2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
平成30年度~の問題を解きながら、設問ごとに対策を立てます。全国通訳案内士試験合格に特化しています。
問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
以下はコトバンク、Wikipedia、各種公式ページを引用しています。
先史時代
過去問から見て、全国通訳案内士試験先史時代の遺跡が出ないことは明らかです。
ただし、沖縄県の旧石器時代の人骨化石は国内では群を抜いて古いものが発見されているため、取り上げています。(特に山下町第一洞穴遺跡・サキタリ洞遺跡・ピンザアブ遺跡の人骨は沖縄県外最古の浜北人(静岡県)よりもさらに1万年以上古い)
『サキタリ洞遺跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%83%AA%E6%B4%9E%E9%81%BA%E8%B7%A1
サキタリ洞遺跡は、沖縄本島南部、南城市玉城大字前川字浮花原202番地に位置する「ガンガラーの谷」内にある洞窟内に広がる遺跡である。同地の地権者である株式会社南都の社員が、洞穴近辺で土器や石器などの遺物を採集したことにより、遺跡であると認識されるようになった。
沖縄県立博物館・美術館が2007年(平成19年)より発掘調査を行っている。サキタリ洞周辺の地質は、島尻層群(泥岩)が土台となり、その上を琉球層群(石灰岩)が覆っている。サキタリ洞遺跡のある「ガンガラーの谷」周辺は特に石灰岩層が厚く、雄樋川の浸食によって洞穴群が複雑に発達しており、有名な玉泉洞とその周辺の洞穴は「玉泉洞ケイブシステム」と呼ばれる大規模な洞穴群を形成している。
周辺には先史時代の遺跡が多く分布している。有名なものとして、港川人骨が発見された港川遺跡(八重瀬町)が1.5キロメートルの距離にある[2]。また、グスク時代の人骨が発見されたハナンダガマ遺跡(南城市)、縄文時代晩期の人骨が発見されたガルマンドウ原洞穴遺跡(八重瀬町)、約7千年前の南島爪形文土器や縄文時代晩期の石棺墓が発見された武芸洞遺跡(南城市)などがある。
主な発見
2010年(平成12年)7月から8月にかけて、縄文時代の遺物を含むフローストーン層の直下から12,000年前のヒトの歯1点とともに石英の石器3点が発見される。旧石器時代の人骨と石器がともに発見されるのは日本で初めてである。この発見には二つの意味がある。ヒトと文化の両方を明らかにすることができる証拠であり、沖縄の旧石器文化の解明につながる手がかりとなる。また、12,000年前という年代が、旧石器時代の発見と縄文時代の発見の空白期に相当し、それを埋めるものであったことが挙げられる。
2013年(平成25年)、沖縄県最古の約8,000年前の土器が発見された。表面にヘラなどを押し付けて紋様をつける押引文土器とされる。従来、沖縄最古の土器は約7,000-6,000年前の無文土器または南島爪形文土器とされてきたが、この発見により1000年遡ることになった。
2014年(平成26年)2月、23,000-20,000年前の貝製のビーズと道具、人骨が発見された。旧石器時代の遺跡から貝器が見つかるのは日本で初めてであった。このうちの貝製ビーズには、ベンガラとみられる赤い顔料が付着しており、日本最古の人為的に着色された装飾とされる。
同年12月には、少なくとも9,000年以上前の成人の人骨が発見された。人骨の頭や胸等には石灰岩が置かれており、腕の関節が繋がった状態で見つかったことから、人為的に埋葬された可能性があると考えられており、仮に埋葬されたものであれば日本国内で最古の埋葬人骨となる。
2016年(平成28年)に、世界最古の釣り針(23,000年前、貝製)が発見された。また30,000年前の幼児人骨も発見された。これは日本国内で山下洞人(32,000年前)に次いで古いものである。
参考:『新発見!12000年前の石英製石器と人骨について』沖縄県立博物館・美術館
上→https://web.archive.org/web/20211021155047/https://okimu.jp/museum/column/066/
下→https://web.archive.org/web/20211021141749/https://okimu.jp/museum/column/067/
参考:『サキタリ洞遺跡 Sakitari-do cave site 後期旧石器時代 前半~後半 約35,000~約14,000年前 日本列島の旧石器時代遺跡』日本石器学会 https://palaeolithic.jp/sites/sakitarido/index.htm
参考動画:『【若一調査隊】沖縄SP サキタリ洞遺跡で日本人のルーツに迫る! 多数の歴史的発見がなぜ沖縄で? 旧石器人も見ていた景色も 日本最古の人骨とは?』https://youtu.be/PqSWGT4TwDA?si=4RETHlDSzRLEoHXb
日本で発見されている旧石器時代の人骨化石のうち、沖縄以外で発見されている人骨化石は、静岡県の浜北遺跡で発見された浜北人で下層は約2万2000年前・上層は約1万7500年前のものである。
しかし、沖縄では日本でいちばん古い山下町第一洞穴遺跡は3万6000年前のもの、サキタリ洞遺跡は3万~1万4000年前、ピンザアブ遺跡は3万年前と日本最古級の人骨が続々と発掘されている。しかもすべて洞窟から発見されている。今一番注目されているのがサキタリ洞遺跡で、2009年からの調査で歴史的発見が続いており、熱い視線が注がれている。発見されたものは、世界最古(約2万3000年前)の釣り針、日本で2番目(約3万年前)に古い人骨、日本初の旧石器時代貝器(貝製ビーズ)、日本最古級の埋葬人骨(約9000年前)、旧石器時代の人骨と石器の同時発見、沖縄県最古(約8000年前)の土器などである。2万年前の地層には燃えた炭(炭化物)がたくさん含まれており、また、当時の人が食べたであろうモクズガニやカワニナも同地層でたくさん発見されており、旬のものを求めてこの洞窟にやってきた可能性がある。生活の跡と言える。
沖縄に数多くの旧石器時代の遺跡が発見されている理由としては、遺跡が琉球石灰岩と言う炭酸カルシウムが多く含まれている地帯でアルカリ分に富むため、骨が溶けずによく残ったという点が挙げられている。本土では石灰岩の場所が非常に限られており、かつ石灰岩の洞窟がある場所は山がちな場所であるため、旧石器時代の人が利用しにくかった、沖縄の場合は、平たんな地形を形成していて人が利用しやすかったというため、当時の人々が石灰岩の洞窟を生活の場や墓として利用しやすかったためであると考えられている。
洞窟を抜けたところにあるガンガラーの谷は、数十万年前まではやはり鍾乳洞の洞窟だったが、天井崩落によって谷上の地形となった。下に洞窟を造る原因となった雄樋川が流れているが、この川が鍾乳洞を作った原因とみられるが、崩落までは谷の向かい側までの広い地域に鍾乳洞が存在していたと推測され、今では東なアジアなどに行かなければ見られないような超巨大な洞窟が一帯にあった。カワニナ、モクズガニ、カワエビなどは今でも川で見られ、旧石器人が見ていた、食べていた環境が今でもダイレクトにみられる場所である。
推定樹齢150年のウフシュガジュマルの木がそびえるが、崖の上に映えた木が崖下奥深くまで根を沢山下ろしたもの。このガンガラーの谷の川の河口の湊川遺跡では約2万2000年前の港川人の人骨も発見されている。頭蓋骨が発見されたため、港川人の復顔が可能だった。
番組では日本最古級(3万2千年~3万6千年)の人骨化石(8歳ほどと推定される女の子の大腿骨と脛骨)(山下洞人)と鹿の骨器が発見された山下町第一洞穴遺跡公園を訪れている。
これらの遺跡から発掘された出土品は沖縄県内最大の収蔵品数をほこる沖縄県立博物館・美術館(2007年開館)に収蔵されている。沖縄県立博物館・美術館は、グスクをイメージした建物となっており、合わせて約10万点の資料を収蔵している。港川人骨の模型が4体分あるが、この人骨はアジア全体でも珍しい例であるが、上記の遺跡のみならず、沖縄ではこういうものがまとまって発見されている。また、科学的根拠を持って港川人を復元したリアルな模型も展示されている。港川人は身長150~155cmほどとかなり小柄。上半身はきゃしゃだが、下半身は野山を歩いて食物を探すので発達している。港川遺跡からはヤンバルクイナの遺物も発見されている。2007年の復顔時には日本人の祖先と考えられていたため現代の日本人に似せて復顔したが、2014年時点では、オーストラリアのアボリジニやパプアニューギニアの人に近いと言う研究結果が出たため、新しい復元像はそれらの人々に近い顔に復顔されている。
サキタリ洞遺跡から出た世界で最も古い釣り針も展示されているが、大変小さくいわゆる釣り針型の形をしている。
グスク時代以前
参考:『沖縄貝塚文化』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E6%96%87%E5%8C%96
琉球王国
「あんじ」ともいう。琉球の古代共同体の首長の呼称。村落共同体の首長から数ヵ村落を支配する地域的豪族となり,グシク (城) を構えて対立,抗争を繰返しながら,そのあるものは「アジのなかのアジ (世の主) 」へと成長した。のち,統一政権としての琉球王国が確立すると,王府所在地の首里に集居させられ,家格の呼称となる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
グスク時代は、グスクと称する城塞的遺構を象徴して名づけられた。なお、沖縄本島以外ではグスクではなく、奄美では城館、先島ではスクなどと称する場合もあった。この時代の年代観にはいくつかの見解があるが、おおむね12~16世紀頃までを示し、日本史の中世に相当する。
グスクとは、南西諸島の内、沖縄地方領域である奄美群島(鹿児島県)から八重山諸島(沖縄県)の沖縄弧とも呼ばれる地域にかけて、多数存在するグスク時代の遺跡。本土の戦国時代の城とは異なり、戦いに備えた建築物とは限らず、館や拝所であったと考えられるものもあり、地域、時期、により形態や呼び方に違いがある。三山時代には王や按司の居城となっていた。
参考:『港の歴史 那覇港の歴史』(名和港湾・空港整備事務所) https://www.dc.ogb.go.jp/nahakou/rekishi/01.html
参考:『グスク時代』(沖縄県HP) https://www.pref.okinawa.jp/bunkakoryu/bunkageijutsu/1009673/1009695/1009717/1009718.html
参考:『グスク』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%AF
沖縄の別称。沖縄島を中心に多くの島々からなり,南西諸島,琉球列島とも呼ばれる。中国の明代初め(14世紀後半)頃から,中国および沖縄側の文献で「琉球」ということばが正式に使われるようになった。日本民族の一分枝ではあるが,独自の歴史展開を遂げ,日本本土とはやや異なる文化を形成。最古の人類としては約 3万2000年前の「山下洞人」が知られている。約 7000年前から貝塚時代に入り,縄文文化の影響を受けつつも独特の先史文化を残している。ほぼ 10世紀頃から稲作を伴う農耕社会の段階に達した。11~12世紀頃から古代首長,按司が割拠,やがて沖縄島には三つの小国家(山北〈北山〉,中山,山南〈南山〉)が形成され,明朝廷にそれぞれ朝貢し覇を競うが,のち中山に統一された(第一尚氏王朝)。不安定な王権は内間金丸のクーデターで滅び,金丸(尚円)を始祖とする第二尚氏王朝に代わる。第二尚氏 3代目の尚真王代に,北は奄美群島から南は宮古諸島,八重山諸島までを版図とする琉球王国が確立。中国,朝鮮,東南アジア諸国および日本本土にまたがる中継貿易を活発に展開し(→琉球貿易),その収入で国力の充実をはかるとともに,先進的な制度,文物を取り入れて,国家としての形式と内容を整えていった。慶長14(1609)年には薩摩藩島津氏の侵略を受け,支配下に置かれたが,中国に対しては明,清両朝を通じて約 500年間,冊封・朝貢関係(→朝貢貿易)を続けた。1879年の琉球処分(廃藩置県)によって,正式に日本の近代的な版図のなかに組み込まれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
