもつ物部氏の氏神であったためと思われる。嘉祥3 (850) 年,正三位。貞観9 (867) 年,正一位の神階を授与され,大和随一の神社で二十二社の一つ。社宝には,日本最古の銘文をもつ国宝の七支刀 (しちしとう) などがあり,拝殿 (国宝) の後方の禁足地からは,長期にわたる祭祀遺跡が発掘された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『石上神宮』
【石上宅嗣】
729(天平1)-781(天応1).通説では日本最古の公開図書館とされている芸亭の設立者.中納言乙麻呂の子,物部朝臣と称する.757(天平宝字1)年相模守,その後地方官を歴任し761(天平宝字5)年遣唐副使に任ぜられるが直後に免ぜられる.763(天平宝字7)年(?)藤原仲麻呂を除く藤原良継らの企てに参画したが,良継が一人責めを負い宅嗣らは罪を免れた.後参議を兼ねて式部卿,光仁天皇擁立に参画.その後中務卿兼中納言となり,この頃皇太子傅,大納言に進み,死後に正二位を追贈される.詩賦をよくし,漢籍に関する知識が豊富で書にも優れ,淡海三船とともに文人の首といわれた.晩年その旧宅を捨てて阿寺とし,寺内の一隅に特に外典(仏書以外の書物)の院を設け,芸亭と名付けた.
[参照項目] 芸亭(うんてい)
出典 図書館情報学用語辞典 第4版 コトバンク『石上宅嗣』
古代の法制の一つ。律6巻,令 11巻。刑部 (おさかべ) 親王,藤原不比等,粟田真人 (まひと) ,下毛野古麻呂 (しもつけぬのこまろ) らにより大宝1 (701) 年(文武天皇)に完成,同2年藤原京で施行された。律は今日でいう刑法,令は行政法的規定に近い。本文は散逸して伝わっておらず,17年後に改修された『養老律令』の注釈解説書『令集解 (りょうのしゅうげ) 』に引用されている古記などによって,一部分の原文を復元するにとどまる。律令の制定は,天智7 (668) 年の『近江令』 22巻に始り,天武 11 (682) 年の『飛鳥浄御原律令 (あすかのきよみはらりつりょう) 』 (律は編集されなかったとの説もある) を経て,『大宝律令』にいたる。養老2 (718) 年に改修された『養老律令』が実際に施行されたのが,天平宝字1 (757) 年であるから,半世紀の間,律令国家の基本法制であった。養老の改正は,全編にわたって,用語を平易にしたり,字句,名称を変更したりしているが,内容を著しく変更したものは少い。したがって,現存の『養老律令』の条文をもって,『大宝律令』の全貌を把握することも可能である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『大宝律令』
律令制参考:『5分でわかる!律令』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12504/
ポイント
律(刑法)・令(刑法以外)
五刑(笞・杖・徒・流・死)・八虐
近江令→大宝律令(701) 刑部親王・藤原不比等
参考:『5分でわかる!地方の統治機構』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12509/
ポイント:国・郡・里 国司、郡司、里長、太宰府
京師(都)、遠の朝廷、摂津職(難波宮)
参考:『律令制』デジタル大辞泉(weblio) https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
読み方:りつりょうせい
律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制。中国の隋・唐の法体系を取り入れて成立。二官八省を中心とする中央官制、国郡里制による地方行政組織が整い、公地・公民を原則として官僚による土地・人民支配が確立した。人民を良民・賤民(せんみん)に二大別し、班田収授の法により耕地を与える代わりに租庸調(そようちょう)・雑徭(ぞうよう)などを課して中央および地方の財源とした。荘園制が発達する9世紀末から10世紀ごろには実質が失われた。令制。
参考:『律令制』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
律令制(りつりょうせい)とは、中国の律令・律令法に基づく国家の法体系・制度を指す。
また古代日本において、それを取り入れた体系・国家制度・統治制度を指す。
日本の律令制
概要
日本の律令制は、中国の制度を参考にし設立され、古墳時代以後、7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関してはほぼ設立時の制度に忠実に従った国家運営が行われた(律令国家・律令体制・律令時代)。
制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現・国力増強への取り組みがあった。また白村江の戦い(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付けを目指したとも考えられている。
特徴として公地公民制の徹底を行い、それまでの地方豪族の領地は収公された。ただし極めて高い朝廷の地位を持つ身分(三位以上)や大寺社へは、公務に準ずるとして特例制度を設けた。
また中央集権的な官僚制を全面的には採用せず、古代日本の伝統に基づく氏族制を認め併用した。すなわち、それまでの古代からの地方豪族は、国司(中央官人が令制国へ派遣された)の下で、郡司に任命・世襲され働くこととなった。彼らにより、古代村落内の戸(大家族)が把握され、その戸に住む一人一人を調査・記録され(戸籍)、律令制の諸制度を実質的に支えた。
またその後の日本の歴史で、観念上、国家の秩序維持の根幹制度とみなされ、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。藤原氏は制度設立に携わり、この制度を支える朝廷内の独占的な氏族となっていった。
しかし開始後約100年経過後には、弥生時代より長期間続いていた農業生産向上に停滞を生じ。また、より大きい収入を望む中央貴族の台頭に伴い、現実上の経済制度として煩瑣の割には彼らの収入は必ずしも大きくはないなどと判断され、奈良後期〜平安初期に改められていった。古代からの地方豪族と伝統的村落の衰亡・解体も進み、当初の律令制を支えることは困難となった(戸に属する一人一人の把握も困難となった)。
朝廷および中央貴族は、より実質に則して制度を修正・改革し、より効率的に統治し自らの収入も確保できるよう、国家軍事力の廃止、地方のインフラへの公的投資の縮小(官道、国衙など)も進め、国司の任は税収の中央貢進が主となった。中央貴族(および権門)は収入増加に成功する一方で淘汰も進み、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占め、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。
発足
『日本書紀』によれば推古11年12月5日(604年1月11日)に始めて冠位十二階の制定などの国制改革が日本で行われ、官に12等があると『隋書』倭国伝に記されていることからも、身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るものであった。
646年から孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された。
豪族(国造)らの私有地を廃止し、人民の所有を廃止すること
中央(朝廷)による統一的な地方統治制度を創設すること
戸籍・計帳・班田収授法を制定すること
租税制度を再編成すること
すなわち地方統治制度については中央政府(朝廷)が、構成する諸国を官僚制により直接統治することとした(豪族・国造の支配を廃止)。また、中央政府が統率する大規模軍(軍団)を作ることとした。また日本の君主号を天皇とし、諸国の上に君臨することを明確化した(「国」の王ではなく、また、日本は国ではない位置付け)。
ただし、大化の改新後に、これらの改革が皆急速に実施されたわけではないと考えられている。
