2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
◎北陸3県は雨の国◎
全国の年間降水量レベルは北陸3県で占められている。
『弁当忘れても傘忘れるな』
(貸し傘サービスが沢山あります)
石川の伝統工芸の輪島塗・金箔は年間70%の湿度により生かされ、また、加賀友禅は金沢の曇り空に合う、グレーを基調とした色合いとなっている。雨が伝統を支え、次代につなげていると言われている。
目次
国土交通省の分類により新潟県を北陸地方に含める。ただし、経済・政治的には北陸4県より北陸3県のほうが一般的とも思われる。新潟県人の感覚では南部は関東圏・北部は東北県だと思われる。
[火打山]
新潟県南西部の妙高(みょうこう)火山群中の最高峰。標高2462メートル。山体は第三紀の深海層からなる角閃(かくせん)石玢岩(ひんがん)が差別侵食を受けて、頂上部は三角錐(すい)をなしており、中頸城(なかくびき)と西頸城の郡境をなし、日本海、北アルプスなどの展望が優れている。焼山(やけやま)と並んで妙高戸隠連山国立公園中の名山として、夏季は登山客でにぎわう。登山口には妙高山麓(さんろく)の笹ヶ峰(ささがみね)牧場から高谷池(こうやいけ)ヒュッテに出る縦走路がある。[山崎久雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[高谷池]
火打登山山頂手前にある高谷池(こうやいけ)。夏はハクサンコザクラが登山客を魅了し、秋は紅葉が登山客を呼ぶ。
近くには高谷池ヒュッテがあり、登山客の憩い場として親しまれている。
『高谷池』新潟観光ナビ様より借用
新潟県小千谷市;新潟県南魚沼市
「無形文化遺産」指定の地域遺産。
新潟県小千谷地方特に塩沢・小千谷地区は古来より上質の麻織物の産地として知られる。原料の苧麻は会津地方産の良質のものが使用され、平織に工夫を加えた縮も作られるようになっていった。雪上の晒など雪国の自然環境と風土が生産の大きな条件であった。重要無形文化財(工芸技術:染織)
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
◎『小千谷縮・越後上布』小千谷市HPより
https://www.city.ojiya.niigata.jp/soshiki/nigiwai/ojiyachijimi-bunkaisan.html
イラクサ目イラクサ科の苧麻(からむし)と言う植物を叩いて繊維を取り出した青苧(あおそ)と言うものを糊をつけて折り機で降り、雪の中にさらして作る布。
縮を加えたものを小千谷縮といい、平織りのものを上布とよぶ。
1955年5月12日に文化財として指定を受けたが、
指定にあたっては、手績(てう)み、手くびり、いざり機(ばた)、雪さらし等の古法を要件としている。
平成21年(2009年)9月30日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産として登録された。
これらの技術は現在も技術保存協会により、保存・継承が続けられています。
*戦国時代、上杉謙信が大量に作らせ、高級織物として日本海沿いに船で京都に運び高く売り、軍資金とした。
[羽賀瀬船]
はがせ【羽瀬・羽賀瀬・羽風・波働】
近世前期、日本海海運の主力として北国船とともに活躍した廻船の船型の呼称。日本海側独自の中世廻船の技術を濃厚に残した船型・構造をもつ百石から七、八百石積の荷船で、船底材や外板の結合に釘を使わないで、ちぎりとたたらで厚い板をはぎ合わせて造るため、きわめて堅牢なのが特徴。また、近世廻船にみられる台や垣立もなく、単に波除け板を舷側に立てる簡素な上廻り構造をもつ。船型は平底で莚帆を使用するため、弁才船に比べて帆走性能が悪く、漕櫓用の水夫を多数必要としたところから、経済性に優れた弁才船にとってかわられ、近世後期には越前・若狭・丹後などの廻船にしか使われなくなった。はがせそ。はがいそ。うずら。〔和漢船用集(1766)〕
北に向かう時は、沖に出て対馬海流に乗って進み、南に向かう時は海流を避けて陸伝いのルートで進んだ。むしろの帆を張って風力を動力源としていたが、多めの船員を載せ、櫂でこぐこともできたため、なぎや逆風でもバリバリ進めた。
→ 上杉謙信の時代、金だけでなく、朝鮮から伝わった「灰吹法」によって銀も取り出せるようになり、謙信の豊かな軍資金の源の一つになったと言われる。
物件:西三川砂金山、相川鶴子金銀山(新潟県佐渡市)
世界文化遺産に立候補している(令和5(2023)年1月)。詳細は、日本の世界遺産の項へ
文化庁HPの該当ページは→世界文化遺産に推薦中の文化遺産(文化庁) (PDFの資料及び紹介動画あり)
天下の険として有名な親不知、子不知海岸。親不知駅を中心とする青海駅、市振駅間約15kmの総称で、親不知駅・市振駅の間が親不知、親不知駅・青海駅の間が子不知と呼ばれています。
地名の由来はいくつかあり、以下の説がある。
北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになった。
平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった際に悲しみのあまり詠んだ「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」という歌が由来になった。
参考:『親不知・子不知(おやしらず・こしらず)』(糸魚川観光サイト) https://www.itoigawa-kanko.net/spot/oyashirazu_koshirazu/
親不知(おやしらず)は、新潟県糸魚川市の西端に位置する崖が連なった地帯。正式には親不知・子不知(おやしらず・こしらず)といい、日本海の海岸の断崖絶壁に沿って狭い砂浜があるだけで古くから交通の難所として知られる。
1967年4月11日には、面積305haの親不知子不知県立自然公園に指定された。
参考:『親不知』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5
北陸道は高速道路を海上に迂回させ、快適な通行となったが、8号線はまだ崖側を走っており、カーブの多い難所であり、歩行者は歩行は危険が伴う。
越後湯沢温泉(えちごゆざわおんせん)は、新潟県南魚沼郡湯沢町(旧越後国)にある温泉。川端康成の小説『雪国』のモデルになった温泉地である。単に湯沢温泉と呼ばれることもある。
弱アルカリ性・低張性・高温泉の単純温泉や硫黄泉・塩化物泉などいくつかの泉質の異なる源泉井がある。
源泉温度 32 - 83℃
越後湯沢駅の西側を通る県道に沿って温泉旅館やホテル、飲食店、遊興店、みやげ店、足湯などが並んでいる。
源泉は集中管理が行われ、共同浴場や宿泊施設以外に周辺の一般家庭やリゾートマンションにも配湯されている。
参考:越後湯沢観光ナビ https://www.e-yuzawa.gr.jp/sys/hotspring/
参考:『越後湯沢温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E6%B8%A9%E6%B3%89
新潟県南魚沼郡湯沢町の大峰山東麓に位置するスキー場。
「初・中級者、ファミリーに愛されるスキー場」がコンセプト。
越後湯沢駅からも徒歩8分という近さでありながら、世界最大級
166人乗りロープウェイで一気に標高1000mの高原エリアへ。
冬は上質の雪がたくさん積もる白銀の絶景が広がり、夏も貴重な
高山植物が咲き誇る雲の上の花公園として1年中楽しめる。
参考:『湯沢高原スキー場パノラマパーク』
https://www.alpinaresorts.com/shisetsu/yuzawakogen.html
湯沢高原スキー場HP https://www.yuzawakogen.com/
新潟県南魚沼郡湯沢町にあるスキー場。旧コクドの経営を引き継いだ西武グループの株式会社プリンスホテルが運営している。
東京から近い上、湯沢地区のなかでも一番の標高差があることで人気が高いとされる。豪雪地帯の湯沢地区のスキー場の中でも一番内陸側にあり、標高が高いため良質の乾いた雪が降る。
当時の西武グループの総帥だった堤義明が自ら音頭を取り、筍山(標高1,789.7m)を買い取って一大リゾート地を建設する構想を企画し、1961年に苗場国際スキー場という名称でオープンした。日本最大級のリゾートホテルである苗場プリンスホテルがスキー場内に立地している。
苗場の名前がついているが、苗場山山麓に存在しているわけではなく、清津川を挟んで苗場山と向き合う筍山の山麓にあり、苗場プリンスホテルを中心にゲレンデが構成されている。初心者から上級者向けまでバラエティーに富んだゲレンデが存在し、スキースクールも行われている。
スキー用品のレンタルや宅配便で送るサービスもあるため、手ぶら来場することも可能である。またプリンスホテルやゲレンデ(浅貝含む)のスキーチケット売り場、プロショップ、コンビニエンスストア、おサイフケータイを使用したiDなどでチケット等が購入可能となっており、財布を持たずにスキーができるような工夫も施されている。
松任谷由実が毎年、30年以上にわたってライブを続けている他、1999年からはフジロック・フェスティバルの会場ともなっている。
参考:『苗場スキー場』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E5%A0%B4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4
参考:苗場スキー場公式サイト https://www.princehotels.co.jp/ski/naeba/summer/
新潟県南魚沼郡湯沢町にある苗場スキー場とかぐらスキー場の田代エリアを結ぶ、プリンスホテルが運営するゴンドラの愛称である。
プリンスホテルによる施設名称は苗場 - 田代ゴンドラ(なえば・たしろゴンドラ)。また、通称として苗場ドラゴンドラ(なえばドラゴンドラ)も使用される。
全長は5,481mで[2][3][4][6]、日本最長のゴンドラである[3][5][6]。これは1997年の索道関係規則の改正により、ロープの結合部が1か所のみという制限が緩和され、長距離架設が可能となったことにより実現した[1]。長大な支曳索の摩擦力を増加させるため、両停留所の原動滑車・緊張滑車は二重構造となっている。ドラゴンドラ山麓駅とドラゴンドラ山頂駅の所要時間は、冬季は約15分、冬季以外は20分 - 30分で結ばれている。2001年12月21日に開業した。
冬季スキーシーズンのほか、2017年4月から季節運行を開始。2014年頃には春季の季節運行を取りやめていた時期もあったが、現在は観光活用として季節運行を行っている。
春先の新緑シーズンには「新緑のドラゴンドラ」という名称で毎年4月下旬から5月末日まで、紅葉シーズンは「紅葉のドラゴンドラ」という名称で毎年10月上旬から11月上旬で営業を行っている。
参考:『ドラゴンドラ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある神社。式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
「弥彦」は歴史的には「伊夜比古・伊夜日子・伊夜彦」などとも表記され「いやひこ」と読んでいたが、現在は「やひこ」と言い習わされている。
越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。
『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。
宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わう。
分社が北海道から山陰地方まで少なくとも47ヵ所に点在する。越後発祥の武士・山内氏が所領の会津地方(現・福島県西部)に勧請したり、移住者や新潟県で産する石油関連企業が県外で創建したりして広がった。
祭神と妃神の仲が良いことから、縁結びにご利益があるといわれている。 越後一宮であり、県内屈指のパワースポット。 杉林が続く幻想的な境内。
国学者の平田篤胤は、弥彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。
参考:『彌彦神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%8C%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
海の花火「ぎおん柏崎まつり海の大花火大会」、川の花火「長岡まつり大花火大会」、山の花火「片貝まつり浅原神社秋季例大祭」は越後三大花火と呼ばれ、圧倒的な迫力と美しさを持つ花火大会として知られている。
参考:『長岡まつり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A
◎ぎおん柏崎まつり海の大花火大会 -2024年7月26日-
夜の海を鮮やかに染める日本最大級の海上花火
◎長岡まつり大花火大会 -2024年8月2日・8月3日-
日本三大花火の一つに数えられる長岡まつりの花火大会。天地人花火
◎片貝まつり浅原神社秋季例大祭 -2024年9月13日・9月14日-
世界一の大きさを誇る四尺玉が打ち上げられる「片貝まつり浅原神社秋季例大祭」。三尺玉発祥の地であり、片貝まつりで打ち上がる「正四尺玉」は世界最大の打ち上げ花火として知られている。
参考:『光の花が夜空を彩る!越後三大花火!!』新潟観光ナビ https://niigata-kankou.or.jp/feature/three_big_fireworks/top
[長岡まつり大花火大会]
参考:長岡花火公式ウェブサイト https://nagaokamatsuri.com/learn/
参考:『長岡まつり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A
新潟県長岡市で開催される祭である。長岡まつりの2、3日目に行われる大花火大会は日本三大花火大会の一つである。
毎年8月1日から3日にかけ、長岡市内で行われる。内容は大きく分けて平和祭・昼行事・大花火大会でありその他にも灯籠流しなどがある。
祭そのものの起源は1945年8月1日の長岡空襲からの復興を願い、翌1946年8月1日に行われた戦災復興祭が始まりであるが、長岡の地で始まった花火大会はこれとは別で、1879年9月14日と15日の2日間、千手町八幡様の祭りに長原などの遊廓関係者がお金を出し合って花火350発を打ち上げたのが始まりとされている。
現在の「長岡まつり」という名称になったのは1951年のことである。
大花火大会 長岡まつり大花火大会
開催時期 8月2・3日
初回開催 1879年9月14・15日
会場・場所 新潟県長岡市長生橋下流・信濃川河川敷
打ち上げ数 2日間合計で20000発
人出 108万人(2019[6]年)
最寄駅 JR東日本 長岡駅
8月2・3日の夕方から、信濃川の河川敷で行われる花火大会。
日本三大花火大会の一つであり、2015年にはYahoo! JAPANの調査する「有名花火師が選ぶ花火大会厳選10選」で首位を獲得している。
新潟県内においては同じく中越地方の片貝まつり浅原神社秋季大祭奉納煙火(小千谷市片貝町)とぎおん柏崎まつり海の花火大会(柏崎市)と併せて越後三大花火と呼ばれている。
県内では、その開催場所から「川の長岡」「山の片貝」「海の柏崎」とそれぞれ表現されている。
この長岡花火大会は協賛金や募金によって開催されているが[8]、年を重ねる毎に規模を増している。
かつては片貝まつりと花火の大きさで競い合っており[、一例として1982年に片貝まつりが正三尺玉よりも大きい火薬量120kgの三尺五寸玉を打ち揚げると[10]、翌1983年には長岡花火も追随して三尺五寸玉を打ち上げたという。
互いに競い合って花火の規模を大きくしてもきりがなく、多量の火薬を使用する大型花火の開発を制限しようと、当時の通産省による火薬量の規制が始まり[10]、火薬使用量が80kgに制限される事態となった。
そのような経緯から実際に使用された火薬量としては、片貝の四尺玉よりも、かつての三尺五寸玉の方が多く、現在の長岡まつりの正三尺玉も片貝の四尺玉も火薬量は同じである。
日本三大花火大会:全国花火競技大会(大曲の花火)(秋田県大仙市)、土浦全国花火競技大会(茨城県土浦市)、長岡まつり大花火大会(新潟県長岡市)
越後三大花火:海の柏崎、川の長岡、山の片貝
1番の目玉は、毎年8月2日、3日に打ち上げられる長岡花火を体感できるドームシアター(2F)。臨場感あふれる大迫力の大花火を楽しめる。
