2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
↑写真は、秀吉建造の聚楽第を移築したと伝えられる西本願寺飛雲閣
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
なるべく年代順に並べていますが前後が逆転している場合もあります。目次とページ内の検索機能を利用してください。
織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京した永禄 11 (1568) 年9月 26日から,または義昭が信長に追われ室町幕府が滅びた元亀4 (1573) 年7月 18日から,豊臣秀吉政権の終わった慶長3 (1598) 年8月 18日,徳川家康が実権を握る関ヶ原の戦いの慶長5 (1600) 年9月 15日,または徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8 (1603) 年までの約 30年間の時代をいう。信長の居城は安土城であり,秀吉の居城である伏見城がのちに桃山と称したところから,織田信長,豊臣秀吉の覇権 (この政権を織豊政権という) の時代をいう。 (→安土桃山文化 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の政治・経済・文化など項目別の詳しい説明も確認しておくこと。
<平成30年設問対策>
織田信長
[生]天文3(1534).尾張,那古野
[没]天正10(1582).6.2. 京都
戦国時代の武将。信秀の子。幼名吉法師または三郎。元服して信長。天文 20 (1551) 年父信秀が没して家督を相続して以来,一族内部の抗争に奔走,永禄2 (1559) 年には岩倉城の織田信賢を破り,尾張一国を統一,次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた (→桶狭間の戦い ) 。そののち三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き,美濃に進出を企て,永禄 10 (1567) 年斎藤龍興を滅ぼして美濃をくだし,稲葉山城を岐阜と改名して,尾張清洲より移った。翌 11年足利義昭を奉じて上洛,義昭を将軍職につけたが,のち義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかったため元亀2 (1571) 年信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。天正1 (1573) 年には朝倉氏,さらに浅井氏を滅ぼし,義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ,天正3 (1575) 年,武田勝頼を三河長篠に破り (→長篠の戦い ) ,翌年には近江安土に築城した (→安土城 ) 。やがて中国経略を志して毛利氏と対立したが,一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。天正 10 (1582) 年には甲斐武田氏を滅ぼし,信濃の北口を平定。しかし同年6月2日,本能寺の変で明智光秀のために殺され,その統一事業は中絶した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*桶狭間の戦い 戦国時代,織田信長と今川義元との,尾張国知多郡の桶狭間における戦い。駿河,遠江,三河3国を領有した今川義元は,永禄3 (1560) 年5月,4万と称する兵を率いて上洛を企て尾張へと進軍した。尾張国清洲城主織田信長は,砦を構えてこれに対したが,前衛の丸根,鷲津などの砦は同 19日までに陥落した。同 18日夜半,清洲を出発した信長は,19日正午頃,沓掛から進んで大高に通じる三面起伏の迫る低地 (→田楽狭間 ) に休憩していた義元の本陣を,約 3000人の兵をもって風雨のなかを急襲し,その首級をあげた。信長はこの勝利によって東海道における勢力を急速に増大させた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
信長の対外の大きな戦いの初勝利。鉄砲を大量に用いた戦いは、もっと後の長篠の戦いが有名である。→表参考
*姉川の戦い 元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*楽市令 主として16世紀後半,戦国大名および織豊政権が,地方市場,新設の城下町に出した法令。楽市令は大別して次の2種に分けられる。ひとつは,15,16世紀に新しく登場した地方市場で,寺内町(じないちよう)に代表されるような,すでに,楽市場として存在していた市場に,その楽市の機能を保証した,いわば保証型楽市令である。この型に属する楽市令としては,織田信長の永禄10年(1567)美濃加納あて楽市令,元亀3年(1572)近江金森あて楽市令,後北条氏の天正13年(1585)相模荻野あて楽市令などがある。
出典 株式会社平凡社
