全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
目次
参考:『糸割符』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%89%B2%E7%AC%A6
糸割符(いとわっぷ)とは、江戸時代の日本における生糸輸入の方式である。江戸幕府が特定の商人集団(糸割符仲間)に独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えていた。白糸割符ともいう。
概要
江戸時代初期、日本において最も重要な輸入品は、中国産の生糸(白糸)であった。だが、生糸の輸入に関し外国商人が値段決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要があった。一方、外国商人側も朝鮮出兵の失敗や関ヶ原の戦いの影響によって生じた日本の国内経済の混乱による販売不振に悩まされていた。
そこで幕府は1604年(慶長9年)、御用商人茶屋四郎次郎を主導者として京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。当初3か所であったが、後に1631年(寛永8年)に江戸・大坂を加え5か所となった。当初はポルトガル商人だけであったが、1633年(寛永10年)に中国(明→清)商人、1635年(寛永12年)にはオランダ商人にも適用された。また、1641年(寛永18年)には貿易港としての地位を失った代償として平戸も加えられて6か所となった。後には博多などの平戸以外の九州諸都市にも配分されて従来の5か所から分離され、「分国配分」と呼ばれる規定外の枠組みとされた。
糸割符に参加できた都市(京都・堺・長崎・江戸・大坂)はいずれも天領都市であり、後から参加を許された平戸藩にある平戸の場合も同藩に莫大な収入を与え続けていたオランダとの貿易の権利を幕府が剥奪した代償としては余りに安い対価であった。これは幕府とその影響下にある商人による貿易利益の独占を図ったものであるとも言える。
1655年(明暦元年)中国商人の抵抗(この背景には鄭成功がいたと言われている)を受け糸割符仲間は解散し、市法売買となった。1685年(貞享2年)に復活(ただし、平戸以下の分国配分は復活させず)されて幕末まで続いたが、日本国内における生糸の生産が増加し、輸入生糸の重要性(新しい糸割符制度は日本国内産生糸を保護と生糸の輸入制限の意図を兼ね備えていた)が低下したことから次第に有名無実化した。
糸割符宿老
輸入生糸買い取りの特権をもつ、各地の糸割符仲間の長老をさす。
菱垣廻船と樽廻船 →樽廻船の項もチェック。
樽廻船は、主に日本酒を樽で運び、菱垣廻船はその他の物を運んでいた。
参考動画:『歴史探偵 ニッポン カツオだし浪漫(ロマン)』NHK リンクのちほど
菱垣廻船が発達してこそ、高貴な食であったカツオと鰹節が日本中(特に江戸)の庶民にひろまり、日本の固有の食文化である『和食』が成立したとする。
また、菱垣廻船の始まりが、大坂夏の陣が終わって間もない事にも注目していた。
参考:『菱垣廻船の輸送レース!一刻も早く江戸に届ける!』まっぷる https://articles.mapple.net/bk/24842/
菱垣廻船で競われた「新綿番船」レースの最高記録は?!
開始当初は陸に沿って航海し、期間は約1か月かかりました。ですが年々スピードアップ。1859年にはトップの船が50時間で到達したとの記録が残っています。しかも、この時は3時間の差で3着までがゴールしています。この場合の平均速力は7ノットで、時速にして約13km。また最高では48時間という記録も残されています。
江戸時代には、綿だけでなく酒を運ぶ樽廻船による新酒番船というレースも、西宮から品川までの航路で行われていました。
参考:『菱垣廻船』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E5%9E%A3%E5%BB%BB%E8%88%B9
菱垣廻船(ひがきかいせん)とは、日本の江戸時代に、大坂などの上方と江戸の消費地を結んだ廻船(貨物船)である。当時、存在した同様の貨物船の樽廻船と並び称される。菱垣とは、両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻に装飾として木製の菱組格子を組んだ事に由来する。
