日本文化
年中行事を中心に(日本語)
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
年中行事を中心に(日本語)
過去問に出たものを中心に。喫緊の受験科目である韓国語訳対象表は2次対策の項の韓国語・年中行事にあります。
1月7日…人日の節句(七草の節句)
3月3日…上巳の節句(桃の節句)
5月5日…端午の節句(菖蒲の節句)
7月7日…七夕の節句(笹の節句)
9月9日…重陽の節句(菊の節句・栗の節句)
参考:『人日』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%97%A5
人日(じんじつ)とは、五節句の一つ。1月7日。七草がゆを食べることから七草の節句(ななくさのせっく)ともいう。
また、霊辰(れいしん)、元七(がんしち)、人勝節(じんしょうせつ)ともいう。
古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日 (中国)(中国語版、英語版))とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。
また、この日には一年の無病息災を願って、また正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為、7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食する習慣があり、これが日本に伝わって七草がゆとなった。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。人日を含む五節句が江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝った。
また、この日は「新年になって初めて爪を切る日」ともされ、「七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかない」とも言われている。
なお、経緯からわかるように、本来は1月7日 (旧暦)の風習である。
参考:『上巳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%B7%B3
上巳(じょうし、じょうみ)とは、五節句の一つ。3月3日。
旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句(もものせっく)とも呼ばれる。
「桃の節句」の起源は平安時代より前であり、京(現在の京都府)の貴族階級の子女が、天皇の住居である御所を模した御殿や飾り付けで遊んで健康と厄除を願った「上巳の節句」が始まりとされている。
やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展して行った。その後、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になった。この風習は、現在でも「流し雛」として残っている。
元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代の頃から、豪華な雛人形を飾る雛祭りは女子に属するものとされ、端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武」にかけて男子の節句とされるようになり、現在に至る。
「上巳」は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。
新暦の3月3日に行われ、雛人形の段飾りを飾る。上巳節に雛人形を飾るのは、日本特有の習俗。
◎中国:中国では、漢初より両漢を通して行われた行事であり、『後漢書』礼儀志上には「官民皆な束流の水の上に潔し、洗濯祓除と曰う。宿き垢痰を去りて大潔を為すなり」とあり、官民そろって水辺に出て祓除をする行事であった。
三月上巳に限らず、季節の節に同様の祓除が行われ、この祓除の行事が宮中では洗練され、曲水宴として人工の流水に盃を浮べて酒を飲む宴と変遷した[1]。唐代に至ると、曲水宴は宮中だけでなく上流階級の私宴となり、次第に上巳節は本来の川禊が失われて水辺での春の遊びと変化し、庶民にとっては農事の節日へと展開していった
◎韓国:旧暦に行い、サンジナルと呼ばれている。踏青を行う。外出先の屋外に女性たちは燔鉄(ボンチョル)という鉄板を持参して、チンダルレ(カラムラサキツツジ)などの春の花を載せた花煎(ファジョン、朝:화전)という甘いお焼きを作り、花びらをハチミツ水や五味子水に入れた花菜(ko:화채、ファチェ)という甘い飲み物とともに食べる。
参考:『端午』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%8D%88
端午(たんご)は、五節句の一つ。端午の節句(たんごのせっく)、菖蒲の節句(しょうぶのせっく)とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。少ないながら旧暦や月遅れの6月5日に行う地域もある。なお、日本以外では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。
旧暦では午の月は5月に当たり(十二支を参照のこと)、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている。
もともと端午節に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは南朝梁や隋の時代の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある。
日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる。
鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、又、菖蒲の葉の形が剣を連想させる事などから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(但し「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。
[韓国]
삼짇날 또는 삼월 삼짇날, 상사(上巳), 중삼(重三)은 음력 삼월 초사흗날이다.한국을 비롯한 동아시아의 명절이다. 이 날이 되면 강남 갔던 제비가 다시 돌아온다고 한다. 삼짇날에는 주로 화전(花煎)을 먹는 풍습이 있다.
음력 3월 3일을 삼월 삼짇날이라고 한다. 옛말에 '삼질'이라고도 하며, 한자로는 상사(上巳)·원 사(元巳)·중삼(重三)·상제(上除)·답청절(踏靑節)이라고도 쓴다. 삼짇날은 삼(三)의 양(陽)이 겹친다는 의미이다. 최남선에 의하면 삼질은 삼일의 자음(字音)에서 변질되어 파생된 것이며, 상사는 삼월의 첫 뱀날이라는 의미를 담고 있다고 한다.
