北海道の
観光地
含・主な観光イベント
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
含・主な観光イベント
目次
大雪山国立公園(道北・道東・道央)は→日本の国立公園の項へ。
毎年 2月初旬に行なわれる北海道の冬最大の行事。期間は 7日間。1950年に札幌市の中学生と高校生が大通公園に六つの雪像を設置し,雪合戦などのイベントを催したところ好評だったことがきっかけで始まった(←ちよろぎ:この部分の出題頻発)。1953年に初めて高さ 15mの大雪像をつくり,1955年からは自衛隊が参加して大規模な雪像づくりの競い合いが始まった。1959年マスコミに取り上げられると全国から観光客が集まるようになり,1965年には真駒内に第2会場を設けるまでになった。1972年の札幌オリンピック冬季競技大会を契機に世界的に知られる行事となり,1974年には国際雪像コンクールも行なわれ,1983年に薄野第3会場が設置されたのに続き,1984年からは会期が 2日間から 7日間に拡大された。その後 2005年に真駒内会場が閉鎖され,2006年から 2008年はさとらんど会場,2009年からはつどーむ会場が第2会場となっている。3会場には陸上自衛隊,札幌市職員,市民ボランティア,市民グループ,国際雪像コンクールに参加する外国人グループの手による雪像が 200基以上も展示される。期間中は国内外から約 200万人の見物客が訪れる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
北海道:札幌市中央区大通西・大通東大通公園
中央区にある都市公園。大通の前身である後志通は、開拓使による札幌本府建設において、市街北半の官庁地区と南半の町家地区を分つ空閑地であった。おそらく江戸で堀や広小路・空閑地を火防地と位置付けたのと同様に、大通(後志通)も火防地の性格をもっていたものと思われる。北海道庁は明治二〇年代には大通を火防地(火防帯)と位置付けて建物の建設を許可せず、同三〇年代になると公園化がすすめられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
(北海道札幌市中央区大通西1~12)
「北の造園遺産」指定の地域遺産〔第2号〕。
1909(明治42)年大通公園は1871(明治4)年、北の官地と南の民地を分け隔てる幅58間の火防線として形成された。雪まつりの会場としても知られる。
大通公園
(北海道札幌市中央区)
「美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
北海道札幌市中央区の繁華街。中心となる狸小路商店街は全蓋アーケードで覆われ、飲食店などが立ち並んでいる。
出典 小学館デジタル大辞泉
札幌市中央区に所在する商店街。
狸小路は南2条と南3条の中通であり、道路名は「市道南2・3条中通線」。創成川河畔の西1丁目から西10丁目まである横長の街区になっている。「札幌狸小路商店街振興組合」に加盟しているのは西1丁目から西7丁目までのアーケード(全蓋式、国道36号部分は除く)がある区域であり、総延長約900メートル (m)、店舗数約200軒の北海道で歴史ある商店街の一つになっている。狸小路商店街は新しいものを積極的に採り入れており、札幌市に初めて電話交換局が設置された際にすぐ電話を設置したのが狸小路の商人であったほか、札幌市でラジオやテレビの放送が始まるとすぐに宣伝広告(コマーシャルメッセージ)を行い、商店街としていち早くインターネットを活用し、光ファイバーや無線LANによる商店街LANを構築している。24時間歩行者専用になっており、許可を得た車両以外の通行を禁止している。
『狸小路商店街』Wikipediaより抜粋
参考:『札幌駅』Wikipedia
札幌駅(さっぽろえき)は、北海道札幌市北区北6条西4丁目に所在する、北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の駅である。
概要
札幌市並びに北海道の代表駅かつJR北海道最大の拠点駅であり、道内各地とを結ぶ特急列車、北海道の空の玄関口である新千歳空港とを結ぶ快速「エアポート」、札幌近郊の通勤・通学輸送を担う普通列車などが多く発着し、JR北海道の駅の中で最も利用客数が多い駅である。駅番号は01とされており、道内各方面への起点と位置付けられている。また、JRの特定都区市内制度における「札幌市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。路線上は函館本線の単独駅であるが、列車運行上では2駅東隣の白石駅で分岐する千歳線、1駅西隣の桑園駅で分岐する札沼線(学園都市線)の列車も当駅へ乗り入れており、事実上3路線のターミナル駅となっている。
南口駅前広場を挟んで札幌市営地下鉄南北線・東豊線の「さっぽろ駅」(JR駅は漢字、地下鉄駅は平仮名が正式名称)と隣接しており、同駅が代替輸送の指定駅となっている。
札幌駅は交通の要衝としての位置付けが強いものの、繁華街・商業集積地としての位置付けは大通・すすきの地区に次ぐ二番手という状態が長らく続いた。しかし、2000年代初頭からは札幌都市圏への人口一極集中に加え、2003年の駅ビル「JRタワー」の開業などの駅周辺地域の再開発に伴い、札幌近郊のみならず道内主要都市や道外からの利用客が増加している他、鉄道利用客に留まらず商業などの集積においても大通・すすきの地区を凌ぐ新たな拠点へと成長した。近年では若年層を中心に「サツエキ」という通称で呼ばれることも多くなっている。
当駅では終電が全線同一時刻(23時59分)に発車する。
2030年度に予定される北海道新幹線札幌延伸の際に、当駅が始発・終着駅となる予定である。
南口広場は、土木学会デザイン賞 2004 優秀賞 受賞。
参考:『2030年度末開業を目指す新幹線「札幌駅」。新駅周辺再開発で注目の「創成イースト」とは』健美屋(不動産投資) https://www.kenbiya.com/ar/ns/region/hokkaido/7703.html
新しくできる新幹線の札幌駅は、札幌市の中心を流れ、市を東西に分ける創成川をまたいで作られる。これまで、札幌都市圏は創成川までといった概念だったのが、再開発が進む創成川の東側に広がりを見せている。
参考:『北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピック冬季競技大会招致』札幌市 北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピック冬季競技大会 招致活動の停止について https://www.city.sapporo.jp/sports/olympic/menu.html
参考:『2030年札幌五輪招致を断念 34年以降へ仕切り直し』日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH117F50R11C23A0000000/
参考:『2030年札幌オリンピック構想』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/2030%E5%B9%B4%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%A7%8B%E6%83%B3
2030年札幌オリンピック構想(2030ねんさっぽろオリンピックこうそう)は、札幌市が主体となって招致に取り組んでいた、2030年冬季オリンピック構想である。
札幌市は2014年より冬季オリンピックの招致活動を開始した。当初は2026年冬季オリンピックの招致を予定していたが、2018年9月に2026年大会の招致を断念し2030年大会の招致構想に変更。2023年10月には2030年大会の招致も断念し2034年以後の招致を目指すとしたが、2023年12月、招致活動の「停止」を宣言した。
2021年11月に札幌市が発行した開催概要計画(案)では、大会の名称は「2030北海道・札幌オリンピック・パラリンピック冬季競技大会」とされていた[1]。「北海道」が冠されているのは、全道を挙げた招致をアピールする目的からである[2]。
招致及び計画検討の経緯
札幌市は過去に1972年冬季オリンピックを開催した経験がある。また、1940年大会の開催も決定していたが開催権を返上した経緯があるほか、1968年大会、1984年大会にも立候補したが開催地投票で落選している。
21世紀に入り2003年頃から自民党や地元経済界から札幌市への夏季オリンピック招致の要望が高まり[3]、2016年または2020年大会の開催を目標として2005年3月には札幌市議会[4]・北海道議会が招致決議案を可決[5]。札幌市の試算では総経費1.83兆円が見積もられ上田文雄札幌市長(当時)は財政再建を優先し招致に難色を示し、2005年には市民1万人アンケートにて賛成33.3%・反対35.3%で僅かに反対派が上回ったこともあり2006年2月に夏季オリンピック招致見送りを表明。その後2010年には竹田恆和日本オリンピック委員会会長(当時)が札幌市に2017年アジア冬季競技大会への立候補を依頼した際に1972年冬季オリンピックの話題にもなりオリンピック招致への意欲が見られたことや、また夏季大会と比較して開催経費が少ないこともあり冬季オリンピックの再招致を目指す流れとなった。
2026年大会の招致構想と2030年大会への目標変更
2013年9月25日、上田市長が札幌市議会において、札幌オリンピック招致の調査費を2014年度予算に計上する意向を明らかにした。
2014年11月6日、札幌市議会が「2026年冬季オリンピックの札幌招致に関する決議」を賛成多数で可決した。また、10月に行われた市民1万人アンケートで66.7%が賛意を示したことや、札幌商工会議所も招致を求めたことなども受け、11月27日、上田文雄市長は市議会で2026年冬季オリンピックの招致を正式に表明した。