概要
江戸時代の1619年(元和5年)に和泉国堺の商人が紀州の富田浦の廻船を雇って江戸へ回航させたのが創始で、多種多様な日常の生活物資を運んだ。1619年(元和5年)に大坂北浜の泉谷平右衛門が250石を積んだ廻船を借り、日用品を江戸に運んだことが始まり。1624年(寛永元年)には、菱垣廻船問屋が5軒完成し、都市部への輸送が活発化した。
1730年(享保15年)、菱垣廻船問屋に属していた酒問屋が、菱垣廻船の使用を停止し新たに酒を主な荷物とする樽廻船での輸送を開始した。輸送時間で勝る樽廻船は、次第に酒以外の荷も運ぶようになり、菱垣廻船と樽廻船は競合した。そのため1770年(明和7年)には積荷の内容による両者の分離が行われ、米・糠などの7品は菱垣廻船と樽廻船の両方、酒は樽廻船、他は菱垣廻船で運ぶという仕法が定められた。しかし樽廻船への積荷はやまず、菱垣廻船は次第に劣勢となっていった。
水野忠邦の天保の改革の一環である株仲間解散で菱垣は撤廃される。
参考:『樽廻船』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BD%E5%BB%BB%E8%88%B9
樽廻船(たるかいせん)とは、日本の江戸時代に、主に上方から江戸に酒荷を輸送するために用いられた廻船(貨物船)である。菱垣廻船(ひがきかいせん)と並び称される。酒樽積廻船、酒樽廻船、樽船とも呼ばれる。
概要
摂津国(現・大阪府と兵庫県の各一部)は、江戸時代以降畿内における日本酒(他所酒)の大産地として発展を遂げた。
その中でも灘(現・兵庫県神戸市、西宮市および芦屋市)をはじめ、伊丹(現・兵庫県伊丹市)、池田(現・大阪府池田市)といった、大阪湾に比較的近い酒処で生産された『下り酒』は、17世紀初頭の時点で早馬による輸送を導入した蔵元もあったと言われるが、多くは大阪湾沿いの湊から大消費地の江戸(現・東京都)まで船で輸送されていた。
荷主仲間の結成
江戸時代中期の1694年(元禄7年)に不正や海難事故防止のために江戸に十組荷主仲間、大坂に二十四組荷主仲間がそれぞれ結成され、一切の貨物は仲間専属の菱垣船に船積みすることにし、船積みから陸揚げにいたる一切の船舶事務は大阪に7軒と江戸に3軒あった菱垣廻船問屋に一任することにし、したがって菱垣船は専ら荷主仲間の貨物に限り船積み運送するものと定められた。
菱垣廻船において酒樽は下積荷物であったが、海難の際に破棄される上積荷物に対する補償は、問屋が共同で負う義務があった。また、腐敗しやすい酒は輸送時間の短縮が重要だったが、多様な荷を乗せる菱垣廻船は出帆するまでに長い日数を必要とした。これらに不満を持つ酒問屋は1730年(享保15年)に脱退し、酒専用の樽廻船問屋を結成し、専用船による独自の運営をはじめた。
船体の構造は菱垣廻船とほぼ同じであるが、菱垣の無い弁才船と呼ばれる和船の一種で、多少深さを増して船倉を広くした。単一の商品(清酒)のみを取り扱うこととし、積み込みの合理化を図ることによって輸送時間の短縮を実現した。樽廻船の迅速輸送が評価されると、余積として酒以外の荷物も安い運賃で輸送するようになり、菱垣廻船と競合していった。競合を避けるため、1770年(明和7年)には酒と米・糠などの7品に限り樽廻船での輸送を認め、それ以外は菱垣廻船でのみ輸送を行うとする積荷協定が結ばれる。しかし協定は守られず、また天保の改革の一環である株仲間解散もあり、樽廻船問屋が優勢となった。
樽廻船の根拠地は灘五郷に作られた西宮や今津といった湊で、その系統に属して明治以後の海運界に活躍したのは、西宮の辰馬家と八馬家である。辰馬は同姓の者が多いが、海運業者として沿革が古く、明治時代に活躍したのは、銘酒「東自慢」の醸造元である辰馬半右衛門であり、大正時代のバブル景気下で成金として財界でも活躍したのが銘酒「白鹿」の醸造元である辰馬本家の辰馬吉左衛門である。どちらも酒造業の傍ら、海運業に従事した。八馬兼助は以前より酒造用米穀の売買・運送と酒類の運送を業としたる者で最初より純然たる船主であり、明治に入って大和船より西洋形帆船、さらに汽船と巧みに産業革命の波に乗って社外船主の雄となった。そのほかに樽廻船系の海運業者として摂州灘酒家興業会社(辰馬汽船、新日本汽船、ナビックスラインを経て現・商船三井)がある。
なお、海路の性格上、天候次第では運行が困難になる場合もあった。1807年(文化四年)7月には、嵐が続いたため酒船の入津が途絶え、江戸市中から酒が無くなったとする記録がある。
