2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
温泉法(昭和二十三年法律第百二十五号)
(定義)
第二条 この法律で「温泉」とは、地中からゆう出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く。)で、別表に掲げる温度又は物質を有するものをいう。
(温泉の利用の許可)
第十五条 温泉を公共の浴用又は飲用に供しようとする者は、環境省令で定めるところにより、都道府県知事に申請してその許可を受けなければならない。
2 次の各号のいずれかに該当する者は、前項の許可を受けることができない。
一 この法律の規定により罰金以上の刑に処せられ、その執行を終わり、又はその執行を受けることがなくなつた日から二年を経過しない者
二 第三十一条第一項(第三号及び第四号に係る部分に限る。)の規定により前項の許可を取り消され、その取消しの日から二年を経過しない者
三 法人であつて、その役員のうちに前二号のいずれかに該当する者があるもの
3 都道府県知事は、温泉の成分が衛生上有害であると認めるときは、第一項の許可をしないことができる。
4 第四条第二項及び第三項の規定は、第一項の許可について準用する。この場合において、同条第三項中「温泉の保護、可燃性天然ガスによる災害の防止その他公益上」とあるのは、「公衆衛生上」と読み替えるものとする。
(温泉の成分等の掲示)
第十八条 温泉を公共の浴用又は飲用に供する者は、施設内の見やすい場所に、環境省令で定めるところにより、次に掲げる事項を掲示しなければならない。
一 温泉の成分
二 禁忌症
三 入浴又は飲用上の注意
四 前三号に掲げるもののほか、入浴又は飲用上必要な情報として環境省令で定めるもの
2 前項の規定による掲示は、次条第一項の登録を受けた者(以下「登録分析機関」という。)の行う温泉成分分析(当該掲示のために行う温泉の成分についての分析及び検査をいう。以下同じ。)の結果に基づいてしなければならない。
3 温泉を公共の浴用又は飲用に供する者は、政令で定める期間ごとに前項の温泉成分分析を受け、その結果についての通知を受けた日から起算して三十日以内に、当該結果に基づき、第一項の規定による掲示の内容を変更しなければならない。
4 温泉を公共の浴用又は飲用に供する者は、第一項の規定による掲示をし、又はその内容を変更しようとするときは、環境省令で定めるところにより、あらかじめ、その内容を都道府県知事に届け出なければならない。
5 都道府県知事は、第一項の施設において入浴する者又は同項の温泉を飲料として摂取する者の健康を保護するために必要があると認めるときは、前項の規定による届出に係る掲示の内容を変更すべきことを命ずることができる。
別表
一 温度(温泉源から採取されるときの温度とする。) 摂氏二十五度以上
二 物質(左に掲げるもののうち、いづれか一)
物質名 含有量(一キログラム中)
溶存物質(ガス性のものを除く。) 総量一、〇〇〇ミリグラム以上
遊離炭酸
(CO2) 二五〇ミリグラム以上
リチウムイオン
(Li・) 一ミリグラム以上
ストロンチウムイオン
(Sr・・) 一〇ミリグラム以上
バリウムイオン
(Ba・・) 五ミリグラム以上
フエロ又はフエリイオン
(Fe・・,Fe・・・) 一〇ミリグラム以上
第一マンガンイオン
(Mn・・) 一〇ミリグラム以上
水素イオン
(H・) 一ミリグラム以上
臭素イオン
(Br’) 五ミリグラム以上
沃素イオン
(I’) 一ミリグラム以上
ふヽつヽ素イオン
(F’) 二ミリグラム以上
ヒドロひヽ酸イオン
(HAsO4”) 一・三ミリグラム以上
メタ亜ひヽ酸
(HAsO2) 一ミリグラム以上
総硫黄(S)〔
HS’+S2O3”+H2S
に対応するもの〕 一ミリグラム以上
メタほヽうヽ酸
(HBO2) 五ミリグラム以上
メタけヽいヽ酸
(H2SiO3) 五〇ミリグラム以上
重炭酸そヽうヽだヽ
(NaHCO3) 三四〇ミリグラム以上
ラドン(Rn) 二〇(百億分の一キユリー単位)以上
ラヂウム塩(Raとして) 一億分の一ミリグラム以上
参考:Explore the ONSEN Oita(別府温泉郷の例) 別府温泉地球博物館『草津温泉』時間湯・上がり湯の文化
異なる泉質を組み合わせて入浴することで、相乗効果を期待する方法。江戸時代には、殺菌力が高いが泉質が強力な草津温泉の入浴後に当時後に、『四万温泉』『沢渡温泉』など肌の手入れのために入るので『草津の上がり湯』と呼ばれた例があった。
現在は、狭い地域に(複数の温泉を梯子しやすい)7種の泉質の温泉を擁する別府温泉で、温泉の楽しみ方の一つとして推薦している。
別府の機能温泉浴
◎美肌
明礬温泉(クレンジング効果の硫黄泉)+鉄輪温泉(ひょうたん温泉)(保湿のナトリウム塩化物泉)
◎ダイエット
鉄輪むし湯(代謝アップ)(石菖)+竹瓦温泉(遠赤外線効果の砂湯) など
参考:
なんとなく、体に良いイメージの温泉を科学的証左から検証していく別府市×Meijiの試み。
*Meiji『別府温泉腸活プロジェクト』
別府の温泉が持つ『整う』力と、明治ブルガリアヨーグルトがもつ『整腸』の力の強力なシナジーを活かした温泉・食・運動の新しいおなか健康習慣「別府 温泉腸活プログラム」。
◎温泉腸活入浴法
入浴前にヨーグルトを食べる→入浴中におなかマッサージ→入浴後の腹式呼吸で心を調える。
◎腸食レシピ
いつもの食事にヨーグルトを加える
◎腸活エクササイズ
ウォーキング(別府市は坂の町のため、市でノルディックウォーキングを後援中)
ヨガ
*免疫力日本一宣言
なんとなく体にいいイメージの温泉効果を科学的に実験実証中。
〇単純温泉に男性が入浴すると過敏性腸症候群のリスクが減少。
〇50歳未満の男性 痛風のリスクが減少
〇女性の大腸がん、狭心症、うつ病などのリスクが軽減。Ⅱ型糖尿病や不整脈の改善緩和に効果のある腸内細菌が増えた。
〇毎日入らなくても、旅行で十分に効果があった。
〇温泉で体温を高めると良い睡眠や血行促進による疲労回復につながり、温泉地での「ワーケーション」と言う転地効果も加味され、別府温泉でのワーケーションは、業務の効率化が期待できる。(株式会社バスクリン 筑波研究所 石澤太市博士)
別府市公式観光情報webサイト『別府たび』
参考:神奈川県温泉地学研究所『Ⅱの2 火山性と非火山性温泉』
火山性温泉:マグマだまり(1000℃以上)を熱源とする温泉を火山性温泉と言う。天水(雨水)の過熱には、地層を通しての熱伝導と、マグマたまりから上昇してくるいわゆる火山ガスの流入によっての過熱があるが、熱伝導は比較的小さいので、後者の火山ガスの流入による過熱が重要だそうです。火山ガスは水蒸気が大部分を占めるが、その他の成分として多いのが、塩化水素(HCl)、二酸化硫黄(SO2)、硫化水素(H2S)、二酸化炭素(CO2)で、その成分から、酸が生じ、それらを含んだ酸性水は、地下を流動する途中で、周囲の岩石類から金属成分を溶かし出し(中和反応)、3種の基本的な泉質、すなわち、塩化物泉・炭酸水素塩泉・硫酸塩泉が生じます。世界各地の火山地域の地下深部に分布する本源的な温泉水(熱水)の泉質は、塩化物泉型です。これが地下水で希釈されて生じた温泉を、熱水希釈型温泉(または熱水性温泉)と呼びます。
他方、熱水から分離した蒸気には硫化水素や二酸化炭素が含まれています。そのような蒸気で加熱された温泉(蒸気加熱型温泉または蒸気性温泉と総称)の泉質は、硫酸塩泉型や炭酸水素塩泉型になります。
特に活動的な火山地域では、塩酸と硫酸を含む強酸性の温泉がみられることがあります。それらは、表流水や浅い地下水に火山ガスが直接吹き込んで生じたもので、火山ガス吹き込み型温泉(または火山ガス加熱型温泉)と呼ばれます。
非火山性温泉:一般的な「地温勾配または地下増温率」は、100mごとに3℃程度ですから、年平均気温が15℃の所で、1000mの深さに水があれば、その温度は45℃程度になっています。井戸を掘って、その水を冷やすことなく地表に取り出すことができれば、温泉法の限界温度25℃を優に超えていますから、温泉(しかも高温泉)と認定されます。
このようにして得られた温泉は、火山活動とは直接的な関係がないと認識されて、「非火山性温泉」と呼ばれています。あるいは、地下深層にあるために高温となっていますので、「深層熱水型温泉」とも呼ばれます。
地下の深い所ほど温度が高いことは、地表に向かって熱が流れていることを意味します。この熱流を「地殻熱流」と言います。これによって運ばれる「地殻熱流量」は小さく、加熱の速度は非常に小さいので、地下深層に長期間にわたって滞留した水だけが非火山性温泉になることができます。
江戸初期の儒学者林羅山が霊湯として挙げた三湯。有馬と草津は近世以降に作られた温泉番付で、最上位の「大関」に置かれ、草津温泉は明治時代、ドイツ人医師ベルツによって世界に広く紹介された。
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」
日本三古湯(にほんさんことう)とは、日本で古くからの歴史がある温泉のことである。
日本三古湯には2つの選ばれ方がある。いずれも長い歴史を有し、開湯伝説では神話の時代から続くとされる温泉地もある。
◎日本書紀、風土記などに登場することに基づいた三古湯
道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)の3つ。
三古湯が紹介される場合は一般的にこの三古湯であるが、史書に登場する古湯は他にもいくつかある。『伊予国風土記』逸文には、大国主命が大分の鶴見岳の山麓から湧く「速見の湯」(現在の別府温泉)を海底に管を通して湯の郡の湯(道後温泉とされている)へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が記載されている。すなわち、文献上は速見の湯が伊予の湯(湯の郡の湯)より古いということになり、また伊予の湯を道後温泉と言っているわけではない[1]。その他、史書に見られる温泉については、温泉#日本の温泉を参照。
◎延喜式神名帳に基づく三古湯
道後温泉、有馬温泉、いわき湯本温泉(福島県)の3つ。
佐波古(三函、三箱)の御湯の古名を持ついわき湯本温泉が主に主張している三古湯だが、温泉神社などの温泉に関する延喜式内社は、その他にも鳴子温泉(宮城県)、湯田川温泉(山形県)、黒羽温泉(栃木県)、那須湯本温泉(栃木県)、岩井温泉(鳥取県)、玉造温泉(島根県)、別府温泉(大分県)にあり、計10社が延喜式神名帳に記載されている。
『日本三古湯』Wikipediaより
川中温泉(群馬)、龍神温泉(和歌山)、湯の川温泉(島根)は、日本三大美人の湯として知られています。由来については明らかにされていませんが、1920年に鉄道院によって編纂された「温泉案内」の中で、「肌を白くする」という効能一覧に、この3つの温泉は含まれています。
『日本三大美人の湯とは?』温泉大辞典 BIGLOBE旅行 より
1989年、湯の川温泉・龍神温泉(和歌山県)・川中温泉(群馬県)は、「日本三美人湯」として姉妹協定を結んだ。1989年以後持ち回りで「美人の湯サミット」を開催していたが、2004年のサミットが最後になった。2016年には共同でのプロモーションの試みが行われた。
『湯の川温泉(島根県)』Wikipediaより
参考動画:
『초보자를 위한 료칸 상식과 온천 매너를 알기 쉽게 설명해드립니다.(初心者のための旅館の常識と温泉マナーをわかりやすくご説明いたします)』나나제인 똑똑한 여행 https://youtu.be/-rwKKNzsIDI?si=Qu4xAA68Yr_g0T5u
言い回しメモ
방류식(かけ流し)と순환여과식(循環ろ過式) 가수(加水) 가온(加温)없는 방류식온천 =源泉かけ流し
용출량이 풍부하고 수질이 좋다는 증거
개인탕(客室付きの温泉),가족탕(家族風呂=予約制が多い),공용탕(大浴場)
화실(和室),양실(洋室),화양실(和洋室),별채(離れ、ビラ)
1조=다다미 1장. 료칸의 가격=인당 요금 . 한개의 긱실 이용 인수도 정해져있다 .
료칸에 이동할 때(려칸 서비스 ): 픽업(pick up), 샌딩(sending), 드랍(드롭?)(drop) 가 있는 경우가 있다
문신, 중요한 부분 수건으로 가림, 탕에 들어가기 전에 샤워를 한다(한국에도 맞다), 수영복 금지(혼탕을 제외), 수건은 물에 담그지 말다, 머리는 물에 담그지 말다,때를 미는 게 예의 가 아닐 수도 있음, 노천탕에는 벌레가 있을 수도 있음.
