古墳・飛鳥時代
平安京遷都までの遷都年表付き
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
平安京遷都までの遷都年表付き
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
コトバンク、Wikipediaを引用しています。
(平成30年(2018年)日本歴史出題に関連して)
古代の宮都(ユネスコ世界文化遺産暫定リスト「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」)
2006年に文化庁が世界遺産候補地を公募したことをうけ、11月に奈良県および関係自治体が「飛鳥・藤原-古代日本の宮都と遺跡群」として名乗りを上げ、翌2007年1月23日に富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県)、富士山-信仰の対象と芸術の源泉(静岡県・山梨県)、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(長崎県・熊本県)とともに追加申請対象に決まり、1月30日に暫定リストに掲載された。
2020年3月30日、奈良県は遺産価値を説明した推薦書素案を文化庁に提案したことを明らかにしたが(27日提出・30日受理)、新型コロナウイルス感染症の流行の影響で国内候補地の選定が行われないことになった。2021年3月30日に改めて素案を提案するも文化庁が委任する諮問機関の文化審議会が「価値の証明が不十分である」として正式推薦候補にはなれず(この時は佐渡島の金山を選定)、次いで2022年6月29日に2024年審査候補として再提案したが、2023年審査予定だった佐渡金山が書類不備のため1年順延となり、2022年開催予定であった第45回世界遺産委員会がロシアによるウクライナ侵攻で開催未定となったこともあり(委員会開催国がロシアだった)、現時点では2025年の本審査を目指している。なお、2020年の推薦書素案提案以来、正式推薦の座を巡って彦根城と競合している(同年から推薦は一国一件となった)。
[構成遺産] 特記のないものはすべて国指定の史跡であり、明日香村、桜井市、橿原市の1村2市に所在する。2022年現在で20ヶ所から構成される。以下、各自治体における掲示順位は推薦書原案に掲載されている順番に倣っている。
明日香村
飛鳥宮跡 伝飛鳥板葺宮(天武天皇・持統天皇二代)・飛鳥京跡苑池(史跡・名勝)・飛鳥水落遺跡・酒船石遺跡・飛鳥寺跡・橘寺境内…境内の五重塔跡、中門跡、回廊跡などの遺蹟・川原寺跡・檜隈寺跡・石舞台古墳(特別史跡)・牽牛子塚古墳・大官大寺跡・天武・持統天皇陵(宮内庁所管)・中尾山古墳・キトラ古墳(特別史跡)・高松塚古墳(特別史跡)
桜井市
山田寺跡(特別史跡)・橿原市・藤原宮跡(特別史跡)、藤原京朱雀大路跡・菖蒲池古墳・本薬師寺跡(特別史跡)
大和三山(名勝)
天香具山・畝傍山・耳成山
追加:
近江神宮と天智天皇 <平成30年(2018年)の問題>
「秋の田の かりほの庵(いお)の 苫をあらみ わが衣手は つゆにぬれつつ」
意:秋に刈り取った稲で編んだ菰(こも)で作った臨時の小屋の菰(=苫)の目が粗いので、私の衣の袖は梅雨に濡れていく
(解釈については、「長岡京小倉山荘公式ブランドサイト」のちょっと差がつく『百人一首講座』などが面白かったです。)
天智天皇は、626年誕生~672年崩御(在位は668年~672年)、第38代天皇。諱は葛城皇子。第34代舒明天皇と第35代37代皇極(斉明)天皇の長男。舒明天皇の息子としては次男に当たる。長兄の娘の倭姫王を皇后としている。皇后との間に皇子女はない。諱は葛城皇子だが、一般に中大兄皇子(2番目大兄(皇太子級の)皇子の意味)として知られる。
中臣鎌足らと組み、乙巳の変(大化の改新)で蘇我氏を滅ぼし、豪族の寄り集まりの政治から皇室中心の中央集権国家の基礎を築いた。ながらく皇太子のまま(理由はまだ明らかになっていない。蘇我氏からの武力による政権奪還の汚名を払拭するためや百済滅亡の危機のための政治不安定のためとも言われている)称制(即位せずに政務をとること)したが、白村江の戦(663年)で大敗した後、667年に豪族たちの反対を押し切って近江大津宮へ強引に遷都し、ようやく遷都した。近江大津宮には諸官庁があり、各豪族が自宅で政務を取っていた飛鳥の宮々とは一線を画していたと言われている。
また、朝鮮半島動乱の折から、国防政策に重点を置き、水城・烽火・防人を設置した。
日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制をとるための土台を築いた。(取り残しのない税金)
天智天皇10年に弟の大海人皇子(のちの天武天皇)に後事を託そうとするも皇子が辞退して吉野へ蟄居したため、息子の大友皇子を皇太子とした。
しかし、天智天皇の死後すぐに大海人皇子が兵を起こし(壬申の乱(672年))、大友皇子(明治時代に第39代弘文天皇を追贈)を討って、第40代天武天皇となった。
近江神宮は、1940年(昭和15年)に皇紀2600年を記念して作られた。祭神は、天智天皇。
『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会などが開催されているように、百人一首・競技かるたとのかかわりが深い。競技かるたを題材にした漫画・テレビアニメ・映画『ちはやふる』の舞台ともなった。
『飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E8%97%A4%E5%8E%9F%E3%81%AE%E5%AE%AE%E9%83%BD%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E9%96%A2%E9%80%A3%E8%B3%87%E7%94%A3%E7%BE%A4
参考:『飛鳥・藤原の宮都を世界遺産に』世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会
↑スライドしてください。
主な組み合わせ(試験対策) <平成30年(2018年)の問題用の参考表>
天智天皇-近江大津宮
天武天皇-飛鳥浄御原宮
持統天皇-藤原宮
元明天皇-平城宮(平城京)
桓武天皇-平安宮(平安京)
西暦250年~西暦538年(Google Art & Cultureより)
古墳時代(こふんじだい)とは、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代、3世紀中頃から7世紀末を指す。『日本書紀』によると、応神天皇は行宮を難波大隈宮とし、大王(おおきみ)と呼称された倭国の首長である仁徳天皇は都を上町台地の難波(なにわ:現在の大阪市)に定め宮居を難波高津宮とした。国内流通の中心である住吉津や難波津などが開港し、倭国が統一していった時代とされる。
ほぼ同時代を表す「大和時代」は『日本書紀』や『古事記』による文献上の時代区分である。
日本書紀によると、この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立したとされる。
『古墳時代』Wikipedia
『古墳』Wikipedia
古墳とは
墳丘をもつ墓が知られていたより古い時代(弥生時代)にも存在することが考古学の発展によって判明して以来、「前方後円墳出現以降の、墳丘をもつ古い墓」を指す語に変わり、弥生時代に続く古墳築造の隆盛期を「古墳時代」と呼ぶようになった。現在の日本史では、一般的に「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓/高塚の墳墓」を「古墳」と呼び、他方、弥生時代の墳丘墓は「墳丘墓」、奈良時代の墳丘墓は「墳墓」、中世の墳墓は「中世墳墓」、近世の墳墓は「近世墳墓」と呼んで、それぞれに区別する。
日本の古墳には、基本的な形の円墳・方墳を始め、長方形墳、六角墳、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)・上円下方墳・双方中方墳(明合古墳)・帆立貝形古墳(乙女山古墳)などの種類がある。また、前方後円墳・前方後方墳・双円墳(金山古墳)・双方墳(二子塚古墳)などの山が2つある古墳もある。主要な古墳は、山が2つあるタイプの古墳であることが多い。その他、墳丘を石で構築した積石塚、石室に線刻、絵画などを施した装飾古墳、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(高松塚古墳・キトラ古墳)、埋葬施設の一種である横穴などがある。
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。
高塚山1号墳の石室/元は兵庫県神戸市垂水区多聞町に分布する高塚山古墳群に属していた古墳の石室で、西神中央公園(神戸市西区糀台6丁目所在)に移されたもの。
竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑/墓壙;ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間は無い。
横穴系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が造られる。横穴式石室・横口式石槨などがある。横穴式石室は、通路である羨道部と埋葬用の空間である玄室部をもつ。
日本の正史は、8世紀に編纂された『古事記』(712太安万侶・稗田阿礼)『日本書紀』(720舎人親王)以前にも6世紀編纂とされる『帝紀』『旧辞』、620年編纂とされる『天皇記』『国記』(帝紀・旧辞・天皇記・国記は現存せず、日本書紀などでの引用のみ)などで文字でまとめられているが、それ以前に文字資料は無く、中国の正史に記載のある倭国関連の資料に頼らざるを得ない。
しかし、中国の正史では、金印で有名な漢委奴国王が57年に後漢に使者を送り、光武帝から金印を授けられたり(『後漢書東夷伝』)、239年に邪馬台国が魏に使者を送り、親魏倭王の号を受けたりした後、讃珍(弥)済興武(『宋書』『梁書』)(それぞれ日本書紀の応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇と比定されている(倭の五王対照比例表の項を参照))が、5世紀から継続的に中国に貢物を持って参上し、官爵を求めたという記述があるまでの間、すなわち4世紀の倭について記述された歴史書がないために、4世紀の日本を『空白の4世紀』と呼ばれることがある。
おそらく、4世紀の中国は、五胡十六国・南北朝時代とよばれる動乱の時代に突入しており、統一国家がなかったことが要因とみられている。
なお、考古学的な調査では4世紀初め頃から福岡県の沖ノ島で祭祀が行われてだろうことが明らかになっている。
4世紀の日本は古墳時代に当たり、先ごろ巨大長剣や盾形銅鏡が発見された富雄丸山古墳などの遺物の研究で今後4世紀の歴史についても明らかにされていくと考えられている。
参考:『倭の五王の時代』(藤井寺市HP文化財保護課 コラム古代からのメッセージ) https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/koramukodaikaranomemessezi/wanogoozidai/index.html
参考:『邪馬台国』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD#
参考:『倭の五王』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B#
参考:『日本書紀』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80#
参考:『国立公文書館創立40周年記念貴重資料展Ⅰ 歴史と物語 資料一覧』(国立公文書館) https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/data.html
参考:『』
『宋書』『南斉書』『梁書』など中国の六朝時代の史書に記された倭国の讃 (さん) ,珍 (ちん) ,済 (せい) ,興 (こう) ,武 (ぶ) の5人の王をさす。 413年倭王が東晋へ,425年倭王讃が宋へ,438年倭王讃の弟珍 (『宋書』は珍,『梁書』は弥とする) が宋へ,443,451年倭王済が宋へ,462年倭王済の子興が宋へ,478年倭王興の弟武が宋へというように,5世紀に東晋,宋へ使いを送った。天皇の名は中国風に,字音または訓をかりて1字に表わしたものである。すなわち武は第 21代に数えられる雄略天皇,興は第 20代に数えられる安康天皇,済は第 19代に数えられる允恭天皇とすることは通説となっている。珍は第 16代に数えられる仁徳天皇,あるいは第 18代に数えられる反正天皇とする2説があり,讃は第 15代,第 16代,第 17代に数えられる応神,仁徳,履中の諸天皇をあてる3説がある。毎回,使者は倭の産物を献じているが,遣使の主要な目的は朝鮮半島に勃興してきた高句麗に対抗するため,倭国の地位および大和朝廷の朝鮮半島支配を中国に承認させ,それによって半島における立場を強化しようとしたものであった。倭王武は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号を宋から与えられた。『宋書』の蛮夷伝にある武の 478年遣使の際の上表文に,「東は毛人 55国を征し,西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって,大和朝廷の国土統一,半島遠征の状況過程を伝えている。 413年に始った倭王の遣使は 502年梁へのものを最後として 600年の隋との再開までとだえた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
倭の五王コトバンクより引用
讃(421年遣使)(425年遣使)------応神天皇、または、仁徳天皇、または、履中天皇
珍(讃の弟)(438年遣使安東将軍・倭国王 )-----反正天皇(または、仁徳天皇)
済(443年遣使(安東将軍・倭国王))(451年遣使により使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 を加号された。安東代将軍)(460年遣使)-----允恭天皇
興(済の世子)(462年遣使安東将軍・倭国王)(477年 遣使)-----安康天皇
武 (興の弟)(478年使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王 )(479年南斉から鎮東大将軍 )(502年征東大将軍 ) -----雄略天皇
倭の五王コトバンク デジタル大辞泉・日本大百科全書(ニッポニカ)による
仲哀天皇・神功皇后---応神天皇---(息子)仁徳天皇---(息子)履中天皇---(仁徳天皇息子)反正天皇---(仁徳天皇息子)允恭天皇---(息子)安康天皇---(允恭天皇息子)雄略天皇
2025
5世紀後半 前方後円墳 墳丘長120m
最初に造られた大型古墳
埼玉古墳群で最も古く、最も北に位置する古墳です。
前方部は土取りで消失していましたが、発掘調査を基とした復原整備(1997年~)により、当時に近い形がご覧いただけます。墳丘の全長は120mで、周囲には二重の長方形の周堀がめぐります。墳丘、中堤のそれぞれ西側に、造出しという張り出し部が設けられています。
墳丘の頂上に登ることができ、復原された礫槨とともに、周囲の古墳を見渡せます。
世紀の発見 金錯銘鉄剣
昭和43年の発掘調査により、後円部から2基の埋葬施設が見つかりました。
そのうち礫槨からは、鏡や武具、馬具とともに、115の文字が刻まれた鉄剣が出土しました。金錯銘鉄剣と呼ばれるこの剣は、古墳時代の刀剣の銘文としては最も長文で、その内容も古代史を研究する上で重要な情報が含まれています。稲荷山古墳の埋葬施設から出土した遺物は、その学術的・歴史的価値の高さから、一括で国宝に指定されています。
・後円部墳頂から2基の埋葬施設が発見
・115文字が刻まれた金錯銘鉄剣が出土
・前方部は発掘調査を基に復原整備
『稲荷山古墳』さきたま史跡の博物館 https://sakitama-muse.spec.ed.jp/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
稲荷山古墳(いなりやまこふん、埼玉稲荷山古墳)は、埼玉県行田市埼玉にある古墳。形状は前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。国の特別史跡に指定され(特別史跡「埼玉古墳群」のうち)、出土品は国宝に指定されている。
金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が出土したことで知られる。
概要
埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳である。造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造された。
稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇の陵に治定)と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳、鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。埼玉古墳群以外に大仙陵古墳を縮小した形で造営された古墳としては、奈良県の川合大塚山古墳や岡山県の両宮山古墳などが挙げられる。
規模・形状
墳丘長120.0メートル
後円部径62.6メートル・高さ10.4メートル
前方部幅82.4メートル・高さ9.4メートル(推定)
後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。
前方部長軸は富士山に向いている。
墳丘は二段に築成されており、葺石が使用された形跡はない。方形をした二重の周濠を持ち、濠の深さは築造当時の地表面から約1.8メートルと推定されている。周濠は通常は空で、水位が上がったときに水が溜まったものと考えられている。
後円部の円頂には埋葬施設の復元模型があり、階段で登れば見ることが出来る。ちなみに、埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。
前方部分は、1937年(昭和12年)に周辺の沼地の干拓工事の際に埋め立て用の土として取り崩された。その後1968年(昭和43年)に埋葬施設の発掘調査、1973年(昭和48年)には周堀の調査が行われ、1976年(昭和51年)に内堀の一部が復元された。しかしこの状態では古墳の保存状態が悪く、見学者には墳丘の形などについて誤解を与える可能性があったが、2003年(平成15年)の復元工事でほぼ修復された。
もともと墳頂部に稲荷社が祀られていたのでこの名があるが、水田中にあったので土地の人は「田山」とも呼んでいた。
晴れた日には100km先の富士山を墳頂部から真正面に眺めることができる。
鉄剣
1968年、規模の小さい愛宕山古墳を調査する予定だったが、急遽、半分壊れていた稲荷山古墳を調査。この発掘調査において、壊れていたために盗掘を免れていた後円部分の礫槨(れきかく)から金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が発掘された。1978年、この鉄剣の保存処理を行うために、鉄さびを落とす作業中、金色に光る部分を発見。X線検査をしたところ、115文字の金象嵌の銘文が表されていることが判明し、1983年、他の出土品とともに「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として国宝に指定された。
副葬品
埋葬施設は、礫槨(れきかく・第一主体部)と粘土槨(ねんどかく・第二主体部)の二つがある。礫槨からは、金錯銘鉄剣のほか、画文帯神獣鏡1面、勾玉(まがたま)1箇、銀環2箇、金銅製帯金具1条分、鉄剣1口、鉄刀5口、鉄矛2口、挂甲小札(けいこうこざね)一括、馬具類一括、鉄鏃一括などが出土した。粘土槨は、盗掘されていたが、鉄刀、挂甲、馬具などの断片が検出された。