1372年(洪武5年) - 1439年6月1日(正統4年4月20日))は、琉球王国の第一尚氏王統・第2代国王(在位:1422年 - 1439年)。尚思紹王の子。1429年、三山(中山・山北・山南)を統一し、琉球王国が成立した。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。
1429年、南山王他魯毎を滅ぼして第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国(明)をはじめ日本・朝鮮・南方諸国・海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。
『尚巴志王』wikipedia 抜き書きhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%B7%B4%E5%BF%97%E7%8E%8B
第一尚氏(だいいちしょうし)は尚思紹王を始祖とし、7代63年間(1406年(永楽4年)- 1469年(成化5年))続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称。正式には尚氏だが、第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれる。
1406年、佐敷の按司であった尚巴志は中山王武寧を攻め滅ぼし、父・尚思紹を中山王位に即ける。これが第一尚氏の始まりである。第一尚氏は1416年、尚思紹在位中に北山王国を、2代尚巴志即位後の1429年に南山王国を滅ぼし、沖縄本島を初めて統一して、滅亡までに先島諸島を除く沖縄諸島や奄美群島を制圧した。5代尚金福王の時代に首里と那覇を結ぶ長虹堤を築造。6代尚泰久王の時代に護佐丸・阿麻和利の乱が起きた。7代尚徳王の時に金丸(後の尚円王)の即位により王朝は滅亡した。なお、『氏集』や家譜には記載はないが、雍氏、明氏、孫氏、武氏、習氏等、いくつかの門中では第一尚氏後裔との伝承がある。
南城市指定の史跡である佐敷上グスク内には屋蔵大主、鮫川大主を含む、第一尚氏歴代王が合祀された「月代宮」が建立されている。
参考:『第一尚氏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B0%9A%E6%B0%8F
参考:『第一尚氏王統』 (琉球文化アーカイブ 沖縄の歴史) http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch2/toitu_10.html
<平成30年(2018年)の問題>
後程精査。
設問は1429年の三山統一から1879年日本統合までの歴史と中継貿易の地としての琉球についてを問う。
*薩摩藩の支配下
*謝恩使・慶賀使
*明の冊封国から清の冊封国へ
*琉球藩から沖縄県へ
14世紀~16世紀
硫黄を献上
海の道
明との交易
勢力圏(最大版図)は、奄美大島、沖縄本島、宮古島および石垣島の他、多数の小さな離島の集合で、最盛期の総人口17万ほどの小さな王国であった。しかし、日本の鎖国政策や隣接する大国明・清の海禁の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。
14世紀末から16世紀なかばのおよそ150年間は、もっとも琉球が盛んに中間貿易を拡大した時期に当たり、“大交易時代”とよばれた。
参考:『大交易時代』(親方(うぇーかた)の虎の巻) http://rca.open.ed.jp/city-2001/homehistory/con2/card07_2.html
参考:『親方の虎の巻』(沖縄県立総合教育センター) http://rca.open.ed.jp/city-2001/homehistory/con2/card07_2.html
琉球王国(りゅうきゅうおうこく、沖縄語: 琉球王國ルーチューヲークク)または琉球国(りゅうきゅうこく、沖縄語: 琉球國ルーチュークク)は、1429年(宣徳4年・正長2年・永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した国家である。
沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下においた。当初はムラ社会(シマ)の豪族であったが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には国家の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、他方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であった。
1609年の島津氏による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる(「掟十五条」)保護国となったものの、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は島津氏による介入をさほど受けず[注 2]、1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。同国に属した事がある範囲の島々の総称として、琉球諸島ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれた。
勢力圏(最大版図)は、奄美大島、沖縄本島、宮古島および石垣島の他、多数の小さな離島の集合で、最盛期の総人口17万ほどの小さな王国であった。しかし、日本の鎖国政策や隣接する大国明・清の海禁の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[注 3]との深い結び付きが知られる。
琉球王国は明及びその領土を継承した清の冊封下に組み込まれていたが、1609年(万暦37年・慶長14年)に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩と清への両属という体制(中華帝国の明・清の元号と日本の朝廷の元号の両方を施行する国家体制)を取りながらも、独立した王国として存在し、日本や中国の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。
琉球は明に冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、主に中国・朝鮮やベトナム、タイなど東南アジア諸国であった。
しかし16世紀に入り、1567年(隆慶元年・永禄10年)、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国が東南アジアに貿易拠点を築き東シナ海にも進出すると、ポルトガルがマラッカを抑えることで東南アジアの市場を失い、日本との中継貿易もマカオのポルトガル人が手がけるようになるなど、ヨーロッパ人が東アジア諸国と直接貿易をするようになった。更に戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて、豊富な銀を持って東南アジア領域に進出し、多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は衰退した。ただし、明が朱印船を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。
その後、東アジア諸国の鎖国政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の付庸国となることで日本との冊封貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。
19世紀に入ると、アヘン戦争に敗北した清が海禁政策を弱め、日本も開国してヨーロッパと直接貿易を再開した。これにより、香港や日本の開港5港などに貿易の中心は移り、琉球の東シナ海での中継貿易の地位はほぼ失われてしまう。結果、中継貿易を支えた琉球の日清両属体制は意義を失い、琉球処分で経済的にも政治的にも日本に完全に組み込まれた。
また琉球王朝は一般民衆による土地の私有を認めず、農業生産性の低い土地であったにもかかわらず極めて高い年貢を課したため、民衆は貧しい生活を強いられていた。
→黒船来航 →琉球処分(琉球王国の滅亡)
参考:『琉球王国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
金丸(尚円王)
引用「1469年(成化5年・文明元年)、尚泰久王の重臣であった金丸(後の尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、尚徳王の世子は殺害されており、クーデターによる即位であったと考えられている。
その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功した。彼の治世において、対外的には1500年(弘治13年・明応9年)には石垣島においてオヤケアカハチの乱を制し、さらに1522年(嘉靖元年・大永2年)には与那国島で鬼虎の乱を鎮圧、先島諸島全域を支配下に治めた。1571年(隆慶5年・元亀2年)には奄美群島北部まで征服し、最大版図を築いた。
琉球王は、明国に対しては冊封国として、中国皇帝の臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある。その例として、『朝鮮王朝実録』には、1545年(嘉靖24年・天文14年)に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(朝鮮明宗実録)という記述がある。」
参考:『琉球王国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。
参考:『玉陵』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%99%B5
観覧時間
午前9時~午後6時(入場締切 午後5時30分)年中無休
観覧料
個人
1日券 大人300円 小人150円
1年券 大人600円 小人300円
団体
(20人以上) 240円 120円 (2024年5月27日現在)
アクセス
ゆいレール首里駅より徒歩約15分
市内線1番・17番、市外線46番
首里城公園入り口バス停下車 徒歩約5分
首里城下町線8番
首里城前にて下車 徒歩約1分
参考:『玉陵』た(沖縄市) https://www.city.naha.okinawa.jp/kankou/bunkazai/tamaudun.html
玉陵(タマウドゥン) [世界遺産][国指定重要文化財][国指定史跡]
「玉陵」は第二尚氏王統歴代のお墓です。
1501年 尚真王は見上げ森(ミアギムーイ)に葬られていた父尚円王の遺骨を移葬するためにここに築きました。
歴史書「琉球国由来記」には、「玉陵碑」が建立された1501年を玉陵の創建年と記されています。
自然の崖を掘り、その前面に基壇を設けて石積みされ屋根は黒色の平瓦段葺としています。
墓室の前には、往時の首里城正殿前の石欄(せきらん)を思わせる鳥獣花などを彫った石欄が取付けられています。
また、墓全体は石垣で囲まれて外庭と内庭に区画されており、庭には洗浄の意味で珊瑚砂が敷かれています。
沖縄戦で破壊されましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ復元修理が行われ、1972年国指定文化財(史跡)となりました。
国王が亡くなると中央にあるシルヒラシという部屋に数年間遺体を放置します。
その後何年か経て骨だけになると、きれいに洗骨され厨子甕(ずしかめ)に入れられ東側の部屋におさめられました。
東側の部屋には国王だけでなく、王妃、世子、世子妃が葬られ、西側の部屋にはそれ以外の家族が移葬されました。
※玉陵の見学には別途観覧料金がかかります。
参考:『玉陵(タマウドゥン) 史跡をめぐる』国営沖縄公園 https://oki-park.jp/shurijo/shuri-aruki/siseki/2014/03/post-72.html
参考動画:『【若一調査隊】《沖縄SP第1弾》焼失した首里城の今…そして歴代国王が眠る世界遺産「玉陵」の秘密に迫る!』読売テレビニュース ←後半部に玉陵