1889年(明治22年)、官設鉄道(現・JR)東海道本線が東京の新橋駅から神戸駅まで全通した。それに伴い新橋と大阪駅(後の梅田貨物駅)を結ぶ直通の貨物列車の運転が始まり、高速かつ海況によるリスクなく安定的な輸送ができるようになって、樽廻船は一気に衰退した。
参考:『北前船』Wikipedia
北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称。
買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。
概要
当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。
歴史
江戸時代
江戸時代になっても、経済面で上方(京都や大坂)の存在は大きかった。例年70,000石以上の米を大坂で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、太平洋側の流れの厳しい黒潮に比較して航行が容易な対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。
一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率良く大量輸送するため、河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で、大坂市場は「天下の台所」として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であった。18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて、航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。
また天明5年(1785年)に工楽松右衛門により、飛躍的に丈夫な帆布の松右衛門帆(織帆)が発明された。従来は薄い綿布を重ね縫いした刺帆を使用していたが寿命が短く、この新帆布の登場により航行の長期化、効率化などが可能になり、類似のものも含め急速に普及していった。
しかし北前船は通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国の市川と但馬国の円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川と保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。
明治時代
明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。
明治維新以降の封建制の崩壊(廃藩置県)や電信・郵便の登場は、各種商品相場の地域的な価格差を大きく減じさせ、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、江戸期以降続く北前船の形態は消滅していった。
その後も北前船の船主たちは小樽や函館などを主な寄港地として、北海道のニシンを主な積み荷として北陸と北海道を結ぶ、北前船によく似た航海を明治後期頃まで行っていた。日露戦争において、ロシア海軍の水雷艇が北海道沖の日本海を航行中の右近家所有の弁才船「八幡丸」を拿捕・撃沈した記録も残っている。
名称
北前とは上方の人間が北陸など日本海沿岸の北国方面を指して言う歴史的地域名称であり[4]、北国の物資を運んでくることから北前船と呼ばれた。北陸では北前船のことを「弁才船」と呼ぶが[1]、これは元々、瀬戸内海で発達した弁才船が北国と上方を瀬戸内海で結んだ西廻り航路の発達によって日本海沿岸にも進出していき全盛期の北前船の主力となったことから[4]。
北前船の一年
1年1航海の場合
下り(対馬海流に対して順流)
3月下旬頃、大阪を出帆。
4 - 5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。
5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着。
上り(対馬海流に対して逆流)
7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。