出土品一括は「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として、1981年に重要文化財、1983年に国宝に指定された。以下は国宝指定物件の明細である。出土品の名称・員数は国宝指定時の官報告示(昭和58年6月6日文部省告示第81号)に基づく。
参考:『稲荷山古墳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3_(%E8%A1%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)
埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群内にある前方後円墳。全長120m。1968年後円部墳頂の礫槨(れきかく)墓から鏡,銀環,帯金具,鉄剣等の武器,馬具などの副葬品が出土。1978年保存修理中に,鉄剣の表裏にわたり115字の金象嵌(ぞうがん)の銘文が発見された。銘文中に〈辛亥年〉〈獲加多支鹵大王〉の文字があり,辛亥年は471年,獲加多支鹵(わかたける)は雄略天皇と解読された。乎獲居(おわけ)が杖刀人首(じょうとうにんのおびと)(武官の頭)として,大王に仕えたとの記述がある。これによって熊本県江田船山古墳の銀象嵌銘大刀にある〈大王〉も獲加多支鹵と判明した。大王の称号の存在,大和政権と地方豪族の関係など日本古代史解明への貴重な発見となった。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
稲荷山古墳コトバンクから引用
稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。
所有者は日本国(文化庁)で、埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。(約73.5cm)
銘文発見の経緯
1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。
当初、古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。
銘文の内容
(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
漢字六書の仮借から銘文の漢字一字を読み一字とした場合、書かれている文字に読点を打って解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」
特色
115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。
また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌銘大刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「獲□□□鹵大王」 を「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]。
金象嵌の材質
2000年と翌2001年に実施された金象嵌の材質調査(蛍光X線分析)によって、象嵌に使われている金には銀の含有量が少ないもの(10%ほど)と多いもの(30%ほど)の2種類あることが判明した。その2種類の金は、表は35字目、裏は47字目から下の柄側には銀の含有量が少ないもの、切先側には銀の含有量が多いものが使われている。2種類の純度の違う(結果として輝きの異なる)金を鉄剣銘文の上下で使い分けた理由は不明である。
考証
年代
「辛亥年」は471年が定説であるが一部に531年説もある。
通説通り471年説をとると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなり21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となっている。
田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。
オホヒコ
銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。
記された人物の関係について
一般的に、「児〇〇」はその前の人物の子供であることを示しているとされているが、『海部氏系図』が親子関係に拘らず、国造や祝の地位を継承した族長を「児〇〇」と記していることから、鉄剣の銘文に記された人物達は親子関係ではないとする説も存在する。
「杖刀人」について
乎獲居臣の「杖刀人首」とは「上番先で組織された杖刀人の中での首」ということであり、出身母体の長を意味するわけではない。上述の「杖刀」に関する訓の比定(タチワキ)から後の律令制時代における武官の一つの「帯刀舎人(タチワキトネリ)」の前身とする説がある。
復元
2007年(平成19年)、メトロポリタン美術館特別顧問の小川盛弘、刀匠の宮入法廣らが鉄剣の復元を企画。刀身彫刻師、研師など各分野の職人が賛同し、同年2月に制作を開始した。しかし、鉄の素材や鍛えの回数、象嵌、砥石などで問題が噴出し、試作や実地調査を繰り返して当時に近い物を割り出すなどの末に、ようやく2013年(平成25年)6月に完成、11月13日に埼玉県に寄贈した。11月14日(埼玉県民の日)から、埼玉県立さきたま史跡の博物館で特別公開された。
『稲荷山古墳出土鉄剣』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3
2025
朝鮮半島や日本列島では、中国・後漢(AD.8~200)で成立した銘文様式を踏襲しながら、各地域の言語表現を採り入れて、新しい銘文様式を生み出しています。本銘文は、文中に独自の歴史的記述と古代日本語による人名表現を含み、5世紀の世界観や社会の様子が窺えて重要です。
文化財指定
国宝
員数
1本
作者
時代・世紀
古墳時代・5~6世紀
制作地
出土地
熊本県和水町 江田船山古墳出土
品質形状
法量
現存長90.9 現存刀身長85.3 最大幅(鎺本部)4.0 最大厚(関部)1.0 茎部最大厚0.8
銘文等
寄贈者
機関管理番号
J-573
分類
考古
種別
考古 > 材質 > 金属
2025年7月8日(火)から2026年2月1日(日)まで平成館 考古展示室で展示
『銀象嵌銘太刀』東京国立博物館 https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J573
指定名称)肥後江田船山古墳出土品 (江田船山古墳出土品 のうち) 熊本県和水町 江田船山古墳出土 1本
古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館 J-573
江田船山古墳は菊池川中流の左岸台地上に展開する清原(せいばる)古墳群の中心的な前方後円墳で、墳丘の長さはおよそ62メートル。5世紀後半から6世紀初めに築造されたと考えられている。明治6年(1873)に、後円部の石棺式石室(横口式家形石棺ともいう)から豪華な副葬品が一括して出土した。
副葬品は著名な銀象嵌銘のある大刀をはじめとする刀剣や、甲冑などの武器・武具類、金銅製冠帽や沓、金製の耳飾、玉などの装身具、6面の銅鏡、馬具、陶質土器に大別でき、これらの副葬品は複数回の埋葬に伴なって埋納されたと考えられている。
大刀の銀象嵌銘は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣(国宝)の金象嵌銘とともに、本格的な記録的文章としては日本列島で書かれた最古の例である。銘にある「獲□□□鹵大王」を雄略天皇とする説が有力で、固有名詞や職掌を示すと見られる表現などから、5世紀後半の王権と地方豪族の関係や王権の組織を知るうえで、きわめて貴重な資料となった。
金製や金銅製の装身具は、豪華であるばかりでなく、朝鮮半島から輸入されたと考えられるものが多く、埋葬された人物たちが、日本列島と朝鮮半島との関係において、重要な役割を担っていたことが想像される。
写真あり
銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)は、1873年に熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した、銀象嵌による75文字の銘文が刻まれた大刀(直刀)である。発掘後、他の副葬品とともに博覧会事務局に買い上げられ、現在は博覧会事務局の後身にあたる東京国立博物館が所蔵している。製作は5世紀後半から6世紀初頭であると考えられ、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣とともに、銘文は古代日本の数少ない文献資料であり、日本において表記や表現をするために文字の使用が始まっていたことを示している。また銀象嵌銘大刀の銘文には作刀方法に関する記述があり、古代の技術について知ることができるため技術史的にも重要な資料である。
銀象嵌銘大刀を始めとする江田船山古墳の出土品は、古墳からの代表的な出土品として古墳時代の研究に多大な寄与をしてきていることが評価され、1964年に重要文化財、翌1965年には国宝に指定された。
形態
銀象嵌による75文字が刻まれている銀象嵌銘大刀の棟
銀象嵌銘大刀は大刀の形態としては直刀であり、茎の部分は大半が失われている。現存の状態での全長は90.9センチメートル、刀身部の全長は85.3センチメートル、刀身部の最大幅は4.0センチメートル、刀身の厚み(棟幅)0.8センチメートル、現存している茎の長さは約6センチメートル、総重量は1975グラムである。刀身の特徴として古墳から出土する刀剣類の中でも大型であり、刀身の幅も広いことが挙げられる[17]。なお錆の状態は安定していて刀身の保存状態は良好であるが[3]、切先部には欠損がみられ、刃の部分は著しく刃こぼれを起こしている。刀身の切先寄りと茎には木質の付着がみられ、銀象嵌銘大刀には木製の鞘と柄があったものと考えられている。
銀象嵌銘大刀のくり込みと鎺本孔。鎺本孔に部分には花の文様が銀象嵌で描かれている。
江田船山古墳からは合計14本の大刀が出土していて、銀象嵌銘大刀と同タイプのものと考えられる直刀が2本出土している。同タイプの直刀の形態から銀象嵌銘大刀の茎には目釘孔が3つ開けられていたものと見られている。茎部の刀身に近い部分には半円形に小さく抉られたくり込みがあり、同型の直刀2本も同じ箇所に方形の小さく抉られたくり込みが見られる。また鎺(はばき)の部分には刀身の半ばまで掘られた鎺本孔があり、孔の周囲は12弁の花の文様が銀象嵌されている。同型の直刀2本にも鎺本孔があり、こちらは刀身を貫通している。茎部の刀身近くのくり込みや鎺本孔があることから、実用性や大刀を外装した状態を想定すると銀象嵌銘大刀は儀仗用の性格が強い直刀であったと見られている。
刀身の切先から根元にかけての棟の部分には、銀象嵌による75文字の銘文がある。象嵌自体が脱落してしまっている部分があるため、銘文中には読めない部分や読みにくい文字もある。刀身の棟幅は先端部が細い以外、約0.8センチメートルでほぼ一定であり、そこに字の縦の長さ最小1.88ミリメートル、最大9.25ミリメートル、横幅は最小3.75ミリメートル、最大で6.31ミリメートルの漢字が刻まれている。字の大きさは均一ではなく、特に銘文の最終部に当たる71から75字目の文字が大きくなっている[28]。漢字の書体は隷書と楷書が混交していると考えられている。また銀線の幅は字によって違いはあるものの約0.3ミリメートルから約0.5ミリメートルである。
1993年に実施された修理保存事業の際に、東野治之により釈読された銘文は
台天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无(利)弖、八月中、用大鐵釜、 并四尺廷刀、八十練、(九)十振、三寸上好(刊)刀、服此刀者、長壽、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太(和)、書者張安也
となっている。ただし引用元では、4文字目「獲」は「⺾」の無い異体字、()内の字は□に対するルビ書きで示されている。なおこの釈読には批判もあり、読めない字が存在し、難解な部分もあって釈読は確定していない。
前述のように鎺本孔の部分には12弁の花の文様が銀象嵌によって施されていて、花の文様から切先側には全長約3.95センチメートルの馬の銀象嵌による文様がある。そして馬の象嵌から見て刀身の反対側には鳥と魚の銀象嵌による文様が施されている。鳥の文様は全長約3.55センチメートル、魚の文様は全長約3.25センチメートルである。また馬、鳥と魚の文様は刀身表裏のちょうど同じ場所に施されていて、作成前に丁寧な割付作業が行われたと考えられている。
江田船山古墳
銀象嵌銘大刀が出土した江田船山古墳は熊本県玉名郡和水町にある前方後円墳である。和水町の菊池川東岸の清原(せいばる)台地上には3基の前方後円墳と1基の円墳から構成される清原古墳群があり、江田船山古墳は清原古墳群の古墳のひとつである。なお清原古墳群は5世紀半ば頃から6世紀初頭にかけて築造されたと考えられており、江田船山古墳は3基の前方後円墳の中で2番目に築造されたとみられている。古墳の規模は墳丘長約62メートル、前方部の幅約40メートル、後円部の幅約41メートルであり、墳丘を約7.5メートルの周溝が巡っている。
埋葬施設として後円部中央に家形石棺があり、現状では墳丘北側のくびれ部分に開口している。江田船山古墳は石室を持たず家形石棺が直葬されており、石棺の横面には入口が設けられ、扉石で入口を閉じるようになっていて追葬が可能な石棺である。家形石棺の中から銀象嵌銘大刀を始めとする多くの副葬品が出土した。
副葬品の中には製作年代が異なるとみられるものがあり、また6体の人骨が埋葬されていたとの言い伝えもあり、追葬が可能な家形石棺に複数回の埋葬が行われたと考えられている。後述のように1873年の出土後、副葬品は散逸を免れて保存された。しかし出土時の詳細な状況がわからず、出土状況から副葬品を被葬者や年代ごとに区分する手がかりが得られないため、評価が困難になっている。銀象嵌銘大刀も初葬時に副葬されたものであるのか、追葬時のものであるのかについての議論が続いている[6]。なお、副葬品の内容から被葬者は朝鮮半島と深い繋がりがあると推定されており、中でも百済との密接な関係があったことが指摘されている。
江田船山古墳出土の大刀
江田船山古墳からは前述のように14本の大刀が出土しており、うち銀象嵌銘大刀を含む3本は同タイプのものとみられている。この3本は形態的に類似点が多く、同一時期に同一の工房で作られたものであると考えられている。他の大刀の中には銀を環頭に被せた銀装環頭大刀、銀象嵌で環頭に龍の模様を刻んだ金銀装龍文環頭大刀の2本の装飾大刀がある。これまでの研究では銀装環頭大刀、金銀装龍文環頭大刀が古く、銀象嵌銘大刀など3本の同タイプの大刀が新しいと考えられていたが、最近の研究ではむしろ銀象嵌銘大刀などの方が古く、銀装環頭大刀、金銀装龍文環頭大刀の方が新しく、6世紀代のものなのではとの説が出されている[51]。他の9本の大刀は細身の刀身で、しっかりとした造りの茎を持つタイプの大刀である。
発掘と収蔵の経緯
銀象嵌銘大刀が発掘されたのは1873年1月4日のことと伝えられている。現地での言い伝え、そして白川県から司法省に報告された公文書によれば、1873年1月1日未明、玉名郡内田郷江田村に住む池田佐十の初夢に神が現れて、池田佐十の所有地である山を掘れば宝物が出てくるとのお告げがあったため、1月4日になって掘ってみたところ石棺が現れ、石棺の入口を開けると数多くの宝器が出てきた。
池田佐十は石棺内から取り出した宝器を白川県庁に提出した。明治維新後、新たに制定された遺失物に関する法律によれば[注釈 9]、埋蔵物を取得した場合にはまず官庁に提出し、その上で地主と折半する規定となっていた。しかし白川県は内容的に明らかに古い時代の遺物であり、民間の所有に任せられるものではないと判断したため、処理方法を司法省に伺いを立てることにした。なおこの司法省への伺いの時点で、取り出された遺物の中に棟の部分に約70の小さな文字が刻まれた太刀[注釈 10]、すなわち銀象嵌銘大刀のことが報告されている。
結局、江田船山古墳から掘り出された遺物は大蔵省に差し出されることになった。1873年5月に大蔵省の指示により博覧会事務局に提出され、6月29日には博覧会事務局が80円で買い上げる手続きを行った。この結果、遺物は散逸することなく博覧会事務局の後進となる帝室博物館の所蔵となり、東京国立博物館に引き継がれることになった。その後、江田船山古墳から出土した副葬品は一括して1964年に重要文化財、翌1965年には国宝に指定された。江田船山古墳出土の副葬品は盗掘や散逸することなく一括して保存され、銘文が刻まれた銀象嵌銘大刀もそのまま出土しており、古墳からの代表的な出土品として古墳時代研究に多大な寄与をしてきていることが評価され、国宝に指定されることになった[65]。
戦前の研究史
東京国立博物館所蔵の資料の中に、「明治25年(1892年)検査」のラベルが添付されている、「肥後國玉名郡内田郷江田村掘出古刀銘」と題した銀象嵌銘大刀の刀身と棟の拓本がある。棟の拓本には銘文のうち68文字が写し取られている。この拓本では銘文の冒頭を「鹵大王世」と釈読している。この「鹵大王世」という釈読が、銀象嵌銘大刀に記された大王は百済の蓋鹵王であるとの説が出されるきっかけとなったとの説がある。
1898年、福原岱郎は銀象嵌銘大刀は雄略天皇の時代に朝鮮半島からもたらされたものであり、馬の文様はペガサスであると主張した。銀象嵌銘大刀は雄略天皇の時代に朝鮮半島からもたらされたとの主張は、大王とは百済の蓋鹵王であると判断したことによるものと考えられる。1899年、若林勝邦は銀象嵌銘大刀の銀象嵌による馬と花の文様を紹介し、刀身の反対側にも銀象嵌の痕跡があることを指摘したが、後にX線透過撮影により鳥と魚の銀象嵌が確認されるまでこの指摘は顧みられなかった。また、棟の部分の銘文に関しては66文字があり、金石文の重要資料であると紹介したが、銘文の解読は手掛けなかった。
続いて歴史学者の古谷清が銘文の解釈を試みた。まず顕微鏡を用いて銘文を詳細に観察しながら文字起こしを行い、全部で68文字であるとした。その後、29文字を釈読し、残りの39文字は不明であるとして1912年に研究成果を発表した。その上で銀象嵌銘大刀は中国の魏で製作されたものであり、魏志倭人伝に記述されている魏の皇帝から下賜された刀であると推定し、江田船山古墳を卑弥呼本人ないし卑弥呼の一族か重臣の墳墓であると考えた。また古谷は1911年に江田船山古墳の現地調査を行っている。
1917年1月、考古学者の濱田耕作と梅原末治は江田船山古墳の現地調査を行った。現地調査と帝室博物館所蔵の出土品に関する分析をもとに、梅原は1922年に総合的な調査報告書を発表する。報告書では銀象嵌銘大刀については後藤守一、高橋健自による文字起こしと釈読結果に梅原自身の見解を加え、銘文の総字数は68字であるとして、うち56字を釈読した[64][76]。梅原は当初、銀象嵌銘大刀は中国製との見解であった。高橋健自は大刀に記された大王は蓋鹵王であると考えたが、梅原も銘文の文体を再検討する中で中国製説を改めて朝鮮半島で作られたと判断し、字体から蓋鹵王ではなくて汾西王ではないかと推測した。
研ぎ出しによる冒頭部の判明
銀象嵌銘大刀の銘文がある棟の部分には、刀身と並行した形で砥石のようなもので研がれた痕が確認できる[21]。実際にいつ研がれたのかについては記録に残っていないものの、当時のことを知る関係者から、大正時代末期に高橋健自の勧めで錆落としが行われ、その後、昭和に入ってから高橋は刀の砥師に銘文のある棟の部分を研がせたと伝えられている[注釈 12][21]。この研ぎ出し作業後に撮影されたと考えられる1927年撮影の銘文の鮮明な写真には、現在知られている75字分にあたる文字が確認できる。研ぎ出し以前の研究では「鹵」の字より前の銘文の冒頭部分に関しては誰も触れておらず、冒頭部分は研ぎ出しによって初めて明らかになったものと考えられる。