20世紀中後期頃までは、大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていたが、1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文章は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明白になり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明、必ずしも律令制史上の画期とは見なされなくなってきた。例えば、改新の第一の方針は公地公民制を確立したものとして評価されてきたが、これは王土王民の理念を宣言したのみに過ぎず、改新時に公地公民制という制度は構築されなかったとする見解も有力となりつつある。大化の改新は『日本書紀』に描かれるほどの画期的な改革ではなく、その後、改革への動きは停滞したとする見解が広範な支持を集めている。
終焉
当初の制度は終焉、衰退、もしくは修正されて存続した。
戸籍に基づき、一人一人の把握に基づく諸制度(班田収授制、庸調の中央朝廷への納税、軍団制など)は、維持が困難もしくは非効率と見なされるようになり、大きく改められた(8世紀後期以降)。
田畑(開墾地など)に対する耕作権の私有・世襲を、一般人へも一部認めるようになった(8世紀後期以降)。
領地私有制は、本来の制度でも高位の身分および大寺社へ限定され認められたが、墾田の世襲と組み合わされ荘園制として中世に至るまで発展した。しかし室町時代中期以降は全国的に、大名たちの実力による隣接する土地の不法な押領(土地を奪う行為)が常態化し、朝廷・将軍家は制止できなくなった。
太政官制は、1885年(明治18年)に廃止された。
基本理念
日本の律令制は、中国で理想とされてきた「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を取り入れた(王土王民思想、王土王臣とも言う)。
中国の律令(古代中国の西晋から唐朝の800年間をかけて整備された)と統治技術とを、日本へ、白村江の戦の大敗後にそれまでの国家体制を改める形で移植した(一部は修正した)。
唐朝の律令を取り入れたが、伝統および実情に合わせ国家を動かすために調整・修正した(空文となったものも多い)。このため、律令制と氏族制との2元国家体制とした。例えば、郡司は中央官僚ではなく古来の地方豪族が任用され、伝統的村落に対する地方行政が行われた(国郡里制)。また中国での皇帝に権力を集中する科挙制度や、側近政治のための宦官制も取り入れなかった。
中国では、皇帝は新法の制定者で最終的な権威者で律令を超越できる(名例律18条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある)。これに対して、日本では養老律令・名例律、考課令官人犯罪条に同規定があるが、実際は天皇も律令に拘束され、律令運用の中心は、太政官・議政官などの貴族層にあった。
神亀元年(724年)2月聖武天皇が即位2日後に生母藤原宮子に「大夫人」の称号を与えたが、太政官左大臣長屋王に律令違反だと抗議の奏上をされて、勅を撤回している(辛巳事件)。これは中国ではありえないことだった。
日本の律令制では、唐令の皇帝土地支配を改めて、土俗的で伝統的な氏族制の地方支配を認め、地方の国造からの朝廷・大王への宗教的な祭祀による捧げもののミツキによる貢納を、国家による地方支配の根幹としている。中国の租庸調とは性格を大きく変えている。日本では、地方行政機関の評制定と民衆を把握し戸籍を作り、班田収授法で農地を調べ徴税や労役を課することが重視された。
先行の律令制
基本制度
日本の律令制は、下記の制度が統治の根幹となっていた。大化の改新を起点に律令国家を目指し、制度整備が行われた。
一律的に耕作地を班給する土地制度
班田収授制(班田制)として施行された。国家が保有する田から、定められた面積の耕作権を全人民へ貸与した(班給)。
租税制度
租庸調(租調庸)制として施行された。班給田からの収穫物は、国衙へ納める税(租)と自らの食料とへ当てた。
また一人一人に割り当てられた庸調が中央の朝廷へ納められた。律令制以前の地方氏族制によるチカラ・ミツキ・タチカラの慣行の上に成立した。
兵役が課せられる軍事制度
軍団制として施行された。国司が選定した人民は兵役の義務を負った(一戸につきおよそ一人)。ただし、東国(関東)ばかりが防人の兵役義務を負っていたなど、一律的に兵役が課されていないという実態があった。
地方行政制度
中央の中級貴族官人の中から任命された国司(守、介、掾、目の共同責任)が令制国の行政のために派遣された(4年交代)。
国司の重要な任務の一つは、その国内から徴税された中から、定められた中央の官人[19]・寺社への給与を滞りなく各々へ納めることであり、任期終了時には厳しく考課された(違反があれば弁済が求められた)。
その国内では、古代からの地方豪族を郡司として世襲任命した。古代村落に対する支配をそのまま生かし、その各戸の一人一人への班給・課税・徴兵・戸籍・計帳の作成が綿密に担われた。これが中央の朝廷の財源である庸調を支えた。
官僚制、国制組織
国家組織としては2官8省制だった。国家権力を5位以上の畿内貴族層で掌握し、地方豪族を支配し伝統的な大和政権の構成を継承していた。
太政官令の権限は強く、太政官が発議し、議政官との合議の後に上奏し裁可された。天皇の権力へも制約を加えるものだった
位階
位階は官人へ与えられた位(身分)を指す。これは官人の官職よりも重要視された。
貴族制的な要素が強く、5位以上の官人は、畿内の中央氏族や地方の伝統的な有力氏族が独占した。
加えて、5位以上の貴族の子弟へは21歳で自動的に継承する官職が与えられた(蔭位の制)。
律令法典
制度を実施するための律令法典が整備された(中国の律令から一部改訂して取り入れた)。社会規範を規定する刑法的な律と社会制度を規定する行政法的な令が中心的な位置を占め、律令の不足を補う改正法としての格および律令と格の施行細則としての性格を持つ式が一つの法体系、即ち律令法典を構成していた。
駅伝制
中央と地方の情報伝達を遅滞なく行うための交通制度(駅伝制)が定められた。
貨幣制度
皇朝十二銭が発行されたが、後述のとおり、日本においては定着しなかった。
周辺の東アジア諸国では、中国の服装や役職制度は取り入れたが固有法のままで、かつて654年に導入されたとされていた新羅でも律令は参照して、独自の国法を整備する形であった。
経緯・変遷
律令制の前身
大化の改新:645年、難波宮で行われた大化の改新時、日本という国号と共に最初の元号である大化が正式に定められた。
近江令・庚午年籍:律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。660年の百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機意識を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともしに、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が強まった。この時期に編纂したとされた近江令は、国制改革を進めていく個別法令群の総称で体系的な編纂と施行はされていないと考えられている。天智天皇による法令は官位26階制や各氏とその民部家部をさだめる軽易なものである。重要なのは、天智9年(670年)に、日本史上最初の戸籍とされる庚午年籍が作成された。部姓や氏がつけられその後の律令制の基礎ともなった。
飛鳥浄御原令:天智天皇の死後、壬申の乱により政権を奪取した天武天皇は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。主要な政治ポストには従来の豪族ではなく諸皇子をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、681年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発出した。天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、689年の持統天皇の時代に令が完成・施行された。これが飛鳥浄御原令である。この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。また、現在判明している範囲では浄御原令の官制などの制度は、南北朝時代や隋の中国の制度や百済・新羅などの朝鮮半島の制度が織り交ぜられたものと考えられている。律は制定されなかった。その理由としては、高度な体系性を必要とし、また隋律あるいは唐律はまだ日本へ伝来せず準備不足だったと考えられている。日本で律が編纂されるようになるには、唐との関係改善によって唐からの律法典が招来され、それを理解して日本の国情に合わせて改編できる人材の確保(唐留学生の帰国や唐人の来日)を待たねばならなかったと推定されている。