8 - 10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。
11月上旬頃、大阪に到着。
北陸など各地の北前船の船員は、大阪から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大阪に戻ってきた。
北前船の荷
下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。
蝦夷地の人々への飲食品(米や酒、砂糖)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(衣服や煙草、紙、瀬戸内沿岸産の蝋燭)、藁製品(縄や筵)など。また、近畿圏では木綿(大和絣など)・菜種(菜の花)など高級商品を栽培するために、北風家が介入して葛下郡築山村(当初広大な大谷村の一部)で「ぐろ田」法、「くろ田」法、「上げ田」法、「島畠」法、「島畑」法と言われる水田の土あげをして栽培する方法が開発された。司馬遼太郎の「菜の花の沖」の風景は、築山村近隣である、司馬遼太郎の母方の當麻での幼年時代の記憶がベースになっていると言われている。「ぐろ田」法は大和から河内に当初広まり、やがて畿内一円に広まり、北前船の下り荷の内容を助けることとなった。栽培に上り荷の干鰯や鰊粕(商品作物栽培のための肥料)などが大量消費されたことは言うまでもない。
上り荷(畿内方面)
殆どが海産物で、下り荷ほど種類は多くない。鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯などがある。
昆布ロード
日本料理・中国医薬で珍重された北海道の昆布は、北前船で直接または大坂から薩摩藩まで達し、さらに琉球王国経由で清にまで当時鎖国政策中に日本から密輸出されており、薩摩藩の大きな収入源となり藩の財政を支えて、武器なども輸入されて、明治維新前の薩摩藩の台頭に大きく貢献した。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、清からは漢方薬の材料を輸入して、富山の売薬を支えた。北海道、越中国、薩摩国、琉球王国(沖縄)、清までのルートを現代では「昆布ロード」と呼んでいる。
北前船の地域への影響
北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えた。1つは周辺農村の生産力の増加である。積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業(プロト工業化)によるものもある。それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産された。もう1つは造船産業の発達という可能性で、寄港地が船修理、船建造の作事を任されていたという。これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響を及ぼしたと思われる。また寄港地周辺では近畿の文化が伝わり、言葉・食文化等に影響がみられる。例えば関西の食文化である茶粥は、北前船の航路である北陸、東北の港町にも広まっている。また、伊勢神宮式年遷宮の御木曳で唄われる木遣唄「松前木遣」は、船乗りの口を通じて瀬戸内海から山陰、北陸、東北から北海道にまで伝播している。北前船は日本海沿岸における文化の伝播役でもあった。
北前船の寄港地
最速達では以下の港に寄っていた。各地に見張り役人を置き、途中の要所には毎夜薪を上げて船からの目標とさせた。
北前船寄港地ガイドに記載された主な北前船寄港地と関連地は次のとおり[9]。
根室、厚岸、釧路、様似、門別、苫小牧(とまこまい)、室蘭、箱館(函館)、松前、江差、熊石、寿都、余市、小樽、納沙布岬、襟裳岬、恵山岬、白神岬、神威岬、大間、大畑、田名部、川内、佐井、野辺地、青森、三厩、龍飛岬、十三湊、鯵ヶ沢、深浦、能代、戸賀、本荘、金浦、飛鳥、酒田、加茂、岩船、荒川、新潟、寺泊、出雲崎、小木、宿根木、柏崎、能生、糸魚川、水橋、東岩瀬、新湊、伏木、小木、禄剛崎、輪島、黒島、福浦、本吉(美川)、橋立、三国、河野、大野、福井、敦賀、近江八幡、小浜、舞鶴、宮津、久美浜、竹野、柴山、香住、浜坂、橋津、赤碕、美保関、境港、宇龍、日御碕、温泉津、浜田、須佐、萩、角島、室津、下関、三田尻、室積、上関、竹原、御手洗、椋浦、尾道、鞆の浦、玉島、下津井、多度津、塩飽本島、日比、牛窓、坂越、室津、都志、塩尾、兵庫(神戸)、大坂(大阪)。