入館料無料の展示室(1F)は、花火のゲームなどが楽しめる幅15m、高さ6mの大ビジョンを中心に、周囲の壁一面に長岡花火の歴史や魅力を紹介しているほか、原寸大の花火玉や花火筒の展示など、見て学び、遊んで楽しむことができる。
道の駅に隣接。高校生以上600円。
[開館時間] 10:00〜17:30
[休 館 日] 無休
12月~3月は水曜日(祝日の場合は翌日以降の平日)
年末年始(12/31〜1/2)
参考:『道の駅 ながおか花火館 HP』 https://nagaoka-hanabikan.niigata.jp/
参考:『しょうゆおこわ』農林水産省「うちのごはん」 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/shouyu_okowa_niigata.html
新潟県内全市町村(20市6町4村)をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。新潟明訓高校OBが中心となって創部した 新潟イレブンサッカークラブ(1955年)が前身。
Jリーグ百年構想による総合型地域スポーツクラブを目指しており、バスケットボールのBリーグに新潟アルビレックスBBが、Wリーグに新潟アルビレックスBBラビッツが参戦している他、2004年にスキー・スノーボードのチームアルビレックス新潟を[1]、2005年に陸上競技の新潟アルビレックスランニングクラブを創設[1]。更に、2006年にプロ野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグに参戦する新潟アルビレックス・ベースボール・クラブが、2010年にモータースポーツのアルビレックスレーシングチームが創設されている。
参考:『新潟アルビレックス』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E6%96%B0%E6%BD%9F
参考:新潟アルビレックス公式サイト https://www.albirex.co.jp/
新潟県柏崎市及び刈羽郡刈羽村にまたがる東京電力ホールディングスの原子力発電所。略称はKK(ケーケー)。
1号機から7号機までの7基の原子炉を有し、合計出力は821万2千kWである[2]。1997年7月2日に7号機が営業運転を開始したことで、それまで最大だったカナダのブルース原子力発電所の出力を抜き、世界最大の原子力発電所となった[3]。
発電された電気は、新新潟幹線及び南新潟幹線の2系統の各々50万V送電により、一旦群馬県吾妻郡中之条町の西群馬開閉所に収容され、そこから首都圏に送電される[4]。
東京電力ホールディングスはその事業地域内に原子力発電所を有しない電力会社であり、この発電所が所在する新潟県は東北電力の事業地域である。両者の協定に基づき、この電力の一部は東北電力に供給される。
2007年の新潟県中越沖地震発生時、稼働する全ての原子炉は自動停止した。3号機のすぐ横の変圧器からの火災は地震発生から2時間後に鎮火した。この地震では、柏崎市で震度6強を観測したため、運転を行っていた2、3、4、7号機は自動で緊急停止した。原子炉・冷却用冷媒等の重要な機構からの外部への放射性物質の流出は確認されていない。また、3号機建屋外部にあるの所内変圧器から出火したが、地震から1時間57分後の12時10分に鎮火が確認されている。その他、低レベル放射性廃棄物の入ったドラム缶400本が倒れた。うち39本のドラム缶は蓋が開いており、床の1カ所で微量の放射性物質汚染が確認された。6号機の原子炉建物内において鉄製クレーンの駆動部が損傷していた事も分かった。
参考:『柏崎原子力発電所』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%B4%8E%E5%88%88%E7%BE%BD%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
塩谷集落から岩船港にかけての海岸沿いに広がる280ヘクタールの赤松林の中に「お幕場」があります。昔、村上藩主や家臣らが赤松林に幕を張り、野宴を楽しんだと伝えられたことから、この松林を「お幕場」と呼んでいます。また、日本の白砂青松百選に選ばれたこの景勝地に包まれるように、約3万平方メートルの砂丘湖「大池」があります。この大池周辺を憩いの場として、平成元年から年次的に整備を進め、平成9年に完成したのが「お幕場大池公園」です。国道345号沿いにあり、遊歩道や湖上の水鳥などを観察できる展望台や出島もあります。「県北の白鳥の湖」として知られる大池には、毎年10月中旬頃から白鳥が飛来し、4月中旬ころまでの早朝や夕方には湖面に翼を休ませる光景を楽しむことができます。 (鳥インフルエンザのため、2023年12月から当面の間閉鎖中)
参考:『お幕場・大池公園』(「むらかみの観光情報」(村上市)) https://www.city.murakami.lg.jp/site/kanko/omakuba-ouikekouen.html
新潟県と山形県を隔てる分水嶺上の標高555メートルの山、それが日本国です。
名前の由来は諸説あり、その昔、この山で捕まえた鷹を将軍に献上したところ、将軍はその鷹をえらく喜んで、その捕まえた山の名前を「日本国」にしたという説や、古代の柵に因むもの、崇峻天皇の皇子に因むものの説があります。山頂に立てば、まさに日本の頂上に立った気分に。子どもからお年寄りまで、多くの登山客に親しまれています。
また、ふもとの小俣集落は、出羽街道の宿場街として独特のおもむきがあります。
参考:「日本国登山口」(村上の観光情報(村上市)) https://www.city.murakami.lg.jp/site/kanko/nihongoku.html
住所:村上市小俣地内
※登山口休憩所の住所 村上市小俣151-34
白味噌ラーメン
ふるまち5番街
ドカベンのキャラクターがロードのあちこちに。
新潟県新潟市中央区の信濃川に架かる国道7号(重複: 国道8号、国道17号、国道113号、国道350号)の道路橋梁。国の重要文化財に指定されている。新潟市の信濃川に架橋された初めての橋で、1886年(明治19年)に初代橋が竣工された。
東大通、萬代橋通りと柾谷小路とを結び、新潟駅万代口から万代シテイを経て古町に至る中央区中心部のメインストリートの一部を成す。信濃川にかかる石橋。初代萬代橋は木製で明治19年建築。現在の橋は、3代目。国の重要文化財。
第3代となる現橋は1929年(昭和4年)6月に竣工、側面に御影石(花崗岩)の化粧板を施した6つのアーチを連ねる鉄筋コンクリート橋である。橋長306.9 m、幅員22.0 m。車道は片側2車線の計4車線で、車道両端に自転車歩行者道を備え、橋梁両詰には橋詰広場が計4箇所設けられている。また橋梁両詰には人道函渠(ボックスカルバート)が各1箇所設けられ、西詰(左岸側)は新潟市道川岸町下大川前通線(信濃川左岸線)、東詰(右岸側)は新潟市道信濃川右岸線をそれぞれ立体交差によりオーバーパスしており、両市道の歩道との間には橋詰広場とを連絡する階段が設けられている。
現橋梁は当初、車道の中央部に路面電車の軌道を通す併用軌道の橋梁として設計されたが実現に至らず、車道は上下計4車線の道路となっている。
商業地の万代シティにも近く、歩道も整えられており、橋梁も美しいので、インスタなどSNSスポットとしても有名で観光資源となっている。
参考:『萬代橋』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E4%BB%A3%E6%A9%8B
メディアシップ20階。
新発田市発祥。明治頃考案された黒砂糖と小麦粉を混ぜて細長く焼き上げたソウルフード菓子。
蒸気パンとも。
食感はほろほろ、味はやさしい甘さで蒸しパンのような柔らかさだそうです。(富山の遊び場さん(youtube))
参考:『ポッポ焼き』(にいがた観光ナビ)(公益社団法人 新潟観光協会)
柏崎市。赤鬼伝説。鬼が住んでいたと言う伝説があるらしい。
信濃川・阿賀野川→日本の川の項へ
富山市
富岩運河環水公園(ふがんうんがかんすいこうえん)は、富山県富山市湊入船町にある富山県立の都市公園(総合公園)である。通称は環水公園。
とやま都市MIRAI計画のシンボルゾーンとして、富岩運河の牛島町側の船溜まりを整備した公園で、市民の憩いの場として広く利用されている。面積は9.7ha。別称カナルパーク。
環水公園は日本の歴史公園100選の一つに選ばれているほか、2013年10月には、第29回都市公園コンクールにて最高賞である、国土交通大臣賞(設計部門・大規模)を受賞している。また、環水公園西地区には富山県美術館 アート & デザインが所在するほか、4月から11月にかけて富岩運河には遊覧船が就航している。1984年度に『とやま二十一世紀水公園神通川プラン』で富岩運河南端の船溜まりの公園化が提案され、1988年、富山駅北地区の新都市拠点整備事業「とやま都市MIRAI計画」により工事が始まった。園内には、通常の公園施設のほか、船溜まり横を流れるいたち川と船溜まりを水路で繋ぐ、国の登録有形文化財に登録されている牛島閘門・中島閘門などが残されている(遊覧船で体験できる)。
立山黒部アルペンルートなど雄大な自然に恵まれている富山市だが、観光資源にもなる文化的施設には今一つ欠けていた。使われなくなった富岩運河の跡地を埋め立てて交通施設などを建築するなどの計画も立てられていたが、あえて残し、ヨーロッパ風の広大な公園に生まれ変わらせた。また、上記のように閘門なども残して遊覧船(冬場は運休)で歴史体験させることによって富山市内外向けの観光施設になっていると思われる。また、園内には近代美術館を前身とする富山県美術館も建てられている。ピカソ、ロートレック、ルオー、シャガール 、ジョアン・ミロやマルセル・デュシャンなどの作品のほか、シュルレアリスム作家の作品を中心としたコレクションを収蔵・展示している。特別展もなかなかユニークだ。
富山県美術館アート&デザイン公式サイト→https://tad-toyama.jp/
富山市西町にある複合施設TOYAMAキラリ(私立図書館と銀行と美術館がある)内にある公営美術館。2015年開館。
公式サイト→ https://toyama-glass-art-museum.jp/
富山は全国的に現在も売薬で知られるが、明治以降、薬瓶の生産でガラス産業が盛んだった。第2次世界大戦以降、一旦ガラス産業が寂れたものの、富山市が全国唯一の公立ガラス作家養成専門機関として、西金屋・古沢地区に富山市立富山ガラス造形研究所を開設、1994年(平成6年)4月には富山ガラス工房を整備するなど、ガラス産業の復興に努めた。2001年(平成13年)にはガラス美術館基本構想を策定し、後に富山市ガラスの街づくりプランとして再構築した。2015年に北陸の大手デパートの移転跡に富山市ガラス美術館として開館した。全国でも珍しい美しいガラス美術に特化した展示が人気を呼び、2020年には100万人入場者数を獲得している。
美術館用の駐車場は無く、街の真ん中であるため他の駐車場も繁忙期にはなかなか停められないこともあって、富山市は公共交通機関の利用を奨励している。しかし、交通の便は良く、空港からも30分かからない程度、富山駅からはバス・市電の西町停留場下車1分のアクセスの良さである。
参考:富山市ガラス美術館wikipedia
この美術館内のガラス作品は本当に美しく、また展示も非常に工夫されているので一見の価値があるように思った。
なお、ガラス美術館が入っている、3種類のパネル約1,000枚が並べられた外壁や、2階から6階まで斜めに開いた吹き抜け空間が特徴のTOYAMAキラリは、アール・アイ・エー(RIA)、サントリー美術館や高輪ゲートウェイ駅などを設計した隈研吾建築都市設計事務所、三四五建築研究所の3社による共同企業体(JV)が設計を担当し、西町南地区第一種市街地再開発事業の一環として建設された。
TOYAMAキラリ(富山市ガラス美術館)
写真出処:wikipedia
Mapmoe - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=43424512による
参考:『天然の生け簀 富山湾鮨』 http://www.toyamawan-sushi.jp/
引用
「天然の生け簀」富山湾の恵み 富山でしか味わえない旬の地魚鮨「富山湾鮨」をどうぞ
3,000m級の立山連峰の雪解け水が注ぎ込む富山湾。
その海流と特殊な海中地形により多種多彩な魚の住処となっていることから
「天然の生け簀」と称されています。
鮮度抜群・魚種豊富な富山湾の地魚をネタにした、「富山に来た方だけが堪能できる
贅沢な寿司」それが「富山湾鮨」です。
富山湾鮨のご案内
価 格
2,700円〜5,500円(税込)の定価
内 容
富山湾産の旬の地魚を使用した寿司10貫
米どころ富山県が誇る県産米のシャリ
富山らしい汁物付き
※天候等の都合でやむを得ず地魚を十分に仕入れることができない場合は、
事情を説明の上、一部のネタを富山湾産以外のもので代用する場合がございます。
お客様に提供の際には、寿司ネタについてご説明いたします。
前日までに富山湾鮨をご予約いただくと特典がつきます。(小鉢一品等、店舗により異なります)
参考:『「富山湾鮨」を食べに行こう』(富山県観光公式サイト とやま観光ナビ) https://www.info-toyama.com/stories/toyamawan-sushi
「富山湾鮨」は”天然の生け簀”と呼ばれる富山湾の鮮度抜群の地魚を使った、富山に来た人だけが堪能できる贅沢なお寿司です。
内容は富山湾で獲れた旬の地魚、富山県産米のシャリを使った寿司10貫、富山らしい汁物を提供することが決まっており、旬を表す地魚の握りが目の前に10貫並べられ、ネタの名前を一貫ずつ教えてもらえます。
価格は2,700円〜5,500円(税込)の範囲と決まっているので、カウンターのお寿司屋さんが初めての人でも安心です。
前日までに予約するとうれしい特典(小鉢や寿司一貫など店ごとのサービス)もあるので、予約してから訪れるのがおすすめです。
「昆布の表面を削ったものが「黒とろろ昆布」、昆布の中を削ったものが「白とろろ昆布」です。 昆布は酢で柔らかくしてから削るため表面を削った「黒とろろ」の方が酸味が強く、「白とろろ」の方があっさりとしています。 ご飯やおにぎりにつけても召し上り下さい。 「白とろろ」はお吸い物に浮べてもお使いいただけます。 」
◎京都の昆布専門店の記述を引用させていただきました。
富山ではさまざまな料理に昆布が使われます。おにぎりも海苔でなく、とろろ昆布で巻きます。駅前のコンビニや弁当屋では白とろろと黒とろろのおにぎりを売っています。付け合わせの汁もとろろ昆布をお湯に解いて梅干しなどで味をつけたものである。
富山県の昆布の消費量は全国トップ級であるが、富山県では昆布は生産していない。江戸時代・明治時代に北前船が富山の港に寄港した際、北海道産の昆布を大量に購入していたことから始まった昆布文化が始まったと言われている。
参考:『富山県
とろろ昆布のおにぎり(とろろこんぶのおにぎり)』(うちの郷土料理・農林水産省)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/37_7_toyama.html
呉東
2023年日本地理試験に立山黒部アルペンルートが出題されている。
参考:『はじめてのアルペンルート~立山黒部アルペンルートとは』立山黒部アルペンルート公式サイト https://www.alpen-route.com/about/
立山黒部アルペンルートは標高3,000m級の峰々が連なる北アルプスを貫く世界有数の山岳観光ルートです。総延長37.2km、最大高低差は1,975m。そのほぼ全区間が中部山岳国立公園内にあります。富山県側の立山町「立山駅」から長野県側の大町市「扇沢駅」まで乗り物を乗り継ぎ、いくつもの景勝地を通って気軽に、雲上に広がる立山黒部の雄大な大自然を満喫することができます。
下図参照。
◎富山県側からのルート(赤字は駅名)
JR富山駅(北陸新幹線・高山本線・あいの風とやま鉄道)~(徒歩)~電鉄富山駅~(富山地方鉄道)~立山駅~(立山ケーブルカー)~美女平・弥陀ヶ原~(立山高原バス)~室堂~(立山トンネルトロリーバス)~大観峰~(立山ロープウェイ)~黒部平~(黒部ケーブルカー)~黒部湖~(徒歩)~黒部ダム~(関電トンネル電気バス)~扇沢~(路線バス・特急バス)~大町温泉郷・JR長野(北陸新幹線・信越本線・篠ノ井線・飯山線・しなの鉄道)
参考:『立山黒部アルペンルート』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E9%BB%92%E9%83%A8%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88