*会合衆 室町,戦国時代の都市自治組織の代表者。彼らは都市によって年寄,老中,乙名 (おとな) などと呼ばれており,堺では文明年間 (1469~87) に会合衆がおかれていた。堺の会合衆は納屋衆とも呼ばれ,すべて富裕な商人たちで構成され,初めは 10人,のちには 36人であった。これは月行事の3人が 12ヵ月を輪番でつとめるためであった。戦国時代には合議制によって戦火から堺を守り,織田信長の専制的圧力に反発し,浪人などを集めて,自主防衛を意図した。しかし信長の多大の矢銭の要求を1度は退けたが,ついに信長の武力に屈服した。伊勢の宇治山田,大湊などにも会合衆が存在した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*南蛮貿易 1540年代から1世紀にわたって日本人と南蛮人 (→南蛮 ) との間で行われた貿易。天文 12 (1543) 年ポルトガル人の種子島漂着が南蛮貿易の端緒となった。当初は平戸,横瀬浦,福田,口の津など北九州諸港にポルトガル船が来航したが,元亀2 (71) 年長崎が開かれ,領主大村純忠がこれをイエズス会に寄進して以来,ポルトガル船はこの地に連年入港するようになった。船は初めはナウと呼ぶ大型帆船,のちにはガレウタと呼ぶ小型帆船で,司令官のカピタン・モールの統制下に,季節風を利用してゴアもしくはマカオから長崎に来航,鉄砲,火薬,ヨーロッパの毛織物,中国産の上質生糸,南海産の皮革,香料その他を日本は輸入し,日本からは銀をはじめ,銅,鉄,食料品などを輸出して,2~3倍の利益をあげた。初めはマカオ住民の出資が多かったが,のちには日本商人の投銀 (なげがね) 形式の投資もみられた。生糸の需要は高く,江戸幕府は糸割符 (いとわっぷ) 制度によってその輸入を独占,統制した。 17世紀の初めには朱印船貿易が盛んとなり,日本人が台湾,マカオ,ルソン,カンボジア,シャムなどに進出して,日本町が発達した。しかしイギリス,オランダのプロテスタントの商権拡張,幕府のキリスト教取締り,鎖国政策の強化とともに,南蛮貿易は行きづまり,寛永 16 (1639) 年のマカオ使節 L.パチェコらの死刑をもって幕を閉じた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*信長とキリスト教 織田政権は一向一揆と激しく争い、また、比叡山を焼き討ちした。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた。例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている[397]。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである。
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した[398]。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている。(織田信長 Wikipedia)
以上のように信長はキリスト教のみを特別に庇護したわけではないし、ザビエルが会おうとしたのは、日本国王(足利義輝・後奈良天皇)であり、献上物の荷の遅延により、拝謁が叶わなかったことから、大内氏・大友氏・大村氏ら西国・九州の戦国大名に会って布教許可を得ている。彼ら大名はは貿易のうまみも得ながら、キリスト教に傾倒していった部分もあり、大村純忠などは仏教を弾圧したりもした。
*天正遣欧少年使節 1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信(大村純忠の甥)の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
使節の目的
第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。
使節:伊東マンショ(主席正使・大友宗麟名代・宗麟血縁・日向国主伊藤義佑の孫)・千々石ミゲル(正使・大村純忠の名代・大村純友の甥)・中浦ジュリアン(副使・肥前国中浦城主の息子・1633年長崎で穴吊るしの刑により殉教・2008年ローマ教皇により福者に列せられる)・原マルチノ(副使)
天文3年(1534年)織田信秀嫡男として誕生
天文15年(1546年)、古渡城にて元服
天文16年(1547年)、信長は今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった
天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破
永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成
永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす
元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破る
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ち
元亀3年(1572年) 三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)
天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼす
翌年には安土城の築城も開始
天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた
天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけた
天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた
しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)
<平成30年の設問対策>