銘文の冒頭部分が明らかになった後、1933年に福山敏男は後藤守一の協力を得て銀象嵌銘大刀を精査し、論文を発表した。論文の中で福山は銘文内の大王を「𤟱□□□歯大王」であるとして、銘文の冒頭部を「治天下𤟱宮(ミヅ)歯大王世」すなはち「タヂヒの宮に天の下治ろすミヅハの大王の世」と釈読して 反正天皇(蝮之水歯別:タジヒノミズハワケ・多遅比瑞歯別:タジヒノミツハワケ)であると主張した。また銘文内の用語や人名なども日本風であることを指摘して、銀象嵌銘大刀は5世紀前半末頃に日本で製作されたとした。この福山の説は支持を集め、定説化していく。
戦後の研究史
戦後、通説となった福山敏男による反正天皇説に対し、韓国、北朝鮮の研究者からの反論が出された。まず北朝鮮の歴史学者である金錫亨(朝鮮語版)からは、通説の「𤟱□□□歯大王」の読みについて、反正天皇の諱を当てたのであれば「𤟱」ではなくて「蝮」であるべきなのに、銘文の偏は明らかに「犭」であり、また「歯」という漢字であると断定していること、そしてミズハワケのワケの字が表記されていない等の矛盾を指摘して、銀象嵌銘大刀は百済の蓋鹵王が北九州の王に与えたものであるとして、百済の勢力が九州の中部付近にまで及んでいたと主張した。
続いて在日朝鮮人の歴史学者である李進熙が、金錫亨が指摘した銘文と反正天皇の諱との齟齬とともに、1971年に発掘された武寧王陵の出土品と江田船山古墳の出土品との類似性を指摘した上で、江田船山古墳は反正天皇の時代と推定される5世紀前半期ではなくて、5世紀末から6世紀初頭に築造されたものであり、銀象嵌銘大刀に記された大王とは蓋鹵王であると主張し、「𤟱□□□歯大王」を反正天皇として5世紀前半にヤマト王権が九州まで支配下に置いていたとの説を恣意的なものであると批判した。韓国の研究者である姜仁求もやはり銀象嵌銘大刀に記された大王とは蓋鹵王であるとして、百済で大刀の製作に携わった人物が後に百済系の地方首長として江田船山古墳に葬られた際に副葬されたと考えた。
蓋鹵王説に対して福山敏男は銘文の第4字目は「𤟱」と読めるがこれは「蝮」の異体字とみなせるのではと主張し、「歯」であるか「鹵」であるかについては簡単には決め難いとしながらも、「歯」の文字とその前の2字は大王の名前または称号であると思われるため「弥都歯」と考えられるとした。またワケの表記が無いことに関しては福山はもともとワケは一種の尊称であり、反正天皇の本来の名前はミヅハであると考えていたため、矛盾とは言い難いとの指摘がなされた[92]。そして歴史学者の川口勝康は、蓋鹵王の実名は慶司と伝えられていて、宋書にも余慶と記録されており、蓋鹵王は後に定められた諡号であるため、銀象嵌銘大刀に蓋鹵王の文字を刻むことは考えられないと批判した[注釈 14][94]。歴史学者の平野邦雄も、蓋鹵王説はとうてい無理な説であるとしている。また歴史学者の坂元義種は反正天皇説の根拠となった釈読に疑問点があることを認めながらも、金錫亨の蓋鹵王説は「鹵」と読める文字から大王が蓋鹵王に当たるという以外見るべきものが無いとして、紀年の表記法と大王の名の表記が長いことから、やはり日本の大王の表記であると考えた。そして井上光貞は金錫亨の説は日本の学界に少なからぬ影響をもたらしており、特に読書界に対して相当な影響を与えたと指摘し、後述の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文発見まで影響が続いたとしている。
稲荷山古墳の鉄剣銘文発見の影響
1978年、埼玉県行田市の埼玉古墳群に属する稲荷山古墳から発掘されていた鉄剣に、金象嵌による115文字が刻まれていることが発見された。この金錯銘鉄剣には「獲加多支鹵大王」の文字が刻まれており、雄略天皇を指すワカタケル大王と釈読された。
金錯銘鉄剣の発見後、銀象嵌銘大刀の銘文も「獲□□□鹵大王」であり、ワカタケル大王すなわち雄略天皇のことを指すという説が唱えられるようになる。井上光貞、直木孝次郎、岸俊男、西嶋定生ら専門家が銀象嵌銘大刀の銘文の大王は「獲□□□鹵大王」であるとの説を唱えるようになり、このワカタケル大王説は有力な説となっていく。そのような中で銘文を詳しく調査した亀井正道は、「獲」とされた文字はやはり「𤟱」の可能性が高く、「獲」とはし難いのではないかとの判断を示した。
後述のように1991年度に銀象嵌銘大刀は修理が行われ、銀象嵌銘のクリーニング作業が実施された。クリーニング後、東野治之は銘文の釈読を行い、「獲」の文字については「𤟱」ではなくて「獲」の異体字と断定してよいとして、「獲□□□鹵大王」はほぼ間違いなく稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣と同一のワカタケル大王のことを指すとした。また「獲□□□鹵大王」に続く世に注目し、「大王世」という言い回しは古代の墓誌や万葉集に見られる表現から判断して、ワカタケル大王の時代を回顧する表現であり、銀象嵌銘大刀の製作時にはワカタケル大王は没していたと推定した。なお、東野の釈読に関しては、考古学研究者の鈴木勉は、強引な解釈や判読不能な文字を無理に読もうとしている部分がみられると批判している。鈴木、そしてやはり考古学研究者の福井卓造は、中でも後述の「八十練、(九)十振」の部分の「振」は「捃」と釈読するのが多数説であり[注釈 15]、東野の釈読に無理があると指摘している。
解釈と評価
銘文の解釈
銀象嵌銘大刀銘文
銀象嵌銘大刀の75文字の銘文の第1字から第20字「台天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无(利)弖」を上段、第21字から第44字「八月中、用大鐵釜、 并四尺廷刀、八十練、(九)十振、三寸上好(刊)刀」を中段、第45字から第75字「服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太(和)、書者張安也」を下段とすると、上段と下段に関しては人名と吉祥句が多く、異論は残るものの、これまでの研究によって文意は比較的よく把握されている。
上段は「治天下ワカタケル大王の世、事へ奉る典曹人、名はムリテ」、「天の下治らしめししワカタケル大王の世、典曹に奉仕せし人、名はムリテ」といった読み下し文となる。
「台天下」の台の文字は、大刀の先端に近く幅が狭い部分であり、「治」の「氵」を象嵌する余地が全くないとは言えないもの表記が難しく、もともと象嵌されていた「氵」が読めなくなった可能性とともに、鏡の銘文に「治」の「氵」を省略して表記する例が見られることから、もともと省略されていた可能性があると考えられている。
ムリテは銀象嵌銘大刀を製作させた人物、ないしは所持者と考えられている。ムリテの職責とされる典曹については、典は書籍や法典を指し、曹には役所や裁判という意味があることから文官であると考えられ、法曹関連の業務を指すのではないかとの説や、中国での用例からみてヤマト王権内で経済系の職務を担った文官だったのではないかという説がある。
下段の部分は、「此の刀を服する者は、長寿にして子孫は汪々、其の恩を得る也、其の統ぶるところを失わず、作刀者の名はイタカ、筆者は張安なり。や、「此の刀を服する者は、長寿にして子孫は洋々、□恩を得る也、其の統ぶるところを失わず、刀を作る者、名はイタワ、書する者は張安なり。」といった読み下し文になる。
下段の中で東野治之による釈読の「得□恩也」は、「得王恩也」である可能性が指摘されている[124]。「得王恩也」であれば銀象嵌銘大刀を所有するものは王の恩恵を得られ、その統治する土地を失わないという解釈となり、王とはヤマト王権の大王であることが想定される。そしてラストの「書者張安也」は全文の中でも特に大きな字で刻まれており、銘文の作者である張安の意志が反映されているとの説がある。またムリテ、イタカ(イタワ)の両名には「名は〜」といった表記がなされている。これは日本人の名前に漢字を当てはめたことを示していると考えられ、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣にもみられる表記法である。一方、銘文の作成者である張安にはそのような表記が採用されなかったのは、張安とは姓名であることが明らかであったためと考えられる。張安は中国系の帰化人ないしその子孫であり、中国語を使いこなし、かつ日本語も堪能な人物であったことが想定される。
中段は内容的には銀象嵌銘大刀の製作月、作刀法についての記述であるが、判読困難な文字や判定に異説がある文字が多く、文意もつかみ難い。とりわけ「三寸」の解釈が難題とされる。
「八月中」は、文字通り8月に銀象嵌銘大刀を製作したことを示している。「用大鐵釜」は文字通り大鉄釜を用いるという解釈と、銀象嵌銘大刀の原料となった鉄のことを指すとの解釈がある。「并四尺廷刀」は、鉄を混合して四尺の廷刀を製作したとの解釈や、「廷」の字を「鋌」の金偏を省略したものであると判断して、大刀の原料である四尺の長さの鉄鋌を指すとする解釈がある。この解釈では大鉄釜と四尺廷刀の2種類の原料を混合して銀象嵌銘大刀を製作したと考える。続く「八十練、(九)十振」は鉄の鍛造の工程を表現したとの考えがあり[132]、また「八十練、□十捃」と釈読してやはり鉄の鍛造の過程を表現したとして、「捃」には拾い集めるという意味があることから、鉄を小割にして選別する作業を繰り返したとの説もある。
最難解の「三寸」については、文字通り三寸という長さを指すとの説[137]、「寸」は「時」を省略した字体であるとの説、「寸」は「才」に通じると考えられ、「三才」として三つの材料ないし三つの働きをもってと解釈し、刀の材料や鍛造の優秀さを示しているのではないかとの説、「寸」は「等」の略字であり、「三寸上好(刊)刀」で、作刀に最適な季節に最良の材料を用い、丹念な鍛造など高い技術を用いて作られた、三拍子揃った名刀という意味であるとの解釈がある。
銘文の評価
銀象嵌銘大刀は稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣、千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した「王賜」銘の鉄剣とともに5世紀頃の銘文を有する貴重な遺物である[143]。また古代における銘文を象嵌した刀剣は数少ない。つまり銀象嵌銘大刀のように文字を象嵌した刀剣は日本では文献資料が希少な古代日本の数少ない文献資料のひとつである[。また銀象嵌銘大刀の銘文には作刀法について触れられており、古代の技術に関わる文献として技術史面からみても重要な資料とされている。また古墳時代中期後半のものと考えられる銀象嵌銘大刀は稲荷山古墳の金錯銘鉄剣とともに、当時、筋立てのある文章を刻むことを想定しながら刀剣が製作されていたことがわかり、表記や表現をするために日本国内で文字の使用が始まっていたことを示す重要な資料である。
銀象嵌銘大刀を稲荷山古墳の金錯銘鉄剣と比較してみると、まず「八十練」に対して「百練」、「典曹人」に対して「杖刀人」など、使用されている用語に共通点があるとの指摘がある。使用されている用語の共通点は両者の製作時期が同時代であることを推測させる。しかし銀象嵌銘大刀に使用されている吉祥句が金錯銘鉄剣には見られないこと。銀象嵌銘大刀には刀の製作者と銘文の作者が記されているのに対し、金錯銘鉄剣には無いこと。そして金錯銘鉄剣が所持者の出自と経歴を主題としているのに対して、銀象嵌銘大刀の銘文は刀に関わる記述が大半を占めており、刀そのものが主題であるなどの相違点が指摘されている。
戦国時代から六朝時代にかけての中国製の刀剣の銘文、そして百済で製作されたと考えられる石上神宮所蔵の七支刀の銘文から、古代中国、朝鮮の刀剣の銘文には吉祥句が含まれており、銀象嵌銘大刀の銘文に吉祥句があるのは中国、朝鮮製の刀剣の銘文の例に従ったものと考えられる。また漢から六朝時代に製作された刀剣や鏡の銘文は効能が主題であり、所持者に関する各種の情報や製作理由を具体的に記す習慣は無く、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣のみならず隅田八幡神社人物画像鏡、そして銀象嵌銘大刀も中国では墓誌などに記す記録を刀剣や鏡の銘文として記しており、逸脱がみられるとの指摘がある[157]。文体に関しては国語学者の大野晋が、銀象嵌銘大刀の銘文は基本的に4、6文字で句としているのに対し、金錯銘鉄剣は5、7文字で句を形成していると指摘しており[158][159]、四六体の銀象嵌銘大刀の銘文は漢文的であり、一方で五七体の金錯銘鉄剣は日本語化された面が強いとの意見があり[160][161][162]、金錯銘鉄剣は単に日本語を漢字に書き並べたものであるのに対し、銀象嵌銘大刀は銘文の起草者として張安が名乗り出て来られるくらいの違いがあるとの指摘もある[128]。そして銀象嵌銘大刀の主題が刀そのものであることに関しては、鋼を製造できるようになったことを顕彰する目的があったのではとの推測がある。
なお歴史学者の古谷毅は、文字を表記や表現をするために使用する前段階として、呪術的な機能を持つものとして認識されていたと主張している。古代に製作された刀剣類の中で銘文や文様が刻まれたものはごく少なかったと考えられ、そのような刀剣は神剣や霊剣として霊力を持つものとして認識されていたのではないかとの推測があり、古谷は銀象嵌銘大刀の吉祥句や文様は霊威性を表現したものではないかと考えている。
ムリテとヤマト王権
銀象嵌銘大刀は前述のようにムリテが製作者、ないしは所持者と考えられる。しかしムリテがいかなる人物であったのかということに関しては意見が分かれている。まずムリテはヤマト王権内の有力豪族の一人であり、配下に当たる肥後の豪族に銀象嵌銘大刀を与えたという説がある。白石太一郎はムリテはヤマト王権内で外交面に携わっていた大伴氏などの有力豪族の族長であり、配下であった菊池川流域の豪族が百済など対朝鮮半島外交で重要な役割を果たしていて、ムリテにとっても大切な大刀であった銀象嵌銘大刀を贈与し、江田船山古墳には銀象嵌銘大刀とともに百済系の豊富な副葬品が埋葬されることになったと考えている。山尾幸久は典曹人に任命されたムリテとは大伴室屋で、銀象嵌銘大刀の銘文は、部下の肥後の豪族である火君の帰郷に当たって餞別として贈った3本の大刀の由緒書に当たるものであると考えた。また水谷千秋は銀象嵌銘大刀はヤマト王権の大王から王権内の一文官であったムリテを通じて肥後の豪族に下賜されたものであり、当時、北九州一帯で磐井の勢力伸長が著しくなる中でヤマト王権が菊池川流域の首長を取り込む目的で、破格の待遇となる銘文付きの大刀を下賜したのではとの説を唱えている。
ヤマト王権とムリテとの関わりについては、直木孝次郎はムリテの典曹人、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣の乎獲居臣の杖刀人のように、ヤマト王権の官職、官人には〇〇人という制度があったのではないかと考え、これを人制と名付け、雄略天皇の時代には官職制度が出来始めていたのではないかと推測している。川勝守は銀象嵌銘大刀は雄略天皇が九州の国造に下賜したことは明白であるとしていて、歴史学者の川口勝康も銀象嵌銘大刀はヤマト王権の大王が国内の身分秩序の確立を目指す政策の一環として、ワカタケル大王により下賜されたものと考えている。そして銀象嵌銘大刀の治天下、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣の佐治天下という表現から、5世紀から6世紀のヤマト王権が天下を統治するという独自の中華思想を持ち始めていたとの説もある。この説に対しては中国では治天下という表現は王に使われるものであり、皇帝には同様の意味で御宇が使用されていて、日本でも天皇号が定着する8世紀以降は御宇という表現が定着していることから、治天下とは皇帝の臣下である王の統治を示す表現であって、日本独自の中華思想の現れとは言えないとの反論がある。
一方、篠川賢は、銀象嵌銘大刀は銘文の内容的に大刀を製作させたムリテの長寿や一族の繁栄を願ったものであり、製作者から他人に渡すものとは考えにくく、贈与や下賜されたと考えるのは無理があるのではないかと指摘している。また前述のように銀象嵌銘大刀と同タイプであると考えられる大刀2本があり、3本の大刀を同一の工房ないし刀工で製作し、同じ石棺内に副葬したという経過が想定され、このような状況で贈与や下賜があり得るのかという疑問も出されている。そして銀象嵌銘大刀を鋼の製造が可能となったことを顕彰する目的で製作されたと考える立場からは、ヤマト王権からの下賜はありえないとしている。平野邦雄も銀象嵌銘大刀は当事者ムリテがモニュメントとして製作したものであり、ヤマト王権側から贈与や下賜されたものではないと考えている。また佐藤信も、ムリテが配下の刀匠、象嵌の技術者、文筆能力のある渡来系の人物に銀象嵌銘大刀を製作させたことは間違いないと主張している[178]。銀象嵌銘大刀は磐井と緊張関係にあるヤマト王権が懐柔目的で菊池川流域の首長に下賜されたという説に対しては、銀象嵌銘大刀の所有者である日置氏の祖にあたる首長は磐井側についており、前王朝の雄略天皇に奉仕していたことを銘文に記すなど、継体天皇の王権を認めていなかったとの解釈もある。
文様
銀象嵌による馬と花の文様
銀象嵌銘大刀の銀象嵌による馬、鳥、魚、花の文様に関しては、前述のように1898年には福原岱郎が馬の文様はペガサスであると指摘し、考古学者の乙益重隆は、たてがみを切りそろえ、胴の部分に線状の模様で羽を表現したペガサスであるとしている。また考古学者の川西宏幸も、たてがみを強調した裸馬である馬のデザインからみてペガサスであると判断しているが、翼がみられないことからペガサスとすることに慎重な見方もある。川西は花の文様に関しては高句麗の古墳壁画などに描かれている蓮華であり、仏教的なモチーフであるとしており、馬も花も大陸、朝鮮半島系のデザインであると指摘している。
鳥に関しては、川西は鳥はくちばしの先端部が曲がった形態から鵜であると考えられ、鵜飼いを神事の一つとしていた日本的なモチーフであるとする。そして文様全体としては蓮華のもとで馬や魚、鳥が遊ぶ中国由来の神仙の世界を描いており、神事を象徴する鵜はその神仙世界の一員であり、銀象嵌銘大刀の文様は災いを避け福をもたらすデザインであると考えている。
また、魚のモチーフは古墳からしばしば出土する魚佩に繋がるもので、魚佩は文選に所収されている文章などから、書類を入れる袋を象徴するものではないかとの説があり、ムリテの職責とされる典曹が文官を指すと考えられることから、魚は文官を象徴するものではないかとの推測がある。また馬についても馬に関わる任務に基づく可能性が指摘されている。
象嵌と作刀
銀象嵌銘大刀の象嵌技法は糸象嵌である。糸象嵌とは象嵌技術の中では最も基本的なもので、鏨でV字状の溝を掘り、そこに銀線をはめ込んだ後にならし用の鏨で叩き、仕上げとしてやすりや砥石で研ぐ工程であり、日本の古墳時代のものである象嵌大刀は全て糸象嵌の技法で作られている。また象嵌大刀に使用される金属や鑿の技法に規則性、統一性がみられ、古墳時代の象嵌には厳格な決まりがあったと考えて、象嵌大刀はヤマト王権の工房で一括して製作され、各地の豪族に配布していたのではないかとの説がある。
また、銀象嵌銘大刀の文字、文様の象嵌には、直線ではなく円弧や曲線を彫り上げている部分が見られることから、円弧や曲線を彫り上げることが出来る鏨を使用していたとの説がある。この円弧や曲線を掘る技術を持つ工人は渡来系の技術者集団であり、各地を移動しつつ需要に応じていたとの推定がある。
前述のように銘文の主題は銀象嵌銘大刀そのものであると考えられ、作刀法に関する記述が銘文全体の約3割を占めている。銘文の中で、鋳鉄と炭素量の少ない鉄を混合することによって炭素の含有量を調節し、刀剣に適した鋼を製造していたことや、丹念な鍛造の工程とともに、鉄塊の中から刀剣に適した炭素量であり、かつ不純物が少ない部分を選び取る作業を行っていることを述べているとの説もある。
製作年代