富山県中新川郡立山町の立山駅と、長野県大町市の扇沢駅とを結ぶ、総延長37.2km[1]の山岳観光ルートである。1970年(昭和45年)7月1日に命名され[2]、1971年(昭和46年)6月1日に全線が開通した。なお、電鉄富山駅から立山駅まで、および扇沢駅から長野駅までを含む場合もある。
立山駅から扇沢駅までは、ほぼ西から東に25km足らずの直線距離だが、最大高低差は1,975m(最高2450m、最低475m)あり、ルート内の交通機関として、立山連峰の景観を望む立山ロープウェイ、全線地下式のケーブルカー、黒部ダム建設に用いられたトンネルを通る電気バス、日本国内一の堤高を持つ黒部ダムの堰堤上の徒歩での移動など、様々な乗り物を乗り継いで移動する。そのほぼ全区間が中部山岳国立公園内にあり、飛騨山脈・立山連峰を貫き、黒部ダムなどのいくつもの景勝地を通る。途中駅にはホテル立山などの宿泊施設もあり、それぞれが登山、散策、トレッキング、その他の観光コースの基点にもなっている。本ルートは4月半ばから開通し、11月半ばに閉鎖される(天候によりやや前後する)。
最高地点は、立山登山の基点ともなる室堂で標高2,450m。富山県側の立山から黒部湖までの区間は山岳観光や立山登山客の便を図るために作られた。黒部ダムから扇沢の区間(途中に富山県、長野県の県境)は黒部ダム建設の資材運搬のために建設され、ダム完成後に一般の旅客に開放された。
立山黒部アルペンルートは、富山県と長野県とを最短距離で結ぶ交通路である。しかし、自然保護の観点などから運賃が高額に設定されている、多くの乗り物を乗り継がなければならない(特に黒部湖駅から黒部ダム駅への乗り継ぎでは600mほど歩く必要がある)、距離の割に所要時間が長いといった理由から、富山・長野間の移動を主目的として用いられることは少ない。利用者の大半は山岳や黒部ダムの観光を目的とする両県外からの観光客である。また、富山空港に韓国や中国、台湾、タイからの国際線が乗り入れるようになってから、これらの国々からの観光客が目立つようになった(英語、中国語、韓国語による旅客案内の整備も行われている)。
なお、桂台料金所 - 美女平間および追分 - 室堂間の立山有料道路(富山県道6号富山立山公園線の一部)は、マイカー規制として路線バス、観光バスや公安委員会の許可を受けた車両、緊急自動車しか通行できない。
立山黒部アルペンルート公式サイトさんからお借りしました。
参考動画:『立山登山したことない人へ 富山県民が登ってきた How to climb Mt. Tate in 10 mins.』富山の遊び場!TV(youtube)
https://youtu.be/jCjX7kyFSyg?si=jOb1oT2jKYu1H5Od 富山県民は高学年になると登る立山。いざ登ってみたら大変だっという動画です。
参考動画:『【立山登山の注意点(夏山・秋山編)】遭難事故にあわないために 【Precautions for climbing Tateyama (Summer・Fall version)】』富山県警察公式チャンネル https://youtu.be/3fl-47mMM_w?si=hPERzQyQK1YaVD_h
高山病などによる項移動不能、転倒・落石による負傷。2,540mの室堂までバスで行けるので軽装備・不注意になりがちだが、登るのは3000m級の鉱山なので注意を怠ると思わぬ事故に。運動靴では残雪もあり一の越ですでに滑りやすいので登山靴がマスト。3点支持。雨具・ツエルトの携行。天気が悪い時、体調不良の時は縦走を諦め下山をする。道迷い。携帯のGPS機能に加え、紙の地図、コンパスの活用。
入念な事前準備 段取り八分
ゆとりのある登山計画の作成と提出
事前の体力トレーニングの実施
危急児を見据えた装備品の準備と携行
気象情報や登山情報の収集
体調変化のきざしを見逃さない
高山病・熱中症・低体温症
公式HP→ 『黒四ダム』 https://www.kurobe-dam.com/
参考:『世紀の大工事 ~くろよん建設ヒストリー~』(関西電力) https://www.kepco.co.jp/brand/kuroyon_history/
(関西の方はぜひお読みください)
黒部ダムでは、初期、「黒部には怪我なし」と言われた水平歩道(仙人谷~黒部ダムの16㎞の登山道。道幅は人幅くらい)、かつては歩荷(ぼっか)たちが歩いて重い建築資材を担いで運んだ。
参考:『水平歩道』(黒部・宇奈月温泉観光局公式サイト 黒部めぐり) https://www.kurobe-unazuki.jp/tourism/453/
参考:『新プロジェクトX~挑戦者たち~ 厳冬 黒四ダムに挑む~断崖絶壁の輸送作戦~』NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137563SA000/
2024年4月27日再放送
参考:『黒部湖遊覧船の事業終了のご案内』 https://www.kurobe-dam.com/news/20240527_1.html
近年の団体旅行などの減少による乗客数の減少と船体の老朽化により、黒部湖遊覧船「ガルベ号」は今年度の営業(2024年6月1日~11月10日)をもって終了することとなった。
本年は運航最終年になるため、「ガルベラストイヤーキャンペーン」として、以下の通り各種イベント等を実施している。
<黒部湖遊覧船「ガルベ」ラストイヤーキャンペーン>
1.メモリアル商品の販売(船舶、ダム、扇沢各売店)
2.乗船記念缶バッジ付き乗船券(期間限定)
3.黒部ダムレストにて遊覧船「ガルベ」コラボメニュー
4.遊覧船船着場にてお弁当販売(ガル弁当)
5.黒部ダムレストドリンクコーナーにて遊覧船「ガルベ」スイーツ販売
6.乗船記念「船舶カード」進呈(期間限定先着1,000枚)
7.操舵室にて記念撮影(日時限定)
8.山の日イベント(8/11 お子様乗船無料、グッズ販売など)
参考:『黒部ダム』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%83%A8%E3%83%80%E3%83%A0
黒部ダム(くろべダム)は、富山県東部の中新川郡立山町を流れる黒部川水系の黒部川に建設された水力発電専用のダムである。1956年(昭和31年)着工、太田垣士郎指揮の下、171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて、1961年1月に送電を開始し、1963年(昭和38年)6月5日に完成した。貯水量約2億㎥。
北アルプスの立山連峰と後立山連峰に挟まれた黒部峡谷にある黒部ダムは、黒部川下流域の海に面する黒部市から直線距離で約40キロメートル南東に位置し、長野県大町市から直線距離で約20キロメートル西に位置する(県境から約3キロメートル西に位置する)。標高は1,454m。
黒部ダムの水は平均水温4度。ダム右岸の取水口から、山中に掘られた導水路(専用トンネル)を通って、約10キロメートル下流の地下に建設された黒部川第四発電所(黒四)に送られて、ダムとの545.5メートルの落差で発電する。この発電所の名称から黒四ダム(くろよんダム)とも呼ばれる。
富山県は北陸電力送配電の送配電地域であるが、黒部ダムは関西電力が建設し、発電された電気は関西電力送配電の送配電地域に送電されている。
ダムの各観光施設は関電アメニックスくろよん観光事業部が運営している。6月下旬から10月中旬頃までダム湖の水を放流する「観光放水」が行われ、ダム展望台、放水観覧ステージ、新展望広場の各所から見学することができる。新展望広場特設会場内では石原裕次郎記念館から移設された映画「黒部の太陽」のトンネルセットのレプリカを展示しており、ダム建設に関する映像やパネルを見ることができる。(注:放水は湖底を痛めないため、霧状で放水される)
レストハウスのレストランではダム湖をモチーフにした名物の「黒部ダムカレー」を食べることができる。また、黒部ダム左岸側から上流側に数分歩いた地点には遊覧船ガルベの乗り場があり、黒部湖を乗船時間30分ほどで周遊することができる。厳冬期における湖面凍結による損傷を避けるため、晩秋・初冬になるとガルベは湖面から引き揚げられ、翌年初夏に運航を再開する。遊覧船は2024年度シーズンを最後に終了する予定である。
遊覧船乗り場からさらに上流側には湖畔遊歩道が続き、山小屋のロッジくろよんで折り返して往復1時間ほどで散策できるが、ロッジくろよんより先は登山装備を要する急峻な地形を結ぶ登山道となっている。1976年には沢の増水により26人が取り残されるなど遭難事故も発生しやすい環境にある。
2023年度日本地理の出題に立山信仰の拠点として芦峅寺を選択する設問があった。その関連事項として文中に『中語』に言及があった。
参考:『立山ガイド『中語』と芦峅寺ガイド 立山ガイド協会の設立100周年の記念式典に参加して』(日本山岳救助機構合同会社) https://sangakujro.com/%e7%ab%8b%e5%b1%b1%e3%82%ac%e3%82%a4%e3%83%89%e3%80%80%e3%80%8e%e4%b8%ad%e8%aa%9e%e3%80%8f%e3%81%a8%e8%8a%a6%e5%b3%85%e5%af%ba%e3%82%ac%e3%82%a4%e3%83%89/
※日本登山史に名を連ねた芦峅寺(あしくらじ)ガイドの起源は、立山登拝登山の案内人であった中語(ちゅうご)に始まる。
中語は江戸時代の後半から始まり、宿坊の衆徒(僧侶)に代わって、神仏の心を立山登拝者に伝え、登拝者の願いを神仏に伝える役目であった。
※芦峅寺の集落の山案内人は、登山の脇役として日本の登山史に燦然と輝いている。
※山案内人は狩猟の経験によって、雪山の登下降のスキルや生活技術、雪崩の予知などを体得していた。
※また芦峅寺の集落の人たちの遭難には、村中が総動員体制で捜索するしきたりがあった。こうした絆を保ち続けた歴史が、この集落の人々の結束を育んできたに違いない。
※そして登山者である、お客様を大切にする習性は、長い歴史のなかで集落の人々の血肉に深くしみ込んできたものである。
※100年以上もの長い間、立山・剣岳方面の登山にかかわってきた、集落の歴史はまことに興味深いものがある。
※芦峅寺ガイドには、いつの時代にも圧倒的に佐伯姓が多い。その中で近代登山案内の原型を築き上げた一人として佐伯平蔵がいた。芦峅寺ガイドの草分けの系統である平蔵は日本山岳会・近藤茂吉を長次郎谷から剣岳へと案内し、別山尾根を初めて下降した。
近藤は尾根から剣沢へ落ち込む谷を平蔵谷と名付けた。宇治長次郎が初めて下降した谷であるにも関わらずである。
参考:『立山をめぐる山岳ガイドたち』(PDF)(立山カルデラ砂防博物館) https://www.tatecal.or.jp/tatecal/zuroku/zuroku_preview/2010tateyama-guides.pdf
参考:『中語(ちゅうご)』世界大百科事典(旧版)からの引用 コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%AA%9E-1366780#goog_rewarded
強力(ごうりき):…後には,霊山での登拝者の従者,荷を負って登山客の山案内をする人の意に変化した。立山では,中語(ちゆうご)と称し,登拝者は,山麓でこの人を頼み,その案内で山に登り,山中の各所で故事伝説を語り聞かせられつつ,山頂に至った。中語の本義は,神と人との間に立って,相互の意志を伝えあう媒介機能を果たすものを意味したと思われる。…
2023年度日本地理の出題に立山信仰の拠点として芦峅寺を選択する設問があった。
参考:『芦峅寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E5%B3%85%E5%AF%BA
芦峅寺(あしくらじ)は、富山県中新川郡立山町の地名で立山連峰の玄関口である。もとは神仏習合の形態であった当時の「雄山神社 中宮祈願殿」の寺名で、中宮寺とも呼ばれていた。
芦峅寺の門前は、昔から優秀な山案内人や山小屋経営者を多数輩出してきた。江戸時代から立山信仰の拠点として栄え、戦後は山岳ガイドの集落として知られた。
住民の名字は、そのほとんどが佐伯有頼による立山開山伝説に端を発する「佐伯」「志鷹」の2姓で占められている。そのため、住民同士が互いを呼び合う際には下の名前や屋号を用いることが多い。
なお、芦峅寺地内には、雄山神社や富山県立山博物館、国立立山青少年自然の家などがある。
立山ガイドは江戸時代の立山修験(立山信仰)の「御師」に始まると考えられている。「立山曼荼羅」で多くの人を霊山立山に呼び、芦峅寺などにある宿坊に泊めた。
現在、登山者の間では立山町のガイドは「勇敢で登山者を命懸けで守る」と評判で、民間救助隊員として遭難救助に活躍した者も少なくない。幼いころから立山信仰とともに生き、山とともにある暮らしの中で山の知恵を学んでいった。
称名滝(しょうみょうだき)は、富山県中新川郡立山町にある立山連峰を源流とする滝。その落差は350mで、日本一を誇る。弥陀ヶ原台地から一気に流れ落ち、称名川となった後に常願寺川へ注ぎ込む。
称名滝の落差は350mで、日本一とも言われる規模を誇る四段構成の滝であり、一段目(最上部)が70m、二段目58m、三段目96m、四段目が126mで、滝つぼの直径は60m、深さは約6mある。国指定の名勝および天然記念物であり、日本の滝百選、日本の音風景100選に選定されている他、日本三大名瀑に選ばれることがある。名称は、法然が滝の轟音を「南無阿弥陀仏」という称名念仏の声と聞いたことに由来すると伝えられている。
2020年(令和2年)時点で、この付近は降雪も含め年間約6000mmもの降水量による水量や、地質の関係で最下段(四段目)部分に新たな段差が出来て、滝の段差が5段になりつつあることが、立山カルデラ砂防博物館の調査でわかった。なお新たな段差ができ始めた時期は2005年(平成17年)頃とされており、今後の調査・研究により明らかにしたいとしている。
参考:『常願寺川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%A1%98%E5%AF%BA%E5%B7%9D
常願寺川(じょうがんじがわ)は、富山県中新川郡立山町 および富山市を流れ富山湾に注ぐ一級河川。「常願寺川」の名称は鎌倉時代になって文献に現れる。
古代から洪水が多かったため、川の名前は「出水(氾濫)なきを常に願う」という沿岸住民の気持ちをこめた瑞祥名称である。また、立山の山中にある「常願寺」、下流の川沿いにある「常願寺村」、上流にある大岩「常願の岩」から名付けられた説もある。
富山県の七大河川(黒部川、片貝川、早月川、常願寺川、神通川、庄川、小矢部川)の一つである。
1891年(明治24年)7月19日から20日にかけて、常願寺川では両岸の堤防が決壊する豪雨災害が発生した[1]。富山県知事の森山茂は国に専門技師の派遣を要請し、同年8月6日にヨハニス・デ・レーケが富山に到着した。
デ・レーケは、取水口を一つにまとめて新規用水路を開削すること、新堤防の築造、下流の流路変更(白岩川との分離)、川幅の拡張を提案した。これを受けて1892年(明治25年)2月から本格的改修工事に着手し、1年4カ月の工期で完成した。これ以降は合流部の川幅が白岩川のみとなったことで狭くなったため、後に埋め立てた上で商店街(立山町商栄会)や住宅地となった。
上流域では主にイワナが生息する。下流域ではカジカや鮎、ウグイ、メダカ、トミヨなどが生息する。河床内で越冬・産卵するアジメドジョウが大河川では珍しく広範に生息する。
常願寺川の改修工事のために政府から派遣されたオランダ人の技師のヨハネス・デ・レーケが、「これは川ではない。滝である」と言ったと伝えられている。この言葉は、実際には「とても急流だ」というような意味のことを言ったのが誇張されて(または誤訳されて)報告されたものであるが、常願寺川の急流の凄さを表現する言葉としてよく引用されている。内務大臣に提出した県知事の上申書に「川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」とあり、これをデ・レーケの発言とする説もあるが、どれも明確ではない。また、常願寺川の改修に携わった富山県の土木技師、高田雪太郎の発言とする説も有力視されていた。
参考:『タラ汁』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%89%E6%B1%81
日本海側のタラの漁獲がある地域に存在しているタラの郷土料理のひとつ。味噌汁で煮た味噌煮込み料理。原料として安価なスケソウダラが多く用いられる。
富山県、石川県、山形県、秋田県、北海道など日本海側の各地に存在している。山形県庄内地方ではどんがら汁。