*智積院 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺および東京都八王子市の高尾山薬王院がある。智積院は、もともと紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので根来山内の学問所であった。近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上した。当時の根来寺には2,700もの堂舎があったという。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた。
現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものである。この客殿は天和2年(1682年)7月の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせた為と推定されている。
[国宝]
大書院障壁画 25面 長谷川等伯・久蔵父子の作。正式の国宝指定名称は以下の通り。「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされている。
紙本金地著色松に草花図 床(とこ)貼付4、壁貼付2
紙本金地著色桜楓図 壁貼付9、襖貼付2
紙本金地著色松に梅図 襖貼付4
紙本金地著色松に黄蜀葵及び菊図 床(とこ)貼付4
附:違棚貼付、袋棚小襖等 26面
紙本金地著色松に草花図 二曲屏風一双 屏風装になっているが、「大書院障壁画」と一連のものである。
金剛経 南宋時代の書家・張即之の筆。
天文六年(1537) 藤吉郎誕生
天文二十三年(1551) 織田信長に仕える
永禄三年(1560) 桶狭間の戦い
永禄4年 (1561) 浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。
永禄11年(1568) 観音寺城の戦い
元亀元年(1570年) 金ヶ崎の戦い
元亀3年(1572) 羽柴改姓
天正元年(1573) 小谷城の戦い
天正3年(1575) 筑前守
天正5年 (1577) 手取川の戦い
信貴山城の戦い
天正6年(1578)年 三木合戦開始( - 天正8年)
上月城の戦い
天正10年(1582) 備中高松城の戦い
6月2日 本能寺の変が起こる
6月13日 山崎の戦い
6月27日 清洲会議
天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦い
11月 本拠を大坂城に移転。
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い
10月3日 従五位下・左近衛権少将
11月21日 従三位・権大納言
天正13年(1585) 紀州征伐
3月10日 正二位、内大臣宣下
6月-8月 四国攻め
7月 近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日 従一位・関白宣下、内大臣如元
8月 富山の役
10月 惣無事令実施(九州地方)
天正14年(1586) 九州征伐開始( - 天正15年4月)
9月9日 賜豊臣氏
1587年 12月19日 内大臣辞職
12月25日 太政大臣兼帯
天正15年(1587年) 書状「かうらい国へ御人」
6月1日 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日 バテレン追放令発布
9月 聚楽第へ転居
10月 北野大茶湯
1587年または1588年 12月 惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年(1588) 刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。
8月12日 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
聚楽第行幸
天正17年(1589) 鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年(1590年) 小田原征伐
2月28日 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月 奥州仕置
11月 朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年(1591) 身分統制令制定。御土居構築と京の街区の再編成着手
2月28日 千利休に切腹を命ず
3月3日 天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日 ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
1592年 12月 関白辞職し、秀次に譲る。太政大臣如元
文禄元年 1592年 4月12日 56歳 朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定。聚楽第行幸
文禄2年 (1593) 本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日 高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
文禄4年 (1595) 秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃を命ず。聚楽第取り壊し
慶長元年(1596) サン=フェリペ号事件
慶長2年 (1597) 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年 (1598) 太政大臣辞職
