全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
↑写真は、秀吉建造の聚楽第を移築したと伝えられる西本願寺飛雲閣
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
なるべく年代順に並べていますが前後が逆転している場合もあります。目次とページ内の検索機能を利用してください。
織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京した永禄 11 (1568) 年9月 26日から,または義昭が信長に追われ室町幕府が滅びた元亀4 (1573) 年7月 18日から,豊臣秀吉政権の終わった慶長3 (1598) 年8月 18日,徳川家康が実権を握る関ヶ原の戦いの慶長5 (1600) 年9月 15日,または徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8 (1603) 年までの約 30年間の時代をいう。信長の居城は安土城であり,秀吉の居城である伏見城がのちに桃山と称したところから,織田信長,豊臣秀吉の覇権 (この政権を織豊政権という) の時代をいう。 (→安土桃山文化 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の政治・経済・文化など項目別の詳しい説明も確認しておくこと。
<平成30年設問対策>
織田信長
[生]天文3(1534).尾張,那古野
[没]天正10(1582).6.2. 京都
戦国時代の武将。信秀の子。幼名吉法師または三郎。元服して信長。天文 20 (1551) 年父信秀が没して家督を相続して以来,一族内部の抗争に奔走,永禄2 (1559) 年には岩倉城の織田信賢を破り,尾張一国を統一,次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた (→桶狭間の戦い ) 。そののち三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き,美濃に進出を企て,永禄 10 (1567) 年斎藤龍興を滅ぼして美濃をくだし,稲葉山城を岐阜と改名して,尾張清洲より移った。翌 11年足利義昭を奉じて上洛,義昭を将軍職につけたが,のち義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかったため元亀2 (1571) 年信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。天正1 (1573) 年には朝倉氏,さらに浅井氏を滅ぼし,義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ,天正3 (1575) 年,武田勝頼を三河長篠に破り (→長篠の戦い ) ,翌年には近江安土に築城した (→安土城 ) 。やがて中国経略を志して毛利氏と対立したが,一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。天正 10 (1582) 年には甲斐武田氏を滅ぼし,信濃の北口を平定。しかし同年6月2日,本能寺の変で明智光秀のために殺され,その統一事業は中絶した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*桶狭間の戦い 戦国時代,織田信長と今川義元との,尾張国知多郡の桶狭間における戦い。駿河,遠江,三河3国を領有した今川義元は,永禄3 (1560) 年5月,4万と称する兵を率いて上洛を企て尾張へと進軍した。尾張国清洲城主織田信長は,砦を構えてこれに対したが,前衛の丸根,鷲津などの砦は同 19日までに陥落した。同 18日夜半,清洲を出発した信長は,19日正午頃,沓掛から進んで大高に通じる三面起伏の迫る低地 (→田楽狭間 ) に休憩していた義元の本陣を,約 3000人の兵をもって風雨のなかを急襲し,その首級をあげた。信長はこの勝利によって東海道における勢力を急速に増大させた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
信長の対外の大きな戦いの初勝利。鉄砲を大量に用いた戦いは、もっと後の長篠の戦いが有名である。→表参考
*姉川の戦い 元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*楽市令 主として16世紀後半,戦国大名および織豊政権が,地方市場,新設の城下町に出した法令。楽市令は大別して次の2種に分けられる。ひとつは,15,16世紀に新しく登場した地方市場で,寺内町(じないちよう)に代表されるような,すでに,楽市場として存在していた市場に,その楽市の機能を保証した,いわば保証型楽市令である。この型に属する楽市令としては,織田信長の永禄10年(1567)美濃加納あて楽市令,元亀3年(1572)近江金森あて楽市令,後北条氏の天正13年(1585)相模荻野あて楽市令などがある。
出典 株式会社平凡社
*会合衆 室町,戦国時代の都市自治組織の代表者。彼らは都市によって年寄,老中,乙名 (おとな) などと呼ばれており,堺では文明年間 (1469~87) に会合衆がおかれていた。堺の会合衆は納屋衆とも呼ばれ,すべて富裕な商人たちで構成され,初めは 10人,のちには 36人であった。これは月行事の3人が 12ヵ月を輪番でつとめるためであった。戦国時代には合議制によって戦火から堺を守り,織田信長の専制的圧力に反発し,浪人などを集めて,自主防衛を意図した。しかし信長の多大の矢銭の要求を1度は退けたが,ついに信長の武力に屈服した。伊勢の宇治山田,大湊などにも会合衆が存在した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*南蛮貿易 1540年代から1世紀にわたって日本人と南蛮人 (→南蛮 ) との間で行われた貿易。天文 12 (1543) 年ポルトガル人の種子島漂着が南蛮貿易の端緒となった。当初は平戸,横瀬浦,福田,口の津など北九州諸港にポルトガル船が来航したが,元亀2 (71) 年長崎が開かれ,領主大村純忠がこれをイエズス会に寄進して以来,ポルトガル船はこの地に連年入港するようになった。船は初めはナウと呼ぶ大型帆船,のちにはガレウタと呼ぶ小型帆船で,司令官のカピタン・モールの統制下に,季節風を利用してゴアもしくはマカオから長崎に来航,鉄砲,火薬,ヨーロッパの毛織物,中国産の上質生糸,南海産の皮革,香料その他を日本は輸入し,日本からは銀をはじめ,銅,鉄,食料品などを輸出して,2~3倍の利益をあげた。初めはマカオ住民の出資が多かったが,のちには日本商人の投銀 (なげがね) 形式の投資もみられた。生糸の需要は高く,江戸幕府は糸割符 (いとわっぷ) 制度によってその輸入を独占,統制した。 17世紀の初めには朱印船貿易が盛んとなり,日本人が台湾,マカオ,ルソン,カンボジア,シャムなどに進出して,日本町が発達した。しかしイギリス,オランダのプロテスタントの商権拡張,幕府のキリスト教取締り,鎖国政策の強化とともに,南蛮貿易は行きづまり,寛永 16 (1639) 年のマカオ使節 L.パチェコらの死刑をもって幕を閉じた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*信長とキリスト教 織田政権は一向一揆と激しく争い、また、比叡山を焼き討ちした。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた。例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている[397]。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである。
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した[398]。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている。(織田信長 Wikipedia)
以上のように信長はキリスト教のみを特別に庇護したわけではないし、ザビエルが会おうとしたのは、日本国王(足利義輝・後奈良天皇)であり、献上物の荷の遅延により、拝謁が叶わなかったことから、大内氏・大友氏・大村氏ら西国・九州の戦国大名に会って布教許可を得ている。彼ら大名はは貿易のうまみも得ながら、キリスト教に傾倒していった部分もあり、大村純忠などは仏教を弾圧したりもした。
*天正遣欧少年使節 1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信(大村純忠の甥)の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
使節の目的
第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。
使節:伊東マンショ(主席正使・大友宗麟名代・宗麟血縁・日向国主伊藤義佑の孫)・千々石ミゲル(正使・大村純忠の名代・大村純友の甥)・中浦ジュリアン(副使・肥前国中浦城主の息子・1633年長崎で穴吊るしの刑により殉教・2008年ローマ教皇により福者に列せられる)・原マルチノ(副使)
天文3年(1534年)織田信秀嫡男として誕生
天文15年(1546年)、古渡城にて元服
天文16年(1547年)、信長は今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった
天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破
永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成
永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす
元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破る
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ち
元亀3年(1572年) 三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)
天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼす
翌年には安土城の築城も開始
天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた
天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけた
天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた
しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)
<平成30年の設問対策>
*智積院 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺および東京都八王子市の高尾山薬王院がある。智積院は、もともと紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので根来山内の学問所であった。近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上した。当時の根来寺には2,700もの堂舎があったという。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた。
現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものである。この客殿は天和2年(1682年)7月の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせた為と推定されている。
[国宝]
大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作。正式の国宝指定名称は以下の通り。「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされている。
紙本金地著色松に草花図 床(とこ)貼付4、壁貼付2
紙本金地著色桜楓図 壁貼付9、襖貼付2
紙本金地著色松に梅図 襖貼付4
紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 床(とこ)貼付4
附:違棚貼付、袋棚小襖等 26面
紙本金地著色松に草花図 二曲屏風一双 屏風装になっているが、「大書院障壁画」と一連のものである。
金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。