富山県朝日町では、漁師が、船の上で獲れたてのスケソウダラをぶつ切りにして食していたが、浜に戻ってから家族とともに食す慣わしとなり、地域の家庭料理として定着していった。この浜汁を夏の海水浴客や温泉客に提供したところ評判を呼び、今日の宮崎・境海岸(通称ヒスイ海岸)名物の定番料理となった。
富山県朝日町の浜に併走する国道8号沿いは「たら汁街道」と呼ばれて多くの店が立ち並び、観光客などに提供されている。乱獲や海水温の変化によって日本海のスケソウダラ水揚げ量は激減してしまったが、近年では北海道産などに切り替えて郷土の味を守り続けている。
食べ方.. スケトウダラをぶつ切りにし、鱗、尾を除く頭部から胴体までの全身を鍋に入れて味噌で煮込み、生じるアクを取り除いてから食する。身が淡泊な味わいである一方、キモ(肝臓)の部分は深みのある、濃厚でまろやかな味わいである。特に冬季は白子 (精巣)と真子(卵巣)が成熟していることから旨味が濃厚となり、また、体が温まりやすい。ネギの他にゴボウも入れて食することが多いが、ネギの香味とゴボウの素朴で繊維質な味わいが、タラと味噌の混和した味の風味を引き締めて芳醇な旨味を際立たせる。
参考:『たら汁 富山県』(農林水産省 うちの郷土料理) https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/37_2_toyama.html
富山県の東端にある朝日町は、山側に北アルプス、日本海側にはヒスイの原石が採れる美しいヒスイ海岸が広がる自然豊かな土地。「たら汁」はこの町で発祥した伝統的な汁物である。海岸沿いの国道8号周辺には「たら汁」を提供する店が立ち並び「たら汁街道」とも呼ばれる。朝日町はかつてタラの水揚げ量が豊富で、漁へ出た男たちを温かく出迎えようと漁師の女房たちが流木を集め大鍋を沸かし、味噌とタラを入れ煮込んで作ったのがはじまり。漁に携わった人たちみんなで大鍋を囲み浜辺で円座になって食べていた。
美味しさの決め手は、スケソウダラを一匹まるごとぶつ切りにして、身、頭、肝、白子、真子を使って豪快に煮込むこと。鮮度が落ちやすいタラは当時、地元の浜辺で干ダラや一本焼きにして売られていたが、現在は海水温の上昇からか地元ではほとんど獲れず、東北や北海道産が使われている。
8号線での通行が観光としてはお薦め。紅い・青いライトが不気味。
呉西
HP→海王丸パークHP http://www.kaiwomaru.jp/
海の貴婦人と呼ばれる海王丸。
この純白の帆船を中心に広がる海王丸パークは、人びとが集い、学び、憩う、素敵なベイエリアです。
さわやかな潮風を体いっぱいにうけながら、海のロマンを満喫してください。
海王丸パークは海王丸の進水日が2月14日のバレンタインデーであることから、「恋人の聖地」に選定され、これを機に「幸せのベル結婚式」や婚活イベント「海王丸恋人フェスティバル」を実施しています。
また、富山湾が「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟したことを記念して、記念モニュメントが設置されています。
海王丸は、商船学校の練習船として誕生した帆船です。昭和5年2月14日に進水して以来、59年余の間に106万海里(地球約50周)を航海し、11,190名もの海の若人を育てました。海王丸パークでは、この海王丸を現役中の姿そのままで公開しています。年10回行われる総帆展帆は見逃せません。
海王丸は、2018年7月20日に歴史的・文化的な価値が認められ、「ふね遺産」に認定されました。2018年8月に一般公開を始めて以来の累計乗船者数が200万人に達しました。子供たちを対象にした海洋教室には、これまで3万4千名以上が参加しております。
海王丸パークは、いつでもご利用になれます。
※大駐車場完備(普通車600台、大型バス用7台)
利用料金 無料
参考:『海王丸(初代)』Wikipedia中の「海王丸パーク」の項 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E4%B8%B8_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)#%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E4%B8%B8%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
海王丸が現在展示されている富山県射水市海王町の公園で、「みなとオアシス海王丸パーク」としてみなとオアシスに登録されている。海王丸がこの地に保存されているのは、海王丸で多くの「海の男」が育った旧富山商船高等専門学校(現在の富山高等専門学校射水キャンパス)が近くにあるからである。
伏木富山港の新湊地区(富山新港)内に建設され、1989年(平成元年)9月に退役した航海練習船海王丸の係留・展示施設として、1990年(平成2年)12月に着工、1992年(平成4年)7月5日の「日本海交流センター」設置を以てオープンした。設置は富山県が行い、管理運営は伏木富山港・海王丸財団が行っている。当初は大阪市と交互に展示することになっていたが、「海の貴婦人」は管理運営の金銭的負担が大きいために、大阪市が誘致を断念し、そのまま新湊地区に保存されることになった。冬季を除き、月1くらいで10回ほどボランティアによる総帆展帆(そうはんてんぱん。帆を全て展げるイベント)並びに登檣礼が行われ、多くの観光客が集まる。また冬季には普段非公開のエンジンルームや船の見学会が日時限定で開催される。
公園内並びに近隣は海王丸の展示を中心に、広場・飲食店・売店・研修施設などで構成されている。近くにはバードパーク、「新湊きっときと市場」[15]などがあり、2012年(平成24年)9月に開通した新湊大橋と立山連峰を背景にしたパノラマは人気になっている。海王丸の進水日がバレンタインデーの2月14日であることから、恋人の聖地に認定されている[。タイムベルを鳴らして祝う船上結婚式も受け付けている。
参考:『ベル・モンターニュ・エ・メール』(JRおでかけネット) https://www.jr-odekake.net/railroad/kankoutrain/area_hokuriku/berumonta/
参考:『ベル・モンターニュ・エ・メール』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
ベル・モンターニュ・エ・メール(Belles montagnes et mer)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が氷見線・城端線で運行する臨時快速列車(観光列車)、ならびに同列車で使用される鉄道車両の愛称である。べるもんたの公式愛称がつけられている。
2015年10月より実施される「北陸デスティネーションキャンペーン」に合わせて、北陸新幹線と城端線が接続する新高岡駅を軸とする城端線と氷見線の観光列車として、同年10月10日より運行を開始した[4]。「走るギャラリー」のコンセプトを基に、山と海の変化に富んだ両線の美しい車窓を1枚の絵画のように演出するデザインとしている。
高岡駅を起点に城端線は山側に、氷見線は海側に伸びることから、このエリアの特徴である「美しい山と海」をフランス語に訳した「ベル・モンターニュ・エ・メール(Belles montagnes et mer)」を列車名とする[5][6]ことで、国内の旅行客にインパクトを与えるとともに、海外の旅行客への認知をも図っている。
なお、車内には高岡銅器、井波彫刻といった沿線の伝統工芸が飾られ、食のサービスとして、同乗した板前による握りたての寿司や地酒の飲み比べを味わうことができる[3][5][6]。「ぷち富山湾鮨セット」(提供区間限定)と「ほろ酔いセット」が提供はそれぞれ、3日前までに着地型ツアーサイト「VISIT富山県」での予約が必要となる(当日車内で販売する場合もある)。
藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)の共同ペンネーム。
1951年に本名の連名「あびこもとお・ふじもとひろし」でプロデビュー。「足塚不二雄」を経て、1953年7月にペンネームを「藤子不二雄」とし、1988年2月頃まで同名義で作品を発表した。
1987年12月に独立を発表し、1988年1月に独立パーティを開催。安孫子は「藤子不二雄Ⓐ」、藤本は1989年から「藤子・F・不二雄」のペンネームで活動を続けた。
活動初期の1954年の時点ですでに単独作品を多く執筆しており、合作を含む全作品を「藤子不二雄」という共同ペンネームで発表するという方式をとっていた(1988年の独立まで)。
1965年に合作『オバケのQ太郎』がテレビアニメ化され大ブレイク。1966年には『パーマン』[注釈 2]、『チンタラ神ちゃん』の連載も始まり年に9本の合作が連載される状態となるが、合作はその後減少。1971年連載開始の合作『仙べえ』『(新)オバケのQ太郎』を経て、1976年の読切『オバケのQ太郎』が実質的に最後の合作となった。
「藤子不二雄」名義で発表された代表作は上記の他、安孫子単独作の『忍者ハットリくん』(1964年)、『怪物くん』(1965年)、『まんが道』(1970年)、『プロゴルファー猿』(1974年)、藤本単独作の『ドラえもん』(1969年)、『キテレツ大百科』(1974年)、『エスパー魔美』(1976年)など多数。
事実上コンビとしての活動期間は約36年に及び、“他人同士が組んだ漫画家”としては、2015年にゆでたまごが更新するまで日本の漫画家で最長だった(プロデビュー前の活動を含めれば40年以上)。
富山県氷見市周辺の郷土料理である。
作り方は稲庭うどんと同じで竹によりながらかける手縫いで、油を塗らない。ルーツは輪島のそうめんで、1751年(宝暦元年)に「高岡屋」が輪島から技法を取り入れて作り始めたとされる。元々は「糸うどん」との名称で、他の手延べうどんとは異なり、最後まで手で撚りをかける特徴があり、高岡屋においては『一糸伝承』の名で現在も販売されている。このうどんは加賀藩御用達のうどんであり、商品名の通り製法は家伝のものであった。
現在氷見うどんと呼ばれるうどんには、こうした伝統的なものと、手延べによるものの2種類があり、高岡屋では両者が販売されている。一般的な手延べうどんの場合、麺が折れにくいようあえてコシを出さない場合が多いが、氷見うどんは両者ともに生地に対して力を加え練り上げるため、手延べの滑らかさと手打ちのコシを共に具有している特徴がある。
前述の通り、発祥は高岡屋によるものであるが、当時登録がされなかったため商標としては昭和50年に創業した海津屋の関連会社が保有している。
2013年パズドラとコラボした製品を発売した。
参考:『氷見うどん』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E8%A6%8B%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93#
参考:『大門素麺』(JAとなみ野) https://www.ja-tonamino.jp/tokusan/soumen.php
細く長い麺がくるくる巻かれた、丸まげ状の手延べ素麺。
そのユニークな形が、大門素麺の特徴です。
大門素麺が作られるのは、10月から3月が中心。
大門素麺の産地・大門地区では、凍える寒さの中、素麺づくりが行われます。
長年の勘による生地づくり、夫婦のあうんの呼吸による丁寧な手作業などによって、強いコシとなめらかな喉ごしを持つ素麺が作られています。
大門地区に素麺作りの製法が伝わったのは江戸後期。
村人の1人が能登・蛸島で加賀藩の御用素麺を作っている生産者から製法を習ったのが始まりといわれています。その製法は村内に広がり、最盛期(昭和初期)には60軒以上の農家で作られていました。生産者が少なくなった今も、昔ながらの製法でその味を守り続けています。
細く長い麺がくるくる巻かれた、丸まげ状の手延べ素麺。そのユニークな形が、大門素麺の特長です。大門素麺は大門地区を産地とし、10月から3月を中心に、凍える寒さの中、素麺づくりが行われています。170年以上の歴史を持つ大門素麺は、昔から包装紙に生産者の名前が入っていることも特長の一つで、作り手の真心も一緒に届けられています。
富山県南部 五箇山など
2021年日本地理問題に五箇山集落が取り上げられ、集落名を問う問題、五箇山の集落の特色、独特の食文化についての設問があった。
富山県南西部,飛騨山地の庄川上流域にある山村地域。行政的には南砺市に属し,約 70の集落が散在する。長い間ほとんど隔絶された地域で,平家の落人が住みついたと伝えられ,近世には加賀藩のもとで煙硝,藩札,和紙の製造が行なわれ,重罪人の流刑地でもあった。昭和初期から始まった庄川水系の電源開発,道路の整備により,合掌造の民家が減少し,生活様式の現代化が進んでいる。美しい自然景観,合掌造の民宿や,麦屋節,こきりこ節などの民謡・踊りを求めて訪れる人が多い。一帯は五箇山県立自然公園に指定され,合掌造の集落は 1995年世界遺産の文化遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎概要
富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。地域内の「越中五箇山相倉(あいのくら)集落」と「越中五箇山菅沼(すがぬま)集落」は重要伝統的建造物群保存地区であり、世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」を構成している。
◎地名の由来
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約120ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い。
出典:五箇山Wikipedia
*お小夜節
*こきりこ節・麦屋節など 1973年に「五箇山の歌と踊り」国の選択無形民俗文化財
*こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節など
参照:五箇山Wikipedia
[世界文化遺産『白川郷・五箇山の合掌造り集落』]
飛越地方の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。1995年(平成7年)12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、日本では6件目の世界遺産となった。
「白川郷」や「五箇山」のうち、合掌造りの集落が良好に残っている3集落、すなわち白川郷の荻町集落と、五箇山の相倉・菅沼の両集落のみを対象としている。
荻町集落は1976年(昭和51年)に、相倉集落と菅沼集落は1994年(平成6年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
これらは地域的な広がりと差異を示すものであるが、五箇山で2箇所選ばれたのは、大規模(荻町)、中規模(相倉)、小規模(菅沼)という集落の多様性を示すためでもあった。
文化遺産オンライン『白川郷・五箇山の合掌造り集落』→https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlink4
2021年地理問題に五箇山の食を問う問題。
富山県、五箇山地域に伝わる郷土料理。地場の大豆を使用した硬めの豆腐。縄で縛っても崩れない、寝るとき枕にしたなど、その硬さを伝える例え話が数多くある。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
↑噛んで歯は折れるほどであったり、枕になる程ではないが、ほんとうに縄で縛っても崩れないほどには固い(1度だけ食べたことがある)。従来、豆腐を焼いたり煮しめたりして食べていたが、最近ではその固さを利用して青豆豆腐や黒豆豆腐、燻製豆腐など活用の多様性を図っている。
富山湾でとれたブリを、高山を通り、野麦峠を越え、信州松本にまで運ぶのに使われた「ぶり街道」と日本でこれまでノーベル賞を受賞した12人のうち4人が、国道41号の 富山から高山までのわずか約90km の沿線にゆかりがある「ノーベル街道」のことをいいます。
参考:『ぶり・ノーベル街道』富山市の観光サイトTOYAMA NET https://www.toyamashi-kankoukyoukai.jp/?tid=100180
参考:日本風景街道(シーニック・バイウェイ・ジャパン) https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/fukeikaidou/contents/route.html?route=4_7
国道41号の富山から高山までの約90kmは、江戸時代、東岩瀬(富山市岩瀬)で水揚げされたブリを、飛騨・信州へ運んだルートとほぼ同じとなっています。