8月18日 伏見城で薨去。
(豊臣秀吉wikipediaより)
2022年出題
1537-1598 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)6年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。母はなか(天瑞(てんずい)院)。織田信長に足軽としてつかえ,浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて,天正(てんしょう)元年近江(おうみ)長浜城主となる。本能寺の変後,明智光秀,柴田勝家をやぶり,11年大坂城を築城。徳川家康を臣従させて18年(1590)全国を統一。この間関白・太政大臣となり豊臣姓を名のる。19年太閤(たいこう)。文禄(ぶんろく)元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。太閤検地、刀狩りなどの新政策で兵農分離を促進し,近世封建社会の基礎を確立した。慶長3年8月18日死去。62歳。幼名は日吉丸,のち木下藤吉郎,羽柴秀吉。
【格言など】露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢(辞世)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus コトバンク『豊臣秀吉』
[聚楽第] 「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同 14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同 16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記 ) 。同 19年 12月関白を養子秀次 (→豊臣秀次 ) に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4 (95) 年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された。その殿舎の多くは伏見城へ移された。大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられる。桃山文化の代表的建築物である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年出題
豊臣氏の職制の一つ。5人の年寄衆の呼称。五奉行の上に位する職制で,政務を統轄した。成立は,慶長2 (1597) 年頃と推定される。当初は,徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景がこれに任じられたが,小早川隆景の死後は,上杉景勝が加えられた。その職務は,五奉行の顧問としての性質をもち,必ずしも一般政務を担当したわけではない。慶長の役 (→文禄・慶長の役 ) の収拾にあたり,秀吉の死後,前田利家が秀頼の養育にあたり,徳川家康が政務にあずかることとなり,自然に五奉行の権限を侵して家康に実権が移り,関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
2021年出題
豊臣氏の庶政に関する職制の一つ。五大老の下に位した。前田玄以,浅野長政,石田三成,増田 (ました) 長盛,長束 (なつか) 正家の5人がその任にあった。これらの5人が奉行として連署した初見は文禄4 (1595) 年であるが,これは五奉行という制度化された呼称ではなかった。五奉行の成立は慶長3 (98) 年7月頃,秀吉の死の直前ではないかと推測される。以来,秀頼の時代まで続いた。職務の分担は主として前田玄以が公家,寺家,社家,そのほか諸座,諸職に関し,長束正家が知行,兵糧など財政に関し,浅野,石田,増田らが司法ならびに一般行政に関してそれぞれ担当した。大事件については,5人の合議によって処理された。関ヶ原の戦いで崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
太閤検地(たいこうけんち)は、豊臣秀吉が天正10年(1582年)に開始し、租税賦課の基礎条件を明確にするために日本全土で行った検地(山林を除く田畑の測量及び収穫量調査)。日本初の全国規模の検地であり、従前の荘園制的特権を打破して各土地の収納を円滑にし、貢租(年貢)の徴収を容易にするため、荘・郷・保・里など区分が多々あった田制を統一して村制度を樹立させた。さらには、荘園制的所職を否定して各耕地1筆ごとに1作人(一地一作人)を原則とし、土地は画一的に領主に直属させた。これによって荘園制時代よりも各耕地の所有関係が整理され、日本の近世封建制度の基礎が確立された。天正の石直し、文禄の検地ともいう。この検地は、大化改新・地租改正・農地改革と並び、日本の歴史で重大な土地制度上の変革である。
概要
領主が自領内に課税するにあたり、その基礎資料として自領内の地勢を把握することは非常に重要ではあったが、家臣や領内の有力一族の抵抗が大きいため実施は難しいとされていた。しかし北条早雲に始まる戦国大名の出現で、自らの軍事力と裁判権を背景に独自の領地高権を行使することを可能とした。この行使の一例が検地であった。
織田信長も検地を実施していた(これを信長検地と呼ぶことがある。)が、このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、その重要性を把握していたとみられる。天正10年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。これらの、太閤を名乗る天正19年(1591年)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地と呼ぶ。