天文六年(1537) 藤吉郎誕生
天文二十三年(1551) 織田信長に仕える
永禄三年(1560) 桶狭間の戦い
永禄4年 (1561) 浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。
永禄11年(1568) 観音寺城の戦い
元亀元年(1570年) 金ヶ崎の戦い
元亀3年(1572) 羽柴改姓
天正元年(1573) 小谷城の戦い
天正3年(1575) 筑前守
天正5年 (1577) 手取川の戦い
信貴山城の戦い
天正6年(1578)年 三木合戦開始( - 天正8年)
上月城の戦い
天正10年(1582) 備中高松城の戦い
6月2日 本能寺の変が起こる
6月13日 山崎の戦い
6月27日 清洲会議
天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦い
11月 本拠を大坂城に移転。
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い
10月3日 従五位下・左近衛権少将
11月21日 従三位・権大納言
天正13年(1585) 紀州征伐
3月10日 正二位、内大臣宣下
6月-8月 四国攻め
7月 近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日 従一位・関白宣下、内大臣如元
8月 富山の役
10月 惣無事令実施(九州地方)
天正14年(1586) 九州征伐開始( - 天正15年4月)
9月9日 賜豊臣氏
1587年 12月19日 内大臣辞職
12月25日 太政大臣兼帯
天正15年(1587年) 書状「かうらい国へ御人」
6月1日 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日 バテレン追放令発布
9月 聚楽第へ転居
10月 北野大茶湯
1587年または1588年 12月 惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年(1588) 刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。
8月12日 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
聚楽第行幸
天正17年(1589) 鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年(1590年) 小田原征伐
2月28日 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月 奥州仕置
11月 朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年(1591) 身分統制令制定。御土居構築と京の街区の再編成着手
2月28日 千利休に切腹を命ず
3月3日 天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日 ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
1592年 12月 関白辞職し、秀次に譲る。太政大臣如元
文禄元年 1592年 4月12日 56歳 朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定。聚楽第行幸
文禄2年 (1593) 本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日 高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
文禄4年 (1595) 秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃を命ず。聚楽第取り壊し
慶長元年(1596) サン=フェリペ号事件
慶長2年 (1597) 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年 (1598) 太政大臣辞職
8月18日 伏見城で薨去。
(豊臣秀吉wikipediaより)
2022年出題
1537-1598 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)6年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。母はなか(天瑞(てんずい)院)。織田信長に足軽としてつかえ,浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて,天正(てんしょう)元年近江(おうみ)長浜城主となる。本能寺の変後,明智光秀,柴田勝家をやぶり,11年大坂城を築城。徳川家康を臣従させて18年(1590)全国を統一。この間関白・太政大臣となり豊臣姓を名のる。19年太閤(たいこう)。文禄(ぶんろく)元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。太閤検地、刀狩りなどの新政策で兵農分離を促進し,近世封建社会の基礎を確立した。慶長3年8月18日死去。62歳。幼名は日吉丸,のち木下藤吉郎,羽柴秀吉。
【格言など】露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢(辞世)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus コトバンク『豊臣秀吉』
[聚楽第] 「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同 14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同 16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記 ) 。同 19年 12月関白を養子秀次 (→豊臣秀次 ) に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4 (95) 年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された。その殿舎の多くは伏見城へ移された。大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられる。桃山文化の代表的建築物である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年出題
豊臣氏の職制の一つ。5人の年寄衆の呼称。五奉行の上に位する職制で,政務を統轄した。成立は,慶長2 (1597) 年頃と推定される。当初は,徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景がこれに任じられたが,小早川隆景の死後は,上杉景勝が加えられた。その職務は,五奉行の顧問としての性質をもち,必ずしも一般政務を担当したわけではない。慶長の役 (→文禄・慶長の役 ) の収拾にあたり,秀吉の死後,前田利家が秀頼の養育にあたり,徳川家康が政務にあずかることとなり,自然に五奉行の権限を侵して家康に実権が移り,関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
五大老:徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景(上杉景勝)
2021年出題
豊臣氏の庶政に関する職制の一つ。五大老の下に位した。前田玄以,浅野長政,石田三成,増田 (ました) 長盛,長束 (なつか) 正家の5人がその任にあった。これらの5人が奉行として連署した初見は文禄4 (1595) 年であるが,これは五奉行という制度化された呼称ではなかった。五奉行の成立は慶長3 (98) 年7月頃,秀吉の死の直前ではないかと推測される。以来,秀頼の時代まで続いた。職務の分担は主として前田玄以が公家,寺家,社家,そのほか諸座,諸職に関し,長束正家が知行,兵糧など財政に関し,浅野,石田,増田らが司法ならびに一般行政に関してそれぞれ担当した。大事件については,5人の合議によって処理された。関ヶ原の戦いで崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
五奉行:前田玄以,浅野長政,石田三成,増田 (ました) 長盛,長束 (なつか) 正家
太閤検地(たいこうけんち)は、豊臣秀吉が天正10年(1582年)に開始し、租税賦課の基礎条件を明確にするために日本全土で行った検地(山林を除く田畑の測量及び収穫量調査)。日本初の全国規模の検地であり、従前の荘園制的特権を打破して各土地の収納を円滑にし、貢租(年貢)の徴収を容易にするため、荘・郷・保・里など区分が多々あった田制を統一して村制度を樹立させた。さらには、荘園制的所職を否定して各耕地1筆ごとに1作人(一地一作人)を原則とし、土地は画一的に領主に直属させた。これによって荘園制時代よりも各耕地の所有関係が整理され、日本の近世封建制度の基礎が確立された。天正の石直し、文禄の検地ともいう。この検地は、大化改新・地租改正・農地改革と並び、日本の歴史で重大な土地制度上の変革である。
概要
領主が自領内に課税するにあたり、その基礎資料として自領内の地勢を把握することは非常に重要ではあったが、家臣や領内の有力一族の抵抗が大きいため実施は難しいとされていた。しかし北条早雲に始まる戦国大名の出現で、自らの軍事力と裁判権を背景に独自の領地高権を行使することを可能とした。この行使の一例が検地であった。
織田信長も検地を実施していた(これを信長検地と呼ぶことがある。)が、このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、その重要性を把握していたとみられる。天正10年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。これらの、太閤を名乗る天正19年(1591年)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地と呼ぶ。
この集大成として関白を辞して太閤となった秀吉は、将軍に上納されて叡覧に備用される「御前帳」になぞらえ、検地によって得られた膨大な検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう指令を出して徴収させた。これを「天正御前帳」という。後述するように太閤検地の成果は、権利関係の整理や単位統一が図られた革新的な意味をもつのみでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、その後の制度、経済、文化の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握されたことであり、その意義は大きい。
後に徳川家康も、慶長9年(1604年)に単位を国から郷に改めて御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)。
特徴
土地の権利関係
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を納めることがほとんどであった(地下請)。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。
太閤検地ではこういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者=納税者を定めようとしたが、帳簿の上ではそうなっても、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。
荘園制の終了
太閤検地により、8世紀から始まった荘園の時代は16世紀で終わりを迎えた。何故ならば、すべての農地に責任者が定められ、納める年貢の量も決められたからであった。
単位の統一
太閤検地は以下のような基準で行われた。
結果は石高で計算する。(それまでの貫高から改めた)
数の単位
6尺3寸=1間(約191cm)
1間四方=1歩
30歩=1畝
10畝=1反
10反=1町
田畑は上・中・下・下々の4つに等級づけする。
升は京枡を使う。
これによって表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位がおおまかに統一された。
ただし、この基準で行われたのは天正17年(1589年)の美濃検地が最初で、それ以前の検地がどういった基準で行われたのかは不明である。また、その後の検地でも例外は多数存在する。
数字の正確さ
戦国時代までは農村側が自己申告する形式の検地(指出検地)が多かったが、太閤検地では多くの田畑が実際に計測された(丈量検地)。ただし、越後の上杉氏の領地など、実際に計測していない例も多く存在する。