また、この区間は日本でこれまでノーベル賞を受賞した12人のうち、白川英樹さん(化学賞)、利根川進さん(医学生理学賞)、小柴昌俊さん(物理学賞)、田中耕一さん(化学賞)、梶田隆章さん(物理学賞)の5名にゆかりがあります。 国道41号は、沿線の住民の方々にとって生活に欠かせない道路であることに加え、遠方の方も、豊かな自然や様々な地域・イベント活動等にふれることが出来る道です。
日本風景街道(シーニック・バイウェイ・ジャパン)の活動では、この国道41号の富山から高山の区間を「ぶり・ノーベル出世街道」と名付け、皆さんに慣れ親しんでいただけるよう、沿道の様々な地域活動・みどころ等の情報・取組みを皆様にお知らせいたします。
参考:『飛越交流 ぶり・ノーベル出世街道』(国土交通省) https://www.hrr.mlit.go.jp/toyama/common/old/buri-nobel/introduction/index.html
日本一標高が高い高速道路。「日本でいちばん それに近いPA 松ノ木峠PA」(海抜1085m)がある。
正式名は、東海北陸自動車道。富山県礪波市~岐阜県~愛知県一宮市を結ぶ。2008年全線開通。総工事費約1兆2190億円。飛騨地方を通る高速道路のため、飛躍的に飛騨地方の観光客が増加した。
現在は全線4車線化に向けて少しずつ工事中。
荘川桜。
参考:『東海北陸自動車道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%8C%97%E9%99%B8%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93
岐阜県の飛驒市と大野郡白川村との間にある東海北陸自動車道のトンネル。
全長は10,712 mで道路トンネルとしては山手トンネル(首都高速中央環状線)・関越トンネル(関越自動車道)に次いで日本国内3位、世界でも12位の長さである。
参考:『飛騨トンネル』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A9%92%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
飛騨トンネルは、東海北陸自動車道と中部縦貫自動車道(高山清見道路)が連結する、飛騨清見ジャンクションから白川郷インターチェンジまでのトンネルです。
この区間(約25km)は急峻な山岳地帯を通過するため、10本のトンネルが施工されますが、飛騨トンネルは標高1,744mの籾糠山を貫く、延長約10.7kmの長大道路トンネルです。
参考:東海北陸自動車道『飛騨トンネル』 https://www.c-nexco.co.jp/corporate/operation/construction/progress/hida_tunnel/
以下の富山目線の高山線の動画を参考にしているので便宜的に富山県の項に入れてある。
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[富山県目線の高山線である]
高山本線は、(名古屋から)岐阜駅から高山駅・猪谷駅を経て富山駅まで向かう鉄道路線である。岐阜駅から猪谷駅まではJR東海、猪谷駅から富山駅まではJR西日本が運行している。特急は4時間、普通列車は6時間半で名古屋~富山間をHC(ハイブリッドカー)85系(最高時速120㎞(名古屋岐阜間)。ただし、富山高山間は上りなので最高85㎞)が走行する。飛騨・高山・富山観光に便利。富山の次の駅速星駅は日産化学(ラウンドアップなども)富山工場(昭和22年度の巡幸で富山工場に昭和天皇行幸)の最寄り駅(駅構内から工場へ専用線が接続されている)。
速星駅の南隣には、おわら風の盆(9/1~9/3)の最寄り駅の八尾駅がある。その南隣の猪谷駅は、富山県唯一のJR東海の駅。そのためJR西とJR東海の運転手の交代が行われる。猪谷駅は富山県最南端の駅でもあり、積雪量が最も多い。神岡鉱山の社宅利用者のための駅。2006年まで神岡鉄道があった。
岐阜古川駅は映画「君の名は」のモデルの地。JR東海では30周年記念に岐阜古川駅とのコラボTOICAを発売。ただし、岐阜古川駅では交通系ICカードがエリア外で使えない。また、岐阜白川町では1月15日の夜に三寺(さんてら)まいりと言う独特の伝統風習があり、人々は親鸞聖人の御恩をしのび、町内の円光寺・真宗寺・本光寺の3寺を巡る。
元々は富山までは行かず、名古屋から岐阜県の高山まで行くための鉄道だった。従って当初の高山線は柳橋から下呂までであった(土日祝日のみ運行)。その後1940年代に名古屋~富山間が定期運行となった。観光列車としては、1951年に名古屋~下呂に準急行「やまばと」号、大阪~高山に急行「のりくら」号、1955年には夜行列車の名古屋~富山間の運行もなされた。また、昭和40年代には立山・宇奈月(温泉)にも行けた。
定番の一大観光地高山を過ぎると下呂。下呂温泉は日本三名泉の一つで千年以上の歴史を持つ。次の美濃太田までの間に白川茶で有名な加茂郡白川町がある。1970年頃には、白川口駅で乗客にお茶をふるまい、白川茶の名はそれによって全国に広まった。
また、飛水峡は国指定の天然記念物の約12㎞の美しい渓谷。賀茂郡七宗町(ひちそうちょう)には日本最古の石博物館がある。1920年に約20億5000万年前の岩石が発見され、2017年島根県津和野町で約25億年前の石が見つかるまでは発見された最古の石であった。
美濃太田駅からは長良川鉄道(路線図リンク)に乗り換えれば、郡上八幡を通って北濃駅までたどりつける。北濃駅には、現役設備(書類上)である蒸気機関車の向きを変える「転車台」が残っている。1960年代まで使用された。
坂祝駅のある坂祝町はかつて2021年までパジェロ製造のある「パジェロの町」と知られていたが、2021年のパジェロ製造中止に伴う工場閉鎖によって激震を受けた町でもある。
次の鵜沼駅からはほぼ名古屋鉄道と並走し、岐阜駅は岐阜城・信長の町と知られ、駅前には金色の信長像がそびえる。
名古屋駅は乗降車数全国8位の主要駅であり、名古屋鉄道・近畿日本鉄道・JR東海・JR貨物・名古屋臨海高速鉄道(あおなみ線)・名古屋市営地下鉄・東海道新幹線が乗り入れる。駅前には行政管轄でナスが植えられている。(あいちの伝統野菜『愛知本長なす』)
名鉄百貨店の前のチャンスセンターは名物宝くじ売り場。名鉄名古屋駅は1時間に28本(平均2分18秒置き)に電車が来るカオス駅である。
参考:『【1泊2日】JR高山本線で富山から名古屋駅へ探索してきた【総集編】』富山の遊び場!TV Ch. https://youtu.be/pJlfCJygKPE?si=_3UnxbzgI-7HgRt7
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岐阜県岐阜市の岐阜駅から高山駅、猪谷駅を経て富山県富山市の富山駅に至る鉄道路線(地方交通線)である。岐阜駅 - 猪谷駅(富山市)間は東海旅客鉄道(JR東海)、猪谷駅 - 富山駅間は西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄となっている。高山線とも呼ばれる。
飛騨高地の山間を縫って岐阜市と富山市を結んでいるが、山間部あるいは盆地である岐阜県飛騨地方へのアクセス路線でもあり、下呂温泉や高山市、飛騨市への観光路線としての性格を持つ。岐阜駅 - 猪谷駅(構内を除く)間はJR東海の東海鉄道事業本部が、猪谷駅 - 富山駅間はJR西日本金沢支社の北陸広域鉄道部がそれぞれ管轄している。本州の「本線」では唯一、地方交通線に分類されている。
参考:『高山本線』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%B7%9A
能登半島地震(のとはんとうじしん)は、2024年(令和6年)1月1日16時10分(JST)に、日本の石川県能登半島にある鳳珠郡穴水町の北東42 kmを震央として発生した地震である。地震の規模は気象庁マグニチュード(Mj)7.6、震源の深さは16 km(いずれも暫定値)。観測された最大震度は、石川県輪島市と羽咋郡志賀町で観測された震度7で、震度7を記録した地震の発生は2018年(平成30年)の北海道胆振東部地震以来7回目。また気象庁によれば、この地震は石川県能登地方で観測した地震としては、記録が残る1885年(明治18年)以降で最大規模。
地震発生を受け、気象庁は石川県能登に大津波警報を、日本海各地の沿岸にも津波警報・注意報を発表した。大津波警報の発表は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災を引き起こした巨大地震)以来で、石川県輪島市の輪島港では最大1.2 m以上の津波が観測された。
消防庁によると、1月26日9時現在、石川県で死者236人が確認されている[8]。
石川県が1月22日までに遺族の同意を得た死者114人について公表した死亡の状況によると、約9割にあたる100人が家屋倒壊で、土砂災害が8人、津波が1人、避難所で死亡が1人、自宅等で死亡が1人となっている。輪島市の朝市通り周辺の火災(後述)現場では、10人の死亡が確認されている。穴水町では土砂崩れに住宅3棟が巻き込まれ、16人が死亡した。
輪島市では、河井町の輪島朝市付近で火災が発生し、近隣の約200棟に燃え広がった。しかし、近隣の道路が通行止めになった影響で、23時前の時点で現場に到着しているポンプ車は4台のみに留まり、けが人や火災の規模を把握するのが難しくなっていた。この火災により、永井豪記念館と輪島ドラマ記念館が焼失した。1月15日に国土技術政策総合研究所が発表した調査結果によると、この火災による推定消失範囲は約50,800 m2、区域内の建物数は約300棟と推定されている。
以上、『能登半島地震(2024年)』wikipediaより抜粋、編集
【能登半島地震】歴史ある「輪島朝市」復活へ 「だんだん元気になりやる気が」出店者の思いは… 被災から26日目
(日テレニュースCh.)
[能登の里山里海]
平成23年6月11日、中国・北京で開催された国連食糧農業機関 FAO 主催の国際フォーラムにおいて、「能登の里山里海 」が「世界農業遺産(GIAHS 」に認定されました。
認定は世界で9番目、国内では初となるものです。
「能登の里山里海」が評価されたのは、次のような理 由によるものです。
輪島市「白米千枚田」に代表される棚田や約2千カ所にものぼるため池が維持され、中島菜や能登大納言小豆など数多くの地域特有の農産物が生産されていること。
また、能登の各地で行われている天日で稲穂を干す「はざ干し 、輪島塗、炭焼き、揚 げ浜塩田、海女による素潜り漁など伝統的な農林水産技術や工芸が継承されていること。
そうした中で、田の神に感謝する神事で、ユネスコの無形文化遺産に認定されている「あえのこと 、キリコ祭り、輪島朝市など農村の暮らしと結びついた風習や文化が多く 継承されていること。
さらに、シャープゲンゴロウモドキをはじめ里山を生活圏とする希少な動植物も数多く生息するほか、300種以上の渡り鳥が確認されるなど多様な動植物や生態系が保全されていること。
これらが高く評価され 「能登の里山里海」が次世代に引き継ぐべき素晴らしい財産として国際的に認められました。
『能登の里山里海』- 世界農業遺産に認定されました。(石川県)より抜粋
[白米千枚田](しろよねせんまいだ)
石川県輪島市白米町にある棚田である。数が多いので千枚田と呼ばれるが、現地案内板には枚数1004枚と記載されている。また「狭い田」からの転という説もある。最も小さい田の面積は、0.2平方メートル程度。
2001年、白米の千枚田の指定名称で国の名勝に指定された。
白米千枚田Wikipediaより
石川県中部の市。1889年市制。県庁所在地。犀(さい)川,浅野川流域を占め,北西部に金沢平野が開け,北部に河北潟がある。中心市街は1471年一向宗の道場(尾山御坊)創設に起源し,江戸期加賀前田藩百万石の城下として繁栄。第2次世界大戦で被災しなかったため,今も城下町の面影が各所に残る。北陸地方の中心として官公庁が多く,北陸新幹線,IRいしかわ鉄道,北陸鉄道,北陸自動車道が通じ,県内各地,福井,富山両県からも通勤者が増加している。1970年金沢新港が建設され重要港湾に指定されている。九谷焼,大樋(おおひ)焼,金沢箔(はく),蒔絵(まきえ),友禅,象嵌(ぞうがん)などの伝統工業,一般機器,輸送用機器,食品,出版印刷などの工業も行われ,県内では製造品出荷額1位(2003)を占める。史跡,文化財も多く,金沢城跡,兼六園,尾山神社,金沢大学がある。468.64km2。46万2361人(2010)。
→関連項目石川[県]|内灘[町]|金沢藩|松任[市]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
江戸時代、加賀(かが)国石川郡金沢(現、石川県金沢市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。加賀国、能登(のと)国、越中(えっちゅう)国3ヵ国の大部分と近江(おうみ)国に102万5020石を有した大藩。「加賀百万石」と称され、外様でありながら、御三家に準ずる待遇を受けた。藩校は明倫堂(めいりんどう)(文学校)、経武館(けいぶかん)(武学校)。1581年(天正(てんしょう)9)に、藩祖前田利家(としいえ)が織田信長(おだのぶなが)から能登1国を与えられたのが始まりで、その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から83年、85年と加増された。その子利長(としなが)は1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで徳川方についてさらに加増され、120万石に及んだ。その後、39年(寛永(かんえい)16)に3代藩主利常(としつね)が小松に隠居した際、次男利次(としつぐ)に富山藩10万石、3男利治(としはる)に大聖寺(だいしょうじ)藩7万石を分封(ぶんぽう)、加賀藩は103万石弱となった。以後その石高で明治維新まで14代が続いた。利常と5代綱紀(つなのり)は学問や工芸を奨励、利常のときにつくられた池と数寄屋は、12代斉広(なりなが)、13代斉泰(なりやす)の時代に大規模に造営され、回遊式庭園の兼六園(けんろくえん)が完成した。また綱紀は古今の和漢書を集め、尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)をつくった。1871年(明治4)の廃藩置県で金沢県となった。その後、大聖寺県、さらに新川(にいかわ)県と合併して旧3国に広がる石川県を構成したが、83年に越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県域が確定した。◇金沢藩ともいう。
出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典
加賀国石川郡尾山(現・石川県金沢市丸の内)にある日本の城。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されており[1]、城址を含む一帯は金沢城公園(かなざわじょうこうえん)として整備されている。
概要
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形にちなむ。台地先端を山の尾とみなした)。櫓門や土塀に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた[注釈 1]。利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重6階の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩四代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた蓮池庭を前身とし、代々の藩主が改修した大名庭園である。
参考:『金沢城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E
開園日 年中無休(玉泉庵除く)
開園時間
3月1日~10月15日 7:00~18:00(退園時間)
10月16日~2月末日 8:00~17:00(退園時間)
令和6年度の夜間開園は毎週土曜日及び指定日
外周部の石垣ライトアップは毎日22時まで
金沢城公園・兼六園早朝入園について
園内施設営業時間
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門
9:00~16:30 (最終入館16:00)
河北門・鼠多門 (無料)
9:00~16:30 (最終入館16:00)
玉泉庵
9:00~16:30 (最終入館16:00)
※ 12月29日~1月3日はお休みです。
入園料
入園料無料
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門について(入館料)
個人
・大人(18歳以上) 320円
・小人(6歳~18歳未満) 100円
団体(有料対象者30名以上)
・大人(18歳以上) 250円
・小人(6歳~18歳未満) 80円
入館の際に発券所窓口にて、現金又はクレジットカード等(※)にてお支払下さい。
参考:『金沢城公園』石川県HP https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
参考:『金沢城のひみつ~お城の仕組みや役割について考えてみよう~』金沢市公式YouTubeチャンネル(CityofKanazawa)
https://youtu.be/lWNm0an0gHQ?si=7M-zIfpd-stFqqFz
金沢城について、お城博士の千田嘉博先生とお城マニアの春風亭昇太さんが説明してくれています。城主の住居や使者との対面の場所であった二之丸の復元プロジェクト(進行中。復元のイラストで華麗さに触れることができる)についても触れる。場内の玉泉院丸庭園、庭園内の色紙短冊積石垣、水の流れにも触れ、守備のための強い石垣の城と呼ばれる金沢城が、同時に芸術性の高さも説明している。金沢城の天守・本丸の建物は1602年(慶長7年)に落雷による火災で焼失し、その後再建されず、城主たちはその後二の丸御殿に暮らすことになり、整備された。その後二の丸も焼失し、上にのべたとおり、再建準備中である。
石川県金沢市尾山町に鎮座。祭神は前田利家(としいえ)。1599年(慶長4)利家が没すると子弟らがその霊を奉祀(ほうし)せんとしたが、当時の法にはばかるところがあって、越中(えっちゅう)国(富山県)射水(いみず)郡守山海老坂烏帽子(もりやまえびさかえぼし)に鎮座の八幡(はちまん)神社を遷座するとの名目で加賀国河北郡(石川県金沢市)卯辰(うたつ)山に遷座、利家の霊を合祀して卯辰山八幡宮と称したのが当社の創祀であると伝える。以後、前田家歴代の崇敬厚く、廃藩置県後、1873年(明治6)前田家ゆかりの現在地に社殿を新築、遷祀、社名も尾山神社と改称された。74年郷社、翌年県社。1902年(明治35)別格官幣社。例祭は4月27日。6月の封国(ほうこく)祭は「尾山まつり」「百万石まつり」ともいわれ、全市民あげてにぎわう。神門、社宝の蒔絵朱鞘(まきえしゅざや)大小刀(利家愛用という)は国の重要文化財に指定されている。[平泉隆房]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
石川県金沢市尾山町にある神社。旧別格官幣社。前田利家をまつる。明治六年(一八七三)金谷御殿跡に創建。西洋風の三層の神門がある。六月一三~一五日の封国祭は俗に「百万石まつり」として知られる。
出典 精選版 日本国語大辞典
(ちよろぎ:神門にはステンドグラスがはまっている。繁華街の香林坊、近江町市場すぐ近く)
石川県金沢市にある神社。1873年創建。加賀藩祖、前田利家と正室のお松の方を祀る。1875年に建てられた神門は国の重要文化財に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
石川県金沢市の中心部にある市場。主に生鮮食品などの食品と生活雑貨を扱う小売店や飲食店など約170軒が商店街を形成している。「金沢市民の台所」とも呼ばれたが、現在は地元民には親しまれておらず、観光客向けに価格設定が高くなっている。
江戸時代の享保6年(1721年)に始まり、金沢を城下町としていた加賀藩の御膳所だった。名前の由来は諸説あるが、近江商人が作ったことによる。地域によってはおみちょ(「お」にアクセント)と呼び親しまれている。
市街地再開発事業により、2009年4月16日に近江町いちば館が開業した。
国道157号などの起点となっている武蔵交差点(武蔵ヶ辻)の南東側一帯に位置し、繁華街の香林坊からも比較的近い。約2.8haの敷地に約170店(メディアによっては約180店や約200店と異なっている)の商店・飲食店が軒を連ね、「金沢市民の台所」としても知られる。石川県特産の加賀野菜や海産物を扱う店が多く、金沢市民だけでなく、金沢ならではの観光名所としても知られている。
市場全体は近隣の市姫神社を産土神(守り神)としている。
その一方で、2015年に北陸新幹線の開業に伴い、観光客の増加や訪日外国人旅行者の増加により地元の利用者の減少や観光公害の問題も顕在化している。市場側も観光客の増加に対応して、通信環境の改善やPayPay決済の導入などを実施している。
近江町市場wikipediaによる
参考:『ひがし茶屋街 Higashi Chaya District』(金沢公式YouTubeチャンネルCityofKanazawa) https://youtu.be/gCPZELjBT-w?si=Ggsy_GDfLlYyfe41
北陸甲信越地方、石川県の地域ブランド。
加賀地域に由来する友禅染を施し金沢市で生産された織物および帯・長着。写実的な草花模様を中心とした絵柄で、色彩は加賀五彩といわれる藍・臙脂・草・黄土・古代紫を基調とする紅系統を生かした多彩調。淡青単彩調の京友禅とは対照的である。線の太さやぼかし、虫喰いなどを駆使し、巧みに自然美を描き出す技法が特徴。1975(昭和50)年5月、通商産業大臣(現・経済産業大臣)によって国の伝統的工芸品に指定。2007(平成19)年1月、特許庁の地域団体商標に登録された。商標登録番号は第5021579号。地域団体商標の権利者は、協同組合加賀染振興協会。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」
石川県金沢市にある美術館。平成16年(2004)創立。1980年以降に制作された作品を中心に、国内外の幅広いジャンルの現代美術作品を収蔵・展示する。建物の設計は妹島(せじま)和世・西沢立衛(りゅうえ)。
URL:http://www.kanazawa21.jp/
住所:〒920-0962 石川県金沢市広坂1-2-1
電話:076-220-2800
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
石川県金沢市にある現代アートの美術館。2004年開館。建物の設計は妹島(せじま)和世と西沢立衛(りゅうえ)による建築家ユニット、SANAA(サナア)。同年のベネチア・ビエンナーレ国際建築展で展示部門「金獅子賞」受賞。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
花嫁のれん
JR西日本が運営する観光列車。金沢駅から和倉温泉駅(石川県)を結ぶ。2015年運行開始。「花嫁のれん」は北陸地方で婚礼の際に使用される暖簾。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
JRおでかけネット「花嫁のれん」専用ページ →こちら
花嫁のれん(列車)のコンセプト
「花嫁のれん」とは、花嫁の幸せを願い婚礼の日にのれんを贈る伝統文化です。ご乗車のお客様の幸せを願う思いから、この列車を観光列車「花嫁のれん」と名付けました。能登は「恋路海岸」や「夫婦岩」と称される機具岩(はたごいわ)のように女性の幸せを願うものや、パワースポットとして有名な「聖域の岬」などがある「幸」に満ちた土地です。
この観光列車「花嫁のれん」を通して、能登の魅力である「幸」を全国・海外に向けて発信いたします。
上記より
石川県金沢市にある日蓮宗の寺院。
加賀藩第三代藩主前田利常が創建した。複雑な建築構造と外敵を欺く仕掛けから、忍者寺(にんじゃでら)とも呼ばれる。「忍者寺」は本寺院の登録商標(日本第1977891号他、住職の張田珠潮名義)である[2]。
天正13年(1583年)、藩祖前田利家が金沢城に入城すると、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求め、藩を守護する祈願所を建立した[3]。
寛永20年(1643年)、三代藩主利常が金沢城の近くから移築建立する[4]。利常は徳川幕府により改易されるのを避けるため、徳川家から嫁を迎えるとともに母親を人質に出し、鼻毛を伸ばして馬鹿殿様を演じることで幕府を欺き安心させる[3]。一方、多くの武士が起居できる寺院群(現在の寺町寺院群)を新築し、その中心に出城の役目を持たせた妙立寺を建立する[3]。要塞としての機能を備えた妙立寺は、隠し階段・隠し部屋・落とし穴・見張り台・金沢城へ続く地下通路など外敵を欺く種々な仕掛けを備える[3]。忍者寺と称されるのは、同寺に忍者がいたからではなく、伽藍の複雑な建築構造に由来する。建造は、日蓮の法孫、日像と伝えられる。
戦火を免れた妙立寺は、歴代藩主の祈願所として崇拝される。北陸の豪雪に耐え、その独特の建築様式を現在に伝えている。そこから今の人気スポットとなっている。
堂内は撮影・土足禁止、禁煙で、建物の複雑さと老朽化から、見学は予約制で案内人同伴による団体(集団)見学となる。保存護持費として、大人1000円、子ども700円が要求される。未就学児は見学不可。また、荷物等が当たって建物を損なうことがあるため、背中側におく荷物は持ち込めない。
当時、幕命で3階建て以上の建物は禁止されていたことにより、外観は2階建てだが、内部は4階建て7層になっている[4]。中2階、中々2階があり、部屋数は23、階段数は29もある。
石川県南部の加賀市,小松市,金沢市,能美市で産する焼物。主として磁器に釉上着画したものが多い。大聖寺藩の藩主前田利治が家臣の後藤才次郎定次らに命じて九谷に開窯させたと伝えられるが,その年代は寛永末年 (1640頃) 説,慶安4 (1651) 年説,承応年間 (1652~55) 説などがある。初期の作者としては田村権左右衛門の名が知られる。第1期の窯は元禄初年頃廃止されたが,この期の作品を古九谷と呼ぶ。 1970年から古九谷古窯址の発掘が行なわれ,明暦2 (1656) 年銘の染付磁片などが発見されて,古九谷の実態解明に若干の手がかりを与えている。古九谷は磁器質で,白色の胎土に三彩,五彩の上絵付けや染付を施す。意匠は山水,花鳥などを大胆な構図と強い筆致で絵画風に表したもの,石畳や亀甲などの幾何学文様を表したもの,およびこの両者を組み合わせたものなどが多い。第2期は古九谷廃絶後 130年,文政7 (1824) 年の吉田屋窯開窯に始まり,その後宮本屋窯,九谷本窯と継承された。第2期以降の作品を再興九谷あるいは単に九谷焼と呼ぶ。宮本屋窯時代からは金襴手が流行し,これが現代にも及んでいる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
福井県中央部敦賀市の杉津海岸から石川県南西部加賀市の尼御前岬まで約 108kmの海岸一帯に広がる自然公園。面積 97.94km2。1968年指定。南越前町の甲楽城にある断層海岸,越前町の隆起段丘海岸,東尋坊と雄島の海食断崖,尼御前岬の砂岩の海食景観などの多種多様な海岸風景が特徴。植生は豊富で,県境の鹿島の森(国指定天然記念物)や越前岬周辺には,シイ,タブ,シデ類,トベラなどの暖帯広葉樹の自然林が残されている。雄島のヤブニッケイの純林は貴重。丹生山地では暖帯広葉樹林に,ブナ,トチなどの温帯林の混生する自然林が見られる。越前岬周辺に自生するスイセンは有名。全域に渡り鳥の渡来が多く,敦賀市の中池見湿地,加賀市の片野鴨池はラムサール条約に登録されている。加賀市に源平ゆかりの篠原古戦場があり,実盛塚,首洗池が残され,あわら市の吉崎には本願寺別院がある。温泉にも恵まれ,芦原温泉,片山津温泉などがある。一部海域は加賀海岸海域公園地区に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2019年日本地理
福井県北部にある海食崖。加越台地が日本海に突出した陣ヶ岡台地の西岸にある。坂井市に属する。輝石安山岩の柱状節理が発達し,日本海の海食を受けて,海面上 25mに及ぶ断崖絶壁を形成。展望台東尋坊タワーがある。北部には無人島の雄島が浮かぶ。国の名勝・天然記念物に指定され,越前加賀海岸国定公園に属する。投身自殺したと伝えられる僧の名から命名された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2019年日本地理
福井県永平寺町にある曹洞宗大本山。本尊釈迦如来。越山とも通称される。1244年道元が波多野義重の援助を受け大仏寺(現地より9km奥)を建立したのに由来し,1246年寺号を改める。5世義雲が移した。1473年,1879年の2度被災。山門,中雀門,仏殿,法堂のほか僧堂,承陽殿,大庫院などがあり,敷地は4500坪をこえる。道元筆の普勧座禅儀(国宝)や正法眼蔵仏性第三などの重要文化財がある。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
2019年日本地理
福井県北端、あわら市にある温泉。1883年(明治16)温泉湧出、1884年開湯。1948年(昭和23)の福井地震、1956年の大火で町の大半を焼失したが、そのつど近代化して復興し、現在は加賀温泉郷とともに北陸を代表する温泉として知られる。観光色の濃い温泉で、多くの旅館が設備、庭園などにくふうを凝らしている。泉質は塩化物泉。観光芸能に九頭竜太鼓(くずりゅうたいこ)がある。えちぜん鉄道あわら湯のまち駅があるほか、JR北陸本線芦原温泉駅からバスで15分。[印牧邦雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
関西の奥座敷
福井県と京都府にまたがる若狭湾湾岸の国定公園。丹後半島海岸部、天の橋立の砂嘴(さし)、宮津湾、敦賀半島北岸の断崖、三方五湖など変化に富む。三方海中公園がある。昭和三〇年(一九五五)天の橋立から美浜海岸までが指定され、同三七年敦賀半島、同四三年丹後半島が追加指定された。
出典 精選版 日本国語大辞典
福井県勝山市にある自然・科学博物館。平成12年(2000)創立。恐竜の全身骨格標本などを展示、古生物や地球史について紹介する。建物の設計は黒川紀章。かつやま恐竜の森内にある。
URL:http://www.dinosaur.pref.fukui.jp/
住所:〒911-8601 福井県勝山市村岡町寺尾51-11
電話:0779-88-0001
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
ナマケモノや猿、カピバラがいるミニ動物園を併設した公園であり、市民の憩いの場となっている。桜やアジサイの花も楽しめるが、特にアジサイで有名。
園内には福井出身の継体天皇像があり、古墳群もある。
開園時間:午前9時30分から午後4時30分
休園日:毎週月曜日。冬季
入園料:無料
アクセス:JR福井駅から京福バス清水グリーンライン、「足羽山公園下」下車徒歩10分/JR福井駅から徒歩25分/北陸自動車道福井ICから車で15分(駐車場あり)
参考:『足羽山公園遊園地の施設案内 』福井市 https://www.city.fukui.lg.jp/kankou/zoo/sisetu/information.html
参考:『足羽山公園|おすすめの観光スポット』福井市 ふくいドットコム
福井県産業振興施設は、福井県越前市瓜生町にある多目的イベントホール。1995年7月29日に開業。通称はサンドーム福井で、施設案内などではこの名称が使用されている。
1995年10月にアジアで初めて開催された世界体操競技選手権のために1993年に建設が開始され、1995年7月に開場。愛称の「サンドーム」は「sun(太陽)」や「産業」「参加」に由来し、日本海側最大級の規模[2] を持ち最大約1万人が収容可能なイベントホール棟、会議室・小ホール・研修室などからなる管理会議棟の2つから構成される。
最近ではYoutuberのカズがドームを借り切ってキャンプ大会を行ったことで話題になったが、たくさんの芸能人が公演を行い、こじんまりしてステージがどの席からもよく見えるため、近県からわざわざ訪れるファンがいるなど古くから有名だった。
車では北陸自動車道おりて10分弱。福井駅からはハピラインふくい・鯖江南新横江線、福井鉄道などで30分から1時間。
参考:『サンドーム福井 | 一般財団法人 福井県産業会館』 https://sundome.sankan.jp/
参考:『福井県産業振興施設』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C%E7%94%A3%E6%A5%AD%E6%8C%AF%E8%88%88%E6%96%BD%E8%A8%AD
敦賀駅(つるがえき)は、福井県敦賀市鉄輪町一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
JR西日本金沢支社の敦賀地域鉄道部が管理する直営駅。
駅前には「都恕我阿羅其等像」(都怒我阿羅斯等の銅像)、駅前通りには『宇宙戦艦ヤマト』ならびに『銀河鉄道999』の銅像(敦賀港開港100周年を記念して設置)がそれぞれ設置されている。
隣の南今庄駅とは北陸トンネルを挟んで16.6km離れており、JR西日本の在来線で最も駅間距離が長い区間である(2021年時点)
(ハピラインふくいへの経営移管後は山陽本線の上郡駅-三石駅間(12.8km)が最長となる)
北陸本線を所属線としており、当駅が起点となる小浜線を含め2路線が乗り入れている。この2路線に加えて、2つ隣の近江塩津駅から分岐する湖西線の一部列車も乗り入れ運行系統上の終着駅となっている。
北陸新幹線の福井駅 - 金沢駅間開業後、北陸本線の経営分離によりJR西日本とハピラインふくいとの境界駅になる予定である。
2024年(令和6年)3月16日:北陸新幹線の金沢駅 - 当駅間が延伸開業。これに伴い、北陸本線の当駅 - 大聖寺駅間がハピラインふくいに移管され、同社との共同使用駅となる(予定)。
北陸新幹線の金沢駅 - 当駅間は2024年3月16日に開業予定である。ホームの位置は国道8号のバイパスを跨ぐ関係上、高さは24m(8階建てのビルに相当)、現駅舎のホームまでの距離は約200mで当初計画され、利便性に関して指摘されている。構造は2面4線、エレベーター6基・エスカレーター24基で計画されている。また、現在の在来線ホームとは離れていることもあり、新幹線ホーム真下の地上部に、併せて乗り換え用在来線特急ホームも2面4線で設けられる。
新幹線駅デザインは「港町」をテーマとし、コンコースは天井部分に北前船の帆のモチーフでスケール感が出るように設営する。また、敦賀湾の波のきらめきな外観に、ホームは船の甲板をイメージした木調タイルにする。駅舎は2021年9月に着工、2023年9月に完成する予定となっている。
以上、『敦賀駅』Wikipediaより
[北陸本線(金沢~敦賀間)]
この区間は北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間の開業時にJR西日本から経営分離される予定である[163]。2017年時点で石川・福井の県境駅の扱いについては、石川県側は2017年3月30日の「第1回 いしかわ並行在来線金沢以西延伸対策検討会」においては大聖寺駅を境界とする検討がなされている。
石川県内の区間はIRいしかわ鉄道が経営を引き継ぐ計画である。
福井県内の区間は、福井県並行在来線対策協議会において、経営を引き継ぐ第三セクター鉄道事業者の開業。2019年8月に福井県並行在来線準備株式会社として設立され、2022年7月にハピラインふくいに社名を変更した。開業時期は2023年度末(令和5年度末、2024年春)に変更されている。
なお、金沢駅 - 敦賀駅間の着工に向けた試算では、金沢駅 - 敦賀駅間では特急「サンダーバード」などの在来線優等列車の運転は行わないと想定している。そのため、特に(新幹線駅が設けられない予定の)鯖江市において敦賀開業以降も大阪・名古屋方面への特急の直通運転継続の要望が高く、「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」が活動しているが、鯖江市が特急を福井駅まで乗り入れるよう求める意見書を、2017年3月に福井県議会に提出するなどしたものの、2021年6月9日になって、福井県とJR西日本との間でなされていた特急の福井駅 - 敦賀駅間の存続についての協議が打ち切りとなったことが報道された。これについて鯖江市は、市のウェブサイトで遺憾ではあるが受け入れざるを得ないものという立場を表明した。
『北陸新幹線』Wikipediaより
北陸新幹線敦賀駅延伸後の新幹線の運行と、敦賀以西の在来線特急の扱いに関しては、
『北陸新幹線・特急サンダーバード・特急しらさぎ 敦賀延伸に伴う再編まとめ(2024年3月16日)』(鉄道時刻表ニュース)さんが、わかりやすくまとめておられる。
*東京~敦賀「かがやき」「はくたか」計14往復 (選択停車)
*「つるぎ」(サンダーバード・しらさぎと接続用(従来は「かがやき」「はくたか」と接続)) 計25往復
*大阪方面特急「サンダーバード」(「つるぎ」と接続。大阪~敦賀) 25往復
*名古屋方面特急「しらさぎ」(「つるぎ」と接続。名古屋~敦賀、米原~敦賀 計15往復)
次のダイヤ改正リリースは12月中旬だそう。
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の城館跡。福井市街の東南約10km、足羽(あすわ)川支流の一乗谷川沿いの細長い谷あいにある、越前国の守護大名朝倉氏の本拠地で、1471年(文明3)から103年間、越前の中心として栄えた。土塁と堀に囲まれた朝倉館を中心に、谷の南北に城戸を設けてその内側を城下町とし、館の東側背後の山に一乗谷城が築かれた。京や奈良の貴族・僧侶などの文化人がたびたび下向し、京文化を取り入れて北陸の小京都とも呼ばれたが、1573年(天正1)、天下取りに乗り出した織田信長によって滅ぼされ、城下町も灰燼(かいじん)と帰した。一乗谷川沿いの平地には朝倉館跡のほか、湯殿跡庭園、中の御殿跡、諏訪館跡庭園、南陽寺跡庭園、町屋群、武家屋敷などがみられ、山間部には砦(とりで)・櫓(やぐら)などの跡がある。1971年(昭和46)に国の特別史跡に指定され、1991年(平成3)には4ヵ所の庭園が特別名勝に、2007年(平成19)には陶磁器をはじめとする出土品が重要文化財になった。一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、160万点に及ぶ遺物の中から武具や茶道具・建築部材・食膳具などの生活用品を展示し、遺跡の模型を使ってわかりやすく展示している。JR越美北線一乗谷駅から徒歩約30分。
出典 講談社国指定史跡ガイド
福井県敦賀市曙町にある神社。旧官幣大社。祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(=気比大神)、仲哀天皇、神功皇后など七神。大宝二年(七〇二)文武天皇のときの創建と伝えられ、北陸道の総鎮守として崇敬された。延喜式名神大社。越前国一宮。お気比さん。
出典 精選版 日本国語大辞典
福井県敦賀市(つるがし)の敦賀湾に臨む浜堤上にある松原。一般には松原公園とよばれる市営公園。その規模は東西の長さ約1キロメートル、広さは約34万平方キロメートルで、白砂に映えるアカマツ、クロマツの老木の枝ぶりはみごとである。とくに夏は海水浴場としてにぎわい、8月16日の灯籠流し(とうろうながし)は有名である。この公園が開かれたのは1908年(明治41)で、1928年(昭和3)には国の名勝に指定された。付近には松原刑場で処刑された幕末の水戸浪士武田耕雲斎(こううんさい)の墓所(国指定史跡)があり、その霊を祀(まつ)る松原神社がある。松原公園の背後は第二次世界大戦後の新興住宅地として開発が進んでいる。敦賀駅からバスで約15分。[木下昭三]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
福井の海の幸が集う巨大市場
鮮魚店、土産物産、飲食店など70店舗が軒を連ねる日本海側最大級のさかな市場。売り子とのやりとりがどこか懐かしく、昭和の時代にタイムスリップしたような独自の雰囲気。
スポット情報
住所 福井県敦賀市若葉町1丁目1531
アクセス JR北陸本線敦賀駅からぐるっと敦賀周遊バスショッピングルートで10分、日本海さかな街下車すぐ
駐車場 駐車場 あり
営業時間 10:00~18:00(8:30から順次開店、店舗により異なる)
『日本海さかな街』(一休.com)
google mapの口コミを見ると、観光的魚市場のよう。
街中にあり、敦賀駅からバスで30分前後。
福井県西部、小浜(おばま)湾を抱く内外海(うちとみ)半島の外海側にある景勝地。若狭湾国定公園(わかさわんこくていこうえん)の一部で国指定名勝。「外面(そとも)」とも書く。6キロメートルにわたって展開する花崗(かこう)岩の海食崖(がい)で、節理に沿って波食を受け、海食洞の大門、小門をはじめ、唐船(からぶね)岩、獅子(しし)岩、夫婦亀(めおとがめ)岩や、碁石浜(ごいしがはま)など奇岩が並ぶ。花崗岩の白い岩肌と青い海のコントラストも鮮やかである。探勝には小浜から遊覧船で約50分を要する。[島田正彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
最新情報は、遊覧船の会社のHP→若狭フィッシャーマンズワーフ へ
23年9月現在は、蘇洞門めぐりコースは、土日限定、約1時間15分のコースである。
公式HP→ https://www.murasakiyukari.com/about
日本を代表する作家紫式部が父が越前守に赴任した際に国府(当時の庁舎・現武生市)へ同行し、2年ほどの歳月を過ごしたゆかりからこの紫ゆかりの館が2021年に作られた。
紫式部が滞在した様子(紫式部の間)やそこから続く越前の特産品などが展示されている。また越前特産の和紙を使った人形を使って当時の様子を描いている。
また付近では国府の跡が武生市によって発掘・調査されており、また紫式部公園などもある。
「名に高き 越の白山(しらやま) ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね」
善光寺公式ページ→ https://www.zenkoji.jp/about/
参考:『遠くとも一度は詣れ善光寺』長野観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/modules/feature/00005
参考:『善光寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である(開帳は前立本尊で行う)。
本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。
参考動画:『【若一調査隊】どの宗派にも属さず「遠くとも一度は詣れ善光寺」と語り継がれ 1400年の歴史と東日本最大級の国宝本堂 日本最古の仏像と伝わる「本尊」と「大阪」の意外な関係とは』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/bGKyA7eL2cQ?si=IkrDvE9ZgpbPb0l5
公式ホームページ→https://www.matsumoto-castle.jp/about
長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。
天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。
1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1686年 貞享騒動(じょうきょうそうどう)が起きる。農不作のうえ過酷な年貢に多くの農民が苦しみ、身を挺して多田加助とその同志たちが郡奉行に訴え出た。やがて松本城を農民が万余りに取り囲む騒動に発展した。沈静化のために訴えを家老達が聞き入れたが、沈静化した後、家老が聞き入れた覚え書きを取り上げられ、加助とその同志の子弟も含め28名、翌年年明けに処刑されてしまう。
1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の政務は二の丸で執られた。
1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって、買い戻されて難を逃れる。市川はまず破却の延期を申請したうえで、天守を借りて博覧会(筑摩県博覧会)を開き、それによる収入を活用して天守を購入した。
参考:『松本城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%9F%8E
国宝松本城は、現存12天守の一つで、高い人気と他にはない特徴を持つ名城。平城。北アルプスを背景に400年以上前の姿をそのまま残す漆黒の天守群は、戦国の動乱と太平の時代の建物が合わさり、独特の造形美をほこる。
本来、女鳥羽川から北全体の広い地域が城内であった。千歳橋周辺には大手門があり、城下町は城郭を中心に南北約3㎞に広がっていた。女鳥羽川で敵の侵入を防ぎ、三之丸をはばむ総堀、二の丸をはばむ外堀、本丸をはばむ内堀と4重に囲まれて防御されている。
外堀を渡って太鼓門(桝形。1999年に復元。時間などの情報を伝える鐘や太鼓が備えられていた)をくぐると二の丸である。太鼓門には高さ4m、重さ約22tの巨大な石があり、松本城を作ったのは石川数正と息子の石川康長であったが、康長が玄蕃頭(げんばのかみ)であったことから、玄蕃石と呼ばれている。
石川数正は徳川家康の重臣中の重臣であったが、突然豊臣側に寝返り、豊臣秀吉の命で家康監視のために松本城を建築した(1590年入封)。
黒漆は毎年塗り替えられ、漆喰の白壁とのコントラストが美しい。冬はさらに雄大な北アルプスを背景に黒漆と積雪との黒白のコントラストが楽しめる。
また、堀にアルプスの雪解け水の地下水を引いているので、透明度がすばらしい。女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)のぶつかった地点が松本城で、複合扇状地になっているので、水資源が豊富である。平城ではあるが、潤沢な水資源と豊かな堀の水があり、地形を巧みに利用した堅固な城と言える。
しかし、水が豊富な反面、地盤が弱く、石垣や建物を建てるには不向きだったので、石垣の下にはたくさんの木の杭が打ち込んで強化されている。
黒門を入ると天守が見える。この天守を残しそうと運動したのが、市川量造と小林有也(うなり)である。市川は博覧会や寄付などでお金を集めて松本城を買い戻した。しかし、明治中頃になると松本城は天守が大きく傾き、その修理費を集めることに地元中学の校長であった小林が尽力し、傾きは修理された。
五重の天守の中には、一階分窓のあかない隠れた階がある(五階建てに見えるが実は六階建て)のも面白い点である。また、松本城は正面から見て右側の天守閣・乾小天守・渡櫓などの戦国時代に石川親子によって築造された部分(戦に備えた部分。石落とし・狭間・武器保管庫・武者走り構造・縄を入れた厚い壁など)と、江戸時代(3代家光が善光寺詣りの途中で松本城に宿泊したため当時の城主松平直政が1633年から整備)に築造された辰巳付櫓・月見櫓が合体しているところが全国に類を見ない。3階には窓がなく真っ暗。隠し階・暗闇重と呼ばれ、戦時や倉庫・避難所になったとみられている。3階部分の柱には鑿の跡がしっかり見える。4階は御座所があり、万が一の籠城の時に城主が籠る御座所がしつらえられている。急傾斜の階段(傾斜角度61度)を登ると5階。重臣たちの作戦会議室となっていた。さらに6階は最高幹部の司令塔・望楼となっていた。井桁梁(いげたばり)(重い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるための仕組み)の天井や眺望がみどころである。
辰巳櫓を通り、家光をもてなすための月見櫓へ向かうと、広々とした空間に加え、さらにとろ外すことができる舞良戸(まいらど)と呼ばれる扉に、朱塗りの回り縁にはね高欄、船底型の天井など太平の世らしい作りとなっている。しかし残念ながら、街道の状態悪化のため、松本に家光が寄れなかったため、家光のために作られた月見櫓であったが家光が訪れることは無かった。
なお、現在は2階部分に地元の人たちが寄付をした火縄銃のコレクションが常時展示されていて興味深い。
参考:『若一調査隊】徳川家康“監視”の拠点 戦国・江戸、両時代の歴史を併せ持つ「現存12天守」の一つ、国宝・松本城を徹底調査!』読売テレビニュースCh. https://www.youtube.com/watch?v=wdF7-joNj-o
2020年日本地理に大町市と北アルプスを中心にした設問があった。
[北アルプス]
飛騨山脈の別称。イギリスの登山家 W.ウェストンによって用いられ,1890年代末から通称となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[飛騨山脈]
新潟、長野、富山、岐阜の四県にまたがる高峻(こうしゅん)な山脈で、日本アルプスの北部にあたることから北アルプスとよばれる。中部山岳国立公園の一部。山容は侵食が激しく、深い峡谷と鋸歯(きょし)状をなす3000メートル級の山々が続く。白馬(しろうま)岳、立(たて)山、槍(やり)ヶ岳、穂高(ほたか)岳、乗鞍(のりくら)岳などはこの山脈を代表する山々である。地質的には古生代の堆積(たいせき)岩を火成岩類の花崗(かこう)岩や玢(ひん)岩が貫き、場所によってはこれらを乗鞍火山帯の立山、乗鞍岳の噴出物が覆っている。山脈の東側は糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線の西縁にあたるため全体に急斜面をなし、一方、西側へは緩傾斜をなしている。黒部川、高瀬川、梓(あずさ)川の上流は峡谷をなし、また黒部ダムなどの大ダムとそれに伴う人造湖がつくられている。立山連峰など2700メートル前後の山岳には圏谷(けんこく)(カール)などの氷食地形がみられる。弥陀ヶ原(みだがはら)、室堂平(むろどうだいら)などの高原、あるいは上高地(かみこうち)のような小盆地、白骨(しらほね)などの温泉のほか、カモシカ、ライチョウなどの高山動物や各種の高山植物がみられ、学術的にも貴重な山脈である。立山、槍ヶ岳、乗鞍岳などは長く山岳信仰の対象であった。
近代的登山は1878年(明治11)のイギリス人ガウランドが最初で、その後イギリス人ウェストンが北アルプスを広く世に紹介した。[小林寛義]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[日本アルプス]
本州の中央部,中部山岳地帯の骨格をなす飛騨山脈 (北アルプス) ,木曾山脈 (中央アルプス) ,赤石山脈 (南アルプス) の総称。 1881年イギリス人 W.ガウランドが E.M.サトウ主宰編集の『中部および北方日本旅行案内』A Handbook for Travellers in Central and Northern Japanの「ルート第 30」越中飛騨の部の冒頭で「信州飛騨山岳地方を日本のアルプスと名づけてよかろう」と記した。さらに,96年同じくイギリス人 W.ウェストンが『日本アルプスの登山と探検』を著わしてのち,3山脈の通称となった。山脈の規模が大きく,3000m級の高峻な峰が多いことに加えて,氷河地形など景観が多様で,高山動植物も多い。このため登山者も多く,特に飛騨山脈には槍ヶ岳,穂高岳を中心に「表銀座」「裏銀座」と呼ばれる縦走路がある。道路の発達により立山,駒ヶ岳,乗鞍岳のようにバスやロープウェーで山頂付近まで登ることも可能になった。飛騨山脈は中部山岳国立公園,赤石山脈は南アルプス国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[千国(ちくに)街道]
長野県の松本市から大町市を経て、新潟県糸魚川(いといがわ)市に至る近世の街道。糸魚川街道、松本街道ともいう。糸魚川方面から塩を中心に海産物を松本や大町など信州の内陸地へ輸送する道として重要で、塩の道ともよばれた。糸魚川から姫川の険しい谷をさかのぼり、白馬(しろうま)岳山麓(ろく)から佐野坂峠を越え、青木、中綱(なかづな)、木崎の仁科(にしな)三湖の西岸を経て大町に至った。白馬山麓の千国集落に松本藩の番所があり、この集落を通ったことから千国街道の名がつけられた。塩倉、塩を運んだ牛や牛方が泊まった牛宿が残り、石仏群もあり、大町以北は遊歩道として整備されている。白馬山麓の自然美とともに、近年観光地として注目されている。[小林寛義]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[仁科三湖]
長野県北西部,飛騨山脈の後立山連峰の東麓に南北に連なる湖。大町市に属する。北から青木湖,中綱湖,木崎湖の3湖がある。名称は中世この地方を支配した仁科氏に由来。糸魚川-静岡構造線上にあり,3湖は小河川で連続。南端の木崎湖は観光地的性格が最も強く,中綱湖は冬季の釣場,北端の青木湖は地元民の漁場的性格をもつ。3湖に沿って東側を JR大糸線と国道 148号線が通る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[白馬村青鬼] 重要伝統的建造物群保存地区(文化庁)
地区名 白馬村青鬼
種 別 農村
面 積 59.7ヘクタール
選 定 年 月 日 平成12年(2000)12月4日
特 徴
白馬村青鬼伝統的建造物群保存地区は、3,000m級の北アルプスの麓、国際山岳観光地である白馬村の北東部に位置している。
なだらかな南斜面の傾斜地にほぼ標高に沿って、東西約250m、南北約100mの中に15軒の家がほぼ三日月形状に2段に並んでいる。15棟の主屋のうち、伝統的な茅葺き(鉄板被覆)が14棟残っており、同じ形態の建物が規則的に建って並ぶ様子は極めて特徴的で印象的な農村風景を形成している。集落の東側に広がる水田は石垣による棚田を形成しており、この棚田は平成11年に「日本の棚田百選」にも認定されている。
2020年出題。
2019年(令和元年)白馬村を訪れた外国人の順位は、断トツでオーストラリア、次に香港、中国、台湾と続く。
参考: 【白馬村】外国人観光客延宿泊者数の推移 (白馬村HP)
[白馬村]
長野県北西部,北安曇郡の村。西には飛騨山脈があり富山県と接し,高山植物や大雪渓で知られる白馬岳(2932m)や,高所に湧く温泉が魅力の鑓ヶ岳(2903m)など3000m級の山々が連なり中部山岳国立公園に属する。村の中央を姫川が北流し,川沿いの平坦地をJR大糸線と国道148号が,東部に広がる筑摩山地を越えて国道406号が通じる。フォッサマグナ沿いに立地し,2014年11月には規模の大きな地震も発生している。冬場は多雪で,岩蕈(いわたけ)山や八方尾根,遠見尾根には大規模なスキー場が広がり多くのスキーヤーでにぎわうなど,観光業が盛ん。1998年に行われた冬季長野オリンピックでは,ジャンプやアルペンなどの競技会場となった。189.36km2。9205人(2010)。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
2019年日本地理で、本文に上高地の説明、解答に大正池。
[上高地]
(古くは「上河内」「神河内」とも書いた) 長野県中西部の山岳観光地。穂高岳、霞沢岳などに囲まれた、梓川に沿う平坦地で、標高約一五〇〇メートルにある。中部山岳国立公園の一部。
出典 精選版 日本国語大辞典
[大正池]
長野県中西部、北アルプスの上高地(かみこうち)にある堰止湖(せきとめこ)。1915年(大正4)上高地南西部の焼岳(やけだけ)が大噴火し、溶岩流が梓川(あずさがわ)をせき止めてできたもの。当初は南北1540メートル、東西約250メートル、最深部は6メートルであった。穂高(ほたか)岳を背景に梓川河畔の樹木が枯れ木となって湖中に林立する景観は、第一級の自然美をなしていたが、焼岳の泥流や周囲の山々からの土砂が流れ込み、現在では当初の約3分の1になり、池というより梓川の河幅の広い部分といったほうが妥当である。水力発電所の調整池の役割りも果たしているが、このままでは消滅する危機にあり、関係機関が対策の検討を始めた。[小林寛義]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
他の選択肢
◎金鱗湖(大分県由布市)
◎みくりが池(富山県中新川郡立山町。立山黒部アルペンルート)
◎田沢湖(秋田県東部の陥没カルデラ湖。ほぼ円形。田沢湖高原。十和田八幡平国立公園。たつこ像)
◎かずら橋(徳島県三好市祖谷川上流にかかる。国の重要有形民俗文化財)
◎土柱(阿波の土柱(どちゅう))(徳島県阿波市。雨水の浸食で砂礫の層が柱状に残った奇観)
◎錦帯橋(山口県岩国市、錦川の下流に架かる橋で、五連のアーチ型で木造)
◎大浦天主堂(長崎市南山手町にあるカトリック教会堂)
◎猿橋(山形県大月市を流れる桂川に架けられた橋。橋げたなしにかまちを重ねた刎木(はねぎ)式の橋)
◎秋芳洞(あきよしどう)(山口県美祢(みね)郡秋芳(しゅうほう)町にある大鍾乳洞)
◎眼鏡橋(長崎市の中島(なかしま)橋に架かる橋。国指定重要文化財。ただし、眼鏡橋自体は、長崎を中心に九州全域にある)
◎御岳(みたけ)昇仙峡(山梨県甲府市の荒川渓流の浸食によって形成された峡谷)
白馬連峰の唐松岳から四方八方に尾根が延びていることから名付けられた「八方尾根」の八方池までのハイキングコースは、絶景スポットが点在し、第1ケルンからは富士山が望める日もある。
雪解け水や雨水がたまってできた八方池は、白馬三山をその澄んだ水面に美しく映す。
中部山岳国立公園。長野県天然記念物。固有種や貴重な高山植物、ニホンカモシカ、ライチョウなどが生息。
八方池までの道は、八方アルペンライン、黒菱ライン、北尾根高原のコースがあるが、八方アルペンラインは、八方ゴンドラリフト「アダム」、アルペンクワッドリフト、グラートクワッドリフトの3つからなる八方アルペンラインの総延長は3,445m。標高差1,060mを一気に登り、わずか40分ほどで標高1,830mの第1ケルン・八方池山荘へアプローチ可能とのこと。
参考:『八方アルペンライン』HAKUBA HAPPO-ONE(白馬八方尾根) ゴンドラ・リフト
『八方池』HAKUBA HAPPO-ONE(白馬八方尾根)
長野県北安曇郡白馬村
「信州の高原・湖沼百選」指定の観光名所。
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」
国道18号線
2023年度日本地理試験で海野宿や東御市のワインづくりに関する出題があった。
〒389-0518 長野県東御(とうみ)市本海野(うんの)845
参考:『海野宿』(信州とうみ観光協会) https://tomikan.jp/area/tanaka-unno/unnojuku/
*とうみ観光協会のパンフレット(PDF)→ https://tomikan.jp/pamphlet/
参考:『重要伝統的建造物群保存地区 海野宿』(東御市) https://www.city.tomi.nagano.jp/category/bunkazai/130435.html
参考:『東御市海野宿 宿場・養蚕町』(文化庁 重要伝統的建造物群保存地区と各地区の保存活用の取組) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/93738601_40.pdf
参考:『海野宿』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E5%AE%BF
長野県東御市本海野にある、江戸時代における北国街道の宿場の呼称である。現在も通りの両側に約100棟の家が連なる歴史的な町並みを形成しており、「日本の道100選」のひとつにも選ばれている。
信濃国(信州、現:長野県)の東部、軽井沢と善光寺門前町(長野市)を結ぶ北国街道(北国脇往還、現:国道18号旧道)の中間あたりにあった宿駅である。もともと、平安・鎌倉時代の海野氏の領地として栄えた城下町で、江戸時代になってから北国街道の宿場町として開設された。
現在は東御市本海野の市道田中・西海野線の一部にあり、延長650 m、幅10 mの旧北国街道の両側には、旅籠屋造り、蚕室造り、茅葺屋根など当時使用された約100棟の歴史的な建物が残る。家並みの特徴は、表に格子戸がはまった家並みが続いており、屋根に防火用の壁である「うだつ」が見られ、2階格子の持送りや出桁(だしげた)に彫刻が施された意匠が特に目を引く。宿場の通りの中央には、江戸時代から変わらぬ位置にある「表の川」とよばれる用水堰が流れていて、向かい合わせの家ごとに洗い場が設けられており、江戸時代には馬に水を飲ませたり、旅行者が足を洗ったと考えられている。
1986年(昭和61年)8月10日に歴史性と親愛性を基準に、「歴史かおる街・海野宿」として旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」に選ばれている。また、翌1987年(昭和62年)には海野宿が種別「宿場町・養蚕町」で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。沿道の建物は、毎年3棟ほどの改修作業が行われており、建物保存に力が注がれている。
長野県東部にある上田盆地の南東部に海野宿は位置し、南に千曲川が東から西へと流れる。北には、上信越高原国立公園の浅間連峰があり、千曲川を挟んだ更に南側には八重原とよばれる台地がある。
海野宿の東には海野氏の氏神で、1822年(文政5年)に将軍徳川家斉より「天下無双」「天下無類」の2号を預かった名大関・雷電為右衛門が4本柱の土俵を奉納したと伝えられる白鳥神社がある。
参考:『千曲川』国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0406_chikuma/0406_chikuma_00.html
千曲川は、長野県、埼玉県、山梨県の3県の境にある甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)にその源を発し、佐久、上田の2つの盆地を経て長野市のある善光寺平にて最大の支川犀川と合流します。長野市の東縁を流下すると、治水の難所である立ヶ花狭窄部を抜け飯山盆地を貫流後、新潟県境に至り信濃川と名を変えます。途中の支川を合流させると流域面積7,163km2、流路延長214kmの日本最長河川である信濃川の長野県内部分をいいます。
参考:『千曲川流域ってどんなところ?』国土交通省 https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/tikumaga/place.html#
わたしたちのまちを流(なが)れる千曲川(ちくまがわ)。「千曲川(ちくまがわ)」という名前は、日本一長い川として知(し)られる信濃川(しなのがわ)の長野県内(ながのけんない)でのよび名です。
全長(ぜんちょう)367キロメートルの信濃川(しなのがわ)の流(なが)れのうち、半分以上(はんぶんいじょう)を千曲川(ちくまがわ)がしめています。
参考:『信濃川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%B7%9D
信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流であり、新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域で、長野県に遡ると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる。
全長367キロメートル (km)のうち、信濃川と呼ばれている部分が153 kmで、千曲川と呼ばれている部分は214 kmと、60 kmほど千曲川の方が長い。ただし、河川法上は千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。日本三大河川のうちの1つである。
流域面積11,900 km2は日本で第3位、新潟と長野の2県でほとんどを占めるが、信濃川水系の一次支川(いちじしせん)である中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあるため、信濃川水系の流域は群馬を含む3県に及ぶ。
千曲川は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、八ヶ岳、関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流する。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で、飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流する。
なお合流地点には落合橋(おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。その後、川は北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。
参考:『ワイン特区について』東御市 https://www.city.tomi.nagano.jp/category/6jisangyouka/101876.html
◎ワイン特区とは
通常、果実酒等の製造免許取得にあたっては、最低製造数量基準として年間6キロリットルの製造が要件として設定されています。 その基準を果実酒については2キロリットル、リキュールについては1キロリットルに引き下げ、小規模事業者の製造免許取得を可能にしたのが構造改革特別区域法(以下「特区」)による「酒税法の特例」です。
東御市においては、平成20年に長野県内初となるワイン特区を取得し、平成27年には周辺市町村8市町村による広域ワイン特区を取得しました。
千曲川(長野県)=信濃川(新潟県)→日本の川の項へ