갸울 추위 히터, 코다츠 , 한국처럼 바닥 난방문화는 없다. 한겨울보다 가울 초겨울에 가는 것이 좋다. 전기장판携行
以下、地域別温泉
北海道はその広さゆえ温泉地数が多く、また年度延宿利用人員数がいずれも1位。
上記の4温泉は、2022年の北海道の温泉問題で選択肢として出題。
[定山渓温泉]
定山渓温泉(じょうざんけい おんせん)は、北海道札幌市南区にある温泉地。
温泉街は豊平川と白井川に削られてできた河岸と国道230号沿いにあり、わずかな平地に市街地を形成している。見返り坂下の湯の滝には露天風呂に浸かっている河童の像があるほか、温泉街の至る所にメルヘンかっぱ像を設置している。月見橋は美泉定山が温泉が湧き出ているのを発見した場所であり、橋の近くにある定山の生誕200年を記念した定山源泉公園には足湯や手湯、温泉卵をつくることができるおんたまの湯を設置している。また、定山源泉公園のほかにも温泉街には無料の足湯や手湯を設置している。岩戸観音堂は小樽と定山渓を結ぶ道路を建設した際の犠牲者の冥福などを祈るため、1936年(昭和11年)に地崎宇三郎が全長120 mの洞窟に33体の観音像を私費で安置した。豊平川沿いには散策路があり、二見公園にはかっぱ大王像を設置している。かっぱ淵の近くには二見吊橋があり、定山渓での森林浴や紅葉の名所の1つになっている。
なお、定山渓小学校の敷地内には、美泉定山や定山渓鉄道をはじめとして、定山渓温泉に関する歴史資料や、かつて、定山渓周辺の住民が使用していた生活道具などを展示する、定山渓郷土博物館が建っている。
[層雲峡温泉]
層雲峡温泉(そううんきょうおんせん)は、北海道上川郡上川町の層雲峡地区にある温泉で、北海道有数の規模を誇る温泉街を形成している。
単純温泉
硫黄泉
国道39号沿い、層雲峡の渓谷の底に位置する。15軒のホテル・旅館・民宿・ペンション・ユースホステル、1軒の共同浴場がある。
温泉街の中心部はカナダの山岳リゾートを模した「キャニオンモール」として整備され、他の一般的な温泉街とは異なり欧米風な雰囲気を醸しだしている。
昭和62年度に策定された「上川・層雲峡圏プラン65基本構想」を基に、平成13年度にかけて進められた再開発事業により、建物の色彩・デザインの統一や坂を生かした街並み景観形成が図られた。この取り組みは平成11年度の国土交通大臣表彰 手づくり郷土賞を受賞している。
温泉街の中に環境省の層雲峡ビジターセンターがある。近くには大雪山黒岳スキー場や、大雪山層雲峡・黒岳ロープウェイ、キャンプ場があり、大雪山系への登山基地ともなっている。大雪高原牛(アンガス種と呼ばれるカナダ原産の肉牛)やニジマス、山菜などを使った料理が名物となっている飲食店もある。
毎年冬には「層雲峡氷瀑まつり」が開催され、多くの観光客で賑わっている。台湾などのアジアからの観光客も訪れる。
層雲峡温泉街にはコンビニエンスストアもあるが、国立公園内にあるため通常のシンボルカラーではなく景観に調和するような色調が用いられている。
層雲峡温泉Wikipediaより
[登別温泉]
登別温泉(のぼりべつおんせん、英: Noboribetsu Onsen)は、北海道登別市にある温泉。江戸時代から温泉の存在が知られており、明治時代に温泉宿が設けられてからは保養地・観光地となった。「にっぽんの温泉100選・総合ランキング」では毎年上位にランクインしている日本有数の温泉地となっている[1]。地名の語源はアイヌ語の「ヌプル・ペツ」(水色の濃い川)に由来している[2]。
自然湧出量は1日1万トン、9種類の泉質、毎分3,000リットル湧き出しており、「温泉のデパート」と呼ばれるほどである。中でも地獄谷は登別温泉最大の源泉エリアになっている。
登別駅から約6kmの距離に位置しており、北海道道2号洞爺湖登別線・北海道道350号倶多楽湖公園線で通じている。クスリサンベツ川の谷にある温泉街(極楽通り)は飲食店・土産物店のほか、警察(交番)・消防・銀行(信用金庫)・郵便局・病院などがあり、道南バス登別温泉ターミナル付近には公衆浴場「夢元さぎり湯」がある[3]。また、地獄谷にも近接している。四方嶺(クマ山)へは温泉街からのロープウェイで通じており、山上にはのぼりべつクマ牧場がある。
参考;BIGLOBE旅行 北海道の温泉地ランキング
◎十勝川温泉
北海道中央部,音更町十勝川の段丘上にある温泉。 1911年に開場。泉質は単純泉,硫黄泉。泉温 43℃前後。十勝平野の畑作地帯にあり,典型的な田園温泉地。阿寒および大雪山国立公園探勝の拠点でもある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
日本でも珍しいモール温泉が湧出。葦などの植物が堆積して出来上がった泥炭(亜炭)層を通って湧出するアルカリ性の温泉が、モール温泉。植物系の有機物を多く含む。地下500~700mから湧き出る55~60℃の高温の温泉。北海道遺産。かつてアイヌの人々が薬の沼と呼んでいたという言い伝えも。
◎洞爺湖温泉
北海道南西部,洞爺湖町,洞爺湖南岸に位置する温泉。前方に(洞爺)湖と羊蹄山を眺め,背後に有珠山と昭和新山を控えた景勝の地である。泉質は食塩泉。泉温は約 47℃で日本有数の湯量を誇る。
温泉は 1917年に開発された。大規模な旅館街が形成され,湖畔にはゴルフ場,スキー場,火山科学館などが整備されている。北海道南部の一大観光基地をなし,支笏湖,登別温泉にも近い。 1977年と 2000年の有珠山の噴火で温泉町に大きな被害を生じたが復興した。支笏洞爺国立公園の中心。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎阿寒湖温泉
北海道東部,釧路市の阿寒湖の湖畔にある温泉。阿寒湖の南岸に位置し,旅館やみやげ品店が立ち並ぶ道東第一の観光温泉地を形成。泉質は単純泉。泉温は 66℃。湯量は豊富である。マリモ (毬藻)観賞の遊覧船が発着し,阿寒湖のほか摩周湖,屈斜路湖周遊観光の一大拠点をなす。湖畔近くに阿寒湖周辺の動植物などについて解説・展示した阿寒湖畔エコミュージアムセンターがある。雄阿寒岳,雌阿寒岳への登山基地でもある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
阿寒国立公園
参考:阿寒湖温泉旅館組合HP
◎川湯温泉
北海道東部,弟子屈 (てしかが) 町にある温泉地。明治初期に開発された。湧出量が豊富で,あふれた湯水は湯の川となって屈斜路湖に注ぐ。泉質は酸性硫化水素,硫黄泉。泉温 30~65℃。近くにアトサヌプリ (硫黄山) やシラカバ林,エゾイソツツジの群落があって,観光資源に恵まれ,北海道東部の有力観光温泉地となっている。阿寒国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:川湯温泉HP
◎北湯沢温泉
北海道南西部,伊達市の飛び地,大滝の長流川上流に位置する温泉。泉質は単純泉,硫黄泉。泉温は 90℃。国民保養温泉地に指定。静かな保養地で,夏は避暑客,冬はスキー客が多い。支笏洞爺国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎ウトロ温泉
北海道斜里郡斜里町ウトロにある温泉。別名を、知床温泉ともいう。
泉質は、含重曹食塩泉、含ホウ酸食塩重曹泉。源泉温度61℃
高台の温泉街には、共同浴場「夕陽台の湯」が存在し其処にオホーツク海を一望する露天風呂がある。隣接して国設知床野営場があり、その敷地内に知床八景の一つに数えられる夕陽台展望台がある。ほか、足湯「足湯シリエトク」がある。 ウトロ漁港側の温泉街にはゴジラ岩と手湯「ゴジラの手湯」がある。
参考:ウトロ温泉Wikipedia ウトロ温泉『夕陽台の湯』(2021年の記事)
その他多数の温泉がある。→参考:Wikipedia『Category:北海道の温泉』
R6年
参考:『浅虫温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%99%AB%E6%B8%A9%E6%B3%89
浅虫温泉(あさむしおんせん)は、青森県青森市浅虫(旧国陸奥国)にある温泉。海水浴やスキー、水族館に遊園地といったさまざまなレジャー施設も兼ね備えた観光地として賑わい、「東北の熱海」、「青森の奥座敷」などと呼ばれた。
陸奥湾に突出する夏泊半島の基部に位置し、浅虫夏泊県立自然公園の一角を成している。
泉質
旧表記:含石膏弱食塩泉[3]、または含食塩石膏泉・食塩泉[1]
新表記:ナトリウム・カルシウム-硫酸塩-塩化物泉[2]
(※新旧の表記については泉質参照)
効能:神経痛、リューマチ、婦人病[1][2][3]。
源泉温度:平均63℃[3]、56℃ - 70℃[1] など
かつて浅虫温泉にはいくつもの源泉があり、30℃から78℃で湧出していた。しかし乱掘によって湧出量の減少をみたうえ、泉質が変わって食塩泉となった。そのため1968年(昭和43年)に源泉を1箇所に統合して汲み上げることとなった。こうした方式は当時の日本では珍しい試みだったという。
源泉から46℃に調整後、各温泉施設や一般家庭へ配湯が行われている[3]。
歴史
開湯伝説は慈覚大師(円仁)や円光大師(法然)による発見説を伝える。かつて浅虫は「麻蒸」と表記したことからアサを蒸していたのだろうとする語源説が有力である。
弘前藩では領内の温泉地18箇所のうちの1つと数え、御仮屋・御陣屋を備えた御休所とされている[10]。藩主は青森や外が浜を巡察する際には浅虫温泉に立ち寄って入浴した。当時の藩主が利用した本陣が、現在の「柳の湯」であると伝わる。享保9年(1724年)には村で火災があり、「本陣」も焼損被害を受けたという記録も残されている。
文化
浅虫温泉には、さまざまな文化人がやってきている。高浜虚子(1874年 - 1959年)は、娘婿が日本銀行青森支店長を務めていたこともあり、浅虫温泉を何度か訪れた。このとき詠んだ句「百尺の裸岩あり夏の海」などが残されている[21]。俳人秋元不死男(1901年 - 1977年)は1958年(昭和33年)に来訪し、「あおあおと林檎の鎮(おもし)稿を継ぐ」と詠んだ。津軽地方出身の太宰治(1909年 - 1948年)は、家族が浅虫温泉で湯治をしていたので自身もたびたび浅虫温泉に逗留し、その時の様子を『津軽』『思ひ出』に書いている。
青森市大町出身の棟方志功(1903年 - 1975年)は1924年(大正13年)に画家を目指して東京に出た。のちに版画に転向すると、1938年(昭和13年)に浅虫にある善知鳥崎を描いた作品「善知鳥」で、初めての帝展での特選を果たした。棟方志功は太平洋戦争中を除き、例年浅虫温泉を訪れて1ヶ月から2ヶ月間滞在したといい、滞在先の旅館のために描いた仏画『浅虫温泉如来』などが残されている。
「くじら餅」は浅虫温泉を代表する郷土菓子である。これはもともと津軽地方の鰺ヶ沢の菓子の製法を、浅虫温泉の菓子屋が学んできたもので、1907年(明治40年)に日露戦争の傷病兵が浅虫温泉に逗留するようになったときに生み出された。この餅菓子は安価で保存性に優れ、携帯にも便利だとして土産物として人気になった。軍人の除隊土産としても知られていたという[37]。くじら餅は浅虫温泉の名物としてくぢらもちが知られるようになり[21]、1918年(大正7年)には品評会に出陳されてさらに注目されるようになった[37]。
参考:『八幡平温泉郷』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B9%B3%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7
八幡平温泉郷(はちまんたいおんせんきょう)は、秋田県と岩手県に跨る八幡平近辺にある温泉の総称(温泉郷)。厳密には、近隣の温泉が国民保養温泉地に指定された際の名称で、指定温泉地のみが該当する。しかし広義の温泉郷においては指定対象外の温泉もこれに含まれる。
概要
温泉郷の成立は、昭和34年9月3日厚生省告示第256号による国民保養温泉地への指定である。秋田県の玉川温泉、後生掛温泉、蒸ノ湯温泉、大深温泉、大沼温泉、そして岩手県の藤七温泉を国民保養温泉地に指定する際に、八幡平周辺の温泉であることから八幡平を冠した温泉郷が名称として指定された。
その後、この名称が用いられるにつれ、銭川温泉、志張温泉、東トロコ温泉、新玉川温泉、東八幡平温泉なども温泉郷の一部として紹介されることが多くなった。
参考:『乳頭温泉郷』Wikipedia
乳頭温泉郷(にゅうとうおんせんきょう)は、秋田県仙北市、十和田八幡平国立公園内乳頭山の山麓に点在する温泉の総称、温泉郷である。
標高600 - 800メートル付近に温泉郷が広がっている。
概要
「鶴の湯温泉」から最奥の「黒湯温泉」の六軒の一軒宿、および「休暇村乳頭温泉郷」の計7つの宿で構成されている。また、乳頭山登山道には一本松温泉というかつての温泉場跡地の野湯も存在する。
温泉郷内の各宿を湯巡りできる「湯めぐり帖」を発行しており、郷内の各宿で日帰り入浴を1回ずつ楽しめる。ただし、これは宿泊者のみが購入できる代物である。この湯巡り帳は有効期間が1年と長いのが大きな特徴であり、有効期間内であればいつでも使用できる。
南に行くと、田沢湖高原温泉郷と水沢温泉郷がある。
1967年(昭和42年)10月19日、国民保養温泉地に指定。
郷内の温泉
鶴の湯温泉 - 県道の「鶴の湯入口」バス停より数km分け入った場所にあり、他の宿とは距離がある。
大釜温泉 - 秋田県道194号線沿い。
妙乃湯温泉 - 秋田県道194号線沿い。
蟹場温泉(がにばおんせん) - 秋田県道194号線起点。
孫六温泉 - 県道の大釜温泉より1km強分け入った場所にある。
黒湯温泉 - 県道の休暇村前より1km強分け入った場所にある(冬季休業)。
一本松温泉 - 登山道の途中にある野湯。
休暇村乳頭温泉郷 - 秋田県道194号線沿い。
参考:『秋保旅ガイド』秋保温泉旅館組合 公式サイト https://www.akiuonsenkumiai.com/
参考:『秋保温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E4%BF%9D%E6%B8%A9%E6%B3%89
秋保温泉(あきうおんせん)は、宮城県仙台市太白区秋保町湯元(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)に位置する温泉である。仙台都心からも近いため、宿泊のみならず、日帰り入浴にも利用されている。
同じ宮城県の鳴子温泉、福島県の飯坂温泉とともに奥州三名湯の1つとして数えられる。また古くは「名取の御湯」と呼ばれ、兵庫県の有馬温泉や愛媛県の道後温泉と並んで「日本三名湯」の1つに数えられた。
泉質
弱塩泉
ナトリウム・カルシウム-塩化物泉:低張性中性高温泉。源泉温度24度から60度[7]。
効能
リューマチ、神経痛、創傷、皮膚病、貧血、婦人病。
温泉街
仙台都心から見て西南西、旧秋保町内の東西に長い秋保盆地にあり、名取川が形成した河岸段丘の段丘面上に温泉街が広がる。温泉街付近では、段丘崖と名取川により磊々峡(北緯38度13分26秒 東経140度43分45.6秒)と呼ばれる渓谷が続く。
秋保温泉旅館組合に加盟する温泉宿泊施設(旅館・ホテル)は名取川右岸(南岸)にほとんどがあるが、観光案内所の機能も持つ「秋保・里センター」(せんだい秋保文化の里センター、あるいは秋保温泉入口交差点をはさんで西側と東側とに分かれて集積しており、西側のさらに名取川上流の神ヶ根温泉まで計16館(客室総数1,242室、総収容人員6,172人/日)がある。奥羽山脈・二口峠を越えて仙台と山形を最短でつなぐ二口街道が当地を貫いており、「秋保・里センター」の西側地区には平安時代に起源を有する宿のほか、江戸時代の寛永年間あるいは元禄年間に創業した老舗旅館が建ち並んでいる。
温泉街は仙台都心から車で30分程度と近く、数百台を収容できる駐車場、数百人を収容できるコンベンションホール、そして、高級ホテルのスイートルームに匹敵する部屋(離れ)を有する施設が複数存在し、仙台都市圏で最高の価格とサービスを提供しているため、仙台におけるコンベンション地区として機能し、賓客接待にも用いられている。同様に仙台郊外には松島などにも高級ホテル・旅館が存在することから、仙台都心にいわゆる高級ホテルが立地できない要因ともなってきた。
2008年(平成20年)の仙台・宮城デスティネーションキャンペーンに合わせて松島に松島温泉が開湯し、仙台都心では2010年(平成22年)に仙台トラストタワーに外資系高級ホテルのウェスティンホテル仙台が開業したため、競争激化から秋保温泉も変革を余儀なくされているが、それでも、コンベンション機能があるホテルまたは旅館(仙台観光コンベンション協会認定)の宿泊機能で比較すれば、秋保温泉は仙台圏で最大の収容能力を有し、スイートルームも仙台圏全87室のうち41室を占めるなど、仙台圏における優位性を維持している。