琉球王国は二つの王統に分かれる。すなわち第一尚氏王統(1429年~)と第二尚氏王統(1470年)である。
玉陵(たまうどぅん)は第二尚氏の歴代の国王が葬られた場所であり、高い城壁に囲まれている。門をくぐると広い空間が広がり、石組みの要塞のような外観となっている。第二尚氏王統の第3代国王の尚真(しょうしん)が、父の尚円(しょうえん)を葬るために建てた。二代目と七代目を除く19代目までの国王や妃・親族など70人の遺骨を葬った。堂の左右にはそれぞれ東(あがり)の御番所(うばんじゅ)・西(いり)の御番所(うばんじゅ)(現存せず)と言う見張り所があるなど、一般人は入れない神聖な場所であった。
このあたり一帯に日本の陸軍の地下壕があったため、集中的に攻撃されかなり崩壊してしまった。しかし、石造りだったため、後からバラバラになった石を組み合わせて70年代に再建できた。玉陵碑には沖縄戦の銃弾跡が残されていて地上戦の生々しさが伝わってくる。沖縄のお墓は屋根の付いた石造りの破風墓(はふばか)で街中でよく見かけられるが、その出発点が玉陵である。玉陵は、現存西湖で最大の墓である。加工のしやすい琉球石灰岩で作られ、屋根もすべて石である。元々あった崖を掘り込んで琉球石灰岩の切り石でくみ上げて建物としている。この半世紀、ほとんど中に人は入っていない。建物は3つに分かれ、東室、中室、西室と呼ばれ、中室に亡くなった王の遺体を収めて1年以上安置して骨になるのを待つ。白骨化した状態で遺骨を洗骨(洗い清める)する。陶器の蔵骨器(厨子甕)に遺骨を移して、王様と王妃の遺骨は東室に安置した。西室には王子・王女の蔵骨器を納めた。中室と西室の門は現在門が見えているが、本来は開いた門を現在の東門のように漆喰で塗りつぶして閉じてしまうもの。前庭にはお清めのためにサンゴが敷き詰められている。
玉陵(たまうどぅん)付近に玉陵奉円館がある(大人300円、小人150円)。中には歴代の王家の厨子甕の写真がずらりと展示されている。内部構造としては立体模型が展示されている。
引用「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)は16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、沖縄県那覇市首里真和志町一丁目に位置する。沖縄県指定史跡。
石門の背後にある森が園比屋武御嶽である。この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。王家尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っている。もともとは今よりも広範な森であったが、現在では小学校の敷地となっている部分もあり、残されているのは一部である。
園比屋武御嶽石門
首里城の歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘により創建されたという。
1933年(昭和8年)1月23日に旧国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに荒廃し、指定解除。1957年(昭和32年)に復元され、さらにその後旧石門の残欠を再利用して修復作業が行われた。現在の石門を注意深く見てみると、明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるのは、このためである。園比屋武御嶽石門は1972年(昭和47年)にあらためて国の重要文化財に指定され、2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録された。
また、西塘によって創建された竹富島の国仲御嶽は、園比屋武御嶽の神を勧請した御嶽である。」
参考:『園比屋武御嶽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E6%AF%94%E5%B1%8B%E6%AD%A6%E5%BE%A1%E5%B6%BD
住所
〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志町1-7
電話番号
098-917-3501
ウェブサイト
公式サイトはこちら
アクセス
■那覇空港から 車(一般道)で約 30分
■沖縄自動車道 : 那覇ICから 車(一般道)で約 20分
■路線バス : 首里城公園入口バス停から 徒歩で約 5分
停車バス : 1番首里識名線、8番首里城下町線、17番石嶺開南線、46番糸満西原線
■沖縄都市モノレール : 首里駅から 徒歩で約 15分
備考
駐車場は首里城公園の駐車場をご利用下さい(有料)
参考:『園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)』沖縄県観光情報ウェブサイト https://www.okinawastory.jp/feature/heritage/sonohyanutaki_ishimon
冊封使(さくほうし、さっぽうし)とは、中国王朝の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節をいう。
冊封体制の詳しい内容については冊封を参照。
朝鮮、越南、琉球等の付庸国の国王が新たに即位する際、それを認める勅書等たずさえ、冊封使が派遣され、その国の国王に中国王朝の皇帝から授けられるという形で詔勅、祭文が冊封使から与えられる又は朝貢する際にその勅書を付庸国の使者が受け取ることで中国王朝の皇帝とその国王の君臣関係が成立する。
清国から冊封使の品位は、朝鮮に対しては正三品以上。越南や琉球に対しては正五品以下従七品以上であった。
参考:『冊封使』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81%E4%BD%BF
参考:『冊封』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下においた。当初はムラ社会(シマ)の豪族であったが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には国家の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、他方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であった。
参考:『琉球王国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
1592~1593 1597~1598
16世紀後半、時の大和天下人・豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢するよう薩摩の島津氏を通じて直接これを恫喝したが、王府の財政事情や明の冊封国である事から、要求の兵糧米の半分を差し出すに留まり、残りの兵糧と軍役は薩摩藩が負担した。
参考:『琉球王国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった。
参考:『琉球侵攻』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
1609年4月4日、国王下城。名護親方の屋敷に移った。5日から「城内之荷物御改」すなわち宝物の目録作成が開始された。12 - 13日かかった。16日、崇元寺において、樺山、平田と尚寧王が対面した。5月15日、尚寧王は鹿児島へ出発した。
翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府で家康に、8月28日に江戸城にて秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文に署名させられた。これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首されている。また、琉球王国の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。以降、尚氏代々の国王と三司官は琉球処分までこれらの義務を継承した。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、那覇に在番奉行所を置いて琉球王国を間接支配するようになる。
以後、中城王子(王世子)の薩摩への上国、および尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球王国と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が掌握するようになった。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、王国に清帝国使節が来た際に用いる中華風のものを着させた。
参考:『琉球侵攻』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
清の使者が来訪する際には、日本的なものをすべて隠した。例えば、日本人墓なども崩して土にもどし、使節が帰国したのち再度掘り起こすなど、徹底していた。
謝恩使(しゃおんし)とは、東アジアにおいて朝貢国または属国の国王が即位した際に、宗主国に対して謝恩のために派遣する使節をいう。
慶賀使(けいがし)は、ある国(または藩)に慶事があった際に別の国(または藩)から慶賀のために派遣される使節のことである。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。
清の冊封を受けていた琉球王国は皇帝即位の際に慶賀使を派遣していた。
江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節のこと。
江戸上りは、薩摩の琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。これらには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。
江戸に「上る(のぼる)」という表現は琉球が下で江戸が上であるという前提に立つため、近年は、史料で多く見られる「江戸立」(えどだち。江戸立ち、とも書く)という表記が広まりつつある。
なお、1872年に明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。
1853年(咸豊2年・嘉永5年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。黒船は翌1854年(咸豊3年、嘉永6年)にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇を開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。
翌年の1855年(咸豊5年・安政2年)11月には琉仏修好条約が、1859年(咸豊9年・安政6年6月7日)7月には琉蘭修好条約が締結された。
参考:『琉球王国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
琉米修好条約(りゅうべいしゅうこうじょうやく、英語: Convention between the Lew Chew Islands and the United States of America)とは、1854年7月11日(咸豊4年・嘉永7年6月17日)に琉球王国とアメリカ合衆国が締結した条約。
正式名称は「亜米利加合衆国琉球國政府トノ定約」である。
産業革命後、欧米諸国による東アジアへの展開が進む中で沖縄は日本本土への拠点とみなされ、1853年5月26日にはマシュー・ペリーの率いる艦隊が那覇港に来航した。沖縄では水路調査や奥地探検を行うとともに、首里城への訪問も行った。
近世の琉球王国では1704年に薩摩藩から中国船・朝鮮船・西欧船(スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ)を対象とする「宝永元年御条目」が布達されていたが、欧米船の来航増加に伴って嘉永期と安政期に改正されていた。また、欧米船の来航時、琉球王府は正式な外交交渉を避けるために偽名と偽官を用いた虚構組織で対応を行っていた。ペリーの来航と首里城への強行訪問においても、摩文仁按司朝健が「尚大謨」の名と「総理官」の官職名、向如山(棚原親方朝矩)が「馬良才」の名と「布政官」の官職名で対応を行った。