大宝律令:その後の701年に、大宝律令が制定・施行された。大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められている。 大宝律令の制定過程で、周礼に準じた正方で中心に宮域の形式で造られた藤原京が、北宮域で長方形の長安を見聞した遣唐使により相違すると指摘され、平城京が、9年の歳月で建設され遷都された。律令編纂に中心的な役割を果たした藤原不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し平城京遷都にも大きな役割をして、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。律令制定に伴って、正史日本書紀の編纂、風土記の撰上、度量衡の制定、銭貨の鋳造などが行われた。これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であった。大宝律令は、唐の永徽律令(えいき-、651年制定)をもとに作られた。しかし、唐律令には、日本の社会情勢と適合しない箇所もあったため、多くの箇所で日本の国情に合わせた改変がなされている。大宝律令制定後も、日本の国情に適合させるよう律令の撰修が続けられ、聖武天皇の時代の文化には北魏の影響が強いとされているが、その成果が養老律令としてまとめられ、757年に施行された。
8世紀初頭
班田制などが功を奏し、農業生産量増大に伴い人口も増大した。反面、班給すべき口分田の不足が起き始めた。
桓武天皇と律令制
8世紀末頃になると、いくつかの制度は実効性が薄れ、運用されなくなったものも現れ、問題視されるようになった。またそれらをそのまま放置することは、財政的かつ人的な負担および浪費とみなされるようになった。地方では、郡司を務めていた古来の地方豪族の没落、伝統的村落の解体が進み、戸を単位とした人民一人一人の把握は困難となっていた。そのため桓武天皇はこうした制度を廃止し、簡素かつ実効的な制度へ置換するという大規模な改革を行った。この改革は、律令制の理念を守りながら、再編成を意図したものであり、桓武天皇は、長岡京・平安京への遷都や、対蝦夷戦争への積極的な遂行を実施した。またそれらの中断・中止も行われた。これらは従来とは異質の統治体制を築こうとするものであり、律令制の再編成であると見るのが主な見解であるが、律令制が中核を大きく失い桓武天皇の時代期を律令制の実質上の終焉とする論者もいる。ただし軍団兵士制の廃止は治安を悪化させ、軍事・警察の組織として検非違使がおかれるようにはなったものの、結果として戦国時代までおよそ7世紀の日本列島の混乱を招くこととなった。また奈良時代の783年からは朝廷が貨幣を鋳造しはじめたが、インフレーション対策として度々改鋳が行われており、皇朝十二銭は改鋳のたびに目方と質が低下したため(デノミネーション)、信用低下と銭離れが生じ、平安時代終期には物々交換経済への逆戻りが見られた。国司・受領への権限委譲が進んだ。
格・式への移行と律令制の衰退
その後、9世紀の前期から中期にかけて、律令制を再整備しようとする動きが活発となる。律令の修正法である格(きゃく)と律令格の施行細則である式(しき)が、大宝律令の施行以後、多く残されていたが、820年にそれらを集成した弘仁格式が編纂された。更に830年には、天長格式が撰修され、834年には令の官製逐条解説である『令義解』(りょうのぎげ)が施行された。これらは、律令制の実質を維持していこうとする意思の表れだった。しかし、律令制の弛緩、換言すれば別の統治体制への移行は、時代を追うたびに進展し、特に班田制の崩壊が著しかった。こうした状況下で、870年前後に貞観格式が編纂・頒布されるとともに、868年には、律令条文の多様な解釈を集成した私的律令解説本の『令集解』(りょうのしゅうげ)が惟宗直本により記された。
宇多天皇の元で働いていた菅原道真は同じく宇多天皇の側近で藤原時平の障害となり、時平は道真を遣唐使として唐に送ってしまおうとした。しかし道真は宇多天皇からの遣唐使要請を拒否し、894年に遣唐使を廃止した。これにより日本独自の文化である国風文化の時代がやってくることになる。律令制は唐の国を見習ったものであったこともあったので唐との交流がなくなってしまったことも衰退の一因といえる。907年に唐が滅ぶとその要因は強くなった。
朱雀天皇の時代に律令国家衰退を象徴する事件が東西で起こった。律令制の元での政治に不満を持つ人々を率いて関東での平将門、瀬戸内海での藤原純友の朝廷打倒の反乱である(承平天慶の乱)。これには平将門の乱は平貞盛率いる平氏が、藤原純友の乱は源経基率いる源氏が鎮圧にあたった。これにより源平二氏が進出するきっかけになって、時代はやがて律令国家から武家社会へと移行することになった。
967年には、最後の格式となる延喜式が施行された。しかし、律令制はこの時期にほぼ実態を失ってしまう。多くの論者が、律令制は遅くとも10世紀末までに死滅したとしている。律令制に基づく律令国家から請負統治に依拠する王朝国家(前期王朝国家)へ転換したとする見解が広範な支持を得ている。ただし、律令制の死滅は、律令もしくは律令法の死滅を必ずしも意味していないので、律令の名目上の完全な終焉時期も重要であるが、制度としての律令制が崩壊したことに注意する必要がある。11世紀以降も、律令の一部の条文は効力を保持していたからである。
武家社会の成立と律令制の終焉
源氏が鎌倉幕府を設けて平家や道教の影響力が薄まったのち、平安時代の公家や寺社の領地には地頭が置かれるようになった。さらに、源氏が滅んだ2年後の承久の乱は朝廷側の力が武家政権より弱体であることを示すものであり、朝廷側はあっけなく敗北する。因みに、初期の地頭には書字ができない者もいたという。
鎌倉幕府が倒れた直後、律令制への回帰を求める動きも少なからず何度も出現していた。これを受けて、後醍醐天皇は律令国家に戻すことを理想に掲げた建武の新政を行い、土地を五摂家などと繋がる新興の公家に与え、また旧来の武士の資産も政略結婚などにより新興の公家に吸収していった。しかしながら、律令制の根幹を成す王土王民思想や一君万民思想は武家政治の根幹を成す封建的君主制とは相容れない存在であり、建武の新政は謂わば時代遅れの政治体制であったことは否めなくなっていた。結果、建武の新政は武士の不満が募りわずか3年で失敗する。
このように、鎌倉時代から江戸時代になるまでの時代に律令制は完全に終わったと見做されているが、律令の中には明治維新まで有効とされていたものもある。例として太政官制があり、1885年(明治18年)に廃止されるまで続いた。
制度
天皇
養老律令には、儀制令に天皇を君主号として天子、皇帝に並べて規定する。天皇が発する命令やその手続きについては、律令に規定があり、天皇の行為は律令の制約を受けていた。更に唐制のように天皇が三省六部に相当する諸機関(二官八省)を直接統括しておらず、政務には太政官が間に入る形となったために、太政官によってその権限が制約されていた。
また、皇位を生前譲位した者は太上天皇(上皇ともいう)と規定されていたが、これは中国律令にない独自の地位である。律令上、太上天皇を天皇と同等の地位と解釈することが通例とされており、実際には太上天皇が天皇よりも上位とされることも多かった。例えば、奈良時代の聖武太上天皇は、実質的に孝謙天皇よりも上位者とされていたし、平安後期に始まる院政も同様である。
統治機構
律令に定める統治機構は、祭祀を所管する神祇官と、政務一般を統括する太政官の二官に大きく分けられていた。中国律令では、祭祀所管庁が通常の官庁と同列に置かれていたが、日本律令は、神祇官を置くことで祭祀と政務を明確に分離した。太政官の下には、実際の行政を担当する八省が置かれ、更に各省の下に個々の事務を分掌する職・寮・司・所などの諸官庁が置かれた。この機構を総称して二官八省という。
太政官は、国政の意思決定を行う最も重要な機関であり、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言(後に中納言・参議が加わる)による議政官組織とそれを実務面で補佐する少納言・左右弁官局・外記局から構成されていた。