2010年(平成22年)における当地の観光客入込数は108万7867人、宿泊客数は81万8805人だった。仙台都心を除く純観光地での比較では、入込数において松島357万人、鳴子温泉郷164万人に次ぐ宮城県内第3位、宿泊客数においては松島の69万人を超える宮城県内第1位の観光地である。
2010年代には、温泉地でのビジネスホテルの需要や海外からの観光客を含めた宿泊代の低廉化を求める顧客に対応する形で、既存のホテルの別棟で素泊まり中心のローコストの部屋を増設(浴場や食堂は、棟続きの従来の建物で対応)したり、元々ホテル運営会社の従業員寮として使用していた建物を独立したホテルに転用し、室内着などのアメニティを極力削減し、各部屋内にトイレやシャワールームを設置せずに宿泊者共同で利用することでコストを削減したホテルが開業するなど、立地する宿泊施設にも変化がみられる。
歴史
開湯時期は不明だが、古墳時代にはすでに存在したとする説も存在する。秋保温泉が歴史に登場するのは、第29代欽明天皇の代である。在位中(531年〜539年)に小瘡(皮膚病)に感染し、八方手を尽くして治療を行ったものの一向に治らなかったが、秋保温泉の効能を聞いてその湯を都に搬送させ、沐浴したところ数日で全快したとされ、天皇はその喜びを歌に詠んだ。その由来を刻んだ碑が温泉街の一隅に建てられている。
“覚束な雲の上まで見てしかな鳥のみゆけば跡はかもなし”(な鳥のみゆ=名取の御湯)
以後、秋保温泉は皇室の御料温泉の1つとして位置づけられ「御湯」の称号を賜り、別所温泉(信濃御湯)、野沢温泉(犬養御湯)(あるいはいわき湯本温泉(三函御湯))と共に「日本三御湯」と称せられるようになった。「名取の御湯」は、「拾遺集」「大和物語」などにも歌われている。
江戸時代初期までは、秋保温泉の源泉は1つで入浴場も1箇所のみであった。この入浴場の周りに宿泊所が設けられていた。
大正時代に入ると秋保温泉と長町との間に、秋保石の採掘運搬を目的とした馬車軌道が開通した。しかし、所要時間は約2時間20分であり、徒歩での所要時間と大差なかった。その後、秋保石材軌道、秋保電気鉄道へと発展し、所要時間は約1時間に短縮された。さらに、長町駅では国鉄東北本線や仙台市電と接続し、戦後にかけ湯治客の輸送に大きく寄与した(秋保電気鉄道は1961年に廃止されている)。
戦後、各旅館とも近代的な建築に建て替えが進んでいたが、1980年代に入ると高層の大型観光ホテルが次々建てられた。すると、人口約5千人の秋保町の財政では高層ホテルに対応するポンプ車やはしご車などの消防車を配備することが困難となり、町は1985年(昭和60年)に仙台市と消防応援協定を締結した。
仙台市との合併後、渋滞の原因の1つである国道286号と宮城県道31号仙台村田線との接続部において、東北自動車道・仙台南ICから温泉街入口までの国道286号に片側2車線の生出バイパスが整備され、その先の国道286号でもボトルネックの赤石橋を回避する赤石バイパスが新設された(1990年代に整備が進んだ山形自動車道も渋滞の解消には役立った)。また、国道48号からは林道のみのアクセスだったが、仙台西道路・愛子バイパス・県道秋保温泉愛子線と続く仙台都心からの新たな最短経路が建設され、更に国道457号もできた。これら道路の整備により、仙台都心から車で約20分、最寄インターチェンジから約10分という利便性を得た。また、釜房ダムなどを水源とする上水道が整備され、旧秋保町全体の下水道普及率も政令市移行時の29.6%から88.6%になり、湯元地区には仙台市太白消防署秋保出張所も設置された。
バブル景気までは、各ホテル・旅館とも団体旅行や宿泊を伴う大型忘年会などで賑わい、宴会部門を主な収入の柱にした経営をしていた。また、同時期に仙台市に編入合併した旧宮城町内の作並温泉(片側1車線の国道48号あるいは全線単線の仙山線・作並駅でアクセス)と比べて利便性が高くなり、投資や観光客も集中した。しかし、バブル崩壊後は旅行の少人数化で宴会を伴わない客層に変化し、団体客が減少して宴会部門の収益が激減した。そのため、倒産したり、買収される旅館も出るなど、各ホテル・旅館とも収益構造の変化を強いられた。その中で、域外資本による低価格販売路線を打ち出す宿の登場(あるいは、既存の高級ホテル運営の企業が、近隣や棟続きの別施設で低価格路線を行うなど、2極化しているケースもある)や、既存の宿の方向性転換による個人客向け高級温泉宿など様々な宿が存在する温泉街へと変化した。
周辺観光地
宮城県内
磊々峡(らいらいきょう)
秋保大滝
仙台万華鏡美術館
天守閣自然公園
秋保工芸の郷
仙台市天文台
錦ケ丘ヒルサイドモール
二口渓谷(二口峡谷)
国営みちのく杜の湖畔公園
釜房湖(釜房ダム)
仙台市都心部
山形県内
立石寺(山寺)
宮城県道62号仙台山寺線を通って二口林道で奥羽山脈を越える必要あり。
面白山高原
アクセス
自家用車(秋保温泉入口交差点までの値)
JR仙台駅から、国道48号(仙台西道路、愛子バイパス)、県道秋保温泉愛子線:17.4 km、約34分
東北自動車道・仙台南ICから、国道286号、県道仙台山寺線:8.2 km、約16分。
東北自動車道・仙台宮城ICから、国道48号愛子バイパス、県道秋保温泉愛子線:11.1 km、約21分。
山形自動車道・宮城川崎ICから、国道457号、県道秋保温泉川崎線:13.1 km、約30分
バス
JR仙台駅より
タケヤ交通「仙台西部ライナー」かわさきまち行乗車、約29分(佐勘前までの所要時間)
宮城交通快速バスで約45分、一般路線バス(長町駅・仙台市地下鉄南北線長町南駅からも利用可)で1時間前後。
JR仙山線・愛子駅から仙台市営バスで15分(本数は極めて少ない)。
送迎バス
ほとんどの宿泊施設が仙台駅東口観光・送迎バス乗降場発着の送迎バスのサービスを実施している。
鳴子温泉観光協会公式ホームページ https://www.welcome-naruko.jp/
鳴子温泉郷観光協会公式ホームページ https://www.naruko.gr.jp/
「高速バス 仙台鳴子線休止」2025年10月4日~ https://www.welcome-naruko.jp/information/%e9%ab%98%e9%80%9f%e3%83%90%e3%82%b9%e4%bb%99%e5%8f%b0%e9%b3%b4%e5%ad%90%e7%b7%9a%e4%bc%91%e6%ad%a2
参考:『鳴子温泉郷』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E5%AD%90%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7
鳴子温泉郷(なるこおんせんきょう)は、宮城県大崎市(旧陸奥国、明治以降は陸前国)にある5つの温泉の総称(温泉郷)。日本百名湯にも選ばれている。
概要
鳴子温泉郷は、鳴子温泉、東鳴子温泉、川渡温泉、中山平温泉、鬼首温泉で構成される。宮城県北西部の栗駒国定公園内に位置する。
鳴子・東鳴子・川渡・中山平の4温泉は、JR陸羽東線あるいは国道47号沿いにある。一方、鬼首温泉は他の4つとは離れ、鳴子ダム北側の鬼首カルデラに点在している。
源泉数が約370あり、最も古い温泉には開湯千年の歴史をもつ。
ともに陸羽東線・国道47号沿いにある鳴子温泉郷(宮城県)と最上温泉郷(山形県の赤倉温泉および瀬見温泉)で、共通の湯めぐりチケットが発行されており、県境を越えた湯巡りをすることが出来る。
郷内の温泉
鳴子温泉
東鳴子温泉
川渡温泉(かわたび)
中山平温泉
鬼首温泉(おにこうべ。「鬼首温泉郷」と表記されることもある)
このうち、川渡温泉、中山平温泉、鬼首温泉は1960年(昭和35年)10月1日に、「奥鳴子・川渡温泉郷」として国民保養温泉地に指定されている。
作並温泉郷(作並温泉旅館組合公式サイト) http://www.sakunami-spa.com/
仙台市街地から車で約40分。古くから仙台の奥座敷として称された作並温泉。
仙台市と山形市を結ぶ国道48号線(関山街道)に位置し、その由来は歴代仙台藩主のかくし湯と伝えられる。
寛政八年(1796年)の開湯以来、さまざまな文化人を始め多くの人々が訪れ今なお愛され続けられている。
肌にやさしい泉質と豊富なお湯から「美女づくりの湯」とも言われており、露天風呂や岩風呂、立ち湯など各旅館の多彩な湯めぐりが楽しめる。
参考:『作並温泉』Wikipedia
作並温泉(さくなみおんせん)は、宮城県仙台市青葉区作並にある温泉である。かつては陸奥国、明治以降は陸前国に位置した。
泉質
単純温泉
ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉。源泉温度50度から60度[1]。
効能
胃腸病、皮膚病、リューマチ、婦人病、脚気、火傷[1]。
温泉街
広瀬川に沸いた温泉が元で、山に囲まれた南北に細い河岸段丘に旅館が点在している。温泉街を通る幹線道路は国道48号で、仙台市中心部と、山形方面に通じる。日帰り入浴施設は「都の湯」があり、岩盤浴も楽しめる。旅館組合が作成した温泉街散策ガイドである「作並温泉ぽかぽか湯めぐり歩き」には、温泉街周辺の名所を巡るコースが記載されている。また、ガイドに協力している旅館のスタンプを集めることで、一軒無料で日帰り入浴を楽しむことができる。
歴史
721年(養老5年)に行基が東北地方巡行の際に発見し、1189年(文治元年)に源頼朝が奥州藤原氏征伐の際にここで兵馬を休めたと伝えられる[2]。しかし古くから地元の人に知られていたらしく、1760年(宝暦10年)の『奥州里諺集』、1761年(宝暦11年)の『奥州仙台領遠見記』に作並の湯のことが見える。湯渡戸という坂のそばに温泉があり、石などで囲って近在の者が入湯したが、湯治客が来るような著名な温泉地ではなかった。
1796年(寛政8年)に岩松喜惣治が仙台藩の許しを得て開湯に着手し[2]、道路と設備を整えるのに8年を要した。広瀬川の左岸(東岸)にある現在の鷹泉閣岩松旅館の前身である。これを古湯として、1855年(安政2年)に開かれたものを新湯(神の湯)という。出羽国村山郡猪沢の僧侶の秀泉が、地元の石垣彦左衛門と奥山伊三郎と3人で開き、作並神湯と称したものである。古湯の北西対岸にあり、現在の神の湯作並ホテルの前身である。
1878年(明治11年)に作並温泉には古湯・新湯に1軒ずつの旅館があり、年間約2500人の入浴客を受け入れて、先発の秋保温泉(4軒、約1800人)を凌いでいた。1893年(明治26年)には3軒あったが、大正時代にはまた2軒に戻った。
1970年(昭和45年)には約30万人の入り込み客があり、1985年(昭和60年)に約61万人になったが、2001年(平成13年)には約43万人になった。一時期は「仙台の奥座敷」といえば作並温泉のことを指していたが、秋保温泉がホテルの改築等の投資を積極的に行った結果、立場が逆転し、秋保温泉が「仙台の奥座敷」と呼ばれるようになった。
2004年に発生した温泉偽装問題では、温泉利用許可を受けていない旅館や、源泉の無断開発を行った旅館があったとして一連の騒動の中報道された。
アクセス
仙台市中心部からは、山交バスの特急バス(48ライナー)が便利である。
山交バス : 仙台駅前24番ポール(EDEN前)より、特急48ライナー(村山駅前・新庄駅前行)利用、作並温泉元湯下車。
仙台市営バス : 仙台駅西口10番ポールより[840] 県庁市役所・大学病院前経由作並温泉行に乗車、作並温泉元湯下車。
鉄道 : JR仙山線作並駅下車。駅前(国道48号)から市営バス、または旅館・ホテルの送迎バス利用。
自家用車 : 東北自動車道仙台宮城インターチェンジより国道48号経由 。
周辺観光地
ニッカウヰスキー仙台工場 宮城峡蒸溜所
鳳鳴四十八滝
西方寺(定義如来)
立石寺(山寺)
大倉ダム
賢治とモリスの館
銀山温泉公式サイト https://www.ginzanonsen.jp/
銀山温泉は、かつて江戸時代初期の大銀山として栄えた「延沢銀山」の名称に由来しています。大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造多層の旅館が銀山川の両岸に沿って軒を並べ、昔ながらの独特な景観を味わうことができます。
参考:『銀山温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%B1%B1%E6%B8%A9%E6%B3%89
銀山温泉(ぎんざんおんせん)は、山形県尾花沢市(旧国出羽国、明治以降は羽前国)にある温泉である[1][2][4]。
NHK連続テレビ小説『おしん』の舞台となったことで一躍脚光を浴び、全国的にその名を知られることになった[5]。
歴史
写真中央にみえる5階建ての建物「能登屋旅館」は国の登録有形文化財である[6]。
開湯は慶長から寛永に、かつてこの地に栄えた野辺沢銀山の鉱夫が発見したことによる[1][4]。銀山は足利幕府時代の康正年間(15世紀)に開かれ、江戸時代の寛永期(17世紀前半)には人口20万から30万を数えるほど栄えたが、正保元年(17世紀中期)から銀採掘が衰退していき、替わって温泉湯治が盛んになっていった[7]。
1689年に銀山が閉山した後に温泉宿が建てられはじめて湯治場として賑わったが、1913年の大洪水により温泉街は壊滅した。その後、地元財界の力で復興し、その時に現在の温泉街の光景が作られた。1925年ごろに「能登屋旅館」の本館が建てられている。
1968年11月19日、国民保養温泉地に指定。羽州街道から10km以上の山奥にあるため長い間秘湯であったが、1983年のドラマ「おしん」のヒットにより全国的に認知された[5]。
1986年に「銀山温泉家並保存条例」を制定して景観整備に努め、1995年度「やまがた景観デザイン賞」(山形経済同友会主催)を受賞した。
温泉街
最上川支流の銀山川の両岸に大正から昭和初期にかけての木造多層建築の旅館が立ち並ぶ。多くの旅館は、建築された当時としては非常にモダンな三層四層の木造バルコニー建築であり、外装には鏝絵が施されている旅館もある。川には橋が多くかかり、また石畳の歩道にはガス灯が並んでいる。5月から10月までの毎週末には、花笠踊りが橋の上で披露される。
銀山側下流側から温泉街を眺めた大正ロマン漂う光景は、温泉のシンボル的な風景である。この光景を守るため、町並みを保存する条例が定められている。
当地の旅館「藤屋」で女将をつとめた7代目当主の妻藤ジニー(Jeanie Fuji, 1966年3月26日生まれの米国人、旧名ジニー・ピュー、Pugh。元外国語指導助手(ALT)。現在は離婚してアメリカ・オレゴン州へ帰国)は、公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演するなど、メディアに出る機会も多かった。藤屋は2006年に現代風に改装したが、2010年に民事再生法を申請した。
温泉街には古くからの「大湯」と近年できた「しろがね湯」2軒の共同浴場が存在したが、大湯は閉館している。温泉街の遊歩道には足湯もある。しろがね湯、藤屋ともに改装は隈研吾の設計。
アクセス
飛行機:山形空港よりバスで約75分。
鉄道:山形新幹線・大石田駅よりバスで約40分。
自動車:国道13号・尾花沢バイパスから国道347号(母袋街道)に入り、山形県道29号尾花沢関山線および山形県道188号銀山温泉線で至る。
宮城県側からは国道347号(鍋越峠)経由、山形県村山市側からは山形県道29号尾花沢関山線(背炙峠)経由の経路が地図上では最短路となる場合があるが、いずれも狭小であるため銀山温泉組合は通行を推奨していない。
温泉街は一般車両が通行禁止となっている。宿泊客は宿が指定した駐車場に、日帰り客は温泉街まで徒歩3分程度の未整地に車を止めて徒歩で温泉街に向かうことになる。なお、冬季(積雪時)はこの日帰り専用駐車場は雪で埋もれてしまうため利用出来ないので注意が必要。
東北中央自動車道の最寄りは尾花沢インターチェンジ。
鬼怒川温泉(日光市公式観光WEB) https://www.nikko-kankou.org/spot/51
雄大な渓谷美に彩られた関東有数の温泉地
江戸時代に発見され、当時は日光詣の僧侶や大名のみが入ることを許されたという由緒正しき温泉です。
明治以降に一般開放されてからは多くの観光客が訪れ、鬼怒川渓谷沿いには旅館やホテルが建ち並ぶ関東有数の大型温泉地として発展しました。
泉質はアルカリ性単純温泉で、神経痛や五十肩、疲労回復や健康増進に良いとされており、無味無臭でくせがなく、肌にも優しいため、多くの方がお楽しみ頂ける温泉です。
周辺は豊かな自然に囲まれており、江戸ワンダーランドや東武ワールドスクウェアなどのテーマパークも多く、また世界遺産の日光まで車で30分ほどと、日光市内観光の拠点にも最適です。
『鬼怒川温泉』Wikipedia
鬼怒川温泉(きぬがわおんせん)は、栃木県日光市鬼怒川地区(旧藤原町区域)の鬼怒川上流域にある温泉。
箱根や熱海と並んで「東京の奥座敷」と呼ばれ[1]、年間200万人以上[1]の宿泊客で賑わう。 鬼怒川温泉は地域団体商標に登録されている[2]。
泉質
火傷に対する効能があるとされ、北側の川治温泉とともに「傷は川治、火傷は滝(現在の鬼怒川温泉)」と称された。総源泉数32、毎分3573リットルの湯量を誇る[3]。