なお「それまでの石高が年貢を表していたのに対し、太閤検地の石高は生産高を表している」と説明されることがあるが、これは誤りであるとも言われており、太閤検地での斗代・分米が鎌倉時代の荘園制のそれとほぼ近似していることを指摘していて殆どの場合、この石高から「免(=年貢の一定額免除)」が差し引かれた上で年貢が納められた。この事実も石高が生産高ではなく年貢高と認識されていたことを証明している。
ただし、出羽国の石高は明らかに異常で、極端に過少である(18万石以上ある置賜郡のみで出羽国の大半を占めてしまう)。
石高制(こくだかせい)とは、土地の標準的な収量(玄米収穫量)である石高を基準として組み立てられた日本近世封建社会の体制原理のことである。土地の大小や年貢量のみならず、身分秩序における基準として用いられた。
背景
戦国時代にはこれまでの荘園とそれを取り巻く土地制度が解体され、戦国大名による新たな土地支配の体制が確立された。戦国大名は貫高制に基づいて検地を行い、軍役を定めた。貫高制では土地の面積や大まかな質によって年貢高が定められ、実際の収穫高とはほとんど無関係であった。
石高の概念自体は、戦国時代に一部の大名が採用し、織田政権でも土地の評価方法として一部の地域で採用されていたが、本格的な導入は豊臣政権による太閤検地以後であり、徳川政権(江戸幕府)は、それを土台として日本全国の支配を確立させた。原則としては検地丈量を行って石盛を行って石高が確定し、それに基づいた公儀による印判状・判物の発給によって領知高が確定されたが、実際の運用面で検地の数字を重視しながらも経済的・政治的な事情を加味した加減が加えられた「公定の生産高」が石高として算定され、そのために各種の例外が適用された事例も多かった。
導入の背景には、農民層の田畑や屋敷地に対する経済的価値の把握・表記には、実際の収量を元にした石高制の方がより直接的で適切であったことがあげられる(ただし、実際の石高が直接的な表示であったかどうかという点には問題点もある)。更に、土地に対する名請人を実際の耕作者に固定することで、現地の土豪や有力農民による中間搾取を困難にし、彼らの武士化・領主化を排除して、兵農分離の徹底と下剋上抑止の役目を果たした。また、急激な統一政権成立の過程において、従来の惣村と外来の新領主が年貢徴収などを巡って、対立する事例がしばしば見られた。領主側は一円支配確立のために、惣村における複雑な土地関係を整理して把握することで、彼らの抵抗を抑えようとしたのである。
更に近年では、近世日本における貨幣制度の混乱も原因として注目されている。それまで明から宋銭や明銭を輸入し使用していたシステムが、勘合貿易の断絶及び明での貨幣制度の変更による銅銭そのものの衰退(銀及び紙幣による支払体系の定着に伴う国家保証の消滅と、私鋳銭の大量流通による官銭の排除)によって、これまで明の銅銭をそのまま利用していた日本を含む周辺諸国の経済に混乱を与えた。日本ではそれまで鐚銭と呼ばれていた低品質な私鋳銭は、撰銭(排除)の対象であったが、貨幣需要の高まりと銅銭体系の崩壊という2つの現象が衝突し、やむなく一定水準以上の鐚銭を含む私鋳銭によって需要の補完が行われた。しかし、水準以下の鐚銭が大量に出回ることを防げず、貨幣の信用は下落した。幕府は律令制下でごく少量流通していただけの金貨や銀貨を本格的に発行するなどして対応しようとしたが、需要を満たすだけの量は確保できず、また全国的に通用する良質な銅銭を鋳造・流通させる仕組みもなかなか確立できなかったため、16世紀中期から17世紀中期までのほぼ1世紀の間、銅銭を中心とした貨幣の価値と信用は著しく低下した。こうした中で銅銭を基準とした貫高制を維持することは事実上不可能になり、代用貨幣である米による徴税への切り替えを余儀なくされたというのである。
太閤検地
石高制の確立に大きな影響を与えたのは、豊臣政権の太閤検地であるが、実は太閤検地にも時期によって大きく内容が分かれる。前期の太閤検地でも石高制に基づく検地方針は示されていたが、臣従したばかりの地方の有力大名に対して貫徹させるまでには至らなかった。全国統一が完成した翌年の1591年(天正19年)、豊臣政権は諸国に対して一国御前帳の提出を命じているが、これは翌年の人掃令と合わせて朝鮮出兵に備えた兵粮・軍役負担を確保するために、大名の領知高を確認する点を優先しつつも日本全国の土地を同一の基準をもって把握しようとしたのである。ただし、注意すべきは「大名の領知高を確認する」という点である。例えば、長宗我部氏の土佐一国9万8千石は実際の検地によるものではなく、同氏の動員可能兵力からの逆算と言われ、佐竹氏や島津氏などに対しては石田三成ら奉行が政治的必要(軍役負担などの観点)から石高を操作していたことが知られている。更に領内で米がほとんど獲れず、もっぱら貿易による利益に依存していた宗氏や松前氏は実際には無高もしくはそれに近いにもかかわらず、利益から計算された形式上の表高が与えられていた。また、一部の地域では国人や農民による一揆を恐れて検地そのものを行われなかったと言われている。もっともそうした地域でも全国的な流れの中で石高表記への移行は受け入れざるを得ない状況になっていった。
『石高制』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6
参考:『石高制 (こくだかせい)』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6-264938#w-835150
参考:『【織豊政権】石高と石盛と石高制がわかりません』進研ゼミ高校講座 https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13x0107.html
石高と石盛の違いですが、石高は土地の生産力を米の量(収穫高)で表したもので、石盛に面積を乗じて算出されます(石高=石盛×面積)。一方、石盛はこの石高を定めるために決められた田畑などの1段あたりの生産力をいいます。
くわしくは、リンク先へ
惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。
惣無事(そうぶじ)が成立したことで中世の私戦、私的執行、私刑罰などはほぼ禁じられることとなり、裁判権や刑罰権を武家領主が独占する公刑主義へと移行したとされる。藤木久志によって提唱され定説化したが、後述する通り様々な批判がなされ議論となっている。
惣無事令は、1585年(天正13年10月)に九州地方、1587年(天正15年12月)に関東・奥羽地方に向けて制定された。惣無事令の発令は、九州征伐や小田原征伐の大義名分を与えた。特に真田氏を侵略した後北条氏は討伐され北条氏政の切腹に至り、また伊達政宗、南部信直、最上義光らを帰順させる事に繋がった(奥州仕置)とされる。この惣無事令によって、天正16年の後陽成天皇の聚楽第御幸の際など、参集した全国の諸大名から関白である秀吉への絶対服従を確約する誓紙を納めさせ、その違背に対して軍を動員した包囲攻撃のみならず、一族皆殺しを含む死罪・所領没収ないし減封・転封といった厳罰を与えた。いわば、天下統一は惣無事令で成り立ち、豊臣政権の支配原理となったのである。
『惣無事令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
喧嘩停止令(けんかちょうじれい)は、中世日本において制定されていた農民の武力行使を制御することを目的とした法令。豊臣秀吉が制定した「秀吉の喧嘩停止令」と、徳川秀忠・徳川家光らが制定した「徳川の喧嘩停止令」がある。
豊臣秀吉が制定した喧嘩停止令は、様々な文献からの「判例」という形で、そうした法令が存在していた事実を示すに留まっており、具体的にどのような法令でいつ制定されたのかに関しての詳細はわかっていない。こうした判例が用いられた最も古いものは1587年(天正15年)の春であり、1588年(天正16年)に制定された刀狩令や海賊停止令よりも前に成立していた可能性がある。
秀吉の刀狩令には全ての農民の武器を没収することが表明されていたが、実際には武器の所持を禁じたというよりも帯刀権や武装権の規制という形が主で、村々には多くの武器が留保されていた。武力を行使した騒乱の可能性は内在したままであり、そうした前提のもとに騒乱を禁止する目的法として喧嘩停止令が制定されていたと考えられている。
『喧嘩停止令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
◎参考:『「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる』 #東洋経済オンライン @Toyokeizai https://toyokeizai.net/articles/-/411584
秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。
その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。
それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。
もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。
たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。
日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」
大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。
この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。
こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。
「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。
ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
◎参考:『謎と疑問にズバリ答える!日本史の新視点』新晴正(青春文庫) https://amzn.to/3KLrw4i
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◎参考:『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか 世界遺産「潜伏キリシタン」の真実』三浦小太郎 ハート出版 目次→ https://www.810.co.jp/hon/ISBN978-4-8024-0067-1.html
◎『バテレン追放令』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreにし、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。
原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。
概説
織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国の天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1] 。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった。天正14年(1586年)3月『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟・秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[要出典][注 3][注 6][注 7]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。(←出典を求められている文章)
バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった。バテレン追放令以降の秀吉の書簡はキリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]、神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した。追放令以降も秀吉は三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道、儒教、仏教)の敵として名指しで批判している。
欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている。ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している。
刀狩(かたながり、刀狩り)は、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。