議政官は政務の重要な案件を審議し、最終的な裁可は天皇が行うとされていた。重要でない案件の場合は、議政官の審議のみとされた。このように議政官の任務は非常に重要であり、実質的に国政の意思決定を左右する組織であった。天皇が裁可、もしくは議政官が審議して決裁された案件は、弁官に回付され、弁官が太政官符を作成して実行に移された。弁官は国政中枢の実務を担っていたため、これも重要な官職と見られていた。また、天皇が案件を提起する場合は、天皇から中務省へ命じて詔書が作成され、中務省が起案した詔書の文案は、外記局で点検を受けて天皇または弁官へ回付されており、外記局も重要な部署と認識されていた。決裁された政策を実行するのが八省であり、左弁官と右弁官が四省ずつ担当していた。
以上に見る太政官の組織形態は、唐律令のそれを大きく改変したものである。唐律令では、国政の意思決定機構は、天子の命を受けて政策を企画立案する中書省、中書の立案を審議する門下省、門下省が同意した政策を実行する尚書省から構成されていた。このうち、中書省は天子とのつながりが強かったが、門下省は貴族層の意思を代表する機関であり、中書と門下の力が拮抗していた。日本と比較してみると、中書省が中務省、門下省が議政官、尚書省が左右弁官およびその下の八省に当たる、日本では太政官が門下・尚書の両省を兼ねて更に中書省である中務省を指揮するなど強力な権限を有し、とりわけ門下省に当たる議政官、即ち貴族層の役割が非常に大きかったことが判る。
中央官制の詳細は日本の官制の項を参照。
地方統治は、中央に近い大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国の五国を畿内とし、その他の東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道を七つの道(どう)に区分した。これを五畿七道という(1869年、北海道が新設されてから五畿八道と呼ばれる)。行政単位としては、国・郡・里(郷)の三層に分けて、国には国司、郡には郡司、里には里長(郷長)を置いた。このうち、国司には中央から派遣されたが、郡司・里長はかつての在地首長である地域の豪族層が終身官として任命され、実質上自分の支配地域を行政単位として認められていた。これについては、日本の律令制が、律令に基づく国家による人民支配と並行して、在地首長による氏族制的な人民支配をも内包していたとする見解がある。
重要な地域には特別の機関が置かれた。首都である京域を管轄する左右京職、首都の外交窓口である難波を管轄する摂津職、国家の外交窓口である西海道を管轄する大宰府である。
中央と地方の情報伝達を迅速・円滑に行うために駅伝制が実施され、この駅伝制の下で、中央と諸国とを結ぶ道路網が整備されていた。道路網は、幅員が広く長い直線区間を持つ古代日本のハイウェイであり、現代までその痕跡が残っている。
古代日本の道路網の詳細は、日本の古代道路の項を参照。
以上の統治機構に属する官僚は、それぞれ官職と位階が与えられていた。官職とは官庁における役職で、押し並べて官庁内では役職が四階級、即ち長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)に区分されていた。これを四等官制という。また、位階とは官僚の序列を表す等級である。律令において、全ての官職は相当する位階が定められており、これを官位相当制という。例えば、弁官局の次官である左右中弁は正五位上と定められ、正五位上の者の中から左右中弁が選任されていた。位階のうち五位以上の者には位田・位封・位禄・位分資人(使用人)が給与されるなど多くの特権が与えられており、特別の身分階層を形成していた。これを貴族という。
人民統治
日本の律令制においては、人民統治の基盤として、戸籍(世帯=戸ごとに人民を詳細に記載登録したもの)と計帳(調・庸の税を徴収するための台帳)が作成され、毎年更新されていた。
戸籍・計帳の詳細については、古代の戸籍制度の項を参照。
国は、戸籍を基にして、一定の資格を持つ者に対し一律に同じ面積の田を口分田として班給し、その者が死ねば口分田を収公していた。これを班田収授制や班田制という。律令では、口分田は公地ではなく私地と規定されていた(これにより従来の公地公民の概念は否定されつつある)。 口分田の他の田には、五位以上の者へ班給された位田、天皇から特別に与えられた賜田、特に功績を残した者に与えられた功田、官職に応じて班給された職田、仏教寺院の維持運営にあてられた寺田、神社の維持運営にあてられた神田、以上の班給の残りの乗田があった。また、宅地と園地も班給の対象とされたが、収公はされず、自由に売買できた。
税制・租庸調
田地の班給を受けた者は、原則として田租を納税する義務を負ったが、中には納付義務が免除される田地もあった。田租の賦課対象となる田地を輸租田といい、田租が免除された田地を不輸租田というが、口分田・位田・賜田・功田・郡司への職田が輸租田とされ、郡司以外の職田・寺田・神田のみが不輸租とされた。
租は、割り当てられた口分田の収穫量のうち3%を稲束で納めた。国衙の正倉に蓄えられ、地方行政の財源となった。
当時、出挙という貸借制度があったが、国司や郡司は田租の稲を半ば強制的に百姓へ貸し付けて、利子の稲を得ていた。これは公出挙または正税と呼ばれ、田租と並んで地方の貴重な財源となった。
百姓は、田租以外にも調・庸などを負担する義務が課せられていた。
庸は、元来、都での労役に従事することだったが、その代替として布、米、塩などを中央へ納付する内容となっていた。
調は、男性に賦課された物納税であり、絹や布、塩、紙、染料、海草、油などの地域の特産品が納められた。調は中央の財源であり、直接、宮都に納付することとされていた。そのため、百姓の中から運搬する者(運脚という)が選ばれ、都まで運送していった。この時期に、初源的な運送業が発生していたとする見解もある。
雑徭
雑徭は、国司の命に従って、その国内の土木工事や政府機関での雑用に従事する労役義務である。また、雇役と呼ばれる給与が支払われる労役もあった(京に住む庶民には調・庸を免除する代わりに雇役を課した)。
中国では雑徭とは別に差科と呼ばれる労役義務が存在しており、差科に対する雑徭の位置付けについては諸説がある。
仕丁
仕丁は、一里(50戸)ごとに2人が3年間、都で働く税。生活費は自己負担であったが、調、庸、雑徭は免除された。
兵役
以上の租税負担のほか、百姓は兵役の義務も負っていた。律令制における軍事制度の基本は軍団制だった。成年男性の中から徴兵され、3〜4郡ごとに置かれた軍団に兵士として配属された。軍団で訓練を受けた兵士は、中央たる畿内へ配転されて衛士として1年間、王城周辺の警備に当たった。また、関東の兵士は、北九州に防人として3年間配属され、沿岸防備などに従事した。
身分制度
日本の律令制における身分は、良民と賤民に大別される。良民は、高級官僚である貴族を初め、下級官人、一般の百姓(公民と呼ばれることもあった)、雑色人(品部・雑戸という工芸技術を持つ半自由民)があった。賤民は五色の賤と言われ、陵戸(天皇・皇族の陵墓を代々守る家系)、官戸(諸官庁に属し公用に従事)、公奴婢(官有の奴隷)、家人(貴族や有力者に属し雑用に従事)、私奴婢(私有の奴隷)があった。
賤民のうち、公奴婢と私奴婢は売買の対象とされるなど、奴隷として位置づけられていた。このように、律令制下では奴隷制が存在していた。
参考:『口分田』Gakken x 朝日新聞 キッズネット https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary02300162/
大化の改新後,班田収授法によって人民にあたえられた土地。中国(唐)の均田制にならったもので,6歳以上の男子には田2段(約23a),女子にはその3分の2,奴婢には良民男女の3分の1の土地が支給しきゅうされ,死後は国に返した。口分田を支給された者は租(税の一種)として,収穫の3〜5%のイネをおさめた。
口分田は6年ごとに分け直し(班田)を行い,その時に満6歳以上に達たっしていた者に支給された。
参考:『口分田』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A3%E5%88%86%E7%94%B0-55876#goog_rewarded
1 大化の改新後、班田収授法により、人民に支給された田。6歳以上の良民の男子には二段(たん)、女子にはその3分の2、賤民のうち官戸・公奴婢(くぬひ)には良民と同額、家人・私奴婢には良民の3分の1を支給。収穫の約3パーセントを田租として徴税した。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『中学社会 定期テスト対策【古代(~平安時代)】 公地公民と班田収授法の違い』ベネッセ教育総合研究所 https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00712.html