삼짇날은 봄을 알리는 명절이다. 이날은 강남 갔던 제비가 돌아온다고 하며, 뱀이 동면에서 깨어나 나오기 시작하는 날이라고도 한다. 또한 나비나 새도 나타나기 시작하는데, 경북 지방에서는 이날 뱀을 보면 운수가 좋다고 하고, 또 흰나비를 보면 그해 상을 당하고 노랑나비를 보면 길하다고 한다. 이날 장을 담그면 맛이 좋다고 하며, 집안 수리를 한다. 아울러 농경제(農耕祭)를 행함으로써 풍년을 기원하기도 한다. 대표적인 풍속은 화전놀이이며, 사내 아이들은 물이 오른 버드나무 가지를 꺽어 피리를 만들어 불거나 풀을 뜯어 각시인형을 만들어 각시놀음을 즐기기도 했다.
이날 각 가정에서는 여러 가지 음식을 장만하여 시절음식을 즐긴다. 조선 후기에 간행된《동국세시기》에 의하면 이날 "진달래꽃을 따다가 찹쌀가루에 반죽, 둥근 떡을 만들고, 또 그것을 화전(花煎)이라 한다. 또 진달래 꽃을 녹두 가루에 반죽하여 만들기도 한다. 혹은 녹두로 국수를 만들기도 한다. 혹은 녹두가루에 붉은색 물을 들여 그것을 꿀물에 띄운 것을 수면(水麵)이라고 하며 이것들은 시절음식으로 젯상에도 오른다."라고 하여 화전과 국수를 시절음식으로 즐겼음을 알 수 있다. 이외에도 시절음식으로 흰떡을 하여 방울모양으로 만들어 속에 팥을 넣고, 떡에다 다섯가지 색깔을 들여, 다섯개를 이어서 구슬을 꿴 것같이 하는데, 작은 것은 다섯개씩이고, 큰 것은 세개씩으로 하는데, 이것을 산떡이라고 한다. 또 찹쌀과 송기와 쑥을 넣은 고리떡이 있다. 또한 이날에는 부드러운 쑥잎을 따서 찹쌀가루에 섞어 쪄서 떡을 만드는데, 이것을 쑥떡이라 한다.
参考:『七夕』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95
七夕(たなばた/しちせき)は、中国語で乞巧節(きっこうせつ)とも呼ばれ、中国神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りである。中国の旧暦7月7日に行われる。
ロマンチックな愛を祝うこの祭りは、しばしば中国の伝統的なバレンタインデーに相当すると言われる。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものである。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきた。この有名な神話に関する最も古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られている。
[日本]
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わった[1]。牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合(織姫と彦星が会う事)と乞巧奠が盛んになった。
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。
「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。
サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては半夏生のように農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承[14]していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。
富山県黒部市東布施地区の尾山では、2004年(平成16年)7月16日に富山県の無形民俗文化財に指定、2018年(平成30年)3月8日国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択された七夕流しが、毎年8月7日に行われる。子供達が満艦舟や行燈を作り、和紙で人型人形である「姉さま人形」を折る。夕刻から姉さま人形を板にくくり付け、笛や太鼓のお囃子とともに地区内を引き回し、午後9時になると両岸に七夕飾りを立てた幅約1mの泉川に入り、満艦舟や行燈、姉さま人形を流すものであり、江戸時代より続けられている。
沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
[主な七夕まつり]
参考:『【2024年】全国の七夕祭り11選』楽天トラベル https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/tanabata
**仙台七夕まつり
*能代七夕 天空の不夜城:江戸の後期から明治にかけて運行されたと伝えられる城郭灯籠を、過去の文献や写真を基に、2013年夏に一世紀の時を超えて復元。高さ17.6mの「嘉六」灯籠と、城郭型の灯籠としては日本一の高さ24.1mの「愛季」が能代の街を練り歩きます。空にも届くような巨大な灯籠の姿は圧巻です!