ペリーは計5回にわたって那覇に寄港した。ペリーは琉球占領計画をもっており、1854年1月25日に本国政府に進言したが、フランクリン・ピアースの新政権の同意を得られず、海軍長官のドビンは当惑せざるを得ないと否定した。ドビンの返信は当時の郵送事情から琉球との交渉後に到達した可能性もあり交渉への影響は不明であるが、ペリーには日本に琉球開港を認めさせるか、琉球と独自にTreaty(条約)を調印する二つの選択肢があったとされる。このうち日本に琉球開港を認めさせる選択肢は、1854年3月17日にペリーが林復斎らと会談した際、日本側から琉球が遠く離れた地にあるとして明確な回答を避けられたため頓挫した。一方、琉球と独自にTreaty(条約)を調印する選択肢について、ペリーの『遠征記』によると琉球側は中国に対してassumption(不遜な)行為にあたる表現を避けたいとし、琉球側の『琉球王国評定所文書』にも反対の経緯が記されている。
そのためTreatyの文言は避けられ、1854年7月11日にペリーと琉球側代表(尚宏勲ら)の間で文書が調印された。
参考:『琉米修好条約』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
琉球は、ペリーが初めて琉球に来たとき、宗親国の中国の許可を得るまでは調印できないと常套手段で突っぱねようとしたが、ペリーはその中国が米国と不平等条約を既に結んでいるのを熟知しており、強硬に出て、ついには不平等条約を結ばせた。その当時、日本はまだ米国と不平等条約を結んでいなかったが、琉球は対外的には徹底的に日本の支配を受けていることを秘匿していたため、日本の許可を得ないと条約を結べないという逃げの策を取れなかったという。
琉球藩琉球藩(りゅうきゅうはん)は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩。藩庁は首里城(沖縄県那覇市首里)。藩王は第二尚氏。
琉球藩の設置に先立って日本では全国的に1869年(明治2年)の版籍奉還により諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)の返還、さらに1871年(明治4年)の廃藩置県と、中央集権化が進んでいた。この時点ではまだ、琉球王国は薩摩藩および後身の鹿児島県の付庸国であり続けたが、明治政府としては琉球についても版籍奉還させることを意図していた。
廃藩置県の翌年の明治5年9月14日、琉球国王尚泰は明治政府の命により尚健(伊江朝直)と宜野湾親方朝保を慶賀使として東京に送る。明治天皇により尚泰を「琉球藩王」に任じ、華族に列する詔勅を尚健が代理で受ける( 『琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔』)。天皇より尚泰に下賜金があり、また旧薩摩藩への負債も明治政府が肩代わりすることになった。以上により琉球は鹿児島県付庸国から明治政府の直轄地となり、琉球藩が設置された。
明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。清は琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。
尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、1879年(明治12年)、明治政府は尚泰を東京の尚家の侯爵邸に移動を命じた。これにより名実ともに廃位となり、琉球王国は滅亡した。明治政府は内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣し、琉球藩を廃止して同年中に沖縄県を設置した。
参考:『琉球藩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%97%A9
北京議定書(ペキンぎていしょ)は、1901年9月7日に北京で調印された、義和団の乱における八カ国連合軍と清・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。
日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約(しんちゅうじょうやく)、辛丑和約(しんちゅうわやく)ともいう。英語圏ではBoxer Protocolの呼び名が一般的である。
この議定書は、列強国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で認められ、首都北京を占領された清朝(西太后・李鴻章)はこれを呑まざるを得なかった。そのうちでも公使館周辺区域の警察権を列強国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列強国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列強国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。この状況は第二次世界大戦の終了まで事実上維持された。
義和団の乱の再発を列強国が恐れたための内容であるともいえる。清朝国内での警察権・駐兵権にとどまらず、排外団体結成禁止、地方官吏への排外団体取締りの厳命、それに背いた場合の罰則なども盛り込まれている。また、外国人殺害のあった市府の科挙受験禁止などは中国ならではの厳しい見せしめ政策であったといえよう。
北京議定書で清朝に定められた賠償金4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という額は、年間予算1億両足らずであった当時の清朝には、まさに天文学的な要求であった。さらにその賠償金の支払い源も海関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されていた。
その後、清朝はこの支払いを履行したが、莫大な拠出はその後の改革(光緒新政)の施策を限定せざるを得ないこととなり、かつ侵略を防ぐためとして投資対象が軍備優先となったために、北洋軍の総帥である袁世凱の権勢をさらに増大させることとなった。また、改革遂行のためにさらに列強国や外国資本銀行の借款に頼り、外国への依存を更に強めることとなった。民衆へは税の増額という形で負担がのしかかり、さらに困窮にあえぐこととなり、清朝への不満が高まった。賠償金は1912年に清朝が滅亡した後も、清朝を引き継いだ国家とみなされた中華民国にそのまま負わされ、中央政権が軟弱な基盤しか持ちえなかった理由の一つとなった。
列強国も清朝や中華民国が賠償によって苦しむ姿を見て、国際社会の批判や自国の中国権益減少を恐れ、第一次世界大戦前後から賠償金の緩和をたびたび行った。特に20世紀初頭に中国接近の度を強めていたアメリカは、1908年に条件付きの減額に応じ、その減額分を米国に向けた留学生援助として、北京での留学予備校の設置と経営に充当させた。これが現在も北京にある清華大学である。
結局1938年までに6億5千万両が列強国に支払われ、ようやく賠償は終了した。
参考:『北京議定書』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県。政府は,明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とした。 1875年には内務官僚松田道之を処分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求するなど,政府の処分の方針を伝えた。政府のこの措置に対しては,地元の士族層を中心とする反対運動があったが,政府は軍隊と警官を差向けてそれを押え,79年3月,琉球藩を廃し,沖縄県を設置する旨通告した。旧国王は東京移住を命じられ,ここに琉球王国は約 500年にわたる歴史を閉じて,日本の一県として措定された。 (→琉球 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1871年(同治9年・明治4年)、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年(同治10年・明治5年)には琉球藩を設置し、琉球国王・尚泰を琉球藩王に陞列して侯爵とした[29]。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、尚泰侯爵は従わなかった。そのため1879年(光緒4年・明治12年)3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉し、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ[、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。地位を失った琉球の王族は日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への分島問題先島が提案され、元アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は頓挫、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって、琉球全域に対する日本の領有権が確定した。
参考:『琉球王国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
琉球王国は清から授けられた名前だったので改名。
第2次世界大戦中,日米最後の離島戦闘。日本軍は牛島満中将指揮下の第 32軍 (9万 5000人) と,太田実少将を司令官とする海軍部隊で沖縄を守備していたが,1945年4月1日,チェスター・W.ニミッツ大将指揮下に 1300隻の艦艇を率いる6万人のアメリカ軍が嘉手納 (かでな) 海岸に上陸,日本軍無抵抗のまま橋頭堡を確保。以後サイモン・B.バックナー・ジュニア中将を中心とするアメリカ陸軍第 10軍が沖縄進攻作戦 (作戦名は Iceburg) を遂行。4月4日,首里を中心とする日本軍防衛線で戦闘が起こり,4月7日には 355機の日本特攻機,340機の通常型機による空襲とともに,戦艦『大和』が巡洋艦『矢矧 (やはぎ) 』,駆逐艦8隻を随伴して沖縄海面に出撃したが,『大和』はアメリカ艦載機の攻撃を受けて沈没。5月3日から4日にかけて首里前面において第 32軍は総反撃に出たが失敗。5月 11日から 31日にかけてアメリカ軍が攻勢に出て,南部に退却した日本軍の頑強な抵抗を排除しつつ前進した。6月 23日,牛島中将は参謀長の長勇中将とともに摩文仁 (まぶに) 高地の洞窟司令部で自決,日本守備隊の組織的抵抗は終わった。この戦いで日本軍は航空機約 4000機を失い,7600人が捕虜となり,守備隊は全滅,民間人の死傷者 10万人以上,このなかには「ひめゆり部隊」の犠牲も含まれている。アメリカ軍は艦艇 36隻と航空機 763機を失い,陸軍が戦死 7374人,負傷3万 2056人,海軍が戦死 5000人,負傷 4600人の損害を被った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
第2次世界大戦の末期に,沖縄決戦にそなえ,沖縄県立師範学校女子部の生徒 150人,県立第一高等女学校の生徒 50人および両校教師 15人で構成された女子部隊。 1945年3月 23日動員令が下り,南風原陸軍野戦病院へ出動,4月1日アメリカ軍上陸に続く戦況悪化のなかで,一部は沖縄本島最南端部までアメリカ軍に追われて集団自決をとげた。沖縄戦終了時までの戦死者 167人。集団自決地の糸満市伊原に慰霊塔が建てられている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