公地公民→班田収授法
参考:『口分田』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%88%86%E7%94%B0
口分田(くぶんでん)とは、律令制において、民衆へ一律に支給された農地を指す(均田制、班田制)。
日本では飛鳥時代に律令制(班田制)発足に伴い導入された。これは唐の均田制を参考としたと考えられる。
日本の口分田
日本の律令では、戸籍に基づいて6年に一回、口分田として6歳以上の男性へ2段(720歩=約24アール)、女性へはその3分の2(480歩=約16アール)が耕作権が貸与され(班田)、その収穫のおよそ3%は租(田租)として徴税され国衙の主要財源とされた。
律令での規定
現存する養老律令田令では、口分田について次のとおり規定されている。
第3条 口分田について、男は2段とし、女は3分の1を減ずる。5歳以下には支給しない。その地が広い場合または狭い場合は、地域の慣習法に従う。易田は倍給する。支給が済んだ後は、境界(四至)を明確にすること。
第21条 田は6年に1回支給する。死んだ場合は、支給年がきたとき、あらためて収授する。
第23条 田の支給は、支給年の正月30日までに太政官へ申請する。
第27条 政府所有の奴隷(官戸奴婢)の口分田は一般人(良人)に同じとする。私有奴隷(家人奴婢)の口分田は、地域の寛狭に応じ、並びに一般人の3分の1を支給する。
導入 - 衰退の経緯
口分田の祖型は、7世紀中葉の大化の改新頃に始まり、7世紀終盤の律令形成期に口分田制度が確立したと考えられている。記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。このことは、口分田制度によらずとも一定の税収確保が可能となったことを示唆している。
ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国・尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。また、京の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。また、遷都の際には偶々その予定地にあった口分田は収公されて替地が与えられていた[1]。
また、口分田は原則として売買・譲渡・質入などが禁じられていたにもかかわらず、奈良時代後期頃から質入などの問題が発生しており、班田が順調に行われなくなると売買や譲渡なども行われるようになった。班田が行われなくなると、口分田も事実上農民の私有地化することになる。
一部2022年出題
平城京およびその周辺の七つの大寺。東大寺、興福寺、元興(がんごう)寺、大安(だいあん)寺、薬師(やくし)寺、西大(さいだい)寺、法隆寺。法隆寺を除き唐招提(とうしょうだい)寺を入れた例もある。飛鳥(あすか)時代には大安寺、薬師寺、元興寺、弘福(ぐふく)寺を四大寺と称したが、奈良遷都後は大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺を四大寺とよび、ほかに五大寺、六大寺の称も行われた。七大寺は、聖武(しょうむ)天皇の崩じた翌々日および初七日すなわち756年(天平勝宝8)5月に七大寺に誦経(ずきょう)せしめた『続日本紀(しょくにほんぎ)』というのが初めての記載で、その後796年(延暦15)11月『日本後紀(にほんこうき)』などにみえる。『続(しょく)日本後紀』『文徳実録(もんとくじつろく)』『三代実録』や『延喜式(えんぎしき)』などにも言及されており、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』に七大寺の寺名が記されている。また、『七大寺巡礼私記』『七大寺日記』『七大寺年表』(以上平安末期)、『七大寺巡礼記』(室町時代?)などがある。
[田村晃祐]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
南都七大寺 東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺(または唐招提寺)
日本現存最古の歴史書,文学書。3巻。序 (上表文) によれば,天武天皇の命によって稗田阿礼 (ひえだのあれ) が「誦 (しょう) 習」していた『帝紀』『旧辞』を,元明天皇の命によって太安麻呂 (おおのやすまろ) が「撰録」し和銅5 (712) 年献上したものである。しかし,「誦習」「撰録」の具体的内容については諸家の説が分れ,また序を疑う説,ひいては『古事記』そのものを偽書とする説もあるが,上代特殊仮名づかいの存在により和銅頃の成立であることは確実。天地の始りから推古天皇の時代までの皇室を中心とする歴史を記すが,実質的には神話,伝説,歌謡,系譜が中心で,そのため史料としてはそのまま用いがたい面が多いが,逆に文学書としては興味深い存在といえる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
奈良前期の藤原氏による政敵排斥事件。藤原不比等(ふひと)の没後,長屋王が太政官の首班になるが,729年(天平元)2月中臣東人(なかとみのあずまひと)らが王の謀反を密告し,藤原宇合(うまかい)らが王の宅を包囲した。舎人(とねり)親王らの審問ののち王は自殺し,正室吉備内親王とその子も自殺した。変の背景には,その直前に聖武天皇の夫人藤原安宿媛(あすかべひめ)(光明子)所生の皇太子が夭折し,もう1人の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積(あさか)親王を出産したことがある。藤原氏は安積の即位阻止のため安宿媛の立后をはかり,その障害になる王を排除したと考えられる。皇女を母にもつ長屋王の血統から,大化前代の皇位継承原則に照らすと,宮子所生の聖武天皇に劣らず長屋王の即位がありえたことも要因であろう。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
729年(天平1)2月に起こった政変。左大臣長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自殺。妻の吉備内親王(きびないしんのう)、子の膳夫王(かしわでおう)、桑田王、葛木王(かずらきおう)、鉤取王(かぎとりおう)らも後を追い、夫妻は生馬(生駒)山(いこまやま)に葬られた。縁坐した者も少数はいたが、まもなく王の兄弟姉妹、妻子をはじめ関係者は許され、事件は急速に集結した。これは聖武天皇と夫人(ぶにん)藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)(のちの光明皇后)との間に生まれた皇太子基王(もといおう)(某王との説も)が前年に死去する一方、別の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積親王(あさかしんのう)を生んだ状況下で、安積立太子を阻むとともに第2子誕生を期待して、光明子立后(りっこう)をめざす藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こした事件とみられる。同年8月、神亀(じんき)から天平に改元したのち光明子は皇后となった。なお長屋王邸は平城京左京3条2坊にあり、事件後それは国家に没収され、立后に伴って光明皇后の宮になったことが、出土木簡(もっかん)によって判明している。
[舘野和己]
『寺崎保広著『長屋王』(1999・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
以上2項目、長屋王の変・コトバンクから引用
奈良県奈良市二条大路南にある邸宅跡。平城宮の東南角に隣接し、二条大路に面し、南は曲水苑池の庭である平城京の左京三条二坊宮跡庭園と向かいあっている。長屋王は奈良時代初めの皇族(皇親)で、平城京遷都以後、政界の中心だった右大臣藤原不比等(ふひと)が死ぬと、皇親の代表として主導者となり権勢を誇った。しかし不比等の子、藤原4兄弟と対立し、729年(神亀6)、国家を倒そうとしているとの密告があり、藤原宇合(うまかい)らに邸宅を包囲され、自害に追い込まれた(長屋王の変)。1986年(昭和61)からデパート建設予定地で発掘調査が行われ、1988年(昭和63)に地下2mのところで幅約3m、長さ28mの溝が発掘され、その底から4万点に及ぶ木簡が出土した。その中から「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅跡であることが判明した。邸宅は総面積約6万m2、平城宮跡資料館に邸宅の復元模型が展示されており、木簡からは一家の豪奢な生活がうかがえる。現在は、イトーヨーカドー奈良店の下に埋め戻され、記念碑だけが立っている。近畿日本鉄道奈良線新大宮駅から徒歩約15分。