銀象嵌銘大刀の製作年代に関しては、大刀本体についての分析によるものと、他の江田船山古墳出土品を通じてのアプローチがある。大刀本体の分析から導き出される製作年代の推定は、まず鎺本孔がある大刀は6世紀に入ってから製作されるようになり、6世紀後半から7世紀初頭が最盛期となるとの分析があり、銀象嵌銘大刀は6世紀初頭以降の製作ではないかとの説がある。また銀象嵌銘大刀と同タイプと考えられる直刀2本の茎の形態、そして銀象嵌銘大刀など3本の直刀の、長くかつ幅の広い刀身からも6世紀に入ってからの製作であるとの推定がなされている。しかし1990年代以降、須恵器など他の副葬品から5世紀代のものと考えられる、鎺本孔を持ち銀象嵌銘大刀と類似した形態の大刀が各地の古墳で確認されており、鎺本孔や大刀の形体論から6世紀代の製作を想定するのは無理があるとの指摘がある。
銀象嵌の花と魚の文様からも製作年代が推定されている。銀象嵌銘大刀の花の文様、魚の文様は精緻かつ丁寧なものであり、他の古墳から出土した類似の文様が刻まれた大刀よりも、先行して製作されたものであると推定されている[204]。具体的には5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている福岡県の番塚古墳出土の大刀に刻まれている魚の象嵌に先行するものと考えられ、銀象嵌銘大刀は5世紀代の製作になるとの説がある。
江田船山古墳からは銀象嵌銘大刀以外にも豊富な副葬品が出土しており、各副葬品それぞれに製造年代の推定がなされている。副葬品は大きく分けて3種類の異なった年代のものがあり、埋葬は5世紀後半、6世紀初頭、6世紀半ば頃の3回行われたとの説と、年代的には新旧2回であり、埋葬も5世紀後半、6世紀初頭の2回であるとの説がある。銀象嵌銘大刀が形体的に6世紀代の製作であるとの説や、銘文の内容的にワカタケル大王没後の製作であるとの見立てから、510年から520年頃の2回目の埋葬時に副葬されたとの説が定説であったが、銀象嵌銘大刀の形体論から6世紀の製作を主張するのには無理があるとして製作時期が5世紀に遡るという説からは、470年代前後と考えられる初葬時の副葬である可能性も指摘されている。
修理保存について
銀象嵌銘大刀は、銀によって象嵌がなされていて文字部分に錆が出来やすい。しかし錆を落とす目的で研ぐと象嵌の剥落を起こす恐れがあると考えられたため、安全に錆を落とす方法が確立されるまでできる限り手を加えずに保存されていた。しかし銀象嵌の部分が黒ずみ文字の判読が困難となってきたため、対策が求められるようになった。また稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の金象嵌銘文が確認された後、銀象嵌銘大刀の銘文のX線撮影を行ってはどうかとの意見が高まったが、棟の部分に銀象嵌が施されている銀象嵌銘大刀の場合、X線撮影で象嵌の文字を確認するのは困難であると考えられた。その後、銀象嵌銘大刀を修理する話が出されるようになったため、1989年度に修理の事前調査の位置づけでX線透過撮影を行ったところ、馬と花の銀象嵌の反対側の刀身に鳥と魚の象嵌が発見された。
鳥と魚の象嵌の発見は銀象嵌銘大刀の修理に追い風となった。1991年度から東京国立博物館の予算に金属器修理費の計上が認められることになり、初年度にまず銀象嵌銘大刀の修理が行われることになった[38]。銀象嵌銘大刀は重要な文化財であり、学会にも影響を与える修理事業となるため、保存修理に関する学術面、技術面の検討を行う修理指導委員会が設けられ、修理指導委員会の検討結果に基づいて、東京国立文化財研究所が修理指導、科学調査そして修理後のケース作成の指導を行うことになった。
修理指導委員会の検討により、保存状態の良好な刀身については基本的に特段の保存措置は講じないことになった[212]。既知の象嵌については銘文などを見やすくすることを目的としてクリーニングを行うことになり、銀線の浮いている象嵌に関してはアロンアルフアで止め、銀線が抜け落ちてしまった象嵌はそのままにして、象嵌部分に関しては最後にアクリル樹脂によるコーティングを行うことになった。新たに発見された鳥と魚の象嵌については、機械的な手段で錆を落とすことによって象嵌部の研ぎ出しを行い、最後にやはりアクリル樹脂によるコーティングを行うこととした。また非破壊の調査となるため、刀身と銀象嵌の鉄と銀の成分分析は見送られることになった。保存に関しては銀象嵌部分の腐食を防止するため、窒素を充填した密閉された保存ケース内で保存することになった。また東京国立博物館での展示状況を考慮して、保存ケースは据え置きのものとはせずに、移動可能なサイズのものとなった。
クリーニングの後、銀象嵌の銘文についての調査が行われた。象嵌部分は銀線の嵌入状況、象嵌が消失している部分には鏨の彫跡を顕微鏡で観察し、写真撮影と実測図で記録した。その後、調査結果に基づいて銘文の中で読みが困難である部分に関して再検討を行い、改めて釈読を実施した。また調査の中で銀象嵌が施されている棟に微量の赤色の付着物が発見され、分析の結果、硫化水銀であることが判明した。朱が銀象嵌銘大刀の製作時から付着していたかどうかは不明であり、他の江田船山古墳から出土した大刀からも朱の付着は確認されていない。
『銀象嵌銘大刀』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E8%B1%A1%E5%B5%8C%E9%8A%98%E5%A4%A7%E5%88%80
熊本県玉名(たまな)郡和水(なごみ)町江田字清原(せいばる)の台地にある前方後円墳。周囲の虚空蔵(こくんぞう)、塚坊主(つかぼうず)などの前方後円墳とともに1951年(昭和26)6月、国史跡に指定された。古墳は本来全長61メートル、前方部幅約40メートル、同高さ約6メートル、後円部直径40メートル、同高さ約7.9メートルを有したが、いまでは若干変形縮小している。周溝内より朝顔形円筒埴輪(はにわ)や円筒埴輪を出土し、北西方約80メートルに古墳の残骸(ざんがい)らしいものがあり、武装石人、石製腰掛、石製家などが発見されている。後円部には妻入(つまいり)方向に入口を有する横口式家形石棺を埋設し、その前方には両側に切石(きりいし)を立て並べた通路を設ける。1873年(明治6)1月、石棺内より90点以上の重要遺物を出土し、1965年2月国宝に指定された。すなわち、鏡6面のうち5面は中国の後漢(ごかん)ないし六朝(りくちょう)時代の所産で、金銅製冠帽(こんどうせいかんぼう)や冠(かんむり)、金製垂飾(すいしょく)付き耳飾、金銅製沓(くつ)、金銅製轡(くつわ)金具などは朝鮮三国時代の新羅(しらぎ)や伽耶(かや)文化の所産として注目され、蓋坏(ふたつき)や提瓶(さげべ)も類品が伽耶地方から出土している。そのほかにも玉類や金環、甲冑(かっちゅう)、大刀(たち)、剣、鎗(やり)、鏃(やじり)、刀装金具、帯(おび)金具などがあり、なかでも大刀の一つには銀象眼(ぎんぞうがん)の銘文があり、日本最古の金石文の一つとして知られる。
[乙益重隆]
[参照項目] | 江田船山古墳出土大刀銘
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
熊本県和水町江田にある古墳。前方後円墳で,全長 47m,後円部径 26m,前方部の幅 23m。後円部に組み合わせ式家形石棺 (→横口式石棺 ) がある。 1873年に発掘され,鏡6面,冠帽,金製耳飾り,玉類,馬具,金銅沓,武器,須恵器,甲冑などが発見された。なかでも銘文を象眼 (象嵌) した鉄製の銀象嵌銘大刀は有名である。銘文の始めの 11字は「治天下□□□□歯大王世」と読まれ,考古学者の福山敏男は,これを治天下蝮宮□歯大王世と判読し,□はミヅと読む字であろうと考えた。この王は反正天皇をさし,その年代は5世紀前半頃といわれているため,大刀もその頃につくられたのではないかと推測されている。出土品は国宝に,古墳は国の史跡に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
熊本県和水町にある前方後円墳(史跡)。台地上にあり,全長約61m。後円部の家形石棺から鏡,金銅製冠帽,沓(くつ),武具,武器とともに,75文字の銀象嵌(ぞうがん)銘の鉄刀が出土した。埼玉の稲荷山古墳鉄剣銘の発見によって,銘文に記された大王名が雄略天皇と解読された。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
3項とも江田船山古墳コトバンクから引用
参考:『江田船山古墳』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E7%94%B0%E8%88%B9%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
奈良県奈良市丸山にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。出土品は国の重要文化財に指定されている。
円墳としては全国で最大規模の古墳で、4世紀後半(古墳時代前期後半)頃の築造と推定される。
墳形は円形で、直径109メートルを測り、円墳としては全国で最大規模になる。墳丘は3段築成。墳丘外表では葺石・埴輪片が検出されているほか、墳丘北東側には造出(つくりだし)を有する。埋葬施設は粘土槨で、内部には割竹形木棺(推定長6.9メートル弱)が据えられたと見られる。出土品には、伝出土品として石製品・鍬形石・合子・管玉・銅製品など(京都国立博物館所蔵)や、同じく伝出土品として三角縁神獣鏡3面(天理大学附属天理参考館所蔵)が知られるほか、発掘調査出土品として武器類・鉄製品類・巴形銅器・形象埴輪がある。なお、発掘調査出土品のうち鍬形石片は、京都国立博物館所蔵の鍬形石と一致することが認められている。築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定される。
京都国立博物館所蔵の伝出土品は1957年(昭和32年)に国の重要文化財に指定されている。
また、史跡整備調査のうち、国史跡指定を目指すため2018年度(平成30年度)より発掘調査が行われた。2022年(令和4年)10月、墳丘と同じく3段築成の造出から粘土槨の埋葬施設が新たに見つかった。粘土槨は全長約6.4メートル、幅約1.2メートル。内部に木棺が確認され翌月から発掘を開始、2023年(令和5年)1月にその成果が公表された。木棺を覆った粘土層から過去最大の蛇行剣、その下層から今までに例を見ない盾形銅鏡が出土し、「古墳時代の工芸の最高傑作」との評価も受ける大きな発見となった。
富雄丸山古墳wikipediaから抜き書き
参考:『【最新動画公開中】富雄丸山古墳まとめ情報』(奈良市HP) https://www.city.nara.lg.jp/site/press-release/165641.html
参考:『報道資料発表:富雄丸山古墳出土蛇行剣の共同調査研究成果と特別公開について』(橿原考古学研究所HP)(PDF)
↑ 参考動画【速報】日本最大の鉄剣 富雄丸山古墳出土 蛇行剣初公開 奈良市動画チャンネル(youtube)
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す。
名称
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。20世紀初期(1900年前後の明治30年代)に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案された時代名である。関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。
概要
推古朝
5世紀には氏姓制度に基づく部民制が普及していたところ、552年(欽明天皇13年)、或いは538年(宣化天皇3年)に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年(用明天皇2年)、大王の仏教帰依について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。聖徳太子は蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
587年(用明天皇2年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが(崇峻天皇)、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。こののち馬子は日本初の女帝となる推古天皇を立てた。593年(推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったといわれている。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。
607年(推古天皇15年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和朝廷の地方行政的な性格を持つものである。
621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。
舒明・皇極朝
聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。
ウィキソースに改新の詔の原文があります。
孝徳朝
牙彫藤原鎌足(宮彫師島村俊明作、1892年)。東京国立博物館
645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌足(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなど次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕宮に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める[3]。650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。
天智朝
孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・皇極天皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。
663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬に金田城が築かれている。
668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。
671年 (天智天皇10 年) 、天智天皇が急死する。死因は朝廷編纂の歴史書にも書かれていないため諸説ある。
天武・持統朝
天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。
681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没し、皇后(後の持統天皇)の称制となる。689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
持統天皇。三英舎『御歴代百廿一天皇御尊影』、1894年。
人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。皇后が天皇として即位した690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統天皇6年)には伊勢国に行幸し、伊勢神宮の整備を進めた。また畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。
694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。
持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。時期は不明瞭ながら倭に代えて日本の国号を定め、702年(大宝2年)に粟田真人ら遣唐使を派遣して武周にこれを伝えた[4]。
中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた(慶雲3年(706年)以降)。
文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した。
『飛鳥時代』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3
大和政権について図解でわかりやすいサイト(社スタさん)
みつけたのでリンク→https://social-line.com/rekishi-yamato/
飛鳥京跡(あすかきょうあと)は、奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の遺跡である。飛鳥古京跡(あすかこきょうあと)とも称する。飛鳥京、すなわち都市としての飛鳥における遺跡群の総称であり、大王・天皇の歴代の宮や官衙、豪族の邸宅や寺院など大和朝廷の支配拠点となる建造物、および広場、道路など都市関連遺跡の総体である。
概要
飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
飛鳥宮は複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の地に遷宮をしたことにより、周辺施設とともに拡大して宮都としての機能を併せ持った。これは後に現れるような、建設当初から計画され固定化する宮都(藤原京)への過渡的な都市であったことを示している。
飛鳥宮跡の発掘調査
飛鳥京の中心遺構である飛鳥宮跡は、6世紀末から7世紀後半までの宮殿遺構だとされ、『日本書紀』などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えられている。もともとこの区域には宮らしき遺構があると伝承されており、飛鳥板蓋宮跡だとされてきた。
飛鳥板蓋宮は皇極・斉明天皇の2代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の2代の天皇がそれぞれ使用した。こうした状況は、それまでの宮が、天皇1代限りの行宮という役割から、何代もの天皇が宮として継続して使用する役割に移りつつあったことが分かる。
発掘調査は1959年(昭和34年)から始まった。発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっており、大まかにはI期、II期、III期の3期に分類される。各期の時代順序と『日本書紀』などの文献史料の記述を照らし合わせてそれぞれ、
I期が飛鳥岡本宮(630 - 636年)
II期が飛鳥板蓋宮(643 - 645、655年)
III期が後飛鳥岡本宮(656 - 656年)、飛鳥浄御原宮(672 - 694年)
の遺構であると考えられており、III期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。発掘調査で構造がもっともよく判明しているのは、飛鳥浄御原宮である。
地元では当地を皇極天皇の飛鳥板蓋宮の跡地と伝承してきたため、発掘調査開始当初に検出された遺構については「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された[1]。しかし、上述のようにこの遺跡には異なる時期の宮殿遺構が重複して存在していることが判明し、2016年10月3日付けで史跡の指定範囲を追加の上、指定名称を「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に変更した[2]。
後期岡本宮跡
飛鳥宮跡最上層の遺構は内郭と外郭からなっている。内郭は東西152-158メートル、南北197メートルで南北の2区画に分かれており北区画の方が広く一辺約151メートルの正方形である。井戸、高床建物、廊状建物の建物が多く川原石が敷かれている。南区画の方は20×11.2メートルの大規模な建物跡が確認されている。この建物の中心線と内郭の中心線とが一致している。周りに小砂利が敷かれている。少し離れた所に南門が建設されている。外郭でも掘立柱建物・塀・石組溝等が検出されている。これらの内郭・外郭ともに太い掘立柱を立てた塀で囲まれている。これが、後期岡本宮の跡だと考えられている。なお、この他に宮の南東に「エビノコ郭」と呼ばれる一画がある。「エビノコ郭」は飛鳥浄御原宮にともなう遺構であることが有力視されている。