アメリカによる沖縄統治の主要機関。アメリカは沖縄占領後まず軍政をしいたが,1950年 12月5日の極東軍総司令部指令 (スキャップ指令) により琉球列島アメリカ民政府を設立。対日講和条約発効後も沖縄は引続きアメリカの統治下におかれることとなったが,これに伴いアメリカは,57年6月5日の大統領行政命令により,国防長官の管轄のもとに高等弁務官を長とする民政府機構を確立,この体制は 72年5月 15日の復帰まで継続した。民政府には民政官のほか 11の局がおかれ,沖縄住民により構成される琉球政府を指揮監督する間接統治の形をとった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
米軍統治下の沖縄住民側の自治機関。1952年(昭和27)4月1日、琉球列島米国民政府布告に基づき創立。司法、立法、行政の三権分立の形式を備えた自治機構であるが、最終的権限はあくまで米国民政府(民政副長官のち高等弁務官)が握っていた。立法院の議員以外は行政主席、上訴裁判所判事とも任命制であったが、沖縄住民の自治権拡大運動によって68年11月に主席公選が実現した。72年5月の日本復帰によって廃止、沖縄県に移行した。[大城将保]
『照屋栄一編『沖縄行政機構変遷史料』(1982・自費出版)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本に駐留するアメリカ合衆国軍隊のこと。日米安全保障条約(1960年〈昭和35〉締結)第6条に基づき「日本国において施設及び区域を使用する」権利を有し、その地位は「日米地位協定」(「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」)によって規律される。「在日米軍」というのは軍事的にはきわめてあいまいな概念であり、その定員、規模、軍種が特定されているいわゆる「部隊」として存在しているものではない。「在日米軍」というのは、日本の施政権下の領域にいる限りの米軍のことであり、米軍のある部隊が日本の施政権下の領域に入れば、それは「在日米軍」となり、また、その領域から離れれば「在日米軍」ではなくなるという便宜的なものである。在日米軍司令部(横田基地・東京都)が存在するが、それは主として軍政的な機構であって、「在日米軍」の全部隊に対する作戦指揮権はもっていない。さまざまな米軍の諸部隊が、それぞれ指揮権をもつ上部の司令部の作戦指揮系統下にあって、それぞれの任務遂行のために日本に駐留しているというのが「在日米軍」の実体である。
在日米軍の兵力規模とその部隊の構成は、(1)米国のその時々の軍事戦略の変化とそれに基づく戦力の前進配置の変更、(2)米軍の戦力を補完する日本の自衛隊の戦力の増強と、それに伴う軍事責任分担の拡大、などの要因によって変化してきたし、また、今後も変化する。
在日米軍の任務は、単に「日本の防衛」のみならず、さらに広くアジア・太平洋戦域および中東・インド洋戦域における米国の権益擁護にあり、究極的には米国本土防衛のための「西の防衛線」(ジョーンズ米統合参謀本部議長)確保にある。事実、過去において在日米軍は三度にわたる戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争)に出動し、現在では軍事演習に際し、北はオホーツク海、日本海から朝鮮半島、東シナ海、タイ、フィリピン、そして南はオーストラリア、インド洋、中東に至るまで在日米軍の部隊を展開している。
在日米軍司令官は米第5空軍司令官(空軍中将)が兼務し、平時には在日米陸軍司令官(司令部はキャンプ座間(ざま)・神奈川県)および在日米海軍司令官(司令部は米海軍横須賀(よこすか)基地・神奈川県)に対する調整権をもっているだけである。また在日米軍司令官は、日本における米国の軍事代表として、防衛省および他省庁との折衝を行うとともに、外務省との間で日米地位協定の実施について調整を行う責任をもっている。なお、在日米軍司令官は、「日本有事」の場合、在日米軍の部隊に対する指揮権をもつとされている。
在日米軍の諸部隊の主力は、ハワイに司令部を置く米太平洋統合軍(PACOM)の指揮下の部隊である。
空軍は、太平洋空軍司令官(司令部はハワイ)指揮下の第5空軍司令部を横田基地に置き、そのもとに実戦部隊として第18航空団(嘉手納(かでな)基地・沖縄県)と第35戦闘航空団(三沢(みさわ)基地・青森県)、そして、第374空輸航空団(横田基地・東京都)を配置している。また、第82偵察飛行隊(E-3A空中指揮機)も嘉手納基地に配備している。
海軍は、横須賀軍港と佐世保(させぼ)軍港(長崎県)、那覇(なは)軍港(沖縄県)、ホワイト・ビーチ(同前)をもち、米第7艦隊の支援任務をもつ部隊を配備している。また、米第7艦隊の旗艦ブルーリッジ、空母インディペンデンス、第15駆逐戦隊艦艇の母港として横須賀を、海兵隊の強襲揚陸艦の母港として佐世保を使用している。これら第7艦隊の兵員は在日米海軍の兵員数のなかには含まれていない。さらに、嘉手納基地と三沢基地に配備したP-3C対潜哨戒(しょうかい)機部隊を指揮する第7艦隊哨戒・偵察部隊/第1哨戒航空団司令部を上瀬谷(かみせや)基地(神奈川県)に置いている。
海兵隊は、第3海兵機動展開部隊司令部(キャンプ・コートニー、沖縄県)指揮下に、第3海兵師団(司令部は同前。歩兵2個連隊と砲兵1個連隊)と第1海兵航空団(司令部はキャンプ瑞慶覧、沖縄県)を置いている。同航空団の戦闘機・攻撃機部隊は岩国基地(山口県)、ヘリコプター部隊は普天間(ふてんま)基地(沖縄県)に配備している。
陸軍は日本に実戦部隊を配備しておらず、第9戦域陸軍地域コマンドをキャンプ・座間に置いている。
太平洋統合軍以外の部隊として、嘉手納に第353特殊作戦軍(空軍)、横田に機動空軍の部隊、トリイステーション(沖縄県)に陸軍特殊作戦部隊(グリーン・ベレー)、三沢、楚辺(そべ)(沖縄県)の両基地に情報収集部隊を配置している。[松尾高志]
『防衛庁編『防衛白書』各年版(財務省印刷局)』▽『朝雲新聞社編『防衛ハンドブック』各年版(朝雲新聞社)』▽『梅林宏道著『在日米軍』(岩波新書)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
1952年に発効した対日講和条約によってアメリカ合衆国の統治下に置かれた沖縄は,沖縄返還協定が調印された翌 1972年5月15日,27年ぶりに日本に返還された。第2次世界大戦(太平洋戦争)の戦場(→沖縄の戦い),占領下,戦後の軍政下(→琉球列島アメリカ民政府,沖縄米軍用地問題)と沖縄の苦難は続き,沖縄住民の祖国復帰運動は粘り強く続けられた。1960年沖縄教職員会を中心とする沖縄県祖国復帰協議会の結成,1965年佐藤栄作内閣総理大臣の沖縄訪問を経て,1969年11月2日のリチャード・ミルハウス・ニクソン大統領との会議で,「核抜き本土並み」の 1972年返還を約した日米共同声明(→佐藤=ニクソン共同声明)が発表された。しかし,返還後も在日アメリカ軍の基地は沖縄県土面積の 9.94%(2015.3現在)を占める。基地問題のほか,日米共同声明における有事の際の核持ち込みに関する密約疑惑や,沖縄の経済的自立など,多くの問題が残る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
面積 2282.59km2。
人口 146万7480(2020)。
年降水量 2040.8mm(那覇市)。
年平均気温 23.1℃(那覇市)。
県庁所在地 那覇市。
県木 リュウキュウマツ(→マツ)。
県花 デイゴ。
県鳥 ノグチゲラ。
南西諸島中ほぼ南半分の沖縄諸島,宮古諸島,八重山諸島などの約 160島からなる県。北端は鳥島,南端は波照間島,西端は与那国島でタイワン(台湾)島と相対し,全体として弧を描いて散在する。東端は琉球海溝を隔てて約 360km離れた太平洋上の大東諸島。島々の地形は「高島」と「低島」に分けられる。石垣島,西表島,久米島のように山地をもつ島が高島で,宮古諸島,黒島,竹富島など低平な台地状の島が低島である。沖縄島は北部に山地があり,うるま市以南は低島型。海岸にはサンゴ礁が発達し,紺青の海と白浜が特徴。全体に亜熱帯気候で冬でも東京,大阪の 4~5月の気温。年間降水量は約 2300mmと多い。7月からの台風シーズンに備えて建物などの周囲には石垣,ブロック塀,屋敷林などがめぐらされ,家屋も堅固な造りでブロック建築が目立つ。
15世紀頃中国との朝貢貿易で活気づき,那覇泊港には大和船の往来も盛んであった。南蛮貿易,中国貿易で富裕になったが,ポルトガル,スペインの東洋進出などの影響を受けて衰退。慶長14(1609)年薩摩藩に征服されてからは多額の税を課せられ,中国貿易の利潤を吸い上げられて苦しんだ。明治5(1872)年琉球王国(→琉球)から琉球藩となり,1879年琉球藩から沖縄県となる。第2次世界大戦末期にアメリカ軍が上陸,激しい戦闘により県民に多くの犠牲者を出したうえ占領(→沖縄の戦い)。1951年サンフランシスコ条約(→対日講和条約)によってアメリカ合衆国の統治下に置かれた。アメリカの軍事的戦略拠点とされ(→在日アメリカ軍),経済は基地に依存し,第3次産業が肥大化した。巨大な基地存在の矛盾は本土復帰運動を高揚させ,1972年日本への復帰を果たした(→沖縄返還)。3次にわたる沖縄振興開発計画にもかかわらず,産業開発の立ち遅れが課題。
西表石垣国立公園,慶良間諸島国立公園,やんばる国立公園,沖縄海岸国定公園および沖縄戦跡国定公園,久米島県立自然公園,伊良部県立自然公園があり,亜熱帯という気候条件や独特の伝統文化と相まって,観光産業の伸びが著しい。戦跡にひめゆりの塔(→ひめゆり部隊),健児の塔などがあるほか,摩文仁丘(まぶにがおか)に各都道府県の慰霊塔が立ち並び,1995年記念碑「平和の礎(いしじ)」が除幕された。1996年にいたってようやく基地の整理縮小の動きが緒についた。2003年那覇空港ターミナルと首里汀良町を結ぶ沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開通したが,県内交通は自動車に大きく依存する。県外および県内主要島とは航空機と船舶で結ばれている。
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沖縄は極東におけるアメリカの軍事上の重要な拠点であり,施政権がアメリカにあったため,用地問題で多くの紛争があった。なかでも 1954年3月にアメリカ民政府は,アメリカ側評価による地価相当額の一括払いによる永久借地権の設定を構想した。これに対し琉球立法院は,地代の一括払い反対,適正補償,賠償,および新規接収反対の4原則を打出した「軍用地処理に関する請願」を決議した。 57年1月,アメリカ極東軍司令官兼民政長官 L.レムニッツァーは地代一括払いの方針を声明,58年6月沖縄代表団が渡米して直接アメリカ政府と交渉し,土地問題再検討を約束させた。そして8月現地折衝を開始し,新方式による妥結を 11月3日に行なった。日本復帰後も,米軍基地はほぼ従来のまま保持され,軍用地は,土地としては地主に返還されず,復帰と同時に沖縄だけを対象とした公用地暫定使用法 (1977年5月 18日以降は地籍法) が適用された。しかし,契約を拒否する地主の問題,戦乱で書類が焼失したりして地籍が不明確になってしまったことなどもあり,軍用地問題は解決されていない。沖縄本島の 18%が米軍施設に占拠されている。
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沖縄美ら海水族館(おきなわちゅらうみすいぞくかん、英: Okinawa Churaumi Aquarium)は、沖縄本島北西部の本部半島備瀬崎近くにある国営沖縄記念公園・海洋博覧会地区(海洋博公園内)の水族館。一般財団法人沖縄美ら島財団が管理・運営している。「チュらうみ」とは沖縄の方言で「清〔きよ〕ら(しい)海」という意味。
完成当初世界最大だった大水槽「黒潮の海」を泳ぐジンベエザメ、ナンヨウマンタなどが人気で、沖縄県の著名な観光地となっている。2005年(平成17年)にアメリカ合衆国のジョージア水族館が開館されるまでは世界最大の水槽を持つ水族館であった。
水族館の周辺には、オキちゃん劇場(イルカショー)など、無料で見学できる施設も整備されている。
参考:沖縄美ら海水族館公式HP https://churaumi.okinawa/
[入場]
入場時間 8:30~18:30(入館締切 17:30)
(延長期間)
・2024年4月27日~5月6日
・2024年7月20日~7月31日
8:30~20:00(入館締切 19:00)
(ナイト期間)
・2024年8月1日~8月31日
8:30~21:00(入館締切 20:00)
(休館日)