天下を統一しつつあった豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。
豊臣氏の刀狩令
豊臣秀吉が1588年(天正16年)に発した刀狩令は次の3か条からなる。
第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺大仏(京の大仏)の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
また、没収された武器類は方広寺大仏(京の大仏)の材料とすることが喧伝された。
この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と淡路国の加藤嘉明などの近侍大名・武将の一部、畿内・近国と主要寺社に限られる。だが、豊臣政権の法令は、天正18年(1590年)8月10日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた[13]。
秀吉は、関白就任3か月前の1585年(天正13年)3月から4月に根来衆・雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている[14]。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。
『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。
ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国(佐賀県、長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。
ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている[15]。刀狩りは、1人当たり大小1腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い[16]。
秀吉は、刀狩に先行して、1587年(天正15年)ごろ、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の水利や里山、草地などの権利や、他の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあったがそれらを防止した[17]。この施策は江戸幕府にも継承された。
さらに、天下統一後の1590年(天正18年)「浪人停止令」で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出したが、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示した。一方、武家奉公人の農村内での武器の所持を例外として認めていた。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んで地侍になっており、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。
『刀狩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
海賊停止令(かいぞくていしれい、かいぞくちょうじれい)は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が出した海賊衆(水軍)に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。
令の名称は通称であり、海賊禁止令(かいぞくきんしれい)、海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)、海賊鎮圧令(かいぞくちんあつれい)など幾つかの呼び方がある。
当時の海賊
日本史(特に南北朝時代以降)における海賊は、沿海における豪族という面を持っていた。大名が領地を持つように海上に縄張り(海上権、海上支配権)を持ち、さらに相互の連合組織を持つなど、一定規模の組織で活動していた。そのため国人衆や一向衆(一向宗ではない)がそう呼ばれるように、単なる海賊と分けて「海賊衆」と呼ばれる。一般的な意味での海賊のように、沿岸地や商船を襲うこともあったが、大名や商家の依頼を受けて船舶の警護(警固)を行うことも主要な活動の1つであった。特に室町幕府は勘合貿易に際して、彼らを承認する代わりに警固の役を課した。そのため海賊衆は「警固衆」とも呼ばれた。関連して、彼らが護衛名目で取る金銭を「警固料」、警固の依頼や料金徴収するために揚陸港などに設置した施設を「警固関」と言う。
室町時代後期に幕府の権威が衰えて権力が分散すると、各地の海賊衆も政治的な自立を行い、その地位を確立する。ある大名に服するのではなく、あくまで対等な関係、もしくは傭兵として振る舞い、大名などとは独立した組織として活動した。そのため、時勢に応じて臨機応変に支持大名を変えるということもよくあった。それを可能にした1つの要因として、貨幣経済・物流の発展などによって警固料収入が増加したことが挙げられる。
戦国時代後期になると有力大名が海賊衆を臣下に納め水軍とすることも多くなり、石山合戦での織田方と毛利方水軍の大阪湾上の海戦(第二次木津川口の戦い)を最後に海賊衆の自立的な地位は失われていく。そして、豊臣秀吉による天下統一直前の天正16年(1588年)に海賊停止令が出される。
海賊停止令
豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に刀狩令とほぼ同時に海賊停止令を全国に発布する。
これは海賊衆に対して、
豊臣政権体制の大名となる
特定の大名の家臣団となる
武装放棄し、百姓となる
のいずれかを迫るものだった。
また、同時にそれまで海賊衆に与えられていた警固料を徴収する権利も禁止したことで、海賊衆というそれまでの特別な地位の存在その物を否定した。この命令によって日本史における海賊衆は姿を消すことになる。
法令の目的
第一には、その条文が示すように、同年に出された刀狩令と同等の兵農分離策だったと考えられる。海賊の中には漁民を兼ねている者たちもおり、また、一揆に加担する場合もあった。
第二には、海上輸送に関してであり、豊臣政権は、海商を政権下に組み込むことによって海外貿易や海上物流の支配を狙っていた。特に、朝鮮出兵を控えた時期であり、軍事的側面からの海上輸送力確保の意味もあった。海外貿易についても中国の明朝との勘合貿易の復活に向けての地ならしの時期でもあった。
『海賊停止令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
参考:『5分でわかる!文禄の役』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12787/
参考:『5分でわかる!慶長の役』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12787/point-2/
ぶんろくけいちょう‐の‐えき‥ケイチャウ‥【文祿慶長役】
文祿元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけての、二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争。文祿元年、大陸進出をはかる秀吉は、征明のための道案内を朝鮮王に命じ、回答が得られなかったことを理由に出兵。加藤清正らを派遣して漢城(現在のソウル)をおとしいれ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破り、和議を約したが、講和の条件が秀吉の要求を全く無視したものであったため、慶長二年再び出兵。しかし戦局は進展せず、翌三年、秀吉の死により中止された。この戦いの結果、印刷・陶業の新技術、多くの典籍がもたらされたが、豊臣氏の滅亡を早めもした。朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱という。
出典 精選版 日本国語大辞典 https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E7%A5%BF%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%BD%B9-2081006#w-2110491
参考:『文禄・慶長の役』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。
日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったともされる。
未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて独断で国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と朝鮮には衰退の原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を被ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして代償を得た大名もあった。
名称
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われた戦役であるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。
背景
日朝関係前史
隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。
663年に、唐・新羅連合軍と大和朝廷・百済連合軍が衝突した白村江の戦いがあり、大和・百済側が敗北した。これ以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入をやめてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた[25]。他方、812年から906年までの間、小規模な海賊による新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。1019年には、高麗(及び傘下の女真族)による刀伊の入寇があった。
1224年から5回に渡って、高麗の金州(現慶尚南道金海市)や巨済島などに初めて倭人の海賊が襲来。後に倭寇と呼ばれる海賊の活動が始まった。高麗は大宰府に海賊取締りを要請し、少弐職にあった武藤資頼は大使の目の前で海賊90名を処刑させた[31]。その後、モンゴル軍の侵攻を受けた高麗は元に降伏。珍島や済州島に逃げた三別抄が1271年に日本に救援を求めるが、無視された。
1274年と1281年に元率いる軍勢(モンゴル人、南宋人、高麗人)が日本の九州北部に侵攻する、いわゆる元寇があった。北条時宗の鎌倉幕府が二度に渡って撃退するが、対馬・壱岐では虐殺や童女・童子をさらって奴婢とするなどの蛮行があった。その後、日本は動乱期を迎えて南北朝時代の1350年頃から倭寇(庚寅倭寇)が活発化したという前後関係から、倭寇は元寇への報復であったという主張は安土桃山や江戸時代にすでに語られていたようだが、現代の歴史学では倭寇と海賊衆の実態から考えればその指摘は正しくないというのが定説である。むしろ承久の乱で敗者を支持して厳しい立場となった西国武士団が海に活路を求めたのを始まりとし、室町幕府の内紛(観応の擾乱)によっても同様のことが起きて、九州探題今川了俊が南朝勢力を降したときにも、さらに船団で海外に脱出する者が増えたと考えられていて、江戸末期の『日本防考略』でも倭寇をして「日本あふれ」と定義していた。
朝鮮半島と日本列島との関係
倭寇の襲来におびえる高麗では、軍備が荒廃して満足に戦えず、倭人(投化倭人)を巨済島や南海県などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動はやめず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけでなく奴婢の獲得を狙うようになり[35]、逃亡した禾尺・才人といった高麗賤民なども倭寇の側に合流した[31][注 23]。1375年には家臣団を連れて投降した倭人の藤経光を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「倭寇猖獗」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。1380年には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が称賛される倭寇500隻 の大襲撃があった。高麗は海賊取締を要請したが日本の北朝に無視されたため、1389年、対馬に軍を差し向ける康応の外寇を行ったといわれている[注 25]。