飛鳥浄御原宮跡
「エビノコ郭」は、小字「エビノコ」にあることに由来している。この一郭には、29.2×15.3メートルで四面庇付きの大型の掘立柱建物が検出されている。これが通称「エビノコ大殿」であり、後世の大極殿の原型との見解が多い。しかし、飛鳥浄御原宮の大極殿では特別な国家的儀式が開催された記録が無く、大極殿は飛鳥浄御原宮の時代では存在せず、藤原宮になり成立したとする意見もある[3]。
大殿の周辺は南北100メートル以上、東西約100メートルの掘立柱の塀で囲まれている。外郭の外側からは「辛巳年」(かのとみ)「大津皇子」「大来」等と書かれた墨書木簡が出土している。「辛巳年」は681年、「大来」は大津皇子の姉の大来(伯)皇女の名と推定できること等から、この最上層の遺構は天武天皇の飛鳥浄御原宮にともなうものであると考えられる。
すなわち、天皇の居住空間に相当する区画は東西158メートル、南北197メートルの後期岡本宮をそのまま使用したものであり、その南東の東西94メートル、南北55メートルの区域は儀礼空間として用いられ、そこに「エビノコ郭」が新たに設けられた。さらにこれら宮殿周囲を役所や庭園などの関連施設が取り囲み、役所の一部は周辺地域へも広がるという構造が周辺の状況や文献から推定されている。
その他の遺跡
飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池 北池
2018年発掘調査時。
飛鳥京跡苑池は、「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構であり、1999年(平成10年)の発掘調査で確認された。外国使節などを歓迎する饗宴の場として利用されたとみられている[4]。藤原京以前に宮都に付随した苑池が営まれていたことがうかがわれる重要な遺構である。2003年(平成15年)に国の史跡・名勝に指定された。2015年9月には、苑池に入るための門跡が初めて見つかったと橿原考古学研究所が発表した[4]。斉明朝(7世紀中葉)に造営され、天武朝(7世紀後半)に整備され、10世紀に至るまで機能し、鎌倉時代までには完全に埋没していたと推測されている。南池の調査で飛鳥京跡苑池は、南池、北池、と間の渡り堤、水路、掘っ立て柱建物・塀が見つかり、日本初の本格的な宮廷庭園とされていた[5]。
北池北東部の水祭祀遺跡(2019年発掘調査時)
2019年に小さな方の北池発掘調査が行われ、北池北東角で酒船石遺跡に似た天皇水祭祀遺跡が発掘された。これで池全体の性格が大きく変わり、現在研究中である。千田稔はこの苑池は宮殿の付属の庭園と見られていたが、湧き水があったからこそ苑池を造り、近くに宮殿を建てたとも考えられる、と仮説を立ててている。大きさ40-70センチメートルの石で、南北約13メートル、東西約8.5メートルの約100平方メートルの範囲を石敷きとしており、砂利敷きの周辺部とは異なる形にしている。2つ目の升や西側の溝付近だけ、約40センチメートルのひと回り大きな石を使用していた。階段状の護岸もありこれも酒船石遺跡と同様で、当初は8段以上あったと推定されている。重要な湧水施設は、幅約4メートル、奥行き約3.5メートルの石積み区画の中に正方形の石組みがあり今も水が湧いている。この正面は板でせき止めその上部を凹状に加工し、そこから上澄みだけが流れ出る仕組みとなっていた。水は底に粘土を貼った長さ約2.1メートルの石組み溝を通って、そこに天理砂岩[注釈 1]の切り石を敷き詰めた約1メートル四方の2つ目の升に入ってから、長さ約7メートルの底が天理砂岩の溝を流れ、さらに西の排水路に合流し、北池には注ぎ込まない[6][7]。
2013年、「川原寺坏莫取若取事有者**相而和豆良皮牟毛乃叙又毋言久皮野*」(*の箇所は判読不能)などと漢字と万葉仮名で刻まれた土器が見つかった(発表と一般公開は2014年)。読み下すと「川原寺の坏、取ること莫(なか)れ、若(も)し取る事有らば、**相す、而して和豆良皮牟毛乃(煩(わづら)ひむもの)、叙して又(ま)た久しき皮野*(ひや*)を言ふこと毋(な)し」となる。文言は土器の外側に刻まれており、マスメディアによれば、意味は「川原寺の坏(つき)であるから取るな。もし取れば災いが起こる」であるとしている[8]。
飛鳥池工房遺跡
→詳細は「飛鳥池工房遺跡」を参照
明日香村飛鳥小字古池に所在する飛鳥池は、近世につくられた溜池で、そこに1991年(平成3年)に産業廃棄物を埋める計画が持ち上がり、1996年(平成8年)予定が変更され、「万葉ミュージアム」を建設することになり、1997年(平成9年)から三カ年にわたる発掘調査が実施され、その結果、天武朝の大規模な官営工房遺構が検出された。
複合的な工房群が発見された飛鳥池工房遺跡では、1998年(平成10年)に「富本銭」の鋳造が確認された。鋳型やバリ銭、鋳棹などが出土している。2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。
酒船石遺跡
→詳細は「酒船石遺跡」を参照
謎の石造物であった「酒船石」は、砂岩を用いた湧水施設で水を汲み上げ、船形をした石槽で濾過し、亀形の石槽に水を溜めて聖水としたものであり、水辺祭祀の遺構であることがわかった。さらに、酒船石のある丘陵には全体に砂岩の切石による石垣がめぐることがわかり、丘陵全体が聖域として扱われていたことが判明した。1927年(昭和2年)に国の史跡に指定され、その後も追加指定がある。
川原寺跡
→詳細は「川原寺」を参照
史跡川原寺跡では、寺の創建と営繕にかかわる瓦・金属工房が確認された。1921年(大正10年)に国の史跡に指定され、その後も追加指定がある。
『飛鳥宮跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%AC%E8%B7%A1
↑橿考研チャンネルさんの「飛鳥宮 古代国家形成の舞台 ~発掘調査60年~」
飛鳥宮を知るうえで、興味深いのでお借りしました。 元の映像→ https://youtu.be/j9bUUMEis4c
橿考研チャンネルさん(奈良県立橿原考古学研究所公式チャンネル)のチャンネル登録→ https://www.youtube.com/@user-vp6ti5pv6r
板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀半ばに皇極天皇が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。
経緯
642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。643年(皇極天皇2年)4月、遷る。
板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。この日、蘇我入鹿が刺殺され、これにより皇極天皇は同月12日(14日)に退位し、軽皇子が即位した(孝徳天皇)。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた(難波長柄豊碕宮)。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
名称
なお、名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。このことにより、当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。実際にも檜皮葺や茅葺きの建築物は現代に至るも遺っているものが多いが、板葺きの建築物が遺っている例は少ない。
当時、大陸から伝来した最新様式を反映している寺院は瓦葺きであったが、それ以外の建築物への普及は進まず、平安時代以降の貴族の居宅である寝殿造も檜皮葺である。本格的な瓦葺きの普及は江戸時代以降である。
現在の状況
現在、奈良県明日香村に中心の一部と思われるものが史跡として残っている。また、近くには蘇我入鹿の首塚もある。
『板葺宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E8%93%8B%E5%AE%AE
岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。
経緯
舒明天皇の岡本宮
629年1月に舒明天皇は即位し、翌年(630年)10月、飛鳥岡(雷丘)[1]のふもとに遷宮し、岡本宮と称した。
その6年後の636年6月、岡本宮は火災で焼失し、舒明天皇は田中宮(たなかのみや、現在の橿原市田中町)へ遷ることとなった。
斉明天皇の後岡本宮
655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
しかし同年、この新しい宮も火災に遭う。当時、斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだが、動員される民衆には非常に不評であった。このために放火されたのではないかとする説も出されている。(飛鳥時代の宮の多くが火災に遭っていることから、民衆の中に統治への大きな不満がある時は、天皇の宮へ放火することで意思表明していたのではないか、とする説がある。)
名称
名称「岡本宮」は、文字どおり岡(雷丘)のふもとに立地していたことに由来する。
『岡本宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%AE%AE
後期岡本宮跡
飛鳥宮跡最上層の遺構は内郭と外郭からなっている。内郭は東西152-158メートル、南北197メートルで南北の2区画に分かれており北区画の方が広く一辺約151メートルの正方形である。井戸、高床建物、廊状建物の建物が多く川原石が敷かれている。南区画の方は20×11.2メートルの大規模な建物跡が確認されている。この建物の中心線と内郭の中心線とが一致している。周りに小砂利が敷かれている。少し離れた所に南門が建設されている。外郭でも掘立柱建物・塀・石組溝等が検出されている。これらの内郭・外郭ともに太い掘立柱を立てた塀で囲まれている。これが、後期岡本宮の跡だと考えられている。なお、この他に宮の南東に「エビノコ郭」と呼ばれる一画がある。「エビノコ郭」は飛鳥浄御原宮にともなう遺構であることが有力視されている。
『飛鳥京跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%AC%E8%B7%A1
仏教公伝(ぶっきょうこうでん)は、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す。上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、この項でもそれについて説明する。従来は単に仏教伝来と称されたが、公伝以前にすでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、区別のため「公伝」と称されることが多い。
公伝年代をめぐる諸説
日本への仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あり、現在では538年が有力とされている。ただ、これ以前より渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきており、さらにその後も何度か仏教の公的な交流はあったと見て、公伝の年次確定にさほどの意義を見出さない論者もいる。以下では、政治的公的に「公伝」が行われた年次確定の文献による考察の代表的なものを挙げるが、いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた。
552年(壬申)説
『日本書紀』(720年成立、以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている[5]。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が疑われている。
伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠となる。
また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
しかしながら上表文の存在そのものは、十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文そのものはあったとする見方がある。
538年(戊午)説
『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)[7]や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)[8][9]には、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)とする説。
これら二書は書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも含めて説の支持理由とされていたが、その後の研究でこれら二書の記述に淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが指摘され、書紀編纂以降に成立していたことが明らかとなった。そのため作為のない典拠であるとは断言できなくなり、したがって論拠としては弱くなってしまった。
548年(戊辰)説
笠井倭人、有働智奘らの主張する説。『元興寺縁起』は538年、『日本書紀』は552年とする仏教公伝の年であるが、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれていると考えられ、このずれはまさに538年と552年の違いと一致するため、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があるとする。そして、百済の聖明王の即位の年が523年と判明したことから、聖王26年時は548年になるとする。
その他の諸説
伝来が欽明天皇治世期間中だったかどうかとは別に、欽明天皇治世時期自体にも諸説ある。
『百済本記』(ただし書紀のみに見られる逸書)を含む書紀や古事記の記載から、継体 ― 安閑 ― 宣化 ― 欽明 と続く皇統年次が複数説ある[注 2]ため、欽明天皇が在位していたとしても、これを継体以降に空位を含んで短期間に皇位交代が行われたとする説、継体直後に天皇出自を背景として欽明朝が並立していたとする説(喜田貞吉)、さらに蘇我氏と物部氏・大伴氏などとの他豪族どうしの対立を背景としていたとする説(林屋辰三郎)もあり、欽明天皇治世自体が未だ判然とせず、したがって伝来年も不明ということになる。
書紀には、545年9月に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺)の仏像を作成し、任那に贈ったとの記述もあり、事実とすればこの時期に大和朝廷の側に仏教受け入れの準備ができていたことを示すことから、この年を重視する説がある。
『仏教公伝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
<平成30年(2018年)の問題関連>
*四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである 。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。 聖徳太子(厩戸皇子)(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。
四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮(難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦と見なされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる。
四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
日本史上,都が主として飛鳥地方にあった時代 (→飛鳥時代 ) の文化。飛鳥文化の特質としては,
(1) 中国六朝 (りくちょう) 文化を朝鮮半島を経由して摂取した文化,
(2) 仏教を基調とした文化,
(3) 都のおかれていた飛鳥地方を中心に畿内とその周辺の狭い地方に発達した文化,などがあげられる。
文化遺産としては法隆寺があり,これについては,『日本書紀』の天智天皇9 (670) 年4月の条の法隆寺炎上の記事をめぐって早くから再建非再建の論争があった。その後解体修理の結果,ほぼ再建説が定説化したため,法隆寺の建築は狭義の飛鳥時代のものではなく,白鳳期のものとなり,推古期の建築は現存しないこととなった。
しかし現在の法隆寺にみられる柱のエンタシス,雲形の斗 栱 (ときょう) ,肘木 (ひじき) などは六朝の建築手法を伝えたものとされている。彫刻では法隆寺金堂の釈迦三尊像が光背裏の銘文から,推古 31 (623) 年3月,その前年に亡くなった聖徳太子のために、止利 (とり) 仏師 (→鞍作止利 ) が造立したものとされる。その特徴は顔は面長で唇が厚く,口元はややそり上がり,微笑をたたえている。目は紡錘形でかなり見開かれ,のちの時代の仏像にみる切れ長な半眼とは相違する。そのほかこの3像の衣相,姿勢,形式などは中国における南北朝時代も末に近い6世紀以降の北魏末の形式を受けたもので,朝鮮半島を経由してもたらされたものとみられている。同じく金堂の『薬師如来像』『百済観音立像』,夢殿の『救世観音立像』,中宮寺の『菩薩半跏像』,京都太秦 (うずまさ) の広隆寺『弥勒菩薩半跏像』などが白鳳期を含めたこの期のものである。そのほかの文化財としては中宮寺の『天寿国繍帳曼荼羅』 (→天寿国繍帳 ) が残欠ではあるが織物として貴重なものである。法隆寺所蔵の『玉虫厨子』は工芸品として優秀であるばかりでなく,その制作年代が飛鳥説と白鳳説とに分れており,前説は法隆寺金堂の雲形斗 栱はこの『玉虫厨子』の宮殿から模倣したものとする。なお,聖徳太子筆という『三経義疏』があるが太子の真筆とすることには疑問も出ている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
奈良県斑鳩 (いかるが) 町にある聖徳宗の総本山。正しくは法隆学問寺と称し,斑鳩寺 (いかるがでら) ,鵤僧寺 (いかるがそうじ) ともいう。南都七大寺の一つ。推古 15 (607) 年に聖徳太子が開創したと伝える。三論,法相両宗の兼学道場であったが,明治初期から法相宗,第2次世界大戦後,法相宗から分かれて聖徳宗を開いた。現存する世界最古の木造建築物で金堂,五重塔,中門,回廊を主体とする西院と,夢殿を中心とする東院とに分かれる。飛鳥様式の西院伽藍は,創建時のものか,天智9 (670) 年に焼失後再建されたものかについて論争が続いたが,1939~83年の若草伽藍跡などの発掘調査の結果,焼失後8世紀初めまでに,少し離れた現在地に逐次再建されたことが証明された。東院は天平年間 (729~49) に斑鳩宮の旧構を寺としたもので,天平様式を伝える八角堂の夢殿をはじめ伝法堂,絵殿,舎利殿,回廊,鐘楼,諸門など,平安,鎌倉,室町時代にわたる建築物が集まっている。これらの仏教建築物の多くは国宝建造物であり,1993年には世界遺産 (文化遺産) に登録された。また金堂の壁画や,『薬師如来坐像』『釈迦三尊像』 (623) ,『四天王立像』,夢殿の『救世観音』,大宝蔵殿の『百済観音』『夢違観音』などの諸仏像,『玉虫厨子』『橘夫人念持仏厨子』などの寺宝の多くも,国宝に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
コトバンク『法隆寺』項より
蘇我馬子(551-626)の墓か?