2016年7月7日、北海道議会が「2026年冬季オリンピック・パラリンピック競技大会の北海道招致に関する決議」を可決した[8]。同年10月6日に公表された開催概要計画において「2026北海道・札幌オリンピック・パラリンピック冬季競技大会」という呼称が採用された。同年11月8日、札幌市は日本オリンピック委員会(JOC)に開催提案書を提出した。
2017年11月9日、JOCは2026年冬季オリンピックの国内候補地の公募を締め切った。国内からは札幌市だけが立候補した[11]。2018年3月末、国際オリンピック委員会(IOC)が2026年大会の立候補に向けた「対話ステージ」募集を締め切り、日本を含む7か国が参加することになった。
しかし、2018年平昌(韓国)、2022年北京(中国)に続けて、3大会を連続してアジアで開催するのは厳しいと予想されたことや、2030年度末に予定されていた北海道新幹線の札幌延伸が前倒しされ、2030年大会に間に合う可能性が出てきたことから、2018年5月14日、秋元克広札幌市長がJOCの竹田恆和会長(当時)に面会し、招致ターゲットを2030年冬季大会に変更する意向を伝達した。さらに、同年9月6日に北海道胆振東部地震が発生したため、招致活動が困難になったとして、9月17日、札幌市の町田隆敏副市長とJOCの竹田会長はIOCのトーマス・バッハ会長とスイスのローザンヌで面会し、2026年大会の招致断念と、2030年大会招致への切り替えを通達した。
2030年大会の招致
2020年1月29日、JOCは、札幌市を2030年冬季大会の国内候補地として正式決定した[17]。
2021年11月、開催概要計画(案)が公表された。
施設整備費合計:800億円(うち、札幌市実質負担額450億円)
大会運営費試算:2,000 - 2,200億円
2022年11月、北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピック冬季競技大会概要(案)更新版が公開された[19]。
施設整備費合計:770億円(うち札幌市実質負担額490億円)
大会運営費試算:2,200 - 2,400億円
2022年9月8日、「北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピック 冬季競技大会に向けて」と題して秋元克広札幌市長とJOC山下泰裕会長が共同声明を発表した。
2022年12月6日、IOCが2030年大会の開催地を2023年に実施する第140次IOC総会で決定しないことを公表した。
北海道札幌市豊平区羊ケ丘にある北海道内でも屈指の観光名所である。南東方向から札幌市街を展望でき、それを背景として腕を伸ばしたウィリアム・スミス・クラーク博士の全身像が展望台内に置かれている風景は有名である。
概要
さっぽろ羊ヶ丘展望台は札幌市街地や石狩平野を見渡すことができる札幌市の南東部に位置する緩やかな丘の上にあり、市街地の景色を背景に丘の上で羊が牧草をはむ風景は牧歌的な印象を与える。麓には札幌ドームがあり、その形が展望台から良く見える。
丘の上に立つクラーク像は北海道の開拓者精神の象徴であり、彼の有名な言葉である「Boys, be ambitious (少年よ、大志を抱け)」と併せてよく知られている。
所在地
所在地は北海道札幌市豊平区羊ケ丘1番地。国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構北海道農業研究センターの敷地内にある。
沿革
さっぽろ羊ヶ丘展望台のある羊ケ丘地区には戦前「農林省月寒種羊場」があり、その頃から札幌の観光名所として知られるようになった。戦後になると観光客の数が増加し、北海道農業試験場(現在の北海道農業研究センター)は研究に支障がでるとして入場を一時制限。関係自治体や観光関係団体は入場を制限されると観光事業に影響が出るとして試験場を開放するよう陳情し、1959年(昭和34年)札幌観光協会が運営・管理する形で敷地の一部の入場が許可され、さっぽろ羊ヶ丘展望台がオープンすることとなった。
1959年(昭和34年)
さっぽろ羊ヶ丘展望台がオープン
1972年(昭和47年)
札幌冬季オリンピックで使用されたオーストリア館を移設
1976年(昭和51年)
クラーク像建立
1984年(昭和59年)
羊ヶ丘ウェデイングパレス(現在のクラークチャペル)開館
1985年(昭和60年)
羊ヶ丘レストハウスの建設
1991年(平成3年)
「恋の町札幌」歌謡碑の建立
1999年(平成11年)
新館「羊ヶ丘ウェディングパレス」建設
2001年(平成13年)
さっぽろ雪まつり資料館の開館
旧羊ヶ丘ウェディングパレスをクラークチャペルとして開館
2003年(平成15年)
日本ダッタン新そば祭りの開催開始
羊ヶ丘夏祭りの開催開始
2004年(平成16年)
北海道日本ハムファイターズ誕生記念碑の設置
2005年(平成17年)
歩くスキーコース開設
YOSAKOIソーラン祭り会場の一つとして選ばれる
クラーク博士の功績を説明する碑が完成
ジンギスカンサミットの開催
「羊ヶ丘ほっと足湯」の設置
2007年(平成19年)
年間パスポートの発売開始
2009年(平成21年)
さっぽろ羊ヶ丘展望台開設50周年記念イベントの実施
『さっぽろ羊ケ丘展望台』Wikipediaより抜粋
さっぽろ羊ケ丘展望台HP→
https://www.hitsujigaoka.jp/enjoy/
北海道:札幌市中央区北一条西・北一条東札幌時計台
[現在地名]中央区北一条西二丁目
元来は札幌農学校の演武場で、旧所在地は現在の北二条通の通り上であった(←ちよろぎ:この部分、頻出。)。農学校教頭のホイーラーの構想により開拓使工業局が設計し、明治一一年(一八七八)六月起工、同年一〇月に竣工した。当初時計塔はなく、切妻屋根(柾葺)の鐘楼があった。同一四年に鐘楼の代りに時計塔(三―五階)を設置、時計の鐘は一里四方に響きわたったという。同三六年に札幌農学校が現在の北海道大学構内へ移転したことから旧演武場と敷地の一部を札幌区が借用し、区会議場にあてようとした(公会堂として使用)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
新千歳空港から札幌駅までの千歳線周辺の観光地として出題された。
日本の北海道北広島市のFビレッジにある屋根開閉式の屋内型野球場。プロ野球・北海道日本ハムファイターズが2023年より本拠地として使用している。
スタジアムを含めた北海道ボールパークFビレッジ(ほっかいどうボールパーク エフビレッジ)の一部を成し、パーク内に宿泊施設・商業施設・レストラン・マンションなどが建設されている。
概要
日本野球機構(NPB)加盟12球団の本拠地では、広島東洋カープの本拠地として2009年に開業したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市)以来の新球場となる。HKSと大林組グループが設計と建設を担当し、岩田地崎建設も建設に参画、今までプロ野球フランチャイズとなった全てのドーム球場で設計・施工を担当した竹中工務店が関わらない初めてのケースとなった。
2023年1月24日、NPBへの球場登録名がエスコンフィールドHOKKAIDOとなり、略称として「エスコンフィールド」「エスコンF」などになると公表された。なお、この名称は後述の通り命名権によるものであるが、他の球場とは異なり、命名権に基づかない正式名称は登録されていない。
経緯
2016年の初頭、北海道日本ハムファイターズ (以下日本ハム) は本拠地所在地でもある札幌市、またはその周辺地域に新しい本拠地スタジアムの建設を検討開始した。
日本ハムは2004年に東京から札幌市へ移転して以来、多目的スタジアムでもある豊平区の札幌ドームを本拠地にホームゲームを開催していた。ドームは札幌市が所有し、市と地域社会が出資する株式会社札幌ドームが運営・管理している。札幌ドームを使用すると、1試合当たり1600万円程度、年間で約13億円を要したが、ファイターズ株式会社や日本ハム球団は競技のネーミングライツや広告収益などの一切が配分されていない。高額な賃貸料、スタジアム内販売収入の減少、多目的施設ゆえの硬直性などを要因に、日本ハムと球団は独自のスタジアム建設を推進し、札幌市北区の北海道大学キャンパス、札幌市南区の真駒内地区、北広島市に建設が予定されている「きたひろしま総合運動公園」敷地など北海道内の15 - 20か所を候補地として検討していた。
2016年12月19日、日本野球機構 (NPB) は日本ハムと共同でタスクフォースを設置して2018年3月までに新しいスタジアム事業を計画することを発表した。北広島市長はチーム代表者と面会し、「きたひろしま総合運動公園」の敷地36ヘクタールのうち20ヘクタールを提供し、3万人収容可能な自然芝の「開閉式屋根付きボールパーク」を室内練習場、練習施設、商業施設とともに建設することを提案した。札幌市は当初、札幌ドームを本拠地として利用を継続するよう球団に呼びかけ、現在はサッカーやコンサート会場にもなる札幌ドームを野球専用球場にすることも提案した。しかし、日本ハムが新設する案を推進すると同時に北広島市が早い段階から計画を提案し、危機感を抱いた札幌市は新たに建設提案地の調査を開始した。2017年4月、札幌市は北海道大学敷地内10ヘクタールと豊平区13ヘクタールの2か所を提供することを提案したが、いずれも様々な事情により使用不可と判断された。北広島市が交渉を継続する一方で、札幌市は2017年末までに3か所目として真駒内公園を提案した。老朽化した真駒内公園内の競技場を撤去し、レストランや商業施設などを含む新球場を20ヘクタールの敷地に建設することを提案した。
2018年、日本ハムの新本拠地・新球場としてきたひろしま総合公園敷地が選定・決定された。札幌市の提案は、真駒内公園の自然環境保全に懸念と地域住民の反発があり、却下された。北広島市が提案する36ヘクタールの広大な敷地が、競技場と周辺施設の両方を建設するにあたり優位となった。北広島市はこのほか、インフラ整備費の負担、日本ハムへ土地無償賃貸、球場その他の公園施設に対する固定資産税と都市計画税を10年間免除することで合意した。