亀首(かめがくび)、加呂宇土、津和野、(周防)由宇、家室(かむろ)、上関(かみのせき)、蔵司(そうし)、室積(むろづみ)、向島、花香(はなか)、岩屋、丸尾、水崎(みさき)、(長門)本山、艫崎(へざき)、下関(しものせき)、稟受(ひんしゅ)、瀬戸崎、萩(はぎ)、須佐、江須、(石見)浜田、護府(ごふ)、猪津(いのづ)、(出雲)瓜生(うりう宇龍?)、可嘉、三保関(みほのせき)、泊(とまり)、(因幡)加留(かる)(但馬)諸寄、芝山、朝日、夕日、泰座(たいざ)、(丹後)経崎、宮津、名料、(若狭)小浜(おばま)、常上(つねかみ)、丹生浦(にううら)、立石、伊呂、(越前)敦賀、河野、米良(めら)、三国、堀切、(加賀)安宅(あたか)、本吉、宮腰、(能登)阿武屋(あぶや)、福浦、伊木須、和島(わじま)、塩津、(越後)今町、柏崎、出雲崎、新潟、瀬波(せなみ)、(出羽)鼠関(ねずのせき)、加茂、酒田、小刀津、本庄(ほんじょう)、湊(みなと)、舟川、栂島(とがしま)、野代(のしろ)、(奥州)津軽・深浦、鯵沢(あじがさわ)、小泊(ことまり)、今別(いまべち)、赤根沢(あかねざわ)、田南部(たなぶ)。 亀首(かめがくび)、加呂宇土、津和野、(周防)由宇、家室(かむろ)、上関(かみのせき)、蔵司(そうし)、室積(むろづみ)、向島、花香(はなか)、岩屋、丸尾、水崎(みさき)、(長門)本山、艫崎(へざき)、下関(しものせき)、稟受(ひんしゅ)、瀬戸崎、萩(はぎ)、須佐、江須、(石見)浜田、護府(ごふ)、猪津(いのづ)、(出雲)瓜生(うりう宇龍?)、可嘉、三保関(みほのせき)、泊(とまり)、(因幡)加留(かる)(但馬)諸寄、芝山、朝日、夕日、泰座(たいざ)、(丹後)経崎、宮津、名料、(若狭)小浜(おばま)、常上(つねかみ)、丹生浦(にううら)、立石、伊呂、(越前)敦賀、河野、米良(めら)、三国、堀切、(加賀)安宅(あたか)、本吉、宮腰、(能登)阿武屋(あぶや)、福浦、伊木須、和島(わじま)、塩津、(越後)今町、柏崎、出雲崎、新潟、瀬波(せなみ)、(出羽)鼠関(ねずのせき)、加茂、酒田、小刀津、本庄(ほんじょう)、湊(みなと)、舟川、栂島(とがしま)、野代(のしろ)、(奥州)津軽・深浦、鯵沢(あじがさわ)、小泊(ことまり)、今別(いまべち)、赤根沢(あかねざわ)、田南部(たなぶ)。
北前船で活躍した主な船主
日本海航路で海運を行った船のうち、狭義に「北前船」と呼ばれるのは日本海在地資本によるものに限る見解もある。この見解によれば、高田屋嘉兵衛のような上方資本で日本海航路で廻船を運航した場合は「北回り地船」として区別する。以下では、広義の北前船に関わった船主を挙げる。
大和田荘七
銭屋五兵衛
広海二三郎(廣海家)
右近権左衛門(右近家一族) - 明治期に海上保険に進出し成功を収める
中村三之丞(中村家住宅 (南越前町))
高田屋嘉兵衛
本間光丘(酒田本間氏)
北風荘右衛門
久保彦兵衛
西出孫左衛門
西村忠兵衞(西村屋)
能登屋三右衛門
綿屋彦九郎(宮林)
現代における北前船
太平洋戦争後、日本の経済・人口の中心が太平洋ベルトに移ったこともあり、日本海側各地域にとって、北前船はかつての繁栄の象徴として誇りの対象となっており、観光や地域おこしに活用されている。関連する博物館なども多くあるほか、「辰悦丸」や「みちのく丸」のように航行および帆走可能な形で復元された和船もある。
北前船の繁栄の歴史と象徴を現代に残す各種の試みやイベントも行われている。その中のひとつとして、1985年に当時のおのころ愛ランド公園(現、淡路ワールドパークONOKORO)で行われた「くにうみの祭典」に出展するために、上記の「辰悦丸」が当時の木造船造船技術の粋を集めて復元造船され、その辰悦丸を使った回航が翌年に、兵庫県の淡路島にある当時の津名郡津名町(現、淡路市)・津名港から北海道の檜山郡江差町・江差港と函館市・函館港を経由する航路を取って実施された。
また、2007年以降には石川好や新田嘉一(平田牧場会長)らの呼び掛けで「北前船寄港地フォーラム」が開かれている。2017年には文化庁により、日本遺産の一つとして「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に、北海道から福井県までの7道県11市町が認定された。
北前船を主要テーマとする博物館
北前館 - 兵庫県豊岡市。