この集大成として関白を辞して太閤となった秀吉は、将軍に上納されて叡覧に備用される「御前帳」になぞらえ、検地によって得られた膨大な検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう指令を出して徴収させた。これを「天正御前帳」という。後述するように太閤検地の成果は、権利関係の整理や単位統一が図られた革新的な意味をもつのみでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、その後の制度、経済、文化の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握されたことであり、その意義は大きい。
後に徳川家康も、慶長9年(1604年)に単位を国から郷に改めて御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)。
特徴
土地の権利関係
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を納めることがほとんどであった(地下請)。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。
太閤検地ではこういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者=納税者を定めようとしたが、帳簿の上ではそうなっても、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。
荘園制の終了
太閤検地により、8世紀から始まった荘園の時代は16世紀で終わりを迎えた。何故ならば、すべての農地に責任者が定められ、納める年貢の量も決められたからであった。
単位の統一
太閤検地は以下のような基準で行われた。
結果は石高で計算する。(それまでの貫高から改めた)
数の単位
6尺3寸=1間(約191cm)
1間四方=1歩
30歩=1畝
10畝=1反
10反=1町
田畑は上・中・下・下々の4つに等級づけする。
升は京枡を使う。
これによって表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位がおおまかに統一された。
ただし、この基準で行われたのは天正17年(1589年)の美濃検地が最初で、それ以前の検地がどういった基準で行われたのかは不明である。また、その後の検地でも例外は多数存在する。
数字の正確さ
戦国時代までは農村側が自己申告する形式の検地(指出検地)が多かったが、太閤検地では多くの田畑が実際に計測された(丈量検地)。ただし、越後の上杉氏の領地など、実際に計測していない例も多く存在する。
なお「それまでの石高が年貢を表していたのに対し、太閤検地の石高は生産高を表している」と説明されることがあるが、これは誤りであるとも言われており、太閤検地での斗代・分米が鎌倉時代の荘園制のそれとほぼ近似していることを指摘していて殆どの場合、この石高から「免(=年貢の一定額免除)」が差し引かれた上で年貢が納められた。この事実も石高が生産高ではなく年貢高と認識されていたことを証明している。
ただし、出羽国の石高は明らかに異常で、極端に過少である(18万石以上ある置賜郡のみで出羽国の大半を占めてしまう)。
石高制(こくだかせい)とは、土地の標準的な収量(玄米収穫量)である石高を基準として組み立てられた日本近世封建社会の体制原理のことである。土地の大小や年貢量のみならず、身分秩序における基準として用いられた。
背景
戦国時代にはこれまでの荘園とそれを取り巻く土地制度が解体され、戦国大名による新たな土地支配の体制が確立された。戦国大名は貫高制に基づいて検地を行い、軍役を定めた。貫高制では土地の面積や大まかな質によって年貢高が定められ、実際の収穫高とはほとんど無関係であった。
石高の概念自体は、戦国時代に一部の大名が採用し、織田政権でも土地の評価方法として一部の地域で採用されていたが、本格的な導入は豊臣政権による太閤検地以後であり、徳川政権(江戸幕府)は、それを土台として日本全国の支配を確立させた。原則としては検地丈量を行って石盛を行って石高が確定し、それに基づいた公儀による印判状・判物の発給によって領知高が確定されたが、実際の運用面で検地の数字を重視しながらも経済的・政治的な事情を加味した加減が加えられた「公定の生産高」が石高として算定され、そのために各種の例外が適用された事例も多かった。
導入の背景には、農民層の田畑や屋敷地に対する経済的価値の把握・表記には、実際の収量を元にした石高制の方がより直接的で適切であったことがあげられる(ただし、実際の石高が直接的な表示であったかどうかという点には問題点もある)。更に、土地に対する名請人を実際の耕作者に固定することで、現地の土豪や有力農民による中間搾取を困難にし、彼らの武士化・領主化を排除して、兵農分離の徹底と下剋上抑止の役目を果たした。また、急激な統一政権成立の過程において、従来の惣村と外来の新領主が年貢徴収などを巡って、対立する事例がしばしば見られた。領主側は一円支配確立のために、惣村における複雑な土地関係を整理して把握することで、彼らの抵抗を抑えようとしたのである。