開発と建設
2018年末、日本ハムはスタジアムの設計と詳細を発表した。収容客数3万5千人(座席数:2万9千席、立ち見等入場のみ:6千人)の野球場はアメリカ・テキサス州ダラスの設計事務所HKSが設計し、開閉式の屋根と天然芝を特長とする。2019年10月に日本ハムの子会社として設立された、株式会社ファイターズスポーツ&エンターテイメント (FSE) が所有・運営し[15]、建設費は約600億円とされた[16]。
2020年1月、新球場を含めたボールパークエリア名は北海道ボールパークFビレッジ (HOKKAIDO BALLPARK F VILLAGE)、新球場は日本エスコンが取得した命名権によるエスコンフィールドHOKKAIDO (ES CON FIELD HOKKAIDO) とする、と発表された。4月13日に競技場の起工式が催された。建設工事施工は大林組が中心となるJVが請け負う。
2021年11月22日、ファイターズスポーツ&エンターテイメントは2023年夏の高校野球南北海道と、北北海道大会の準決勝と決勝の計6試合をエスコンフィールドHOKKAIDOで開催することを発表した。
2022年8月8日、NPBは実行委員会で2023年度のプロ野球日程大綱を決定し、3月31日から試合を開催する他カードに先行して、3月30日に新球場の日本ハム戦で開幕することを発表した。
10月24日、北広島市は2023年1月1日に町名を「共栄」から施設総称と同じ「Fビレッジ」へ変更することを発表した。
11月7日、本塁からバックネット側フェンスまでの距離が不足していることが判明した。11月14日に関係者らの協議結果として、2023年度は現状のまま使用して2023年度と2024年度のオフ期間に改修することで合意した。のちに、NPBに野球振興協力金を支払うと言う条件で改修せず永続的に使用する方針に変更した(詳細は#トラブル)。
2023年1月5日、竣工式が催された。
1993年開場の福岡ドーム以来となるNPB史上2番目となる開閉式屋根付き球場で、屋内の天然芝は日本の野球場では初めてである。外野側の壁は最大高さ70mとなるガラス壁であり、採光性を高めて天然芝の育成に寄与する。また、天然芝の育成のため、非試合日を中心に不定期に屋根は開放される。
北海道の伝統的な家屋をモチーフに設計された重さ1万トンある三角屋根も大きな特徴である。屋根の勾配は観客席の兼ね合いからレフト側20度、ライト側17度と左右非対称となっている。また、冬場に積もった雪を屋根上から落雪させないように載せたままにするため、防水設計となっている。
屋根は内野側の固定部と外野側の可動部に分けられている。可動屋根の大きさは南北方向150m、東西方向186mと世界最大であり、天井高はセカンドベース上で約70mとし、プレーに必要な内部空間を確保している。
可動屋根には11mピッチで片側12台、計24台の走行台車が取り付けられ、全長約250mのレール上を移動し、開かれる際には可動屋根が固定屋根の上に重なるようにして25分かけて屋根が開閉される。屋根を開くのにかかる電気代は1回につき2万~3万円とされている。
試合中は原則として屋根を閉じた状態で行うが、2023年7月2日(当初7月1日が予定されたが、悪天候のため1日順延)のオリックス・バファローズ戦で、初めて屋根を開けた状態で試合を行う「THE FIRST ROOF OPEN GAME」を催した。以後も定期的にルーフオープンでの試合を開催する予定。
『エスコンフィールドHOKKAIDO』Wikipediaより抜粋
HP→F VILLAGE HOKKAIDO BALL PARK ES CONFIELD https://www.hkdballpark.com/map/esconfield/
HOKKAIDO BALLPARK F VILLAGE | 北海道ボールパークF .VILLAGE 公式ページ→ https://www.hkdballpark.com/
参考:『ボールパーク特設サイト』北海道北広島市 https://www.city.kitahiroshima.hokkaido.jp/ballpark/detail/00143268.html
参考:『Fビレッジ(地名)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/F%E3%83%93%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8_(%E5%9C%B0%E5%90%8D)
Fビレッジ(エフビレッジ)は、北海道北広島市にある町名。郵便番号は061-1116[3]。北海道ボールパークFビレッジがあり、プロ野球球団の北海道日本ハムファイターズの本拠地であるエスコンフィールドHOKKAIDOが所在する。
鉄道は徒歩約20分の距離にあるJR北海道千歳線北広島駅が最寄り。2028年(令和10年)開業予定の北海道ボールパーク駅が設置されれば、こちらが最寄りになる。
小樽雪あかりの路は、無数のスノーキャンドルによって街中が装飾される港町小樽の冬の風物詩。メイン会場は北海道開拓の玄関口として発展した小樽の歴史を残す、小樽運河と旧国鉄手宮線。漁具を利用した浮き玉キャンドルが水面に浮かぶ運河は、絶好の撮影スポットだ。スノーキャンドルや雪の滑り台がある手宮線会場は、外国人ボランティアも多く、旅行者の交流スポットになっている。「小樽の食も楽しんでほしい」という思いから、雪あかりの路の期間中、寿司やスイーツ、麺類のお店をお得に食べ歩けるチケットも販売(予定)。
『小樽雪あかりの路』ようこそSAPP__ROサイトより
2月に開かれる
*小樽雪あかりの路公式HP→ http://yukiakarinomichi.org/
第二次世界大戦前に、北海道の日本海側に建てられた、網元の居宅兼漁業施設(番屋)の俗称である。
第二次世界大戦前、とりわけ大戦景気までの時期に、北海道の日本海沿岸で隆盛を極めたニシン漁で財を成した網元達が、競って造った木造建築物である。「鰊御殿」の定義は未だ確定されておらず、明治期から大正12年頃までにかけて建築された網元の家屋程度の目安で紹介されている。かつてニシン場の古老達は、上座敷には違い棚、床柱には黒檀を使用していることが条件のように話していたが、その定義に合致するものはごく少数であり、ほとんどの建築物は現在解体されている。また、必ずしも望楼を備えているとも限定できない。様式は古くは平屋形式であり、屋根は瓦葺きである。
御殿と称されたのは、内部に本州から移入された檜や木目の美しいケヤキ・タモ材などを使用し、廊下等には生漆を施し、欄間を備えた建築物であることによる。また、厳密には番屋とニシン御殿は異なる建造物であるが、資金や建築面積の関係から、中には折衷型の物もある。本来は同じ敷地内に、主人家族と女中などの奉公人のみ居住する建物があり、ヤン衆と呼ばれる漁の季節のみ従事する労働者も鰊御殿に入れられたが、主人家族とは別棟に泊まるのが常であった。
当時の北海道においては、図抜けて豪華な木造建築物である。1890年代から1900年代のものは建築主の希望により和洋折衷の様式を取り入れているものもあり、流行に敏感な一流の棟梁を招聘して造らせたことが窺える。鰊御殿の棟梁は家族と共に来道し、敷地隅に小屋を建て数年に及ぶ工事に従事したと伝えられている。初期の建築物は、平屋建てで、度量は鯨尺と称されるものを使っている。女中部屋は台所から目隠しされた階段を上った中2階の、ごく低い天井の六畳間が当てられている。この女中部屋の形式は、ほとんどの鰊御殿が踏襲している。1階建てであるが、豪雪地帯であるからか、梁や桁は十二分に重さに耐えられるよう無駄に見えるほど材木を使っている。天井裏は、現在の建築と異なり、屋根裏との距離は無意味と思われるほど離れている。それは、軒先が雪を防ぐために一間ほど張り出していることと、重い軒瓦が載っていることなどから、軒材を屋根裏深く入れる必要性を感じたものと思われる。(外観は2-3階建てに匹敵する軒高である)。
しかし、次第に実用性を重視し、以下のような構造が増えたものと考えられる。次第に内部は多層構造となり、1階は網元の居宅やニシンの加工場が置かれ、特に加工場は臭いの関係から邸宅から離れた場所に置かれたり、分業が進み主人とは別の人間が加工場を経営することが増加した。2階 - 3階部分はヤン衆の宿泊施設、ニシンの見張り台となっていることが多い。望楼建築は大戦景気で流行し、当初は存在しなかったものと想定される。望楼は一種の意匠と思われる。
公開されている鰊御殿(鰊番屋)
複数の鰊御殿が文化財や商業施設として復元されている。( )内は現在の施設名。
旧 田中福松邸(小樽市鰊御殿):小樽市祝津3丁目
旧 猪俣安之丞邸(銀鱗荘):小樽市[1][2][3]名実共に鰊御殿としての風格を現在に伝えている唯一の遺構\\\。
旧 青山留吉邸(旧青山本邸):山形県飽海郡遊佐町比子字青塚 (※厳密には鰊御殿ではない)
旧 青山政吉邸(小樽貴賓館 にしん御殿 旧青山別邸):小樽市祝津3丁目 - 別邸と称されるように建築当初は隠居用であった。商業施設となってから知られるようになった。桑材を一部使用しており他に類例がない。
旧 青山家住宅(旧青山家漁家住宅):札幌市厚別区(北海道開拓の村)
旧 川村家番屋、武井邸客殿(鰊御殿とまり):古宇郡泊村
旧 白鳥家住宅(はまます郷土資料館):石狩市浜益区
旧 白鳥家番屋(群来陣):小樽市祝津3丁目
旧 余市福原漁場:余市町浜中町 番屋を中心にニシン漁に関する建物群が残されていて、当時の魚場経営の知る遺構として貴重。日本国の史跡。
旧 花田家番屋 :留萌郡小平町 - 近接して道の駅が整備されている(道の駅おびら鰊番屋)。日本国の重要文化財。
旧 橋本与作邸(お宿 鰊御殿):寿都郡寿都町 - 橋本家は商家であり厳密には鰊御殿ではない。
旧 柳谷家番屋:礼文郡礼文町 - 鰊番屋を使い桃岩荘ユースホステルとして営業、宿泊も可能である。但し、創建当時そのままの姿ではなく、昭和50年代に一部拡張されている。
公開されていない鰊御殿(鰊番屋)
佐藤家:寿都郡寿都町歌棄町有戸、北海道指定有形文化財