なにわの海の時空館 - 大阪府大阪市(閉館)。→「THE JEWELRY」へ
兵庫県立兵庫津ミュージアム
高田屋顕彰館・歴史文化資料館 - 兵庫県洲本市。北前船、菱垣廻船、樽廻船、安宅船などの船模型がある。
淡路ワールドパークONOKORO - 兵庫県淡路市。1985年にほぼ原寸大で復元造船され、後に日本近海を回航し、バンクーバー国際交通博覧会(EXPO'86)にも出展された「辰悦丸」(上の写真および上記参照)が展示されている。ただし、長期間陸上で展示する事と、完成後に決定した航海を含めた全ての安全性(公的機関許可事情等を含む)も考慮して、木造船として建造した後に鉄板等で補強し、かつ帆柱も短くするなどしたもので、正確な復元船ではないという見解がある。
佐渡国小木民俗博物館 - 新潟県佐渡市。原寸大で復元された「白山丸」があり、中に入ることもできる。
北前船回船問屋森家 - 富山県富山市岩瀬。「旧森家住宅」として国の重要文化財に指定。北前船の回船問屋の様式が残されている。
馬場家(旧馬場家住宅) - 富山県富山市岩瀬。岩瀬の5大回船問屋の中で、最大の廻船問屋の店舗兼住宅であり、住宅規模も隣家の森家よりも大きい。国の登録有形文化財に登録されている。
高岡市伏木北前船資料館 - 富山県高岡市伏木。
石川県銭屋五兵衛記念館 - 石川県金沢市。
北前船の里資料館 - 石川県加賀市。
輪島市黒島天領北前船資料館 - 石川県輪島市。
みくに龍翔館 - 福井県坂井市。
北前船主の館・右近家 - 福井県南越前町。
みちのく北方漁船博物館 - 青森県青森市。原寸大で復元され、帆走も可能な「みちのく丸」がある。
奥藤酒造郷土館 - 瀬戸内の赤穂塩を積み出していた坂越の豪商「奥藤家」にある酒蔵に開設された、酒造と廻船の博物館。赤穂市立歴史博物館には、当時の塩廻船の復元模型船(縮尺1/3)展示されている。
むかし下津井回船問屋 - 岡山県倉敷市。当時の回船問屋の1軒を修理・復元した資料館。
江戸十組問屋 当初は塗物問屋、小間物問屋、諸色問屋、薬酒問屋、畳表問屋、綿問屋、紙問屋、水油問屋、酒問屋の9軒であったが、後に釘鉄問屋が加入してから十組仲間の名称を称えるようになった。
参考:『南鐐二朱銀』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%90%90%E4%BA%8C%E6%9C%B1%E9%8A%80
南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)とは、江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。
正式名称については『銀座書留』などに「貮朱之歩判(にしゅのぶばん)」あるいこれを略して「貮朱判(にしゅばん)」と記述しており、南鐐二朱判(なんりょうにしゅばん)と呼ばれる。幕府が敢えて「二朱銀」と云わず金貨特有の美称である「判」を付して「二朱判」と称したのは、金貨である一分判に類する二朱の分判であり小判に対する小額貨幣として流通を目論んでいたことが窺える。
概要
本来江戸時代の銀貨は秤量貨幣(丁銀・小玉銀)であるが、南鐐二朱銀は金貨の通貨単位を担う計数貨幣として「金代わり通用の銀」と呼ばれ、「南鐐」という特別の銀を意味する呼称を冠した。
形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98パーセントと当時としては極めて高いものであった。
南鐐二朱銀は明和9年9月(1772年)に勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。これは出目(でめ/改鋳利益)による収益を目的として含んでいたことは確かであるが、田沼時代の商業を重用した積極的経済策が背景にあったとされる。寛政の改革時に一旦鋳造停止されたが、程なく発行が再開された。文政7年(1824年)には改鋳されてほぼ同質の新型の南鐐二朱銀が発行された。
明和年間までは高額取引には、西日本で丁銀・小玉銀、東日本で小判・一分判が一般的に用いられ、しかも両者の為替レートは変動相場制で、不安定だった。幕府は当初から通貨の基軸を両を単位とする金貨(小判・一分判)に統一する構想を有していた。最初は秤量銀貨の定位貨幣化が目的の五匁銀の発行を企画したが、商人らに受け入れられなかった。そこで、次の段階として金貨の通貨単位である2朱に相当する銀貨を発行して、金貨と銀貨の為替レートを固定、事実上の通貨統一を果たし、従来の銀貨=秤量貨幣(丁銀・小玉銀)の概念の意識抜き、通貨の基軸は金貨という洗脳を用意周到に行うのが狙いだった。