更に近年では、近世日本における貨幣制度の混乱も原因として注目されている。それまで明から宋銭や明銭を輸入し使用していたシステムが、勘合貿易の断絶及び明での貨幣制度の変更による銅銭そのものの衰退(銀及び紙幣による支払体系の定着に伴う国家保証の消滅と、私鋳銭の大量流通による官銭の排除)によって、これまで明の銅銭をそのまま利用していた日本を含む周辺諸国の経済に混乱を与えた。日本ではそれまで鐚銭と呼ばれていた低品質な私鋳銭は、撰銭(排除)の対象であったが、貨幣需要の高まりと銅銭体系の崩壊という2つの現象が衝突し、やむなく一定水準以上の鐚銭を含む私鋳銭によって需要の補完が行われた。しかし、水準以下の鐚銭が大量に出回ることを防げず、貨幣の信用は下落した。幕府は律令制下でごく少量流通していただけの金貨や銀貨を本格的に発行するなどして対応しようとしたが、需要を満たすだけの量は確保できず、また全国的に通用する良質な銅銭を鋳造・流通させる仕組みもなかなか確立できなかったため、16世紀中期から17世紀中期までのほぼ1世紀の間、銅銭を中心とした貨幣の価値と信用は著しく低下した。こうした中で銅銭を基準とした貫高制を維持することは事実上不可能になり、代用貨幣である米による徴税への切り替えを余儀なくされたというのである。
太閤検地
石高制の確立に大きな影響を与えたのは、豊臣政権の太閤検地であるが、実は太閤検地にも時期によって大きく内容が分かれる。前期の太閤検地でも石高制に基づく検地方針は示されていたが、臣従したばかりの地方の有力大名に対して貫徹させるまでには至らなかった。全国統一が完成した翌年の1591年(天正19年)、豊臣政権は諸国に対して一国御前帳の提出を命じているが、これは翌年の人掃令と合わせて朝鮮出兵に備えた兵粮・軍役負担を確保するために、大名の領知高を確認する点を優先しつつも日本全国の土地を同一の基準をもって把握しようとしたのである。ただし、注意すべきは「大名の領知高を確認する」という点である。例えば、長宗我部氏の土佐一国9万8千石は実際の検地によるものではなく、同氏の動員可能兵力からの逆算と言われ、佐竹氏や島津氏などに対しては石田三成ら奉行が政治的必要(軍役負担などの観点)から石高を操作していたことが知られている。更に領内で米がほとんど獲れず、もっぱら貿易による利益に依存していた宗氏や松前氏は実際には無高もしくはそれに近いにもかかわらず、利益から計算された形式上の表高が与えられていた。また、一部の地域では国人や農民による一揆を恐れて検地そのものを行われなかったと言われている。もっともそうした地域でも全国的な流れの中で石高表記への移行は受け入れざるを得ない状況になっていった。
『石高制』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6
惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。
惣無事(そうぶじ)が成立したことで中世の私戦、私的執行、私刑罰などはほぼ禁じられることとなり、裁判権や刑罰権を武家領主が独占する公刑主義へと移行したとされる。藤木久志によって提唱され定説化したが、後述する通り様々な批判がなされ議論となっている。
惣無事令は、1585年(天正13年10月)に九州地方、1587年(天正15年12月)に関東・奥羽地方に向けて制定された。惣無事令の発令は、九州征伐や小田原征伐の大義名分を与えた。特に真田氏を侵略した後北条氏は討伐され北条氏政の切腹に至り、また伊達政宗、南部信直、最上義光らを帰順させる事に繋がった(奥州仕置)とされる。この惣無事令によって、天正16年の後陽成天皇の聚楽第御幸の際など、参集した全国の諸大名から関白である秀吉への絶対服従を確約する誓紙を納めさせ、その違背に対して軍を動員した包囲攻撃のみならず、一族皆殺しを含む死罪・所領没収ないし減封・転封といった厳罰を与えた。いわば、天下統一は惣無事令で成り立ち、豊臣政権の支配原理となったのである。
『惣無事令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
喧嘩停止令(けんかちょうじれい)は、中世日本において制定されていた農民の武力行使を制御することを目的とした法令。豊臣秀吉が制定した「秀吉の喧嘩停止令」と、徳川秀忠・徳川家光らが制定した「徳川の喧嘩停止令」がある。
豊臣秀吉が制定した喧嘩停止令は、様々な文献からの「判例」という形で、そうした法令が存在していた事実を示すに留まっており、具体的にどのような法令でいつ制定されたのかに関しての詳細はわかっていない。こうした判例が用いられた最も古いものは1587年(天正15年)の春であり、1588年(天正16年)に制定された刀狩令や海賊停止令よりも前に成立していた可能性がある。
秀吉の刀狩令には全ての農民の武器を没収することが表明されていたが、実際には武器の所持を禁じたというよりも帯刀権や武装権の規制という形が主で、村々には多くの武器が留保されていた。武力を行使した騒乱の可能性は内在したままであり、そうした前提のもとに騒乱を禁止する目的法として喧嘩停止令が制定されていたと考えられている。
『喧嘩停止令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreにし、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。
原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。
概説