旧 佐賀家番屋 :留萌市礼受町 - 「旧留萌佐賀家漁場」として国の史跡に指定。
旧 関家番屋 :留萌市礼受町
『鰊御殿』Wikipediaより抜粋
2019年日本地理に選択肢として出題。
北海道中南部、日高(ひだか)山脈の末端が太平洋に突出した岬。日高振興局管内のえりも町にある。東側は標高90~80メートル、60~40メートル、20メートル前後の3段の海岸段丘が発達し、南西側は中位段丘が海に臨み海食崖(がい)となっている。岬突端はこの延長で断崖となり、沖合いには海食台が延びて数キロメートルの岩礁が続く。寒暖両流の合流する所で、とくに5~8月には海霧の発生が多く航海の難所とされ、1889年(明治22)に灯台が開設されて、かつてはその霧笛が観光客の旅情をそそった。岬付近は好漁場で日高昆布の産地として知られる。また、東側の低位段丘面には襟裳の漁村があり、付近には旅館やキャンプ場などの施設も多く、夏季はとくににぎわう。1981年(昭和56)日高山脈襟裳国定公園に指定され、濃霧と岬の荒波のほか、幕末の遭難悲話で知られる百人浜などが北国の印象を強める。[柏村一郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
北海道西部、日本海に突き出る積丹半島(しゃこたんはんとう)の最西端にある岬。後志(しりべし)総合振興局管内の積丹町に属す。集塊岩が侵食されて残ったもので、岬端(こうたん)は高さ80メートルの断崖(だんがい)となっている。岬前方の海中に僧帽を被(かぶ)ったような大岩(神威岩)があり、アイヌ人が「カムイ」(神)とよんだのが地名のおこりという。帆船時代には、雄冬岬(おふゆみさき)、茂津多岬(もったみさき)とともに蝦夷三険岬(えぞさんけんみさき)とか西蝦夷三険岬とよばれる航海の難所であった。ここを通る船は帆を下ろし、神へ捧(ささ)げる米や酒を海中に投じて航海の安全を祈ったという。1888年(明治21)岬端に灯台が設けられた。また1856年(安政3)までは、この岬から奥地は女人禁制で、民謡『江差追分』にも「恨みあるかよ御神威様はなぜに女の足とめる」と歌い込まれている。ニセコ積丹小樽(おたる)海岸国定公園に属す。[瀬川秀良]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
北海道空知郡中富良野町にある農園。主にラベンダーを中心とした花を呼び物に、春から秋にかけて開園する。園内にはドライフラワーを使用した土産屋や資料館も位置しており、営業時間内は入園無料である。
1897年に北海道国有未開地処分法が制定され、本州等から北海道へ移住してくる人々が急増、その中にファーム富田の創始者である富田徳馬もいた。富田徳馬はその後1903年に現在の北海道中富良野町に開墾の鍬を下ろし、その苗字がファームの由来となる。
徳馬の孫、富田忠雄は1953年、当時富良野一帯においてラベンダー栽培の先駆的人物であった上田美一のラベンダー畑に出会い、1958年より香料用としてのラベンダー栽培を開始。妻と共に開始した畑は10アールの広さにまで及んだ。その後ラベンダー畑はおよそ1.2ヘクタールにまで拡大、富良野地方全体でもラベンダーの栽培地域が230ヘクタール以上に拡大したが、以降は急激に衰退。ピーク時にはラベンダー栽培農家が250戸以上・全道のラベンダーオイル生産量も5トンに上っていたが、1972年頃から貿易の自由化が始まって価格の低い香料が広まり、合成香料の技術が進み始めると、製造していたラベンダーオイルの買い上げの価格も急落。翌1973年には近隣一帯のラベンダー栽培農家がほぼファーム富田のみとなってしまった。
1976年5月の日本国有鉄道のカレンダーにファーム富田のラベンダー写真が紹介されると、徐々に観光客やカメラマンが訪れるようになった。また、その後にドラマ「北の国から」で放送されると、観光地として一躍有名になった。その後はポプリなどを中心にラベンダーの加工を始め、1980年代前半からエッセンシャルオイルの抽出に成功して香水「フロム」を発売する。また、「ポプリの舎」を開設し、化粧品製造業の免許を取得、オリジナルのラベンダー香水である「FURANO(フラノ)」を発売した。1987年には石鹸の製造業免許を取得し、「ソープラベンダー」という名のオリジナル石鹸を発売するなどした。この頃にそれまで経営を繋ぐために行っていた稲作を中止し、花の栽培や加工を経営の中核とした。
1990年に「ラベンダー芳香フェア」がフランスにて開催される。このイベントで行われた品評会にて、ファーム富田のオリジナルエッセンシャルオイル、「おかむらさき」が第1位を獲得。同時に「オートプロヴァンス・ラベンダー修道騎士」の称号を授与された。この称号は南フランスにあるラベンダーを生産する組織より、ラベンダー栽培における功労者へ贈与されるものである。その後は冬期間にグリーンハウス内でのラベンダー栽培に成功、富田ラベンダー資料館や「ドライフラワーの舎」をオープンさせるなど事業を拡大し、現在に至る。
2008年6月、隣接する上富良野町に開園50年記念して「ファーム富田 ラベンダーイースト」が開園した。
園内ではおよそ15ヘクタールのラベンダーが栽培されているほかにも多くの花が栽培されている。花畑はそれぞれ「花人の畑」、「倖の畑」、「春の彩りの畑」、「秋の彩りの畑」、「彩りの畑」、「森の彩りの畑」、「トラディショナルラベンダー畑」に分かれている。通常の開花時期として、4月中旬ごろよりクロッカス、5月よりスイセン・チューリップ、6月よりハマナスやシャクヤクなどが見られるようになり、ラベンダーが開花し始めるのは通例6月の下旬ごろが目安とされている。8月中旬ごろになると冬にかけてグリーンハウスの運営も始まり、ハウス内に栽培されているラベンダーやゼラニウムなど各種植物を見ることができる。
園内には各種施設も建てられている。花人の舎ではラベンダー資料館や香りの体験コーナーが設けられ、トイレも設けられている。また、ドライフラワーの舎ではドライフラワーを展示、建物内のデザインはオランダのフラワーデザイナーであるレン・オークメイドが手がけ、「富良野の森のピクニックin北海道」と題されている。その他、オリジナルグッズを取りそろえ、軽食を楽しむことのできるポプリの舎、展望デッキから園内の花を眺めることが可能な森の舎、ラベンダーからエッセンシャルオイルを蒸留する抽出工場の蒸留の舎、「香りのしおり」を作るコーナーを設けられているなど、香水を制作する場が見られる香水の舎、など各種施設を見学することが可能である。
ファーム独自の特徴として、カフェ内で注文できるメニューには稀にしか見られない珍しい品目も並び、北海道産の野菜カレーや富良野パンを使用したジンギスカンドッグなどがある。また、スイーツにはラベンダーのエキスが含まれているラベンダーソフトクリームやラベンダーラムネ、ラベンダー生シュークリームやラベンダーはちみつプリンといったものがあり、そのうちの幾つかは季節限定の商品である。
そのほか、定期的に園内で物産展などのイベントが開催されることもある。会費無料の「ファーム富田ファンクラブ」も存在し、ポイント制の割引サービスやファンクラブ誌の「Scent of Lavender」が発行されるなど、入会特典が用意されている。ファームの最寄り駅にはJR中富良野駅があるが、夏から秋にかけてはラベンダー畑駅が臨時駅として近くに設置される。
『ファーム富田』Wikipediaより抜粋
*ファーム富田オフィシャルサイト→ https://www.farm-tomita.co.jp/farm/
通販サイトもあり。
北海道南西部,内浦湾の北東にある湖。貧栄養湖。直径約 10kmの円形に近いカルデラ湖で,面積 70.7km2,周囲 50km,最大水深 180m,最大透明度 10m,湖面標高 84m。カルデラ形成後,湖の中心部に中央火口丘の中島,南岸に有珠山 (732m) ,1944年には昭和新山 (402m) などの溶岩円頂丘が出現。不凍湖で湖中にはヒメマス,ウグイ,カジカなどが生息。7月上旬に湖水祭がある。湖岸に洞爺湖温泉,壮瞥温泉がある。 49年支笏湖とともに支笏洞爺国立公園区域に指定。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[洞爺湖(とうやこ)温泉]
北海道南西部,洞爺湖町,洞爺湖南岸に位置する温泉。前方に湖と羊蹄山を眺め,背後に有珠山と昭和新山を控えた景勝の地である。泉質は食塩泉。泉温は約 47℃で日本有数の湯量を誇る。温泉は 1917年に開発された。大規模な旅館街が形成され,湖畔にはゴルフ場,スキー場,火山科学館などが整備されている。北海道南部の一大観光基地をなし,支笏湖,登別温泉にも近い。 1977年と 2000年の有珠山の噴火で温泉町に大きな被害を生じたが復興した。支笏洞爺国立公園の中心。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[壮瞥(そうべつ)温泉]
北海道南西部,壮瞥町の洞爺湖南岸にある温泉。泉質は食塩泉。泉温は 53~83℃で湯量は多い。背後に昭和新山,有珠 (うす) 山を控えた登山口でもあり,洞爺湖の眺望にすぐれた静かな保養温泉地を形成する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[昭和新山]
北海道南西部,洞爺湖の南岸,有珠山の東麓にある火山。標高 398m。壮瞥町に属する。有珠山の寄生火山(側火山)で,1943年から 1945年にかけて地震を伴いながら噴火を繰り返し,人家に近い平坦な麦畑が約 300mも隆起,その上にさらに約 100mもの岩尖が突き出た(→火山岩尖)。その形成過程は当時壮瞥郵便局長でのちに山の所有者となった三松正夫によって記録され,貴重な学問的資料となった。山が形成されるまでの完全な記録と,活動様式の珍しさとでその名は世界の専門家に知られ,噴気活動は今日も続いている。支笏洞爺国立公園内の特別保護地区,および国の特別天然記念物に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[有珠山]