・GWならびに2024年7月20日~8月31日の期間中に、休館日はありません。(但し、台風等による臨時休館を除く)
・毎年12月第1水曜日とその翌日に予定している休館日については調整中です。
[料金]
大人 2,180円
中人(高校生) 1,440円
小人(小・中学生) 710円
6歳未満 無料
参考:『沖縄美ら海水族館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%BE%8E%E3%82%89%E6%B5%B7%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8
青の洞窟(あおのどうくつ)は沖縄本島の真栄田岬(沖縄県国頭郡恩納村)にある洞窟の通称であり、地元ではダイビングスポットのひとつとなっている。
奥行きは約30メートル。地元では「クマヤーガマ」と呼ばれ、かつては台風の時などに漁師が船の避難場所として利用していた。「青の洞窟」と呼ばれている理由は、洞窟の入り口から太陽光が差し込み、透明度の高い海水を通過して海底で反射した光が暗い洞窟内の海水面から抜け、それが海底からライトアップされたような効果となり、入り口付近の海水を青い光で満たす仕組みになっているため、洞窟全体が青く染まることに由来する。朝・昼・夕で洞窟内の青色にも変化が見られる。
洞窟は崖の下にあり、単独での遊泳には危険も伴うため、地形を熟知した地元の人間や近隣のダイビングショップなどに案内を依頼するのが無難である。水中洞窟でありドーム天井になっているため、水面をシュノーケリングしながら中に入ることもできる。洞窟は東シナ海へ繋がっており、クマノミなど、南海の生物を観察できる。
『青の洞窟』Wikipediaより引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E3%81%AE%E6%B4%9E%E7%AA%9F_(%E6%81%A9%E7%B4%8D%E6%9D%91)
沖縄本島のちょうど真ん中あたりの恩納村の真栄田岬の崖の下に「青の洞窟」があります。
那覇空港や那覇の国際通りから約1時間、美ら海水族館から約1.5時間で、沖縄観光の中間地点と言えます。
むるぬーしからも車で15分で行ける、アクセスのしやすいアクティビティポイントです。
『沖縄本島人気No.1スポット「青の洞窟」』まりんさーびす むるぬーし https://www.murunu-shi.com/blue-cave/
沖縄県国頭郡恩納村にある名勝地。恩納村のほぼ中央、東シナ海に面した標高約20メートルの琉球石灰岩からなる絶壁で、象の鼻に似た奇岩がある。崖上は芝生台地となっている。沖縄海岸国定公園である。
1726年(尚敬一四)に時の琉球国王尚敬王が国頭巡視の途中に恩納を訪れ、村人が臼太鼓(ウシデーク)でクンシイ毛を披露し、盛大に歓迎した。感動した王がその絶景を「万人を座らせるに足りる」と称賛したことから、万座毛と呼ばれるようになったと言われている。
石灰岩の断崖上は平坦で、風衝草地には主にコウライシバやタイワンカモノハシなどの芝があり、段丘面にある母岩の石灰岩が岩錐状に露出した土壌の少ない立地には、オキナワマツバボタン、ナハエボシグサなどが混生している。 さらに、海岸断崖地(万座毛の北東側の崖地帯)には、生育地が限定され種の分布が生物地理学上重要視されているハナコミカンボク、オキナワスミレなどの沖縄の固有種が生育している。また、海岸林地植物群落があり、モクマオウやリュウキュウマツなどの常緑高木や、タラノキやオオイタビなどの常緑低木が分布している。
万座毛周辺では道路、駐車場および売店が整備されていたが、2020年10月2日に万座毛株式会社が運営する「万座毛周辺活性化施設」がオープン、館内に売店が移転し、その他フードコート、展望台などが設けられている。また、これ以後、万座毛の園地への入場が有料化され、小学生以上1人100円が必要となっている。2022年の訪日外国人インバウンドを対象とした調査では、1位の「沖縄美ら海水族館」に続き、景勝地の万座毛が2位となった。
ゴジラ対メカゴジラ - 怪獣キングシーサーが眠っていた。
参考:『万座毛』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%BA%A7%E6%AF%9B
真栄田岬(まえだみさき)は、沖縄県恩納村真栄田区にある岬である。万座毛と同じく琉球石灰岩で形成される断崖が連なり、隆起サンゴ礁が三角に突き出し、崖下には入り江と岬、深い青色の海が広がっている。岬にある洞窟は、青の洞窟 (恩納村)としてよばれダイビングスポットとなっている。 悪天候の場合は遊泳禁止となる。
真栄田岬の公式ホームページでは本日の海の状況を確認でき入水の可、不可が分かる。冬にはクジラを見ることもできる。
真栄田岬Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%A0%84%E7%94%B0%E5%B2%AC
真栄田岬公式ホームページ本日の海の状況 https://maedamisaki.jp/sea-status
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東南植物楽園は沖縄県にある南国特有の植物を多く集めた植物園です。植物の種類は約1,300種あり、一日中植物の鑑賞をしても飽きることがありません。エリアは「水上楽園エリア」と「植物園エリア」の2つに分かれており、それぞれに見どころとなるスポットがいくつもあります。
『東南植物楽園の魅力を徹底レポート!イルミやデート、おすすめスポットまで一挙紹介』アソビュー!(遊べる場所を紹介・予約可能なサイト) https://www.asoview.com/note/1157/#:~:text=%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%A4%8D%E7%89%A9%E6%A5%BD%E5%9C%92%E3%81%AF%E6%B2%96%E7%B8%84,%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%A4%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
東南植物楽園公式HP https://www.southeast-botanical.jp/
沖縄県那覇市にある空港。国内線の基幹空港で、空港法第4条第1項第6号に該当する空港として政令で定める空港(国管理空港)に区分される。隣接する航空自衛隊那覇基地(英: JASDF Naha Air Base)の施設が併設されている。
滑走路は3000m×45m、2700m×60mの2本。那覇空港旅客ターミナル、貨物ターミナルの2つのターミナルがあり、県内の離島、本土、海外を合わせて30以上の路線が就航している。日本トランスオーシャン航空、琉球エアーコミューターが当空港を拠点としている上に、また観光客が多いことから繁忙期は日本航空や全日空を中心に臨時便が多くなる。第2滑走路の南端部は豊見城市域になる。
まれに当空港周辺が悪天候などの理由で、民間旅客機が一時的に嘉手納飛行場に着陸する事がある。しかしその時は乗客は機内から出ることはできず、天候の回復や燃料の補給を待って那覇空港へ向けて再び離陸する。
国内の通常の空港は朝6時~夜11時までしか使えないため、例えば夜8時頃以降に空港に荷物が到着すると当日中に発送ができず、翌朝6時まで待つことになる。これに対し、那覇空港は24時間発着が可能な空港であるため、那覇空港を使うとアジアの空港に深夜に発送ができ4時間程度で荷物を届けることができる。この貨物輸送があるために、那覇空港は深夜3時頃が一日のうちで最も忙しくなる。
2017年度の年間利用客数は2116万1,683人(国内線1752万4,761人、国際線363万6,922人) で、着陸回数は日本の空港で第5位、旅客数は第6位、国内線だけで見ると着陸回数は第2位、旅客数は第4位となっている。民間旅客機や貨物機、自衛隊機などを合わせた着陸回数は8万3189回(2016年度)で、滑走路1本あたりの密度は、福岡空港の8万7198回に次いで2番目に多く、10年連続最多を更新した。沖縄観光の好調さから国内、海外路線とも順調に増えていることが要因となっている。需要予測では今後10年以内に旅客増加に対応できなくなると予想されている。(2023年の利用客数(17,389,715人)
→<https://www.cab.mlit.go.jp/wcab/file/xlsx/riyousyukei202312.xlsx>)
参考:『那覇空港』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E8%A6%87%E7%A9%BA%E6%B8%AF
国際通り(こくさいとおり、こくさいどおり)とは、那覇市の県庁北口交差点(パレットくもじ前交差点)から安里三叉路までの約1.6kmの通り。沖縄県で最も賑やかな通りであり那覇最大の繁華街である。
「国際通り」の読み方は、沖縄県内や国の機関(国土交通省など)を含め一般的には「こくさいどおり」と呼ばれているが、通りの入り口には「こくさいとおり」と彫られたシーサーの石碑がある。
那覇の中心部を通る沖縄県道39号線の一部であり、沖映通りやマチグヮー商店街などとともに商業エリアになっている文化的な中心地でもある。沖縄戦後、那覇の中心部は戦前に整備された新県道(牧志街道)周辺から復興が始まったが、ここには1948年に建設されたアーニーパイル国際劇場があったことから「国際通り」と呼ばれるようになった。戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼ1マイルであることから、『奇跡の1マイル』とも呼ばれている。
国際通りではイベントとして首里城祭(琉球王朝絵巻行列)が開催されている[4]。国際通りでは、トランジットモールの拡充、無電柱化、ポケットパークの設置などの取り組みが行われている。
なお、地元住民の生活にかかわる商店街はその裏手の平和通りや「沖縄の台所」とも呼ばれている牧志公設市場など、この通りに隣接している(国際通りからの入口は、通りのほぼ中間地点に当たるむつみ橋交差点周辺)。
1933年(昭和8年)に旧那覇市中心部と首里市を最短距離で結ぶ県道の一部として整備され、「新県道」あるいは「牧志街道」と呼ばれていた。郊外の一本道で、人家は少なく畑や湿地帯が広がっていた。
太平洋戦争末期の沖縄戦で繁華街は焦土と化した。牧志街道も例外ではなかった。
沖縄戦後、米軍によって従前の那覇の中心地(現在の那覇市西・久米・辻付近)が接収されてしまい、人々は行き場を失っていた。まず、壺屋地区の窯業業者たちが産業復興を名目として入市。続いて牧志地区の瓦職人たちも入市が認められた。ほかの人々もみな窯業関係者や職人の親戚縁者を名乗って市内に入り始め、壷屋から牧志にかけてのガーブ川周辺や新県道近くに居ついて自然発生的に闇市が広がった。芝居小屋が建ち、1948年(昭和23年)には、米軍の物資集積所があった新県道沿いの土地に琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニーパイル国際劇場」という映画館が開館(現在のてんぶす那覇付近)。連日大変な賑わいを見せた。映画館にちなんで「国際通り」の名が定着した。。
1953年の牧志街道改修工事を契機に店舗が多数集まり、大繁華街を形成。このころより沖縄復興のシンボルとして「奇跡の1マイル」と称されるようになる。1マイルは国際通りの長さを表す。
デパートなどの大店舗が集まる繁華街であったが、地域の繁華街としての役割は次第に周辺部へ移行し、大型ショッピングセンターは駐車場を確保できる郊外に、生活に密着した店舗はその裏通りにある平和通りやその周辺に移行した。国際通りの方は、その名が著名になるにつれ観光客が増え、店舗も次第に観光客向けのものが増加。那覇新都心など周辺地域の開発もあり、現在では沿線事業者の大部分は土産物店や有名飲食店、ホテルなどであり、ほとんどが観光客向けの通りの様相を呈している。また、同系列の店舗で2号店・3号店などが同じ通り上に乱立している。しかし、その戦略故に新型コロナウイルスの世界的流行による観光客の急減が直撃した形となり、多くの店が臨時休業や閉店に追い込まれた。
国際通りWikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%9A%E3%82%8A
