皇室・皇族
ここでは日本歴史的な皇室・皇族項目を扱う
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
ここでは日本歴史的な皇室・皇族項目を扱う
《「てんおう」の連声れんじょう》
1 日本国憲法で定められた日本国および日本国民統合の象徴。その地位は国民の総意に基づくとされ、一定の国事行為だけを行い、国政に関する権能をもたない。皇位は世襲とされ、男系の男子によって継承される。明治憲法では、国の元首として統治権を総攬そうらんする地位にあった。
2 その世界・分野で強大な権力をもつ人のこと。「財界の天皇」
[補説]もと、中国から取り入れた称号で、古く大和朝廷時代の大王おおきみが用い、「すめらみこと」「すべろぎ」などと訓じた。奈良時代から平安時代にかけて政治・祭祀の頂点として絶大な権力を有したが、摂関政治、院政、武家の台頭により次第に政治的な権能を失う。室町時代には廃絶する宮中祭祀も多く、その地位は著しく低下したが、江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古、明治憲法における天皇制へとつながった。
出典 小学館デジタル大辞泉
コトバンク「天皇」項より
『古事記』の開化天皇紀に穂別君の祖として「次朝廷別王」と記されたのが現存文献で確認できる初出で、『日本書紀』では崇神天皇紀《崇神天皇60年(38年)七月己酉条》「聞神宝献于朝廷」まで遡って記され、また、「朝庭」が当てられたものでは、景行天皇紀《景行天皇51年(121年)八月壬子条》「則進上於朝庭」がある。
『日本書紀』用明天皇紀《用明天皇元年(586年)五月条》に「不荒朝庭」とあるのは実在する場所を推測させる具体的な記述であるが、推古天皇紀で「朝庭」または「庭」として度々言及され、十七条憲法の官吏の出退について説かれた8条に「群卿百寮、早朝晏退」(官吏は早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)とあって政務を執る場所として明確な推古天皇の小墾田宮が発掘調査から実在が裏付けられた最古の「朝庭」である。
「朝廷」で執り行われたのが朝政と朝儀である。
朝政は、天皇が早朝に政務をみる「あさまつりごと」として始まり[6]、後に転じて、朝廷の政務一般を指す「ちょうせい」となった[7]。
「あさまつりごと」については「朝政」を、「ちょうせい」については「公事#政務としての公事」を参照
朝儀とは、さまざまな公の儀式の総称であり、天皇即位儀、元日朝賀、任官、叙位、改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心とする儀式と、節会や外国使への賜饗などの饗宴を中心とする儀式とがあった。
日本の皇室から、神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族を分類した用語。弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』で、天津神・国津神の子孫を指す神別、朝鮮半島から渡来した人々の子孫を指す諸蕃とともに用いられた。また皇別の分類は明治時代の華族の宗族制度でも用いられた。
弘仁5年(814年)に行われた『新撰姓氏録』の最初の奏進の際には「神別・皇別・諸蕃」の順となっていたが、翌年に再度奏進された際には「皇別・神別・諸蕃」の順となった。関晃は、当時皇孫よりも天神の子孫を尊いとする考えが根付いていたからではないかと見ているが、佐伯有清はあまり大きな意味はないとしている。『新撰姓氏録』では、335の氏族が皇別氏族としてあげられている。皇別の氏族の出であると偽ったものも存在しており、吉田連は渡来人系の家系であったが、孝昭天皇の子孫が朝鮮半島に渡り、その末裔であると主張して皇別氏族となっている。
平安時代には財政や後継者争いの防止の観点から現天皇と血筋が遠くなった傍流の皇族や、天皇の子供でも母親の身分が低いものに姓を与え、臣籍降下させる例が多くなった。弘仁5年(814年)、嵯峨天皇の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられた。これら源氏の賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた。これらの源氏では大臣などを務めたものもいるが、3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、完全に没落するかしかなかった。上級公家として存続したのは「御堂末葉」、すなわち摂関家の一門と認識された村上源氏師房流など僅かな例しか存在しなかった。
日本の嵯峨天皇以降、臣籍へと降下し「源(みなもと)」の本姓を受けた皇子や皇孫の氏族。
姓(カバネ)は朝臣(源朝臣(みなもとのあそん))。新撰姓氏録や華族の宗族制度における分類は皇別。
皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に「源」の賜姓を受けたもので、嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏から、江戸時代に成立した正親町源氏に至るまで数百年間にかけて二十一の系統(二十一流)があるとされているが、文献によっては源氏二十一流に含まれない淳和源氏(淳和天皇の子孫が源姓を与えられたものなど)が存在することを明記しているものもある。姓の代表的な例として、平氏・藤原氏・橘氏と源氏は、「源平藤橘」(四姓)と総称されている。
多くの源氏は一代・二代のうちに朝廷で高位を占めることはなくなったが、村上天皇の子孫である村上源氏の源師房流(中院流)は上流貴族の地位を占め続け、建久七年の政変で摂関家を越える権力を手にした源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房、明治政府の重鎮となった岩倉具視を出している。このほか宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も堂上家として存続している。
また源氏の子孫の一部は受領・在庁官人となり、土着して武士化した。特に清和源氏源経基流河内源氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を出した。さらに、河内源氏の流れを汲む有力氏族足利氏の足利尊氏が室町幕府を開いたことで、武家の棟梁と認識されるようになった[注釈 1]。江戸幕府を開いた徳川家康を出した三河松平氏なども河内源氏後裔を称している。
代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われている。
飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)および葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)を祖として興った皇別氏族。姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。
平安時代中期まで複数の議政官を輩出したが以降は振るわず、中世以降の武家政権では武士にその姿を変えていった。橘姓を称した武家としては、鎌倉幕府創設期に源頼朝の側近となった橘公長・公業親子や、南北朝時代に活躍した楠木氏などが著名である。
院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)とは、平安時代初期(8世紀末~9世紀ごろ)、天皇権力と結びついて勢力を強めた少数の皇族・貴族の総称。
「院宮王臣家」の「院」とは太上天皇、「宮」とは三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・東宮(皇太子)、「王臣家」とは親王・内親王などの皇親や、おおむね五位以上の公家をそれぞれ指している。
平安時代になると公地公民制は事実上崩壊しており、公営田や官田などの直営田や、諸司田・勅旨田・賜田などの私有地が増大していた。院宮王臣家は下級官人を家人化し、有力農民を保護することで、これらの私有地の集積を進めていった。この動きは、荘園における初期荘園から寄進地系荘園への移行を如実に表すものである。
なお、類した表現として「権門勢家」があるが、これは院宮王臣家だけでなく、宗教勢力や武家勢力をも含む上位概念である。