文字銀と同位のものを異なった価値で同時通用させようとした五匁銀が普及しなかった反省から、銀純度を上げる、額面の代わりに「以南鐐八片換小判一両」(8枚で小判1両に換える)と表記するなどの工夫がされ発行されたのが明和南鐐二朱銀(めいわなんりょうにしゅぎん)であった。しかし、小判と丁銀相互の変動相場による両替を元に利益を上げていた両替商にとって南鐐二朱銀の発行は死活問題であり、両替商の抵抗は激しいものであった。すなわち南鐐二朱銀の小判および丁銀への両替に対し、2割5分の増歩を要求するというものであった。南鐐二朱銀一両の純銀量が21.6匁であるのに対し、通用銀(文字銀)は一両を60匁として、27.6匁の純銀量であったことから、実質を重視する商人にとって名目貨幣は受け入れ難く、含有銀量をもって取引しようとするものであった。
この通用銀に対する南鐐二朱銀の含有銀両の不足について幕府は安永2年10月(1773年)の触書で、純銀10匁は通用銀25匁で売り出していたから、金一両=通用銀60匁=純銀24匁となると説明した。一両が純銀24匁ならば、南鐐二朱銀は3.0匁であるが、実際は2.7匁であり、この10%不足分のうち銀座の手数料である分一銀が7%、および幕府の取り分が3%と解釈される。
京都、大坂においては「金百両に南鐐二朱廿五両差」と呼ばれる金100両中南鐐二朱銀を25両、差交通用させるものであった。二朱銀通用を半ば強制された両替屋はそのような方法を採らざるを得なかったが、廿五両差通用ならばよく通用した方であった。
そこで幕府は取り扱う両替商および商人への南鐐二朱銀に対する優遇措置を行った。例えば「売上四分、買上八分」すなわち、両替商が南鐐二朱銀を売るとき買手に一両当り銀四分を与え、買上げるときは南鐐二朱銀の売り手から銀八分を徴収するよう取り決めた。また商人に対して南鐐二朱銀による貸付の場合は江戸では一万両、大坂では四万両を限度として3年間、無利子、無担保とした。
その甲斐あってか、秤量銀貨に馴染んでいた西日本でも徐々に浸透、丁銀、豆板銀といった秤量銀貨を少しずつ駆逐していった。また、明和期以前は一分判より低額面のものは寛永通寳一文銭であったため、この中間を補佐する貨幣の需要が高かったことも流通が普及した要因である。 一方、丁銀から南鐐二朱銀への改鋳が進行するにつれ、市中における秤量銀貨の不足により銀相場の高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁をつけるに至った。この様な銀相場の高騰は江戸の物価高につながるため、田沼意次の政治を批判する立場であった松平定信を中心に進められた、寛政の改革の一環として、天明8年4月(1788年)に南鐐二朱銀の鋳造を中断し、南鐐二朱銀から丁銀への改鋳が進行した[12]。これに対して、近年になって定信が改鋳を実施したのは、高騰した物価を抑えるために秤量銀貨を増やしてその価値を下げることで金貨単位計数貨幣の価値を上げる目的で実施された一時的な措置であり、寛政2年(1790年)に西日本において南鐐二朱銀の通用を強制しようとしたのは他ならぬ定信であるとする通説批判が出されている。
しかし、このような一両あたりの含有銀量の高い丁銀への復帰は幕府の財政難を招き再び路線変更を余儀なくされる。寛政12年(1800年)の銀座改革以降、南鐐二朱銀の鋳造が再開されるが、前述の通説批判ではこれも意次・定信の政策によって南鐐二朱銀が社会に受容された結果であるとしている。この時点で発行されたものは寛政南鐐二朱銀(かんせいなんりょうにしゅぎん)と呼ばれるが、両者の間に銀品位および量目などの相違は認められず、表面の書体が後の新南鐐二朱銀に類似するものがそれであるとされるが中間的なものも存在する[16]。明和南鐐二朱銀および寛政南鐐二朱銀を総称して古南鐐二朱銀(こなんりょうにしゅぎん)と呼ぶ。
古南鐐二朱銀の規定量目は本来二匁七分(10.12グラム)であるが、銀座における作業の都合などから五厘の過目(すぎめ)までは認められ過目分は銀座の負担とし、二匁七分五厘(10.30グラム)程度のものも少なくない。公儀灰吹銀および回収された旧銀から南鐐二朱銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は鋳造高の7%と設定された。