織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国の天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1] 。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった。天正14年(1586年)3月『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟・秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[要出典][注 3][注 6][注 7]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。(←出典を求められている文章)
バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった。バテレン追放令以降の秀吉の書簡はキリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]、神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した。追放令以降も秀吉は三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道、儒教、仏教)の敵として名指しで批判している。
欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている。ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している。
『バテレン追放令』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
刀狩(かたながり、刀狩り)は、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。
天下を統一しつつあった豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。
豊臣氏の刀狩令
豊臣秀吉が1588年(天正16年)に発した刀狩令は次の3か条からなる。
第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺大仏(京の大仏)の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
また、没収された武器類は方広寺大仏(京の大仏)の材料とすることが喧伝された。
この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と淡路国の加藤嘉明などの近侍大名・武将の一部、畿内・近国と主要寺社に限られる。だが、豊臣政権の法令は、天正18年(1590年)8月10日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた[13]。
秀吉は、関白就任3か月前の1585年(天正13年)3月から4月に根来衆・雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている[14]。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。
『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。
ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国(佐賀県、長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。
ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている[15]。刀狩りは、1人当たり大小1腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い[16]。
秀吉は、刀狩に先行して、1587年(天正15年)ごろ、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の水利や里山、草地などの権利や、他の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあったがそれらを防止した[17]。この施策は江戸幕府にも継承された。
さらに、天下統一後の1590年(天正18年)「浪人停止令」で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出したが、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示した。一方、武家奉公人の農村内での武器の所持を例外として認めていた。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んで地侍になっており、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。
『刀狩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
海賊停止令(かいぞくていしれい、かいぞくちょうじれい)は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が出した海賊衆(水軍)に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。
令の名称は通称であり、海賊禁止令(かいぞくきんしれい)、海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)、海賊鎮圧令(かいぞくちんあつれい)など幾つかの呼び方がある。