『石舞台古墳』国営飛鳥歴史古墳 https://www.asuka-park.jp/area/ishibutai/tumulus/ より
石舞台古墳
国営飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の方墳です。
墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。
天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。
30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。
被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
1933(昭和8)年~35(昭和10)年の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されています。
過去の文献に見る石舞台古墳
石舞台古墳は古くから、墳丘上部の封土を失い、石室の天井石を露出させていたようで、各種の文献にそうした意味の記述を見ることができます。
1772(明和9)年、本居宣長の「管笠日記」にもその記述があります。それに拠ると、石舞台古墳は、石舞台古墳の南に位置する都塚古墳と対として意識され、それぞれ推古・用明という各天皇の伝承を持っていたようです。
1829(文政12)年の津川長道の「卯花日記」では、蘇我馬子の墓ではないかという考察が加わっています。
1848(嘉永元)年の暁鐘成の「西国三十三所名所図会」の中ではイラストとともに、高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、天武天皇を仮に葬り奉った場所と伝えられている、という意味のことが記されています。
利用案内
入場時間 9:00~17:00(受付16:45まで) ※令和5年(2023年)10月改定
休業日 年中無休
入場料 一般 300(250)円、高校生~小学生100(50)円
※()は団体料金(30名以上)
アクセス バス停「石舞台」下車して徒歩3分
駐車場 あり:有料
所在地 奈良県高市郡明日香村島庄133
お問合わせ先 飛鳥観光協会 0744-54-3240
参考:『石舞台古墳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%88%9E%E5%8F%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
参考:『飛鳥・藤原を世界遺産に』奈良県HP
石舞台古墳(いしぶたいこふん)
明日香村
石舞台古墳は、明日香村島庄にある一辺約50mの方墳です。墳丘の上部は失われて横穴式石室の巨大な天井石が露出しており、江戸時代には既に観光名所として知られていました。石室からは石棺の一部とみられる凝灰岩片が出土しています。古墳の築造にあたり、小規模古墳を壊して整地しており、墳丘の巨大さも相まって相当な権力者の墓であったことがわかります。一説には『日本書紀』で桃原墓(ももはらのはか)と呼ばれる蘇我馬子(そがのうまこ)(626年没)の墓であるとされます。
古墳の形状と埋葬施設が明らかとなっている石舞台古墳は、前方後円墳の次世代の権力者の墳墓の姿をよく伝えています。
『西国三十三所名所図会』(1853年発行)の絵図では、墳丘の周溝も埋まり、石舞台の石材周辺まで田畑が広がっていたことが分かります。
所:明日香村島庄
アクセス :近鉄橿原神宮前駅東口または飛鳥駅より奈良交通バス「石舞台」下車
参考動画:『【石舞台古墳】総重量約2,300トン!蘇我馬子が眠った巨大古墳でピラミッドとの共通点を発見!』河江肖剰の古代エジプト(Ch.) https://youtu.be/3J15sV3Tdls?si=hyaHL_fnfg-fi2Kg 案内は、明日香村教育委員会文化財課 西村慎治課長補佐さん
飛鳥文化と天平文化の中間,律令国家建設期の文化。初唐文化の影響を受けて清新で躍動的な風があり,次の天平文化に続くものとして両者を一括して奈良文化とする捉えかたもある。中国都城制を模倣した宮都造営が藤原京で完成。仏教はそれまでの私的な信仰から国家仏教としての性格を強め,官立の大寺も創建されて造寺・造仏が激増,仏教芸術は前代に比して著しく発達した優品を生み出した。代表的建築は薬師寺東塔で,彫像では優れた鋳造技術をうかがわせる薬師寺本尊などの金銅仏や,新技法の塑像・せん(つち偏に専)仏(せんぶつ)(粘土で型を抜き、焼いて作った板状の仏像 )・乾漆像が登場,絵画には大陸文化の影響が顕著な法隆寺金堂壁画・高松塚古墳壁画などがある。また文芸面では貴族社会における漢詩文の隆盛や,柿本人麻呂ら宮廷歌人による和歌の芸術的発展があった。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
資料:『難波宮とその時代 古代の大阪をめぐる』大阪歴史博物館 https://www.osakamushis.jp/news/2021/motto_ouchide/middle2.pdf
資料:『難波宮跡』日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/3099/
資料:『難波宮(後期)の復元』大林組プロジェクトチーム https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/digest_kikan_31_idea.html
難波宮(なにわのみや)は、現在の大阪市中央区法円坂付近に造営された古代の宮。
天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。また、難波宮から日本という国号、元号の使用が始まったとされ、孝徳天皇は改新の詔を発しその第2条で初修京師として難波宮を日本初の首都とした。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。
古墳時代、上町台地の先端付近、大王(おおきみ)と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の難波高津宮も難波宮が造られた法円坂付近にあったとする説が最も有力視されている[要出典]一方、応神天皇の難波大隅宮は現在の大阪市東淀川区大桐(大隅神社)、欽明天皇の難波祝津宮は兵庫県尼崎市東難波町(難波八幡神社)が比定地とされている。
概要
難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。
1913年(大正2年)、大阪城外堀南の法円坂で、奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、大日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本の降伏によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。
そこで、山根を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに、1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では、難波宮の跡なのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した。
しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、朱鳥元年(686年)正月「難波宮室が全焼した」という『日本書紀』の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)、これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。
1961年(昭和36年)、山根らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根は発見当時「われ、幻の大極殿を見たり」という言葉を残した。
乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。
天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。
宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。
天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原宮・平城宮・平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。
これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
なお、条坊制の存否については議論があるが、採用されていれば日本最古のものとなる。
『難波宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%AE
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。
名称
日本では白村江は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれる。白村を「はくすき」と読ませるのは卜部兼方の『釈日本紀』(鎌倉時代)によるもの[6]。20巻の「秘訓五」にて「白村」を「ハクスキ」とフリガナをし、注釈で「私記曰。白字音読。村読須支。」(『日本書紀私記』曰く。「白」の字は音読みし、「村」の字は「須支(すき)」と読む。)とある[6]。少なくとも奈良・平安時代から「はくすきのえ」と読まれていた。
錦江(当時は白江と呼んだ)が黄海に流れ込む海辺を「白村江」と呼んだ。つまり、白村江という地名は、川の名前ではなかった。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。
漢語では白江之口と書く(『旧唐書』)
背景
朝鮮半島と中国大陸の情勢
6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。[要出典]
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている[8]。
一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された唐は、628年に国内を統一した。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年・661年・667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。
唐による新羅冊封
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[9]。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。
百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[10]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[11]。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[12]。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊府元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた[12]。
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[12]。
倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出て来たことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
遣唐使
白雉4年(653年)・白雉5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。
百済の役
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[13]。
百済滅亡
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[14][15]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[15]。百済に攻め入っていた[16]。
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[15]。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[15]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた[15]。
黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍階伯らが待ち伏せていた。新羅側は太子金法敏(後の文武王)・金欽純(きん きんじゅん)将軍・金品日(きん ひんじつ)将軍らが黄山を突破しようとしたが、百済軍に阻まれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍を阻み四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した[15]。この黄山の戦いで新羅軍も多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れた。唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち、斬られそうになったが蘇定方の部下が取り成し罪を許された[17][18]。
唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った[19]。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した[19]。
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否[19]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏した。7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した[19]。
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おう ぶんたく)を熊津都督として派遣した[14](熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた[12]。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている[7]。
百済復興運動
唐の目的は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去するためのものだった。唐軍の主力が高句麗に向かう[20]と、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模な反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん、現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した[21]。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[21]。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4、5個の柵を作って駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して、20余城が百済復興運動に応じた[21]。熊津都督王文度も着任後に急死している[21]。
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できず、新羅軍が百済残党の掃討を行った。10月9日にニレ城を攻撃し18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[22]。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した[22]。
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・僧道琛らの任存城や、達率余自信の周留城などが抵抗拠点であった[22]。
倭国による百済救援
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵を挙げ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに唐・新羅との対立を深めた。
661年、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死した(暗殺説あり)。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、造船の責任者の朴市秦造田来津を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。
戦いの経過
661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻だった。
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁願及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。
一方の大和朝廷側は強力な権限を持った統一指揮官が不在であり、作戦も杜撰であった。唐と比較して対外戦争経験も乏しく、加えて全体兵力も劣っていた。前述されたように、百済側の人員も意思統一が全くされておらず、この時点で内紛を起こしているような状態であった。
海上戦
倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年8月28日、唐・新羅水軍に大敗した。
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『日本書紀』)。
陸上戦
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。
白村江に集結した1,000隻(『三国史記』新羅本紀第七による)の倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許された、との記録がある。
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
援軍が近付くと、豊璋は城兵らを見捨てて拠点であった周留城から脱出し、8月13日に大和朝廷軍に合流した。しかし敗色が濃くなるとここも脱出し、数人の従者と共に高句麗に亡命した。
戦後の朝鮮半島と倭国
白村江の戦いは、中原の再統一により東ユーラシア全域に勢力が跨る世界帝国である唐が現出し、それに伴って北東アジアの勢力図が大きく塗り変えられる過程を決定的にした戦役と言える。以下、朝鮮半島および倭国における戦後の状況について解説する。
朝鮮半島
高句麗の滅亡
白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった[25]。
渤海の建国
698年、靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に満州南部で渤海国を建国した。建国当初は唐と対立していたものの、後に唐から冊封を受け臣従するに至った。また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。
新羅による半島統一
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏と兵士を多数捕虜にした。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の朝鮮半島の大部分)がなされた。
倭国
戦後交渉および唐との友好関係の樹立
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府の1つ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた[26]。
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている[27]。後述するように天武期・持統期に一時的に中断したものの、遣唐使は長らく継続され唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
捕虜の帰還
『日本書紀』によれば、白村江の戦いの後の671年11月に、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋(比珍島)に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。この中には、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が含まれており、捕虜返還を前提とした上での唐への軍事協力が目的であったとされる[28]。
684年(天武13年)、猪使連子首(いつかいのむらじこびと)・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の白村江の戦いにおける捕虜帰還である。
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元実児(ゆげのむらじもとさねこ)[25]の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた[29]。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしこりのとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部形見(こせべのかたみ)らも帰還した[30]。このほかにも、696年に報賞を受けた物部薬(もののべのくすり)、壬生諸石(みぶのもろし)の例が知られている[31]。
防衛体制の整備
白村江における倭国軍の実態は国造軍による連合軍であったが、過去にも何度も朝鮮半島への出兵も経験していることから、必ずしも動員や兵站の面で過小評価は出来ないが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦などで唐・新羅連合軍に圧倒された[32]。倉本一宏は仮説としながらも「とんでもない可能性」として、天智天皇は旧態依然の豪族の排除と軍制の解体を目論んで、勝てないのを承知の上で開戦に踏み切ったとする可能性もあるとする[33]。
白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京(大津宮)へ移し、ここに防衛体制は完成した。
中央集権体制への移行と国号の変更
671年に天智天皇が急死[34]すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。
皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。
天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。
百済遺民の四散
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。
百済王の一族、豊璋王の弟の善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。
史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる[35]。
『白村江の戦』Wikipedia 日本語版
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
独自研究が含まれているそうです。
백강 전투(白江戰鬪, 중국어: 白江口之战→백강구 전투, 일본어: 白村江の戦い→백촌강 전투)는 663년 8월에 신라의 백강(현재의 금강 하구 부근)에서 벌어진 백제·왜국의 연합군과 당·신라의 연합군이 벌인 전투이다. 당·신라 연합군의 승리로 끝났다. 중국의 통일왕조 당이 등장하여 동아시아의 세력 판도가 새롭게 바뀌며 일어났던 전쟁이며, 왜국의 참패로 인해 왜국의 국방·정치제제의 변혁이 일어난 원인이 되었다. 또한 백제 부흥운동이 실패하는 등 신라의 삼국통일에 결정적 영향을 미쳤다.
배경
581년에 건국된 수나라가 중국을 통일하자 위기를 느낀 고구려는 왜국과의 강화를 모색하면서 승려 혜자를 왜국에 파견하는 관계 개선에 나섰다. 한편 문제・양제의 치세에 4번에 걸친 대규모 고구려 원정의 실패로 세력이 약화된 수나라는 618년에 멸망했다. 이후 당나라가 628년에 중국 대륙을 통일한 후, 당 태종・당 고종은 고구려를 644년~648년에 걸쳐 공략했지만 실패하였다.
627년 백제가 신라를 공격하자, 신라는 당에 원조를 요청했다. 이때는 당이 내전 중이어서 원조 요청이 받아들여지지 않았지만 백제가 당과 적대 관계가 되면서, 선덕여왕(632년~647년)은 김춘추(훗날 태종무열왕)를 통해 친당 정책을 펼쳤고, 654년에 태종무열왕이 즉위하자 양국 관계는 더 친밀해졌다. 648년부터 신라와 당의 사이에 백제 공격이 논의되고 있었다.[1] 한편, 649년 신라에서 김다수(金多遂)가 왜국에 파견되는 등 왜에 대한 외교도 활발해졌다. 당시 왜국에서 나카노오에(훗날 덴지 천황)이 쿠데타를 일으켜 집권하자, 급진 개혁 세력은 당과 그 동맹국 신라를 자국의 중앙집권화를 위한 개혁 모델로 삼아 다이카 개신이라는 정치개혁을 추진하면서 신라와 빠른 속도로 가까워졌다. 당시 신라의 실력자였던 김춘추도 직접 왜로 건너가 왜 조정과 교섭하면서, 왜의 귀족들에게 "용모가 아름답고 말이 시원시원하다"는 인상을 심어주기도 했다.(647년) 백제를 정복하기 위해서는 백제의 동맹국이었던 왜국을 떼어내는 것이 신라로서는 중요한 문제였다.