**湘南ひらつか七夕まつり:10mを超える豪華な七夕飾り。日本三大七夕まつり・関東三大七夕まつりの一つ。
*下町七夕まつり:東京都浅草~上野 かっぱ橋本通りを天の川に見立てる
*阿佐ヶ谷七夕まつり:都内随一の七夕まつり
*狭山市入間川七夕まつり:関東三大七夕まつりの一つ。
*小川町七夕まつり(埼玉県比企郡小川町)
*茂原七夕まつり(千葉県茂原市):毎年80万人が訪れる
*安城七夕まつり(愛知県安城市):3日間で約100万人もの人が訪れる。
**おりもの感謝祭 一宮七夕まつり 日本三大七夕まつりのひとつ。毎年約130万人の人出。織物の町。4日間
*京の七夕:2010年から始まった新たな今日の風物詩。鴨川会場・堀川会場・二条城会場など各所で様々なイベント
[韓国の七夕]
평안남도 대안시 덕흥리의 5세기초 고구려 광개토왕 시대의 고분 안쪽 벽화에 견우와 직녀가 그려졌다.
여자들은 직녀성에 바느질 솜씨가 늘기를 빌었다.
아이들은 견우와 직녀를 소재로 시를 지었다.
옷과 책을 볕에 말린다.
칠석날 새벽에는 참외, 오이 등의 1년생 과일을 상에 놓고 절하며 솜씨가 늘기를 빈다.
북두칠성에 장수와 복을 빌기도 했다.
경상북도 영일에서는 바닷물이 약수가 된다고 여겨 멱을 감는다.
칠석날은 신이 내려와서 수확량을 정해준다고 여겨 아침 일찍 들에 나가지 않거나 집안에서 근신한다.
민간에서는 명절음식으로 밀국수·호박부침 등을 만들어 먹었다고 한다.
参考:『重陽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%99%BD
重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、旧暦の9月9日のこと。中国、香港、マカオ、台湾、ベトナムにおいて伝統的な祝日であり、後漢(西暦25年)以前の文献で確認されている。日本では旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。
中国では祖先の墓を訪れて敬意を払う日である。香港とマカオでは、一族全員が先祖代々の墓を訪れ、墓を綺麗にして捧げものをする。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。
[韓国の重陽節]
중양절(重陽節)은 한국, 중국, 베트남, 일본, 대만등 동아시아 지역에서 매년 음력 9월 9일에 지내는 세시 명절로, 시를 짓고 국화전을 먹고 놀았다.
1년 중 홀수가 두 번 겹치는 날에는 복이 들어온다고 하여 음력 1월 1일, 5월 단오(5일), 7월 칠석(7일) 등을 명절로 지내왔다. 중양절이 되면 산에 올라가 국화주를 마시며 시를 읊거나 산수를 즐기기도 하였다. 또한 가정마다 화채를 만들어 먹고 국화전을 부쳐 먹기도 하였다. 이날 제비들은 따뜻한 강남을 향해 떠나고 뱀과 개구리는 겨울잠을 자기 위해 땅속으로 들어간다.
옛날 [중국]의 어느 마을에 신통력을 지닌 장방이란 사람이 살았다. 어느날 장방이 환경이란 사람을 찾아와 “9월 9일 이 마을에 큰 재앙이 닥칠 것이니 식구들 모두 주머니에 수유꽃을 넣었다가 팔에 걸고 산꼭대기로 올라가라”고 하였다. 환경이 장방의 말대로 식구들을 데리고 산에 올라가 국화주를 마시며 놀다가 이튿날 집에 내려와 보니 집안의 모든 가축들이 죽어 있었다. 그후부터 중양절이 되면 산에 올라가는 풍습이 생겼다고 한다.