当時の海賊
日本史(特に南北朝時代以降)における海賊は、沿海における豪族という面を持っていた。大名が領地を持つように海上に縄張り(海上権、海上支配権)を持ち、さらに相互の連合組織を持つなど、一定規模の組織で活動していた。そのため国人衆や一向衆(一向宗ではない)がそう呼ばれるように、単なる海賊と分けて「海賊衆」と呼ばれる。一般的な意味での海賊のように、沿岸地や商船を襲うこともあったが、大名や商家の依頼を受けて船舶の警護(警固)を行うことも主要な活動の1つであった。特に室町幕府は勘合貿易に際して、彼らを承認する代わりに警固の役を課した。そのため海賊衆は「警固衆」とも呼ばれた。関連して、彼らが護衛名目で取る金銭を「警固料」、警固の依頼や料金徴収するために揚陸港などに設置した施設を「警固関」と言う。
室町時代後期に幕府の権威が衰えて権力が分散すると、各地の海賊衆も政治的な自立を行い、その地位を確立する。ある大名に服するのではなく、あくまで対等な関係、もしくは傭兵として振る舞い、大名などとは独立した組織として活動した。そのため、時勢に応じて臨機応変に支持大名を変えるということもよくあった。それを可能にした1つの要因として、貨幣経済・物流の発展などによって警固料収入が増加したことが挙げられる。
戦国時代後期になると有力大名が海賊衆を臣下に納め水軍とすることも多くなり、石山合戦での織田方と毛利方水軍の大阪湾上の海戦(第二次木津川口の戦い)を最後に海賊衆の自立的な地位は失われていく。そして、豊臣秀吉による天下統一直前の天正16年(1588年)に海賊停止令が出される。
海賊停止令
豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に刀狩令とほぼ同時に海賊停止令を全国に発布する。
これは海賊衆に対して、
豊臣政権体制の大名となる
特定の大名の家臣団となる
武装放棄し、百姓となる
のいずれかを迫るものだった。
また、同時にそれまで海賊衆に与えられていた警固料を徴収する権利も禁止したことで、海賊衆というそれまでの特別な地位の存在その物を否定した。この命令によって日本史における海賊衆は姿を消すことになる。
法令の目的
第一には、その条文が示すように、同年に出された刀狩令と同等の兵農分離策だったと考えられる。海賊の中には漁民を兼ねている者たちもおり、また、一揆に加担する場合もあった。
第二には、海上輸送に関してであり、豊臣政権は、海商を政権下に組み込むことによって海外貿易や海上物流の支配を狙っていた。特に、朝鮮出兵を控えた時期であり、軍事的側面からの海上輸送力確保の意味もあった。海外貿易についても中国の明朝との勘合貿易の復活に向けての地ならしの時期でもあった。
『海賊停止令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
<平成30年の設問対策>
*狩野永徳
*狩野山楽
*海北友松
*長谷川等伯
*西本願寺飛雲閣
*聚楽第
*伏見城(桃山城)
*大坂城
桜楓図のうち楓図
[生]天文8(1539).能登,七尾
[没]慶長15(1610).2.24. 江戸?
桃山時代の画家,長谷川派の祖。実父は七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道。幼時に等春門人で染色を業とする長谷川宗清の養子となる。初名久六,又四郎,のち帯刀 (たてわき) 。号は初め信春,のち等伯。能登在住時代には正覚寺『十二天像』,大法寺『三十番神図』,妙成寺『涅槃図』『日乗上人像』などの仏画,肖像画を中心に制作。ほかにやまと絵や中国の花鳥画などを学んで絵の修練を積んだ。元亀2 (1571) 年頃上京,本法寺教行院を宿坊とし,翌年本法寺8世『日堯上人像』を描く。上京後もしばらくは「信春」印を用い,妙覚寺『花鳥図屏風』,成慶院『武田信玄像』,東京国立博物館蔵『伝名和長年像』『牧馬図屏風』などの優品を残す。千利休や春屋宗園と親交を結び,大徳寺総見院,三玄院の襖絵や三門天井画を制作。この頃すでに狩野派に対抗しうる画派に成長し,文禄2 (93) 年には一門の画家を率いて,祥雲寺 (現智積院) に豪放華麗な金碧花木図を描いた。慶長年間には妙心寺隣華院,大徳寺真珠庵,高桐院,南禅寺天授庵に水墨画の山水,人物,花鳥障屏画を描いたほか,多数の遺品がある。慶長9 (1604) 年法橋,翌年法眼に叙された。狩野派や曾我派に絵を学んだという説もあるが,むしろ中国,宋代の牧谿画の影響が大きく,抒情性豊かな国宝『松林図屏風』 (東京国立博物館) は日本的水墨画の最高傑作と賞される。しかし最晩年の等伯画には梁楷風の粗放な作品が多い。日蓮宗の信者で本法寺の日通上人と親交が深く,上人が筆録した『等伯画説』は彼の画論として著名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
天文十一年(1542) 松平広忠の長男として誕生
天文十六年(1547) 今川の人質として送られるも織田に奪われる
天文十八年(1549) 父広忠暗殺される。今川に人質
永禄3年(1560) 桶狭間 (今川方)
元亀元年(1570) 姉川 (織田の援軍)
元亀三年(1572) 三方ヶ原 武田軍に大敗。
天正三年(1575) 長篠 設楽原 武田勝頼を撃退。
天正十年(1582) 本能寺の変 家康、小勢の為、伊賀越えで命からがら本国入り
天正十二年(1584年) 小牧長久手 秀吉と講和
天正十八年(1590) 小田原攻め 江戸転封 江戸城
慶長五年(1600) 関ケ原
慶長八年(1603) 征夷大将軍 江戸幕府
慶長二十年(1615) 大坂夏の陣 淀の方、豊臣秀頼自刃