アルカリ性単純泉
単純泉
温泉街
鬼怒川沿いに約40軒のホテル旅館の他、リゾートマンションや企業の保養所などが連なり、市営の公共浴場や足湯の他、民間の入浴施設も多数ある。鬼怒川温泉駅周辺には、コンビニエンスストア、みやげ物店、レストラン、売店、カフェ、料理店、そば店、中華料理店、足湯、旅館観光案内所、ツーリストセンター、レンタカー、全天候型プール&スパ、銀行、郵便局などが並ぶ。外国人の観光客も多い。
周辺の名所・施設
温泉街南部にかかる鬼怒楯岩大吊橋
鬼怒川温泉ロープウェイ
ハンターマウンテン塩原
龍王峡
鬼怒楯岩大吊橋
鬼怒川ライン下り
東武ワールドスクウェア
日光江戸村
ハンターマウンテンゆりパーク
とりっくあーとぴあ日光
太郎次郎一門の日光さる軍団
歴史
由来
古くは滝温泉という名前で、1691年に沼尾重兵衛が鬼怒川右岸で源泉を発見されたとされる。1751年から日光奉行の支配となったことから、日光詣帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉であった。
発展期
明治時代になって滝温泉が一般に開放され、明治2年には東岸にも藤原温泉が発見された。その後、上流に水力発電所ができて鬼怒川の水位が下がるとともに、川底から新源泉が次々と発見され、1927年(昭和2年)に、滝温泉と藤原温泉を合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになり、その名称は今日までいたっている。この頃から旅館・ホテルが開業を始め[4]、1929年の下野電気鉄道(現・東武鬼怒川線)の開通もきっかけとなり、次第に温泉として発展していった。
戦後は特急「きぬ」の運行などもあり、東京から観光客が押し寄せて日本有数の大型温泉地としての発展を見せた。鬼怒川の渓谷沿いに大型のリゾートホテル・旅館が連なるようになったのは高度経済成長期以降である。
1976年(昭和51年)4月3日、ホテル白河の別館から火災。旅館2棟が全焼するも、宿泊客が少ない午後2時という時間帯であり負傷者1人を出したのみ。
バブル崩壊から東日本大震災まで
バブル景気の影響が残っていた1993年には同町内の川治温泉と併せて年間341万人、鬼怒川温泉単独でも300万人を超える宿泊客を記録していたが[8][9]、バブル崩壊の影響激化後は、団体旅行(特に会社の慰安旅行)の減少、レジャーの多様化、円高に伴う海外旅行の一般化などの構造的要因もあって、全国的に温泉街が経営的に一層苦しくなっている中、鬼怒川温泉も例外ではなく、熱海温泉や別府温泉と並んで不振の代表格とされたことすらあった。同じ東京近郊立地の温泉地である箱根温泉や伊豆・熱海などと比べると、アクセスがやや不利で、集客にハンディがあったうえ、東北新幹線の拡充・延伸や航空運賃の低下に伴う東北・北海道など北日本各地の観光地・温泉地との地域間競合、円高やLCCの出現による観光客の海外流出(中京や関西といった遠方からだと日光・鬼怒川に行くよりもむしろ海外に行く方が安い場合が多い)も不振に繋がる要因であった。
内的なものとしては、会社などの団体客を主要顧客としていた時代の設備のままの経営や、宿泊客のニーズを無視した硬直的で割高な料金設定(各ホテル・民宿をほぼすべて同じ料金に設定していた時期もあった)を後々まで続けていたことで、リピーターとなる可能性のある一人旅客や若年層を長年逃し続ける原因ともなった。また、「国土施策創発調査」においては、鬼怒川温泉宿泊客アンケートで同温泉に感じる魅力の1位が「風光明媚」だったのに旅館やホテルの経営者にとっては同項目が4位にとどまる認識のずれがあり、さらには下記で述べる川沿いの大型ホテル林立やその一部の廃墟化がこれを損ねていると指摘された。一方、温泉地に求められる最も強い要素は「温泉街らしい風情」だが、その欠落については宿泊客も経営者も認識しており、旅館の大型ホテル化(による宿泊客の囲い込み)や休業・廃業がにぎわいの喪失に拍車をかけていることが報告書で記載された。また、特に若者が持つ食事の質の向上や多様化という志向に対応できない旅館ホテルの満足度低下もアンケート調査で示された。
多くの地場資本による宿泊施設のメインバンクである足利銀行は、融資拡大路線と相まってバブル期に宿泊施設の増築・改装といった設備投資に対して積極的に融資を行ってきたが、バブル崩壊後は越冬資金(売上が減少する冬季の運転資金)融資を引き受け、返済困難な既存借入を新規融資で肩代わりし借換えさせる(自転車操業)策により、殆どの宿泊施設は宿泊客が年々減少する平成不況下でも経営支援として延命されてきた。
しかし2003年11月に足利銀行は経営破綻し預金保険機構が一時国有化。融資基準が厳格化され、不良債権が認められた貸出先については新規融資が困難となり、あさやホテルのようにバブル期の設備投資による過剰な融資が集中した鬼怒川温泉界隈で資金繰りの悪化が懸念された。その後不良債権の多くは整理回収機構へ債権譲渡され、取立や資金繰りに屈した事業者が2005年前後に相次いで倒産した。また、あさやホテルや鬼怒川温泉ホテルをはじめとした5社(同じ日光国立公園内では他に3社)については産業再生機構に支援入りし、債権放棄を受け経営再建を果たすことになった。これらの施設は金融支援のうえ経営会社の株式(経営権)や不動産が企業再生ファンドに買い叩かれたことで財務基盤が身軽であり、設備のリニューアルや低価格を武器に集客を図っている。その一方、休館した一部のリゾートホテルは解体されず放置され、廃墟となっている。
2004年、国土交通省が行った「国土施策創発調査」の案件の一つとして、鬼怒川温泉が所在する藤原町(当時)が群馬県伊香保町(現在の渋川市、伊香保温泉)、山梨県石和町(現在の笛吹市、石和温泉)と共に取り上げられ、2005年(平成17年)3月付で調査報告書が作成された。
交通機関については、2006年よりJR東日本と東武鉄道による新宿駅と鬼怒川温泉間の直通特急「きぬがわ・スペーシアきぬがわ」が毎日運行され、多摩地区、23区西部、神奈川県、埼玉県中西部などから鬼怒川温泉へのアクセスが大幅に向上した。一方、福島県の会津鉄道を走る「AIZUマウントエクスプレス」が2005年に会津若松駅から鬼怒川温泉駅への乗り入れを開始し、2012年には東武日光駅まで直通区間が延伸された事で[12]、課題だった日光地域からの市内回遊、および会津地方への広域連絡が強化された。
2006年3月に特急「きぬがわ」・「スペーシアきぬがわ」が新宿駅 - 鬼怒川温泉間で直通運転を開始した。従来の特急「きぬ」は浅草駅発着であったため、東京都西部や神奈川県、埼玉県中西部からの利用客にとってやや不便であったが、西東京・東京都区部やさいたま市からの集客に寄与することになった。なお、1995年に関東バスと東武バス日光が新宿駅〜日光・鬼怒川温泉間の高速路線バスを開設したが1998年3月に撤退している。また、2006年11月を以てウェスタン村が休園(事実上の閉園)した。一方、2006年3月には藤原町が周辺自治体と合併して新たな日光市が誕生し、同一市内となった世界遺産の「日光の社寺」を含む旧日光市地域との連携強化への体制が進められた。
2009年に世界金融危機の影響を受け、鬼怒川観光ホテルと鬼怒川ホテルニュー塩原を経営するホテルニュー塩原グループが自主再建を断念し、新旧分離を実施(2011年特別清算)した。
2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所事故による放射能汚染の懸念から、鬼怒川温泉では日帰りを含め観光客が激減した。鬼怒川公園駅の近くにある日光市立鬼怒川小学校では2011年5月に栃木県教育委員会の測定で毎時0.55マイクロシーベルト(年間換算で2.4ミリシーベルト)を記録し、直接的な健康被害の発生は確認できないものの、相対的には高線量となる放射能汚染のホットスポットと認識された[14]。震災後の自粛ブームと相まって観光客は姿を消し、同年4月には鬼怒川・川治両温泉の合計宿泊客は2万7482人となった。年間宿泊客でも、「国土施策創発調査」内で最後に記述された2003年で約240万人だった両温泉宿泊客は2011年に148万人まで減少した。原発事故を起こした東京電力の子会社が運営していたTEPCO鬼怒川ランドが閉園、それまで不良債権問題を免れ自主経営を続けてきた中小の民宿・旅館や店舗の廃業が相次ぎ、日光猿軍団も2013年12月末で解散となった(2014年10月に記念館として営業再開)。
訪日外国人客の増加からコロナ禍まで
各旅館ホテルは客室露天風呂の設置など、個人旅行客向けのリニューアルを積極的に行い、インバウンド(訪日外国人客)の積極的な受け入れを行なったり、個人旅行及び富裕層のニーズに対応している他、「星野リゾート界鬼怒川」など高級旅館の新築による開業等明るい兆しがあった。
鬼怒川温泉駅前など温泉街を中心に、日光ブランド認定品の地元食材等を使用した、様々な趣向のカフェなど飲食店や店舗などが増加した。
2015年(平成27年)9月9日、関東地方に記録的な集中豪雨。鬼怒川が氾濫して河畔に建つ鬼怒川プラザホテルの露天風呂などが崩壊。
2017年のダイヤ改正では、新型特急リバティなど、浅草駅発着の特急電車が大増発し、更に鬼怒川温泉と下今市駅間でSL運行開始、同時に東武ワールドスクウェア駅が新設され、利便性が大幅に向上した。また、2012年の東京スカイツリーの開業後は、東京スカイツリーをはじめとする浅草周辺の観光スポットと日光・鬼怒川地区を回遊する観光客も海外からのインバウンド客を中心に増えた。
また道路交通でも2017年に圏央道茨城区間、2018年に外環道千葉区間など首都圏内高速道路の開通により、成田空港及び茨城空港からのアクセスが大幅に向上した。
上記のほか、地元住民や企業、更に行政の努力により、観光客数及び宿泊客数が増加傾向であった。一棟で約2億円という廃業ホテルの解体に着手できず廃墟の街として話題になるなどの課題は残っていたものの、2018年には宿泊客が約180万人まで回復していた。
しかし、2020年初頭から日本でも本格化した新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、全国の他の温泉地と同様に鬼怒川温泉も急激な集客減に直面した。まず海外からのインバウンド観光客の来客が消滅し、東京都などで外出自粛要請が出た3月下旬以降に観光客の減少は顕著となり、4月16日に栃木県を含む日本全国へ緊急事態宣言が発令されると、長期休業を決める宿泊施設も続出した。鬼怒川・川治温泉旅館組合に加盟する28宿泊施設の3月宿泊客は計6万787人で前年同月より46.4%減少、4月宿泊客は例年の10万人前後に対して計9190人となり、調査史上初の1万人割れ、前年同月と比べ90.9%減少となった。特に鬼怒川温泉の25施設では同91.5%減の8233人にとどまった。減少は5月にも続き、日光市の統計では藤原地域として2月に10万8424人、3月に8万9875人、4月でも1万5727人を記録していた宿泊客数は5月に6740人となって、同統計では前年比で95.3%減を記録した。6月以降はGo To キャンペーンなどの観光振興策が再開されて持ち直したものの、日光市の統計では2020年に104万0771人で前年比41.1%減、2021年にも85万2917人で同18.0%減と宿泊客の減少に歯止めがかからず、初めて100万人を割り込んだ。
2021年8月には「ホテルニューおおるり」が一時休館(2022年6月に再オープン)、宿泊客や宿泊施設の減少とこれに対する観光施策の展開がせめぎあっている。
交通
鉄道 - 東武鬼怒川線:東武ワールドスクウェア駅・鬼怒川温泉駅・鬼怒川公園駅
浅草駅(東武鉄道)方面の特急「スペーシアX」「きぬ」「リバティきぬ」「リバティ会津」、新宿駅(JR東日本)方面の特急「きぬがわ」が毎日運行される。
高速バス
東北急行バス:東京駅 - 日光・鬼怒川線 鬼怒川温泉駅 ※運行休止中[27]
日光交通による「ダイヤルバス」が鬼怒川温泉駅と宿泊施設間を巡回形式で運行。
自動車 - 日光宇都宮道路 今市インターチェンジより国道121号経由で約30分。今市インターチェンジより16km。
群馬県西部,白根山 (草津白根) の南東麓草津町にある温泉。古くから温泉集落を形成していたが,標高 1200mの高地にあるため,明治時代中頃までは,冬住みと称して冬季間は下の集落へ移った。泉質は含硫化水素酸性明礬泉。泉温は 60~65℃。湯量豊富で皮膚病,胃腸病,神経痛などにきく。強酸性のため「時間湯」という特殊な入浴法が「湯もみ」の所作とともに残っている。夏は避暑地,冬はスキー場として多くの観光客でにぎわう。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
渋川伊香保温泉観光協会HP https://www.ikaho-kankou.com/
伊香保温泉とは https://www.ikaho-kankou.com/aboutikaho/history/
伊香保の温泉は昔から名湯として知られていますが、その起源は、第11代垂仁天皇の時代に発見されたという説と、草津温泉と同じように行基によって見つけられたという説があります。どちらにしても、南北朝時代の書物にすでに温泉が湧き出ていると書かれているのですから、本当に古くからある温泉なのです。
『伊香保温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%A6%99%E4%BF%9D%E6%B8%A9%E6%B3%89
伊香保温泉(いかほおんせん)は、群馬県渋川市伊香保町にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯で、上毛かるたでは「伊香保温泉 日本の名湯」と歌われている。
「伊香保温泉」として地域団体商標に登録されている。
泉質
硫酸塩泉:黄金(こがね)の湯
温泉法上の温泉(メタけい酸による規定):白銀の湯
温泉街
石段口より石段を見上げる
急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。石段の上には伊香保神社が存在する。
石段上の源泉周りは整備されており、源泉が湧出する様子を見ることができる。また石段から源泉までの遊歩道の途中に飲泉所も存在する。源泉の傍には「伊香保露天風呂」が、石段の途中には共同浴場「石段の湯」が存在する。
温泉街には休廃業している宿泊施設もあり、2023年12月には、群馬銀行の子会社と地元企業などが、石段近くにある廃旅館の再生などまちづくりに取り組む会社を設立した。
周辺
温泉街と近くの物聞山にある上ノ山公園を結ぶロープウェイ(伊香保ロープウェイ)が存在する。
このほか周辺には榛名山や、水沢うどんで有名な水沢観音などが存在する。
歴史
古代・中世
伊香保を含む群馬県域は旧上野国にあり、『上野志』では垂仁天皇の御代に開湯と伝える。『万葉集』には「伊香保」の地名を含む和歌が9首載せられている。
南北朝時代の『神道集』第四十二「上野国三宮伊香保大明神事」に伊香保の温泉にまつわる次の逸話がある。昔は群馬郡渋川保の郷戸村に温泉が湧いていたのだが、大宝元年水沢寺が建てられた時のこと、大工の妻子がこの湯で衣類を洗っており、一人の老女が「衆生利益の為に出した湯が汚れ物を洗うのに使われるので、この湯を今少し山奥へ運ぼう」と言ってお湯を瓶に入れ頭に載せ弥陀の峰を越えて行くという夢を僧正が見た。目が覚めてから確かめるとお湯がなくなっており、僧正が山に分け入ると石楼山の北麓、北谷沢の東方の窪地、大崩谷から温泉が出て伊香保の湯に合流していた。
文明18年(1486年)9月、尭恵は伊香保を訪れ、『北国記行』中で伊香保の温泉について記述している[6]。文亀2年(1502年)には宗祇が、伊香保の湯を中風に効ありと記している(『宗祇終焉記』)。
戦国時代には白井城の長尾氏がこの温泉の管理に関わった。享和2年(1802年)に記された『仁泉亭記』には長尾氏が天正4年(1576年)に伊香保の地を七氏に分け与えたとあり、元禄11年(1698年)に跡部良顕が記した『伊香保紀行』には白井城主長尾景春が処士5人を伊香保に入部させたとある。大槻文彦は天正以前から千明氏が温泉管理・岸氏が神社管理に関与しており、天正年間に他の5氏(木暮・大島・望月(永井)・島田・後閑)が伊香保の地を与えられたと考察している[8]。現存する文書としては木暮家の祖、木暮下総守が天正10年(1582年)2月25日に長尾輝景から宛行状を与えられている(「木暮文書」)。
伊香保温泉を象徴する石段街が形成されたのは戦国時代で、西上野を当時支配していた武田勝頼が大敗した長篠の戦いで、負傷した兵士の保養地だった。一説には石段街は源泉の湯を効率よく供給できるよう武田勝頼が、西上野支配を任せていた真田昌幸に命じて整備させたという。
近世
天正18年(1590年)の徳川家康の関東への国替え以降は井伊氏の支配を受け(江戸時代に入ってからは安中藩領)、正保ないし承応年間から天領となり岩鼻代官所の支配を受けた。