北海道南西部,洞爺湖の南岸にある二重式火山(複式火山)。活火山で,常時観測火山。伊達市と壮瞥町,洞爺湖町の境に位置する。標高 733m。輝石安山岩の火山砕屑物からなる。火山体頂部のカルデラ(直径約 3km)内に,大有珠(733m),小有珠(557m),オガリ山,有珠新山の 4中央火口丘がある。寛文3(1663)年から今日までに数回の噴火が記録され,1910年の噴火では,洞爺湖畔の山麓部に 45ヵ所のすり鉢形火口のほか,臼状の砕屑丘(ホマーテ)が形成された。1944年には東麓に寄生火山の昭和新山(398m)が出現。その後,沈静期を経たのち,1977年8月7日突然爆発を起こし,約 1億m3の火山灰を噴出,洞爺湖周辺の農地,林地,洞爺湖温泉,壮瞥温泉の両集落に多大な損害を与え,降灰区域は北海道の約半分に及んだ。気象庁はこの噴火を「1977年有珠山噴火」と命名。さらに 2000年3月31日からの噴火では,有珠山の西に位置する西山と金比羅山の西側に 65個の火口が形成され,2000年5月以降終息に向かうまで洞爺湖温泉を中心に虻田町(今日の洞爺湖町),壮瞥町,伊達市が損害を被った。1949年支笏洞爺国立公園区域に指定。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2019年日本地理に出題。
北海道西部、後志(しりべし)総合振興局管内の町。旧名を狩太町(かりぶとまち)といい、1950年(昭和25)に町制施行したが、ニセコアンヌプリ山にちなんで1964年に改称した。ニセコ積丹(しゃこたん)小樽海岸国定公園に含まれるニセコアンヌプリ山と、支笏(しこつ)洞爺国立公園に含まれる羊蹄(ようてい)山、および昆布(こんぶ)岳の3山に囲まれたほぼ三角形の町域で、丘陵性の盆地にあり、中央部を尻別(しりべつ)川がほぼ西流する。川沿いにJR函館(はこだて)本線、国道5号が走る。1895年(明治28)から入植が始まる。農業が主産業で、米、ジャガイモ、サトウダイコン、青刈りトウモロコシ、野菜などの複合経営で、酪農も行われる。昆布(こんぶ)温泉、ニセコ五色(ごしき)温泉などがあり、ニセコアンヌプリなど各所にスキー場もある。1922年(大正11)白樺(しらかば)派の有島武郎(たけお)が450ヘクタールの農場を小作人に解放し、狩太共生農団が生まれた所で、有島記念館、同記念公園がある。面積197.13平方キロメートル、人口5074(2020)。[瀬川秀良]
『『ニセコ町史』(1982・ニセコ町)』
[補完資料] | ニセコ町の要覧
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
支笏洞爺国立公園は→日本の国立公園の項へ。
2019年日本地理
北海道北端の岬で、稚内市(わっかないし)に属す。西の野寒布岬(のしゃっぷみさき)との間に宗谷湾を抱く。北緯45度31分、東経141度56分に位置し日本の国土の最北点にあたる。宗谷丘陵の先端部で、標高30メートルの明瞭(めいりょう)な海岸段丘が発達し、段丘上の宗谷岬灯台(1885年点灯、高さ17メートル)には霧信号所、無線方向信号局が併置されている。「日本最北端の地」の碑が立つほか、大韓航空機撃墜事件慰霊の「祈りの塔」や戦没者慰霊碑など多くの碑が立っている。海岸には弁天島などの小島がある磯(いそ)が広がり、海沿いを国道238号が走り、夏季は観光地としてにぎわう。[岡本次郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2019年日本地理
北海道南西部、室蘭市(むろらんし)の首部を形成する絵鞆半島(えともはんとう)最南端の岬。チキウ岬ともいう。太平洋に臨み、安山岩や集塊岩が露出する50メートル前後の断崖(だんがい)が続き、その上に1920年(大正9)点灯したチキウ岬灯台がある。岬へは歩道だけであったが、現在では室蘭本線母恋(ぼこい)駅を結ぶ観光道路が整備された。岬の一角には展望台があり、眼下に太平洋の荒波が海食崖に白く砕ける光景が展開し、西方には、市街背後の100メートル前後の丘を隔てて、測量山(200メートル)の無線塔を望むことができる。[奈良部理]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ )
北海道室蘭市の太平洋に面する岬。名前はアイヌ語の「(ポロ・)チケプ」(ci-ke-p、親である・断崖)に由来しており、それが転訛して一般的に地球岬(ちきゅうみさき)と呼ばれている。
絵鞆半島の太平洋側は海抜100m前後の断崖絶壁が約14kmに渡って連なる景勝地であり、室蘭八景の1つとなっている。丸い水平線の絶景を見ることが出来るため元旦には初日の出見物のために多くの人が訪れ普段は観光客で賑わっている。
1985年(昭和60年)に朝日新聞による「北海道の自然100選」、1986年(昭和61年)に北海道郵政局による「あなたが選ぶ北海道景勝地」、1987年(昭和62年)に読売新聞による「新日本観光地100選」でそれぞれ第1位を獲得し、2012年(平成24年)には「ハルカラモイ・マスイチ浜・トッカリショ」と共に4つの地域が「絵鞆半島外海岸」と名づけられ国の名勝「ピリカノカ」(アイヌ語で「美しい形」を意味する)に指定された。
チキウ岬灯台は1920年(大正9年)に初点灯し、「日本の灯台50選」「土木学会選奨土木遺産」に選定されている。
『チキウ岬』Wikipediaより抜粋
[一] (戦国時代、領主河野政道が築いた館の形が箱に似ているところから呼ばれたと伝えられる。箱館と書かれていたが、明治二年(一八六九)箱館戦争後、現在の表記に改められた) 北海道南西部の地名。渡島(おしま)半島の南部にあり、津軽海峡を隔てて青森県に対する。寛保元年(一七四一)松前藩の番所が置かれて以来、港町として急速に発展。のち幕府の直轄地となり、箱館奉行が置かれた。青森と結ぶ青函連絡航路の発着地として知られたが、青函トンネルの開通に伴い、連絡船は昭和六三年(一九八八)廃止。北海道の玄関口にあたる。また、かつては北洋漁業の基地として栄え、現在も水産加工・造船などの工業が盛ん。大正一一年(一九二二)市制。
[二] 明治一五年(一八八二)開拓使の廃止により北海道に設置された三県の一つ。渡島国と後志(しりべし)・胆振(いぶり)国の一部とを管轄した。同一九年北海道庁に統合。
出典 精選版 日本国語大辞典
北海道函館市若松町にある市場である。
戦後間もない1945年(昭和20年)、函館駅前で農家が野菜の立ち売りをしたのが始まりである。第二次世界大戦後の混乱期、青森から青函連絡船を通じて当時統制品の米も持ち込まれたので一部は闇市とみなされた。包装用の新聞紙が散乱し露店取引追放運動にも発展することがあったという。その後3度移転し、1956年(昭和31年)に現在の場所となった。1960年代前半には新鮮で安いとの評判で約400店舗を擁するようになり「市民の台所」と言われるほど発展した。その後、郊外が発展、スーパーマーケットが開店するようになり、1975年(昭和50年)の中央卸売市場の開場、1976年(昭和51年)のアメリカやソ連の漁業専管水域200カイリ宣言による北洋漁業衰退の影響により関連労働者による需要減の打撃を受け、観光化で生き残ることになった。観光化により商品の高級化が進み、本来の主要な顧客である函館市民が買い物に訪れることもなくなった。2016年(平成28年)現在、函館の観光スポットの一つとして認知されるようになり、メディアへ登場する頻度も高く、映画やドラマのロケ地として使用されることも珍しくない。
2013年(平成25年)、函館朝市の中心的な施設であった「渡島蔬菜農業協同組合ドーム」(通称:渡島ドーム)が老朽化により取り壊され、2014年(平成26年)4月12日、新たな施設「函館朝市ひろば」が開業した。
現在地では元々津波被害が繰り返される場所である。代表的なものとして1960年(昭和35年)のチリ地震と2011年(平成23年)の東日本大震災である。東日本大震災では津波被害によって大半の店舗が被災した。市民ボランティアなどの支援にも助けられ、4月1日には営業を再開することができた。
『函館朝市』Wikipediaより抜粋
*函館朝市オフィシャルサイト→ http://www.hakodate-asaichi.com/
*JR北海道「ツガルカイセン 秋の陣2023」
JR北海道の朝市お薦めのお店がわかる → https://www.jrhokkaido.co.jp/tsugarukaisen/
*参考:『海の温暖化の影響に直面する函館 スルメイカが激減 ブリが激増』NHK みんなでプラス 地球のミライ →https://www.nhk.or.jp/minplus/0019/topic092.html
→と言う事で現在の函館朝市の食事は、新鮮ぷりぷりなブリがお薦めだそうです。
北海道南西部、函館市の中心市街の南部にある山。標高332メートル。臥牛山(がぎゅうざん)ともいう。新第三紀中新世に噴出したもので、石英安山岩を基底とし、その上に鮮新世の溶岩・集塊岩がのる。函館湾に突き出ているが、亀田川や沿岸流の土砂の堆積(たいせき)による砂州で亀田半島と結ばれて陸繋島(りくけいとう)となっている。第二次世界大戦までは要塞(ようさい)地帯で、一般の立ち入りは禁じられていた。ロープウェー、道路が整備され、頂上からは市街と津軽海峡を隔てて下北半島、津軽半島を望むことができ、とくに夜景の美しさで知られる。また、約600種の植物、約150種の野鳥の生息地として、鳥獣保護区特別保護地区に指定されている。
[瀬川秀良]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
*函館山ロープウェイ公式ページ→ https://334.co.jp/ropeway/outline/
トップスピードは秒速7m、海抜334mの山頂まで約3分で到着。1958年時は31人乗りだったが、現在は125人乗り(1988年ころは日本最大)。
運行状況ページ→ https://334.co.jp/mtinfo/
*参考:『函館山 雄大な自然と共に函館山からの大パノラマを満喫しよう』北海道公式観光サイトHOKKAIDO LOVE!