出典 講談社国指定史跡ガイド
上記1項目は、長屋王邸宅跡コトバンクより引用
養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。しかし、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。
『養老律令』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4
現存する日本最古の歌集。20巻。編者,成立年代ともに不明だが,全巻の完成は8世紀末ごろで,大伴家持が編纂(へんさん)に関係したことは確実とされる。総歌数約4500,短歌4200余首と長歌約260首が主体をなし,ほかに旋頭歌(せどうか)60余首,仏足石歌がある。部立(ぶだて)の基本は,雑歌(ぞうか),相聞(そうもん),挽歌(ばんか)。主要な作家としては,壬申の乱までの第1期に有間(ありま)皇子,額田(ぬかた)王,奈良遷都までの第2期に柿本人麻呂,奈良時代前半の第3期に山上憶良(やまのうえのおくら),山部赤人(やまべのあかひと),大伴旅人,高橋虫麻呂,奈良時代後半の第4期に大伴家持,大伴坂上郎女などがある。徴用兵士である防人(さきもり)の歌や,東国民謡を含む東歌(あずまうた)も採取・編入されている。和歌集として,口承段階から文字使用による表現の段階への移行という歴史的条件を反映して,日本における文学の誕生を告知し,以後の文化の水源をなすとともに,万葉仮名による表記法が国語学上きわめて重要な資料となってもいる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア (コトバンク『万葉集』)
「万葉集」(まんようしゅう、まんにょうしゅう、旧字体:萬葉集)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である。
概要
万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)。
天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][3][4][注 2]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる。完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが[1]、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。
日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった。
『万葉集』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。
武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は3人の異母弟である。なお、聖武天皇の母の藤原宮子と聖武皇后の藤原光明子はともに四兄弟の異母姉妹にあたる。
律令編纂や平城京遷都などに関わった不比等亡き後、四兄弟は元正天皇・聖武天皇の時代にわたり長屋王と政権の座を争ったが、長屋王の変で長屋王を追い落とした後、すでに公卿となっていた武智麻呂(大納言)・房前(参議)に加え、官人の推挙により宇合・麻呂も参議となり、9人の公卿のうち4人を占め、729年から737年までの間朝廷の政治を担った。これを藤原四子政権と呼ぶ。
四子政権時代には律令財政が確立され、天平6年(734年)に官稲混合による正税が成立し、天平8年(736年)には公田地子の京進が開始された。また、京や畿内に惣管・平城京以西の道ごとには鎮撫使、のちに節度使を設置し治安維持を強化した。対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。
四兄弟は737年の天然痘の流行(天平の疫病大流行)により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。 人々は相次ぐ病死を「長屋王の祟り」と見做した。その後、四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として担うことになった。その後は、四兄弟のうち宇合の息子広嗣が740年に乱を起こし討伐された(藤原広嗣の乱)こともあり、孝謙朝に武智麻呂の子豊成、次いで仲麻呂が台頭するまで、藤原氏の大臣の不在時代がしばらく続くことになる。
藤原四兄弟の子の系統はそれぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれ、それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残している。藤原四家を参照。
奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。
天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。
天平12年(740年)8月に大宰少弐・藤原広嗣(式家・宇合の息子)が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。
しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。これに先立って天平17年(745年)頃より諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める。この謀反の動きに対する諸兄の動向は明らかでないが、諸兄は仲麻呂の台頭に対抗せずに穏やかに処したとして、関与を否定さらには奈良麻呂の動きを押し止めたとするもの、積極的な関与がありのちの讒言に繋がったとするものの双方の見方がある。後者の立場からは、天平勝宝7歳(755年)に以下開催された諸兄による橘奈良麻呂の乱の関係者の邸宅での宴が決起の勧誘・意思の疎通・謀反の具体的計画策定の場であったとし、それを裏付ける証拠として、後年、橘奈良麻呂の乱終結後に乱の未然防止を目的として官司に届け出のない官人の宴集が禁止されたことを挙げている。
5月11日:多治比国人邸、5月18日:橘奈良麻呂邸、11月28日:橘奈良麻呂邸
同年11月の聖武上皇が病気で伏していた際に、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けてしまう。これは、11月28日に行われた橘奈良麻呂邸での酒宴での発言を指すと想定されるが、上皇没後の皇嗣問題について語り合ったと考えられ、前述の謀反に関して話が及び讒言に繋がった可能性もある。この讒言については聖武上皇が取り合わなかったが、諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳(756年)2月に辞職を申し出て致仕した。
天平勝宝9歳(757年)1月6日薨去。
諸兄政権は、国力の回復のためにまず郡司定員の削減や郷里制の廃止など地方行政の簡素化を行うと同時に、東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止し、また諸国の兵士・健児を停止し公民の負担を軽減した。これらの兵士は当時軍事的緊張下にあった新羅に備えたものであったが、軍備を維持する余裕がなくなって新羅に対する強硬策は転換せざるを得なくなった。更に天平15年には農民人口の減少で荒廃した土地の再開発を促べく墾田永年私財法を発布した。併せて国司郡司による善政も督励された。また天平12年の東国行幸から17年の平城京遷都(元の平城京に戻った)まで、聖武天皇が次々に新都を建設して遷都を繰り返した彷徨五年の期間中、聖武が紫香楽宮へ行幸した際、天皇の留守を守って政治を全うすることもしばしば行った。
奈良時代に起きた内乱。藤原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された。