【中国】
重阳节,是汉字文化圈传统节日,为每年农历九月初九日,“重阳”一词始见于三国时期,因《易经》中“九九”两阳数相重,故名“重阳”,在唐代,唐德宗在位时将重阳节列为“三令节”之一,重阳节开始成为正式节日。中国民间素有在重阳节登高、祭祖及祈求丰收等习俗。2006年,重阳节被列入中国首批国家级非物质文化遗产名录。另外,重阳节也是中国法定的老年节,被赋予了尊老敬老、祝福健康长寿的含义。
关于重阳节的由来有很多说法,最有名的是桓景剑刺瘟魔的故事。
[活動]
活动
祭拜祖先
敬老活动
登高旅游
佩带茱萸
放风筝
玩花煎游戏。
射箭
赏菊
和家人团聚
哪吒寿诞
祭菊
[食物]
参考動画:『100カメ 大河ドラマ「光る君へ」平安の雅を生み出す舞台裏』NHKオンデマンド 2024年9月12日放送 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024141010SA000/
NHKプラス(9/19まで) https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024091226417?playlist_id=d7267c5c-5953-4374-90f4-5768431d70c6
参考動画:『平安貴族の歌会を再現した「曲水の宴」』産経ニュース(2014/11/03)(youtube) https://youtu.be/LVZ1adFZN4Q?si=7e0lDwVHLU_FmLCR
参考:『主な行事』毛越寺 https://www.motsuji.or.jp/event/index.html 5月
参考:『2024年5月 世界遺産平泉・毛越寺で「曲水の宴」が開催されます!』ヒライズミミーツ(一般社団法人世界遺産平泉・一関DMO) https://hiraizu-meets.com/2024%e5%b9%b45%e6%9c%88-%e4%b8%96%e7%95%8c%e9%81%ba%e7%94%a3%e5%b9%b3%e6%b3%89%e3%83%bb%e6%af%9b%e8%b6%8a%e5%af%ba%e3%81%a7%e3%80%8c%e6%9b%b2%e6%b0%b4%e3%81%ae%e5%ae%b4%e3%80%8d%e3%81%8c%e9%96%8b/
参考:『曲水の宴』太宰府天満宮 https://www.dazaifutenmangu.or.jp/omatsuri/kyokusui-no-utage 3月
参考:『賀茂曲水宴』上賀茂神社のひととせ(賀茂別雷神社) https://www.kamigamojinja.jp/hitotose/ 4月
参考:『曲水の宴』行催事カレンダー(仙巌園) https://www.senganen.jp/calendar/ 4月中旬
参考:『曲水の宴』年中行事(北野天満宮) https://kitanotenmangu.or.jp/event/ 3月上旬
参考:『曲水の宴』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%AE%B4
曲水の宴(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。略して曲水、曲宴ともいう(『広辞苑』第2版)。
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行う(流觴曲水=盃を曲水に流す)ようになったとされる。古代、周公の時代に始まったとも秦の昭襄王の時代に始まったとも伝えられている。東晋の永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が蘭亭で「曲水の宴」を催したが、その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である[4]。
その後、一時的に行われなくなったものの、唐の時代になって朝儀ではなく、私宴の形式で再興されるようになった。
日本
日本では顕宗天皇元年(485年)3月に宮廷の儀式として行われたのが初見(『日本書紀』)。ただしこの記事から曲水の宴に関する記録は文武天皇5年(701年)まで途絶え、その間も行われていたかは不明。顕宗天皇の時代ならば曲水は中国では盛んに行われていて、日本にその風習が伝わっていても不自然ではない。しかし、中国では魏(220年-265年)以降「3日を用いて上巳を用いず」としており、顕宗天皇紀が依然として上巳を用いており、公式の記録も奈良時代まで飛んでいるため、或いは顕宗天皇紀の記事は編者による挿入かとも疑われる。
文武天皇以降史上に散見するようになり、奈良時代にはこれらの行事は3月3日が常例となり、奈良時代後半には盛んになった。主に宮廷の催しごと(主催者は天皇)として行われたが、『万葉集』には中納言大伴家持が自第で催した曲水宴を詠んだ「漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶてふ今日そ我が背子(せこ)花縵(はなかづら)せな」の歌が載せられ、詞書から天平勝宝2年(750年)3月3日のものと分かるので、その頃までには私的な遊びとして催されていたことも分かる。平城天皇の代に一時廃されたが(平城天皇は父母が亡くなった3月に宴を開くことを嫌ったからとされている[12])、嵯峨天皇がこれを再開し(宇多天皇とする説もある)、平安時代には宮廷や貴族の邸宅などでも行われるようになった。 摂関時代には内裏の公式行事として催されたが、『御堂関白記』には寛弘4年(1007年)藤原道長が主催したとする記事があり、『中右記』には寛治5年(1091年)藤原師通が主催したとする記事がある。
『天満宮安楽寺草創日記』によると、大宰府でも天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐、小野好古が始めたとされるが、中世以降は断絶した。権勢を誇った藤原氏などは中国に倣って船を浮かべたりしたともいう。
朝鮮
曲水の宴は、古代朝鮮でも盛んであったが、李氏朝鮮では執り行なわれた記録は残っていない。このためかなり以前に廃れたものと思われる。慶州市の南4kmにある西南離宮・鮑石亭(Poseokjeong)は、「流觴曲水宴」が開かれた場所として知られ、鮑模様の石溝、曲粋渠(ゴッスゴ)が残っている。ここは927年に新羅第55代景哀王が宴会を開いている最中に後百済軍に攻め殺され、新羅が滅亡に向かうきっかけとなった場所である。
参考:『お盆』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。8月13日 - 8月16日[1]。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。
明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった。
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。
中華文化では道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする風習がある。旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる。台湾や香港、華南を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われている。
1600年代(慶長年間)に、イエズス会が編纂した『日葡辞書』には、「bon(盆)」と「vrabon(盂蘭盆)」という項目がある。それらによると、盆は、仏教徒(宣教師の立場から見れば「異教徒」)が、陰暦7月の14日・15日頃に、死者の為に行う祭りであると、説明されている。
[八尾おわら 風の盆](富山県富山市八尾町)
参考:『おわら風の盆』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%89%E9%A2%A8%E3%81%AE%E7%9B%86
富山県富山市八尾地区で、毎年9月1日から3日にかけて行われている富山県を代表する行事(年中行事)である。
越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了する。おわら風の盆が行なわれる3日間、合計25万人前後の見物客が八尾を訪れ、町はたいへんな賑わいをみせる。2006年(平成18年)に、「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されている。
1998年(平成10年)からは、9月末 - 10月初頭前後にて開催される『月見のおわら』も実施されている。
おわらの起源は、江戸時代の元禄期にさかのぼると伝えられている(『越中婦負郡志』)。それによると、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するのだという。
おわらの11団体とおわら保存会と越中八尾おわら道場
風の盆の行事を行なっているのは、「東町・西町・今町・上新町・鏡町・下新町・諏訪町・西新町・東新町・天満町」の10の旧町内とそれらの旧町内外から移り住んだ人たちからなる「福島」の計11団体である。これらの11団体の代表者によって構成される「富山県民謡越中八尾おわら保存会」がある。
おわらの踊り
町流しは、地方(じかた)の演奏とともに各町の踊り手たちがおわらを踊りながら町内を練り歩くものである。この町流しが、古来からのおわらの姿を伝えるものとされている。
輪踊りは、地方を中心にして踊り手たちが輪を作って踊るものである。
舞台踊りは、演舞場での競演会や各町に設置される特設ステージで見られる踊りで、旧踊りや新踊りを自在に組み込んで各町が独自の演技を披露する。
参考:『富山のお盆』(TJ富山ジョイント・富山のお盆と東京のお盆) https://toyama-joint.jp/living/lvg20220714/#st-toc-h-3
この記事にあるとおり、都会のお盆は7月15日前後、田舎は旧暦に合わせて8月15日前後。関東は精霊馬や精霊牛(野菜を動物に見立てて組み立ててご先祖様の乗り物とする)を飾ったり、九州だと親戚からの華やかなお供えセットが飾られたり、地方によっても差がある。
私の実家などは(北陸の田舎)、文中と同じく祖先や親せきのお墓参りまわりをしたり、お坊さんに来てもらってお参りしてもらったりで仏教的な行事が多く、馬や牛、迎え火・送り火などもなかったです。
参考:『亀谷良長 吉村良和』https://x.com/yoshimura0303/status/1830516906778050800
参考:『行き合ひの空』goo辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A1%8C%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%B2%E3%81%AE%E7%A9%BA/
夏から秋へと移り変わるころの空。
「夏衣片 (かた) へ凉しくなりぬなり夜や更 (ふ) けぬらん—」〈新古今・夏〉
参考:『七五三』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%94%E4%B8%89
七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社・寺などで「七五三詣で」を行い、報告、感謝、祈願を行う奉告祭。
由来
日取りは、天和元年(1681年)旧暦11月15日に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男徳川徳松の髪置祝いがおこなわれたことを前例にするとも伝えられ、暦学の上でも吉日にあたる。
江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部において現在のような華やかな風習となった[3]。やがてこの儀式は京都、大阪でも行われるようになり、だんだんと全国に広まっていった。
日付
旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。
江戸時代に始まった神事であり、旧暦の数え年で行うのが正式となる。
神事としては、感謝をささげ祝うことが重要であるとの考え方から、現代では、数え年でなく満年齢で行う場合も多い。
明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっている。
北海道等、寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行う場合が多い。
各年齢の意味
現在は「七五三」という名称から、それぞれの年齢で行う同じ行事のように捉えられる傾向にあるが、実際には別々の異なった行事である。3つの子供の行事を「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。そのため、現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なる。
関東
発祥とされる関東地方では以下のように考えられている。
数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置き」とし、主に女児が行う(古くは男児も行ったため、現在も行う場合がある)。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。
数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴着(袴儀)」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。平安時代に公家階級で行われていた行事にならったもので、古くは男女ともに行ったが、武家では男子のみに行ったため、次第に男児の行事となった。
数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解き」(または「紐解き」)とし、女児が行う。女子が付け紐の着物を卒業し、大人と同じ幅の広い帯を結び始める儀。
最近では性別問わず三回すべて行う例も散見する。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。
服装:和装の場合に正式とされる服装を示す。
3歳女児
友禅染めの縮緬地で無垢仕立て(表裏共生地)にした四つ身、下着(内側に重ねる中着)は調和する無地や友禅、匹田模様の縮緬など。長襦袢は赤の紋羽二重。しごきは八尺もの、帯揚げは赤の絞り、帯締めは丸ぐけとし、扇子と筥迫を身につける。被布をつける場合も多い。
5歳男児
熨斗目模様(長着の腰のあたりと袖の下部に横段になるよう模様を配した柄行き)の羽二重の長着に、無地や縞、または熨斗目の袴、熨斗目の羽織。羽織紐は白の丸打ちとし、白扇を持つ。
7歳女児
本裁ちの小振袖。成長しても着られるようにする場合は五つ紋とする。しごきや帯揚げ、帯締めなどは3歳女児に同じ。
品物
千歳飴
七五三では、親が自らの子に長寿の願いを込めた「千歳飴(ちとせあめ)」を与えて食べて祝う。千歳飴という名称は、「千年」つまり「長い」「長生き」という良い意味があると共に、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。
由来
千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り七兵衛が売り出し流行した「千年飴」から始まったとされている。
参考動画(袴着(5歳)):『“後継者”は4歳男児 密着「現代に残る武士の名家」(2021年3月15日放送「news every.」より)』日テレNEWS https://youtu.be/4dUMJP3yzFM?si=n3mvx-kWuJJSGQsL
小笠原流の33代目候補の袴着と流鏑馬練習。
参考:『相撲のいろは』日本相撲協会公式サイト https://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/sumo_history/
参考:『大相撲』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、世界中で行われる相撲興行の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。東京での開催場所は国技館である。 土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。
[歴史]
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。
ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。
[天皇賜杯]
1925年、当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。
[本場所]
大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。
本場所:
1月:一月場所、初場所、両国国技館
3月:三月場所、春場所、大阪場所、エディオンアリーナ大坂(大阪府立体育館)
5月:五月場所、夏場所、両国国技館
7月:七月場所、名古屋場所、(~2024年)ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)、(2025年~)愛知県国際アリーナ
9月:九月場所、秋場所、両国国技館
11月:十一月場所、九州場所、福岡国際センター
[横綱]
横綱(よこづな)は、大相撲の力士における最高の称号であり、現行の番付制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。
横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。
現在(2024年)の横綱は、モンゴル出身の照ノ富士春雄(伊勢が濱部屋)(横綱昇進:2021年9月)である。
[番付]
大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。
横綱・大関・関脇・小結・前頭・十両を纏めた総称が「関取」と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が「幕内」と呼ばれる。大相撲では、この「幕内」を最上位とし、以下、十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は「取的」と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で負け越しが続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない「番付外」と呼ばれる立場になる。
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。
幕内(横綱~前頭) 大銀杏、紋付き羽織袴、博多帯、番傘・蛇の目傘、足袋に雪駄(畳敷き)、けいこ廻しは白色・木綿、取り廻しは博多織繻子、下がりは取り廻しの友布、足袋のいろは白、控えの敷物は私物の座布団、月額給与、場所ごとの収入として力士報奨金が許されている。
[新弟子検査]
現行制度では、大相撲の力士を志望する者(男性限定)は、新弟子検査を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。2019年2月に力士(競技者)規定の一部が改正となり、入れ墨の禁止も明文化された。
[報酬]
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。
給与
十両以上の力士(関取)には、次の通りの金額が月額給与として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。
給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている。
参考:『相撲用語集』日本相撲協会 https://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/glossary
力士・番付・行事・呼び出し・床山・土俵・国技館・決まり手・その他の項目で詳しく述べている。
[能]
参考:『能の基礎知識』能楽協会 https://www.nohgaku.or.jp/guide/%E7%8B%82%E8%A8%80%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9F%A5%E8%AD%98
能楽とは、室町時代より600年以上演じ受け継がれてきた、日本を代表する舞台芸術です。
言葉や節回しは古く室町時代の様式を今に残しています。
能楽の歴史をご紹介します。
大成前
能の源流をたどると、遠く奈良時代までさかのぼります。当時大陸から渡ってきた芸能のひとつに、[散楽]という民間芸能がありました。器楽・歌謡・舞踊・物真似・曲芸・奇術など バラエティーに富んだその芸は、[散楽戸]として官制上の保護を受けて演じられていましたが、平安時代になってこれが廃されると、その役者たちは各地に分散して集団を作り、多くは大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、あるいは各地を巡演するなどしてその芸を続けました。
この頃、[散楽]は日本風に [ 猿楽/申楽 (さるがく・さるごう) ]と呼ばれるようになり、時代とともに単なる物真似から様々な世相をとらえて風刺する笑いの台詞劇として発達、のちの[狂言]へと発展していきます。
一方、農村の民俗から発展した[田楽]、大寺の密教的行法から生まれた[呪師芸]などの芸もさかんに行われるようになり、互いに交流・影響しあっていました。
鎌倉中期頃には猿楽の集団も寺社公認のもと「座」の体制を組み、当時流行していた[今様] [白拍子]などの歌舞的要素をとりいれた、一種の楽劇を作り上げていきます。
大成期の能楽
田楽・猿楽の諸座が芸を競う中、南北朝の頃になると、大和猿楽は14世紀後半を代表する名手観阿弥を生みました。観阿弥は、将軍足利義満の支援を得、物真似主体の強い芸風に、田楽や近江猿楽などの歌舞的要素をとり入れて芸術的に高め、当時流行していたリズミカルな[曲舞]の節を旋律的な[小歌節]と融合させるなど音楽面での改革をも行って、大いに発展を促しました。この観阿弥の偉業を受け継いで今日まで伝わる[ 能 ]の芸術性を確立したのが、息子の世阿弥です。
世阿弥がまだ12歳の少年の頃、将軍の寵愛を受けることとなり、その絶大な後援を得て、能を一層優美な舞台芸術に高めました。彼は父の志した「幽玄」を理想とする歌舞主体の芸能に磨き上げていったのです。
世阿弥は、「夢幻能」というスタイルを 完全な形に練り上げ、主演者である「シテ」一人を中心に据えた求心的演出を完成させて、多くの作品を残しました。