*函館夜景号(函館バス)お知らせ→ 『2023年下期運行 定期観光バス「函館夜景号」運行内容について』お知らせお客様用ちらし(PDF) http://www.hakobus.co.jp/files/2023/yakeigo/20231001_hakodateyakeigo.pdf
2023.10.1
↑位置注意。
↑函館山から見えるのくびれの景色はこの部分ではない。
(北海道亀田郡七飯町;北海道茅部郡鹿部町・森町)
「北の造園遺産」指定の地域遺産〔第11号〕。
大沼は明治時代にはすでに道立公園に指定され整備が始まったが、1914(大正3)年に本多静六により公園整備計画が策定され、本格的な整備が進められた。1915(大正4)年「新日本三景」に選定。1958(昭和33)年に国定公園に指定されている。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
北海道渡島(おしま)半島の東岸にある円錐火山。大沼国定公園の一部。標高一一三一メートル。渡島富士。渡島駒ケ岳。
出典 精選版 日本国語大辞典
北海道南西部,函館市の南西部に位置する函館山東端の岬。付近は海食崖が発達し,函館市東端の汐首岬にいたる亀田半島の海岸と,津軽海峡を隔てて下北半島を遠望できる景勝地。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」の歌碑がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
新函館北斗駅(しんはこだてほくとえき)は、北海道北斗市市渡(いちのわたり)1丁目にある、北海道旅客鉄道(JR北海道)北海道新幹線・函館本線(本線)の駅である。函館本線の駅番号はH70。電報略号はハテ。事務管コードは▲140106。開業以来日本最北端の新幹線駅である。特急「北斗」、快速「はこだてライナー」を含めた当駅経由の全ての旅客列車が停車する。
歴史
1902年(明治35年)に当地に鉄道が開通した当初から設置されている駅であるが、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業に伴い、新幹線が経由しない函館駅方面へのアクセス駅、在来線と新幹線の乗換駅としての性格を帯びるようになった。
現在の名称は、新幹線計画時からの仮称であった「新函館」に、所在地である北斗市の名を加えたもので、決定に至るまでには所在市名を冠する「北斗函館」を主張する北斗市と仮称通りの「新函館」を主張する函館市の間で論争があった。このほか「函館北斗」などの仮称も見られた。
2014年6月11日:JR北海道が定例記者会見において、駅名が「新函館北斗駅」に決定したことを正式に発表した。
『新函館北斗駅』Wikipediaより抜粋
北海道南西部,函館市南西部の湯川町一帯にある温泉。松倉川に沿い,津軽海峡に臨む。泉質は食塩泉。泉温 67℃前後。松前藩の嗣子千勝丸が治癒して薬師堂を建立したのが始まりといわれる。戊辰戦争 (1868) では榎本武揚が傷病者の治療に使用した。付近はスズランの産地としても知られ,津軽海峡の風景が美しい。約 3km北の丘陵にトラピスト修道院の女子部 (トラピスチヌ修道院) がある北海道屈指の観光温泉地。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*参考 海峡(うみ)の風、啄木亭
知床・網走・紋別
2019日本地理
2005年に登録された日本の世界遺産(自然遺産)で、北海道の北東端、知床半島の中央部から先端部の知床岬までの陸域とその周辺のオホーツク海域。海洋と陸上の生態系の相互関係を示す複合生態系の顕著な見本で、世界で最も低緯度で海水が氷結し、海、川、森の生態系を結ぶ独特な食物連鎖をもたらし、動植物とも北方系と南方系の両種が混在するなど多様性が認められる。稀少種シマフクロウやオジロワシの生息地であり、オオワシの越冬地でもある。◇英名はShiretoko
出典 講談社世界遺産詳解
参考:知床世界自然遺産センター https://policies.env.go.jp/park/shiretoko/whcc/
参考:『知床』 - World Natural Heritage in Japan 日本の世界自然遺産 https://world-natural-heritage.jp/shiretoko/
参考:『世界自然遺産 知床』北海道公式観光サイトHOKKAIDO LOVE! https://www.visit-hokkaido.jp/spot/detail_10048.html 海から陸へとつながる生態系が見られる世界自然遺産
参考:『知床世界自然遺産トップページ』北海道 https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/ssi/mokuji.html
参考:『知床』(世界自然遺産知床の観光情報知床斜里町観光協会HP) https://www.shiretoko.asia/
参考:『知床(世界遺産)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E5%BA%8A_(%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3)
知床(しれとこ)は、日本にある世界遺産登録地域。2005年(平成17年)7月17日、南アフリカ共和国ダーバンで行われた『第29回ユネスコ世界遺産委員会』で「自然遺産」登録が決まった。
北海道東部に位置する知床半島は、北半球における流氷の南限とされ、流氷下のアイスアルジー(氷に付着した藻類)や流氷形成時の鉛直混合により作られる栄養塩の豊かな中層水がもたらす植物性のプランクトンの大増殖を基礎とした食物網を通して、多種多様な生物が生息・生育する地域となっている。生息するシロザケ(サケ)、カラフトマス、サクラマス、オショロコマ、アメマスが、海と川を行き来し、これらを重要な餌資源とするヒグマやシマフクロウ、オオワシ、オジロワシといった大型の哺乳類や絶滅のおそれのある猛禽類をはじめ海棲哺乳類(海獣)、海鳥など様々な生きものが生息し、北方系と南方系の野生生物が混生するなど、海域と陸域の自然環境が密接に影響し合い、多様な生物相と生物間相互作用に支えられた豊かな生態系を形成している。また、火山活動により形成された急峻な知床連山、山麓を覆う原生的な森林、切り立つ海岸断崖、多様な湿原・湖沼など様々な景観が凝縮され、優れた自然美を有している。
また、遺産地域は環境省及び林野庁により各種の保護地域(遠音別岳原生自然環境保全地域、知床国立公園、知床森林生態系保護地域、国指定知床鳥獣保護区)に指定されており、自然環境の保全が担保され、原生的な自然環境が人為により破壊されることなく残されている。さらに、遺産地域内において過去に農業開拓が行なわれた岩尾別地区については、斜里町による「しれとこ100平方メートル運動」(現在の「100平方メートル運動の森・トラスト」)によって民有地を公有地化して保全し、かつての自然を復元する取組が行なわれている。
自然遺産登録の対象は、知床半島とその沿岸海域となっており、日本国内で初めて海洋を含む自然遺産の登録となった。
ヒグマ対処法(ヒグマのこと)(知床財団)→ https://www.shiretoko.or.jp/higumanokoto/bear/
*出会わないために
*出会ったときは
*詳しい対処法
*クマ撃退スプレー
*フードコンテナ(クマに食料を奪われない)
(ヒグマにえさをやらない・ヒグマに近づかない・畑に入らない)
知床八景(しれとこはっけい)とは、北海道の知床半島において、よく知られている8ヶ所の景勝地 。
北海道斜里郡斜里町のチャラッセナイ川の河口付近にある滝。標高は70メートル。落差は50メートル。分岐瀑。日本の滝百選の一つ。
オロンコ岩(オロンコいわ)は、北海道斜里町ウトロのウトロ港にある高さ約60mの巨岩。
プユニ岬(プユニみさき、Cape Puyuni)は、知床半島北岸にある岬。 世界遺産「知床」の構成遺産である。
フレペの滝
知床半島プユニ岬東の断崖からオホーツク海に流れ落ちる滝。知床八景の一景で、知床国立公園および世界自然遺産「知床」を代表する滝の一つである。落差60メートル、標高80メートル、潜流瀑。
知床峠
北海道目梨郡羅臼町と斜里郡斜里町の境にある国道334号の峠。標高738m。根室振興局とオホーツク総合振興局の境界にもなっている。
冬期間(概ね10月下旬~4月下旬)は延長23.8kmの区間が通行止めとなる。
知床五湖
北海道斜里町にある湖(秘湖、沼)である。一湖・二湖・三湖・四湖・五湖で知床五胡。ただし、湿地帯にあるため融雪期には数が増える。 ❇冬季には遊歩道は通行止め
カムイワッカの湯の滝
北海道斜里郡斜里町のカムイワッカ川にかかる滝である。滝自体が温泉となっている。また、最下流にはカムイワッカの滝という「湯」がつかない別の滝が存在する。
参考:『知床の観光情報』(知床斜里町観光協会) https://www.shiretoko.asia/
参考:『知床八景』(知床観光圏ポータルサイト) https://www.visitshiretoko.com/sightseeing.html
参考:『知床八景』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E5%BA%8A%E5%85%AB%E6%99%AF
[知床(世界遺産) 遺産地域]
面積:71,000 ha(陸域48,700 ha、海域22,300 ha)
川:岩尾別川、カムイワッカ川、ルシャ川、テッパンベツ川、アウンモイ川、ルサ川、ケンネベツ川、サシルイ川、羅臼川
滝:フレペの滝、カムイワッカ湯の滝、カムイワッカの滝、カシュニの滝
湖沼:知床五湖、羅臼湖、知床沼
山:遠音別岳(1,330m)、知西別岳(1,317m)、天頂山(1,046m)、羅臼岳(1,661m)、サシルイ岳(1,564m)、知円別岳(1,544m)、知床硫黄山(1,562m)、知床岳(1,254m)
岬:プユニ岬、知床岬
(『知床(世界遺産)』Wikipediaによる)
参考:『知床世界自然遺産地域位置図 [PDF]』https://shiretokodata-center.env.go.jp/data/process/200507/map.pdf
参考:『知床データセンター』(環境省) https://shiretokodata-center.env.go.jp/index.html
カムイワッカ湯ノ滝のぼりHP→https://www.goshiretoko.com/kamuywakka/ (【利用可能期間】2024年7月1日(月)~9月30日(月) 。5/31~6/30は、カムイワッカ橋までのみ。2024年シーズン終了済み)
カムイワッカ湯の滝(X(旧Twitter))→https://twitter.com/kamuywakka_
【公式】カムイワッカ湯ノ滝のぼり KAMUY-WAKKA HOT FALLS CLIMBING(youtube) https://www.youtube.com/@goshiretoko_kamuywakka
カムイワッカ湯ノ滝のぼり | 北海道斜里町(instagram)→ https://www.instagram.com/kamuywakka_goshiretoko/
参考:『知床八景』世界自然遺産知床の観光情報知床斜里町観光協会 https://www.shiretoko.asia/detail/scenic/kamuiwakka
名称 カムイワッカ湯の滝
住所 〒099-4356 斜里郡斜里町遠音別村
電話 0152-22-2125( 知床斜里町観光協会)
利用期間 湯の沢のぼり2024年7月1日(月)〜9月30日(月)まで(事前予約制)
駐車場 約20台駐車可能。
トイレ 仮設トイレ3基
メモ 時期により車両規制等があります。事前に最新情報をご確認下さい。
エリア ウトロエリア
参考:『カムイワッカ湯の滝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%83%E3%82%AB%E6%B9%AF%E3%81%AE%E6%BB%9D
カムイワッカ湯の滝(カムイワッカゆのたき)とは、北海道斜里郡斜里町のカムイワッカ川にかかる滝である。滝自体が温泉となっている。また、最下流にはカムイワッカの滝という「湯」がつかない別の滝が存在する。
標高は400メートル、落差20メートルの渓流瀑である。知床半島のほぼ中央にある活火山の硫黄山を源流とするカムイワッカ川に掛かる。
川には温泉が流入し、連続する滝のそれぞれの滝壺が野趣溢れる天然の露天風呂となっており、野湯とも表現される。カムイワッカはアイヌ語のkamuy(神、または神のような崇高な存在の意)、wakka(水の意)であり、この川の温泉成分が強い硫黄成分を含むため有毒であり、生物が生息できない「魔の水」の意味と解釈されている。
知床八景のひとつとして以前から知られていたが、2005年(平成17年)7月14日に世界遺産に登録され、訪れる観光客が急増した。一方で、落石の危険性があることから、厳しい立入規制が行われるようになった。
泉質
硫酸泉
源泉はpH1.6-1.8の強酸性であり、皮膚への刺激が強い。
温泉地
宿泊施設、脱衣場ともにない(なお、シーズン中にシャトルバスのバス停前に設置される簡易トイレの横に更衣室がある)。入浴は無料。
カムイワッカ湯の滝の約1km下流に、カムイワッカ川の水が直接、オホーツク海に落下するカムイワッカの滝がある。落差は約30m。幅広の姿形を持つ。こちらは陸路で近づくことは困難であり、ウトロ港から運航される遊覧船から見ることができる。標高は40メートル。分岐瀑。
落水が硫黄などを含む強い酸性であるため、河口付近は岩場に藻がほとんど生えず、化学反応で海水がエメラルドグリーンになっている。秘境の知床を代表する滝の1つであり、かつて滝のそばで硫黄を採掘していた小屋跡が現在もその柱を残している。
参考:『知床峠 知床八景』世界自然遺産知床の観光情報知床斜里町観光協会 https://www.shiretoko.asia/detail/scenic/shiretoko_touge
基本情報
名称 知床峠
住所 〒086-1822 目梨郡羅臼町湯ノ沢町
電話 0152-22-2125(知床斜里町観光協会)
利用期間 4月下旬~11月上旬(予定)
駐車場 バス12台、乗用車66台
トイレ あり
メモ 定期バスもあります。
エリア ウトロエリア
参考:『知床峠』北海道公式観光サイト HOKKAIDO LOVE! https://www.visit-hokkaido.jp/spot/detail_10401.html
知床峠は、北海道の斜里町ウトロと羅臼町を結ぶ国道334号の峠で、知床八景の1つにも選ばれています。全長27kmの曲がりくねった峠道、知床横断道路の最頂部にあたる標高738mのビュースポットです。真正面に羅臼岳、眼下には深緑の大樹海、天気が良ければ、遠く根室海峡とそこに浮かぶ国後島を望む大パノラマを楽しめます。ただし、気候の変化が著しく、雪崩や崖崩れなど道路管理に厳しい条件となっているため、降雪により北海道内の国道で唯一通行止めになることがあります。
また、知床横断道路は11月初旬~4月下旬は通行不能となるため、日本一開通期間が短い国道と言われています。
参考:『らうすのみどころ 知床峠』世界遺産のまち 知床・羅臼町観光情報 https://kanko.rausu-town.jp/spots/view/1
参考:『知床峠』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E5%BA%8A%E5%B3%A0
知床峠(しれとことうげ)は、北海道目梨郡羅臼町と斜里郡斜里町の境にある国道334号の峠。標高738m。根室振興局とオホーツク総合振興局の境界にもなっている。
冬期間(概ね10月下旬~4月下旬)は延長23.8kmの区間が通行止めとなる。
知床半島を横切っており、知床横断道路と呼ばれる。羅臼~斜里間の経済・文化の交流、世界遺産「知床」や道東の広域観光道路として利用されている。
気候の変化が著しく、雪崩や崖崩れなど道路管理に厳しい条件となっているため、降雪により北海道内の国道で唯一通行止めになる。知床峠の除雪作業や開通のニュースは、北海道の春の風物詩となっている。
峠は知床の原生林を見渡す位置にあり周辺は世界有数のヒグマの生息地でもある。知床峠駐車場があり、ビューポイントになっている。峠からの眺めは知床八景の1つに選ばれており、羅臼岳やハイマツの樹海、天候が良ければ北方領土国後島も望むことができる。
峠頂上部より羅臼側標高650m地点は見返り峠と呼ばれており、ヘアピンカーブ(つづら折れ)が続いている。
知床世界遺産センター(環境省) https://policies.env.go.jp/park/shiretoko/whcc/
知床世界遺産センターでは、ヒグマやエゾシカなど知床に住む動物の実物大の写真の迫力ある大型パネル、タブレット端末によるバーチャル体験、ヒグマの爪痕など動物の痕跡の模型や実物大の動物のぬいぐるみなど、知床の魅力を感じて学べる展示を満載しています。
レクチャールームでは知床の自然の素晴らしさと利用にあたって守るべきルール・マナーをお伝えします。
また、自然の素晴らしさと知床世界遺産の見どころや自然のリアルタイムの情報についてお知らせするとともに、知床世界遺産の管理について最新の情報を提供しています。
参考:『知床世界遺産センター』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E5%BA%8A%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC
知床世界遺産センター(しれとこせかいいさんセンター、Shiretoko World Heritage Conservation Center)は日本の北海道斜里郡斜里町ウトロにある自然環境施設。ユネスコの世界遺産である知床の管理と利用に関する情報発信の拠点となる施設で、環境省により設置された。2009年4月19日に開館。
展示室 - 知床半島の地形模型(1/25,000)、知床半島に生息するヒグマやエゾシカ、シャチなどの写真パネル等を展示。
レクチャールーム - ハイビジョン映像上映
休憩コーナー - 知床関連の書籍閲覧もできる
環境省ウトロ自然保護官事務所
自然公園財団知床支部
知床国立公園→ 国立公園の項へ
『知床』世界自然遺産→ 世界遺産の項へ
オホーツク
参考:『わかるかな?流氷Q&A』北海道立オホーツク流氷科学センター https://giza-ryuhyo.com/ryuhyoinfo/ryuhyotop.html
(流氷分布情報・流氷期間情報・流氷の一生・流氷関連用語解説) 流氷のでき方、流氷の温度、流氷に何が含まれるか、どのくらいの時間で融けるか、大きさ、どれくらい続く? 厚さ・固さ、塩分など。
海の水が凍った氷が海氷です。専門用語では、流れ漂っている海氷は流氷といい、岸にくっついて動かない海氷は沿岸定着氷とよんで区別します。しかし、一般用語(話し言葉)では、広い意味で、海の氷すべてを流氷とよんでいます。
流氷は気温が低いほど早く厚くなります。北海道付近の海では冬の終わり頃には、30数cmに達します。ときには、重なり合って、数mの氷の山ができることもあります。
参考:『北海道の冬の風物詩!「流氷」のこと本当に知ってる?』Domingo https://domingo.ne.jp/article/10495
参考:『オホーツク海でしか見られない!冬の神秘『流氷』に迫る』北海道公式観光サイトHOKKAIDO LOVE! https://www.visit-hokkaido.jp/feature/ryuhyou
参考:『流氷』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E6%B0%B7
流氷(りゅうひょう、英: drift-ice、driftice)とは、海に浮かび漂流している氷のことである。海で見られる氷(海氷)は、その運動形態から、海を漂っている「流氷」と、岸にへばりついている「定着氷」とに分けられ、定着氷は流氷には含まれない。組成に注目すると、いずれも海氷が凍ってできた氷である。
日本では北海道の北東に位置するオホーツク海の流氷が有名である。北海道立オホーツク流氷科学センター(紋別市)によると、オホーツク海北岸付近で寒風により海水が凍っては流されを繰り返し、東樺太海流に乗って北海道へ南下してくる。オホーツク海は北半球における流氷の南限である。
北海道沿岸から流氷が確認できたそのシーズンの最初の日を「流氷初日」という。日本での流氷初日は、平年では北海道のオホーツク海沿岸で1月中旬から下旬頃であり、その後1月下旬から2月上旬頃にかけて接岸する。接岸した初日を「流氷接岸初日」という。その前に、海上自衛隊八戸航空基地(青森県)に所属する哨戒機が空中から流氷を発見・観測し、報道されるのが1960年から恒例となっている。
風向きによって流氷はさらに南下を続け、太平洋側に位置する釧路市に接岸することもある。春が近づき、沿岸から見渡せる海域に占める流氷の割合が5割以下となり、かつ船舶の航行が可能になると「海明け」が宣言される。また、沿岸から最後に流氷が見られた日を「流氷終日」という。
オホーツク海のアザラシの中には天敵の少ない流氷の上で子育てをするものもいる。オジロワシなどの鳥類、キタキツネなども流氷に乗ってシベリアから北海道東部までやってくる。
流氷には植物プランクトンが付着している。春になると植物プランクトンは一気に増殖し、これを餌に動物性プランクトンも増えオホーツク海の漁場を豊かにする。なお、流氷の下にはハダカカメガイ (クリオネ)などのプランクトンを捕食する生物も多い。
道東の流氷は観光資源であると同時に、接岸している冬季に巨大地震などによる津波が押し寄せると建物などにぶつかって被害を増大させるおそれがあり、十勝沖地震(1952年)で実例がある。
オホーツク流氷館(オホーツクりゅうひょうかん)は北海道網走市の天都山山頂にある流氷とオホーツク海をテーマとする網走市立の科学館。実物のオホーツク海の流氷を展示し、その発生の仕組み等を紹介する。そのほか、流氷の海に生息する、"流氷の天使"クリオネやフウセンウオなどの海洋生物を飼育展示する。
参考:『オホーツク流氷館』Wikipedia
参考:オホーツク流氷館HP https://www.ryuhyokan.com/
参考:知床流氷ツアー 流氷道ウォーク 地元漁師と流氷の上で楽しく遊ぼう! https://drift-ice.com/
参考:流氷遊ウォーク https://kamuiwakka.jp/driftice/
参考:流氷ウォーク®️ https://www.shinra.or.jp/ryuhyo_walk.html
海が氷に閉ざされ日本ではないような光景に様変わりする2月。
果てしなく続く流氷野は大陸まで続いているのでは?とロマンをかきたてます。
そんな白い月面のような非日常的空間を歩きたい!を叶えるツアーが「流氷ウォーク」。
オホーツク海を約1000㎞も季節風や海流とともに旅して南下した神秘的な流氷に触れたり乗ったりが、専門のガイドとともにドライスーツを着用することで可能に!