高麗が滅び朝鮮に代わると、太祖李成桂は日本に禁寇を要求した。1392年、南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの足利義満は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊に倭寇取締が命じられた。了俊はさらに守護大名大内義弘に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。朝鮮側がいう1396年の壱岐・対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)の際に壱岐・対馬を慶尚道管轄下だと主張、保有船の3分の1以上を超える227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵略した。ちょうどこの頃、明の永楽帝との関係がこじれていた時期で、将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった[23][35]。幸い、この外寇は宗貞盛の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった。前期倭寇は、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の乱という副産物を生んだ。
後期倭寇は、1511年にポルトガルがマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年に寧波の乱が起きるなどして、勘合貿易が途絶えて、明王朝の海禁政策を逃れた中国人が増える状況で、再び活発化した。歴史学者村井章介らの研究 などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国の環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の明王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築されてシフトしていったという。後期倭寇は禁制を破った中国人や南蛮人なども混在した集団となったことで、襲撃の主な標的は朝鮮半島からもっぱら中国沿岸に移った。
しかし朝鮮でも1544年に後期倭寇による蛇梁倭変が起こり、通交統制がさらに厳しくなって天皇と大内氏・少弐氏の使節以外の日朝通交が禁止された。これに困った宗氏が偽使を用いて朝鮮と締結したのが、1547年の丁未約条である。この時、対馬宗氏が朝鮮に駿馬を求め、朝鮮が日本に服属している旨を明朝に伝えたとの報告を行った。これに対して朝鮮の司憲府大司憲林百齢は激怒しているが[注 27]、日朝間の立場は明と対馬の宗氏とを介して複雑に絡み合っており、後の文禄の役の原因の一つともなる。(後述)
嘉靖帝の時代の武力による海禁政策の厳格な施行で、かえって海外に拠点を持つ後期倭寇の活動は過激化して最盛期となった。王直などの中国人大頭目が率いる倭寇が、五島列島などを根城に活躍したのはこの頃である。1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には乙卯の倭変があり、倭寇が明の南京や朝鮮の全羅道を侵した。また1555年には達梁倭変があり、1557年に丁巳約条が締結された。後期倭寇はポルトガル人貿易と競合し、明の取締強化と、群雄割拠した戦国大名が勢力圏を広げて日本側の根拠地を追われたことで、衰退。1588年、秀吉の海賊停止令発布によって終息した。
日明関係前史
1402年、足利義満は京都北山に明使の返礼を受け入れて建文帝の冊封を受諾した。中国で靖難の変が起こったため、1404年に永楽帝が改めて義満のことを「日本国王」として冊封して金印を下賜した。以後1547年までの150年間で19回に及ぶ遣明船(勘合船)が出されて、勘合貿易が交わされた。これは実質的には朝貢であったが、10年1貢[注 29] という特異なものであった[38]。義満は冊封儀礼も行っていたとされるが、次の4代将軍足利義持は外交方針を改めて1411年に冊封関係は断絶された。6代将軍足利義教が一時復活させるが、以後も途切れがちで、勘合貿易を独占していた大内氏の滅亡(1551年)によって、日明関係はほぼ断絶した。
中朝関係前史
モンゴルの高麗侵攻以来、元朝の属領となっていた高麗は王統がモンゴル貴族化していたが、恭愍王の代になって紅巾の乱で中国が混乱したことで元の統治が弱まり、自立を目指すようになった。王は元の皇后を出した奇氏(奇皇后)の勢力を粛清して独立を図ったが、倭寇と紅巾軍に悩まされて国内外は混乱。成立間もない明の冊封を受けようとしたのが理由で、恭愍王は親元派に暗殺された。高麗は一時的に北元との関係を復活させるが、この内乱を制した武人の李成桂が、1392年に禅譲を受けて主君恭譲王から王位を継ぎ、明の洪武帝から「朝鮮」の国号と権知高麗国事の号を賜って、朝鮮を創始するに至った。一方で、2年後に旧主を含む高麗の王統は皆殺しにされた。
朝鮮でも日本と同様に、1401年に明の建文帝から第3代の太宗が誥命と金印を下賜され、中国で靖難の変があって、1403年に永楽帝が改めて太宗を「朝鮮国王」として封じて、正式に冊封体制に入った。しかし朝鮮は、日本よりも交流が密で、年に3回[注 30] の朝貢使節を送るという1年3貢[注 29] を行った。これら4節には望闕礼を執り行うこととなっており、朝鮮王と王世子は明制の官服である冕服を着て、王城漢城より明の皇帝に向けて遥拝儀礼を行って、百官と共に万歳三唱した。
このように、明の蕃王である朝鮮国王の臣下としての立場は明確であり、後に秀吉が明遠征を先導せよなどと唆したことは全く受け入れられない要求であった。
1591年5月、秀吉の国書を受けた朝鮮(後述)では、宗主国である明に奏聞するべきかどうか議論になった。東人派の間では情勢の不明の内に奏聞するのは混乱させるだけで、波風を立てると否定的で、奏聞の代わりに聖節使に任命した金応南に事情を説明させることにした。ところが明では、すでに4月に琉球を訪れた商人陳申が通報し、それが福建と浙江の巡撫という地方官僚を介して正式な報告として上げられていた。しかも内容は日本が明侵攻を計画し朝鮮がその先導役となるというものであって、明は朝鮮が日本と共謀しているのではないかとの疑念を抱いていた。遼東巡撫に兵を派して国境の警備を固めさせるとともに、朝鮮の情勢を内偵させた。
明は8月に来訪した金応南の説明に満足し、朝鮮節使を慰労して銀2万両を送った。ところが、入れ替わり遼東都司から征明嚮導の真偽を詰問する文書が、同じ頃に朝鮮朝廷に届いて彼らは驚愕した。慌てた朝鮮朝廷では、柳成龍と崔岦が作成した朝鮮国王名義の陳倭情報奏文[39] を韓応寅に持たせて急派した。その間も9月には薩摩の在日明国人の医師許儀俊の「すでに朝鮮は日本に服属して征明嚮導に協力しようとしている」[40] という追いうちとなる報告が明にあり、また琉球王国からも使者が来て奏聞された。鄭迥や蘇八といった帰化中国人の複数の情報筋からも、朝鮮が日本に服属したという内容が明には届けられていた。
1592年正月頃に明の朝廷に陳奏文が提出され、改めて日朝交渉の経緯を詳しく説明したが、朝鮮通信使を日本に送った事実はひた隠しにされ、中国人による通報などは朝鮮に対する誣告であると非難するばかりで、日本の出兵計画を大それたことで虚偽だと片づけていた。このため結果的に明が「征明嚮導」の疑念を払拭するには至らず、戦役が起こった後も、明の猜疑心は消えなかった。むしろ(朝鮮がないと言っていた)朝鮮出兵が現実のものとなったことで明側の疑念は深まったのであった。遼東の明将らは朝鮮朝廷を難詰し、指揮権の統一にも反対して、朝鮮民衆の日本軍協力を疑い、朝鮮に対しては一定の距離を置いた[40]。
朝鮮の内情
権威の後ろ盾を明に求めた李成桂は、軍師であった鄭道伝の進言により、国内を、仏教を崇めた高麗時代とは一転して、朱子学を国教[注 31] とすることで道徳秩序のある儒教国家として繁栄させようとした。しかし鄭自身が王子の序列争いに巻き込まれて斬首されるなど朝鮮王朝の動乱は収まらなかった。兄達を蹴落として王位を奪った李芳遠の後を継いだ世宗以後の君主は平和に腐心して儒学思想を極端に信奉するようになったが、かえって人臣の間に家長的名分主義や排他主義が蔓延し[41] かつ争いは止まなかった。官人となるためには誰もが儒学を学ばねばならなかったが、書院ごとに儒生は徒党をなして、官人になってからも先輩につき従って政権掌握を目指すようになって、士禍と党争が始まったからである。勲旧派(中央貴族層)と士林派(新興両班層)との争いの次は、士林派から分裂した東人派(改革)と西人派(保守)の争いがあり、東西両派の争い時に文禄の役が始まったが、東人派はさらに南人派と北人派に分裂するなど、戦時下にもかかわらず一向に党派争いは収まらず、団結することはなかった[42]。結果としては朝廷の秩序はしばしば乱され、王や后、王子、外戚、中央と地方の両班が、絶え間ない勢力争いに明け暮れて、陰謀や粛清を数世紀に渡って続けたことで、国力は浪費され、人臣には混乱が生じ、国家は衰退をきたした。
→詳細は「士林派」、「勲旧派」、「西人」、「東人」、「北人」、「南人」、および「士禍」を参照
このような内紛を繰り返した李氏王朝から民心が離れていた、日本側に協力する民がいたほどであったという内容の記述は、ルイス・フロイスの著作にも見られる。当時の朝鮮王である宣祖(李昖)は、儒学の発展と講学には非常に熱心であったが、極端に権威主義的で、しばしば逆鱗に触れて家臣に厳罰を降す気まぐれな王で、政治に飽き、徳がなく、人民に好かれていなかっただけでなく、後の両戦役の章で述べるがいくつもの致命的な判断の誤りを犯した。このため朝鮮の史料においてすら、宣祖実録(25年5月の条)には「人心恨叛し、倭と同心」と認め、宣祖が「賊兵の数、半ばが我が国人というが、然るか」と臣下に尋ねたと記述されており、王都を捨てて逃亡する王には、民事を忘れて後宮を厚くすることを第一として金公諒(寵姫仁嬪金氏の兄)を重用したと非難が集まり、投石する百姓が絶えずに衛兵もこれを止めることができなかったという[43]。また、金誠一の『鶴峯集』にも「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」[44] という記述があった。(後述)
『壬辰戦乱史』の著者である李炯錫によれば、朝鮮が「分党政治と紀綱の紊乱、社会制度の弊害と道義観の堕落、朝臣の無能と実践力の微弱性、軽武思想と安逸な姑息性、事大思想と他力依存性、国防政策の貧困」などの弱点を露呈していたことが侵略を受ける間接的要因となったと総括する[45]。また後述するが、当時の朝鮮半島の人口は日本の
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に過ぎなかったことも留意したい。
動機に関する諸説
秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐、すなわち「唐入り」を行った動機については古くから諸説あるが、どれも確証には至っておらず[45]、歴史上の謎の一つであると言われている。 動機について現在知られている説は以下の通り。[注 32]。
豊臣秀吉の嫡男(次男)であったが、夭折してしまった鶴松(棄丸)(妙心寺所蔵)
『本朝智仁英勇鑑』加藤主計頭清正
『朝鮮戦役海戦図屏風』昭和16年前後/太田天洋(明治17-昭和21)
狩野内膳の『南蛮屏風』
イエズス会員と日本人
鶴松死亡説(鬱憤説)
1591年(天正19年)正月、征明の遠征準備を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟である豊臣秀長が病死、さらに8月には豊臣鶴松の死という不幸が相次いだ。秀吉は相次ぐ身内の死に悲嘆に暮れたが、その極みに至って、却って自らの出陣と明国を隠居の地とする決意を新たにしたと、秀吉と同時代人の貴族である近衛信尹が『三藐院記』にて記している[46]。征明の決意を公に表明したのは愛息の死の直後であった。林羅山はこれを受けて『豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らしで出兵した」という説を書き[47]、『朝鮮征伐記』など様々な書籍でも取り上げられている。しかし、二人が死ぬ以前より「唐入り」の計画はすでに実行段階に入っていたと考えるのが自然であり、順序から考えれば(秀吉が彼らの訃報にどう接したかは別として)これを動機と直接結びつけるのは不自然な点が多い。東洋史学者池内宏も同様の批判をした上で「後人のこじつけ」であると否定的に評した[45]。
功名心説(好戦説/征服欲説)