斎場御嶽(せーふぁーうたき[1]/サイハノうたき)は沖縄県南城市知念にある史跡。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称である。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。
敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数ある。 3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョウノハナ(京の華)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされる。
なお、三庫理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がない。これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だった。なお、三庫理内部が立入禁止になったため、現在は久高島遥拝所も立ち入ることができない。
文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口(うじょーぐち)を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。
2000年12月、首里城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。また、国の史跡、沖縄県指定名勝にも指定されており、御嶽内で出土した陶磁器と勾玉などは「沖縄県斎場御嶽出土品」の名称で国の重要文化財(考古資料)に指定されている。
周囲の森林は沖縄本島南部におけるもっとも優れた森林の一つで、シダ植物やラン科植物などに珍しいものが多い。本島中南部は第二次世界大戦において被害を受けそれ以前の状態を残した場所がほとんどないが、この地域は戦災を免れた。しかし、いくつかの艦砲弾着弾跡があり、一つは見学道から見ることができる。2000年代以降御嶽周辺が整備され、森林に荒廃の様子が見られる。
参考:『斎場御嶽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E5%A0%B4%E5%BE%A1%E5%B6%BD
入場券売場と斎場御嶽の入口は約500m離れており、移動は徒歩になります。(7分~10分)
車イス・ベビーカー等では入場できません。斎場御嶽内は石畳で滑りやすくなっており、急な傾斜や階段がございます。
御嶽内の石畳参道保全、およびお客様の安全の為、ハイヒール等かかとの高い履物でお越しのお客様は、斎場御嶽入口(緑の館・セーファ)にて、無料貸出の履物にお履き替え下さい。
三庫理入口より奥は立ち入り制限をしており、一般の参拝や見学の方は立入不可となります。
斎場御嶽は神聖な祈りの場所です。肩や背中・お腹(ミニスカート・短パン・キャミソール)など過度な肌の露出は控えた服装でご来訪ください。
スマートフォンや携帯電話の画面を見ながらの歩行は大変危険ですのでご遠慮ください。
動植物・石など持ち込みおよび持ち出し不可となります。(盲導犬などの補助犬は除く。)
※気象注意報・警報が発令された場合は入場制限を行う場合がありますので、予めご了承ください。
入場料
大人(高校生以上) ¥300
小人(小・中学生)¥150
6歳以下 無料
団体(大人20名以上)¥200
開館時間
3月〜10月 9:00 ~ 18:00
最終チケット販売 17:15 / 最終入場 17:30
11月~2月 9:00 ~ 17:30
最終チケット販売 16:45 / 最終入場 17:00
参考:『琉球王国最高の聖地 世界文化遺産 斎場御嶽』公式HP
琉球王国中山首里(現在の沖縄県那覇市)にあり、かつて海外貿易の拠点だった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園になっている。
第二次世界大戦中に焼失後、1992年に柱・壁・瓦など朱色を基調として再建された。しかし、2019年10月31日に正殿など主要7棟が火災で焼失し、その後復興作業が進められている。
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが[8]、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設によりほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが朱色を基調とした形で完成した。
1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、首里城跡(しゅりじょうあと)として「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されたが、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。
2019年10月31日未明の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が焼失または焼損した。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵(たまうどぅん)、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。
参考:『首里城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E
参考:『首里城公園 首里城』公式ホームページ https://oki-park.jp/shurijo/
現在修理中の首里城だが、完成後には、平成の再建によって人口に膾炙した真っ赤な(工業用の朱色)柱の姿ではなく、王家の尚家の『尚家文書』の研究の結果、県北部の久志地域(名護市)で生産される久志魔間切と言う弁柄が使われることが分かったため、令和の復元は若干くすんだ深みのある朱色になる予定だという。正殿の中心部「御差床(うさすか)」と呼ばれる玉座のある部屋に掲げられる額のバックもやはり尚家文書の記載通り、赤から黄色に変更となる。黄色は中国の皇帝一家の色であり、それを玉座の部屋に飾ることは冊封関係を結んだ中国への忠誠を示すものだったと番組は説明している。琉球の工芸品
参考:『歴史探偵 首里城と琉球王国』(NHKオンデマンド) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024138181SA000/
参考:『【若一調査隊】《沖縄SP第1弾》焼失した首里城の今…そして歴代国王が眠る世界遺産「玉陵」の秘密に迫る!』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/HezJvX7SHtI?si=nBzOWXrZwZEKI_Ci
琉球王国は、1429年~1879年まで450年存在した。首里城は国王とその家族などが居城した王宮であり、14世紀ごろに創建された琉球王国の象徴であると言える。行政機関の中枢で、琉球王国最大の木造建造物であった。1992年に首里城公園が国営の記念公園として開園された。しかし、2019年10月31日、原因不明の火災により、正殿を含む9つの建物が被害に遭った。現在、2026年秋の完了を目指して復元工事が公開されながら行われている。
守礼門→西のアザナ→東のアザナ 展望台
戦前の沖縄では、守礼門を含む22件の建造物が国宝であった。首里城では、守礼門・歓会門・正殿・瑞泉門・白銀門が国宝であった。沖縄戦で燃えてしまったため、国宝ではなくなったが戦後復元された。(世界遺産指定は首里城『跡』)
『守禮の國』
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、国王が外出する際に安全祈願を行った礼拝所であり、重要文化財(戦災前は国宝)かつ世界遺産である。かつては門の向こうに森が広がっていて御嶽(うたき)と呼ばれる聖域があった。
沖縄戦時には、首里城の地下に第32軍司令部が地下30mに1000m以上の地下道を作って司令本部を移した。そのため「鉄のカーテン」と呼ばれるくらい激しい攻撃に遭い、砲弾が矢のように降ってきた。沖縄戦では約12万人くらいの県民が亡くなった。県民の4人に1人が亡くなったことになる。
沖縄のグスク(城)の特徴の一つとして城壁が曲線が多い。曲面の方が敵を観察しやすいと言われる。また、沖縄では角に悪いものがたまりやすいと考えられているため、邪気を払うため、角を高くして丸みをつけて『隅頭石(すみかしらいし)』を配置する。
漏刻門には水時計が設置され、城内に時を知らせていた。
漏刻門を抜けると政治が行われたり、外国の施設を迎える正殿のあるエリアに入る奉神門がある。門の入り口は3つあり、まん中の門は国王や冊封使(さっぽうし)など身分の高い人しか通れなかった。
奉神門を通ると広い空間の向こうに正殿、空間を囲むように回廊があったが、火災で正殿を含む9つの建物が全焼してしまった。
焼け落ちた建物をよみがえらせようと全国から約61億円もの寄付金が寄せられた。見せる復興をテーマに復元作業が行われている。正殿の工事は建物の中で行われているので、上階から屋根の状態を確かめることもできる。
正殿の後ろにある白銀門をくぐると御内原(おうちばら)と呼ばれる王様のプライベート地区。一番奥の一番高い場所には王の遺体を安置した神廟殿が位置する。王の遺体はここに安置された後、玉陵(たまうどぅん)に葬られる。
神廟殿の背後には高い壁となっており、東のアザナと呼ばれ、展望台となっている。
世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群(かんれんいさんぐん)』の説明は→日本の世界遺産の項へ
正式名称「沖縄都市モノレール線」
沖縄都市モノレール線(おきなわとしモノレールせん)は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。
2023年3月時点で「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線」となっている。
参考:『沖縄都市モノレール線』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%B7%9A#
パティオでの食事、地元産のフルーツやスイーツの買い物が楽しめる見晴らしの良い海辺の一帯。
参考:『瀬長島ウミカジテラス – 沖縄アイランドリゾート』公式HP https://www.umikajiterrace.com/
「日本の“アマルフィ(世界遺産)”とも呼ばれる「瀬長島ウミカジテラス」は年間来島者数330万人を超える沖縄県No.3の観光地「瀬長島」に位置する観光・ショッピングスポット。
南欧を思わせる絶景と共にショッピングやお食事をお楽しみいただけます。」
沖縄県豊見城市豊崎にある水族館。2020年5月25日に開業した[1][2][3]。運営会社は株式会社DMM RESORTS。 メインテーマは「最新の映像表現と空間演出を駆使した新しいカタチのエンタテイメント水族館」。
DMM.comのグループ会社である株式会社DMM RESORTSが企画・運営する施設で、沖縄美ら海水族館に続いて沖縄県で2つ目の水族館。DMMの社内で水族館事業の提案があり、2018年時点で沖縄県への観光客数が好調に推移していたことから沖縄が開業候補地に選ばれた。「美らSUNビーチ」に隣接する、大和ハウス工業開発のショッピングセンター「イーアス沖縄豊崎」の1・2階部に位置している。
「かりゆし」とは沖縄方言で「めでたいこと」や「縁起のよいこと」などの意味[5]。ロゴマークは、沖縄県の県花である「デイゴ」と「珊瑚」を重ね合わせ、「かりゆし」の頭文字「K」を表現している。
沖縄をはじめとした亜熱帯、熱帯の海洋生物や動植物の展示のほか、水槽に最新の映像技術や音響が加わった「リアル海洋体験」を提供しており、リアルとバーチャルが融合した新たなエンターテイメント空間の創出を目指している。
また、専用のスマートフォンアプリで館内の地図や魚種などを知ることができるサービスも提供されている。2021年11月に声優の下野紘、南條愛乃などの館内解説を聴くことができる音声ガイド機能が追加された。