하지만 백제와 왜국을 갈라 놓으려는 신라의 노력은 결국 실패로 돌아갔는데, 이는 백제 계통으로 추정되는 왜의 유수의 호족 소가(蘇我) 일족과 긴밀한 통혼 관계에 있던 나카노오에 황자(中大兄皇子)가 649년부터 왜국의 실권을 잡으면서 친백제 세력이 친신라보다 우세해졌기 때문이다. 당시 왜국의 외교 정책에 대해서는 여러 설이 있지만, 당이 왜의 전통적인 우호국 백제를 해상으로 공격할 가능성이 제기되면서 왜는 전통적인 우호 관계였던 당과 백제 중에서 양자택일을 강요당해야 했던 것은 분명하다.[3] 또한 신라의 급속한 발전이 왜에 불안을 가져왔다는 지적도 있다. 하쿠치(白雉) 2년(651년)에 신라에서 왜에 파견한 사찬 지만(知萬)이 세련된 관복을 입고 있는 것을 보고, 이를 불쾌하게 여긴 왜의 좌대신 코세노 토쿠타(巨勢徳陀子)가 왜의 실질적인 실력자였던 나카노오에 황자(中大兄皇子, 후의 덴지 천황)에게 신라 정벌을 진언했으나 받아들여지지 않았다.
660년 음력 8월 29일 나·당 연합군에 의해 백제가 멸망했다. 당은 백제의 옛 영토를 지배하에 두었지만, 곧 유민들이 투쟁하였다.
전쟁의 경과
660년에 나·당 연합군의 공격으로 백제의 수도 사비성이 함락되고, 의자왕을 비롯한 귀족들이 당에 끌려가고 당군의 약탈로 많은 백성들이 약탈되는 와중에, 멸망한 백제의 귀실복신·흑치상지 등을 중심으로 백제 부흥운동이 일어났다. 복신은 당시 왜국에 체류 중이던 백제의 왕자 부여풍을 임시 왕으로 추대하는 한편 왜국에 원병을 요청했다. 《일본서기》에는 왜병의 파병을 다음과 같이 기록하고 있다.
제1파: 부여풍을 호위하기 위한 1만여 인의 선발부대. 선박 170여 척. 661년 5월 출발.
(지휘관: 아즈미노 히라후, 사이노 아치마사, 에치노 다쿠쓰)
제2파: 군의 주력이라고 할 수 있는 2만 7천 인. 662년 3월 출발.
(지휘관: 카미츠케누노기미노 와카코, 아베노 히라후)
제3파: 이오하라기미(廬原君)가 이끄는 1만여 인. 663년 8월 출발.
기록상 왜국의 파병은 세 차례에 걸쳐 이루어졌다. 당나라의 국력은 중국 역사상 최강이었기 때문에, 백제 부흥군을 지원하는 일은 쉽게 결단하기 어려운 것이었다. 부흥군 지도자였던 귀실복신이 원병 요청과 함께 당시 왜국에 인질로 체류하고 있던 백제의 왕자 부여풍의 귀환을 요청한 것은 660년 10월의 일이었지만[7], 왜 조정에서 풍을 신라로 보낸 것은 661년 9월의 일이었다.
곧 왜국은 부흥운동에 원조를 실시했는데, 사이메이 천황이 661년에 급서한 뒤에도 황태자였던 나카노오에가 즉위식도 미뤄가면서 지원에 전력을 다했을 정도였다. 662년 1월에는 화살 10만 척과 곡식 종자 3천 석을 보내기도 하고, 두 달 뒤인 3월에는 추가로 피륙 300단을 보냈다.왜국이 '백제 지원에 나서도 되겠다'는 판단을 내린 배경에는 당시 고구려가 661년 12월에 있었던 당의 침략 시도를 좌절시켰다(《일본서기》)[10]는 소식을 접했기 때문이었다. 662년 1월, 연개소문의 군대가 평양 근교에서 당군 10만을 격퇴하고, 2월에는 군량이 떨어져 평양 근교에 고립되어 있던 당의 소정방이 고구려 경내까지 들어온 신라의 군량지원을 받아 간신히 퇴각한 것을 의식하여, '고구려와 함께 벌이는 전쟁이라면 손해볼 것이 없다'는 판단하에 부흥군 지원을 결정하게 되었다는 것이다.
663년 8월, 권력을 장악한 귀실복신과 부여풍의 싸움이 격화되어 결국 복신이 살해당한 뒤, 부여풍은 고구려와 왜국에 사신을 보내 원병을 청했다. 곧 신라는 백제 부흥군을 진압하고자 했고, 당은 웅진도독부의 유인원의 증원요청에 따라 유인궤(劉仁軌)가 인솔하는 수군 7천 명을 파병했다. 육지에서는 당의 손인사(孫仁師)·유인원 그리고 신라의 문무대왕이 이끄는 정예군이, 바다에서는 당의 두상(杜爽)과 부여융이 이끄는 170여 척의 왜군이, 수륙협공으로 신라의 주류성으로 진격했다. 이때 육지에서는 백제의 기병이 진을 치고 신라군을 막았고, 해상에서는 왜선이 강변의 모래밭에 정박해 대기하고 있었다. 왜병 선단은 전군을 셋으로 나누어 공격했지만 전술 및 간조의 시간차로 인해 나당 연합군에 비해 수적으로 우세였음에도 불구하고 네 번 모두 완패했다. 백강에 집결해 있던 1천 척의 함선 가운데 4백 척이 불탔으며, 신·구《당서》와 《자치통감》, 그리고 이들 사료를 참조한 《삼국사기》는 이때의 싸움을 두고 "연기와 불꽃은 하늘을 붉게 물들였고, 바닷물마저 핏빛이 되었다"고 기록했다. 왜병의 장수였던 에치노 다쿠쓰는 하늘을 보며 맹서한 뒤 이를 갈며 수십 명을 죽이며 분전했지만 끝내 전사했고, 규슈의 호족이었던 치쿠시노기미 사쓰야마(筑紫君薩夜麻)도 당병에 붙들려 8년 동안이나 포로로 당에 억류되어 있다가 귀국을 허락받았다. 부여풍은 몇 사람의 측근만 거느린 채 배 한 척에 의지해 고구려로 도주하고, 백강에서 대패한 왜병은 각지에 흩어져 있던 왜병과 남부여 유민들 중 망명을 원하는 이들을 배에 싣고 당의 수군에 쫓기며 간신히 귀국했다. 육지에서도 나·당 연합군이 왜의 기병을 물리치고 주류성을 함락시킴으로써, 백제 부흥 세력은 완전히 궤멸되었다.
영향
귀실복신의 죽음과 내분이 겹치고, 왜병마저 당의 수군에게 궤멸되면서 결국 백제 부흥 운동은 실패로 끝났다. 결국 부흥군 지휘부와 백제 유민들은 왜국으로 망명했다. 《일본서기》에 따르면 663년 9월에 주류성이 함락되었을 때, 백제 귀족들은 "오늘로서 나라의 이름이 끊어졌으니 조상의 무덤도 다시 찾아뵙지 못하게 되었다"며, "호례성에 가서 왜군 장수들과 논의해야 할 일을 상의하자"고 입을 모았다.
왜는 백제 난민들을 수용하는 동시에 신라나 당과의 대립은 깊어졌다. 왜의 조정은 이러한 상황을 국내 정치에 반영하여 중앙집권화에 이용하려 했는데, 덴지 천황 때에 책정된 오오미령(近江令)부터 덴무 천황 때에는 왜국 최초의 율령법으로 여겨지는 아스카기요미하라령(飛鳥淨御原令)의 제정이 이루어지면서 율령국가의 건설이 급속도로 진행되었다. 그리고 다이호 율령(701년)의 제정으로 국호를 왜에서 일본으로 바꾸어 신국가의 건설은 일단 완성되었다. 결과적으로 왜국 내부의 위기감이 정치적 목적으로 이용되면서 일본이라는 율령국가 수립의 한 토대가 된 것이다.
또한 한민족의 새로운 단일 국가인 신라와 친해지지 않으면 신라와 당의 연합이 왜국을 정복할 수도 있다는 판단 아래, 왜는 665년부터 신라와의 국교를 정상화하고, 왜의 중신이던 나카토미노 가마타리가 나서서 신라의 문무왕과 함께 신라의 명장 태대각간 김유신에게 조공을 바치는 등, 8세기 초까지 신라와의 교류에 적극적이었다. 훗날 원효나 의상 등의 신라 승려들이 나중에 본국보다 일본에서 더 유명해질 수 있는 정치·외교사적 배경이 되었다고 여겨진다.
한편 왜로 망명한 백제 유민들은 왜국에서 신분을 유지하며 살 수 있었다. 부여풍의 동생 부여선광(扶餘禪廣, 또는 扶餘善光)은 백제 부흥 운동이 실패한 후, 왜국에 귀화해서 구다라노고니키시(百濟王)라는 카바네를 받아 왜국의 귀족 관료 사회에 편입되었다. 이후 749년에 무쓰(陸奧)에서 금광을 발견하여 나라 대불의 건립에 공헌한 공로로 구다라노고니키시 쿄후쿠(百濟王敬福)가 종3위를 하사받고 형부경(刑部卿)의 직위까지 역임하기도 했다. 이밖에 좌평이었던 백제의 왕족 여자신(餘自信)은 지금의 일본 오카야마현 쓰야마시 다카노에 정착하여 다카노 미야쓰코(高野造) 집안의 선조가 되었으며 그 지역에 타카노 신사가 있고, 400명의 유민과 함께 왜로 향했던 귀실집사는 왜로부터 12위인 소금하(小錦下)의 관위를 얻었고, 학직두(學職頭)라는 직책을 받아 유교 교육기관의 책임자가 되는 등 학문적 소양을 인정받기도 했다.
귀실집사는 오미 국(近江國)(지금의 일본 시가현)의 간자키(神前) 지방에서 집단 거주하다가 669년 왜 조정에 의해 여자신 집단과 함께 약 700명의 백제 유민들이 황무지였던 가모노고오리(蒲生郡)에 이주되었다고 한다.
이설·속설
7세기까지 규슈 북부에 일본 열도를 대표하는 왕조가 있었다는 후루타 타케히코(古田武彦) 등의 규슈왕조설(九州王朝說)에 따르면, 백강에서 나·당 연합군과 싸운 왜의 정체는 사실 기나이 정권이 아니라 다자이후(大宰府)를 수도로 삼고 있던 규슈 왕조의 군사들이었다고 한다. 그러나 일본 고대사학계에서는 사료 비판과 같은 역사학의 기본적인 절차조차 밟지 않은 학설이라며 "학설로서 비판이나 검증을 받을 가치도 못 된다" 하여 무시되고 있다. 일본의 주요 학술 잡지에서 이러한 '규슈 왕조설'를 긍정적으로 채택한 학술 논문은 하나도 없으며, 일반적으로 규슈 왕조를 언급하는 주장은 신빙성 있는 학설로 취급되지 못한다.
"백강전투"wikipedia https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%B1%EA%B0%95_%EC%A0%84%ED%88%AC
백제가 멸망한 뒤인 663년에 백제 부흥군과 왜(일본)의 연합군이 신라와 당의 연합군에 맞서 백강에서 벌인 싸움이다. 백강 전투에서 이긴 신라는 이후 삼국 통일의 기반을 닦게 되었다.
풀이
660년 백제는 멸망하였으나 이곳저곳에서 백제를 다시 일으켜 세우려는 백제 부흥 운동이 벌어졌다. 당나라가 백제 부흥군을 공격하기 위해 더 많은 군대를 보내자, 백제 부흥군은 왜에 군사 원조를 요청했다. 오랫동안 백제와 우호 관계를 맺어온 왜는 세 차례에 걸쳐 총 4만여 명의 병력을 파견했다.
백제 부흥군과 왜의 연합군은 663년 백강에서 네 차례에 걸쳐 나당 연합군과 전투를 벌였다. 일본의 역사책인 《일본서기》에는 백강을 ‘백촌강’으로 적고 있는데, 백강이 구체적으로 어디인지는 아직까지 밝혀지지 않았다. 다만 바다에서 백제의 중심부로 향하는 물길 가운데 하나일 것으로 추측하고 있다.
백제 부흥군은 나당 연합군을 맞아 치열하게 싸웠지만 왜의 함선 대부분이 불에 타는 등 큰 피해를 입고 패했다. 그리고 백강 전투의 패배로 백제 부흥 운동도 큰 타격을 받고 약화되었으며, 이후 지도층의 내분까지 생겨나면서 실패하고 말았다.
심화
백제와 교류하며 친밀한 사이었던 ‘왜’는 일본의 옛 나라 이름이다. 주로 우리나라와 중국에서 ‘왜’라는 이름을 사용했다. 왜는 한반도에서 삼국이 서로 경쟁하며 발전하던 시기인 5세기 경에 오사카를 중심으로 국가를 이루었다. ‘일본’이라는 이름을 사용하기 시작한 것은 수도를 나라 지역으로 옮긴 8세기 초에 이르러서였다. 백제가 멸망한 뒤에는 백제 유민들이 왜로 많이 건너가 문화 발전에 큰 도움을 주었다.