以後このような名目貨幣が丁銀の発行・流通を凌駕するようになった。
文政7年(1824年)には量目を減少させた、文政南鐐二朱銀/新南鐐二朱銀(ぶんせいなんりょうにしゅぎん/しんなんりょうにしゅぎん)を発行し、その後、天保8年(1837年)発行の天保一分銀に計数銀貨は完成を見ることになる。新南鐐二朱銀発行に際し、幕府の出した触書は流通の便宜を図るため小型化したという名目であったが、真の狙いは財政再建が目的の出目獲得にあった[19]。このような名目貨幣は幕府に利益をもたらすものであり、慢性的な財政難に悩む幕府にとって、もはや名目貨幣の発行は止まる所を知らないものとなっていった。しかしこれは当時の国際情勢を考慮すれば鎖国の下でのみに通用する政策であり、そのことが開国後の金流出へと至る原因となった。すなわち当時は全国の金山、銀山を幕府の支配下に置き、金座、銀座という特定の組織のみに金銀の取り扱いを許可するという体制の下であるからこそ名目貨幣の発行が可能であった。
銀座人らの受け取る分一銀は文政南鐐二朱銀では鋳造高の3.5%と設定され、また丁銀および古南鐐二朱判などからの吹替えにより幕府が得た出目は『銀座年寄御賞筋願之義申上候書付』によれば1,705,191両であった。
参考:『なぜ10代将軍の最側近だった男は失脚したのか 田沼意次への評価が180度変わる…「べらぼう」で渡辺謙演じる老中がペリー来航より100年早くやろうとしたこと』PRESIDENT WOMAN https://president.jp/articles/-/101029?page=3
一部転載
意次は通貨政策も新しかった。江戸時代には金貨、銀貨、銭貨がそれぞれ独立していたので、それぞれの交換相場は状況次第で変動した。それでは不便なので、意次は8枚で小判1枚と交換できる純度が98%の銀貨「南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん」を発行。通貨の一元化を進め、貨幣の価値を安定させて、相場の変動にわずらわされないようにしたのだ。
金貨と銀貨の両替で利益を上げていた両替商は反発したが、大きな変革が起きるとき、古いシステムに依存する業者の抵抗は、いつの時代も起きる。そんななかでも南鐐二朱銀は次第に定着しつつあったが、定信はこれを廃止した。
金融に関していえば、定信の時代を迎える前に頓挫したが、「べらぼう」第30回「人まね歌麿」(8月10日放送)で描写され、大名たちが激しく反発した「貸金会所」も、じつは画期的な構想だった。
これは幕府が、いわば銀行を設立し、商人のほか農民や寺社などからも金銭を少しずつ、幅広く集め、財政難の大名や旗本に救済資金として貸し出そうとしたものだ。意次は、現代でいう中央銀行のようなものを設立しようとしたのである。
ところが、あらたな税負担と受け止めた人たちばかりか、救済されるはずの大名や旗本も反発した。支配層の彼らにすれば、被支配層から徴収した金から融資を受けるのは、体面が許さなかったのだ。ともかく、こうして画期的な「中央銀行」設立は頓挫してしまった。
日本経済の礎
「世間よし・買い手よし・売り手よし」
*第一に一つ屋根の下に住む者同士睦まじく仲良くして、家業を第一に怠けることなく奉公し、精進すること
*商いではすべての商品を少ない利益で手広く販売し、たとえ品不足となった時でも決して余分の利益をいただかないこと
*世間の皆さんが困るようなことをしてはならない
安土に楽市楽座で集められた商人たちが、安土城廃城の後、豊臣氏によってふたたび5㎞ほど先の近江八幡城下に集められた。豊臣氏は下水(背割)を完備して衛生を保って住みやすくし、水運(琵琶湖に通じる八幡堀)を良くし、琵琶湖を巡る舟運は必ず近江八幡の八幡堀に入れと言うお触れが出すなどしたため、町は繁栄したが、今度は町を開いた豊臣秀次の処刑により、再び廃城の憂き目に遭い、近江商人たちは活路を見出すために、武士とは距離を置き(『武士は敬して遠ざけよ』)、全国に行商に出て再起した。特徴としては北海道から鹿児島まで全国に支店を置き、支店を置くことによって現地の現在のニーズを得てそのニーズに基づいて安く大量に物資を提供した。
そのおかげで近江の赤と緑の蚊帳は全国に広まった。
また、近江八幡の大商人として蒲団の西川が存続している。
以上参考『ブラタモリ 豊臣と近江八幡』(NHK)