沖縄美ら海水族館との相互誘客キャンペーンも行われている。
参考:『DMMかりゆし水族館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/DMM%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%86%E3%81%97%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8
参考:『DMMかりゆし水族館』HP https://kariyushi-aquarium.com/
沖縄県南城市玉城字前川にある鍾乳洞。広義には沖縄島南部の雄樋川の流域に発達した全長5,000メートルを超える洞窟群をいい、狭義にはこの洞窟群(洞穴群、ケイブシステム)内に位置する前川第6洞をいう。
沖縄島中南部には基盤岩となる第三紀泥岩(島尻層群)の上位に第四紀礁性石灰岩(琉球層群)が堆積する地層が分布し、この地域には多くの洞穴が形成されている。周辺の洞穴群(ケイブシステム)は「玉泉洞ケイブシステム」と呼ばれていたが、1971年の鹿島愛彦と山内平三郎の調査報告により「ユヒ川地下川洞穴」と呼ばれるようになった。
この洞窟群(洞穴群)の一部はおきなわワールドの一部として公開されている。洞窟群(洞穴群)全体は31個余の洞穴で構成されており、このうち「おきなわワールド」内には観光洞の玉泉洞を含めて15余の洞穴が存在する。
観光洞としての玉泉洞(狭義)は長さ約800メートルで、観光用に設けられた歩道の最高所は海抜14.4メートル(観光洞入口付近)最低所は海抜4.7メートル(観光洞出口付近)である[1]。 1972年4月28日に観光鍾乳洞「玉泉洞」としてオープンし、1987年9月には世界初となる洞内エスカレーターが設置された。港川へ流れ出る雄樋川(ゆうひがわ)の河谷の東側、地下30メートルに水流があり、これが洞窟内を流れている。上流では雄樋川から流れ込み、下流では再びこの川に流れ入る。
洞内には、オキナワコキクガシラコウモリ、オオウナギ、ミズギワゴミムシ、オヒキコシビロザトウムシ、オビヤスデ、クロイワトカゲモドキなどが生息する。
旧入道口のトンネル状階段は、洞内の一定した温度条件を利用した古酒(クース)の甕の貯蔵場所として利用されている。
参考:『おきなわワールド』HP https://www.gyokusendo.co.jp/okinawaworld/
沖縄ワールドには玉泉洞の他に熱帯フルーツ園、伝統工芸体験、琉球王国城下町、エイサーショー、ハブとマングースのショー、ハブ動物公園など体験型パークとなっている。
「尚巴志ハーフマラソンin南城市大会は、多くのジョガーから親しまれ、本市と沖縄県を代表するハーフマラソンであり、『尚巴志』は琉球王国を築きあげ大交易時代へと発展させた本市のシンボル的存在です。同大会は、『尚巴志』を生んだ南城市の自然や歴史、文化に触れ、『尚巴志ロマン』を体感することで本市の魅力が県内外へ発信され、地域の活性化に寄与していくことを目的として開催するものです。」
参考:『琉球国王 尚巴志ハーフマラソンin南城市大会』 https://www.shouhashi.jp/
NHK大河ドラマ『琉球の風』(NHKアーカイブス) https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010402_00000
沖縄県,那覇市の西方約 30kmの海上に浮かぶ大小約 30の島嶼群。慶良間海峡より東側の,渡嘉敷島をはじめとする渡嘉敷村に属する島々を前慶良間,座間味島など座間味村に属する海峡の西側の島々を後慶良間という。第2次世界大戦中,アメリカ軍の沖縄上陸作戦ではこの諸島が最初の上陸地となった(→沖縄の戦い)。古生層の山地が多く,耕地は狭い。古くからカツオ漁が盛んで,かつお節を特産していた。景観に優れ,内海は透明度が高く,サンゴ礁は世界でも有数の美しさで知られる。1978年,沖縄海岸国定公園に編入され,2005年に座間味島沖の座間味海域公園地区(1.2km2)と,渡嘉敷島沖の渡嘉敷海域公園地区(2.33km2)の両海域がラムサール条約に登録された。2014年,沖縄海岸国定公園から削除され,島嶼およびその沖合 7kmの海域が慶良間諸島国立公園に指定された。また島嶼沿岸の水深 30m以浅の海域が慶良間諸島海域公園地区に指定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
慶良間諸島 Googleマップリンク(再確認)→ https://maps.app.goo.gl/zCscuQS8N3bLM28L7
沖縄県島尻郡渡嘉敷村に属する島である。那覇の西方約30kmに位置し、慶良間諸島の東端にある。渡嘉敷村の役場が設置されるなど、慶良間諸島を構成する主たる島の一つとなっている。
参考:『渡嘉敷島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E5%98%89%E6%95%B7%E5%B3%B6
沖縄県の慶良間諸島の島。同県島尻郡座間味村に属する。人口は597人、世帯数は358世帯(2019年4月1日現在)。
那覇市の西方約40㎞の慶良間諸島のほぼ中央に位置する。座間味村の主たる島であり、村役場も置かれている。古座間味ビーチや阿真ビーチなど美しい海を求めて、日本国内外から多くの観光客がこの島を訪ねる。また、島内の山や岬にある展望台からの眺望も美しい。太平洋戦争の沖縄戦ではアメリカ軍が最初に上陸した島となるなど、激戦地の一つとなった。
映画『マリリンに逢いたい』は、この島に飼われていた雌犬マリリンに逢うために、対岸の阿嘉島にいた雄犬シロが潮流の速い海を泳いで渡った実話を基にしている。座間味島にはマリリンの像が設置されている。
2021年5月2日には古座間味ビーチの海上でサバニを用いた東京2020オリンピックの聖火リレーが行われた。
参考:『座間味村公式ウェブサイト』 https://www.vill.zamami.okinawa.jp/
参考:『座間味島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%96%93%E5%91%B3%E5%B3%B6
[阿嘉島]
阿嘉島(あかじま)は、慶良間諸島に属する島で、沖縄県島尻郡座間味村に属する。人口は264人、世帯数は163世帯(2019年4月1日現在)。
座間味村の有人島の中で2番目に大きな島で、座間味島の座間味港から南西約3kmに位置する。1998年6月に慶留間島との間に阿嘉大橋が完成し、慶留間島・外地島と一続きになっている。
島の東部の低地に貝塚があり、縄文時代から人が居住していたと見られる。琉球王朝時代の遺跡として佐久原城跡がある。 1945年3月26日、沖縄戦で最初に米国軍が上陸。当時の日本兵の指示により、早くに白旗をあげ降伏。そのため唯一集団自決なく終戦を迎えた島でもある。
[慶留間島]
慶留間島(げるまじま)は、慶良間諸島に所属する島。沖縄県島尻郡座間味村に属する。人口は62人、世帯数は38世帯(2019年4月1日現在)[1]。
集落は一つしかなく、座間味村の3つの有人島の中で最も面積の小さい島である阿嘉大橋で阿嘉島と、慶留間橋で外地島とそれぞれ結ばれている。
参考:『阿嘉島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%98%89%E5%B3%B6
参考:『慶留間島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E7%95%99%E9%96%93%E5%B3%B6
世界でも有数の透明度という慶良間の海は、スクーバダイビングやホエールウォッチングのポイントとして人気が高い。また、ケラマジカは慶良間諸島に固有のシカであり、ここにしか生息しない。このうち屋嘉比島、慶留間島に棲むものは天然記念物に指定されている[9]。周辺の海域、特に発達している裾礁には様々な形態の造礁サンゴが生息しているほか、スズメダイ科(クマノミ亜科を含む)、チョウチョウウオ科、ベラ科の約360種の魚類および絶滅危惧種のタイマイ、アオウミガメ、アカウミガメが生息している
参考:『慶良間諸島」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E8%89%AF%E9%96%93%E8%AB%B8%E5%B3%B6
参考:『慶良間諸島国立公園「ケラマブルー」』環境省 https://www.youtube.com/watch?v=33osONIAIEw
沖縄県西部,先島諸島の東部を占める島嶼群。総面積約 225km2。宮古島を主島に伊良部島,池間島,大神島,下地島,来間島(くりまじま),多良間島,水納島(みんなしま)の 8島と小島計 12島からなる。隆起サンゴ礁に覆われた台地状の平坦な島々で,樹木の茂った山地が少ない。土壌が保水力に乏しく,干魃の危険が大きい。台風の常襲地で,最大瞬間風速 85m/sの記録もあり災害が多い。産業はサトウキビの単作農業が中心で,宮古島,伊良部島,多良間島に製糖工場がある。宮古島の平良港は各離島への航路の拠点。宮古空港,下地島へは那覇から,石垣島,多良間島へは宮古空港から定期航空の便がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
沖縄県西部,日本の南西端にある諸島。宮古諸島と合わせて先島諸島と呼ばれる。石垣島(那覇市から約 410km),西表島,与那国島,竹富島を中心に尖閣諸島など無人島を合わせ 32の島々からなる。行政的には石垣市,竹富町,与那国町に属する。面積は西表島が最大であるが,政治,経済の中心は石垣島で,石垣市に八重山事務所がある。琉球王朝時代,石垣島の北部や西表島に強制的な植民が行なわれたが,マラリアのため失敗。第2次世界大戦後のマラリア撲滅の成功で,1950~57年に沖縄島,宮古島から自由移住者,計画的集団移住者が入植して定着。パイナップル,サトウキビ栽培が普及して豊かな農業地域を形成。琉球王朝時代の名残りをとどめる民謡,舞踊が多く,古代の祭事,行事も伝承されている。亜熱帯の離島で豊かな自然に恵まれ,米原のヤエヤマヤシ群落など 10件の国指定の天然記念物がある。石垣島,西表島,竹富島,波照間島,鳩間島は西表石垣国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
沖縄県石垣市に属し、八重山列島北方の東シナ海中にある。主島の魚釣(うおつり)島(面積3.82平方キロメートル、中国名は釣魚島(ちょうぎょとう)または釣魚台(ちょうぎょだい))、北小島(面積0.31平方キロメートル)および南小島(面積0.4平方キロメートル)を含むグループと、それよりやや北の久場(くば)島(面積0.91平方キロメートル、黄尾嶼(こうびしょ))と、東へ離れた大正島(面積0.06平方キロメートル、赤尾嶼(せきびしょ))とからなるが、いずれも無人島である。1895年(明治28)に閣議決定に基づき日本領に編入する措置がとられたあと、民間人に払い下げられ、魚釣島を中心に羽毛採取やかつお節製造等の事業が一時活発に営まれた。第二次世界大戦後、尖閣諸島は南西諸島の一部としてアメリカの施政権下に置かれたが、1972年(昭和47)沖縄の返還に伴って日本領土に復帰した。ところが、1968年に行われたエカフェ(ECAFE。国連アジア太平洋経済社会委員会)など各種調査団の資源調査の結果、周辺の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性のあることが指摘されてから、尖閣諸島は俄然(がぜん)中国側の関心をひくことになり、1971年以来、中国と台湾の双方が自国領であると主張している。中国による領有権主張の根拠は、中国・琉球(りゅうきゅう)間の航海に関する16世紀以来の文献に、尖閣諸島が記述されていることにあるが、日本は、これらの文献によっても尖閣は航路の目標にされたにすぎないから、1895年の日本の措置は国際法上有効な先占の行為であると反論している。また、「対日平和条約で日本が放棄した台湾」には、尖閣は含まれていない。2012年(平成24)9月11日、日本政府は地権者から魚釣島、北小島、南小島を購入、3島は国有化された。[太寿堂鼎・広部和也]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)