[네이버 지식백과] 백강 전투 - 백제 부흥군과 왜의 연합군이 나당 연합군과 벌인 싸움 (한국사 사전 2 - 역사 사건·문화와 사상, 2015. 2. 10., 김한종, 이성호, 문여경, 송인영, 이희근, 최혜경, 이승수)
”백강전투”한국사 사전 2 - 역사 사건 · 문화와 사상 https://terms.naver.com/entry.naver?docId=3560106&cid=47306&categoryId=47306
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩御後に朝廷の指導者となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
史料上は「近江大津宮」のほかに「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある[1]。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
概要
背景
斉明天皇6年(660年)、百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。倭国(後の日本)にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。
百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。
遷都
このような状況下で、天智天皇6年(667年)3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(668年)1月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令(おうみりょう)が制定されたともいわれる。 なお、この遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。また、大津を遷都先に選んだ理由については、対外関係上の危機感が強く働いていたと思われる。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためとする説がある。日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。
廃絶とその後
天智天皇10年(671年)、天皇が崩御すると、子の大友皇子が近江朝廷の首班となった。生前の天智天皇から皇太子に指名されていた大海人皇子は近江朝廷に反旗を翻し、天武天皇元年(672年)6月に吉野から東国へ脱出。美濃国を拠点に軍兵を徴発して近江へ進軍し、同年7月、近江朝廷軍を破って大友皇子を自殺に追い込んだ(壬申の乱)。勝利した大海人は即位して飛鳥に浄御原宮を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となった。この期間を近江朝(おうみちょう)と呼ぶこともある。
万葉集には、柿本人麻呂が滅亡後の近江大津宮へ訪れて往事を偲んだ歌「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」が残されている。奈良時代には近江国の国府が近郊の瀬田(現在の大津市瀬田)に置かれ、大津宮の跡地は「古津(古い港の意味)」と呼ばれるようになった。しかし平安京遷都とほぼ同時期の延暦13年(794年)11月8日、桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔によって「大津」の呼称に復され、それ以降、大津地域は京都の外港や衛星都市・双子都市として発展していく。
所在地と遺構
日本書紀や『懐風藻』『藤氏家伝』などには「内裏」「宮門」「大殿」「仏殿」「漏剋台」「内裏西殿」「大蔵省」「浜楼」など宮の構造をある程度推定し得る施設名が見えているが、所在地については何ら明示されていない。ただ、『今昔物語集』『元亨釈書』や園城寺の寺誌には、大津宮西北の滋賀山中金泉谷(現在の大形谷)に崇福寺が建立されたとの記載があり、この位置関係を唯一の根拠として、近世以来、錦織(御所ノ内)説、南滋賀説、滋賀里説、穴太説、粟津説などが唱えられた。
1974年(昭和49年)、錦織一丁目の住宅地の一画で発掘調査が行われ、初めて内裏南門跡と考えられる13基の柱穴が発見された。柱穴からは670年頃の時期を示す須恵器・土師器片が出土したため、錦織遺跡が大津宮の遺構と断定されるに至った。住宅街のため早急な調査範囲の拡大は困難だったが、住宅の新築や増改築などに伴って発掘が積み重ねられた結果、南門から東西に伸びる回廊(複廊)を境に、北側には内裏正殿とそれを囲む板塀、南側には朝堂院と想定される空間が広がっていることなどが判明した。遺構の復原に携わった林博通によれば、大津宮は構造上、前期難波宮(孝徳天皇の難波長柄豊碕宮)との類似点が多く見出され、前期難波宮をやや変形・縮小して造営されたものと評価されている。錦織地区は西側の丘陵が湖岸付近まで迫り平地が極端に狭いため、遺構の立地可能な範囲は最大限でも南北700m、東西400m程度とみられる。1979年(昭和54年)に近江大津宮錦織遺跡として国の史跡に指定され、一部は公園化するなど保存が図られている。
近江京と「大津京」
日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。
一方で、平安時代の承和6年(839年)、朝廷は京職と諸国の国司に対して庚午年籍を写して中央(中務省)への提出するように命じている。京職が扱っている戸籍は京戸、すなわち京に属する人々の戸籍であり、京職がこの命令を受けたことは庚午年籍が編纂された天智天皇9年(670年)には京戸とその前提となる京が存在していたことになる、という指摘もある(ただし、この指摘は大津宮のあった時代に「京」の概念が存在していたという指摘であり、条坊制の存在を意味するものでは無い)。
明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。
また、JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により2008年3月に「大津京駅」に改称されたが(その後京阪石山坂本線の皇子山駅も2018年3月に「京阪大津京駅」に改称)、「大津京」という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている。
壬申の乱で敗死した弘文天皇(大友皇子)の御陵は1877年に長等山山麓の一古墳が陵墓として選定された。 大津宮の南部に位置しており、天智天皇と大友皇子が住まわれていたとされる場所(現在の皇子山総合運動公園)の西隣の山際にあたる。
『近江大津宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE
壬申の乱は、672年(壬申の年)に大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)と大友皇子(おおとものおうじ、弘文天皇)の間で勃発した皇位継承を巡る内乱です。天智天皇の死後、後継者を巡る争いが原因で、大海人皇子が挙兵し、近江朝廷の大友皇子と戦いました。最終的に大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。
壬申の乱の主な出来事:
天智天皇の死と後継者問題:
天智天皇が崩御し、皇太子であった大友皇子と、弟の大海人皇子の間で後継者争いが勃発しました。
大海人皇子の挙兵:
大海人皇子は、近江朝廷が自分を狙っているという情報を得て、吉野で挙兵しました。
各地での戦い:
大海人皇子は、菟田(宇陀)、伊賀、鈴鹿、美濃、尾張など各地で豪族を味方につけ、近江朝廷軍と戦いました。
瀬田橋の戦い:
最終決戦は、近江の瀬田橋で行われ、大海人皇子率いる軍が勝利しました。
大友皇子の自害:
大友皇子は敗走し、自害しました。
天武天皇の即位:
大海人皇子は、勝利後、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
壬申の乱の影響:
古代国家の再編:
天武天皇は、壬申の乱での勝利を基盤に、天皇を中心とした古代国家の再編を進めました。
律令国家体制の確立:
天武天皇の政策は、後の律令国家体制の確立に繋がりました。
歴史認識の変化:
壬申の乱は、古代史における重要な転換点として、後世に大きな影響を与えました。
壬申の乱は、古代日本の歴史において、皇位継承のあり方や国家体制の確立に大きな影響を与えた重要な出来事です。
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壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[注釈 1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。
名称の由来は、天武天皇元年(672年)が干支で壬申に当たることによる。
『壬申の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が天武天皇13年(684年)に新たに制定した、八つの姓(カバネ)。八姓(はっしょう)あるいは天武八姓(てんむはっしょう)などとよぶこともある。
上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)。
概要
『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月一日条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」とある。同日には守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・羽田公・酒人公・山道公など13氏に真人の姓を授られた[1]。11月1日には大三輪君など52氏に朝臣、12月1日には大伴連など50氏に宿禰、翌年天武天皇14年(685年)6月には大和連など11氏に忌寸の賜姓が行われた。ただし道師および稲置の賜姓については記録が残っていない。また臣と連については天武天皇10年から13年1月にかけて複数の士族に賜姓が行われているが、八色の姓制定後には賜姓の記録がない。
真人が授けられたのはすべて公姓を持っていたものであり、応神天皇の子孫を称した息長公・羽田公・山道公のほかは、継体天皇以降の天皇の子孫を称した、五世以内に天皇の先祖を持つ氏族であった。朝臣姓をうけた52氏のうち、40氏が臣、10氏が君、2氏が連の姓をもっており、天皇の後裔であるが疎遠な氏族が多く含まれていた。宿禰姓を受けたものは諸会臣をのぞいてすべて連姓であり、多くが天孫・天神の後裔を称していた。忌寸姓はかつて渡来人の子孫にあたえられていたという説があったが、実際には半数程度の5氏のみであり、直・造・吉士等の姓を受けたものが、連姓に昇格したものに与えられている。
新しい身分秩序
『古語拾遺』は八色の姓を壬申の乱の報奨としてとらえているが、功臣に対する報奨は主に位階で行われており、太田亮、黒板勝美、坂本太郎らは天武による氏族制度の再編策であるとみている。黒板勝美は天武天皇が古代以来の氏族制を時代に適応させようとしたとして、明治時代に華族・士族・平民へと人民の区分を分けたのに匹敵する大改革であると評している。
旧来の臣・連・伴造・国造という身分秩序にたいして、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族とをはっきり区別した。 ただし、すべての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。そのために古くからあった姓である君・臣・連・伴造・国造などもそのまま残っていた。従来から有った、臣・連の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。
また、のちの冠位制度上の錦冠の官僚を出すことのできるのは真人、朝臣、宿禰、忌寸の姓を持つ氏に限られていたようである。
氏姓制から令制官僚制へ
680年(天武10)飛鳥浄御原令の選定を開始したことに見られるように、また、八色の姓の詔にも見られるように、旧来の氏族制度を改革し、新しい国家体制に即応出来る官僚制創造の政策の一環であった。
奈良時代から平安時代に至って、朝臣姓を称する源・平・藤・橘の四姓が隆盛になり、また菅原氏・伴氏などのように他の姓からあらためて朝臣姓を受ける氏が増加したことで、姓そのものは積極的な意味をなさなくなった。しかしその後も姓を名乗る慣習は残り、明治時代の本姓廃止まで続いた。
『八色の姓』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%89%B2%E3%81%AE%E5%A7%93
天武天皇のとき制定された古代の法令で,令は 22巻,律の巻数は不明。天武 11 (682) 年編纂に着手,持統3 (689) 年施行され,文武天皇の大宝2 (702) 年『大宝律令』の施行まで続いた。先行の『近江令』との関係は不明な点が多いが,大化改新以来の法令,制度,中国の法令,制度を参照したものとされる。現存はせず,『日本書紀』などから断片的に復元されるにすぎないが,『大宝律令』の基礎となったといわれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
天武天皇
無文銀銭(667年 - 672年) - 天武天皇12年の条は、それまで流通していた無文銀銭を実質価値を伴わない富本銭で置き換えるよう指示した。これは、恐らくは等価値と言う信じられない交換比率を押しつけたため庶民が拒否した状況を示すものと考えられる。律令政府は、このときの失敗を教訓に、今度は改元という重大事項まで演出して無文銀銭をまず和同開珎銀銭で置き換え、さらに銀銭を和同開珎銅銭で置き換えていくという用意周到なシナリオを準備し、さらに銀銭廃止と名目価値を高く設定した銅銭の普及を図ったものとみられる[44]。
富本銭(683年頃) - 1999年1月19日に奈良県明日香村から大量に発見され、定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。
飛鳥池遺跡の発見と富夲銭
平成10年の夏、奈良県の飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)から、約40枚の富夲銭(ふほんせん)が見つかりました。その富夲銭は、完成品や失敗作、さらには鋳型(いがた)や鋳棹(いざお)などとともに7世紀後半の地層から発掘されており、それまで日本最古の貨幣として考えられていた和同開珎(わどうかいちん[ほう])のつくられた708年[和銅(わどう)元年]よりもさらに古いことが、初めて明らかになりました。
かつてそこは、藤原京の繁栄を支える官営の工業団地でした。そのなかで富夲銭は、仏具や装飾品、武器などとともに製造されていました。以前にも富夲銭は、幾つかの発見例はあったものの、数も少なかったために、通貨ではなく副葬品などの「まじない銭」[厭勝銭(ようしょうせん)]だったという説が有力でした。また、これまでは「日本書紀」683年[天武(てんむ)12年]の記述にある「今より以後必ず銅銭を用いよ」と書かれている銅銭が一体何を指しているのかが謎でしたが、今回の発見により、それが富夲銭である可能性がますます高くなりました。
富夲銭の意味
銅銭表面の上下にある「富夲」の文字には、「国や国民を富(と)ませる夲(もと)が貨幣である」という内容の、中国の古典から引用されたとみられています。また左右に並んでいる7つの星は、陰陽五行(いんようごぎょう)思想の陽(日)と陰(月)、そして木火土金水の五行を総称した七曜(しちよう)を現わし、貨幣が、形[円形方孔銭(えんけいほうこうせん)]からも銭文(せんもん)[貨幣の名称]からも、天地万物すべて調和のとれた状態であるという、中国の伝統的な貨幣思想を具現化しているものと考えられています。
富夲銭発見の意義
富夲銭はその重さや大きさが中国の唐の通貨、開元通寳(かいげんつうほう)とほぼ同一規格である[和同開珎はそれらよりも軽い]ことから、開元通寳をモデルにした日本最古の貨幣という説が有力になってきています。しかし、現時点では出土例も少なく、和同開珎との関係、通貨としての価値や機能、流通範囲など、まだ課題も多く残されており、今後の研究と新たな資料の発見が待たれています。
富夲銭は最古の貨幣か
歴史の教科書には、708年[慶雲(けいうん)5年]に武蔵(むさし)の国秩父郡(ちちぶごおり)から銅が献上され、年号を和銅とあらため、初めて和同開珎(わどうかいちん[ほう])という貨幣[銀銭と銅銭]が造られたと書かれています。しかし奈良県の飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)から発見された富夲銭は、それ以前の7世紀後半に飛鳥の中心地で作られていることが分かりました。日本最古と考えられる富夲銭について、この機会に考えてみませんか。
富夲銭の大きさ
奈良県飛鳥池遺跡から出土
直径平均2.44センチ、厚さ1.5ミリ前後。中央に6ミリ角の穴があり、重さは4.25グラムから4.59グラム。同時代の唐の銅銭、開元通寳(かいげんつうほう)と重さも大きさもほぼ同じ規格で作られています。
その他の出土例
長野県高森町の古墳から出土 長野県飯田市の遺跡から出土 富本銭の出土地
最初の富夲銭は、1985年[昭和60年]奈良平城京(へいじょうきょう)跡で和同開珎などとともに発見されました。その後、藤原京(ふじわらきょう)跡(奈良県)、難波京(なにわきょう)跡(大阪市)、さらに長野県下伊那郡(しもいなぐん)高森町の武陵地(ぶりょうち)古墳や飯田市座光寺(ざこうじ)の遺跡からも見つかっています。しかし40枚以上もの数が鋳型(いがた)や鋳棹(いざお)とともに発見され、その製造地として特定されたのは飛鳥池遺跡が初めてです。
古代の貨幣の作り方
このころの貨幣(穴あき銭)は、まず貨幣の元型を粘土板ではさんだもので鋳型(いがた)を作り、その中に溶かした銅を流し込んで作られていました。銅が冷えて固まったあと鋳型からはずし、1枚1枚タガネで切り離して整形していました。鋳型をはずしたばかりの貨幣は、製作前のプラモデルのように湯道(ゆみち)でつながっていて、まるで木のように見えることから「金のなる木」とも呼ばれています。
貨幣の価値
富夲銭の価値がどのくらいであったかは、まだ分っていませんが、奈良時代の和同開珎は1枚[1文]が1日分の労賃だったとされ、白米1升2合[約1.8kg]が買えました。
参考:『富夲銭について』三菱UFJ信託銀行より
https://www.bk.mufg.jp/currency_museum/exhibit/fuhonsen/index.html
富本銭と和同開珎
平成11年・1999年の正月気分も抜け切らない1月19日の夕方、テレビ・ラジオは一斉に「富本銭出土」のニュ―スを大々的に報道した。翌、20日の新聞各紙も、多くは一面トップにこの記事を載せた。そして、まだ新聞記事にゆっくり眼を通す暇もないうちから、和銅保勝会(会長 太田口八郎氏)へ、新聞・テレビ・ラジオの取材攻勢が始まった。質問は「和同開珎より古い富本銭の発見をどう思いますか」「和同開珎を日本最古の通貨としてきた和銅保勝会は活動方針を変えるのですか」という類に集中した。それらの記事を見る時、富本銭の出土という事実と、その結果に関連する周辺ニュ―スとの間に、かなり大きな隔たりがあって、誤った歴史判断に陥ったり、興味本位の推測が入り込むのではなかろうかという心配が出てきた。
そこで、あらためて「貨幣の歴史」と「日本史の中の和同開珎」というようなことを、考えてみることにした。(以下略)
参考:『富本銭と和同開珎』秩父市和銅保勝会(日本最古の通貨「和同開珎」秩父市和銅保勝会)
https://wadohosyoukai.com/wadokaichin/fuhon/
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。壬申の乱により即位した天武天皇の計画により日本史上で初めて唐風の条坊制が用いられた。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である。
天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、その皇后でもあった後継の持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し藤原京は成立した。 以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。
それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。
参考:『藤原京』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年6月3日(和銅元年5月11日)から、日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。
直径24mm前後の円形で、中央には、一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された唐の開元通寳を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。
現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にぎあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、そもそも和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある。唐に倣う(出典なし)目的もあった。
和銅元年5月11日(708年6月3日)には銀銭が発行され、7月26日(708年8月16日)には銅銭の鋳造が始まり、8月10日(708年8月29日)に発行されたことが『続日本紀』に記されている。銀銭が先行して発行された背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応するため、私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要だったからと言われている。しかし、銀銭は翌年8月2日(709年9月9日)に廃止された。材料として前出の武蔵国秩父一帯の銅鉱山のもののみが使用された、と誤解されがちであるが、それ以外にも長門国の長登鉱山や周防国の銅山から産出された銅なども使用された。都に近い京都府加茂町(鋳銭司遺跡)や近江、河内などで製造されたとされるが、和同開珎鋳造の跡が発掘された長門鋳銭所跡が有名である。『続日本紀』には、周防国の鉱山の銅が長門国に送られ、貨幣鋳造に使われていた旨の記録が残る。
分類
和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。かつ、古和同と新和同では成分も異なり、古和同はほぼ純銅である[3]。また、両者の銭銘は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。
古和同はさらに「不隷開」と「隷開和同」に分類される。「隷開」とは「開」の文字が隷書体風に「開」字の第2画と第5画に切れ目が入り開いたものをいう。新和同は全て隷開であり、古和同の隷開は古和同の中でも後期に相当し、新和同への過渡期のような存在であったと考えられている。しかし、古和同隷開の中には、「隷開の不隷開」と呼ばれる造りは隷開和同に類似するが「開」字の第2画と第5画が閉じたものも存在し単純ではない。
古和同には書体などが同型の銀銭と銅銭がそれぞれ存在し、最も初期鋳造と考えられる古和同不隷開は銀銭の方が現存数が多く、銅銭は極めて稀少である。一方、古和同隷開は銀銭の方が稀少である。新和同は銅銭のみで銀銭は確認されていない。新和同は平城京などから普遍的に出土し伝存数も多い。
古和同不隷開はさらに書体から、「大字」「小字」「笹手」「縮字」に分類され、それぞれ銀銭、銅銭共に同書体・同型のものが現存している。また孔の大きさから「狭穿」「広穿」と分類する方法もあり、隷開和同に「広穿」が多く「広穿隷開」の分類がある。
古和同初期(不隷開)と考えられるものの量目の測定例として、銀銭が 6.0 - 6.5 グラム、銅銭が 4.5 - 5.6 グラム、古和同隷開銀銭は 5.4 - 5.8 グラム、銅銭は 4.1 グラムであり、ほぼ銀と銅の密度に比例し同型、同体積に鋳造されたものと見られる。和同開珎の量目がどのように公定されていたかは不明であるが、新和同は約 2 - 4 グラムである。
流通
当時の日本はまだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれていることから、律令国家は農本思想の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。
発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された[注釈 2]。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年(延暦19年)に廃止された。
政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。760年(天平宝字4年)には萬年通寳が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開寳発行の後、779年(宝亀10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。
その後、延暦15年(796年)に4年後をめどに和同開珎、萬年通寳、神功開寳の3銭の流通を停止する詔が出された[14]ものの、実際に停止できたのは大同2年(807年)のことであり、それも翌年には取り消された。また、延暦15年の詔では全ての貨幣を隆平永寳に統一する方針が出され、そのための材料として回収された3銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは9世紀半ばと推定されている。
読み方 -珍寳論争-
「和同開珎」の銭銘がそもそも正史に現れず、当時どのように読まれていたかを検証する術はない。「わどうかいほう」と読む説と、「わどうかいちん」と読む説があり[18]、少なくとも江戸時代から論争の的となってきた[注釈 3]。
和同は、年号の「和銅」を簡略にしたものとする説と、年号とは関係がなく、「天地和同」「万物和同」「上下和同」というような、「和らぎ」とか「調和」という意味の、中国の古典にある吉祥語であるとする説がある。
開珎は「初めてのお金」という意味である。