天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。代って政治を担った橘諸兄は軍拡政策と天然痘による社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取った[1]。 また、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。この人事は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑があったが、広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
天平12年(740年)4月に新羅に派遣した遣新羅使が追い返される形で8月下旬に帰国した。憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送った。同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集した。軍縮によって官兵の動員には時間がかかると予測した広嗣は、関門海峡を臨む登美・板櫃(豊前国企救郡)(現到津辺り)・京都(豊前国京都郡)の三郡鎮に兵を増派した。また、中央には広嗣の政治路線に同調する中臣名代・大和長岡といった実務官人は少なくなく、挙兵に応じて在京の支持勢力がクーデターに成功することに期待した。
9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。4日、朝廷に出仕していた隼人24人に従軍が命じられる。5日、佐伯常人・阿倍虫麻呂が勅使に任じられた。
朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を祈願するよう命じられた。
藤原広嗣の乱関係図→wikipedia
9月21日、長門国へ到着した大野東人は、渡海のために同地に停泊している新羅船の人員と機器の徴用の許可を求めた。 同日、額田部広麻呂が40人の兵とともに密かに渡海し、登美、板櫃、京都の三鎮を奇襲して営兵1,767人を捕虜とし、橋頭堡を確保した。
9月22日、勅使・佐伯常人、阿倍虫麻呂が隼人24人、兵4,000人を率いて渡海して、板櫃鎭に陣を構え、一帯を制圧した。
広嗣は大隅国・薩摩国・筑前国・豊後国の兵5,000人を率いて鞍手道を進軍、弟の綱手は筑後国・肥前国の兵5,000人を率いて豊後国から進軍、多胡古麻呂が田河道を進軍して三方から官軍を包囲する作戦であった。
9月25日、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきた(『続紀』)。
9月29日、「広嗣は凶悪な逆賊である。狂った反乱を起こして人民を苦しめている。不孝不忠のきわみで神罰が下るであろう。これに従っている者は直ちに帰順せよ。広嗣を殺せば五位以上を授ける」との勅が九州諸国の官人・百姓にあてて発せられた。
10月9日、広嗣軍1万騎が板櫃川(北九州市)に至り、河の西側に布陣。勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂の軍は6,000人余で川の東側に布陣した。広嗣は隼人を先鋒に筏を組んで渡河しようとし、官軍は弩を撃ち防いだ。常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめた。
常人らは十度、広嗣を呼んだ。ようやく乗馬した広嗣が現れ「勅使が来たというが誰だ」と言った。常人らは「勅使はわれわれ佐伯常人と阿倍虫麻呂だ」と応じた。すると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と言った。常人らは「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うた。広嗣はこれに答えることができず馬に乗って引き返した。
この問答を聞いていた広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ渡り、官軍の隼人が助け上げた。これを見て、広嗣軍の隼人20人、騎兵10余が官軍に降伏してきた。投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告し、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。
その後、広嗣軍は板櫃川の会戦に敗れて敗走した。広嗣は船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。広嗣は「わたしは大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋に戻されてしまった。
10月23日、値嘉嶋(現在の宇久島)に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられた。
11月1日、大野東人は広嗣と綱手の兄弟を、肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った[7]。
乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国・伊勢国・美濃国・近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。彷徨五年。
天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人・没官5人・流罪47人・徒罪32人・杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。
奈良中期のクーデタ未遂事件。745年(天平17)頃からひそかに皇嗣問題の主導権掌握を画策していた橘奈良麻呂は,757年(天平宝字元)1月に父の諸兄(もろえ)が没し,4月に素行不良で廃された道祖(ふなど)王にかわって藤原仲麻呂庇護下の大炊(おおい)王(淳仁(じゅんにん)天皇)が立太子すると,大伴・佐伯・多治比(たじひ)氏らと仲麻呂打倒をはかる。6月,光明皇太后(奈良麻呂おば)は不穏な動静を憂慮して軽挙を戒めるが,事態は急を告げた。逮捕された小野東人(あずまひと)らの自白によると,7月2日にまず田村第を急襲して仲麻呂を殺害し,大炊王を退け,ついで皇太后宮の鈴印を奪い,孝謙天皇を廃して黄文(きぶみ)王ら4王のなかから天皇をたてる計画であった。この事件に関係して,橘・大伴・佐伯・多治比氏などの多くの人々が罪におち,仲麻呂は中央政界から反対勢力を一掃し,名実ともに専制体制を確立した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
光明皇后の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭、紫微中台を組織して755年(天平勝宝7年)には橘諸兄から実権を奪い、757年(天平宝字元年)には諸兄の子橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を手中に、傀儡(かいらい)として淳仁天皇を擁立。みずからを唐風に恵美押勝と改名すると、儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、今度は孝謙上皇の寵愛を得た僧道鏡が頭角を現す。押勝はこれを除くために764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。
道鏡は、やがて765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となって、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。称徳天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、藤原百川や和気清麻呂に阻まれ、770年(宝亀元年)の称徳天皇の没後に失脚した(宇佐八幡宮神託事件)。光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。光仁天皇はこれまでの天武天皇の血統ではなく、天智天皇の子孫であった。光仁天皇は、官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、国司や郡司の監督をきびしくして、地方政治の粛正をはかった。しかし、780年(宝亀11年)では陸奥国で伊治呰麻呂の反乱がおきるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。