寛永年間までに、前述の7家に、木暮、岸、島田の分家6家、福田(他家の分家かは不明)を加えた14軒の大屋(おおや)が土地・温泉の一切を所有し、政治権力も独占する体制が成立する。寛永8年(1631年)口留番所が設置されると、大屋14軒が番所上役として2名ずつ勤めるようになり、元禄8年(1695年)より12軒が年番で名主を務めることとなった。延享3年(1746年)から12軒に十二支を冠し、子年には子の大屋が正名主、対極の午の大屋が副名主となり2名で年番名主を勤めるようになる。正副名主の次の年にあたる大屋が2名組頭となり、名主に就かない福田金左ヱ門、島田権右ヱ門を含めた他の大屋が年寄となった。この制度は戸長制度ができる明治5年(1872年)まで存続した。
大屋は温泉利用権も独占し、各大屋の引湯量は小間口の寸法で表された。寛保元年(1741年)の『覚』では寛永16年(1639年)に成立した小間寸法を再確認していることから、小間口制度の起源は寛永年間まで遡ることができる。
大屋の下の被支配層にも門屋(かどや。譜代門屋、大並門屋)、店借という階級があった。門屋は大屋から間口3間~2間半、奥行3間半~5間半程度の土地と洗場1坪を預けられ湯治入宿を家業とした家で、大屋の畑の耕作にも従事した。大屋の家来筋にあたる家系とされるのが譜代門屋であり、大並門屋は断絶した譜代門屋を店借などが継承したものである。店借は村内で大屋・門屋を除いた家で、酒店・豆腐店・髪結などがおり、大屋から借地借家を行い店賃を納めていた[14]。
近世を通じて唯一の小間口の新設は、医王寺による薬師の湯(寺の湯)のものである。引湯堰が医王寺境内を通過していたために当初は黙認の形で引湯されたとみられるが、医王寺が宿泊客を泊めるようになったことから大屋・門屋と対立し、寛政元年(1789年)に引湯権が認められた[15]。
江戸時代は婦人に効能があるとして、『伊香保記』を著した中川内膳室、『伊香保の道ゆきぶり』の倭文子とその母、『更衣日記』の大槻多保子(大槻玄沢の妻)などの女性が訪れている[16]。安永2年(1773年)に伊香保温泉訪れたことを高山彦九郎は『赤城行』に記録している。前橋藩主酒井忠清・忠挙も入湯しており、前橋藩士の入湯も多かったことが『前橋松平藩日記』に見える。
近代・現代
明治時代以降は外国人も訪れるようになり、明治13年(1880年)にドイツ人ベルツの『日本鉱泉論』にも取り上げられた。大槻文彦が明治12年に『伊香保志』を書き上げているように文人の訪問も多く、竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情などが訪れた。また、伊香保御用邸やハワイ王国公使別邸なども作られた。
江戸時代までは伊香保への往来は駕籠や乗馬を除いては徒歩しかなかったが、明治以降新たな交通手段が生まれる。1879年(明治12年)にノルデンシェルドは高崎から伊香保まで人力車を利用しており、1884年(明治17年)の案内記には高崎から伊香保までの馬車の運賃が記載されている[17]。更に1910年(明治43年)には、渋川から路面電車も開通した[18]。同線は後に東武伊香保軌道線となり、バスの台頭で1956年(昭和31年)に全廃されている。
1897年(明治30年)、三好学は伊香保温泉に棲息する鉄細菌 を発見し理科大学紀要に発表した。これは日本における温泉細菌の最初の報告であった[19]。1909年(明治42年)の夏に東京帝国大学の真鍋嘉一郎・石谷伝市郎によって日本の温泉として初めてラヂウムエマナチオン(ラドン)が発見された。ただし含有量は少ないため放射能泉には分類されない[20]。
1920年(大正9年)8月30日深夜に発生した火災は、町の70%を焼き尽くす大火となった[21]。
1947年(昭和22年)から1959年(昭和34年)にかけて湯元周辺で計6本のボーリングを実施し、新たな源泉を得た。湧出量は一時的に増加したものの、旧来の源泉の湧出量減少・温度低下により結局総量増加にほとんど寄与しなかった[22]。湯元の露天風呂は第一・第二ボーリングが完了した1950年(昭和25年)に設けられたものである[23]。
第二次世界大戦後は歓楽街としても栄えた。芸妓組合が現在も存在している。近年、温泉街の店舗が東南アジアから人身売買によってつれてこられた少女を監禁し、売春行為を行っていた事実が発覚し、マスコミに取り上げられている。また、2012年(平成24年)1月にも、人身売買によって同地に連れてこられたタイ人女性に売春を強制した同地の飲食店が検挙されている[24]。
1955年(昭和30年)6月に、観光協会の陳情によって日本最初のケーブルテレビ(NHKによる難視聴解消用のテレビ共同受信実験設備)が設置された[25]とされ、温泉地にある「文学の小径公園」にはその記念碑が設置されている。
2004年の温泉偽装問題
2004年(平成16年)、日本各地で温泉偽装問題が巻き起こり、伊香保温泉では水道水を使用しているにもかかわらず温泉表示を行っていた温泉があったと報道されて注目を浴びた。
もともと伊香保温泉の開湯以来の源泉であった黄金の湯を利用できるのは、小間口の利用権利者と権利者から湯を購入した旅館のみの利用に限られていた。しかし戦後に旅館数が増加し給湯量が不足してきたため、1996年(平成8年)に白銀の湯が開発された。ところがこちらは黄金の湯に比べて湧出温度が低く、温泉特有の成分が非常に少ない(メタ珪酸含有量で温泉と認定:つまり、温泉法第2条による温泉)。「色が付いていないため温泉かどうか分からない」といった声もあり、すべての旅館で使われなかった。加えて、小間口の権利者が周辺の湯への供給量を抑えたため湯を引けなくなった宿が多くなった時期と、伊香保温泉における温泉偽装問題が発覚した時期が符合することから、権利者の行動に疑問を投げかけた見方もあった[誰によって?]。
史跡・文化財等
伊香保御用邸跡
伊香保御用邸跡
明治時代になると英照皇太后、小松宮彰仁親王、柳原愛子、常宮昌子内親王、北白川宮恒久王といった皇室関係者の来訪があったが、明治23年に元老院議官金井之恭の別荘及びその付近を買い上げ「伊香保御料地」と称することとなった[26]。
ハワイ王国公使別邸
旧ハワイ王国公使別邸
駐日ハワイ王国弁理公使ロバート・W・アーウィンが夏季に別荘として利用していた建物。明治30年ごろの伊香保の案内記に「ハワイ国公使の別荘」とある[27]。木造2階建、入母屋造、スレート葺[28]。渋川市指定史跡(1985年(昭和60年)10月1日指定)[29]。2013年(平成25年)に移築改修を受け、一般に公開されている[30]。
横手館本館東棟・西棟
横手館
1920年(大正9年)の伊香保温泉街の火災で焼失後、同年に本館東棟を建築、翌年西棟を建築。昭和初年に西棟の3・4階を増築した。東棟は3階建、西棟は4階建でいずれも木造、入母屋造、金属板葺[28]。国登録有形文化財(2016年(平成28年)8月1日登録)[31]。
伊香保観光ホテル
1929年(昭和4年)に外国人向けホテルとして建設。国登録有形文化財(1998年(平成10年)9月2日登録)[32]。
アクセス
石段口に到着した上州ゆめぐり号
温泉街各地にバス停があり、各方面のバスが経由する。ただし、会社/路線毎に利用できる停留所が異なる。
主なバス停は、「見晴下/伊香保温泉(見晴下)」[注釈 1]、「伊香保バスターミナル/伊香保温泉バスターミナル」[注釈 2]、「伊香保温泉」[注釈 3]、「伊香保石段街」[注釈 4]、「伊香保案内所/伊香保榛名口」[注釈 5]がある。
下記以外にも、「伊香保タウンバス」で温泉街の周遊も可能[33]。
鉄道・路線バス
上越線渋川駅前より関越交通バス[34]で約30分。
高崎駅前より群馬バス
一般路線バスで約1時間30分。
「伊香保ライナー」(2024年10月運行開始)で約70分[35][36]。
高速バス
JR高速バス(「伊香保温泉(見晴下)」「伊香保石段街」を発着)
上州ゆめぐり号:バスタ新宿(新宿駅新南口)より約2時間30分。
東京ゆめぐり号:上野駅入谷口・東京駅八重洲南口より約2時間30分。
ゆめぐり埼玉号:埼玉県の加須駅北口・行田市駅南口・熊谷駅南口より約2〜3時間(秩父鉄道観光バス運行)[37]。
ゆめぐり八王子号:東京都八王子市の八王子駅・京王八王子駅前より約2時間30分(群馬バスと西東京バスの共同運行)[38]。
関越交通 (「伊香保温泉」「伊香保温泉バスターミナル」「伊香保石段街」を発着)
伊香保四万温泉号羽田線:羽田エアポートガーデンバスターミナル(羽田空港第3ターミナル隣接施設)より約3時間30分。※ 季節限定運行[39]
自家用車
渋川伊香保インターチェンジより群馬県道33号渋川松井田線経由で約20分。
駐車場は徳冨蘆花記念文学館駐車場(大型車5台、普通車70台、有人管理)、物聞駐車場(62台、有人管理)、八千代橋駐車場(39台、機械式)、石段アルウィン公園北駐車場(27台、機械式)など[40]。
温泉饅頭
勝月堂の湯の花まんじゅう
日本各地で見られる茶色の温泉饅頭は伊香保温泉が発祥の地ともいわれている[11]。1910年(明治43年)に勝月堂の初代店主・半田勝三が売り出したもので「湯の花まんじゅう」として販売されている[41][10]。勝月堂の名は東京から帰郷した勝三が修業先の風月堂から名付けたもの。伊香保温泉の名物となるものを作るようにとの依頼を受け、黄金の湯の色にちなみ茶褐色の皮の饅頭を考案。それが天皇家への献上品となり有名になったとされる[42]。伊香保温泉ではこのほか数軒が湯の花まんじゅうを製造販売している[10][43]。売上げは温泉街入口に店を構え、製菓工程の機械化を進めた清芳亭が随一である[44]。
伊香保温泉を題材にした作品
文学作品
前述の『万葉集』をはじめとして、『古今和歌集』『拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『拾遺愚草』『夫木和歌抄』に「いかほ」の地名が見られるが、多くは「伊香保の沼」すなわち榛名湖を題材としたものである[45]。
文亀2年(1502年)2月に伊香保温泉を訪れた宗祇は、弟子の宗碩、宗玻と連歌の座を開き、『伊香保三吟百韻』を残している[45]。
徳冨蘆花は、1898年(明治31年)5月に伊香保温泉の千明旅館に滞在し、このときの印象をもとに小説『不如帰』を書き上げた。『不如帰』は海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘浪子が、伊香保の旅館から夕景色を眺める場面から始まる。蘆花は伊香保を非常に愛し、1927年(昭和2年)に病に倒れてから伊香保行きを希望し、7月6日から伊香保温泉に滞在し、9月18日に死去した[46]。
木下尚江は伊香保の金太夫旅館に滞在し、小説『懺悔』を執筆した。小説『乞食』は伊香保の麓の村々を舞台とする[47]。
1919年(大正8年)8月15日に発行された『伊香保みやげ』は、谷崎潤一郎、芥川龍之介、島崎藤村をはじめとする40名の著名な文学者や画家などの随筆集で、「伊香保文学紀行」と言えるものである。
音楽作品
伊香保の宿(歌:神島悠介、作詞:内田通子、作曲:野村豊収、編曲:前田俊明)
デューク・エイセス版 「いい湯だな」
伊香保温泉-湯巡り旅路-(中小企業)
箱根温泉公式サイト箱ぴこ https://www.hakone-ryokan.or.jp/
箱根は、年間約2000万人の観光客が訪れる日本屈指の観光地です。
その魅力は1日2万5000トンもの湧出量があり、17箇所に分けられる温泉場で、芦ノ湖や季節によって彩りが変わる山々、花々など、自然に囲まれた景色が魅力。
美術館、遊覧船、立ち寄り湯、庭園などの多様な観光施設とイベントが満載です。
『箱根温泉』Wikipedia
箱根温泉(はこねおんせん)は、神奈川県足柄下郡箱根町にある、温泉の総称である。付近は富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
旧相模国の時代から湧出してきた温泉群に加えて、新たに掘削などによって開発された温泉も含まれる。この結果、箱根火山の麓から中腹まで、温泉街が点在している。
歴史
開湯は738年(奈良時代の天平10年)とされ、釈浄定坊が発見した「惣湯」が湯元とされる。この源泉は現在も使用されている。
箱根温泉が知られるようになったのは、豊臣秀吉の小田原征伐がきっかけである。広大な小田原城を攻めるため、各地から武士を集め長期滞陣したが、その無聊を慰めるため温泉を利用したといわれている。
江戸時代には五街道の1つである東海道に沿った温泉として繁栄し、「箱根七湯」として知られた。この頃の箱根七湯は、湯本、塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯だった。開湯は古いものの、東海道から大きく外れていた姥子の湯は外された。ただし、これも加えて「箱根八湯」と呼ぶ場合もあった。徳川家光、徳川綱吉の時代には、将軍への献上湯も度々行われている。なお、江戸時代の温泉番付では、芦之湯温泉が前頭上位であった。
明治以後、箱根は保養地、観光地としての開発が進んだ。1873年には宮ノ下に皇后の行啓もあった。1919年には小田原電気鉄道(のちの箱根登山電車)が山上まで達し、さらに太平洋戦争終戦後まもなく小田急電鉄が箱根湯本駅まで乗り入れ、東京方面からのアクセスが便利になった。直通運転開始後は、西武鉄道グループと小田急グループの箱根山戦争の舞台して乗客の誘致合戦が行われた結果、多くの観光客が訪れた。また新たな源泉の掘削開発も行われ、歴史ある「箱根八湯」に加え、明治以降に開かれた大平台、小涌谷、二ノ平、強羅、宮城野、仙石原、湯ノ花沢、芦ノ湖、蛸川の9つの温泉を合わせて「箱根十七湯」と称した。さらに早雲山、大涌谷、湖尻の3か所を加えて「箱根二十湯」と称する場合もあった。
箱根町内には、かつて温泉が引かれ、入浴をカリキュラムに組み入れた町立温泉小学校があった。一般の温泉と同じように全裸で入浴し、低学年では男女混浴の場合もあったが、2008年3月を以って廃校となった。
2004年に、マスコミで温泉偽装問題が大きく取り上げられ、造成温泉を「天然」と表示したり、水道水に鉱石を通すだけで温泉と表示した旅館があると報じられ、問題になった。さらに箱根町の職員が従来は問題にされなかったことだと開き直った結果、騒動は大きくなった。なお、その「温泉を作る施設」は、2005年には台風11号により、湯の花沢地区の造成温泉施設に被害が発生した。配湯できない旅館向けに、別源泉からの引湯および温泉スタンドが設置され、源泉販売が行われた。
2015年4月26日から箱根山で火山性地震が増加し、5月6日に箱根山が気象庁により噴火警戒レベル2に引き上げられた。これを受けて、箱根温泉付近の観光業に深刻な影響が出始めた。特に、 立ち入り規制の対象となった大涌谷周辺の温泉と、そこから温泉の供給を受ける温泉への影響が大きく、仙石原温泉の業者の1人は、6月の始めから宿泊予約が激減したことを「死活問題」と語った[4]。また、箱根湯本駅前から観光客が消え、タクシー運転手の1人が「商売にならない」と語った。大湧谷周辺の規制地域から離れた地域にも影響が及び、「元祖箱根温泉まんじゅう」を販売する丸嶋本店は、売り上げが以前の4割にまで減ったという。強羅温泉でも、業者の1人が、火山活動を理由に宿泊予約をキャンセルされた件数が1か月で「2割程度」と語り、「灰が降っていますか」という問い合わせもあったという。
こうした状況を打開するため、箱根温泉旅館協同組合が、2015年6月に、5000円で購入し箱根町内で1万円分の宿泊券として利用できる「箱ぴたプレミアムクーポン」を発売した結果、1200枚を5日で完売した。このクーポンは、国の地方創生交付金を活用したもので、当初は神奈川県が企画して実現したものだった。火山活動の観光への影響が懸念される中で実績を残したことについて、組合では「火山活動により箱根が話題となったことで、むしろ関心を引くことになったのではないか」とコメントした。ただし、このクーポンについては地元の旅館に詳しい説明がない状態で販売が開始され、旅館側から組合に問い合わせて「初めて内容がわかった」という事態も発生し、県と地元の業者との連携不足も露呈した。
箱根七湯
箱根湯本温泉
箱根湯本ゆもと温泉は、箱根の玄関口に当たる北緯35度13分50秒 東経139度6分0秒に湧出する。小田急箱根箱根湯本駅が最寄り駅である。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉で、30〜80 ℃と源泉温度に幅が見られる。箱根で一番大きい温泉街で共同浴場も多い。
塔之沢温泉
塔之沢とうのさわ温泉は、箱根湯本温泉の奥、北緯35度13分58秒 東経139度5分36秒に湧出する。小田急箱根塔ノ沢駅が最寄り駅である。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉である。
皇女和宮や天璋院ゆかりの温泉でもある。伝承では、塔ノ峰山中の岩屋で修行していた弾誓(浄土宗の僧[8])が1604年(慶長9年)に温泉を発見し、病人の療養に使ったとも、長興山紹太寺の雲谷和尚が、早川の流れの中に湧いている温泉を発見したともいわれる[9]。
宮ノ下温泉
宮ノ下みやのした温泉は、北緯35度14分39秒 東経139度3分32秒に湧出する。小田急箱根宮ノ下駅が最寄り駅である。数々の著名人が宿泊した富士屋ホテルがあることで知られる。泉質は、ナトリウム・塩化物泉である。
なお、共同浴場の「太閤湯」があるものの、場所は宮ノ下ながら、その泉源は底倉からの引湯である。
底倉温泉
底倉そこくら温泉は、北緯35度14分38.5秒 東経139度3分24.5秒と宮ノ下温泉に近い。豊臣秀吉が掘らせたといわれる太閤石風呂がある。泉質は、ナトリウム・塩化物泉である。
堂ヶ島温泉
堂ヶ島どうがしま温泉は、宮ノ下付近の国道1号から早川渓谷へと下った谷底に湧出している。伝説によれば、夢窓疎石が開いたとされる温泉場である。現在ある2軒の宿では、それぞれ私設のモノレール式ケーブルカー、ロープウェイを利用する。
木賀温泉
明治時代の木賀温泉
木賀きが温泉は、宮ノ下温泉に近く、箱根七湯の中で2番目に長い歴史を持つ。
開湯は平安時代末期〜鎌倉時代初期とされる。治承・寿永の乱の折、源頼朝の家人であった木賀善司吉成が合戦の折負傷し、箱根の山中に分け入ると、白狐が現れ、吉成を温泉に導いたとの伝説が残る。その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後その地の地頭の任に就いた吉成により地名が木賀とされ、木賀温泉の名称がついたという。吉成を導いた白狐は吉成の妻となり、死後、白狐稲荷として奉られたとされる。
歴史上の史料においては、戦国時代に「宮城野湯」の名前で登場し、当時この辺りを支配していた小田原北条氏の直轄する温泉場であったことが判明した。さらに、江戸時代には温泉奉行が置かれ、徳川家への献上湯として利用された。
その後、子宝の湯として広く知られるようになったものの、1892年春に火災に見舞われ、火災後に浴舎を再築する者がなく、亀屋を筆頭に栄えた木賀温泉も大火を契機に衰微の途をたどった。
一時は幻の温泉地と化した木賀温泉だが、2022年現在では木賀温泉の源泉を使用した宿や保養所がいくつか存在する。
源泉総数は10、泉質は単純泉、アルカリ性単純泉、塩化物泉、塩化物・炭酸水素泉(含土類弱食塩泉)である。
芦之湯温泉
芦之湯あしのゆ温泉は、北緯35度13分17秒 東経139度2分31秒と、国道1号最高所付近にあり、箱根七湯の中では最も標高が高い[注釈 2]。
開湯は鎌倉時代とされる。単純硫黄泉ながら、コロイド硫黄のアルカリ性のお湯で、硫黄系の濁り湯としては珍しい泉質である。古くは江戸時代から文人墨客が、この地を訪れてきた。
2015年5月1日に、国民保養温泉地に指定された。
箱根八湯
箱根七湯に次の温泉を加えて、箱根八湯と称する。
姥子温泉
姥子うばこ温泉は、江戸時代の東海道の街道筋から外れた、神山の北西に湧出しており、箱根七湯から外された。
開湯は約800年前とされる。伝説によれば、金太郎こと坂田金時が、母親である山姥(乳母とも)に連れられて、この地で眼の傷を癒したと伝えられ、温泉名はこの伝承に由来する。そして、このために、眼病への効能で知られる。
なお、泉質は単純温泉、カルシウム-硫酸塩泉、ナトリウム-硫酸塩泉と、硫酸塩泉が目立つ。
箱根十七湯
箱根八湯に次の9つの温泉を加えて、箱根十七湯と称する。
小涌谷温泉
小涌谷こわくだに温泉は、北緯35度14分13秒 東経139度2分48秒にあり、小田急箱根小涌谷駅が最寄駅である。古来「小地獄」と呼ばれていたが、明治天皇の行幸に際して改名した。1877年頃より温泉地としての開発が始まった。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉である。
強羅温泉
強羅ごうら温泉は、小田急箱根強羅駅が最寄り駅である。
1894年に早雲山からの引湯により開発が始まった。明治末期から開発が本格化した。強羅公園が造営され、登山鉄道が開通した大正年間には、日本の政財界人や文人らが、この地に別荘を建てた。1952年以降に、多くの源泉が掘削され、源泉ごとに泉質は多様である。別荘から転じた保養所や、旅館が建ち並び、周辺には美術館も多い。2015年4月に、旅館「強羅天翠」が重油を流出させ、近隣の早川などが汚染された。
大平台温泉
大平台おおひらだい温泉は、北緯35度14分15秒 東経139度4分23秒にあり、小田急箱根大平台駅が最寄り駅である。
開湯は1951年で、泉質は食塩泉である。共同浴場「姫の湯」がある。また、名水として知られる「姫の水」が湧いている。付近は箱根におけるサクラとアジサイの名所として知られるが、地形的関係上国道1号線からそれを確認することは難しい。
宮城野温泉
宮城野みやぎの温泉は、宮ノ下から木賀を経てさらに登り、早川を渡った対岸にある。
開湯は1960年で、箱根町営「宮城野温泉会館」ほか、幾つかの日帰り温泉施設が存在する。
二ノ平温泉
二ノ平にのたいら温泉は、北緯35度14分33.5秒 東経139度2分58.3秒付近に位置し、小田急箱根彫刻の森駅が最寄り駅である。
開湯は1963年で、共同浴場「亀の湯」がある。
仙石原温泉
仙石原せんごくはら温泉は、北緯35度15分49秒 東経139度0分54秒にある。
標高700 m前後の草原にホテルやペンションや保養所が点在する。ただし、大涌谷や姥子からの引湯を利用する施設も多い。
湯ノ花沢温泉
湯ノ花沢ゆのはなさわ温泉は、駒ヶ岳の中腹にある。標高950 mと、箱根十七湯の中で最も高所にある。その名の通り、自然湧泉から生じる「湯の花」が一面に広がる沢がある。1890年頃から自然湧泉を利用した露天風呂が作られるようになった。しかし現在は、火山性蒸気を温泉に変えて周辺地域に引湯するのみで、自然湧泉は利用されていない。
芦ノ湖温泉
芦ノ湖あしのこ温泉は、芦ノ湖畔の元箱根の北緯35度12分9秒 東経139度1分52秒にある。関所や遊覧船乗り場に近い。
開湯は1966年で、湯ノ花沢温泉からの引湯で誕生した温泉である。しかし、現在は自家源泉を持つ施設も見られ、泉質は、単純温泉、単純硫黄温泉などである。
蛸川温泉
蛸川たこがわ温泉は、箱根十七湯の中では最も新しく、1987年の開湯である。
当初は芦ノ湖温泉と合わせて元箱根温泉と呼ばれたが、1993年に分離独立して17番目の湯とされた。単純温泉、カルシウム-硫酸塩泉。芦ノ湖に面して「ザ・プリンス 箱根」や「龍宮殿」を擁する「箱根園」がある。
箱根二十湯
箱根十七湯に次の3つの温泉を加えて、箱根二十湯と称する。
大涌谷温泉
大涌谷おおわくだに温泉は、北緯35度14分33秒 東経139度1分10秒にあり、小田急箱根大涌谷駅が最寄りである。
泉質は酸性の硫酸塩・塩化物泉だが、この温泉は造成温泉であり、大涌谷で自噴する温泉と、火山性蒸気に仙石原の地下水である山清水を吹き当て造成した温泉を混合している。
1930年に温泉の製造と配湯を目的とした箱根温泉供給会社が設立され、泉源がなく温泉を提供できなかった仙石原や強羅の旅館やホテルなどに広く配湯されるようになった。箱根温泉供給会社によると2015年5月の火山活動活発化前の供給湯量は、1日約4000 tから4500 tであったものの、その後はメンテナンスの滞りによって湯量が1日3600 tに減少したという。
湖尻温泉
湖尻こじり温泉は、小田急箱根桃源台駅周辺の芦ノ湖の北の湖畔にある。
1960年代以降に新たに開発された。
早雲山温泉
早雲山そううんざん温泉は、大雄山最乗寺箱根別院内にある。小田急箱根早雲山駅が最寄り。
泉質はカルシウム・マグネシウム・ナトリウム-硫酸塩泉。
2019年天下一大露天風呂(汪泉閣) 出題文
群馬県北部、利根(とね)郡みなかみ町にあり、人造の藤原湖(ふじわらこ)の湖頭に近い利根川支流の宝川に沿う温泉。日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鷹(はくたか)に導かれて病をいやしたという伝説があり、白鷹の湯ともいわれる。泉量豊富な単純温泉。幽邃(ゆうすい)な所で、ことに秋の紅葉がよい。JR上越新幹線上毛高原駅、上越線水上駅からバスが通じる。[村木定雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
寶川温泉は、映画『テルマエ・ロマエⅡ』のロケ地にも使われ、世界的に有名な旅行ガイド「ロンリープラネット」が選ぶ「日本の温泉トップ10」で1位に選ばれ、ロイター配信「世界の10大温泉」でも6位に選ばれた群馬県秘境の温泉です。宝川温泉汪泉閣(日帰りは宝川山荘となります。)は、外国人観光客を中心に絶大な人気を集めている温泉で、江泉閣は100周年を迎えた老舗旅館。
宝川温泉には渓流沿いに広がる四つの露天風呂があり、そのうち三つが混浴、一つが女性専用となっています。総面積は470畳あり、とにかく広くて解放感があり、これぞ露天風呂!。
混浴露天風呂入浴時には、『湯あみ着』を着て入れるので女性も安心。
4travel.jp https://4travel.jp/travelogue/11844681 より
[汪泉閣]
宝川温泉の露天風呂は4本の豊富な源泉により、延べ面積470畳にも及ぶ4つの湯船に余すことなく常時掛け流しされております。巨石をふんだんに使ったその造りは、自然の風景と溶け合う自慢の大露天風呂です。手付かずの大自然に包まれ、宝川の清流を感じての入浴は、心の底からの安らぎをお約束します。
『天下一の大露天風呂を楽しむ』宝川温泉 汪泉閣
北陸の温泉
参考:『芦原温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E5%8E%9F%E6%B8%A9%E6%B3%89
芦原温泉(あわらおんせん)は、福井県あわら市(旧越前国)にある温泉。坂井郡芦原町と同金津町が合併してあわら市が発足してからは「あわら温泉」と表記されることもある。福井県屈指の温泉街として「関西の奥座敷」と呼ばれ、昔から多くの人に愛されてきた。温泉療法医がすすめる名湯百選にも選ばれている。
歴史
発展
1883年(明治16年)、農地で利用する灌漑用の井戸から温泉が湧き出たのが芦原温泉の始まりとされる。開湯の時期は1884年(明治17年)3月とする文献も残されている。後発の温泉地であったが、大正から昭和初期の旅行・観光ブームにのり発展した。
1927年(昭和2年)の日本百景選出にあたって11か所の温泉が選ばれたが、芦原温泉もその一つに選ばれている。官営三国線や三国芦原電鉄(現在のえちぜん鉄道三国芦原線)の芦原駅(現在のあわら湯のまち駅)開業の影響も大きく、1932年(昭和7年)頃には加越温泉郷の中ではトップの地位についている。
戦後
太平洋戦争下で一時閉塞したが、戦後まもなく復活した。1947年(昭和22年)10月25日、昭和天皇の戦後巡幸があり、開花亭が宿泊所となる。天皇を出迎える提灯行列が行われた。
1956年(昭和31年)4月23日、大火に見舞われて300棟以上が焼失した。温泉街そのものがなくなったが、新たな都市計画のもと碁盤目上に区画された温泉街が整備され、復興への道を歩むこととなった。
永平寺の精進落としの湯、関西地方の奥座敷として発展を遂げ、現在に到る。
現在
2004年(平成16年)に日本全国で温泉偽装問題が発生したが、同年8月には公正取引委員会が芦原温泉で旅館業を営む4事業者に対して景品表示法の優良誤認(同法第4条)に触れる恐れがあることを口頭注意した。この件をきっかけに、あわら市は独自の温泉表示に関する基準を設け、2004年(平成16年)12月から基準を満たした施設に「芦原温泉表示マーク」を交付している。2009年(平成21年)12月1日には取扱要綱が改定された。
2018年(平成30年)、温泉をモチーフにした2次元キャラクター「芦原小梅」の活用を開始。2018年の芦原温泉の入込客数は88万5千人であり、福井県外は61万1千人となっている(推計)。
泉質
含塩化土類食塩泉
効能は、リウマチ、慢性皮膚炎ほか多種多様。
各施設がそれぞれ源泉を持っており、源泉数は74本あるとされる。源泉によって泉温が33.5〜77.5℃と異なるほか、泉質も異なる。
温泉街
周囲を坂井平野に広がる水田に囲まれている。歓楽温泉としても発展していたが、温泉街にその要素は少なく、落ち着いた雰囲気のある温泉街を作っている。あわら湯のまち駅で貸し出しされるレンタサイクルで街中を散策することができる。
2006年(平成18年)からはあわら市観光協会が1500円で湯めぐり手形を発行しており、温泉街の19の宿の湯をどこでも楽しめるようになった。手形には500円のシールが3枚付いており、1枚で1か所入湯可能である。2018年(平成30年)12月20日には湯めぐり手形の販売を終了した。
2007年(平成19年)12月、あわら湯のまち駅の駅前に「あわら温泉屋台村 湯けむり横丁」がオープンした。
温泉街の施設
セントピアあわら - 市設置の公衆浴場。
あわら温泉湯のまち広場 - 市による整備。
芦湯 - 足湯施設。
湯けむり横丁
藤野厳九郎記念館
伝統芸能館
あわらミュージック劇場 - ストリップ劇場。
周辺施設
国指定の天然記念物・名勝である東尋坊へも近く、芦原温泉駅からはバスで約40分、タクシーで約15分の距離にある。その他、道元禅師が建立した曹洞宗本山の永平寺、世界最大のウォータースライダーを擁する芝政ワールド、海水浴場、スキー場、ゴルフ場等へのアクセスも便利であり、石川県の加賀温泉郷と並ぶ北陸観光の拠点となっている。
アクセス
鉄道
えちぜん鉄道三国芦原線 あわら湯のまち駅前。駅舎に観光案内所併設(あわら市観光協会運営)。
北陸新幹線・ハピラインふくい線 芦原温泉駅 西口からタクシーで10分、あるいは京福バス 85・97系統(東尋坊線)「龍翔博物館」行きにて「あわら湯のまち駅」ほか近隣の停留所下車。こちらは芦原温泉駅西口賑わい施設「アフレア」内の観光案内所(あわら市観光協会運営)も利用できる。
飛行機
小松空港からタクシーで45分。
自動車
E8 北陸自動車道 丸岡ICから20分。金津ICから15分。
参考:『宇奈月温泉の温泉・露天風呂』じゃらん https://www.jalan.net/onsen/OSN_50235/
黒薙温泉からお湯を引く湯量豊富な温泉郷です。四季折々の表情を見せてくれる黒部峡谷を眺めながら入る露天風呂は最高。駅前の温泉噴水では観光客が思わず手を入れてみたり写真をとる姿も。黒部峡谷トロッコ電車で新緑や紅葉見事な山間の景色を楽しんでみて。
参考:『UNA-JYO』宇奈月女子化プロジェクト(津田なゆこ) https://www.una-jyo.com/index.html
参考:『富山の遊び場』youtube
https://www.youtube.com/@ToyamaTV/search?query=%E5%AE%87%E5%A5%88%E6%9C%88
【宇奈月温泉】温泉街〜宇奈月ダムまで雨の日の街歩き デートや旅行の参考にしてね など
参考:『宇奈月温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A5%88%E6%9C%88%E6%B8%A9%E6%B3%89
宇奈月温泉(うなづきおんせん)は、富山県黒部市にある温泉。黒部川の電源開発を背景として1923年(大正12年)11月22日に開湯された温泉地で、黒部川の河岸段丘面(標高約200メートル)に位置する。黒部川の渓谷沿いなどに旅館や保養所が立ち並び、峡谷美を愛でる黒部峡谷鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。
全国的にも珍しい7kmにも及ぶ引湯管を使った引湯である。
概要
歴史的には黒部峡谷探検や黒部川の電源開発とともに発展してきた温泉地である[5]。黒部峡谷の入口には、ホテルや旅館、商店や土産物店が多数立ち並んでいる。富山県内の温泉地では最大規模。富山地方鉄道の宇奈月温泉駅前に温泉水を利用した噴水がある。
宇奈月温泉駅から東南に進むと黒部峡谷鉄道宇奈月駅があり、黒部峡谷を訪ねる多くの観光客が利用する。また、反対方向に向かって線路を渡り、商店街を抜けた所にある宇奈月公園には、かつてこの地を訪れたことがある昭和天皇の御製碑や、与謝野鉄幹、与謝野晶子、宮柊二(みやしゅうじ)らの歌碑がある。
温泉街にはそのほか『おもかげ』『いっぷく』と名付けられた足湯のほか、黒部市芸術創造センターセレネ、黒部川電気記念館、宇奈月神社などがある。また、右岸道路から峡谷を進むと宇奈月ダム及び資料館「大夢来館(だむこんかん)」が見学でき、さらに橋を渡って宇奈月湖を眺め、尾の沼体験交流施設 とちの湯を利用する事ができる。
「宇奈月」の名称は近代になって付けられたもので、桃原の大地の近くにあった谷の名称から名付けられた。当地を訪れた人が、水の音や風の響きに心も「うなづき」、身も心も清らかになったという伝承が地名の由来で、「宇奈月」の字は、「宇治や奈良と並ぶ名月の地」にしようという思いから付けられたという。また、これまでの資料では、開湯の日付が11月末ということだけしかわかっていなかったが、2024年(令和6年)11月に、当時の黒部鉄道桃原駅(現在の富山地方鉄道宇奈月温泉駅)の駅長自宅からメモが見つかり、1923年(大正12年)11月22日だと判明した。
泉質
単純温泉
源泉の色:無色透明
pHは8.19
溶存物質:394mg/kg
※いずれも2023年12月時点
源泉はすべて黒部川上流にある黒薙温泉からの引湯である(3,4,6,9号井および自噴泉を使用。1970年代時点では黒薙のさらに上流の二見からも引湯していた)。源泉段階で摂氏92〜98度と非常に高温であり、湯量が豊富である。浴用として多少水を混ぜて引湯しているため、宇奈月温泉街に到達した時点で摂氏63度となる。
2024年の能登半島地震の発生直後はメタケイ酸とマンガンが増加した。後にマンガンは減少したものの、保湿効果のあるメタケイ酸は地震発生から2025年7月時点でも含有量が10年前の3 - 4倍と高い状態が続いている。
温泉街
ホテル・旅館
宇奈月グランドホテル(1924年創業)
グランヴィリオホテル宇奈月温泉(旧・宇奈月国際ホテル、2022年開業)
黒部・宇奈月温泉 やまのは(旧・宇奈月ニューオータニホテル、宇奈月杉乃井ホテル、1970年創業)
ホテル黒部(1965年創業)
黒部・宇奈月温泉 桃源(1924年創業)
延対寺荘(1925年に高岡の延対寺荘の別館として創業)
延楽(1937年創業)
サン柳亭(1985年にホテル小柳の姉妹館として創業)
フィール宇奈月(2004年創業)
烏帽子山荘(1950年に「さとのや」として創業し、1952年に佐藤喜一が経営を引き継いだ。1987年に現在の別荘が完成
民宿
温泉民宿宇えだ
温泉民宿黒流荘(1962年6月創業[16])
温泉民宿三日月(1958年8月創業[16])
プチホテルチャーリーズクラブ
総湯
湯めどころ宇奈月
その他の公共施設
足湯『おもかげ』
足湯『くろなぎ』
宇奈月公園
桃原診療所
黒部市芸術創造センターセレネ
黒部川電気記念館
宇奈月神社
尾の沼体験交流施設 とちの湯
宇奈月ダム資料館「大夢来館(だむこんかん)」
など
歴史
前史
この地はかつて「桃原」呼ばれており、桃の木が自生している[29]以外は音沢村の出作り小屋しか存在しない荒れ地であった[4]。1885年(明治18年)頃に書かれた『越中遊覧志』では、「花時にいたりては一望紅錦を張るが如く…」と記載されている。
かつては布施山開の桃原開であったが、1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、桃原は内山村に所属することになった。
なお、自生していた桃の木は明治末期に姿を消したとみられる。
愛本温泉
1915年(大正4年) - 富山市の高沢藤吉によって黒薙からの引湯樋設置工事が始められた。
1916年(大正5年)10月13日 - 愛本温泉株式会社設立[31]。
1917年(大正6年) - 内山村中心部(現・黒部市宇奈月町内山)から現在の温泉街の方向にある黒部川左岸の内山地内「荷上」の地に小学校校舎に似た2階建ての500人収容の旅館(客室棟3棟〔1棟は旅館部、2棟は自炊部〕)と大浴場を備えた「愛本温泉」が営業を開始した。名勝愛本橋と同一名称であるが、住所上は内山村である。
1920年(大正9年) - 愛本ホテル株式会社が設立し、愛本温泉と並んで高級旅館が建てられる。この頃から温泉の温度が低下し始め、7、8月以外は入浴出来る状態ではなくなり、大釜を築いて加温しなければならなくなり、やがて据風呂となり、客足が次第に減少し始めた。
1921年(大正10年) - 台風災害により1棟が倒壊、死者1名および数名の重軽傷者も出て閉湯することになった。
1922年(大正11年) - 愛本温泉、愛本ホテルの建物と温泉の権利は東洋アルミナムの設立した黒部温泉会社に売却された。これが現在の宇奈月温泉の礎である。
東洋アルミナム株式会社
1917年(大正6年)7月 - 高峰譲吉や三共製薬・塩原又策等が日本最初のアルミ精錬所を計画し、黒部川で電源開発を進めるため、東大土木工学科出身の逓信省電気局技師・山田胖(やまだ ゆたか)[注釈 6]を引き抜き、創立計画に当たらせた。彼は降雪期である12月に、桃原(現在の宇奈月)から黒薙まで調査に赴いた。
1919年(大正8年)12月 - 三共製薬本社内に東洋アルミナム株式会社[34]を正式に設立する。代表取締役は高峰譲吉と塩原又策である。資本金1000万円。
1921年(大正10年) - 東洋アルミナムは資材運搬と湯治客も利用できる一般営業を目的とする黒部鉄道株式会社を設立し建設工事に着手した。これは、桃原(うなづき平、うなづき台とも)を温泉地として開発し、温泉客の鉄道利用で鉄道の建設・維持費用を得て、電源開発工事作業員の福利厚生施設ともするという一石三鳥を狙った計画であった。
黒部温泉会社
1922年(大正11年) - 東洋アルミナムにより、黒部温泉会社が設立された。そして、旧愛本温泉の権利と建物を買い取った。また、黒薙等の温泉の財産と権利を買収し、桃原の土地買収を始めた。
山田胖の著「宇奈月温泉由来」によれば、開発調査中の山田が、沸かし湯となっていた愛本温泉に入浴中に、他の客が源泉で水を加えれば(流速が増し)温度が下がらないはずだというのに対して、樋(とい)ではなくパイプを使い圧力をかけて流速を増し、到達時間を短縮すれば引湯の温度が下がらないと自ら述べたという。
1922年(大正11年)7月22日 - 高峰譲吉が死去。この後、東洋アルミナムによる黒部川での事業展開は縮小し、黒部温泉会社による桃原の土地買収は計画の半分の2万5000坪で終結された。黒部温泉会社(東洋アルミナム)は、県内の旅館や料亭などに自社が購入した土地を斡旋し温泉街を作ろうとしはじめた。
同じ年、東洋アルミナムは第一次世界大戦終結に伴う景気悪化に伴うアメリカ合衆国のアルミ会社の事業撤退や高峰の死去を受けてアルミ製造をあきらめ、目的を電力開発のみとし、黒部水力株式会社と改称される。三共の塩原又策は、東洋アルミナムの全株式を日本電力に譲渡、東洋アルミナムの社長には日本電力の山岡順太郎が就任した。宇奈月の地名は、当時の日本電力(現関西電力の前身)社長・山岡順太郎が名付け親とされる。
1923年(大正12年)11月20日 - 黒部鉄道(現・富山地方鉄道)により資材運搬を主な目的として旅客も乗せる、当時の三日市町の三日市駅(1969年廃止。現JR黒部駅に隣接していた。)と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通した。これにより、温泉に進出しようとする者が出始めた。
1923年(大正12年)11月22日 - 山田胖は黒薙温泉からの引湯管を設置した。この引湯管は旧愛本温泉の引湯樋に替わる物で愛本温泉の引湯ルートに沿って設置されたものであった。松材をくりぬいたパイプを使い温泉が自噴する圧力を保って流れが速く、黒薙の泉源から2時間ほどで湯が届いた。このため、冬でも55℃の温度が確保されることとなった。
1924年(大正13年) - 黒部温泉会社は旧愛本温泉の建物を移築し、宇奈月館(現宇奈月グランドホテルの前身)として経営した。それとともに、旅館を経営しようとする者に自社が購入した土地と温泉を斡旋する際に3万円を融資した。この後、延対寺別館、宇奈月富山館、桃原館などが開かれた。その後、1927年(昭和2年)には河内屋なども進出し、十数件の旅館、みやげ物店などもできて温泉街の体裁が整っていく。
1925年(大正14年)
4月10日 - 荻生銀行宇奈月出張所(後の北陸銀行宇奈月支店)が営業開始[36]。
9月 - 宇奈月消防団が結成される。
日本電力が黒部水力株式会社を併合した。
1926年(大正15年 / 昭和元年)12月25日 - 警察派出所、宇奈月郵便局開設。宇奈月神社遷座式。
1927年(昭和2年)
この年の時点での旅館数は12軒(和田旅館、桃原館、延対寺荘、富山館、喜泉閣、アルプス館、黒部荘、望月、日の出館、水月旅館、堀旅館、小柳旅館)。
9月5日 - 内山小学校宇奈月分校設置。
10月20日 - 宇奈月神社竣工。
1928年(昭和3年)12月5日 - 柳河原発電所[注釈 11]の完成をもって、山田胖は黒部を去り後に[要出典]奥多摩工業株式会社の社長に転じた。山田が調査を開始してから11年目であった。
1935年(昭和10年)10月5日 - 引き湯の経由地に、樋菅を通すための利用権が設定されていない土地があり、その所有者が土地の高額買取を黒部温泉に要求したが拒否されたため、不法占拠として樋菅撤去を要求して裁判に訴えたが、大審院判決により「権利の濫用」として上告棄却された(宇奈月温泉事件)。この判決は権利濫用の重要判例として広く知られるに至った。
太平洋戦争戦時中 - 温泉街の近くの鉱山で採れたモリブデン(兵器の強度を高める地下資源)の集積地となった。また、傷痍軍人の療養所(全国10箇所のうちの1つ)が3,300坪の敷地に15棟が建設された(手術室やレントゲン室、大浴場、食堂などを完備)。
1945年(昭和20年)8月1日 - 太平洋戦争の戦況悪化の影響で全旅館が休業(この時点での旅館は「小柳館」「桃原館」「坂井館」「富山館」「延楽館」「金山館」「水月旅館」「河内旅館」「延對寺」の計9軒)。終戦後は段階的に営業を再開。
戦後
1946年(昭和21年)5月21日 - 午前11時30分頃に共同浴場の近くにあった土木作業場(飛鳥組)より出火し、5mの西風にあおられ延焼し、川をふさいだ上出火元が温泉街の入り口付近であたっため消防車が町の中に入れず、さらに黒部川にホースが届かないという水利の不便も災いし大火となった。同日午後2時30分頃に自然鎮火したが、温泉街(全350余戸)の9割を焼失した(焼け残った旅館は富山館、宇奈月館の2軒のみ、また、日本発送電の社宅5戸、北日本鉱業社宅、山岡別荘、同二上社宅も消失を免れている)。当時の日本発送電黒部川支社長による1,000万円の復興費の準備や内山村による村有林の払い下げなどによる復興費捻出などの援助により復興した。これに合わせ温泉街の道路網の区画整理や近代的感覚を取り入れた旅館施設や内容の充実を図り、入浴客の受け入れ態勢が強化された。
1947年(昭和22年)冬 - 雪のカーニバルが初めて開催される。
1950年(昭和25年)7月 - 黒部宇奈月観光協会設立。
1953年(昭和28年)11月 - 関西電力黒部専用軌道の内、宇奈月 - 欅平間は地方鉄道法による営業の免許を受け、トロッコ電車の一般観光客利用が行われはじめた。これにより客足が伸びたことで、温泉街も発展した。
1954年(昭和29年)7月10日 - 内山村が東山村、愛本村と合併、当温泉は宇奈月町の所属となる。宇奈月町時代は、「下新川郡宇奈月町 ○○○○番」となっていて、大字名としての宇奈月温泉はなかった。
1956年(昭和31年)7月 - 関西電力黒部ダムと黒部川第四発電所の建設が始まる。
1956年(昭和31年) - 宇奈月温泉スキー場がオープンした。
1958年(昭和33年)10月20日 - 昭和天皇が富山県国体開催に合わせて行幸。延楽が行在所となる。
1963年(昭和38年)6月9日 - 山田胖は宇奈月温泉を再訪し、「40年ぶりに来た。宇奈月の発展はめざましい。私の働いていたころがしのばれる。」と語ったとされる。宇奈月を去ってから長く訪れなかったことがわかる。
1964年(昭和39年)
3月、温泉会館が竣工。
この年の黒四発電所完成後も開発の関連工事は続き、大手ゼネコンや電気設備納入のメーカーといった工事関係者と黒部峡谷を訪ねる観光客で温泉街は繁栄を極めた。この当時、芸者置屋が5 - 6件あった。
1966年(昭和41年)4月1日 - 宇奈月小学校宇奈月教場が本校に統合されたため廃校。
1971年(昭和46年)7月 - 宇奈月 - 欅平間の鉄道営業を行うため、関西電力の子会社黒部峡谷鉄道株式会社が発足する。
1975年(昭和50年) - 想影橋の下に温泉のパイプを通して黒部川左岸側に初めて引湯し、グリーンホテル喜泉が同地に移転。
1976年(昭和51年)4月1日 - 想影公園(1.6ha)が開設される。
1977年(昭和52年)5月18日 - 『平和の像』土付けの式。
1982年(昭和57年)
6月1日 - 『平和の像』組立作業が開始。
10月8日 - 『平和の像』除幕式。
1984年(昭和59年)12月 - 温泉街に廃湯利用のロードヒーティング(融雪装置)が一部完成。
1985年(昭和60年)9月27日 - 音沢発電所が全面営業運転を開始。これを以て黒部川の電源開発がほぼ終了する。
1986年(昭和61年)7月 - 商工振興協同組合が設立される。
1987年(昭和62年)4月28日 - 黒部川電気記念館オープン。
1993年(平成5年)
4月 - 宇奈月温泉の祖である山田胖が作った柳河原発電所がダム湖に沈むことから新たに作られた新柳河原発電所が、運転を開始した。
7月30日 - 温泉街の新たな集客力として国際会議場、宇奈月国際会館「セレネ」(現・黒部市芸術創造センターセレネ)が完成する。
2001年(平成13年) - 多目的ダムである宇奈月ダムの完成とともに付随設備「とちの湯」(栃の実に由来)なども完成した。
2003年(平成15年)7月17日 - 足湯『おもかげ』竣工。愛称は702件の応募の中から、想影橋に由来するものとして選ばれた。
2004年(平成16年)5月1日 - 温泉街に無料休憩所『いっぷく処』オープン。
2006年(平成18年)3月 - 下新川郡宇奈月町と黒部市の合併(平成の大合併)による新・黒部市の誕生に併せて、温泉街の地名が「宇奈月温泉」に変更された。
2009年(平成21年) - 宇奈月温泉スキー場は2009年度から黒部市に代わり、民間組織「宇奈月大原台」(2008年〔平成20年〕11月6日設立)が管理運営することとなった。
2016年(平成28年)4月27日 - 宇奈月温泉総湯『湯めどころ宇奈月』がオープン。
2020年(令和2年)5月 - 新型コロナウイルス感染症拡大を受けて、宇奈月温泉一帯の宿泊施設が約1カ月間にわたり休業。再開後も翌年にかけて宿泊者数が激減。
2021年(令和3年) - 観光庁による景観を改善する補助事業の採択を受け、廃業した宿泊施設の撤去が始まる。2022年度末までに4棟を撤去。
2023年(令和5年) - 開湯100周年。
2024年(令和6年)3月15日 - 同年1月1日発生の能登半島地震の影響で、泉質が変化し、メタケイ酸とマンガンが増加したことが判明した[69]。マンガンが消毒用の塩素と化学反応を起こしたことにより赤茶色の沈殿物を発生させ、湯船や床のタイルに赤茶色が付くようになったが、時間の経過とともに赤茶色の沈殿物が無くなっていった(湯めどころ宇奈月では、同年5月中旬頃から徐々に色が薄くなり、同年6月には色が付かなくなった)。
アクセス
富山地方鉄道 本線、宇奈月温泉駅。
E8 北陸道 黒部ICより富山県道53号若栗生地線、富山県道14号黒部宇奈月線。
あいの風とやま鉄道線 黒部駅より富山県道14号黒部宇奈月線。
北陸新幹線 黒部宇奈月温泉駅は駅名に「宇奈月温泉」とあるが温泉からは離れた場所にあり、新幹線駅前にある富山地方鉄道新黒部駅で乗り換え、宇奈月温泉駅まで25分程度かかる。
宇奈月温泉スキー場
南側に宇奈月温泉スキー場がある。温泉街を見渡す宇奈月温泉スキー場の上部に佐々木大樹が原型を作成した平和観音像がある。
トピック
宇奈月温泉事件
宇奈月温泉木管事件碑
→詳細は「宇奈月温泉事件」を参照
宇奈月温泉は、法律学(民法判例)上、極めて重要な事件である宇奈月温泉事件の舞台となった。前述の源泉から温泉街までの引湯管の敷設地が一部未買収であったことが発端となった訴訟である。この判決では大審院によって権利濫用の解釈が示され、原告の主張が権利濫用の法理により排斥された(大審院第三民事部判決昭和10年10月5日民集14巻1965頁)。民法判例百選の最初に登載されている事件で、法学部などで民法を学ぶ者が最初期に目にする判例の1つである。
うなずきマーチ
「うなずきマーチ」は、作詞・作曲大滝詠一で1980年代にフジテレビ系列(地元では富山テレビ放送がネット)で放送された、当時の超人気バラエティ番組『オレたちひょうきん族』のレギュラー出演者の中の3人(ビートきよし、松本竜介、島田洋八:ビートたけし、島田紳助、島田洋七のそれぞれの相方で、ツッコミ(うなずき)役)で構成されたユニット「うなずきトリオ」が「ひょうきんベストテン」コーナーで歌った曲。大滝とうなずきトリオの3人とが、宇奈月温泉を訪れ、滞在していた時に構想が浮かんだとされ、番組の企画で3人が実際に宇奈月温泉で歌ったこともある。
ラバウルの宇奈月温泉
第二次世界大戦中、旧大日本帝国海軍の根拠地のひとつであったパプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルに、「宇奈月温泉」という別称がついた場所が戦時中の地図に存在する。この名称は当時、富山県出身の海軍第25航空戦隊司令部気象班員の兵士によって命名されたとされる。
東海の温泉
『熱海の温泉』熱海市HP https://www.city.atami.lg.jp/kanko/onsen/1001820.html
総湧出量毎分約20,000リットルに迫ります!
熱海温泉は、その知名度に恥じない"歴史"と"湯量"を誇る温泉郷です。
また、42度以上の高温泉がその約9割を占め、平均温度は約63度と、源泉総数が500を超える温泉場としては、全国屈指の高温泉リゾートです。
*熱海温泉の歴史
西暦749年、今からおよそ1260年前に箱根権現の万巻上人が、海中に湧く温泉を熱海の中腹に導き漁民および魚介類を救おうと薬師如来に祈祷し、現在ある「大湯間歇泉の地」に泉脈を移し、守護神として湯前神社をつくり、一般の人々が温泉の恩恵に浴することが出来るようにしたことが熱海温泉の始まりと由来記に記されています。
最近、掘削技術が進み、各地で温泉の湧出が見られますが、その多くは何百年、何千年の年月によって出来た温泉ダマリであることが多く、30年・50年と揚湯を続けた場合、枯渇してしまうのではないかと考えられますが、熱海の温泉は千年余の期間、安定した温泉を供給する泉脈をもっているという点でとても貴重な温泉といえます。
*大湯間欠泉
熱海温泉の歴史は古く、伊豆風土記の記述(713年)が一般的に知られています。それによれば「天孫降臨に先立って大己貴命は、秋津の国の民が若死にするのを憫んで少彦名命に製薬温泉之術を与えて伊豆国の神の湯に遺わされた。この湯は普通の湯ではなくて一昼夜に二度烈しく沸騰して噴出する。これを桶に入れて身を浸すと諸病が悉く治った」とあります。この記述が大湯を示すとされています。
*療養地として
戦国から江戸時代にかけて医学の世界は新しい時代に入ります。中でも医学理論を体系化し、病気予防・保健衛生などの知識をひろめた、古医方中興の祖といわれる曲直瀬道三(まなせどうさん)の功績は大きいです。当初毛利家に仕えた道三は秀吉が天下を統一してからは養子玄朔と共に豊臣家に使え、その後、徳川家にも重用されました。文禄2年(1593)9月初め、関白秀次が40日余り熱海に湯治に来ており、その間、曲直瀬道三が熱海まで往診しています。
*熱海を知らしめた徳川家康
徳川家康は1604年、二人の息子を連れ、湯治のため熱海を訪れた記録が残っており、その後、江戸城に熱海の温泉を運ばせました。以来、多くの大名が熱海温泉を訪れています。その理由は以下のように考えられます。(1)家康が熱海を幕府の直轄領としたことで、逗留が自由になり、各地の大名が熱海温泉を利用しやすくなった (2)江戸から近く、参勤交代の折、多くの大名が熱海に訪れた (3)家康に対する話題づくりもあったと思われる (4)各大名が自国に戻り、熱海のことを話し、結果として熱海温泉が全国的に知られるようになった。
熱海市史によれば、江戸時代、熱海には多くの文化人が訪れ、明和から慶応までの江戸時代約100年の間に代表的な紀行文だけでも36編存在するといわれます。
*明治時代「別荘王国」
フランス公使・ロッシュは若き日の傷が痛み、たびたび熱海に逗留、熱海での温泉療法で健康が回復したと祖国に手紙を書いています。また、明治天皇の皇太子の教養主任陸軍中将・曽我祐準(後の東宮太夫・将軍・枢密院顧問)は明治8年から熱海に通いリュウマチを治療したことなど、皇族をはじめ、政財界の重鎮、著名な文人墨客で熱海に別荘を構えた人物は、枚挙にいとまがありません。
*温泉に関するもので“熱海が日本初”
初めての西洋式温泉分析報告書の存在:明治7年(1874年)
温泉に関する取締規則の制定:明治16年6月発布
温泉療養センターの設立:明治18年の「噏滊舘」の存在
御用邸の建設(明治21年):温泉地では初めての御用邸は熱海に建てられた。
※日本で最初の温泉保養センター
わが国初めての温泉保養センター「噏滊舘」は熱海温泉につくられました。明治18年(1885年)、時の右大臣 岩倉具視公が熱海で静養しようとしたことが発端で、当時の健康局の長与専斎という人が主となってつくられました。ドイツの気圧吸入器が設置され、医師も常勤する当時としては最新式の医療施設でした。
各地区の温泉
熱海温泉
地中海沿岸の高級リゾートを想わせるエレガントな湾岸エリアと林立するホテルやマンションを背後からやさしく覆う緑、進化を続けながらも静寂の中に今も息づく史蹟の数々…。
リゾートとして多くの資質を有する中に、1200年にもわたり、供給を続ける豊富な泉脈を誇る。
熱海温泉(外部リンク)
網代温泉
江戸時代、「京、大阪に江戸、網代」といわれ、多くの廻船で賑わいを見せた”網代”…。
熱海市内で漁師町の風情がもっとも強く、あじやイカに代表される海産物の逸品がそろう「網代」の温泉は、源泉の平均温度(約78度)、平均湧出量(毎分約207リットル)ともに熱海市内でトップの実力を誇る。
網代温泉(外部リンク)
伊豆山温泉
有名な伊豆山神社の霊湯として、古くから崇められた歴史をもつ「走り湯」
伊豆山漁港にほど近い「走り湯」は、全国的にも珍しい横穴式の源泉で、約70度の源泉が毎分約180リットル湧出している。(見学可能)
伊豆山(いずさん)温泉(外部リンク)
伊豆多賀温泉
特産の柑橘類が実る山々に囲まれた波静かな多賀湾沿いを中心に旅館が並ぶ”多賀”…。
ゆったりと流れる時間の中で、やさしい泉質の湯を楽しめる。熱海市内では稀な高アルカリ泉の源泉をもつ施設があるのもこの地域。
伊豆多賀温泉(外部リンク)
伊豆湯河原温泉
万葉集にも詠われた落ち着いた旅館が箱根外輪山から流れる藤木川(下流は千歳川)沿いに立ち並ぶ。
熱海市全体の中で多くを占める塩化物泉ではなく、単純泉が比較的多く、気軽に楽しめる。
伊豆湯河原温泉(外部リンク)
温泉の効能
熱海温泉は無色透明で匂いも香りもありません。
ただ、保温効果の高さや美肌感は十分に体感いただくことができます。
目先の色や匂いに惑わされることなく、熱海温泉の泉質の素晴らしさを実感してください。
塩化物泉の適応症
浴用:単純温泉の適応症に加えて、きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病
飲用:慢性消化器病、慢性便秘
注:飲用に適しているか否かは事前にご確認ください。
硫酸塩泉の適応症
浴用:単純温泉の適応症に加えて動脈硬化症、きりきず、やけど、慢性皮膚病
飲用:慢性胆嚢炎胆石症、慢性便秘、肥満症、糖尿病、痛風
注:飲用に適しているか否かは事前にご確認ください。
市営温泉のある街
熱海市では、全国でも珍しく市営で温泉事業を運営しています。
市営温泉の運営は77年の歴史があります。発足当初は温泉を旅館へ効率よく供給することを目的に始まりました。今では、旅館、保養所などへ供給するとともに、一般家庭へも温泉を届けています。
訪日外国人向け入浴マナーチラシを作成しました。
熱海市では、訪日外国人のみなさまに熱海温泉をお楽しみいただけるように、訪日外国人向けに入浴マナーを紹介したチラシを作成いたしました。
英語、韓国語、中国語に対応しておりますので、是非ご活用ください。
熱海温泉にようこそ! (PDF 11.0MB)新しいウィンドウで開きます
『熱海温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%B5%B7%E6%B8%A9%E6%B3%89
熱海温泉(あたみおんせん)は、静岡県熱海市にある温泉である。日本の三大温泉の一つとも言われる。
泉質
ナトリウム・カルシウム―塩化物温泉 - 80%
ナトリウム・カルシウム―塩化物・硫酸塩温泉 - 19%
ナトリウム・カルシウム―硫酸塩温泉 - 1%
毎分湧出量18,000リットル
無色透明の源泉
総源泉数410本(伊豆山、網代を合わせて600本以上)
湧出温度98.2度の高温泉
塩化物泉の源泉が過半数を占めている。山沿いは硫酸塩泉の源泉が多い。古くは大半の源泉が硫酸塩泉であった。 ボーリングによる源泉開発を多数行った結果、地下の線脈に海水の混入量が増えたため、泉質が変わった。 かつては東海道本線線路付近に位置する源泉は塩化物・硫酸塩温泉であったが、昭和後期より塩化物温泉に変わった個所が多い。 しかし他県の中性の塩化物温泉と比較して、硫酸塩の成分が多く入っていることから弱アルカリ性となり、肌触りが滑らかなのが特徴。
温泉街
伊豆半島北東端、熱海駅の北東から南東にかけて、相模灘に面する海沿いに旅館やホテルが立ち並ぶ。眺望を求めて山腹に立地する施設もある。昔からの温泉街は山のすそ野にある駅近辺から海岸沿いまで広がる。熱海駅併設のラスカ熱海や駅近くの商店街、起雲閣のような観光施設、海浜の海水浴場や、さらに南側にある錦ヶ浦や熱海城、沖合に浮かぶ初島まで含めた観光地となっている。
熱海駅は伊東線の始発駅で、伊豆観光の東の玄関口的な立地ともなっている。
足湯・手湯
家康の湯 - 熱海駅前にある足湯施設(無料)。
福福の湯 - 平和通り商店街にある手湯施設(無料)。
熱海七湯
温泉街には、熱海七湯(あたみななゆ)と呼ばれる、江戸時代までの古くからの7つの源泉が存在したが、明治以降の周辺での源泉開発の影響でかつての自然湧出の姿は失われた。そして大湯は1962年(昭和37年)に、その他の6つは1997年(平成9年)に、文化財・観光資源として、市営温泉を人工的に噴出・湧出させる形で復元された。
熱海七湯は以下の7つの源泉である。
大湯(おおゆ、大湯間歇泉) - かつての熱海温泉の中心的源泉。
野中の湯(のなかのゆ) - 藤森稲荷神社の東方。湯気あり。
小沢の湯(こさわのゆ) - 地名に由来。静岡銀行熱海支店の裏側北方。温泉通り沿い。高温蒸気でゆで卵が作れる。脇に「丹那湧水」の水飲み場も併設されている。
風呂の湯(ふろのゆ) - 福島屋旅館脇。隣接した水の湯(みずのゆ)とセット。
目の湯(めのゆ) - 効用に由来。銀座通り内、スルガ銀行と静岡中央銀行の間。かつての所有者の名から佐治郎の湯(さじろうのゆ)とも。
清左右衛門の湯(せいざえもんのゆ) - 死亡した農民に由来。古谷旅館西方。湯気あり。
河原湯(かわらゆ) - かつての東浜の河原に位置した庶民のための源泉。国道135号沿いセブンイレブン熱海銀座町店南方。
歴史
熱海は歴史的にも古い温泉であり、およそ1500年前の仁賢天皇の時代、海中から熱湯が噴き出し、魚が爛れ死ぬのを近郷の者が発見、以来「熱い海」であることから、熱海と名付けられたとされる。また、天平宝字の頃に箱根権現の万巻上人が、この「熱い海」のために不漁に苦しむ漁民たちを救済すべく、祈願により源泉を海中から現在の山里に移したという伝説も残されている。
南北朝時代の応安7年/文中3年(1374年)の3月4日に鎌倉の義堂周信が熱海温泉を訪れたところ、上巳節(3月3日)の詩会が開かれていて漢詩を作ったことを日記に記している(『空華日用工夫略集』応安7年3月4日条)。これは当時の熱海に文人墨客が多く訪れていたことを示すと共に京都で使われていた京暦と熱海で使われていた三島暦の日付の誤差の逸話としても知られている。
江戸時代初期の慶長9年(1604年)、徳川家康が7日間湯治で逗留した記録がある(『徳川実紀』)。以来、徳川将軍家御用達の名湯として名を馳せ、徳川家光以降に、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。
明治以降は文人墨客が多く訪れ、また多くの作品がこの地を舞台に描かれた。最も代表的な作品は、尾崎紅葉の『金色夜叉』であり、この作品によって熱海の名は全国的に知られることとなった。国道135号沿いに登場人物である貫一・お宮の像がある。他に永井荷風の『冬の日』や林芙美子の『うず潮』などがある。1923年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受けるもその後は翌年の国鉄熱海線の熱海駅延伸もあって急速に復興し、1936年(昭和11年)7月1日には熱海町営温泉(後の市営温泉)が発足。
この頃の熱海は新聞に「エロの街、カフェーの街」と書かれるほど風俗産業が盛んな温泉街であったが、1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通して温泉目当ての観光客が増加するとカフェーが続々と食堂に転向した。 もっとも戦後の混乱期は再び風紀が乱れて占領軍兵士などを相手にしたパンパン街が形成されていた。
その後熱海大火で大きな被害を受けるが、昭和30年代は新婚旅行の代表的な行き先で、白いドレスに白のスーツケースを持った、それと分かるアベックで賑わった。東海道新幹線開業後の昭和40年代は高度経済成長期の影響で団体旅行を誘致するようになり、関東だけでなく中京・関西からの客も増えて宿泊者が年間450万人を突破。バブル時代は東京都区部での土地の高騰・新幹線通勤の広がりに伴い、高額所得者が熱海に温泉付の自宅を構えて東京都内へ新幹線通勤する光景も多く見られた。
しかしバブル崩壊で企業の保養施設や団体旅行が衰退し、円高による海外旅行の一般化もあって関西をはじめとする遠方からの客も減った。それに1990年代前半に発生した伊東沖での群発地震が追い打ちをかけ、観光客が減少。2006年には熱海市が財政危機宣言を出した。
このため地元の有志が活動を開始。熱海駅と旅館・ホテル街を結ぶ位置にある熱海銀座商店街で増えた空き店舗を、東京からのUターン者や地元住民、市が青空市開催と意欲ある店主の誘致、業態転換などで再生させた。
こうして長期低落傾向が2011年を底に反転し、熱海復活として注目されている。首都圏の西隣で新幹線駅がある元々の有利さは健在で、旅館・ホテル業界も花火大会などで、個人・小グループ客にとっての魅力向上に努めたことも奏功した。
長野・岐阜の温泉
岐阜県中東部,下呂市にある温泉。飛騨川の上流益田川に臨み,下呂駅付近と対岸の湯ノ島に分かれる。古くから知られていたが,特に 1924年の掘削以来,豊富な湧出量を誇る。泉質は単純泉,硫黄泉。泉温 83℃。リウマチ,神経痛に効能がある。温泉街は 1934年高山本線が開通して急速に発展。名古屋,岐阜方面からの観光客が多い。飛騨木曾川国定公園に含まれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
奥飛騨温泉郷HP https://www.okuhida.or.jp/
奥飛騨温泉郷観光協会【公式】youtubeチャンネル https://www.youtube.com/@%E5%A5%A5%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8D%94%E4%BC%9A
『奥飛騨温泉郷』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7
奥飛騨温泉郷(おくひだおんせんごう)は、岐阜県高山市(旧国飛騨国)にある5つの温泉の総称(温泉郷)である。平湯温泉、福地温泉、新平湯温泉、栃尾温泉、新穂高温泉から構成されている。
概要
1964年6月11日には平湯温泉が、1968年11月19日には平湯以外の郷内の温泉が国民保養温泉地に指定された。旧上宝村が高山市に合併した際、村を北西と南東に分け、住所の表示を北西部は上宝町、南東部は奥飛騨温泉郷とした。国道158号の安房トンネルと平湯トンネルの間にある平湯温泉を起点に、国道471号沿いに栃尾温泉までが点在する。栃尾温泉から蒲田川沿いに上流へ上がっていくと新穂高温泉がある。
郷内全体の各温泉を総計した場合では、別府温泉、由布院温泉に次ぐ毎分44,000リットル超の豊富な湧出量があり、郷内の各温泉には無料または寸志で入浴可能な共同浴場、露天風呂が多く存在する。
奥飛騨温泉郷では、毎年6月26日を「6.26(ロ・テン・ブロ)」の日とし、温泉郷内の指定露天風呂を無料開放するイベントを実施している。また、10月上旬から下旬にかけての紅葉も見所になっており、奥飛騨温泉郷の紅葉は、飛騨・美濃紅葉三十三選に選ばれている。
近年、温泉をモチーフにした2次元キャラクター「奥飛騨五十鈴」と「平湯みつば」(温泉むすめ)が温泉のPRに活用されている。2024年4月14日には、奥飛騨五十鈴と平湯みつばの妹分として、福地温泉をPRする「福地珊瑚」がデビューしている。
郷内の温泉
平湯温泉
福地温泉
新平湯温泉
栃尾温泉
新穂高温泉
兵庫県神戸市北区にある温泉。六甲山地北斜面,標高約 363mに位置。古くから知られ,『日本書紀』によれば飛鳥時代に舒明天皇の行幸以来,幾度かの法皇入湯の歴史がある。建久2 (1191) 年,仁西上人が和歌山県の熊野権現の神託により温泉を修築,行基の寺を再興し,12の宿坊を開いて以来,有馬の旅館名には「坊」のつくものが多い。豊臣秀吉もたびたび入湯したといわれる。単純炭酸泉,放射能泉で泉温は 97℃。貧血症に特効がある。名所旧跡も多く,滝と桜,紅葉の名所でもある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎別府温泉郷
◎湯布院温泉郷
◎筋湯温泉
◎長湯温泉
◎天ヶ瀬温泉
おんせん県と自称するだけに大分県は、源泉総数、高温源泉数、総湧出量、自噴湧出量、動力湧出量で1位。特に源泉数、高温源泉数は群を抜いている。また熊本、鹿児島も源泉総数、高温源泉数、総湧出量、自噴湧出量、動力湧出量でトップ10にランクインしている。(日本温泉協会『温泉名人』発表)
◎黒川温泉
◎山鹿温泉
◎阿蘇温泉
◎玉名温泉
◎平山温泉
◎天草下田温泉
◎阿蘇内牧(あそのうちまき)温泉
◎菊池温泉
◎杖立温泉
◎人吉温泉
◎地獄温泉
◎植木温泉
◎小田温泉
◎指宿温泉 『天然砂むし温泉』で名高い南九州最大の温泉郷。塩化物泉。高温。砂むしとは、温泉で熱くなった砂浜に横たわり、砂かけさんに砂を持ってもらい、全身を温める。肩こり、腰痛、神経痛、冷え性などに効果あり。薩摩半島。
参考:いぶすき観光ネット
◎霧島温泉郷
霧島市北部、標高600mに点在。霧島連峰のふもとにある温泉郷。霧島温泉郷とは鹿児島県霧島市の『新湯・林田・硫黄谷・丸尾・栗川・湯之谷・殿湯・関平・野々湯』の9つの温泉を総称。参考:霧島温泉市場
泉質も単純泉,硫黄泉,明礬泉,重曹泉,重炭酸土類泉と多種で高温泉が多い。神経痛,リウマチ,胃腸病にきくといわれる。国民保養温泉地に指定。ミヤマキリシマの群落が見られ,霧島錦江湾国立公園に属する。南九州広域観光ルートの一大拠点。参考:コトバンク『霧島温泉郷』
◎鹿児島市内温泉→ wikipedia『鹿児島市街地の温泉』参照。単純温泉、炭酸水素塩泉、塩化物泉。源泉温度は33-48℃。
◎妙見温泉 霧島山の西南麓。天降(あもり)川に面する。ナトリウム炭酸水素塩泉、神経痛、筋肉痛、関節痛、皮膚病、冷え性、病後回復、疲労回復、やけど、きりきずなどに効能。飲用としての効能は慢性消化器疾患、糖尿病、痛風、肝臓病など。
◎桜島マグマ温泉 地下1000メートルから湧き出る源泉湯。 泉質…ナトリウム塩化物泉 温度…51.4℃ ※掛け流しの温泉ですが、源泉温度が高いため加水。 湯量…300(リットル/分) 効能…切り傷・神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・ 運動麻痺・慢性消化器病・冷え性・疲労回復・ 健康増進・その他。桜島港から徒歩8分。浴場から錦江湾を望める。
参考:国民宿舎レインボー桜島
◎日当山(ひなたやま)温泉 鹿児島県霧島市の国分平野北西部から中部(旧大隅国)にかけて散在する温泉群の総称。鹿児島県内最古のいで湯で、西郷隆盛が頻繁に訪れた温泉として知られる。木房温泉(西郷どん湯)。
◎古里(ふるさと)温泉 桜島の南側の海岸沿いに温泉街が広がる。ホテルは2軒のみ現存する。
桜島の噴火による降灰の影響を受けやすく、各旅館の露天風呂は急遽入浴できなくなることがある。また、共同浴場はかつて海沿いに存在したが現存はしていない。そのため、日帰り入浴は各旅館の日帰り受付を利用することになる。
かつて営業していた古里観光ホテルは、2012年9月30日で倒産、白い浴衣のような湯着を着用して入浴する特色があった同ホテルの龍神露天風呂は現在利用できない。
当地は林芙美子の出身地であり、その関係で林芙美子の歌碑、銅像が温泉街にある。