遠征動機を秀吉の功名心とする説の根拠は、秀吉が朝鮮に送った国書に「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と端的にその理由を述べている点にある。このため動機の一つであることは容易に推定できるのであるが、江戸前期の儒学者貝原益軒[注 33] が、欲のために出兵するは“貧兵”であり、驕りに任せた”驕兵”や怒りに任せた“忿兵”でもあって、天道に背いたが故の失敗であったと批判したのを皮切りとして、道義に適わぬことがしばしば問題とされた。道学者の道徳的批判に過ぎないと言えばそれまでだが、功名心に対する価値観は(第二次世界大戦の)戦前と戦後でも劇的変化があり、動機と評価を合わせて考える場合は、英雄主義による賛美が大義なき戦争という批判に変わったことに留意すべきであろう。歴史家徳富蘇峰は秀吉を英雄と賛美しつつも遠征動機を端的に「征服欲の発作」と述べた[48]。
動乱外転説
江戸後期の儒学者である頼山陽も、国内の動乱を外に転じるための戦役だったという説を唱えて有名だった。明治期の御雇教授マードックも、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であったという見解を示した。『日本西教史』の著者ジャン・クラッセの場合は「太閤は日本の不平黨が叛逆すべき方便を悉く除去せんと欲し、その十五萬人を渡海させしめ」船を呼び戻して「軍隊再び日本に帰るを妨げ、飢餓困難に陥り死に就かしめんと欲する」[49] とまで細かく書いている。しかし、この説の矛盾は、秀吉が遠征の失敗を予期したことを前提にしている点である。実際に出征した諸将を見れば、子飼い武将を含む譜代や外様でもより身近な大名が中心で、徳川家康のごとき最も警戒すべき大老は出征しなかった。豊太閤三国処置などから判断すると出征した諸将に大きな報奨・知行を与えるつもりで、逆に秀吉は遠征の成功を信じて疑わなかったのである。池内宏はこれを「机上の空論」と評し[45]、(敗北主義的な頼山陽の説が気に入らない)蘇峰も国内の諸大名に「秀吉に喰って掛るが如き気概はなかった」として「架空の臆説、即ち学者の書斎的管見」と完全否定している[50]。
領土拡張説
急成長を遂げてきた豊臣家は、諸将の俸禄とするために次々と新たな領地の獲得を必要としていたという説は、戦国大名としては当然のこととして当初より検証なく受け入れられてきた。功名を立てることと領土獲得はしばしば同じことであるため両説は重複して主張されることがあるが、歴史学者中村栄孝は秀吉は名声不朽に残さんがために「当時わが国に知られていた東洋の諸国をば、打って一国と為すのを終局の希望として、海外経略の計画は進められていた」[51] と大帝国建設が目的だとし、「政権確立のため、支配体制の強化を所領と流通の対外的拡大に求め、東アジア征服による解決を目指していた」[45] とも述べた。また、中村は「その目的も手段も、殆ど海内統一に際して群雄に臨んだ場合と異なることがなかった」[51] と書状等から分析し、諸国王が諸大名と同様に扱われたことを強調。蘇峰も秀吉は朝鮮を異国とは思わず「朝鮮国王は、島津義久同様、入洛し、秀吉の節度に服すべきものと思った」とした[52]。これらの見解は、天下統一の達成が日本列島に限られるという現代の国境概念の枠中で考えることを否定するものでもあった。
勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)
秀吉の戦略は可能な限り平和的手段で降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易の復興や通商貿易の拡大を目指したときに、朝鮮が明との仲介要請を拒否したことが、朝鮮出兵の理由であったという説は、日本史学者田中義成や辻善之助、柏原昌三など多くの学者が唱えてきたものである。秀吉の平和的外交を強調する一方、侵略の責任の一端が朝鮮や明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判を受けた説であったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易が当初からの目的と考えるには根拠が薄いことである。
歴史学者の田保橋潔が「どの文書にも勘合やその他の貿易についての言及はない」[45] と批判したように、肝心の部分は史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉をあまりにも近世化した見解」ではないかと疑問を呈した[53]。日明交渉において突如登場した勘合貿易の復活の条件が主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服の不可能なるを覚った後、所期の結果とは別に考慮されたものに他ならない」[54] と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉が万暦帝の臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封」の意味を秀吉本人が理解していなかったという説[38] もあって、慶長の役の再開理由が単に朝貢(勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たないと指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授三鬼清一郎は領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議を唱え、対外領土の拡張も対明貿易独占体制の企ての一部であるとした。また歴史学者鈴木良一は、豊臣政権の基盤は弱く商業資本に依存していたと指摘し、商業資本による海外貿易の拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした[45]。
国内集権化説(際限なき軍役説)
国内の統一や権力集中あるいは構造的矛盾の解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権の統治体制が未完で終わったために検証できないものが多いのが難点である。
日本史学者である佐々木潤之介の話によると、「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」[45] と指摘した。同じく朝尾直弘も家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし[55]、朝鮮出兵による軍賦役を利用して身分統制令を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた[45]。貫井正之教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した[45]。
日本史学者の山口啓二も「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、兵農分離によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した[45]。
国内統一策の延長説
これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者の藤木久志も天下統一=平和を目指す秀吉にとって惣無事令こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」[45] と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した[45]。
東アジア新秩序説
下剋上で生まれた豊臣政権は、従来の東アジアの秩序を破壊する存在であったとする説。明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島の領有を巡って争った日清戦争の前史のように捉えるものであり、明治時代前後に支持を得た。しかし頼山陽の『日本外史』にある秀吉が日本国王に冊封されて激怒したという有名な記述は近代以前に流布された典型的な誤解[38] であり、基本的な史実に反する点があった。史料から秀吉自身が足利義満のように望闕礼を行ったと十分に判断でき、史学的には秀吉が意図して冊封体制と崩そうとしたという論拠は存在しないといっていい。
しかし一方で、16世紀と17世紀の東アジアにおける明を中心とする国際交易秩序の解体によって加熱した商業ブームが起き、この時期に周辺地域で交易の利益を基盤に台頭した新興軍事勢力の登場を必然とし、軍事衝突はこの「倭寇的状況」が生み出したという岸本美緒教授や、「戦国動乱を勝ちぬいて天下人となった豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって、国際社会に臨んだのは、当然のなりゆき」[45] という村井章介名誉教授など、秀吉が冊封をどう考えていたかに関係なく、統一国家日本が誕生したこと自体が東アジアの国際情勢に変動を促した要因であったとする東アジア史からの指摘もある。論証も十分ではないという批判[45] もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。
また、ケネス・スオープ米ボール州立大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)が「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べ[注 13]地政学的見地から日中衝突の必然性をもって説明する学者もいた。
こうした見方に対して、東洋史学者の新宮学は秀吉が述べたとされる『豊太閤三国処置太早計』から読み解けるのは、秀吉の発想は完全な明の冊封体制の焼き直し(従来の東アジアの秩序の継承)に過ぎない、としている(詳細は後述)[56]。
キリシタン諸侯排斥説
ルイス・フロイスやジャン・クラッセ、『東方伝道史』のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師達が主張した説で、「基督(キリスト)信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、若し支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん」[57] と秀吉が考えていたという。
戦役がバテレン追放令やキリシタン弾圧と重なり、同じ頃フィリピンやインドに伸ばした秀吉の外交が彼らの目にはキリスト教世界全体に対する攻撃と映っていた可能性はあるが、小西行長を筆頭としてキリシタン大名は排斥されておらず、そのような事実はなかった[58]。動乱外転説に似ているが、排斥対象がキリスト教徒に限定されているところに特色がある。
元寇復讐説
秀吉が元寇の復讐戦として文禄慶長の役を起こしたという説は、辻善之助が「空漠なる説」[45] と一蹴しており、事実とはかけ離れたものである。しかし、特に根拠のない俗説の類であるとしても、朝鮮の書物においても交渉当事者であった景轍玄蘇が言及していたことが記録されており、信じる者は当時からいたようである。
しかしそれ以外でも大名や武士の間でも噂にあり、この当時ではないが遡ること信長が討たれ明智を討つと権力を掌握した時に、予想のできなかった信長の死という悲しみと混乱の中で、まずこれから国をどうするか真っ先に取り掛かる問題として、外国からの侵略対策の問題に真っ先に当たらないといけないとの考えを強く持っており「日本は以前外国から国の存滅に関わる大きな攻撃を受けたこと(即ち元寇の意)から、それをどうにかしないといけない」と来る日も来る日も悩んでいたという側近の記録が残っている。天下統一の最初から、国内ではなく海外の中での日本をどうするかで頭を中でいっぱいであった。それ故に、その兆候に沿ったことを生涯で他にはほとんど行っておらず晩年になって該当するその通りに実行していることから、朝鮮出兵は最初からその未来の構想を立てていて人生の最後にそれを実行した可能性や影響を受けた一つの理由とも考えられる。
朝鮮属国説(秀吉弁護説)
異端の儒学者山鹿素行が主張したもので、神功皇后の頃より「凡朝鮮は本朝の属国藩屏」なのだから従わぬ朝鮮を征伐して「本朝の武威を異域に赫(かがやか)すこと」は至極当然であるというもの[59]。功名心説(好戦説)が道義的批判を受けた反撥から生まれた儒者的論法だが、動機や原因というよりも単なる称賛であり、しかも朝鮮征伐は本来の目的ではなく秀吉に古代の知識があったかも疑わしいとして、国家主義者の蘇峰すら「恰好たる理屈を当て嵌めたものに過ぎぬ」[60] と評した。
原因
秀吉の唐国平定構想
豊臣秀吉坐像(狩野随川作)
秀吉は、日本の統一を完成させるよりもかなり前から海外侵攻計画を抱いていた。これは秀吉が仕えた織田信長の支那征服構想[注 34] を継ぐものだったと広く信じられているが、実はこの説は根拠に乏しい。信長の夢に従って朝鮮に近い筑前守を請うて拝命したというのも俗説である。『朝鮮通交大紀』に現れる明との貿易を開こうと通交の斡旋を朝鮮に仲介を依頼した者(右武衛殿)を信長であるとするのは人物誤認であって[61]、これを基に信長の遺策を秀吉が受け継いだという説[62] がかつてあったが、それは辻褄が合わない[61] のであり、信長の影響については想像の域を出ない。