wikipedia 奈良時代:宇佐八幡宮神託事件と光仁天皇の項 より引用
宝亀の乱は、奈良時代の宝亀11年(780年)に、現在の東北地方で起きた反乱。現在の宮城県にあたる陸奥国にて、古代日本の律令国家(朝廷、中央政権)に対し、上治郡の蝦夷の族長であった伊治呰麻呂が起こしたもので、首謀者の名を採って伊治公呰麻呂の乱または伊治呰麻呂の乱とも呼ばれる。
宝亀11年(780年)、政府側に帰服して上治郡の大領に任じられていた「蝦夷」である伊治公呰麻呂が、覚鱉城(かくべつじょう)造営に着手するために伊治城(現在の宮城県栗原市にあった城柵)に駐留することとなった陸奥按察使紀広純およびそれに付き従っていた陸奥介大伴真綱、牡鹿郡大領であった道嶋大楯らを襲撃。紀広純、道嶋大楯の殺害に至ったのち、呰麻呂に呼応して反乱した軍勢が陸奥国府であった多賀城を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くしたものである[原典 1][9][10]。
陸奥国、出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害され、多賀城が失陥したことにより、政府による東北地方の経営は大打撃を被った。この事件に大きな衝撃を受けた政府は、呰麻呂の行動を「伊治公呰麻呂反」と記して、八虐のうち謀反にあたると断じ、国家転覆の罪に当たるとした[11]。のみならずただちに征東大使、出羽鎮狄将軍を派遣して軍事的な鎮圧に当たらしめたが、陸奥国の動乱はより深まっていき、政府と蝦夷が軍事的に全面対決する時代が到来する。にもかかわらず首謀者であった呰麻呂は捕らえられることなく、その後の記紀にも現れずに歴史の中に消えてしまっている。
欽明天皇~桓武天皇までの遷都の表を古墳・飛鳥時代の項に掲載。
2021年出題。2022年出題。
奈良,平安時代に対外防備および九州を総管するために筑前国筑紫郡 (現在の福岡県太宰府市) におかれた役所。古くから大陸との交通の要地を占め,白村江で唐,新羅の水軍に敗れた大和朝廷が大陸に対する防衛基地として創設したもの。創設年は不明であるが,天智初年には存在したと思われる。令制のもとで整備。九州,壱岐,対馬などを管轄し,外敵を防ぎ,外交を司った。帥 (そつ。長官) 以下,大少弐,大少監,大少典の四等官がおかれ,平安時代以来,帥には親王が任じられたので,権帥または大弐が長官の実務をとった。民政,軍事,外交,司法,警察権をもった西海道の独立行政府で,官衙には都府楼と呼ばれる政庁のほかに,学業院,蔵司,税司,薬司,鴻臚館 (こうろかん) ,警固所などがあった。鎌倉時代になっても名称,職員などは存続したが,鎮西探題 (→九州探題 ) がおかれると,その機能はまったく失われた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク『太宰府』)
[鴻臚館]
律令時代,外国の使節を接待した館。推古朝の難波館,持統朝の筑紫館に由来するといわれる。京都 (七条朱雀の東西) ,難波,大宰府 (福岡市中央区の福岡城址) にあった。京都の鴻臚館は渤海国使の接待用で,10世紀なかば同国の滅亡により廃絶。難波のものは西海道から入京する外国使臣用で,のち国衙に転用。大宰府のものは蕃客,遣唐使らの宿舎にもあてられた。遣唐使の廃止後は,唐商人の接待,外国人の検問,外国との貿易などの用にあてられた。律令政治の衰退によりその特質を失い,12世紀には廃絶した。 1987年福岡平和台球場の改修に際して遺構が検出され,発掘の結果,大規模な瓦葺建築址群が確認されるとともに,国産の土陶器・瓦のほか中国浙江省越州窯系の青磁,湖南省長沙窯系の褐釉陶器,白磁,イスラムのガラス・陶器類,新羅土器などの遺物が出土した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年出題。
7世紀後半の山岳修行者。本名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖として崇拝され、江戸末期には神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)の諡号(しごう)を勅賜された。多くの奇跡が伝えられるので、実在を疑う人もあるが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇3年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである。多くの伝記を総合すれば、大和(やまと)国(奈良県)葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん)(金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕した。やがて陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した。そして吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)、その他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流された。この経緯が葛城山神の使役や呪縛(じゅばく)として伝えられたものである。彼が積極的に大陸の新思想や新呪術を摂取したことは、新羅(しらぎ)や唐に往来したとする伝承にうかがうことができ、その終焉(しゅうえん)も唐もしくは虚空(こくう)に飛び去ったとされている。
[五来 重 2017年5月19日]
『五来重著『山の宗教――修験道』(1970/新版・1999・淡交社)』▽『和歌森太郎著『山伏』(中公新書)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[修験道]
日本古来の山岳信仰と密教の呪(じゅ)法・修行法が習合して成立した実践的宗教。その行者を修験者または山伏という。始祖は奈良時代の役行者とされる。平安中期には密教系の行者の中から,山々の回峰修行により霊力を強めようとする験者(げんざ)が台頭し,天台系(本山派)は聖護院を中心に,真言系(当山派)は醍醐寺三宝院を中心に活動するようになった。ともに吉野・金峯・大峰・熊野一帯を根本道場とした。鎌倉末期には宗派的にも密教から独立し,全国各地の山に修験道の道場が設けられた。そのおもなものは津軽の岩木山,出羽三山,日光二荒山,筑波山,秩父三峰山,富士山,御嶽山,立山,白山,石鎚(いしづち)山,英彦(ひこ)山などであった。《太平記》にみえる修験者の活躍はめざましい。近世に入ると,山伏の定住化が多くなり,加持祈祷(きとう)などによって修験道は民衆生活へも浸透し,成年儀礼,祭礼行事,芸能などの発達に寄与した。明治政府により廃止されたが,戦後,金峯山修験本宗,修験宗,真言宗醍醐派などの教団として復活している。
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア コトバンク『修験道』
長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡にあった奈良時代末期(または平安時代初期)の都城(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。
延暦3年(784年)11月11日、第50代桓武天皇により平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。
概要
長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40キロメートルの長岡の地[注 1]に遷都して造営され[注 2]、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。また、造営地の南東には当時巨椋池が存在し、ここも物流拠点として期待された。
発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。
桓武天皇は自らの宮殿を街より15メートルほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。
『長岡京』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC