2026年度は、日本歴史教科免除のために歴史検定日本史2級を頑張ります!
↑写真は、秀吉建造の聚楽第を移築したと伝えられる西本願寺飛雲閣
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
なるべく年代順に並べていますが前後が逆転している場合もあります。目次とページ内の検索機能を利用してください。
織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京した永禄 11 (1568) 年9月 26日から,または義昭が信長に追われ室町幕府が滅びた元亀4 (1573) 年7月 18日から,豊臣秀吉政権の終わった慶長3 (1598) 年8月 18日,徳川家康が実権を握る関ヶ原の戦いの慶長5 (1600) 年9月 15日,または徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8 (1603) 年までの約 30年間の時代をいう。信長の居城は安土城であり,秀吉の居城である伏見城がのちに桃山と称したところから,織田信長,豊臣秀吉の覇権 (この政権を織豊政権という) の時代をいう。 (→安土桃山文化 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の政治・経済・文化など項目別の詳しい説明も確認しておくこと。
<平成30年設問対策>
織田信長
[生]天文3(1534).尾張,那古野
[没]天正10(1582).6.2. 京都
戦国時代の武将。信秀の子。幼名吉法師または三郎。元服して信長。天文 20 (1551) 年父信秀が没して家督を相続して以来,一族内部の抗争に奔走,永禄2 (1559) 年には岩倉城の織田信賢を破り,尾張一国を統一,次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた (→桶狭間の戦い ) 。そののち三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き,美濃に進出を企て,永禄 10 (1567) 年斎藤龍興を滅ぼして美濃をくだし,稲葉山城を岐阜と改名して,尾張清洲より移った。翌 11年足利義昭を奉じて上洛,義昭を将軍職につけたが,のち義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかったため元亀2 (1571) 年信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。天正1 (1573) 年には朝倉氏,さらに浅井氏を滅ぼし,義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ,天正3 (1575) 年,武田勝頼を三河長篠に破り (→長篠の戦い ) ,翌年には近江安土に築城した (→安土城 ) 。やがて中国経略を志して毛利氏と対立したが,一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。天正 10 (1582) 年には甲斐武田氏を滅ぼし,信濃の北口を平定。しかし同年6月2日,本能寺の変で明智光秀のために殺され,その統一事業は中絶した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*桶狭間の戦い 戦国時代,織田信長と今川義元との,尾張国知多郡の桶狭間における戦い。駿河,遠江,三河3国を領有した今川義元は,永禄3 (1560) 年5月,4万と称する兵を率いて上洛を企て尾張へと進軍した。尾張国清洲城主織田信長は,砦を構えてこれに対したが,前衛の丸根,鷲津などの砦は同 19日までに陥落した。同 18日夜半,清洲を出発した信長は,19日正午頃,沓掛から進んで大高に通じる三面起伏の迫る低地 (→田楽狭間 ) に休憩していた義元の本陣を,約 3000人の兵をもって風雨のなかを急襲し,その首級をあげた。信長はこの勝利によって東海道における勢力を急速に増大させた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
信長の対外の大きな戦いの初勝利。鉄砲を大量に用いた戦いは、もっと後の長篠の戦いが有名である。→表参考
*姉川の戦い 元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*楽市令 主として16世紀後半,戦国大名および織豊政権が,地方市場,新設の城下町に出した法令。楽市令は大別して次の2種に分けられる。ひとつは,15,16世紀に新しく登場した地方市場で,寺内町(じないちよう)に代表されるような,すでに,楽市場として存在していた市場に,その楽市の機能を保証した,いわば保証型楽市令である。この型に属する楽市令としては,織田信長の永禄10年(1567)美濃加納あて楽市令,元亀3年(1572)近江金森あて楽市令,後北条氏の天正13年(1585)相模荻野あて楽市令などがある。
出典 株式会社平凡社
*会合衆 室町,戦国時代の都市自治組織の代表者。彼らは都市によって年寄,老中,乙名 (おとな) などと呼ばれており,堺では文明年間 (1469~87) に会合衆がおかれていた。堺の会合衆は納屋衆とも呼ばれ,すべて富裕な商人たちで構成され,初めは 10人,のちには 36人であった。これは月行事の3人が 12ヵ月を輪番でつとめるためであった。戦国時代には合議制によって戦火から堺を守り,織田信長の専制的圧力に反発し,浪人などを集めて,自主防衛を意図した。しかし信長の多大の矢銭の要求を1度は退けたが,ついに信長の武力に屈服した。伊勢の宇治山田,大湊などにも会合衆が存在した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*南蛮貿易 1540年代から1世紀にわたって日本人と南蛮人 (→南蛮 ) との間で行われた貿易。天文 12 (1543) 年ポルトガル人の種子島漂着が南蛮貿易の端緒となった。当初は平戸,横瀬浦,福田,口の津など北九州諸港にポルトガル船が来航したが,元亀2 (71) 年長崎が開かれ,領主大村純忠がこれをイエズス会に寄進して以来,ポルトガル船はこの地に連年入港するようになった。船は初めはナウと呼ぶ大型帆船,のちにはガレウタと呼ぶ小型帆船で,司令官のカピタン・モールの統制下に,季節風を利用してゴアもしくはマカオから長崎に来航,鉄砲,火薬,ヨーロッパの毛織物,中国産の上質生糸,南海産の皮革,香料その他を日本は輸入し,日本からは銀をはじめ,銅,鉄,食料品などを輸出して,2~3倍の利益をあげた。初めはマカオ住民の出資が多かったが,のちには日本商人の投銀 (なげがね) 形式の投資もみられた。生糸の需要は高く,江戸幕府は糸割符 (いとわっぷ) 制度によってその輸入を独占,統制した。 17世紀の初めには朱印船貿易が盛んとなり,日本人が台湾,マカオ,ルソン,カンボジア,シャムなどに進出して,日本町が発達した。しかしイギリス,オランダのプロテスタントの商権拡張,幕府のキリスト教取締り,鎖国政策の強化とともに,南蛮貿易は行きづまり,寛永 16 (1639) 年のマカオ使節 L.パチェコらの死刑をもって幕を閉じた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*信長とキリスト教 織田政権は一向一揆と激しく争い、また、比叡山を焼き討ちした。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた。例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている[397]。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである。
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した[398]。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている。(織田信長 Wikipedia)
以上のように信長はキリスト教のみを特別に庇護したわけではないし、ザビエルが会おうとしたのは、日本国王(足利義輝・後奈良天皇)であり、献上物の荷の遅延により、拝謁が叶わなかったことから、大内氏・大友氏・大村氏ら西国・九州の戦国大名に会って布教許可を得ている。彼ら大名はは貿易のうまみも得ながら、キリスト教に傾倒していった部分もあり、大村純忠などは仏教を弾圧したりもした。
*天正遣欧少年使節 1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信(大村純忠の甥)の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
使節の目的
第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。
使節:伊東マンショ(主席正使・大友宗麟名代・宗麟血縁・日向国主伊藤義佑の孫)・千々石ミゲル(正使・大村純忠の名代・大村純友の甥)・中浦ジュリアン(副使・肥前国中浦城主の息子・1633年長崎で穴吊るしの刑により殉教・2008年ローマ教皇により福者に列せられる)・原マルチノ(副使)
参考:『織田信長』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には足利義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」)を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた。しかし、近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され、その革新性を否定する研究が主流となっている。
概要
織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。
一方で、室町幕府の将軍・足利義輝が殺害された(永禄の変)後に、弟の足利義昭から室町幕府及び足利将軍家再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。
将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた。
天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。
天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男の信孝に出兵の準備をさせている。そして、信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)。
一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる。
政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた。天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている。
江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。
とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている。第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、近年の歴史学界では信長の評価の見直しが進んでいる。
生涯
※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。
尾張・美濃の平定
少年期
天文3年(1534年)5月、尾張国の戦国大名・織田信秀と土田御前(土田政久の娘)の間に嫡男として誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)。
信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた。
なお、信長の生誕地については、那古野城・古渡城・勝幡城の3説に分かれる。なかでも、那古野城説は『国史大辞典』に記されるなど定説となっていたが、山科言継の『言継卿記』の記述などを根拠に、天文3年時点では織田氏がまだ那古野城を奪っていない可能性が高まった(詳細は那古野城#歴史を参照)ことに加え、愛西市所蔵『尾州古城志』などの史料の「勝幡城で生まれた」といった記述をもとに、1992年に発表された論文をきっかけとして近年では勝幡城説が妥当と考えられている。
尾張の大うつけ
信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている。『信長公記』によれば、信長は奇矯な行動が多く、周囲から「大うつけ」と呼ばれたという。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する。
天文16年(1547年)、信長は今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった。
濃姫との結婚
天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。天文21年(1552年)には、道三は信長に配慮し気にかけて周囲の地域の領主に宛てて信長を「若造で至らない点もあるがご容赦」をと交友を取り持つ書状を出している。
斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった。そして、おそらく天文21年(1552年)3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)。
家督継承から尾張統一
家督継承後の信長はすぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった。弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部にも弟・信勝(信行)などの競争者がいた。
一説には、「信秀が最晩年に行おうとした今川義元との和睦に反対したことなどから、信長は後継者としての立場に疑問を持たれ、信秀も信長・信勝間で家督を分割する考えに転じたのではないか」という説がある。実際に信秀の死の直後に、信長は直ちに和議を破棄している。ただし、この和平の仲介には信長の舅・斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場では、道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性を孕むこの和議には賛同できなかったとする見方もある。
天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明にした。信長は萱津の戦いで勝利したが、これ以後も清洲方との戦いが続くこととなる。
聖徳寺の会見
天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。一方、おそらく同年4月に、信長は聖徳寺で道三と会見した。その際、道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
天文23年(1554年)、村木城の戦いで今川勢を破った。
この年も、清洲との戦いは、信長に有利に展開していた。同年7月12日、尾張守護の斯波義統が、清洲方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子・斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた。
こうして、信長は、清洲の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた。そして、数日後には、安食の戦いで長槍を用いる信長方の軍勢が清洲方に圧勝した。
天文23年、衰弱した清洲の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清洲城を奪われ、守護代・織田彦五郎も自害を余儀なくされた。ここに尾張守護代の織田大和家は滅亡することとなる。
他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している。この死は暗殺によるものであったと考えられる。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという。
義父・斎藤道三の死
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)。信長は救援のため、木曽川を越えて美濃の大浦まで出陣したものの、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した。
弟との戦い
最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった。
同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い)。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。
永禄元年(1558年)、信勝が再び謀反を企てる。この時、信勝を見限った柴田勝家からの密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。
同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢を浮野の戦いにおいて撃破した。そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府の13代将軍・足利義輝に謁見した。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる。
一方、天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる。
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻した。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後1時、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣した。攻撃を仕掛けてくるなど全く予想しておらず、油断しきっていた今川軍の陣中に信長は強襲をかけ、義元を討ち取った(桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)。
永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。
永禄8年(1565年)、信長は犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して、信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた。
美濃斎藤氏と足利義昭
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃には、北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。
一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)。義輝の弟・足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた。
これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭の上洛に協力する旨を約束した。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた。こうして、信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった。
ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して、美濃斎藤氏との戦闘を再開する。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、閏8月に河野島の戦いで大敗を喫してしまう。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなった。
そして、永禄9年(1566年)、信長は美濃国有力国人衆である佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)、義弟・斎藤利治を佐藤忠能の養子として加治田城主とする。さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)
同年11月、印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものであった。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。
二重政権
織田信長の上洛戦
一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣している。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した。
永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。
更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。
永禄11年10月18日、足利義昭は将軍に就任した。信長は、畿内の成敗を終えた後、同月26日、岐阜に戻った。義昭は信長に副将軍か管領を授けようとしたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り、遠慮したとされる(ただし、朝廷や幕府は、文書や礼式上、信長を管領に準じて扱っていた。また、草津と大津、堺の土地を貰った。
幕府再興
永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。もっとも、細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。これを機に信長は義昭のために二条に大規模な御所・二条御所を築いた。
同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭の支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた。また、(現存する文書では)同年1月以降に南近江に対して出される信長発給文書の書式が尾張・美濃と同一のものが採用され、同地域が織田領国に編入されたことが明確となった。
一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』および追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある。
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。元亀元年(1570年)1月、甲斐・三河・遠江・伊勢・飛騨など20か国の大名や国衆に、「禁中御修理」、「武家御用」など、「天下静謐」の礼参を名目に上洛を促す触状を発した。これに対し、家康をはじめ、水野信元、姉小路自綱、畠山昭高・高政、三好義継、松永久秀、一色義道、太田垣輝延、宇喜多直家ら大名や使者が入京した。
同年1月23日、信長は義昭に対してさらに5ヶ条の条書を発令して、これも義昭に認めさせた。この条書についてもかつては将軍権力を制約をより強化するものとするのが通説であったが、これと前後して信長の書札礼が関東管領(上杉謙信)と同じ様式に引き上げられていることから、義昭の上洛以来一貫して幕府における役職就任を拒んできた信長が管領に准じる身分(「准官領」)を得て正式に幕府高官の一員として義昭を補佐することに同意してそれに伴う信長側の要望を述べたものに過ぎない(元々、信長が幕府役職に就いてより積極的に「天下静謐」に参画するように求めたのは義昭の方である)という、通説とは全く異なる評価も出されている。
信長自身の当初の考えでは、幕府再興の実現後も幕府に対する軍事的な奉仕を続けるものの、京都の政務は幕府が行うべきで、自身は領国である美濃に留まって必要があれば京都にいる自己の奉行人を介して関与する方針を取ろうとしたと考えられている[103][104]。山科言継が直接岐阜城を訪れて訴訟の裁許を求めた際には信長からは勅命以外の訴訟は美濃では扱わないことを言明しているが(『言継卿記』永禄12年11月12日条)、その後も同様の申入れが相次いで重ねて美濃では公事訴訟は受け付けず、陣中からの注進以外の話は聞かない旨を制札を立てたという(同元亀2年12月16日条)。
しかし、幕府による訴訟の遅延の問題(後述)や軍事的な強制力を持つ織田家の力を借りて訴訟を解決したいという考えも強かった。このため、信長が上京するたびに多くの訴訟が持ち込まれる事態となった。また、村井貞勝や明院良政を始めとする京都にいた信長の奉行人に同様の裁許を求める者もあった。
ところが、信長が政務の担い手として期待していた幕臣たちが公家領や寺社領の押領の当事者になることがあり、中には幕府自らが没収して幕臣に所領として与える場合もあった。加えて、室町幕府では足利義輝が永禄5年(1562年)に代々政所執事を務めてきた伊勢貞孝を討って側近の摂津晴門を後任として以降、将軍と側近による御前沙汰を強化して将軍の権限を強めていく幕政改革を行い、義昭もこの方針を継承していたが、結果的には政所の弱体化によって大量の事案に対応しきれなくなって訴訟の遅延を招くことになった。
そして、何よりも義昭自身が恣意的な裁許を行ったことによって問題を深刻化させる事態も発生してい。信長による『殿中御掟』の制定も幕府における訴訟の円滑化と義昭や側近による恣意的な裁許を止めて公正な訴訟が行われることで幕府の安定化を意図したものと考えられている。ただし、幕府再興のために将軍や幕臣の態度に対しても積極的に意見していく信長の姿勢は、義昭や側近の幕臣たちからは義輝時代の三好長慶の再来として警戒の対象になった可能性も指摘されている。
伊勢侵攻
一方、稲葉山城攻略と同じ頃の永禄10年(1567年)、信長は北伊勢に攻め寄せ、滝川一益をその地に配した。さらに。その翌年の永禄11年のより本格的な侵攻により、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を、長野氏に弟の織田信良(信包)を養子とさせ、北伊勢八郡の支配を固めた。
南伊勢五郡は国司である北畠氏が勢力を誇っていたが、永禄12年(1569年)8月に信長は岐阜を出陣して南伊勢に進攻し、北畠氏の大河内城を大軍を率いて包囲した(大河内城の戦い)。信長は強硬策を用いて大河内城の攻撃を図るも失敗し、戦いは長期化した。攻城戦の末、10月に信長は北畠方と和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。天正4年(1576年)になると、信長は北畠具教ら北畠氏の一族を虐殺させている(三瀬の変)。
なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にもかかわらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている。
第一次信長包囲網
1570年(元亀元年)の戦国大名勢力図
元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍する[126][注釈 50]。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける[126]。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた[126](金ヶ崎の戦い)。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙[128]。並行して、浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)[128]。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した[129](野田・福島の戦い)。さらに、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する[129]。
しかし、9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還する[130]。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した[130]。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)[130]。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ[130]。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[131]。そして、正親町天皇の勅命を仰ぎ、12月13日、浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱した[注釈 51]。
第二次信長包囲網
→詳細は「信長包囲網 § 第二次包囲網」を参照
『織田信長 図像』(兵庫県氷上町 所蔵)
元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た[134]。
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし、撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した[130]。同月、三好義継・松永久秀が大和や河内の支配を巡って筒井順慶や畠山昭高と対立し、足利義昭が筒井・畠山を支援したことから三好三人衆と結んで義昭から離反して、信長とも対立関係となる[135]。
同年9月、敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)[134]。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると、三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[136][137]。
元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した[138]。同月、足利義昭が信長に京都における邸宅造営を勧め、義昭は徳大寺公維に替地を与える条件で上京武者小路の屋敷地を信長に譲って貰い、信長はその地に村井貞勝と嶋田秀満に屋敷の造営を命じる。これは単なる義昭の信長へのご機嫌取りではなく、三好・松永軍の北上を警戒して信長を京都に引き留めたいとする意図があったとも考えられる[139]。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた[140]。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた[140]。以後の戦況は織田軍有利に展開した。 10月3日、信玄が甲府を出陣し、信長はそれを知らず、5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った[141]。
11月14日、織田方であった岩村城が開城し、武田方に占拠された(岩村城の戦い)[142]。病死した岩村城主・遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は、秋山虎繁(信友)と婚姻し、武田方に転じた[142]。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した[142]。 信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。[143]。 この恨みが忘れられなかったのか長篠後に藤孝に「信玄入道表裏を構え、旧恩を忘れ、恣の働き候いける」と申し送っている[143]。
同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している[144]。この異見書は、従来、『永禄以来年代記』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた[144]。しかし、柴裕之によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い[144][注釈 52]。柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる[144]。そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする[144]。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)[147]。 こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した[148]。
信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼き討ちちしつつ、義昭との和睦を図った[149]。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した[149]。なお、久野雅司は御供衆で武田信玄との外交を担当していた上野秀政[注釈 53]を信玄の上洛や信長の排除を画策して義昭に挙兵を勧めた人物と推測し、信長の上洛も秀政とその同調者の処分を目的としていたが、義昭が和睦に応じて秀政も信長に謝罪をしたことで一応の目的を果たしたとしている[151][152]。一方、武田軍は信玄の病状悪化により撤退を開始し、4月12日には信玄は病死する[153]。
4月末に義昭と信長家臣との間で起請文が交わされた。義昭が宛てた家臣の内訳は佐久間信盛・滝川一益・塙直政で、信長側の発給者は林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全・滝川一益である[154]。
なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている[注釈 54]。
室町幕府の「滅亡」
足利義昭の没落
しかし、その後も義昭は信長に対して抵抗し、1573年(元亀4年)7月には再び挙兵して、槇島城に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放した[156]。
通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている[157][158]。一方、義昭はその後も将軍の地位に留まったまま、各地を経て、備後国鞆へ移り、毛利輝元の庇護を受ける。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある[159]。
このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている[160][161]。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている[162]。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる[162]。
幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している[163]。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた[163]。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった[163]。
義昭の追放後、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、7月28日にはこれを実現させた[164][注釈 55]。
朝倉・浅井氏の滅亡
→「一乗谷城の戦い」および「小谷城の戦い」を参照
天正元年(1573年)8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀を経由して越前国に侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に浅井久政が自刃した[166]。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害した[166]。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る[167]。
11月に、足利義昭は、三好義継の居城・若江城を離れ、紀伊国へと退去した[168]。同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始した[168]。義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害する[168]。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した[168]。
天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺された[169]。
さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる[169]。信長はこれを迎撃しようと3万の兵で出陣したが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した[169]。明知年譜によると、山縣昌景の別動隊6000人の追撃を受け、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長が瀬戸際まで追い詰められる場面もあったという。
また、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[169]。
長島一向一揆の制圧
→詳細は「長島一向一揆」を参照
7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した[170]。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる[170]。
9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた[170]。これは、信長の「不意討ち」[171]と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある[172]。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた[170]。
これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた[170]。この戦によって長島を占領した[170]。
長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』
→詳細は「長篠の戦い」を参照
天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた[173]。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた[173]。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。
その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた[174]。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した[174]。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという[174]。
そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)[174]。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた[175][注釈 56]。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した[178]。武田方は有力武将の多くを失う[178]。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている[178]。
6月27日、相国寺に上洛した信長は、常陸国の国人である江戸氏が、本来天台宗の僧侶にしか認められていない絹衣の着用を自己が信奉する真言宗の僧侶にも認めたことで天台宗と真言宗の僧侶の間で相論が続いていることを知り、公家の中から三条西実枝・勧修寺晴右・甘露寺経元・庭田重保・中山孝親の5人を奉行に任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)[179]。なお、老齢である三条西は11月ごろに奉行を辞退し、残りの4名は「四人衆」と呼ばれて本件を含めた朝廷内の訴訟に関する合議を行うようになった[180]。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た[181]。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた[181]。
一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国に対し、8月に信長は行軍して平定し、一揆勢を多数殺害したことを書状に記している[182]。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた[183]。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた[183]。
この越前一向一揆の殲滅と、これに先立つ長島一向一揆の殲滅は大坂本願寺に対する圧力となり、信長が本願寺を赦免する方針をとったため、10月には信長と本願寺との和議が成立した[184]。これにより、信長は一時的に天下静謐を達成することとなった[184]。
右近衛大将就任
安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県近江八幡市安土町
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる[185]。さらに11月7日には右近衛大将を兼任する[185]。この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという[185]。官位就任とともに、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努めた[185]。以後、信長はしばしば「上様」と称されるようになる[185]。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる[186]。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある[187]。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある[注釈 57][189]。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた[190]。
信長後継者任命
同日、嫡子の信忠が秋田城介に任官している[185]。
そして、11月28日、信長は嫡男の信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに岐阜城を中心とした美濃・尾張などの織田家の領国を譲り、斎藤利治・河尻秀隆・林秀貞等を信忠付きの譜代家臣団とした[185]。
1575年(天正3年)12月、信長と和睦した播磨国の小寺政職には圧切長谷部、武将の黒田孝高や息子の黒田長政には幟の旗印と同じ永楽通宝の紋を染め抜いた鹿皮の陣羽織が与えられた[191]。
天正4年(1576年)1月、交通の要地である近江国安土に安土城を築城することについて、丹羽長秀に奉行を担当させ、同年4月から実際に築城を開始した[192]。安土城が出来るまでは、譜代家老の佐久間信盛の城(屋敷)を在所とした。
天下人として
第三次信長包囲網
→詳細は「信長包囲網 § 第三次包囲網」を参照
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた[193]。しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した[193]。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した[193]。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった[193]。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった[193]。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃[193]。2,700人余りを討ち取った[193](天王寺砦の戦い)。
信長は6月6日に一旦京都に戻るが、折しも興福寺において次の別当を巡って尋円と兼深の間で相論が発生して、双方とも朝廷に訴え出ていた。信長の元にも双方から訴えがあったため、信長は前述の四人衆と相談の上で個人名を上げるのを避けたものの藤氏長者である二条晴良が興福寺の伝統に基づいて任命にすべきと晴良に伝え、これを尋円の任命と受け取った晴良はその手続を取った[194]。しかし、兼深は信長の意見は自分を任じる意向なのに晴良がそれを曲げていると主張し、信長の意見が抽象的でその意味を解しかねていた正親町天皇や四人衆はそれを受け入れてしまった[195]。しかし、安土城に帰ってから報告に訪れた四人衆からそれを聞いた信長は自分の意見が否定されたと激怒して、堀秀政らを興福寺に派遣して事実関係を再確認した上で、滝川一益と丹羽長秀を上洛させて改めて朝廷に尋円の任命を奏上して、四人衆をしばらくの間逼塞処分とした[196][注釈 58](天正4年興福寺別当相論)。
この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する[202][注釈 59]。謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした[203]。謙信や石山本願寺のみならず、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。
天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し[204]、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700 - 800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた[204]。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた[204](第一次木津川口の戦い)。
このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった[205]。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという[205]。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった[205]。
織田右府
天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した[206]。
天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した[207]。天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという[207]。しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた[207]。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[208]。
中国侵攻
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる[209]。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した[210]。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった[210]。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑された(上月城の戦い)[211]。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する[212]一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの[212]、まもなく信長に帰順した[213][注釈 60][注釈 61]。
11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した[214](第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)[215]。
天正7年(1579年)5月には、安土城の天守が地上六階・地下一階の建物として完成を見て、信長はここに移り住んだ[192]。これは、坂本城などの先行する天守よりも豪華かつ大規模なものだった[192]。信長は、天守に狩野永徳の手による仏教・儒教・道教の絵画を設け、天守のそばに清涼殿に類似する建物をも造っている[192]。これは天皇権威の克服や東アジア諸国への進出を意図したものだとも評価されるが、柴裕之は、伝統的な社会権威を尊重する信長の姿勢を示したものだとする[192]。
同年6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される[216]。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した[217]。
一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った[218][注釈 62]。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した[219]。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した[218]。
翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城[220]。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した[220]。
天正7年の政治状況
11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した[221][注釈 63]。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し、切腹を命じたとされる[222]。これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという[222]。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている[223](松平信康#信康自刃事件および家康との関係の項を参照)。
九州の大友義統の昇進を朝廷に推挙し、従五位下・左兵衛督に就任させた。また、大友氏と盟約を結び、毛利領となっていた周防・長門への侵攻および領有を認めた。この頃、関東の北条氏政も信長との関係強化に動いたほか、毛利方の最前線にあった備前の宇喜多直家も羽柴秀吉を通じて織田政権の帰属を申し出て、信長は一旦は拒絶しているものの、最終的には10月末になってこれを受け入れている。これは偶然ではなく、信長が朝廷に対する官位奏請権を確保したことで、足利義昭に代わる「公儀」として諸大名に認知されはじめ、その影響下に入ることで自らの立場の安定化を図ろうとし始めた動きの表れとする見方がある(なお、従前「公儀」として認識されていた足利義昭を指して「公儀」と称した文書の下限は同年4月である)[224]。
大坂本願寺との講和
天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した[225]。
閏3月7日、正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)[226]。ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり、戦闘を継続しようとしている[226][227]。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している[227]。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた[226]。
この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる[228][229]。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく[230]。この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある[229]。
その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた[231]。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている[231]。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった[231][232]。
天下静謐
京都御馬揃え・左大臣推任
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に対し、京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[233]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった[234]。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる[234]。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による[234]。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった[234]。
2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)[234]。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した[235]。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり[234]、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという[235]。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任[236]。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した[236]。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた[236]。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している[236]。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった[236]。ただし、この時に出された陰陽寮(土御門久脩・賀茂在昌)の3月21日付の勘文を正親町天皇が書写したものが東山御文庫に現存しており、その写しには金神のことが記されているため、少なくとも21日の段階で朝廷側は金神の年の問題を知っており、譲位と左大臣就任の延期も朝廷側の申入で3月24日の信長の返事は延期の了承であるとする見解もある[237]。
8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった[235]。
高野山包囲
天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる[235]。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した[235]。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した[235]。
信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令[235]。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した[235]。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした[235]。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った[235]。
天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した[235]。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した[235]。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた[238]。
甲州征伐
→詳細は「甲州征伐」を参照
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田信房(勝長)を返還することで、佐竹義重を通じて信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が、信長に寝返った[239]。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を、信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した[239]。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する[239]。
武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する[239]。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる[239]。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する[239]。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた[239]。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る[239]。しかし、勝頼は穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った[239]。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した[239]。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた[240]。
3月13日、信長は岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する[241]。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国と駿河国の旧領を安堵した[241]。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領[注釈 64]に任命して厩橋城に駐留させた[241]。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた[241]。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている[241]。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた[241]。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける[241]。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した[241]。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城[241]。4月21日に安土城へ帰城した[241]。
信長による武田氏討伐は、奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った[243]。また、伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど[244]、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
安土行幸計画・三職推任問題
天正10年(1582年)1月6日、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せた、という記載が『信長公記』にはある[245][246]。そして、1月7日に勧修寺晴豊は行幸のための鞍が完成したのを受けて、それを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)[245]。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する「安土行幸」が予定されていたと考えられる[245]。
4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が(太政大臣・関白には後に豊臣秀吉が就任)、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた[247](三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない[247]。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある[247]。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた[247]。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが[注釈 65]、返答の内容は不明である。
堀新は、勅使に同行した勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』(晴豊記の断簡)で信長の官職のことを触れていないこと、信長上京の時に朝廷に徐目をめぐる動きがないことをもって就任を断ったのであると断定している[248]。
四国征伐の決定・安土饗応
こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた[249]。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという[249]。
信長は長宗我部氏の討伐後、讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた[249]。また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路に赴いた際、その仕置を決める予定であった[249][250]。そして、その四国侵攻開始は、6月2日に信孝が淡路に渡海する形で予定されていた[251][252]。
しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この信長による四国政策の変更は、光秀の立場を危うくするものであった[249][251]。
5月15日、徳川家康が駿河国加増の礼のため、安土城を訪れた[253]。そこで、信長は明智光秀に接待役を命じた[253]。光秀は15日から17日にわたって、家康を手厚くもてなした(安土饗応)[254]。信長の光秀に対する信頼は深かった[255]。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にした、と『フロイス日本史』は伝えている[256][注釈 66]。
本能寺の変と最期
『本能寺焼討之図』(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)
天正10年(1582年)5月17日、家康接待が続く中、信長は備中高松城の包囲(備中高松城の戦い)を行っている羽柴秀吉の使者より、毛利輝元が自ら出陣し、吉川元春や小早川隆景など毛利氏の軍勢が接近してきたことを報告され、それに対する援軍の依頼を受けた[254][258]。報告を受けると、信長は自ら出陣して、輝元ら毛利氏を討ち、九州までも平定するという意向を秀吉に伝えた[259]。
信長は自身の出陣に先んじて、光秀を家康の接待役から解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた[254][260][注釈 67]。また、信長は光秀のみならず、細川忠興や池田恒興、高山右近、中川清秀らも中国地方に派遣することにした[259]。
従来、信長は中国地方に直接遠征すると考えられてきたが、実際は淡路に渡海して四国を平定したのち、秀吉や光秀らと合流して中国攻めに参加しようと計画していたとされる[259]。他方、信長は四国攻めを担当する信孝の閲兵をするために淡路に赴き[262]、6月4日に渡海したのちは、早くとも5日以降には中国地方に向かう計画であったとする見方もある[263]。いずれにせよ、信長は四国を平定し、毛利輝元を滅ぼせば、大友義鎮といった九州の諸大名も服属すると考えており、この西国出陣が信長の全国統一に向けた最後の出陣となる可能性があった[264]。
5月29日、信長は西国への出陣のため、安土城留守衆を定めて、小姓衆20、30人のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留した[253][265][注釈 68]。嫡子の信忠も信長の出馬を聞き、堺から上洛した[268]。
6月1日、信長は本能寺において、前太政大臣の近衛前久、前関白の九条兼孝、関白・左大臣の一条内基、右大臣の二条昭実、内大臣の近衛信基、勅使の甘露寺経元・勧修寺晴豊ら公家衆の訪問を受けた[269]。信長は上機嫌で公家衆を歓待し、甲州攻めが思いのほかうまく進んだことを語り、6月4日に自身が西国に出陣することを公表した[269]。他方、信長は前久に糾明を命じていた暦の問題を蒸し返したが、公家衆は応じなかった[270]。
公家衆が退出したのち、側近衆だけが残り、信長は信忠と久しぶりに親しく雑談した[271]。これが信長父子にとって最後の会話となった[267]。
やがて、夜になって散会し、信長は眠りについた[272]。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの光秀が京都に突如進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃した(本能寺の変)[273]。その際、光秀が進軍にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる[274]。
わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害して果てた[273]。享年49[273]。
→「是非に及ばず」も参照
没後
信長の嫡男・信忠は本能寺への襲撃を知ると、宿泊していた妙覚寺から信長のもとに駆け付けようとしたが、途中の路地で出会った村井貞勝らに止められ、 二条御新造に移った[267][275]。だが、信長を自害させた明智軍がここにも押し寄せ、信忠は抗戦するも衆寡敵せず、信長の後を追う形で自害した[275]。
戦いが終わると、光秀は信長の遺体を探したが、その遺体は発見されなかった[276]。これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる[277][注釈 69]。
6月13日、秀吉が信長の三男・信孝を総大将として光秀に挑み、山崎の戦いで明智軍に勝利した[279]。光秀は敗走中に命を落とした[279]。
本能寺の変から4か月後、10月9日に信長は朝廷より、従一位・太政大臣を追贈された。15日には、信長の葬儀が秀吉の手によって、大徳寺において盛大に行われた[280]。この後、信長の葬儀については、軍記『惟任退治記』に描写が残る。それによれば、葬儀は「棺槨を金紗・金襴で包み、軒の瓔珞や欄干の擬宝珠に金銀を散らし、丹青を施した八角の柱を立て、八間にわたって色彩を尽くす」などきわめて荘厳に営まれたという[281]。 また、御骨は沈香で刻んだ仏像とともに納められ、連台野には百二間四方の巨大な火葬場が設けられた。葬列には羽柴秀長が警固の大将としてあたり、大徳寺から火葬地に至るまで約1500軒の間を3万の侍が警固し、弓・槍・鉄砲を立て並べたと記される。さらに、池田輝政が御輿の前轅、羽柴秀勝が後轅を担ぎ、秀吉自身が位牌と太刀(不動国行)を持ったという。大徳寺での法会には八宗九派の僧侶が参集し、見物の群衆は「貴賤雲霞の如し」と書き留められている[281]。 これらの記載には誇張も大いに含まれると考えられるが、秀吉主導の下で非常に大規模な葬礼が行われたことはうかがえる[281]。
大正6年(1917年)11月17日、信長は正一位を追贈された[282][注釈 70]。
人物
織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財)
人物評
歴史学者の池上裕子は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師ルイス・フロイスのものであると述べている[283]。信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」[284]とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
— 『フロイス日本史』より[285]
フロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う[283]。他方、歴史学者の神田千里によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い[286]としている。
→「§ 信仰」も参照
残虐性
池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った[287]。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している[287]。そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである[288]。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している[289]。
もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない[290][注釈 71]。また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている[291]。横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない[291]。
信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である[注釈 72]。『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首[注釈 73]を薄濃(はくだみ)[注釈 74]にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した。信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』巻七[294])。桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している[295]。この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している[296]。
奇行
『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた[23]。異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという[23]。さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている[23]。このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた[297]。
しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる[297]。足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことがうかがえる[298]。そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという[297]。
一方、稙田誠は、中世の人々は神仏への尊崇の態度が濃厚である故に願ったことが実現出来ないなどの事情を受けると、一転して強く神仏に反駁して恫喝したり唾棄したりする行動に出ることがあったと指摘している[299]。その上で、信秀の病気に際して医学的な治療だけでなく、僧侶による祈祷が行われていたにも関わらず信秀が死去したことに対して、父の平癒を願っていた信長は祈祷を行った僧侶やその願いに応えなかった神仏に激しい怒りを覚え、位牌に向かって抹香を投げることで葬儀の場を意図的に破壊することで僧侶及び神仏に対する報復行為としたのだという[299]。稙田説は抹香を投げた行為については当時の宗教観で説明可能な行為であって、「奇行」としたり、政治的意図を含むものではないとしている[299]。
家臣の扱い
明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した[注釈 75][300]。
これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している[300]。池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている[300][注釈 76]。
また、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる[302][303]。前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる[283]。
他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ[304]、また家臣の取扱いにも慎重だった[305]。前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している[304]。従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある[304]。そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している[304]。当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという[306]。
信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている[307]。例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している[231]。しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという[305]。そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという[305]。
信長は元々、重臣を軽んじてはいなかったが、重臣を各地の前線や領国に配置したこともあり、安土城を築城してからは年始挨拶に集合する正月儀礼を2回しか行わなかった。さらに、重臣との合議機関もなかったため、信長の近侍衆を通じて以外では、意思疎通がしにくかった。また家臣が裏切るという恐れを考えず、起請文を取り交わさず、妻子を人質に取ることもしていなかったため、家臣団への安定策は不十分だった。これが重臣の裏切りや政権破綻の原因になったと指摘されている[308]。
信仰
熱田神宮の信長塀(名古屋市熱田区)
→「§ 宗教政策」も参照
前述した『フロイス日本史』の記述(→#人物評)から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている[309]。しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている[309]。
熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある[310]。この熱田神宮や、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている[310]。
また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶ(本能寺も法華宗の寺院である)など、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡がうかがえるという[311]。
更に信長は、家臣であった平手政秀の死を嘆き、菩提を弔うために政秀寺を建立している。
このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの[312]、迷信による弊害を嫌った[313]。このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である[313](『信長公記』巻十三)。無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった[313]。信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした[313]。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた[313]。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した[313]。さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという[313]。
前述のように稙田誠によれば、中世は宗教の時代であり、中世人は否応なくその影響下にあったとする一方、何らかのきっかけで宗教や神仏に対する疑念を抱いて不信心を抱き、それが昂じて神仏への恫喝や唾棄、冒涜に奔ることがあるが、宗教や神仏の全否定には至らず、永続性はなかった(信仰に復帰する可能性がある)[314]。信長も父の死をきっかけに神仏や宗教に対する不信感を抱くが必ずしも全否定をしていた訳では無かった(無辺に対する厳しい態度は、父の死の思い出と深く結びついたからだとしている)[314]。信長も宗教と合理性の間を行きつ戻りつを繰り返す中世人の例外ではなかったとしている[314]。
武芸
紺糸威胴丸
前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという[315]。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた[315]。
信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[316]。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[317]。天正7年(1579年)の2 - 3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。
前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[318]。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 77]。
天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[321]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[322]。
天正4年(1576年)4月、毛利輝元の叔父・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[323]。
天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[324]。
天正8年(1580年)6月26日、長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[325]。
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[326]。
趣味
織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)
信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった[327]。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという[328]。
そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)[329]。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 64]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある[330]。『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという[331][信頼性要検証]。
ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである[329]。
また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる[332]。しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する[333][332]。
相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[333]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[334]。具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという[334]。
幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった[335]。その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある[336]。
風流の精神
信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした[337]。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている[337]。
例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城に明かりを灯して楽しむといったことをしている[337]。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという[338]。
信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた[339]。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという[339]。
判物から印判状への変化
山室恭子の「中世の中に生まれた近世」で山室は信長発給文書は判物から印判状へと変化するが、1567-1575への併用期を経て1576年以後はほぼ完全に印判状だけをもちいるようになる(永禄十年は天下布武への決意を固めた時、天正四年は安土城を築いた時である)とし、信長を他の戦国大名と比較した結果「ある時期に画然とためらうことなく」薄礼化が実施されていると結論付けている[340]。
異国への関心
イエズス会の献上した地球儀・時計など、西洋の科学技術に関心を持った[341]。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという[342]。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている[341]。
信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵(狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている[343]。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる[343]。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。
南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある[344]。宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味がうかがえると主張しているという[344]。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい[345]、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう[346]。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている[344]。
女性観・男色
ウィキソースに利家夜話の原文「若き時は、信長公御傍に寝臥なされ、御秘蔵にて候と、御戯言ざれごと、御意には、利家其頃まで大髭にて御座候」があります。
信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい[347]。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている[348]。
なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる[349][350][注釈 78]。
信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある[352][353][注釈 79]。
しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる[353]。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い[353]。
徳川家康との関係
平野明夫は、徳川家康宛の信長書状は元亀四年四月六日までは書止文言は恐々謹言で宛名の脇付も進覧ないし進覧之候とあるが、天正五年一月二十二日付以後の書止は謹言になり、脇付は無くなっている。これを等輩に対する書札礼から下様への書札礼に変化していると分析している[354]。
また、家康から信長への書状は天正二年九月十三日付けの書止文言は恐々謹言だが、天正二年閏十一月九日付以降は最高位の恐惶謹言が用いられていてしかも脇付は最高の敬意を示す「人々御中」が用いられている。 これをもって、平野は家康は一門に準ずる織田政権下の一大名であったと締め括っている[355]。
谷口克広も武田家滅亡の際に駿河が信長から家康に宛行いを受けたと書いてあるのは信長公記だけでなく当代記にも「駿河国家康下さる」とあるうえ、三河物語でさえも、「駿河をは家康へ遣わされて」という表現を用いているとし家忠日記でもこの頃の信長を「上様」と呼んでおり、家康の家臣でさえ、縦の関係が生じていることを認めざるをえなかったとしている[356]。
肖像
織田信長像(狩野永徳筆)
信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている[357]。
代表的な作品として、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)[358]、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)[359][359]、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像[360][361]、近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの[362]、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。
このうち、信長の肖像画としてもっとも有名な長興寺所蔵の肖像画は、太平洋戦争中の1944年から1945年に大阪市立美術館で修復が行われた後、2016年から2019年にかけても文化庁主導の下で再び修復作業が行われた[363]。そして修復を担当した文化庁の調査の結果、この肖像画は中国伝来の竹の紙に描かれていることが判明した[363]。水墨画によく使われる竹の紙を彩色画に使った意図はわかっていない[363][注釈 81]。
また大徳寺所蔵の肖像画は、完成当初の絵から描き直されていたことが2011年に判明した。2008年9月から2009年10月にかけて行われた修復作業に伴う京都国立博物館の調査で、絵の裏側から「裏彩色(うらざいしき)」が見つかった[360]。表面の色に深みを出すための技法で、表面と同系統の色で彩色するのが一般的だが、この肖像画では表面と裏面では色使いが違っていた。表の肖像は、小袖が薄藍色、肩衣とはかまは薄茶色という地味な色合いで、刀は脇差しのみという落ち着いた装いなのに対し、裏彩色は、小袖の左右で色が異なる「片身替わり」と呼ばれる当時流行のデザインで、右腕はもえぎ色、左腕は薄茶色と派手な色使い、そして刀も大刀と短刀の2本差しだった。また小袖の桐紋も裏面の方がより大きく描かれ、右手に持つ扇子も長く幅が広かった。さらに顔の部分の透過赤外線撮影により、裏面は口ひげの両端がはね上がった雄々しい顔つきに描かれていた跡も確認された[360][注釈 82]。当初は裏彩色に近い肖像が表にも描かれていたのが、元の絵に新たに彩色し、上書きしたと見られる[360]。派手好みの信長らしい肖像画が地味に描き直されたのは、豊臣秀吉の横やりだったのではとの見方もある。同博物館は信長没後、法要を実質的に取り仕切るなど、当時権力を掌握しつつあった豊臣秀吉が描き直しを命じた可能性があると見ている[360]。同博物館の山本英男美術室長は、秀吉が「(1)若武者のような派手な服は法要にふさわしくないと考えた」「(2)信長が自分より目立つのは面白くないと思った」など、描き直しを命じた理由は様々に想像できると話している[360]。山本室長は、「一周忌や七回忌の法要は豊臣秀吉が施主を務めたが、三回忌の頃は合戦中(小牧・長久手の戦い)だったため、信長の側室「お鍋の方」が施主だった可能性が高く、絵は彼女と永徳の協議でいったん完成したものの、実質的な施主である秀吉が法要前に初めて最初の絵を見てクレームをつけ、描き直させたのではないか」と推測している。
技法 作品名 形状・員数 作者 所有者 年代 落款・印章 衣裳 備考
紙本著色 織田信長像 1幅
70.0×31.2cm 狩野元秀(宗秀)筆 愛知県・長興寺 天正11年(1583年)6月 裃 重要文化財。寄進銘に「信長一周忌の天正11年(1583年)6月2日に、信長家臣与語久三郎正勝が報恩のために狩野元秀に肖像画を描かせて、兵火で焼けたのち再建に手を貸した長興寺に寄進した」とある。
絹本着色 織田信長像 1幅
73.3×36.8cm 兵庫県・神戸市立博物館 天正11年(1583年) なし 束帯 重要文化財。信長が安土城内に建てた摠見寺の伝来品。大徳寺総見院初代住持・古渓宗陳の賛から、信長の一周忌法要のために制作されたことが判明している。
絹本着色 織田信長像 1幅
70.0×31.2cm 狩野永徳筆 京都市・大徳寺本坊 天正12年(1584年)5月 裃 月代は剃られていない。墨書の日付から、信長の三回忌法要に合わせて制作されたと推測される。元々は同じ永徳筆による束帯姿の信長像とともに大徳寺総見院に伝来したもの。
絹本着色 織田信長像 狩野永徳筆 京都市・大徳寺総見院 束帯 上部に余白があるが賛は書かれていない。
織田信長像 1幅 京都市・報恩寺 天正16年(1588年) 裃 信長の七回忌の際に公家の近衛前久が寄進。
織田信長像 伝織田信雄筆 愛知県名古屋市・総見寺所蔵 束帯
織田信長像 京都市・大徳寺本坊 束帯
織田信長像 伝長谷川等伯筆 京都市・大徳寺龍源院 束帯
織田信長像 兵庫県・丹波市柏原町歴史民俗資料館 束帯 髭なし。もとは柏原藩織田家に伝来。
織田信長像 滋賀県近江八幡市(旧安土)・総見寺 甲冑 柴田勝家による賛あり。
織田信長像 京都市・本能寺 直衣 髭なし。
織田信長像模本 京都大雲院 江戸時代前期(17世紀) 束帯 永徳筆画を模作。
織田信長像模本 蜷川式胤(親胤)模 東京国立博物館 慶応2年(1866年) 束帯 永徳筆画を模作。
織田信長像模本 兵庫県立博物館 束帯 永徳筆画を模作。
織田信長像模本 狩野常信模 愛知県名古屋市・総見寺 元禄7年(1694年) 裃 永徳筆画を模作。織田信長の孫・貞置が、狩野永徳のひ孫・常信に発注したものといわれる。
平信長公像 狩野晴川・晴雪模 東京大学史料編纂所 文政13年(1830年) 裃 前年の文政の大火で焼失した狩野永徳筆画を模写により復元した。
平信長公之影 国友助太夫家資料 裃
織田信長像 早稲田大学図書館 江戸時代後期 裃 1800年代の『芸海余波』に収録。
織田信長像 早稲田大学図書館 江戸時代後期 裃 享和3年(1803年)発行の『桂林漫録』に収録。
織田信長像 小田切春江筆 愛知県清州市・大徳寺総見院 江戸時代(19世紀) 束帯
織田信長像 滋賀県近江八幡市(旧安土)・総見寺 束帯
織田信長像 愛知県清須市・総見院 束帯
織田信長像 石川県・菅原神社 束帯 もとは玉泉寺に伝来。
織田信長像 滋賀県近江八幡市(旧安土)・浄厳院 束帯
織田信長像 滋賀県近江八幡市(旧安土)・西光寺 束帯 京都国立博物館へ委託。
織田信長像模本 織田杏斎模 岐阜県・崇福寺 明治10年(1877年) 束帯 「失われた某所総見寺所蔵の元画を複写」とある。
織田信長像 愛知県・寂光院 束帯 犬山市文化資料館へ委託。
織田信長像 愛知県・甚目寺光明院 束帯
織田信長初陣図 個人 甲冑 林羅山による賛あり。
肖像彫刻 織田信長木像 宮内卿法印康清 京都市・大徳寺総見院 天正11年(1583年)5月 束帯 信長の菩提を弔い、その位牌所として大徳寺山内に建立された総見院の本堂に安置される。
肖像彫刻 織田信長木像 京都市・阿弥陀寺 束帯
信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画を写真撮影したもの。三宝寺所蔵。
このほか、信長の次男信雄の直系の藩である天童藩の織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には、16世紀末頃に来日した宣教師が西洋の技法で描いたという写実的な肖像画を撮影したとされる写真が残されている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。平成4年(1992年)に作家の遠藤周作が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介したことをきっかけに色々な刊行物の表紙やグラビアに採用されたり、テレビ番組などで取り上げられたりするようになって世間に知られるようになった[364]。同書では、信長の死後、宣教師によって描かれた細密な絵を明治時代になってから複写し、宮内庁、織田宗家とともに分け持ったという話や、織田家ではこの絵が信長にもっとも似ていると語り伝えられている話を紹介している[364]。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている[364]。ただし、写真のみで原画は現存しておらず、その写真も三宝寺にしか残されていない。また、原画は木炭で描いたデッサンともいわれ、陰影法で描かれており、当時の描法の吟味など美術史的解明が待たれるとされている[364]。
政策
「織田政権」[注釈 5]も参照
信長の政権構想
天下布武と刻まれた信長の印章。初見は1567年。楕円形、馬蹄形、2匹の龍が印文を囲む双龍型のものがある[366]。
信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた[228]。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる[228]。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる[228]。
上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で「七徳の武」[注釈 83]という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている[367]。
「天下布武」印が押された織田信長禁制[368]。京都府立京都学・歴彩館所蔵。
また長らく信長の「天下布武」の意味は、「天下統一」すなわち「織田氏による日本全土の武力制圧」と解釈されてきた[369]。この説によれば、信長は上洛以前から全国規模の征服戦争を企図し、将軍権力を排除した織田氏主体の政権樹立を目指していたとされ、「天下布武」こそその意志表明であると捉えられてきた。しかし最近の研究の進展により、このような解釈は改められつつある。まず近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは日本全土を指しておらず、むしろ「室町幕府の支配領域」および「将軍権力自体」を限定的に指しており、地域としても厳密に五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指しており、それ以外の地域を含んでいないことが明らかとされた[370][371]。また「布武」の語については、「武」(武家・幕府)を「布く」(行き渡らせる・再興する)という意味で、室町幕府の秩序回復・再興を意図したものとする解釈が有力である。この立場では、「天下布武」は永禄11年(1568)の上洛と足利義昭の将軍擁立により、ほぼ目的を達成したものとされる[372]。
従来、「布武」は信長の造語であり、他に類例のない独自の語法から「織田氏の軍事力による私的政権樹立」の表明とされてきた。しかし一部の論者からは、中国古典『礼記』の「堂上接武 堂下布武」(堂上では小股で摺り足、堂下では大股で節度を持って歩け、という宮廷作法の意)から着想を得た可能性を指摘する見解もある。この説によれば、「天下布武」は「(幕府権力が衰退しても)京近辺の政治には自制と節度を要する」という戒めを込めたものとなり、信長の野心的な簒奪意図ではなく、むしろ将軍擁立後の秩序維持を意識した表現とする解釈につながる。ただし、この『礼記』由来説は学界の主流ではなく、少数意見として扱われている。いずれにせよ、近年の研究では、信長を単なる革新的で破壊的な征服者ではなく、公武協調を重視し、外聞や武家徳目を重んじる怜悧な政治家として再評価する傾向が見られる。「天下布武」の印章についても、従来「信長の狂気の表象」と見なされてきた側面から、こうした修正された信長像に沿う形で捉え直されることがある。
もっとも、こうした新説をめぐる議論も数年を経て落ち着きを見せ始めている。歴史家の乃至政彦は、近年の学界の動向として「天下布武」が本来の旧説に近い意味として再評価されつつある旨を述べている[373]。
そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である[157][374]。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した[157]。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている[157]。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる[157]。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたとする主張である[157]。
幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状・副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている[375][376]。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える[375][376]。
しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる[377][注釈 84]。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった[374]。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった[378]。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた[378]。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという[378]。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった[379]。
それに対して、義昭追放後に信長が右大将に任官し、織田政権成立と天下人に公認され、天下人意識の形成と上様への尊称変更とともに[380]、天下の概念が拡大・変容し、「自身と天下の一体化」を主張し、やがて神田千里の畿内布武の天下規定を地理的に超えて「列島日本」の意味となったという説もある[381][382]。このことにより、各地の国人領主にも「天下一統」へ信長に従うように柴田勝家などの方面軍司令官が要求しており、全国にわたる緩やかな大名統合を目指して統一戦争へと突き進んだとする[383]。後の豊臣政権の前段となる統一政権の原型となる政権構想を打ち出したとの説がある[384]。
領域支配
織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。
この点に関連して、天正3年9月の越前国掟が重要な史料として存在する[385]。この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである[385]。
九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった[183]。まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている[183]。そして、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている[183]。
このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった[385]。しかし、この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。
通説に対し、歴史学者の丸島和洋は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた[385]。このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという[385]。そして、明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている[385]。
こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した[385]。そして、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している[385]。この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる[385]。
外交
天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった[386]。例えば、信長は天正7年に島津氏・大友氏に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している[386]。
しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった[386]。ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる[386]。
通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる[387]。ここに、いわゆる「清洲同盟」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという[387]。しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない[387]。
実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる[387]。両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった[388]。しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、書札礼でも信長が家康に優越する立場となっている[388]。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている[388][386]。こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという[388][386][389]。
なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。中村栄孝は、信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている[390]。ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる[391]。本郷和人は、外交をし、交易を盛んにすることは、まさに信長の望みであり、「日本を統一した暁に、信長が海外に派兵した可能性は大いにある」「物流や交易を重視する信長ならば、おそらくは海外に進出しただろう」として、信長であれば、秀吉のように領土の獲得に固執するのではなく、ポルトガルのゴア、スペインのマニラのように「点」の獲得を目指し、しかるべき都市を入手してそこを城塞化し、貿易拠点を築くようなことをしたのではないかと指摘している[392]。結果、信長がもう少し生きていれば、日本にとって良い結果を生むか、悪い方に転ぶかは分からないが、日本はもっと早く国際化したのではないだろうか、と指摘している[392]。
朝廷政策
上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた[393]。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている[393]。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった[394]。
信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある[395]。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた[396]。1990年代に今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』[注釈 85]を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された[396]。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている[395]。
平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである[397][395]。
信長と天皇・朝廷の関係
対立・克服説 融和・協調説
奥野高廣 脇田修
朝尾直弘 橋本政宣
藤木久志 三鬼清一郎
秋田裕毅 池享[注釈 86]
今谷明 堀新
立花京子 谷口克広
藤井譲治[注釈 87] 池上裕子
藤田達生 神田千里
呉座勇一 桐野作人
山本博文
金子拓
信長が天皇を超越しようとしたかどうかについては、宣教師に対する信長の発言がしばしば注目される[395]。ルイス・フロイスの書簡によれば、宣教師が天皇への謁見を求めた際、信長は「汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる[398]。松田毅一が翻訳した『日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり…」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる[399]。
この発言は天正9年京都馬揃えの直前になされた[400]。このように、信長が自身を天皇・内裏であると述べたことについて、信長が天皇を超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる[395]。しかし、この説について平井上総は疑義を呈しており[395]、堀新も信長の皇位簒奪の意図を示すものではなく、融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇と信長の一体化を意味した発言だと述べる[400]。
信長と朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる三職推任問題をはじめ、正親町天皇の譲位問題、蘭奢待の切り取り、京都馬揃え、勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈が別れている[395][401][402]。以下、代表的なものに絞って時系列順で見ていく。
足利義昭追放後の天正元年(1573年)12月、信長は正親町天皇に譲位の申し入れを行い、天皇もこれを了承した[403]。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった[403]。これについて、対立説の解釈では、信長は自身の言いなりとなる誠仁親王を即位させようとし、この動きに正親町天皇が抵抗したことで譲位が遅延したと考える[403]。一方、融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の意向により実現しなかったとみている[403][注釈 88]。
信長は天正2年(1574年)3月に奈良を訪問し、同月28日に東大寺の寺宝である名香・蘭奢待を多聞山城に運び込ませ、東大寺の僧侶立ち会いの下でこれを切取らせている。その直前に出されたと見られている東山御文庫所蔵の「蘭奢待香開封内奏状案」(勅封三十五函乙-11-15)が保管されている。この文書の内容が蘭奢待切取に対する不満を吐露したものであったことから、古くから「信長ノ不法ヲ難詰セラル」(『大日本史料』天正2年3月28日条)と解釈され、長年"正親町天皇が信長による蘭奢待切取の奏請に対する不満を吐露した書状"として理解されてきた。しかし、内奏状は本来天皇に充てて出される文書であるのに天皇の心境が述べられている矛盾が指摘され、金子拓を切取の手続に関与した三条西実枝から正親町天皇に充てられた書状と再解釈した。つまり、この文書の筆者が正親町天皇では無く三条西実枝である以上、不満を吐露したのも正親町天皇ではないことになる。そして、不満の対象も書状の宛先である正親町天皇その人と考えるしか無く、少なくても"正親町天皇が信長の奏請に対する不満を吐露した書状"ではないと結論づけている[404]。
信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、対立説では、朝廷への軍事的圧力・示威行動であったと見る[405]。これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する[405]。2017年現在では、朝廷に対する圧力というより、一種の娯楽行事であったとする見解が有力となっている[406]。
天正10年(1582年)4月25日、武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた[407]。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された[407]。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)[407]。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような構想を持っていたか、正確なところは不明である。
本能寺の変後、吉田兼見などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない[408]。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという[408]。
宗教政策
→「§ 信仰」も参照
織田政権は一向一揆と激しく争い[409][注釈 89]、また、比叡山を焼き討ちした[410]。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた[411]。例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している[412]。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた[411]。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない[411]。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる[410]。
信長の宗教政策上、天正7年の「安土宗論」が注目されてきた[410][413]。この安土宗論は、信長の関与のもと、浄土宗と日蓮宗のあいだで宗論が行われたというものである[410]。日蓮宗は宗論において敗北を認めさせられ、今後、他の宗派に論争を仕掛けないことを強いられた[410]。一般的には、安土宗論は信長による日蓮宗に対する弾圧だと捉えられてきた。例えば、三鬼清一郎は、日蓮宗が「宗論の敗訴という形で、宗旨そのものに致命的打撃を与えることによって屈服させられた」と表現し、天文法華の乱のような都市民と日蓮宗の連携の危険を排除したと述べている[414]。しかし、安土宗論の実際の目的は、日蓮宗弾圧というよりも、宗論を抑制することで宗教的秩序の維持を企図する点にあったと考えられるという議論もある[410][413]。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている[415]。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された[415]。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである[415]。
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した[416]。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている[416]。
なお、同時代の宣教師ルイス・フロイスは、信長が自らを神格化しようとしたと述べている[417]。しかし、この自己神格化について、日本側の史料で記述したものは、まったく存在しない[417]。そのため、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがある[417]。肯定する論者には、例えば、朝尾直弘や今谷明などがいる[418]。朝尾は、一向一揆との対決という背景のもと、後の幕藩制国家につながる「将軍権力」の創出過程の一環として、信長の自己神格化を位置づける[419]。一方、神格化を否定する立場は、フロイスの記述はあくまでキリスト教側からの偏った観点によるものであり、信ずるに足るものではないとする脇田修や三鬼清一郎らの見解がある[420]。
経済・都市政策
いわゆる「楽市・楽座令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角氏が最初に行った施策である[421]。この「楽市・楽座令」については評価が分かれている[422]。かつて豊田武は、特権的な商工業者の団体である座を解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた[422]。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、脇田修らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている[422]。
また、不必要な関所を撤廃して流通を活性化させ、都市の振興と経済の発展を図った[423]。これについては他の戦国大名の行ったことのない革新的な政策であると考えられる[423]。
関所撤廃とあわせて、天正2年(1574年)末から、信長は坂井利貞ら4人の奉行に道路整備を命じている[424]。この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施された[424][注釈 90]。この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となった[424]。
当時全国でばらばらであった枡の統一規格として、織田領国では京枡を統一採用したともされる。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった
そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である[425]。また、金銀の貨幣価値を定める規定[注釈 91]は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている[426]。ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている[427]。
さらに信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという[428]。
軍事
信長は、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀などの有力部将に地域ごとに軍団を率いさせるとともに、自身の直属部隊として馬廻などを組織していた[429]。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している[430]。信長軍は機動力に優れており、本圀寺の変では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し[431]、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘もある[432]。
また、信長は火器を重視した[433]。長篠の戦いにおける三段撃ちは架空のものであるとする見解が有力となっているとはいえ、信長が多数の鉄砲を運用していたことは確かである[434]。特に、諸武将から鉄砲を徴発することで直属の旗本衆の鉄砲部隊を強化しており、1か所の戦場に集中して鉄砲を運用することを可能にした点は信長の鉄砲運用の特徴である[434]。
大砲もすでに元亀年間から使用していた形跡があり、第二次木津川口の戦いなどで船に搭載した他、神吉城攻め以降は攻城戦においても本格的に運用していた[435]。いわゆる鉄甲船を作ったとも言われるが、根拠となる史料が『多聞院日記』天正六年七月八日条のみなので、その実在性については賛否両論がある[436]。
なお、織田家では、明文化された軍役規定は、明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」[注釈 92]とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」[438]とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである(そもそも、明智光秀の家中軍法を後世の創作とする研究者もいる[439][440])。前者の見解に立つ場合、このことは、後北条氏などと比べて、織田政権の統治方法が後進的であったことの証左の一つであるとされる[437]。ただし、これは本能寺の変時点での話で、信長にはゆくゆくは検地した石高に基づいて軍役を課そうという構想があった[441]。
後世の評価
「凶逆の人」から勤王家へ
織田信長の浮世絵、歌川国芳
江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった[442]。儒学者の小瀬甫庵、新井白石、 太田錦城らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した[442]。
例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣・佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった[443]。そして、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた[443]。
ただし、江戸幕府の立場から見た場合、信長は徳川家康の同盟者であり、なおかつ徳川信康を自害に追い込んだ人物である以上、幕府としては信長が「神君」家康さえも従わせる絶対的権力者であったことも示す必要性があり、江戸幕府の正史である『徳川実紀』(「東照宮御実紀」巻2)では家康と共に天下統一を目指す存在としての評価もなされた[444]。民衆のあいだでも信長は不人気であり、歌舞伎や浄瑠璃などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている[442]。
このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、頼山陽である[442]。江戸時代後期の尊王運動に多大な影響力を有したことで知られる[445]頼山陽の『日本外史』は、信長を「超世の才」として高く評価した[446]。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する[446]。そして、中国後周の名君・世宗の偉業が趙匡胤の北宋樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる[446]
夫れ応仁以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府[注釈 93]に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや。
— 頼山陽『日本外史』[446]
また国学者からも、日本の統一者として、後醍醐天皇と対立した足利氏への否定的見解と相まって高く評価された。例えば、本居宣長は『玉鉾百首』の中で「しづはたを織田のみことはみかどべをはらひしづめていそしき大臣」という歌を詠み、「此大臣(=織田信長)、正親町天皇の御代永禄のころ、尾張国より出給ひて、京中の騒乱をしづめ、畿内近国を討したがへ、復平の基を開き、内裏を修理し奉りなど、勲功おおひなること、世の人よくしれる事なり」と高く評価した[447]。
幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した[448]。明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した[449]。明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した[449]。信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された[449]。その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている[449]。
こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた[146]。現代でも意外な勤王家として語られることがあるが、一方で安土城本丸御殿が清涼殿と酷似している点が指摘されており、大澤真幸は信長の天皇観は後のマッカーサーのようなものではなかったかとする[450]。
革新者か否か
岐阜駅北口の黄金の織田信長像。
第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。歴史小説においては、すでに戦中の1944年に坂口安吾が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した[451]。合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された司馬遼太郎『国盗り物語』、バブル期の津本陽『下天は夢か』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった[451]。
学術的には、1963年刊行の『岩波講座日本歴史』において、今井林太郎が信長を次のように評価している。信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」[452]人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」[453]と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。この頃には信長が天皇制を打倒しようとしていたという安良城盛昭の説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる[454]。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」[455]と評価されてきた。
新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った太閤検地こそが近世への転換点だという学説も有力であった[2]。朝尾直弘と脇田修は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である[456]。朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者[注釈 94]であると捉えていた[456]。
その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている[4][457]。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され[376]、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった[395]。「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった[458]。また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある[309]。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている[457][4]。
2000年に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏、岸田秀、ドナルド・キーン、堺屋太一、杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、信長は得票数で徳川家康に次いで2位を獲得した[459]。
系譜
木瓜紋(織田瓜)
→詳細は「織田氏」を参照
織田氏の発祥の地は越前国織田荘であり、その荘官の立場にあったという[460]。織田氏と思われる人物の史料上の初見は、劔神社に残された明徳4年(1393年)六月十七日付藤原信昌・兵庫助将広置文であるとされる[460]。応永8年(1401年)には、織田名字を使用する「織田与三」なる人物が初めて現れ、彼は管領斯波氏の家臣として重要な役割を果たしていた[461]。その翌年には織田常松が尾張守護代に任じられている[461]。
尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた[8]。そして、後者の大和守家の分家で、清洲三奉行家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である[8]。
信長の子孫としては、信忠の子である三法師(織田秀信)が、形式上、織田家の家督を継いだ[462]。秀信は豊臣政権下で岐阜で13万石程度の領地を持ったが、関ヶ原合戦の結果、所領を没収されてしまう[462]。秀信は数年後に病を得て世を去り、ここに嫡流は絶えることとなる[462]。
一方、次男の織田信雄は豊臣政権下で所領を失ったものの、大坂の陣後、大和宇陀郡などに五万石を与えられた[462]。信雄の子孫が、柏原藩、高畠藩、天童藩といった小規模な藩の藩主となり、江戸時代を通じて大名として続いている[462]。
墓所・霊廟・寺社
信長の遺体は発見されなかったが、以下の21箇所に衣冠墓・供養塔が作られている[480]。
阿弥陀寺
今宮神社
総見院
大雲院
本能寺
妙心寺玉鳳院
建仁寺
聖隣寺
西光寺
摠見寺
南宗寺
金剛峯寺
瑞龍寺
西山本門寺
長興寺
總見寺
總見院
泰巌寺
三宝寺
建勲神社
関連事項
史料
ウィキソースに信長公記(我自刊我書、町田本)の原文があります。
ウィキソースに甲陽軍鑑の原文があります。
ウィキソースに立入左京亮入道隆佐記の原文があります。
ウィキソースに浅井三代記の原文があります。
ウィキソースに太閤記の原文があります。
ウィキソースに川角太閤記の原文があります。
ウィキソースに三河物語の原文があります。
ウィキソースに佐久間軍記の原文があります。
ウィキソースに老人雑話の原文があります。
織豊期の史料は相対的に豊富とは言えず、また、代表的な史料すら、それぞれの信頼性がどの程度かという評価も固まっているとは言えない[481]。
一般に、信長研究において最も重要な基本史料とされるのは、奥野高廣が集成した信長発給文書(『織田信長文書の研究』)および、同じく奥野高廣ら校注の角川文庫版『信長公記』である[481][482]。
ただし、堀新によれば、後者の『信長公記』については、角川文庫版が自筆本の翻刻ではなく、また、『信長公記』の写本間の異同・系統研究もいまだ十分ではないという課題があるという[481]。文書についても、信長発給文書だけでなく、家臣団発給文書の収集・分析が必要であるという課題を指摘している[481]。
信長公記(太田牛一)
日本史(ルイス・フロイス)
信長とフロイス
(耶蘇会士日本通信)
兼見卿記(吉田兼見)
言経卿記(山科言経)
晴豊公記(勧修寺晴豊)
三河物語(大久保忠教)
亜相公御夜話(前田利家の言録)
明良洪範(真田増誉)
天王寺屋会記(津田宗及ら)
立入左京亮入道隆佐記
(立入宗継記)
本願寺文書
御湯殿上日記
浅井三代記
政秀寺古記
甫庵信長記・太閤記(小瀬甫庵)
川角太閤記
明智軍記
細川家記
細川両家記
甲陽軍鑑
勢州軍記
佐久間軍記
堂洞軍記
南北山城軍記
永禄美濃軍記
国友鉄砲記
老人雑話
行事、祭礼など
時代祭「織田公上洛列」立入宗継
京都・時代祭「織田公上洛列」立入宗継・羽柴秀吉・丹羽長秀・織田信長・滝川一益・柴田勝家
ぎふ信長まつり(岐阜県岐阜市)
織田信長サミット(織田信長との関係が深い日本の市町および関係市町村の集まりにより開催される)
信長公居城連携協議会(信長の夢街道連合) - 2024年4月30日、解散[483]。
織田信長を主題とした作品
小説
『織田信長〈全六巻〉』鷲尾雨工、春秋社松柏館、1941年。浪速書房、1965年。のち富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年 ほか。
『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
『炎の柱 織田信長〈上・下〉』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
『国盗り物語』司馬遼太郎、新潮社、1967年。
『織田信長』南條範夫、学習研究社、1969年。 筑摩書房〈徳間文庫〉、1991年。
『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
『安土往還記』辻邦生、筑摩書房 1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉、1975年。
『下天は夢か』津本陽、〈角川文庫〉、1989年。
『決戦の時』遠藤周作、講談社〈講談社文庫〉、1991年。
『織田信長』津本陽、講談社〈少年少女伝記文学館〉 1991年。
『鬼と人と〈上・下〉』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
『炎の人 信長〈1 - 6〉』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
『天魔信長』高橋直樹、講談社、1997年。
「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
『本能寺の変』津本陽、講談社〈講談社文庫〉、2002年。
『信長燃ゆ〈上・下〉』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
『信長の棺』加藤廣、日経BP、2005年。
『覇王の夢』津本陽、幻冬舎、2005年。〈幻冬舎文庫〉、2008年。
『「本能寺の変」はなぜ起こったか 信長暗殺の真実』津本陽、KADOKAWA〈角川文庫〉、2007年。
『蒼き信長』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2012年。
『信長 暁の魔王』天野純希、集英社〈集英社文庫〉、2013年。
『信長影絵』津本陽、文藝春秋〈文春文庫〉、2015年。
『うつけ世に立つ 岐阜信長譜』早見俊、徳間書店、2016年。
『信長嫌い』天野純希、新潮社、2017年。
『信長は西へ行く』永峯清成、アルファベータブックス、2017年。
『信長の原理』垣根涼介、角川書店、2018年。
『炯眼に候』木下昌輝、文藝春秋、2019年
『信長、天が誅する』天野純希、幻冬舎、2019年。
『信長、天を堕とす』木下昌輝、幻冬舎、2019年。
『信長の血涙』杉山大二郎、幻冬舎〈時代小説文庫〉、2021年。
『布武の果て』上田秀人、集英社、2022年。
『信長、鉄砲で君臨する』門井慶喜、祥伝社、2022年。
『阿呆に教えよ』(『戦国武将伝 東日本編』収録)今村翔吾、PHP研究所、2023年。
映画
『織田信長』(1940年11月14日公開、日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)[484]
『紅顔の若武者 織田信長』(1955年9月20日公開、東映 監督:河野寿一 演:中村錦之助)[485]
『風雲児 織田信長』(1959年10月25日公開、東映 監督:河野寿一 演:中村錦之助)[486]
『若き日の信長』(1959年3月17日公開、大映 監督:森一生 演:市川雷蔵)[487]
『3人の信長』(2019年9月20日公開、HIGH BROW CINEMA 監督:渡辺啓 演:TAKAHIRO、市原隼人、岡田義徳)[488]
『レジェンド&バタフライ』(2023年1月27日公開、東映 監督:大友啓史 演:木村拓哉)[489]
『首』(2023年11月23日公開、KADOKAWA、監督:北野武、演:加瀬亮)[490]
テレビドラマ
1963年から2009年までのNHK大河ドラマ48作中、信長の登場作品は18作[491]に及ぶが、この数字は徳川家康に次いで豊臣秀吉と並び、他の歴史上の人物よりも遥かに多い[492]。
『若き日の信長』(1961年、NET 演:九代目 市川海老蔵)
『織田信長』(1962年、朝日放送 演:林真一郎)
『若き日の信長』(1964年、フジテレビ 演:市川猿之助)
『国盗り物語』
NHK大河ドラマ(1973年、演:高橋英樹)
新春ワイド時代劇版(2005年、テレビ東京 演:伊藤英明)
『織田信長』(1989年、TBS 演:渡辺謙)
『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年、NHK 演:緒形直人)
『織田信長』(1994年、テレビ東京新春ワイド時代劇 演:高橋英樹)
『織田信長 天下を取ったバカ』(1998年、TBS 演:木村拓哉)
『女信長』(2013年、フジテレビ 演:天海祐希)
『信長のシェフ』(2013年、テレビ朝日 演:及川光博(少年期:中内天摩))
『信長協奏曲』(2014年、フジテレビ 演:小栗旬)
『信長燃ゆ』(2016年、テレビ東京 演:東山紀之)
『小河ドラマ 織田信長』(2017年、時代劇専門チャンネル 演:三宅弘城、秋山竜次[注釈 96])
『桶狭間 OKEHAZAMA〜織田信長 覇王の誕生〜』(2021年、フジテレビ 演:十一代目 市川海老蔵)
『新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜』(2022年、日本テレビ 演:永瀬廉)
テレビ番組
歴史秘話ヒストリア 親父!いいかげんにしてくれよ!〜信長に振り回された家族たち〜(2009年6月10日、NHK)[493]
歴史秘話ヒストリア 女中は見た!!~本能寺の変・信長最後の3日間~(2010年4月7日、NHK)[494]
歴史秘話ヒストリア 魔王が棲(す)む魅惑の城~最新研究!織田信長 美しき城づくり(2012年11月14日、NHK)[495]
歴史秘話ヒストリア 世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の真実(2019年4月3日、NHK)[496]
漫画
鈴木光明『織田信長』(1955年、秋田書店)[497]
佐々木けいこ『信長君』シリーズ(『田楽狭間の信長くん』、『信長君日記』、『信長君繁盛記』、『信長君風雲記』)(1977年 - 1982年、白泉社)
中島利行『織田信長―乱世の戦い』 (学研まんが人物日本史 7)(1979年、学研)[498]
横山光輝『織田信長』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)
池上遼一『信長』(1986年 - 1990年、小学館、原作 工藤かずや)
木村茂光『織田信長 戦乱の世の風雲児』(学習漫画 日本の伝記 2)(1988年、集英社)[499]
本宮ひろ志『夢幻の如く』(1991年 - 1995年、集英社)
志野靖史『内閣総理大臣 織田信長』(1994年 - 1997年、白泉社)
ながてゆか『TENKA FUBU 信長』(1996年[500] - 1998年[501]、講談社)[502]
早川大介『織田信長 : 戦国人物伝』(コミック版日本の歴史)(2007年、ポプラ社、原作:すぎたとおる)[503]
石井あゆみ『信長協奏曲』(2009年 - 、小学館)
原哲夫『いくさの子 織田三郎信長伝』(2010年[504] - 2022年[505]、徳間書店、原作:北原星望)
梶川卓郎『信長のシェフ』(2011年 - 2024年、芳文社、原作 西村ミツル)
トミイ大塚『織田信長 : 「天下布武」へ-戦国乱世をかけぬけた男』(小学館版学習まんが人物館)(2012年、小学館)[506]
そにしけんじ『ねこねこ日本史』(2014年 - 、実業之日本社)
小坂まりこ『戦国ダンス STEP ON THE WARRIOR』(2014年 ‐ 、ぼくらのヤングジャンプ)
山田圭子『織田信長:天下統一をめざした武将』(学研まんがNEW日本の伝記)(2014年、学研)
ほりのぶゆき『信長の理望~ん 創造』(2017年、リイド社、コミック乱)[507]
すずき孔『マンガで読む 新研究 織田信長』(2018年、戎光祥出版、監修 柴裕之)
大和田秀樹『ノブナガ先生』(2018年 - 2020年、日本文芸社)
甲斐谷忍『新・信長公記〜ノブナガくんと私〜』(2019年 - 2021年、週刊ヤングマガジン、コミックDAYS)
藤本ケンシ『何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?』(2020年 ‐ 、週刊ヤングマガジン、原作:井出圭亮)
ゲーム
『信長の野望』シリーズ (1980年 - 、コーエー)
楽曲
三波春夫「織田信長」(1970年、作詞:北村精児、作曲:春川一夫。後に市川由紀乃がカバー)
三波春夫「長編歌謡浪曲『信長』」(作詞・作曲:三波春夫)
三浦洸一「奇襲〜織田信長」(1973年、作詞:佐伯孝夫、作曲:渡辺岳夫。コンピレーション・アルバム『戦国の武将』(規格品番:SJX-155)収録)
聖飢魔II「織田信長」(1990年、作詞:デーモン小暮、作曲:ゼノン石川)
さくらゆき「夢幻の調べ」(2014年、作詞:小栗さくら、作曲:真鍋貴之)
レキシ feat. にゃん北朝時代(カネコアヤノ)「マイ草履」(2022年、作詞・作曲:池田貴史)[508]
舞台
TEAM NACS ニッポン公演「WARRIOR〜唄い続ける侍ロマン」(2012年、演:戸次重幸)
天文3年(1534年)織田信秀嫡男として誕生
天文15年(1546年)、古渡城にて元服
天文16年(1547年)、信長は今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった
天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破
永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成
永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす
元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破る
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ち
元亀3年(1572年) 三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)
天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼす
翌年には安土城の築城も開始
天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた
天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけた
天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた
しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)
<平成30年の設問対策>
*智積院 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺および東京都八王子市の高尾山薬王院がある。智積院は、もともと紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので根来山内の学問所であった。近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上した。当時の根来寺には2,700もの堂舎があったという。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた。
現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものである。この客殿は天和2年(1682年)7月の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせた為と推定されている。
[国宝]
大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作。正式の国宝指定名称は以下の通り。「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされている。
紙本金地著色松に草花図 床(とこ)貼付4、壁貼付2
紙本金地著色桜楓図 壁貼付9、襖貼付2
紙本金地著色松に梅図 襖貼付4
紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 床(とこ)貼付4
附:違棚貼付、袋棚小襖等 26面
紙本金地著色松に草花図 二曲屏風一双 屏風装になっているが、「大書院障壁画」と一連のものである。
金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。
天文六年(1537) 藤吉郎誕生
天文二十三年(1551) 織田信長に仕える
永禄三年(1560) 桶狭間の戦い
永禄4年 (1561) 浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。
永禄11年(1568) 観音寺城の戦い
元亀元年(1570年) 金ヶ崎の戦い
元亀3年(1572) 羽柴改姓
天正元年(1573) 小谷城の戦い
天正3年(1575) 筑前守
天正5年 (1577) 手取川の戦い
信貴山城の戦い
天正6年(1578)年 三木合戦開始( - 天正8年)
上月城の戦い
天正10年(1582) 備中高松城の戦い
6月2日 本能寺の変が起こる
6月13日 山崎の戦い
6月27日 清洲会議
天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦い
11月 本拠を大坂城に移転。
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い
10月3日 従五位下・左近衛権少将
11月21日 従三位・権大納言
天正13年(1585) 紀州征伐
3月10日 正二位、内大臣宣下
6月-8月 四国攻め
7月 近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日 従一位・関白宣下、内大臣如元
8月 富山の役
10月 惣無事令実施(九州地方)
天正14年(1586) 九州征伐開始( - 天正15年4月)
9月9日 賜豊臣氏
1587年 12月19日 内大臣辞職
12月25日 太政大臣兼帯
天正15年(1587年) 書状「かうらい国へ御人」
6月1日 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日 バテレン追放令発布
9月 聚楽第へ転居
10月 北野大茶湯
1587年または1588年 12月 惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年(1588) 刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。
8月12日 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
聚楽第行幸
天正17年(1589) 鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年(1590年) 小田原征伐
2月28日 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月 奥州仕置
11月 朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年(1591) 身分統制令制定。御土居構築と京の街区の再編成着手
2月28日 千利休に切腹を命ず
3月3日 天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日 ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
1592年 12月 関白辞職し、秀次に譲る。太政大臣如元
文禄元年 1592年 4月12日 56歳 朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定。聚楽第行幸
文禄2年 (1593) 本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日 高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
文禄4年 (1595) 秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃を命ず。聚楽第取り壊し
慶長元年(1596) サン=フェリペ号事件
慶長2年 (1597) 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年 (1598) 太政大臣辞職
8月18日 伏見城で薨去。
(豊臣秀吉wikipediaより)
2022年出題
1537-1598 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)6年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。母はなか(天瑞(てんずい)院)。織田信長に足軽としてつかえ,浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて,天正(てんしょう)元年近江(おうみ)長浜城主となる。本能寺の変後,明智光秀,柴田勝家をやぶり,11年大坂城を築城。徳川家康を臣従させて18年(1590)全国を統一。この間関白・太政大臣となり豊臣姓を名のる。19年太閤(たいこう)。文禄(ぶんろく)元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。太閤検地、刀狩りなどの新政策で兵農分離を促進し,近世封建社会の基礎を確立した。慶長3年8月18日死去。62歳。幼名は日吉丸,のち木下藤吉郎,羽柴秀吉。
【格言など】露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢(辞世)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus コトバンク『豊臣秀吉』
[聚楽第] 「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同 14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同 16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記 ) 。同 19年 12月関白を養子秀次 (→豊臣秀次 ) に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4 (95) 年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された。その殿舎の多くは伏見城へ移された。大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられる。桃山文化の代表的建築物である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『中国大返し』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
2021年出題
豊臣氏の職制の一つ。5人の年寄衆の呼称。五奉行の上に位する職制で,政務を統轄した。成立は,慶長2 (1597) 年頃と推定される。当初は,徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景がこれに任じられたが,小早川隆景の死後は,上杉景勝が加えられた。その職務は,五奉行の顧問としての性質をもち,必ずしも一般政務を担当したわけではない。慶長の役 (→文禄・慶長の役 ) の収拾にあたり,秀吉の死後,前田利家が秀頼の養育にあたり,徳川家康が政務にあずかることとなり,自然に五奉行の権限を侵して家康に実権が移り,関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
五大老:徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景(上杉景勝)
2021年出題
豊臣氏の庶政に関する職制の一つ。五大老の下に位した。前田玄以,浅野長政,石田三成,増田 (ました) 長盛,長束 (なつか) 正家の5人がその任にあった。これらの5人が奉行として連署した初見は文禄4 (1595) 年であるが,これは五奉行という制度化された呼称ではなかった。五奉行の成立は慶長3 (98) 年7月頃,秀吉の死の直前ではないかと推測される。以来,秀頼の時代まで続いた。職務の分担は主として前田玄以が公家,寺家,社家,そのほか諸座,諸職に関し,長束正家が知行,兵糧など財政に関し,浅野,石田,増田らが司法ならびに一般行政に関してそれぞれ担当した。大事件については,5人の合議によって処理された。関ヶ原の戦いで崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
五奉行:前田玄以,浅野長政,石田三成,増田 (ました) 長盛,長束 (なつか) 正家
太閤検地(たいこうけんち)は、豊臣秀吉が天正10年(1582年)に開始し、租税賦課の基礎条件を明確にするために日本全土で行った検地(山林を除く田畑の測量及び収穫量調査)。日本初の全国規模の検地であり、従前の荘園制的特権を打破して各土地の収納を円滑にし、貢租(年貢)の徴収を容易にするため、荘・郷・保・里など区分が多々あった田制を統一して村制度を樹立させた。さらには、荘園制的所職を否定して各耕地1筆ごとに1作人(一地一作人)を原則とし、土地は画一的に領主に直属させた。これによって荘園制時代よりも各耕地の所有関係が整理され、日本の近世封建制度の基礎が確立された。天正の石直し、文禄の検地ともいう。この検地は、大化改新・地租改正・農地改革と並び、日本の歴史で重大な土地制度上の変革である。
概要
領主が自領内に課税するにあたり、その基礎資料として自領内の地勢を把握することは非常に重要ではあったが、家臣や領内の有力一族の抵抗が大きいため実施は難しいとされていた。しかし北条早雲に始まる戦国大名の出現で、自らの軍事力と裁判権を背景に独自の領地高権を行使することを可能とした。この行使の一例が検地であった。
織田信長も検地を実施していた(これを信長検地と呼ぶことがある。)が、このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、その重要性を把握していたとみられる。天正10年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。これらの、太閤を名乗る天正19年(1591年)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地と呼ぶ。
この集大成として関白を辞して太閤となった秀吉は、将軍に上納されて叡覧に備用される「御前帳」になぞらえ、検地によって得られた膨大な検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう指令を出して徴収させた。これを「天正御前帳」という。後述するように太閤検地の成果は、権利関係の整理や単位統一が図られた革新的な意味をもつのみでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、その後の制度、経済、文化の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握されたことであり、その意義は大きい。
後に徳川家康も、慶長9年(1604年)に単位を国から郷に改めて御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)。
特徴
土地の権利関係
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を納めることがほとんどであった(地下請)。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。
太閤検地ではこういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者=納税者を定めようとしたが、帳簿の上ではそうなっても、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。
荘園制の終了
太閤検地により、8世紀から始まった荘園の時代は16世紀で終わりを迎えた。何故ならば、すべての農地に責任者が定められ、納める年貢の量も決められたからであった。
単位の統一
太閤検地は以下のような基準で行われた。
結果は石高で計算する。(それまでの貫高から改めた)
数の単位
6尺3寸=1間(約191cm)
1間四方=1歩
30歩=1畝
10畝=1反
10反=1町
田畑は上・中・下・下々の4つに等級づけする。
升は京枡を使う。
これによって表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位がおおまかに統一された。
ただし、この基準で行われたのは天正17年(1589年)の美濃検地が最初で、それ以前の検地がどういった基準で行われたのかは不明である。また、その後の検地でも例外は多数存在する。
数字の正確さ
戦国時代までは農村側が自己申告する形式の検地(指出検地)が多かったが、太閤検地では多くの田畑が実際に計測された(丈量検地)。ただし、越後の上杉氏の領地など、実際に計測していない例も多く存在する。
なお「それまでの石高が年貢を表していたのに対し、太閤検地の石高は生産高を表している」と説明されることがあるが、これは誤りであるとも言われており、太閤検地での斗代・分米が鎌倉時代の荘園制のそれとほぼ近似していることを指摘していて殆どの場合、この石高から「免(=年貢の一定額免除)」が差し引かれた上で年貢が納められた。この事実も石高が生産高ではなく年貢高と認識されていたことを証明している。
ただし、出羽国の石高は明らかに異常で、極端に過少である(18万石以上ある置賜郡のみで出羽国の大半を占めてしまう)。
石高制(こくだかせい)とは、土地の標準的な収量(玄米収穫量)である石高を基準として組み立てられた日本近世封建社会の体制原理のことである。土地の大小や年貢量のみならず、身分秩序における基準として用いられた。
背景
戦国時代にはこれまでの荘園とそれを取り巻く土地制度が解体され、戦国大名による新たな土地支配の体制が確立された。戦国大名は貫高制に基づいて検地を行い、軍役を定めた。貫高制では土地の面積や大まかな質によって年貢高が定められ、実際の収穫高とはほとんど無関係であった。
石高の概念自体は、戦国時代に一部の大名が採用し、織田政権でも土地の評価方法として一部の地域で採用されていたが、本格的な導入は豊臣政権による太閤検地以後であり、徳川政権(江戸幕府)は、それを土台として日本全国の支配を確立させた。原則としては検地丈量を行って石盛を行って石高が確定し、それに基づいた公儀による印判状・判物の発給によって領知高が確定されたが、実際の運用面で検地の数字を重視しながらも経済的・政治的な事情を加味した加減が加えられた「公定の生産高」が石高として算定され、そのために各種の例外が適用された事例も多かった。
導入の背景には、農民層の田畑や屋敷地に対する経済的価値の把握・表記には、実際の収量を元にした石高制の方がより直接的で適切であったことがあげられる(ただし、実際の石高が直接的な表示であったかどうかという点には問題点もある)。更に、土地に対する名請人を実際の耕作者に固定することで、現地の土豪や有力農民による中間搾取を困難にし、彼らの武士化・領主化を排除して、兵農分離の徹底と下剋上抑止の役目を果たした。また、急激な統一政権成立の過程において、従来の惣村と外来の新領主が年貢徴収などを巡って、対立する事例がしばしば見られた。領主側は一円支配確立のために、惣村における複雑な土地関係を整理して把握することで、彼らの抵抗を抑えようとしたのである。
更に近年では、近世日本における貨幣制度の混乱も原因として注目されている。それまで明から宋銭や明銭を輸入し使用していたシステムが、勘合貿易の断絶及び明での貨幣制度の変更による銅銭そのものの衰退(銀及び紙幣による支払体系の定着に伴う国家保証の消滅と、私鋳銭の大量流通による官銭の排除)によって、これまで明の銅銭をそのまま利用していた日本を含む周辺諸国の経済に混乱を与えた。日本ではそれまで鐚銭と呼ばれていた低品質な私鋳銭は、撰銭(排除)の対象であったが、貨幣需要の高まりと銅銭体系の崩壊という2つの現象が衝突し、やむなく一定水準以上の鐚銭を含む私鋳銭によって需要の補完が行われた。しかし、水準以下の鐚銭が大量に出回ることを防げず、貨幣の信用は下落した。幕府は律令制下でごく少量流通していただけの金貨や銀貨を本格的に発行するなどして対応しようとしたが、需要を満たすだけの量は確保できず、また全国的に通用する良質な銅銭を鋳造・流通させる仕組みもなかなか確立できなかったため、16世紀中期から17世紀中期までのほぼ1世紀の間、銅銭を中心とした貨幣の価値と信用は著しく低下した。こうした中で銅銭を基準とした貫高制を維持することは事実上不可能になり、代用貨幣である米による徴税への切り替えを余儀なくされたというのである。
太閤検地
石高制の確立に大きな影響を与えたのは、豊臣政権の太閤検地であるが、実は太閤検地にも時期によって大きく内容が分かれる。前期の太閤検地でも石高制に基づく検地方針は示されていたが、臣従したばかりの地方の有力大名に対して貫徹させるまでには至らなかった。全国統一が完成した翌年の1591年(天正19年)、豊臣政権は諸国に対して一国御前帳の提出を命じているが、これは翌年の人掃令と合わせて朝鮮出兵に備えた兵粮・軍役負担を確保するために、大名の領知高を確認する点を優先しつつも日本全国の土地を同一の基準をもって把握しようとしたのである。ただし、注意すべきは「大名の領知高を確認する」という点である。例えば、長宗我部氏の土佐一国9万8千石は実際の検地によるものではなく、同氏の動員可能兵力からの逆算と言われ、佐竹氏や島津氏などに対しては石田三成ら奉行が政治的必要(軍役負担などの観点)から石高を操作していたことが知られている。更に領内で米がほとんど獲れず、もっぱら貿易による利益に依存していた宗氏や松前氏は実際には無高もしくはそれに近いにもかかわらず、利益から計算された形式上の表高が与えられていた。また、一部の地域では国人や農民による一揆を恐れて検地そのものを行われなかったと言われている。もっともそうした地域でも全国的な流れの中で石高表記への移行は受け入れざるを得ない状況になっていった。
『石高制』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6
参考:『石高制 (こくだかせい)』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6-264938#w-835150
参考:『【織豊政権】石高と石盛と石高制がわかりません』進研ゼミ高校講座 https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13x0107.html
石高と石盛の違いですが、石高は土地の生産力を米の量(収穫高)で表したもので、石盛に面積を乗じて算出されます(石高=石盛×面積)。一方、石盛はこの石高を定めるために決められた田畑などの1段あたりの生産力をいいます。
くわしくは、リンク先へ
惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。
惣無事(そうぶじ)が成立したことで中世の私戦、私的執行、私刑罰などはほぼ禁じられることとなり、裁判権や刑罰権を武家領主が独占する公刑主義へと移行したとされる。藤木久志によって提唱され定説化したが、後述する通り様々な批判がなされ議論となっている。
惣無事令は、1585年(天正13年10月)に九州地方、1587年(天正15年12月)に関東・奥羽地方に向けて制定された。惣無事令の発令は、九州征伐や小田原征伐の大義名分を与えた。特に真田氏を侵略した後北条氏は討伐され北条氏政の切腹に至り、また伊達政宗、南部信直、最上義光らを帰順させる事に繋がった(奥州仕置)とされる。この惣無事令によって、天正16年の後陽成天皇の聚楽第御幸の際など、参集した全国の諸大名から関白である秀吉への絶対服従を確約する誓紙を納めさせ、その違背に対して軍を動員した包囲攻撃のみならず、一族皆殺しを含む死罪・所領没収ないし減封・転封といった厳罰を与えた。いわば、天下統一は惣無事令で成り立ち、豊臣政権の支配原理となったのである。
『惣無事令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
喧嘩停止令(けんかちょうじれい)は、中世日本において制定されていた農民の武力行使を制御することを目的とした法令。豊臣秀吉が制定した「秀吉の喧嘩停止令」と、徳川秀忠・徳川家光らが制定した「徳川の喧嘩停止令」がある。
豊臣秀吉が制定した喧嘩停止令は、様々な文献からの「判例」という形で、そうした法令が存在していた事実を示すに留まっており、具体的にどのような法令でいつ制定されたのかに関しての詳細はわかっていない。こうした判例が用いられた最も古いものは1587年(天正15年)の春であり、1588年(天正16年)に制定された刀狩令や海賊停止令よりも前に成立していた可能性がある。
秀吉の刀狩令には全ての農民の武器を没収することが表明されていたが、実際には武器の所持を禁じたというよりも帯刀権や武装権の規制という形が主で、村々には多くの武器が留保されていた。武力を行使した騒乱の可能性は内在したままであり、そうした前提のもとに騒乱を禁止する目的法として喧嘩停止令が制定されていたと考えられている。
『喧嘩停止令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
◎参考:『「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる』 #東洋経済オンライン @Toyokeizai https://toyokeizai.net/articles/-/411584
秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。
その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。
それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。
もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。
たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。
日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」
大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。
この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。
こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。
「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。
ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
◎参考:『謎と疑問にズバリ答える!日本史の新視点』新晴正(青春文庫) https://amzn.to/3KLrw4i
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◎参考:『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか 世界遺産「潜伏キリシタン」の真実』三浦小太郎 ハート出版 目次→ https://www.810.co.jp/hon/ISBN978-4-8024-0067-1.html
◎『バテレン追放令』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreにし、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。
原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。
概説
織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国の天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1] 。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった。天正14年(1586年)3月『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟・秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[要出典][注 3][注 6][注 7]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。(←出典を求められている文章)
バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった。バテレン追放令以降の秀吉の書簡はキリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]、神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した。追放令以降も秀吉は三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道、儒教、仏教)の敵として名指しで批判している。
欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている。ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している。
刀狩(かたながり、刀狩り)は、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。
天下を統一しつつあった豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。
豊臣氏の刀狩令
豊臣秀吉が1588年(天正16年)に発した刀狩令は次の3か条からなる。
第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺大仏(京の大仏)の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
また、没収された武器類は方広寺大仏(京の大仏)の材料とすることが喧伝された。
この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と淡路国の加藤嘉明などの近侍大名・武将の一部、畿内・近国と主要寺社に限られる。だが、豊臣政権の法令は、天正18年(1590年)8月10日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた[13]。
秀吉は、関白就任3か月前の1585年(天正13年)3月から4月に根来衆・雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている[14]。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。
『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。
ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国(佐賀県、長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。
ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている[15]。刀狩りは、1人当たり大小1腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い[16]。
秀吉は、刀狩に先行して、1587年(天正15年)ごろ、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の水利や里山、草地などの権利や、他の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあったがそれらを防止した[17]。この施策は江戸幕府にも継承された。
さらに、天下統一後の1590年(天正18年)「浪人停止令」で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出したが、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示した。一方、武家奉公人の農村内での武器の所持を例外として認めていた。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んで地侍になっており、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。
『刀狩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
海賊停止令(かいぞくていしれい、かいぞくちょうじれい)は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が出した海賊衆(水軍)に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。
令の名称は通称であり、海賊禁止令(かいぞくきんしれい)、海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)、海賊鎮圧令(かいぞくちんあつれい)など幾つかの呼び方がある。
当時の海賊
日本史(特に南北朝時代以降)における海賊は、沿海における豪族という面を持っていた。大名が領地を持つように海上に縄張り(海上権、海上支配権)を持ち、さらに相互の連合組織を持つなど、一定規模の組織で活動していた。そのため国人衆や一向衆(一向宗ではない)がそう呼ばれるように、単なる海賊と分けて「海賊衆」と呼ばれる。一般的な意味での海賊のように、沿岸地や商船を襲うこともあったが、大名や商家の依頼を受けて船舶の警護(警固)を行うことも主要な活動の1つであった。特に室町幕府は勘合貿易に際して、彼らを承認する代わりに警固の役を課した。そのため海賊衆は「警固衆」とも呼ばれた。関連して、彼らが護衛名目で取る金銭を「警固料」、警固の依頼や料金徴収するために揚陸港などに設置した施設を「警固関」と言う。
室町時代後期に幕府の権威が衰えて権力が分散すると、各地の海賊衆も政治的な自立を行い、その地位を確立する。ある大名に服するのではなく、あくまで対等な関係、もしくは傭兵として振る舞い、大名などとは独立した組織として活動した。そのため、時勢に応じて臨機応変に支持大名を変えるということもよくあった。それを可能にした1つの要因として、貨幣経済・物流の発展などによって警固料収入が増加したことが挙げられる。
戦国時代後期になると有力大名が海賊衆を臣下に納め水軍とすることも多くなり、石山合戦での織田方と毛利方水軍の大阪湾上の海戦(第二次木津川口の戦い)を最後に海賊衆の自立的な地位は失われていく。そして、豊臣秀吉による天下統一直前の天正16年(1588年)に海賊停止令が出される。
海賊停止令
豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に刀狩令とほぼ同時に海賊停止令を全国に発布する。
これは海賊衆に対して、
豊臣政権体制の大名となる
特定の大名の家臣団となる
武装放棄し、百姓となる
のいずれかを迫るものだった。
また、同時にそれまで海賊衆に与えられていた警固料を徴収する権利も禁止したことで、海賊衆というそれまでの特別な地位の存在その物を否定した。この命令によって日本史における海賊衆は姿を消すことになる。
法令の目的
第一には、その条文が示すように、同年に出された刀狩令と同等の兵農分離策だったと考えられる。海賊の中には漁民を兼ねている者たちもおり、また、一揆に加担する場合もあった。
第二には、海上輸送に関してであり、豊臣政権は、海商を政権下に組み込むことによって海外貿易や海上物流の支配を狙っていた。特に、朝鮮出兵を控えた時期であり、軍事的側面からの海上輸送力確保の意味もあった。海外貿易についても中国の明朝との勘合貿易の復活に向けての地ならしの時期でもあった。
『海賊停止令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
参考:『5分でわかる!文禄の役』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12787/
参考:『5分でわかる!慶長の役』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12787/point-2/
ぶんろくけいちょう‐の‐えき‥ケイチャウ‥【文祿慶長役】
文祿元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけての、二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争。文祿元年、大陸進出をはかる秀吉は、征明のための道案内を朝鮮王に命じ、回答が得られなかったことを理由に出兵。加藤清正らを派遣して漢城(現在のソウル)をおとしいれ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破り、和議を約したが、講和の条件が秀吉の要求を全く無視したものであったため、慶長二年再び出兵。しかし戦局は進展せず、翌三年、秀吉の死により中止された。この戦いの結果、印刷・陶業の新技術、多くの典籍がもたらされたが、豊臣氏の滅亡を早めもした。朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱という。
出典 精選版 日本国語大辞典 https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E7%A5%BF%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%BD%B9-2081006#w-2110491
参考:『文禄・慶長の役』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。
日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったともされる。
未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて独断で国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と朝鮮には衰退の原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を被ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして代償を得た大名もあった。
名称
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われた戦役であるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。
背景
日朝関係前史
隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。
663年に、唐・新羅連合軍と大和朝廷・百済連合軍が衝突した白村江の戦いがあり、大和・百済側が敗北した。これ以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入をやめてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた[25]。他方、812年から906年までの間、小規模な海賊による新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。1019年には、高麗(及び傘下の女真族)による刀伊の入寇があった。
1224年から5回に渡って、高麗の金州(現慶尚南道金海市)や巨済島などに初めて倭人の海賊が襲来。後に倭寇と呼ばれる海賊の活動が始まった。高麗は大宰府に海賊取締りを要請し、少弐職にあった武藤資頼は大使の目の前で海賊90名を処刑させた[31]。その後、モンゴル軍の侵攻を受けた高麗は元に降伏。珍島や済州島に逃げた三別抄が1271年に日本に救援を求めるが、無視された。
1274年と1281年に元率いる軍勢(モンゴル人、南宋人、高麗人)が日本の九州北部に侵攻する、いわゆる元寇があった。北条時宗の鎌倉幕府が二度に渡って撃退するが、対馬・壱岐では虐殺や童女・童子をさらって奴婢とするなどの蛮行があった。その後、日本は動乱期を迎えて南北朝時代の1350年頃から倭寇(庚寅倭寇)が活発化したという前後関係から、倭寇は元寇への報復であったという主張は安土桃山や江戸時代にすでに語られていたようだが、現代の歴史学では倭寇と海賊衆の実態から考えればその指摘は正しくないというのが定説である。むしろ承久の乱で敗者を支持して厳しい立場となった西国武士団が海に活路を求めたのを始まりとし、室町幕府の内紛(観応の擾乱)によっても同様のことが起きて、九州探題今川了俊が南朝勢力を降したときにも、さらに船団で海外に脱出する者が増えたと考えられていて、江戸末期の『日本防考略』でも倭寇をして「日本あふれ」と定義していた。
朝鮮半島と日本列島との関係
倭寇の襲来におびえる高麗では、軍備が荒廃して満足に戦えず、倭人(投化倭人)を巨済島や南海県などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動はやめず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけでなく奴婢の獲得を狙うようになり[35]、逃亡した禾尺・才人といった高麗賤民なども倭寇の側に合流した[31][注 23]。1375年には家臣団を連れて投降した倭人の藤経光を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「倭寇猖獗」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。1380年には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が称賛される倭寇500隻 の大襲撃があった。高麗は海賊取締を要請したが日本の北朝に無視されたため、1389年、対馬に軍を差し向ける康応の外寇を行ったといわれている[注 25]。
高麗が滅び朝鮮に代わると、太祖李成桂は日本に禁寇を要求した。1392年、南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの足利義満は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊に倭寇取締が命じられた。了俊はさらに守護大名大内義弘に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。朝鮮側がいう1396年の壱岐・対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)の際に壱岐・対馬を慶尚道管轄下だと主張、保有船の3分の1以上を超える227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵略した。ちょうどこの頃、明の永楽帝との関係がこじれていた時期で、将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった[23][35]。幸い、この外寇は宗貞盛の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった。前期倭寇は、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の乱という副産物を生んだ。
後期倭寇は、1511年にポルトガルがマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年に寧波の乱が起きるなどして、勘合貿易が途絶えて、明王朝の海禁政策を逃れた中国人が増える状況で、再び活発化した。歴史学者村井章介らの研究 などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国の環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の明王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築されてシフトしていったという。後期倭寇は禁制を破った中国人や南蛮人なども混在した集団となったことで、襲撃の主な標的は朝鮮半島からもっぱら中国沿岸に移った。
しかし朝鮮でも1544年に後期倭寇による蛇梁倭変が起こり、通交統制がさらに厳しくなって天皇と大内氏・少弐氏の使節以外の日朝通交が禁止された。これに困った宗氏が偽使を用いて朝鮮と締結したのが、1547年の丁未約条である。この時、対馬宗氏が朝鮮に駿馬を求め、朝鮮が日本に服属している旨を明朝に伝えたとの報告を行った。これに対して朝鮮の司憲府大司憲林百齢は激怒しているが[注 27]、日朝間の立場は明と対馬の宗氏とを介して複雑に絡み合っており、後の文禄の役の原因の一つともなる。(後述)
嘉靖帝の時代の武力による海禁政策の厳格な施行で、かえって海外に拠点を持つ後期倭寇の活動は過激化して最盛期となった。王直などの中国人大頭目が率いる倭寇が、五島列島などを根城に活躍したのはこの頃である。1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には乙卯の倭変があり、倭寇が明の南京や朝鮮の全羅道を侵した。また1555年には達梁倭変があり、1557年に丁巳約条が締結された。後期倭寇はポルトガル人貿易と競合し、明の取締強化と、群雄割拠した戦国大名が勢力圏を広げて日本側の根拠地を追われたことで、衰退。1588年、秀吉の海賊停止令発布によって終息した。
日明関係前史
1402年、足利義満は京都北山に明使の返礼を受け入れて建文帝の冊封を受諾した。中国で靖難の変が起こったため、1404年に永楽帝が改めて義満のことを「日本国王」として冊封して金印を下賜した。以後1547年までの150年間で19回に及ぶ遣明船(勘合船)が出されて、勘合貿易が交わされた。これは実質的には朝貢であったが、10年1貢[注 29] という特異なものであった[38]。義満は冊封儀礼も行っていたとされるが、次の4代将軍足利義持は外交方針を改めて1411年に冊封関係は断絶された。6代将軍足利義教が一時復活させるが、以後も途切れがちで、勘合貿易を独占していた大内氏の滅亡(1551年)によって、日明関係はほぼ断絶した。
中朝関係前史
モンゴルの高麗侵攻以来、元朝の属領となっていた高麗は王統がモンゴル貴族化していたが、恭愍王の代になって紅巾の乱で中国が混乱したことで元の統治が弱まり、自立を目指すようになった。王は元の皇后を出した奇氏(奇皇后)の勢力を粛清して独立を図ったが、倭寇と紅巾軍に悩まされて国内外は混乱。成立間もない明の冊封を受けようとしたのが理由で、恭愍王は親元派に暗殺された。高麗は一時的に北元との関係を復活させるが、この内乱を制した武人の李成桂が、1392年に禅譲を受けて主君恭譲王から王位を継ぎ、明の洪武帝から「朝鮮」の国号と権知高麗国事の号を賜って、朝鮮を創始するに至った。一方で、2年後に旧主を含む高麗の王統は皆殺しにされた。
朝鮮でも日本と同様に、1401年に明の建文帝から第3代の太宗が誥命と金印を下賜され、中国で靖難の変があって、1403年に永楽帝が改めて太宗を「朝鮮国王」として封じて、正式に冊封体制に入った。しかし朝鮮は、日本よりも交流が密で、年に3回[注 30] の朝貢使節を送るという1年3貢[注 29] を行った。これら4節には望闕礼を執り行うこととなっており、朝鮮王と王世子は明制の官服である冕服を着て、王城漢城より明の皇帝に向けて遥拝儀礼を行って、百官と共に万歳三唱した。
このように、明の蕃王である朝鮮国王の臣下としての立場は明確であり、後に秀吉が明遠征を先導せよなどと唆したことは全く受け入れられない要求であった。
1591年5月、秀吉の国書を受けた朝鮮(後述)では、宗主国である明に奏聞するべきかどうか議論になった。東人派の間では情勢の不明の内に奏聞するのは混乱させるだけで、波風を立てると否定的で、奏聞の代わりに聖節使に任命した金応南に事情を説明させることにした。ところが明では、すでに4月に琉球を訪れた商人陳申が通報し、それが福建と浙江の巡撫という地方官僚を介して正式な報告として上げられていた。しかも内容は日本が明侵攻を計画し朝鮮がその先導役となるというものであって、明は朝鮮が日本と共謀しているのではないかとの疑念を抱いていた。遼東巡撫に兵を派して国境の警備を固めさせるとともに、朝鮮の情勢を内偵させた。
明は8月に来訪した金応南の説明に満足し、朝鮮節使を慰労して銀2万両を送った。ところが、入れ替わり遼東都司から征明嚮導の真偽を詰問する文書が、同じ頃に朝鮮朝廷に届いて彼らは驚愕した。慌てた朝鮮朝廷では、柳成龍と崔岦が作成した朝鮮国王名義の陳倭情報奏文[39] を韓応寅に持たせて急派した。その間も9月には薩摩の在日明国人の医師許儀俊の「すでに朝鮮は日本に服属して征明嚮導に協力しようとしている」[40] という追いうちとなる報告が明にあり、また琉球王国からも使者が来て奏聞された。鄭迥や蘇八といった帰化中国人の複数の情報筋からも、朝鮮が日本に服属したという内容が明には届けられていた。
1592年正月頃に明の朝廷に陳奏文が提出され、改めて日朝交渉の経緯を詳しく説明したが、朝鮮通信使を日本に送った事実はひた隠しにされ、中国人による通報などは朝鮮に対する誣告であると非難するばかりで、日本の出兵計画を大それたことで虚偽だと片づけていた。このため結果的に明が「征明嚮導」の疑念を払拭するには至らず、戦役が起こった後も、明の猜疑心は消えなかった。むしろ(朝鮮がないと言っていた)朝鮮出兵が現実のものとなったことで明側の疑念は深まったのであった。遼東の明将らは朝鮮朝廷を難詰し、指揮権の統一にも反対して、朝鮮民衆の日本軍協力を疑い、朝鮮に対しては一定の距離を置いた[40]。
朝鮮の内情
権威の後ろ盾を明に求めた李成桂は、軍師であった鄭道伝の進言により、国内を、仏教を崇めた高麗時代とは一転して、朱子学を国教[注 31] とすることで道徳秩序のある儒教国家として繁栄させようとした。しかし鄭自身が王子の序列争いに巻き込まれて斬首されるなど朝鮮王朝の動乱は収まらなかった。兄達を蹴落として王位を奪った李芳遠の後を継いだ世宗以後の君主は平和に腐心して儒学思想を極端に信奉するようになったが、かえって人臣の間に家長的名分主義や排他主義が蔓延し[41] かつ争いは止まなかった。官人となるためには誰もが儒学を学ばねばならなかったが、書院ごとに儒生は徒党をなして、官人になってからも先輩につき従って政権掌握を目指すようになって、士禍と党争が始まったからである。勲旧派(中央貴族層)と士林派(新興両班層)との争いの次は、士林派から分裂した東人派(改革)と西人派(保守)の争いがあり、東西両派の争い時に文禄の役が始まったが、東人派はさらに南人派と北人派に分裂するなど、戦時下にもかかわらず一向に党派争いは収まらず、団結することはなかった[42]。結果としては朝廷の秩序はしばしば乱され、王や后、王子、外戚、中央と地方の両班が、絶え間ない勢力争いに明け暮れて、陰謀や粛清を数世紀に渡って続けたことで、国力は浪費され、人臣には混乱が生じ、国家は衰退をきたした。
→詳細は「士林派」、「勲旧派」、「西人」、「東人」、「北人」、「南人」、および「士禍」を参照
このような内紛を繰り返した李氏王朝から民心が離れていた、日本側に協力する民がいたほどであったという内容の記述は、ルイス・フロイスの著作にも見られる。当時の朝鮮王である宣祖(李昖)は、儒学の発展と講学には非常に熱心であったが、極端に権威主義的で、しばしば逆鱗に触れて家臣に厳罰を降す気まぐれな王で、政治に飽き、徳がなく、人民に好かれていなかっただけでなく、後の両戦役の章で述べるがいくつもの致命的な判断の誤りを犯した。このため朝鮮の史料においてすら、宣祖実録(25年5月の条)には「人心恨叛し、倭と同心」と認め、宣祖が「賊兵の数、半ばが我が国人というが、然るか」と臣下に尋ねたと記述されており、王都を捨てて逃亡する王には、民事を忘れて後宮を厚くすることを第一として金公諒(寵姫仁嬪金氏の兄)を重用したと非難が集まり、投石する百姓が絶えずに衛兵もこれを止めることができなかったという[43]。また、金誠一の『鶴峯集』にも「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」[44] という記述があった。(後述)
『壬辰戦乱史』の著者である李炯錫によれば、朝鮮が「分党政治と紀綱の紊乱、社会制度の弊害と道義観の堕落、朝臣の無能と実践力の微弱性、軽武思想と安逸な姑息性、事大思想と他力依存性、国防政策の貧困」などの弱点を露呈していたことが侵略を受ける間接的要因となったと総括する[45]。また後述するが、当時の朝鮮半島の人口は日本の
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動機に関する諸説
秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐、すなわち「唐入り」を行った動機については古くから諸説あるが、どれも確証には至っておらず[45]、歴史上の謎の一つであると言われている。 動機について現在知られている説は以下の通り。[注 32]。
豊臣秀吉の嫡男(次男)であったが、夭折してしまった鶴松(棄丸)(妙心寺所蔵)
『本朝智仁英勇鑑』加藤主計頭清正
『朝鮮戦役海戦図屏風』昭和16年前後/太田天洋(明治17-昭和21)
狩野内膳の『南蛮屏風』
イエズス会員と日本人
鶴松死亡説(鬱憤説)
1591年(天正19年)正月、征明の遠征準備を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟である豊臣秀長が病死、さらに8月には豊臣鶴松の死という不幸が相次いだ。秀吉は相次ぐ身内の死に悲嘆に暮れたが、その極みに至って、却って自らの出陣と明国を隠居の地とする決意を新たにしたと、秀吉と同時代人の貴族である近衛信尹が『三藐院記』にて記している[46]。征明の決意を公に表明したのは愛息の死の直後であった。林羅山はこれを受けて『豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らしで出兵した」という説を書き[47]、『朝鮮征伐記』など様々な書籍でも取り上げられている。しかし、二人が死ぬ以前より「唐入り」の計画はすでに実行段階に入っていたと考えるのが自然であり、順序から考えれば(秀吉が彼らの訃報にどう接したかは別として)これを動機と直接結びつけるのは不自然な点が多い。東洋史学者池内宏も同様の批判をした上で「後人のこじつけ」であると否定的に評した[45]。
功名心説(好戦説/征服欲説)
遠征動機を秀吉の功名心とする説の根拠は、秀吉が朝鮮に送った国書に「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と端的にその理由を述べている点にある。このため動機の一つであることは容易に推定できるのであるが、江戸前期の儒学者貝原益軒[注 33] が、欲のために出兵するは“貧兵”であり、驕りに任せた”驕兵”や怒りに任せた“忿兵”でもあって、天道に背いたが故の失敗であったと批判したのを皮切りとして、道義に適わぬことがしばしば問題とされた。道学者の道徳的批判に過ぎないと言えばそれまでだが、功名心に対する価値観は(第二次世界大戦の)戦前と戦後でも劇的変化があり、動機と評価を合わせて考える場合は、英雄主義による賛美が大義なき戦争という批判に変わったことに留意すべきであろう。歴史家徳富蘇峰は秀吉を英雄と賛美しつつも遠征動機を端的に「征服欲の発作」と述べた[48]。
動乱外転説
江戸後期の儒学者である頼山陽も、国内の動乱を外に転じるための戦役だったという説を唱えて有名だった。明治期の御雇教授マードックも、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であったという見解を示した。『日本西教史』の著者ジャン・クラッセの場合は「太閤は日本の不平黨が叛逆すべき方便を悉く除去せんと欲し、その十五萬人を渡海させしめ」船を呼び戻して「軍隊再び日本に帰るを妨げ、飢餓困難に陥り死に就かしめんと欲する」[49] とまで細かく書いている。しかし、この説の矛盾は、秀吉が遠征の失敗を予期したことを前提にしている点である。実際に出征した諸将を見れば、子飼い武将を含む譜代や外様でもより身近な大名が中心で、徳川家康のごとき最も警戒すべき大老は出征しなかった。豊太閤三国処置などから判断すると出征した諸将に大きな報奨・知行を与えるつもりで、逆に秀吉は遠征の成功を信じて疑わなかったのである。池内宏はこれを「机上の空論」と評し[45]、(敗北主義的な頼山陽の説が気に入らない)蘇峰も国内の諸大名に「秀吉に喰って掛るが如き気概はなかった」として「架空の臆説、即ち学者の書斎的管見」と完全否定している[50]。
領土拡張説
急成長を遂げてきた豊臣家は、諸将の俸禄とするために次々と新たな領地の獲得を必要としていたという説は、戦国大名としては当然のこととして当初より検証なく受け入れられてきた。功名を立てることと領土獲得はしばしば同じことであるため両説は重複して主張されることがあるが、歴史学者中村栄孝は秀吉は名声不朽に残さんがために「当時わが国に知られていた東洋の諸国をば、打って一国と為すのを終局の希望として、海外経略の計画は進められていた」[51] と大帝国建設が目的だとし、「政権確立のため、支配体制の強化を所領と流通の対外的拡大に求め、東アジア征服による解決を目指していた」[45] とも述べた。また、中村は「その目的も手段も、殆ど海内統一に際して群雄に臨んだ場合と異なることがなかった」[51] と書状等から分析し、諸国王が諸大名と同様に扱われたことを強調。蘇峰も秀吉は朝鮮を異国とは思わず「朝鮮国王は、島津義久同様、入洛し、秀吉の節度に服すべきものと思った」とした[52]。これらの見解は、天下統一の達成が日本列島に限られるという現代の国境概念の枠中で考えることを否定するものでもあった。
勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)
秀吉の戦略は可能な限り平和的手段で降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易の復興や通商貿易の拡大を目指したときに、朝鮮が明との仲介要請を拒否したことが、朝鮮出兵の理由であったという説は、日本史学者田中義成や辻善之助、柏原昌三など多くの学者が唱えてきたものである。秀吉の平和的外交を強調する一方、侵略の責任の一端が朝鮮や明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判を受けた説であったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易が当初からの目的と考えるには根拠が薄いことである。
歴史学者の田保橋潔が「どの文書にも勘合やその他の貿易についての言及はない」[45] と批判したように、肝心の部分は史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉をあまりにも近世化した見解」ではないかと疑問を呈した[53]。日明交渉において突如登場した勘合貿易の復活の条件が主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服の不可能なるを覚った後、所期の結果とは別に考慮されたものに他ならない」[54] と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉が万暦帝の臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封」の意味を秀吉本人が理解していなかったという説[38] もあって、慶長の役の再開理由が単に朝貢(勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たないと指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授三鬼清一郎は領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議を唱え、対外領土の拡張も対明貿易独占体制の企ての一部であるとした。また歴史学者鈴木良一は、豊臣政権の基盤は弱く商業資本に依存していたと指摘し、商業資本による海外貿易の拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした[45]。
国内集権化説(際限なき軍役説)
国内の統一や権力集中あるいは構造的矛盾の解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権の統治体制が未完で終わったために検証できないものが多いのが難点である。
日本史学者である佐々木潤之介の話によると、「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」[45] と指摘した。同じく朝尾直弘も家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし[55]、朝鮮出兵による軍賦役を利用して身分統制令を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた[45]。貫井正之教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した[45]。
日本史学者の山口啓二も「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、兵農分離によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した[45]。
国内統一策の延長説
これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者の藤木久志も天下統一=平和を目指す秀吉にとって惣無事令こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」[45] と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した[45]。
東アジア新秩序説
下剋上で生まれた豊臣政権は、従来の東アジアの秩序を破壊する存在であったとする説。明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島の領有を巡って争った日清戦争の前史のように捉えるものであり、明治時代前後に支持を得た。しかし頼山陽の『日本外史』にある秀吉が日本国王に冊封されて激怒したという有名な記述は近代以前に流布された典型的な誤解[38] であり、基本的な史実に反する点があった。史料から秀吉自身が足利義満のように望闕礼を行ったと十分に判断でき、史学的には秀吉が意図して冊封体制と崩そうとしたという論拠は存在しないといっていい。
しかし一方で、16世紀と17世紀の東アジアにおける明を中心とする国際交易秩序の解体によって加熱した商業ブームが起き、この時期に周辺地域で交易の利益を基盤に台頭した新興軍事勢力の登場を必然とし、軍事衝突はこの「倭寇的状況」が生み出したという岸本美緒教授や、「戦国動乱を勝ちぬいて天下人となった豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって、国際社会に臨んだのは、当然のなりゆき」[45] という村井章介名誉教授など、秀吉が冊封をどう考えていたかに関係なく、統一国家日本が誕生したこと自体が東アジアの国際情勢に変動を促した要因であったとする東アジア史からの指摘もある。論証も十分ではないという批判[45] もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。
また、ケネス・スオープ米ボール州立大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)が「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べ[注 13]地政学的見地から日中衝突の必然性をもって説明する学者もいた。
こうした見方に対して、東洋史学者の新宮学は秀吉が述べたとされる『豊太閤三国処置太早計』から読み解けるのは、秀吉の発想は完全な明の冊封体制の焼き直し(従来の東アジアの秩序の継承)に過ぎない、としている(詳細は後述)[56]。
キリシタン諸侯排斥説
ルイス・フロイスやジャン・クラッセ、『東方伝道史』のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師達が主張した説で、「基督(キリスト)信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、若し支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん」[57] と秀吉が考えていたという。
戦役がバテレン追放令やキリシタン弾圧と重なり、同じ頃フィリピンやインドに伸ばした秀吉の外交が彼らの目にはキリスト教世界全体に対する攻撃と映っていた可能性はあるが、小西行長を筆頭としてキリシタン大名は排斥されておらず、そのような事実はなかった[58]。動乱外転説に似ているが、排斥対象がキリスト教徒に限定されているところに特色がある。
元寇復讐説
秀吉が元寇の復讐戦として文禄慶長の役を起こしたという説は、辻善之助が「空漠なる説」[45] と一蹴しており、事実とはかけ離れたものである。しかし、特に根拠のない俗説の類であるとしても、朝鮮の書物においても交渉当事者であった景轍玄蘇が言及していたことが記録されており、信じる者は当時からいたようである。
しかしそれ以外でも大名や武士の間でも噂にあり、この当時ではないが遡ること信長が討たれ明智を討つと権力を掌握した時に、予想のできなかった信長の死という悲しみと混乱の中で、まずこれから国をどうするか真っ先に取り掛かる問題として、外国からの侵略対策の問題に真っ先に当たらないといけないとの考えを強く持っており「日本は以前外国から国の存滅に関わる大きな攻撃を受けたこと(即ち元寇の意)から、それをどうにかしないといけない」と来る日も来る日も悩んでいたという側近の記録が残っている。天下統一の最初から、国内ではなく海外の中での日本をどうするかで頭を中でいっぱいであった。それ故に、その兆候に沿ったことを生涯で他にはほとんど行っておらず晩年になって該当するその通りに実行していることから、朝鮮出兵は最初からその未来の構想を立てていて人生の最後にそれを実行した可能性や影響を受けた一つの理由とも考えられる。
朝鮮属国説(秀吉弁護説)
異端の儒学者山鹿素行が主張したもので、神功皇后の頃より「凡朝鮮は本朝の属国藩屏」なのだから従わぬ朝鮮を征伐して「本朝の武威を異域に赫(かがやか)すこと」は至極当然であるというもの[59]。功名心説(好戦説)が道義的批判を受けた反撥から生まれた儒者的論法だが、動機や原因というよりも単なる称賛であり、しかも朝鮮征伐は本来の目的ではなく秀吉に古代の知識があったかも疑わしいとして、国家主義者の蘇峰すら「恰好たる理屈を当て嵌めたものに過ぎぬ」[60] と評した。
原因
秀吉の唐国平定構想
豊臣秀吉坐像(狩野随川作)
秀吉は、日本の統一を完成させるよりもかなり前から海外侵攻計画を抱いていた。これは秀吉が仕えた織田信長の支那征服構想[注 34] を継ぐものだったと広く信じられているが、実はこの説は根拠に乏しい。信長の夢に従って朝鮮に近い筑前守を請うて拝命したというのも俗説である。『朝鮮通交大紀』に現れる明との貿易を開こうと通交の斡旋を朝鮮に仲介を依頼した者(右武衛殿)を信長であるとするのは人物誤認であって[61]、これを基に信長の遺策を秀吉が受け継いだという説[62] がかつてあったが、それは辻褄が合わない[61] のであり、信長の影響については想像の域を出ない。
天正5年(1577年)10月、信長から播磨征伐を命じられた秀吉が「中国征伐の後は九州を退治し、更には進んで朝鮮を従へ、明を征伐する許可を請うた」という有名な逸話[63][64] は、堀正意が『朝鮮征伐記』に載せて江戸時代から広く信じられており、原典を確認できないので史実とは明言できないが、何らかの由来があった可能性はある。
しかしながら秀吉本人が海外進出の構想を抱いていたことを示す史料は、天正13年(1585年)以降のものに存在し、史学的には1585年が外征計画を抱いた初めであろうとされる[45]。関白就任直後の同年9月3日[注 35][65]、子飼いの直臣一柳市介(直盛の兄)の書状で「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という記述がそれである[55]。
天正14年(1586年)3月[55] には、『日本西教史』によると、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言ったという記録がある[66][67]。
同年4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかの「高麗御渡海事」という箇所で外征の計画を披露し、6月の対馬宗義調への帰順を促す書状でも九州のことが終わり次第、高麗征伐を決行すると予告した[65][68]。また8月5日の安国寺恵瓊と黒田孝高への朱印状でも、九州征伐の後の「唐国」ついても沙汰があったと記述があった[69]。
天正15年(1587年)になると登場頻度は増え、話も徐々に具体化した。九州征伐の後、泰平寺で相良家家臣で連歌師の深水宗方に謁見した際、秀吉は「もはや日本もすでに統一した。この上兵を用いるならば高麗琉球ならん」[69] と述べて和歌を所望。宗方はこれに応えて、「草も木もなびきさみだれの 天のめぐみは高麗百済まで」と詠んで、大いに気に入られたという出来事があった。5月9日、秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において、「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している[70]。6月1日付で本願寺顕如に宛てた朱印状の中にも「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している[71]。
妙満寺文書(5月29日付)によれば、秀吉は北政所に宛てた手紙で、壱岐対馬に人質を求めて出仕を命じただけでなく、朝鮮に入貢を求めて書状を出したこと、唐国まで手に入れようと思うと述べていた[72]。
秀吉の唐国平定計画は、長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性があった。明への入朝要求はことごとく無視されたことから、その道中の朝鮮は前段階となった。(後述) 九州征伐の後に日朝交渉は始まっていて、鶴松の誕生や小田原征伐、大仏建立などで中断はあったが、以後はもはや遠征は単なる構想ではなかった。
天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書には「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されている[55][73] が、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。(関連話)
日朝交渉の決裂
征明嚮導
天正15年(1587年)5月初旬、薩摩川内に在陣中に(すでに秀吉に帰順していた)宗義調の使者として佐須景満[注 36] と家臣の柳川調信、柚谷康広の3名が来て、秀吉に拝謁を願い出た。彼らは秀吉が前年に予告した朝鮮出兵(高麗征伐)を何とか取り止めてもらい、貢物と人質を出させることでことを済ませることはできないかと請願に来たのである。しかし、九州征伐を成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球、朝鮮だと考えており、聞き入れなかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し[68]、それが無い場合は征伐するとした[注 37]。そして彼ら宗氏を朝鮮との交渉役に命じて、入朝を斡旋させる任務を与えた。6月7日、帰路の箱崎で宗義調と宗義智の親子に謁見して、直にその旨を重ねて厳命した。このように宗氏に強い態度に出た背景としては、琉球が島津に従属したように、朝鮮も対馬に従属していると秀吉が誤解していたためである[74]。ルイス・フロイスも「朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いていて、このような認識は秀吉に留まらず、当時の一般的なものであったことが分かっている[40]。ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か100石に過ぎず、対馬・宗氏は朝鮮貿易に経済を依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。前述のように偽使を用いて苦労して朝鮮との関係を修復したところだった。秀吉の難題への対応を苦慮した彼らは形式的にでも双方を満足させねばならず、折衷案がないかと模索した。
9月、宗氏は柚谷康広を日本国王の偽使(橘康広)として渡海させ、秀吉の日本統一を告げたうえで、新国王となった秀吉を祝賀する通信使の派遣を朝鮮側に要請した。これは通信使を朝鮮国王入朝の代わりとして事態を収めようという配慮であったが、朝鮮側は書簡の文言が傲慢であると主張し、朱子学に凝り固まった宣祖も「これまでの国王を廃して新王を立てた日本は簒奪の国であり」[75][注 38] 大義を諭して返せと命じた。それを受けた大臣らは「化外の国には礼儀に従って」[75] 接する必要はないとして、水路迷昧[注 39] を理由に要請を断った。日本側には記録はない[76] が朝鮮側の記録[注 40] によると、報告を受けた秀吉は激怒し、交渉失敗は裏切りの結果であるとして柚谷康広を一族共々処刑したといわれる[75]。
期限を越えても1年間進展なかったので、天正17年(1589年)3月、秀吉は朝鮮国王遅参を責め、入朝の斡旋を再び宗義智[注 41] へ命じた。6月、義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇を正使として自らは副使となり、家臣の柳川調信や博多豪商島井宗室など25名を連れて朝鮮へ渡った。漢城府で朝鮮国王に拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣を要請し、宗義智は自らが水先案内人を務めるとまで申し出た。ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡しを要求した。義智もこれに応えてすぐに柳川調信を対馬に帰し、沙乙背同と数名の倭寇を捕縛して連行[注 42] させたので、断る理由がなくなった朝鮮側はついに通信使の派遣に応じた。返礼に宗義智は孔雀と火縄銃[注 43] を献上した。
『聚楽第図屏風』の一部分(三井記念美術館所蔵)
京都の秀吉の政庁であった聚楽第
天正18年(1590年)3月に漢城府を発した通信使は、正使に西人派の黄允吉、副使に東人派の金誠一、書状官許筬(許筠の兄)ほか管楽衆50余名という構成で、4月29日に釜山から対馬に渡って滞在1ヶ月した。このとき金誠一が宴席に轎(駕籠のこと)に乗って後からやってきた宗義智を無礼と怒ったので、謝罪に轎夫を斬首にするという事件があった[77]。京都に到着したのは7月下旬で、大徳寺を宿とした。しかし秀吉は小田原征伐と奥州仕置のために9月1日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。
11月7日になってようやく秀吉は聚楽第で引見したが、義智とその舅小西行長が共謀して通信使は服属使節であると偽って説明して、秀吉は朝鮮は日本に帰服したものだと思い込んでいたようである[76][78]。それで秀吉は定められた儀礼もほとんど行わずに、国書と贈物(入貢)を受け取っただけで満足し、中座して赤子の鶴松を抱いて再び現れて、使者の前で小便を漏らした我が子を笑い、終始上機嫌だった。対等な国からの祝賀の使節のつもりだった通信使一同は侮辱と受け取り憤慨したが、正使と副使にはそれぞれ銀400両、その他の随員にまでも褒美の品々が分け与えられ、功が労われた。もちろん返答の用意もなく、儀礼に反すると通信使が抗議した後で、僧録西笑承兌が起草し、堺で逗留していた一行に国書が届けられた。
その内容は、秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説を披露して帝王に相応しい人物であると主張したうえで、大明国を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に中国に植え付けるという大抱負を述べ、先駆けて「入朝」した朝鮮を評価して安堵を約する一方で、「征明嚮導」つまり明遠征軍を先導をすることを命じ、応じるならば盟約はより強固になるとするものだった。そして全ては「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と秀吉個人の功名心を誇示してもいた。文章を一読した通信使は属国扱いに驚愕して宗義智と玄蘇に抗議した。玄蘇は秀吉の本意とは異なる嘘の説明で誤魔化していたので、それを信じた金誠一は誤字であると考えた「閣下」「方物」「入朝」の文字の書き換えを要求して食い下がったが、もはや一刻も早く帰還すべきと考えていた黄允吉はそのままで出立した。天正19年(1591年)1月に対馬に到着。2月に朝鮮に帰国し、玄蘇と柳川調信が同行した。
仮途入明
天正19年(1591年)3月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の鄭澈が失脚[注 44]して東人派の柳成龍が左議政となっていた[79]。黄允吉が「必ず兵禍あらん」と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ[注 45]、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。通信使に同行した軍官黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立ったが周囲に止められた[80]。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。「倭軍」の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった[81]。
玄蘇と柳川調信[注 46] が東平館に滞在中、宣慰使(接待役)呉億齢らは日本の情勢を聞き出そうと宴席を設けた。すると(秀吉ではなく宗氏の意向を汲む)玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。朝鮮がまず(このことを)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる」[82][83] と主張した。しかし、これは朱子学の正義に合わないため、金誠一は大義に背くと批判し、口論となった。玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ」[82][83] と熱くなって反撥したので、朝鮮側はこれに対して何も言い返さなかった[82]。5月、朝鮮朝廷は「日本は朋友の国で、大明は君父である」として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った[84][85][86][87]。
同年6月、玄蘇の復命を受けてすぐに宗義智は再び渡海し、釜山の辺将に対して「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国は平和は破られるだろう」と警告を発し、再交渉を要望した。辺将はこれを上奏したが、朝鮮朝廷では先の玄蘇らの言動を咎め、秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事も与えなかった。義智は10日間待ったが、断念して不満足のまま去った。これ以降、日本との通信は途絶えた。釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこのことを不審に思っていた[84][88]。(関連話)
朝鮮半島経由の理由
秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも「地乗り航法(沿岸航法)」であったことが説明として挙げられる。「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であったため、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかった。このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋(現唐津市と玄海町)などから出航して、壱岐(勝本)→対馬南部(厳原)→対馬北部(大浦)→釜山と順次進んで海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったのである[89]。最短ルートから外れた済州島は無視された。
準備
『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年作)新撰太閤記の一場面
天正19年1月20日、秀吉は(明の)遠征準備を始動した。常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名に号令を発して、10万石に付き大船2艘を準備するように命じ、港町は家百軒につき10人の水主(かこ)を出すこと、自分の蔵入地(筑前・摂津・河内・和泉に集中)には10万石に付き大船3艘、中船5艘を造ること、建設費は半額を奉行より支出し、残額は竣工の上で交付するとした。また水主は2人扶持とし、残される妻子にも給金を与えることを約束し、船頭は給米を与えて厚遇するとした。また船等は摂津、播磨、和泉に翌年までに集合することを命じた[90]。また大船の大きさは長さ18間(33メートル)で幅6間(11メートル)と定められていた。
同年末にかけて軍用軍資金として通貨を大量に生産させた。金貨は花紋があるため太閤花降金と称し、銀貨は花降銀とも石見銀とも呼ばれた。糧米は48万人分が集積され、秣も相応に準備された。各地の街道や橋の整備修復も命じられた[91]。
また朝鮮の地図が作製され、八道を五色で塗り分け、慶尚道を白国、全羅道を赤国、忠清道・京畿道を青国、江原道・平安道を黄国、咸鏡道を黒国、黄海道を緑国と命名し、諸将に配られた[92]。
名護屋城築造
天正19年8月23日、秀吉が「唐入り」と称する征明遠征の不退転の決意が、改めて諸大名に発表された。宇喜多秀家が真っ先に賛成したといわれ、五大老のうち徳川家康は関東にいて不在であったが、他の大老、奉行は秀吉の怒りを恐れて不承不承の賛意を示した[93][注 47]。このために秀家は、後に秀吉の名代として総大将を任じられることになる。決行は翌年春に予定され、(秀吉は帰順したと考えていた)朝鮮を経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように促された。12月27日には秀吉は関白職を内大臣豊臣秀次に譲って、自らは太閤と称して外征に専心するようになった。
秀吉は遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示した。黒田孝高に縄張りを命じて、浅野長政を総奉行とし九州の諸大名に普請を分担させた。また、壱岐を領する松浦隆信にも勝本に前哨基地となる風本城の築城を命じた。
名護屋城の建設予定地は、波多氏の領土でフロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した[94] 場所であったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記した[95] ほど活況を呈し、唐入りの期間は日本の政治経済の中心となった[95]。
→詳細は「名護屋城」を参照
最後通牒
年明けて天正20年(1592年)正月、総21軍(隊)[96][97] に分けられた約30万よりなる征明軍の編成が始まった。2月に渡海し半島を伝って明に攻め込む予定で、4軍までを先発させることまで決まったが、速い展開に焦った小西行長と宗義智がまず朝鮮帰服の様子を確かめるべきだと進言して、計画は急遽、停止を強いられた。これは彼らが朝鮮通信使が来たことだけをもって朝鮮が入朝した(帰服した)と嘘をついてことを進めていたことを、秀吉が度外視して明征服を実行に移そうとしていたので、不安になったためだった。
行長は嘘を取り繕うために帰服した朝鮮が変心したと新たな嘘で説明し、征明軍に道と城を貸すのを拒否していると言ったようである[78]。朝鮮交渉の不首尾に面目を失った行長であるが、責任は朝鮮側に転嫁し、平伏して最後の交渉と相手が従わぬ場合には、自らが先鋒を務めることを願い出た。1月18日、秀吉はそれを許し、両名に3月末までに様子を見極めて復命するように指示。もし朝鮮が従わないのならば、4月1日になったら(まず朝鮮から)「御退治あるべし」と出征開始の号令が出された。これによって征明軍は征朝鮮軍となった。
秀吉が配下の将に伝達した文書に「高麗国の御使」として両名が派遣されたことは確認できるが、1月から3月末までの間、再び玄蘇を派遣した以外は特に行動した様子はなく、行長と義智は朝鮮には赴かなかった。それはすでに無駄であると分かっていたからに他ならない。結局、仮途入明の要求なども平和のためなどではなく、欺瞞を重ねた結果に過ぎなかった[78]。
2月27日、京都で秀吉は東国勢の到着を待っていて家康の手勢が少ないのを怒り不機嫌となったというが、これが俗説としても出陣の延期が続いて人々は不安がっていたようだ。秀吉が吉日である3月1日に出陣の儀をするつもりだったが、眼病を患って延期した。3月13日、「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」の軍令が発表され、日本軍の先駆衆が9隊に再編成される陣立てが新たに示された。ようやく26日早朝、秀吉は御所に参内して後陽成天皇に朝鮮出兵を上奏して、京を出立した。この間も第一軍(隊)は3月12日に壱岐から対馬へ移動し、後続も渡海を開始。23日からは第一軍は対馬の北端の豊崎に移動して待機していた。
他方、最後通牒の役目を担った玄蘇は改めて朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するように協力を交渉していたが、朝鮮側の返事は要領を得なかった[98]。すでに期日が過ぎた4月7日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた[99]。
道中、緩々と厳島神社に参拝して、毛利氏の接待を受けていた秀吉の大行列が名護屋城に着陣したのは、すでに戦端が切られた後の4月25日であった。
日本軍陣立
『九鬼大隅守舩柵之図』, 真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。
天正20年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された[90]。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる[100]。
主として西日本方面(西海道、南海道、山陰道、山陽道)では全面的に兵が動員されたが、東日本方面(畿内以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した[101]。
兵は諸侯の石高の大小に比例して動員されたため、数万人を出す大身者から、数百人を出す小身者まで様々で、これらを組み合わせて一隊が編成され、主としてその中の大身者を指揮者とした。また豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとした。加藤清正や小西行長らが鍋島直茂・宗義智・松浦鎮信らを指揮下に置いたのはその例である[102]。
全体としては概算で、名護屋滞在が10万、朝鮮出征が16万〜20万となった。ただし、この数字には人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員(補助員)が含まれていた。非戦闘員の割合は各隊でまちまちで、文禄の役における島津勢では約4割であった[注 48] が、立花勢では約5割で、五島勢では約7割にも及んだ[103]。なお、非戦闘員から兵員に転用されたという記述が後に出てくるため、これらが完全に戦闘に関与しなかったわけではないようである。
当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人であった[104]。文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。なお、豊臣秀吉の四国征伐時の豊臣軍の兵力は約10万、九州征伐時、小田原征伐時は約20万であった。
軍の構成は以下の通りであった。脚注のない数字は主に毛利家文書[105][106][107] と松浦古事記[108] による。実際に出陣したことが分かっている武将の中に表記がないものがある毛利家文書は明らかに省略されており、7番隊以後や名護屋在陣衆(旗本含む)はより詳しい松浦古事記を参考にした。先駆衆の毛利輝元[注 3] までは順次出立したが、宇喜多秀家より後の部隊は戦況に合わせて出陣しており、順番も異なって、隊として行動していたようにも見えない。首都漢城の行政を任された奉行衆や、占領地の統治を命じられ各地に分散した8番隊、あるいは伊達や佐竹など在陣衆からの増援もあった。渡海時期のよく分からない部隊もある。当初は秀吉や家康を含めた全軍が渡海する予定であったが、何かにつけて周囲が出陣を押しとどめたので、実現しなかった。
日本水軍の規模は9千人から1万人ほどであった[109][110][111]。陸上部隊の数字の中にも若干の水軍衆が含まれていたと思われるが、それらを含めても水軍の総数は多くとも約1万数千人程度で、その主力は淡路水軍と紀伊水軍であった(来島系以外の村上水軍は小早川・毛利隊の中に含まれる)。
<平成30年の設問対策>
*狩野永徳
*狩野山楽
*海北友松
*長谷川等伯
*西本願寺飛雲閣
*聚楽第
*伏見城(桃山城)
*大坂城
(画像は、桜楓図のうち楓図)
[生]天文8(1539).能登,七尾
[没]慶長15(1610).2.24. 江戸?
桃山時代の画家,長谷川派の祖。実父は七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道。幼時に等春門人で染色を業とする長谷川宗清の養子となる。初名久六,又四郎,のち帯刀 (たてわき) 。号は初め信春,のち等伯。能登在住時代には正覚寺『十二天像』,大法寺『三十番神図』,妙成寺『涅槃図』『日乗上人像』などの仏画,肖像画を中心に制作。ほかにやまと絵や中国の花鳥画などを学んで絵の修練を積んだ。元亀2 (1571) 年頃上京,本法寺教行院を宿坊とし,翌年本法寺8世『日堯上人像』を描く。上京後もしばらくは「信春」印を用い,妙覚寺『花鳥図屏風』,成慶院『武田信玄像』,東京国立博物館蔵『伝名和長年像』『牧馬図屏風』などの優品を残す。千利休や春屋宗園と親交を結び,大徳寺総見院,三玄院の襖絵や三門天井画を制作。この頃すでに狩野派に対抗しうる画派に成長し,文禄2 (93) 年には一門の画家を率いて,祥雲寺 (現智積院) に豪放華麗な金碧花木図を描いた。慶長年間には妙心寺隣華院,大徳寺真珠庵,高桐院,南禅寺天授庵に水墨画の山水,人物,花鳥障屏画を描いたほか,多数の遺品がある。慶長9 (1604) 年法橋,翌年法眼に叙された。狩野派や曾我派に絵を学んだという説もあるが,むしろ中国,宋代の牧谿画の影響が大きく,抒情性豊かな国宝『松林図屏風』 (東京国立博物館) は日本的水墨画の最高傑作と賞される。しかし最晩年の等伯画には梁楷風の粗放な作品が多い。日蓮宗の信者で本法寺の日通上人と親交が深く,上人が筆録した『等伯画説』は彼の画論として著名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『国宝-絵画|障壁画 桜楓図ほか(長谷川等伯・久蔵筆)[智積院/京都]』WANDER 国宝 https://wanderkokuho.com/201-00044/
参考:『智積院の金碧障壁画の傑作』国土交通省 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_07_jp.html
参考:『楓図』作品紹介 キヤノン綴プロジェクト https://global.canon/ja/tsuzuri/works/kaedezu/
天文十一年(1542) 松平広忠の長男として誕生
天文十六年(1547) 今川の人質として送られるも織田に奪われる
天文十八年(1549) 父広忠暗殺される。今川に人質
永禄3年(1560) 桶狭間 (今川方)
元亀元年(1570) 姉川 (織田の援軍)
元亀三年(1572) 三方ヶ原 武田軍に大敗。
天正三年(1575) 長篠 設楽原 武田勝頼を撃退。
天正十年(1582) 本能寺の変 家康、小勢の為、伊賀越えで命からがら本国入り
天正十二年(1584年) 小牧長久手 秀吉と講和
天正十八年(1590) 小田原攻め 江戸転封 江戸城
慶長五年(1600) 関ケ原
慶長八年(1603) 征夷大将軍 江戸幕府
慶長二十年(1615) 大坂夏の陣 淀の方、豊臣秀頼自刃