天正5年(1577年)10月、信長から播磨征伐を命じられた秀吉が「中国征伐の後は九州を退治し、更には進んで朝鮮を従へ、明を征伐する許可を請うた」という有名な逸話[63][64] は、堀正意が『朝鮮征伐記』に載せて江戸時代から広く信じられており、原典を確認できないので史実とは明言できないが、何らかの由来があった可能性はある。
しかしながら秀吉本人が海外進出の構想を抱いていたことを示す史料は、天正13年(1585年)以降のものに存在し、史学的には1585年が外征計画を抱いた初めであろうとされる[45]。関白就任直後の同年9月3日[注 35][65]、子飼いの直臣一柳市介(直盛の兄)の書状で「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という記述がそれである[55]。
天正14年(1586年)3月[55] には、『日本西教史』によると、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言ったという記録がある[66][67]。
同年4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかの「高麗御渡海事」という箇所で外征の計画を披露し、6月の対馬宗義調への帰順を促す書状でも九州のことが終わり次第、高麗征伐を決行すると予告した[65][68]。また8月5日の安国寺恵瓊と黒田孝高への朱印状でも、九州征伐の後の「唐国」ついても沙汰があったと記述があった[69]。
天正15年(1587年)になると登場頻度は増え、話も徐々に具体化した。九州征伐の後、泰平寺で相良家家臣で連歌師の深水宗方に謁見した際、秀吉は「もはや日本もすでに統一した。この上兵を用いるならば高麗琉球ならん」[69] と述べて和歌を所望。宗方はこれに応えて、「草も木もなびきさみだれの 天のめぐみは高麗百済まで」と詠んで、大いに気に入られたという出来事があった。5月9日、秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において、「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している[70]。6月1日付で本願寺顕如に宛てた朱印状の中にも「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している[71]。
妙満寺文書(5月29日付)によれば、秀吉は北政所に宛てた手紙で、壱岐対馬に人質を求めて出仕を命じただけでなく、朝鮮に入貢を求めて書状を出したこと、唐国まで手に入れようと思うと述べていた[72]。
秀吉の唐国平定計画は、長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性があった。明への入朝要求はことごとく無視されたことから、その道中の朝鮮は前段階となった。(後述) 九州征伐の後に日朝交渉は始まっていて、鶴松の誕生や小田原征伐、大仏建立などで中断はあったが、以後はもはや遠征は単なる構想ではなかった。
天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書には「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されている[55][73] が、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。(関連話)
日朝交渉の決裂
征明嚮導
天正15年(1587年)5月初旬、薩摩川内に在陣中に(すでに秀吉に帰順していた)宗義調の使者として佐須景満[注 36] と家臣の柳川調信、柚谷康広の3名が来て、秀吉に拝謁を願い出た。彼らは秀吉が前年に予告した朝鮮出兵(高麗征伐)を何とか取り止めてもらい、貢物と人質を出させることでことを済ませることはできないかと請願に来たのである。しかし、九州征伐を成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球、朝鮮だと考えており、聞き入れなかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し[68]、それが無い場合は征伐するとした[注 37]。そして彼ら宗氏を朝鮮との交渉役に命じて、入朝を斡旋させる任務を与えた。6月7日、帰路の箱崎で宗義調と宗義智の親子に謁見して、直にその旨を重ねて厳命した。このように宗氏に強い態度に出た背景としては、琉球が島津に従属したように、朝鮮も対馬に従属していると秀吉が誤解していたためである[74]。ルイス・フロイスも「朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いていて、このような認識は秀吉に留まらず、当時の一般的なものであったことが分かっている[40]。ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か100石に過ぎず、対馬・宗氏は朝鮮貿易に経済を依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。前述のように偽使を用いて苦労して朝鮮との関係を修復したところだった。秀吉の難題への対応を苦慮した彼らは形式的にでも双方を満足させねばならず、折衷案がないかと模索した。
9月、宗氏は柚谷康広を日本国王の偽使(橘康広)として渡海させ、秀吉の日本統一を告げたうえで、新国王となった秀吉を祝賀する通信使の派遣を朝鮮側に要請した。これは通信使を朝鮮国王入朝の代わりとして事態を収めようという配慮であったが、朝鮮側は書簡の文言が傲慢であると主張し、朱子学に凝り固まった宣祖も「これまでの国王を廃して新王を立てた日本は簒奪の国であり」[75][注 38] 大義を諭して返せと命じた。それを受けた大臣らは「化外の国には礼儀に従って」[75] 接する必要はないとして、水路迷昧[注 39] を理由に要請を断った。日本側には記録はない[76] が朝鮮側の記録[注 40] によると、報告を受けた秀吉は激怒し、交渉失敗は裏切りの結果であるとして柚谷康広を一族共々処刑したといわれる[75]。
期限を越えても1年間進展なかったので、天正17年(1589年)3月、秀吉は朝鮮国王遅参を責め、入朝の斡旋を再び宗義智[注 41] へ命じた。6月、義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇を正使として自らは副使となり、家臣の柳川調信や博多豪商島井宗室など25名を連れて朝鮮へ渡った。漢城府で朝鮮国王に拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣を要請し、宗義智は自らが水先案内人を務めるとまで申し出た。ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡しを要求した。義智もこれに応えてすぐに柳川調信を対馬に帰し、沙乙背同と数名の倭寇を捕縛して連行[注 42] させたので、断る理由がなくなった朝鮮側はついに通信使の派遣に応じた。返礼に宗義智は孔雀と火縄銃[注 43] を献上した。
『聚楽第図屏風』の一部分(三井記念美術館所蔵)
京都の秀吉の政庁であった聚楽第
天正18年(1590年)3月に漢城府を発した通信使は、正使に西人派の黄允吉、副使に東人派の金誠一、書状官許筬(許筠の兄)ほか管楽衆50余名という構成で、4月29日に釜山から対馬に渡って滞在1ヶ月した。このとき金誠一が宴席に轎(駕籠のこと)に乗って後からやってきた宗義智を無礼と怒ったので、謝罪に轎夫を斬首にするという事件があった[77]。京都に到着したのは7月下旬で、大徳寺を宿とした。しかし秀吉は小田原征伐と奥州仕置のために9月1日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。
11月7日になってようやく秀吉は聚楽第で引見したが、義智とその舅小西行長が共謀して通信使は服属使節であると偽って説明して、秀吉は朝鮮は日本に帰服したものだと思い込んでいたようである[76][78]。それで秀吉は定められた儀礼もほとんど行わずに、国書と贈物(入貢)を受け取っただけで満足し、中座して赤子の鶴松を抱いて再び現れて、使者の前で小便を漏らした我が子を笑い、終始上機嫌だった。対等な国からの祝賀の使節のつもりだった通信使一同は侮辱と受け取り憤慨したが、正使と副使にはそれぞれ銀400両、その他の随員にまでも褒美の品々が分け与えられ、功が労われた。もちろん返答の用意もなく、儀礼に反すると通信使が抗議した後で、僧録西笑承兌が起草し、堺で逗留していた一行に国書が届けられた。
その内容は、秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説を披露して帝王に相応しい人物であると主張したうえで、大明国を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に中国に植え付けるという大抱負を述べ、先駆けて「入朝」した朝鮮を評価して安堵を約する一方で、「征明嚮導」つまり明遠征軍を先導をすることを命じ、応じるならば盟約はより強固になるとするものだった。そして全ては「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と秀吉個人の功名心を誇示してもいた。文章を一読した通信使は属国扱いに驚愕して宗義智と玄蘇に抗議した。玄蘇は秀吉の本意とは異なる嘘の説明で誤魔化していたので、それを信じた金誠一は誤字であると考えた「閣下」「方物」「入朝」の文字の書き換えを要求して食い下がったが、もはや一刻も早く帰還すべきと考えていた黄允吉はそのままで出立した。天正19年(1591年)1月に対馬に到着。2月に朝鮮に帰国し、玄蘇と柳川調信が同行した。
仮途入明
天正19年(1591年)3月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の鄭澈が失脚[注 44]して東人派の柳成龍が左議政となっていた[79]。黄允吉が「必ず兵禍あらん」と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ[注 45]、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。通信使に同行した軍官黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立ったが周囲に止められた[80]。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。「倭軍」の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった[81]。
玄蘇と柳川調信[注 46] が東平館に滞在中、宣慰使(接待役)呉億齢らは日本の情勢を聞き出そうと宴席を設けた。すると(秀吉ではなく宗氏の意向を汲む)玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。朝鮮がまず(このことを)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる」[82][83] と主張した。しかし、これは朱子学の正義に合わないため、金誠一は大義に背くと批判し、口論となった。玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ」[82][83] と熱くなって反撥したので、朝鮮側はこれに対して何も言い返さなかった[82]。5月、朝鮮朝廷は「日本は朋友の国で、大明は君父である」として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った[84][85][86][87]。
同年6月、玄蘇の復命を受けてすぐに宗義智は再び渡海し、釜山の辺将に対して「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国は平和は破られるだろう」と警告を発し、再交渉を要望した。辺将はこれを上奏したが、朝鮮朝廷では先の玄蘇らの言動を咎め、秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事も与えなかった。義智は10日間待ったが、断念して不満足のまま去った。これ以降、日本との通信は途絶えた。釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこのことを不審に思っていた[84][88]。(関連話)
朝鮮半島経由の理由
秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも「地乗り航法(沿岸航法)」であったことが説明として挙げられる。「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であったため、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかった。このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋(現唐津市と玄海町)などから出航して、壱岐(勝本)→対馬南部(厳原)→対馬北部(大浦)→釜山と順次進んで海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったのである[89]。最短ルートから外れた済州島は無視された。
準備
『朝鮮征伐大評定ノ図』(月岡芳年作)新撰太閤記の一場面
天正19年1月20日、秀吉は(明の)遠征準備を始動した。常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名に号令を発して、10万石に付き大船2艘を準備するように命じ、港町は家百軒につき10人の水主(かこ)を出すこと、自分の蔵入地(筑前・摂津・河内・和泉に集中)には10万石に付き大船3艘、中船5艘を造ること、建設費は半額を奉行より支出し、残額は竣工の上で交付するとした。また水主は2人扶持とし、残される妻子にも給金を与えることを約束し、船頭は給米を与えて厚遇するとした。また船等は摂津、播磨、和泉に翌年までに集合することを命じた[90]。また大船の大きさは長さ18間(33メートル)で幅6間(11メートル)と定められていた。
同年末にかけて軍用軍資金として通貨を大量に生産させた。金貨は花紋があるため太閤花降金と称し、銀貨は花降銀とも石見銀とも呼ばれた。糧米は48万人分が集積され、秣も相応に準備された。各地の街道や橋の整備修復も命じられた[91]。
また朝鮮の地図が作製され、八道を五色で塗り分け、慶尚道を白国、全羅道を赤国、忠清道・京畿道を青国、江原道・平安道を黄国、咸鏡道を黒国、黄海道を緑国と命名し、諸将に配られた[92]。
名護屋城築造
天正19年8月23日、秀吉が「唐入り」と称する征明遠征の不退転の決意が、改めて諸大名に発表された。宇喜多秀家が真っ先に賛成したといわれ、五大老のうち徳川家康は関東にいて不在であったが、他の大老、奉行は秀吉の怒りを恐れて不承不承の賛意を示した[93][注 47]。このために秀家は、後に秀吉の名代として総大将を任じられることになる。決行は翌年春に予定され、(秀吉は帰順したと考えていた)朝鮮を経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように促された。12月27日には秀吉は関白職を内大臣豊臣秀次に譲って、自らは太閤と称して外征に専心するようになった。
秀吉は遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示した。黒田孝高に縄張りを命じて、浅野長政を総奉行とし九州の諸大名に普請を分担させた。また、壱岐を領する松浦隆信にも勝本に前哨基地となる風本城の築城を命じた。
名護屋城の建設予定地は、波多氏の領土でフロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した[94] 場所であったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記した[95] ほど活況を呈し、唐入りの期間は日本の政治経済の中心となった[95]。
→詳細は「名護屋城」を参照
最後通牒
年明けて天正20年(1592年)正月、総21軍(隊)[96][97] に分けられた約30万よりなる征明軍の編成が始まった。2月に渡海し半島を伝って明に攻め込む予定で、4軍までを先発させることまで決まったが、速い展開に焦った小西行長と宗義智がまず朝鮮帰服の様子を確かめるべきだと進言して、計画は急遽、停止を強いられた。これは彼らが朝鮮通信使が来たことだけをもって朝鮮が入朝した(帰服した)と嘘をついてことを進めていたことを、秀吉が度外視して明征服を実行に移そうとしていたので、不安になったためだった。
行長は嘘を取り繕うために帰服した朝鮮が変心したと新たな嘘で説明し、征明軍に道と城を貸すのを拒否していると言ったようである[78]。朝鮮交渉の不首尾に面目を失った行長であるが、責任は朝鮮側に転嫁し、平伏して最後の交渉と相手が従わぬ場合には、自らが先鋒を務めることを願い出た。1月18日、秀吉はそれを許し、両名に3月末までに様子を見極めて復命するように指示。もし朝鮮が従わないのならば、4月1日になったら(まず朝鮮から)「御退治あるべし」と出征開始の号令が出された。これによって征明軍は征朝鮮軍となった。
秀吉が配下の将に伝達した文書に「高麗国の御使」として両名が派遣されたことは確認できるが、1月から3月末までの間、再び玄蘇を派遣した以外は特に行動した様子はなく、行長と義智は朝鮮には赴かなかった。それはすでに無駄であると分かっていたからに他ならない。結局、仮途入明の要求なども平和のためなどではなく、欺瞞を重ねた結果に過ぎなかった[78]。
2月27日、京都で秀吉は東国勢の到着を待っていて家康の手勢が少ないのを怒り不機嫌となったというが、これが俗説としても出陣の延期が続いて人々は不安がっていたようだ。秀吉が吉日である3月1日に出陣の儀をするつもりだったが、眼病を患って延期した。3月13日、「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」の軍令が発表され、日本軍の先駆衆が9隊に再編成される陣立てが新たに示された。ようやく26日早朝、秀吉は御所に参内して後陽成天皇に朝鮮出兵を上奏して、京を出立した。この間も第一軍(隊)は3月12日に壱岐から対馬へ移動し、後続も渡海を開始。23日からは第一軍は対馬の北端の豊崎に移動して待機していた。
他方、最後通牒の役目を担った玄蘇は改めて朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するように協力を交渉していたが、朝鮮側の返事は要領を得なかった[98]。すでに期日が過ぎた4月7日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた[99]。
道中、緩々と厳島神社に参拝して、毛利氏の接待を受けていた秀吉の大行列が名護屋城に着陣したのは、すでに戦端が切られた後の4月25日であった。
日本軍陣立
『九鬼大隅守舩柵之図』, 真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。
天正20年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された[90]。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる[100]。
主として西日本方面(西海道、南海道、山陰道、山陽道)では全面的に兵が動員されたが、東日本方面(畿内以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した[101]。
兵は諸侯の石高の大小に比例して動員されたため、数万人を出す大身者から、数百人を出す小身者まで様々で、これらを組み合わせて一隊が編成され、主としてその中の大身者を指揮者とした。また豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとした。加藤清正や小西行長らが鍋島直茂・宗義智・松浦鎮信らを指揮下に置いたのはその例である[102]。
全体としては概算で、名護屋滞在が10万、朝鮮出征が16万〜20万となった。ただし、この数字には人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員(補助員)が含まれていた。非戦闘員の割合は各隊でまちまちで、文禄の役における島津勢では約4割であった[注 48] が、立花勢では約5割で、五島勢では約7割にも及んだ[103]。なお、非戦闘員から兵員に転用されたという記述が後に出てくるため、これらが完全に戦闘に関与しなかったわけではないようである。
当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人であった[104]。文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。なお、豊臣秀吉の四国征伐時の豊臣軍の兵力は約10万、九州征伐時、小田原征伐時は約20万であった。
軍の構成は以下の通りであった。脚注のない数字は主に毛利家文書[105][106][107] と松浦古事記[108] による。実際に出陣したことが分かっている武将の中に表記がないものがある毛利家文書は明らかに省略されており、7番隊以後や名護屋在陣衆(旗本含む)はより詳しい松浦古事記を参考にした。先駆衆の毛利輝元[注 3] までは順次出立したが、宇喜多秀家より後の部隊は戦況に合わせて出陣しており、順番も異なって、隊として行動していたようにも見えない。首都漢城の行政を任された奉行衆や、占領地の統治を命じられ各地に分散した8番隊、あるいは伊達や佐竹など在陣衆からの増援もあった。渡海時期のよく分からない部隊もある。当初は秀吉や家康を含めた全軍が渡海する予定であったが、何かにつけて周囲が出陣を押しとどめたので、実現しなかった。
日本水軍の規模は9千人から1万人ほどであった[109][110][111]。陸上部隊の数字の中にも若干の水軍衆が含まれていたと思われるが、それらを含めても水軍の総数は多くとも約1万数千人程度で、その主力は淡路水軍と紀伊水軍であった(来島系以外の村上水軍は小早川・毛利隊の中に含まれる)。
<平成30年の設問対策>
*狩野永徳
*狩野山楽
*海北友松
*長谷川等伯
*西本願寺飛雲閣
*聚楽第
*伏見城(桃山城)
*大坂城
(画像は、桜楓図のうち楓図)
[生]天文8(1539).能登,七尾
[没]慶長15(1610).2.24. 江戸?
桃山時代の画家,長谷川派の祖。実父は七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道。幼時に等春門人で染色を業とする長谷川宗清の養子となる。初名久六,又四郎,のち帯刀 (たてわき) 。号は初め信春,のち等伯。能登在住時代には正覚寺『十二天像』,大法寺『三十番神図』,妙成寺『涅槃図』『日乗上人像』などの仏画,肖像画を中心に制作。ほかにやまと絵や中国の花鳥画などを学んで絵の修練を積んだ。元亀2 (1571) 年頃上京,本法寺教行院を宿坊とし,翌年本法寺8世『日堯上人像』を描く。上京後もしばらくは「信春」印を用い,妙覚寺『花鳥図屏風』,成慶院『武田信玄像』,東京国立博物館蔵『伝名和長年像』『牧馬図屏風』などの優品を残す。千利休や春屋宗園と親交を結び,大徳寺総見院,三玄院の襖絵や三門天井画を制作。この頃すでに狩野派に対抗しうる画派に成長し,文禄2 (93) 年には一門の画家を率いて,祥雲寺 (現智積院) に豪放華麗な金碧花木図を描いた。慶長年間には妙心寺隣華院,大徳寺真珠庵,高桐院,南禅寺天授庵に水墨画の山水,人物,花鳥障屏画を描いたほか,多数の遺品がある。慶長9 (1604) 年法橋,翌年法眼に叙された。狩野派や曾我派に絵を学んだという説もあるが,むしろ中国,宋代の牧谿画の影響が大きく,抒情性豊かな国宝『松林図屏風』 (東京国立博物館) は日本的水墨画の最高傑作と賞される。しかし最晩年の等伯画には梁楷風の粗放な作品が多い。日蓮宗の信者で本法寺の日通上人と親交が深く,上人が筆録した『等伯画説』は彼の画論として著名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『国宝-絵画|障壁画 桜楓図ほか(長谷川等伯・久蔵筆)[智積院/京都]』WANDER 国宝 https://wanderkokuho.com/201-00044/
参考:『智積院の金碧障壁画の傑作』国土交通省 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_07_jp.html
参考:『楓図』作品紹介 キヤノン綴プロジェクト https://global.canon/ja/tsuzuri/works/kaedezu/
天文十一年(1542) 松平広忠の長男として誕生
天文十六年(1547) 今川の人質として送られるも織田に奪われる
天文十八年(1549) 父広忠暗殺される。今川に人質
永禄3年(1560) 桶狭間 (今川方)
元亀元年(1570) 姉川 (織田の援軍)
元亀三年(1572) 三方ヶ原 武田軍に大敗。
天正三年(1575) 長篠 設楽原 武田勝頼を撃退。
天正十年(1582) 本能寺の変 家康、小勢の為、伊賀越えで命からがら本国入り
天正十二年(1584年) 小牧長久手 秀吉と講和
天正十八年(1590) 小田原攻め 江戸転封 江戸城
慶長五年(1600) 関ケ原
慶長八年(1603) 征夷大将軍 江戸幕府
慶長二十年(1615) 大坂夏の陣 淀の方、豊臣秀頼自刃