腹足綱裸殻翼足類(裸殻翼足目、または後鰓目裸殻翼足亜目)ハダカカメガイ科、ハダカカメガイ属に属する貝の総称。日本ではハダカカメガイ(裸亀貝) Clione elegantissima とダルマハダカカメガイClione okhotensisが知られる。
ギリシア神話に登場する文芸の女神たちムーサイの一柱クレイオー(Κλειώ, ラテン語形 Clio)に由来する。
巻貝の仲間であるが、成長すると完全に貝殻を失う。これは裸殻翼足類共通の特徴である。バッカルコーン(buccal cone、口円錐)と呼ばれる触手が6本あることで定義される。
体は透明な部分が多く、体の前半に局在する内臓のみが不透明である。胴体の前部に透明な1対2枚の翼足(pteropods)があり、翼足を動かして遊泳する。この姿から「流氷の天使」あるいは「氷の妖精」と呼ばれ、英語では sea angel とも呼ばれる。ただしsea angel はもっと広く、裸殻翼足類の総称的に使われることが多い。その流氷の天使のイメージとは裏腹に、上記のように捕食時にバッカルコーンで獲物を捕らえ養分を啜り採る姿は、悪魔の如く野性的で恐ろしく見える。
『クリオネ』Wikipediaより抜粋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%8D
参考:『流氷の天使「クリオネ」の政体とは かわいく見えて捕食シーンは衝撃的!?』PREZO https://prezo.jp/column/5537
参考:『バッカルコーンが出た!クリオネ - It looks like sea angel catches bait like the devil』新江ノ島水族館公式チャンネル(youtube) https://youtu.be/8tyu4hqmxjk?si=h5-S7j-50qVs203Z
クリオネ捕食シーン。頭がパかっと割れます。
参考:『流氷とクリオネ』オホーツクミュージアムえさし(youtube) https://youtu.be/08O7yWrznU8?si=oX2V8U4koBJVuJ1A
クリオネが出てくるのは、1:30~3:19です。本当に厳寒の流氷ので元気に泳いでいます!
釧路・根室
阿寒湖・屈斜路湖・摩周湖の位置
既出問題に有。
覚えておくこと
参考:『阿寒湖の魅力』釧路・阿寒湖観光公式サイト SUPER FANTASTIC Kushiro Lake Akanhttps://ja.kushiro-lakeakan.com/
参考:『阿寒湖』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%AF%92%E6%B9%96
阿寒湖(あかんこ)は、北海道東部、釧路市北部に位置する湖。全域が阿寒摩周国立公園に含まれ、道東を代表する観光地となっている。淡水湖としては北海道で5番目に大きい。
特別天然記念物のマリモや、ベニザケの湖沼残留型(陸封型)であるヒメマスが生息する。冬は全面結氷し、ワカサギ釣り、スケート、スノーモービルなどのウィンタースポーツが盛んで、阿寒湖氷上フェスティバル・冬華火などのイベントも開催される。周囲はエゾマツ、トドマツなどの亜高山帯針葉樹林、およびナラなどの広葉樹を交えた針広混交林の深い森に覆われており、ヒグマ、エゾシカなどが生息している。
2005年11月、ラムサール条約登録湿地となった。
伝説
火口から噴煙を上げ、火山活動の影響で草木が生えない雌阿寒岳の姿を見たアイヌは、「山同士の争いに巻き込まれて槍で突かれて、傷口から膿を流している」と解釈し、さまざまな伝説を造り上げてきた。以下は、その例である。
雄阿寒岳と雌阿寒岳は夫婦の山だったが、雄阿寒岳は留辺蘂の奥にあるポンヌプリ(小さい山)を妾として囲っていた。それを知った魔の神・ニッネカムイが「山のくせに妾を持つのは生意気だ」と、雄阿寒はおろか罪科の無い雌阿寒まで槍で突き刺した。雌阿寒の火口は、その傷跡だという。
大雪山系のオプタテシケ山と雌阿寒岳は夫婦山だった。ところが喧嘩別れして、雌阿寒は実家に帰ってしまった。いつか恨みを晴らしてやろうと機会を伺う雌阿寒は、ある時ついに遠くのオプタテシケ目掛けて槍を投げつけた。それを見た十勝のヌプカウシ山が驚いて止めようとして、片方の耳を削られた。騒ぎを知ったオプタテシケは槍を投げ返して雌阿寒に命中させたので、今でも雌阿寒は傷から膿を流しているのだ。なお、槍を止めようと立ち上がったヌプカウシの居場所に水が溜まったのが然別湖である。
観光とアイヌ文化
火山地域にあるため温泉が沸き、湖南岸には阿寒湖温泉の温泉街がある。遊覧船が出ているほか、環境省の阿寒湖畔エコミュージアムセンターや、阿寒湖周辺の自然保護に貢献した前田一歩園財団が保有する前田記念館(前田一歩園初代理事長であった前田光子の山荘)がある。
遊覧船でチュウルイ島に渡り、自然の状態のマリモを見ることが出来る。
湖畔ではボッケと呼ばれる泥火山が噴出し、硫黄の異臭を周辺に放っている。「ボッケ」はアイヌ語で「煮え立つ」を意味する。
アイヌコタン
阿寒湖温泉街の一角には約30戸、120人程度が暮らす北海道最大のアイヌコタン(アイヌの集落)がある。アイヌの伝統舞踊を公演する演舞場の「オンネチセ」や、アイヌの伝統文化を紹介する2つの資料館(アイヌ生活記念館、森と湖の藝術館)ならびに木彫製品などを販売する土産物店などが並んでいる。
欧米の観光客には、自然と調和して暮らしてきた世界各地の先住民の文化に対する関心の高い人が多い。このため訪日外国人の誘致も狙って、アイヌ文化の発信により力を入れる取り組みが官民で進んでおり、2017年6月17日に第一回イランカラプテ音楽祭(イランカラプテは挨拶、もてなしを意味するアイヌ語)が阿寒湖アイヌシアター「イコロ」で開かれた
北海道東部(道東)の弟子屈町に位置する自然湖。日本最大のカルデラ湖で、全面結氷する淡水湖としても日本最大の面積を持つ。1934年(昭和9年)、全域が阿寒国立公園に指定された。
アイヌ語で喉口、転じて「沼の水が流れ出る口」を意味する「クッチャラ」に由来し、この湖の「クッチャラ」近くにあったアイヌの集落(コタン)「クッチャロ」に和人が字を当てたとされる。
藻琴山、サマッカリヌプリなどを外輪山とする東西約26km、南北約20kmの日本最大のカルデラである屈斜路カルデラの内側に約3万年前に形成された。日本の湖沼では6番目の面積を有し、平均水深は28.4m、カルデラ湖としては浅いほうだが、和琴半島東岸の旧噴火口にある最深部は117mまたは125m。
湖中央部には、日本最大の湖中島である中島(面積5.7km2、周囲12km)が浮かぶ。中島は直径約1.4kmのタフリングを持っており、その中に貫入している溶岩円頂丘が最高点((355m)となっている。南岸には和琴半島が突出する。中島と同様、火山の山頂が湖中島になったものであったが、尾札部川の扇状地から成長した砂州により陸繋島となった。
周囲から小河川が流入し、南端から釧路川が流れ出す。河川からの流入は、湖に入る全水量の20パーセントほどで、残りは地下から湖底に入っている。
『屈斜路湖』wikipediaより引用
のちほど肉付けしていきます。
北海道東部,弟子屈 (てしかが) 町にある湖。世界最大の屈斜路カルデラ (東西約 26km,南北約 20km) の北西にあたり,面積 79.3km2,周囲 57km,湖面標高 121m,最大水深 117m。屈斜路カルデラ壁は南部を除いて完全に連続し,平均比高は 400mに達する。陥没後その中心部にアトサヌプリ火山群,南東部に摩周湖周辺の火山,北西部に屈斜路湖の中央にある中島などの火口丘や寄生火山が噴出。湖の北西側に美幌峠 (525m) ,藻琴山 (1000m) ,津別峠の景勝地がある。湖の南西端から釧路川が流出する。湖岸に仁伏 (にぶし) ,砂湯,池ノ湯,川湯,和琴などの温泉群が分布。夏季のキャンプや,保養,観光地として有名。阿寒国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
阿寒摩周国立公園は→ 日本の国立公園の項へ。
釧路湿原国立公園は→ 日本の国立公園の項へ。
帯広市 音更町 士幌町 上士幌町 鹿追町 新得町 清水町 芽室町 中札内村 更別村 大樹町 広尾町 幕別町 池田町 豊頃町 本別町 足寄町 陸別町 浦幌町
参考:『超強力小麦「ゆめちから」』農研機構 https://www.naro.go.jp/laboratory/harc/contents/yumechikara/
「ゆめちから」の小麦の品質は超強力で、「きたほなみ」等の中力小麦粉とブレンドすることにより、パン用やラーメン用に利用できます。
タンパク質含量が高いため、パスタ用や醤油醸造用にも利用できます。
また縞萎縮病に対して優れた抵抗性があります。
(くわしくはHPへ)
参考:『ゆめちからとは..』ゆめちからテラス https://www.yumechikara-terrace.jp/about/
めちからは(独)北海道農業研究センターが育成した硬質の秋まき小麦です。
9月頃に種をまき、雪の下で冬を越し、種をまいた翌年の7〜8月に収穫が行われます。
ゆめちからの小麦粉は超強力粉であり、パンや麺として使用されています。
ゆめちからを使ったパンや麺はもちもちとした食感と甘みが特徴です。
この特性は高く評価され、各種小麦粉食品および最適なブレンドによるパンや麺への用途拡大や、日本の課題である自給率向上と地産地消を求める消費者の要望を満たすものと期待されています。
また、平成20年度には北海道優良品種に認定されています。
以下の項目選択は、『うちの郷土料理 北海道』農林水産省 による