また、能の道の理論的裏付けにも力を注ぎ、能楽美論・作能論・作曲論・歌唱論・演技論・演出論・修行論・「座」経営論など多方面にわたる著作を行い、その理念は長い時代を経、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれています。
世阿弥没後も、甥の音阿弥や、女婿の禅竹といった名手や理論家が輩出されましたが、その能は本質的には世阿弥の継承であり、この時代すでに能は、伝統を守り育てる傾向を強めていたと言えましょう。
一方、室町後期には「手猿楽」と呼ばれる素人出身の能役者が、京都などで大いに活躍しました。また、謡曲を能から離れて謡う、いわゆる「謡」が流行したのもこの時期からで、能が町人階層にも広く愛好されていたことがわかります。
戦国時代から桃山期の能楽
応仁の乱以降の幕府の弱体化や寺社の衰退は、能に大きな打撃を与えました。音阿弥の子、信光や、その子長俊、禅竹の孫、禅鳳らは、華麗で劇的変化に富む曲を創作して、一般民衆の支持にわずかに活路を見出しましたが、田楽も近江猿楽もほとんど消滅し、16世紀後半には有名大名を頼って地方へ下る能役者が続出しました。
中でも、織田信長は、能に対して好意的だったことが知られており、豊臣秀吉はさらに熱狂的な愛好家でした。彼は自身でも好んで能を舞ってみせたほか、多くの「座」のうちから大和四座に扶持を与えることを定めました。以来 能役者は、社寺の手を離れて武家の支配を受けるようになりました。
この時期、豪華絢爛な桃山文化の隆盛を背景に、豪壮な能舞台の様式が確立され、装束も一段と豪奢になったほか、能面作者にも名手が輩出し現在使われている能面の型がほぼ出揃いました。
演出や詞章についても 整備が進み、狂言にも名手が続出したこの時代は、能楽の復興期であるとともに大きな転換期でもありました。
江戸時代の能
秀吉の没後、征夷大将軍となった徳川家康も能を保護しました。
また新たに喜多流が一流樹立を許され、以来 四座一流が幕府の「式楽(儀式用の芸能)」と定められました。この四座一流には大夫職が設けられ、能の中心は江戸に移って能役者の生活も安定していきました。
また、地方の有力諸藩も幕府にならって四座一流の弟子筋の役者を召し抱えたのでした。
しかし、幕府や諸藩は 能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもありました。頻繁に出される厳しい通達や、「座」付の体制が整備されたことによって、逆に能楽の歴史の流れの中では自由な発展性が閉ざされる結果となったともいえましょう。
とはいえ、定まったそれぞれの曲の中での創意工夫は、「小書」という特殊演出を生みました。また実際に接する機会といえば、「勧進能」「町入能」などといった特殊な場合に限られてはいたものの、町人の間に謡本が普及したことによって、「謡」が全国的に広まりました。
近代の能楽
明治維新によって保護者を失った能役者の多くは廃業、転業を余儀なくされ、ワキ方や囃子方、狂言方には断絶した流儀もありました。しかし、外国の芸術保護政策の影響を受けて、国家の伝統芸術の必要性を痛感した政府や皇室、華族、新興財閥の後援などによって、能楽は息を吹き返したのです。
その後、第二次世界大戦後の混乱期にも、大きな打撃を受け存亡の危機にさらされましたが、多くの人々の懸命な努力に支えられよみがえり、わが国を代表する古典芸能として、今では海外からも高い評価を受け今日に至っています。
[狂言]
参考:『狂言の基礎知識』能楽協会 https://www.nohgaku.or.jp/guide/%E7%8B%82%E8%A8%80%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9F%A5%E8%AD%98
狂言は、中世の庶民の日常生活を明るく描いた、セリフが中心の喜劇です。能と異なり、ほとんどは面をつけずに演じられ、笑いを通して人間の普遍的なおかしさを描きだします。
狂言の笑い
狂言は笑いを通して人間を描く。狂言では登場人物の失敗を作品の中心にすることが多いが、失敗の原因は、欲心を持つ、見栄を張るなど、誰しもが思い当たる心持であり、結果も生死にかかわるような深刻なものではない。それゆえ失敗を笑うといっても、その笑いは大らかで朗らかなものである。
さらに役者の身体の動き自体から伝わる笑いもある。役者が謡や囃子に合わせて体を動かしたり、大きな演技をしたりすると、観客も気分が浮き浮きとしてくることがある。
しばしば、狂言には祝言の笑いがあると言われる。芸能の本質でもあるめでたい台詞や内容、あるいは浮きやかな動きなどが舞台で繰り広げられることで、めでたい雰囲気が観客にも伝わってくる。
とはいえ、狂言は笑いだけを描いているわけではない。夫婦の情愛などをしみじみと描いた情趣あふれる内容や、人間の隠れた本質を突くような作品もある。このような作品も成立時点では笑いの要素が強かったのだろうが、何世代にもわたる役者の工夫によって次第に洗練され、笑いもペーソスも細やかな心理も描き出すような演劇になったのである。
代表的な役柄
狂言には様々な役柄が登場するが、通底するのは庶民性と豊かな感情表現という点であろう。
太郎冠者
多くの作品に登場する太郎冠者は、主人や大名に仕える使用人である。中世の現実の身分制度においては、主人の命令に逆らえない下人の立場にあった。しかし狂言に登場する太郎冠者は、ときには主人に逆らい、やりこめるようなしたたかさと機転を備えている一方で、詐欺師に騙されたり、酒好きが高じて失敗をしたりするような面も持っている。作品によってどんな面が強調されるかは様々だが、どの太郎冠者にも共通するのは、無邪気に喜怒哀楽を見せる、にくめない明るい性格であり、それゆえ狂言を代表する登場人物となっている。
大名
狂言の大名は江戸時代の藩主にあたる存在ではなく、中世の地方の小さな領主である。尊大な威張った態度をとる一方で、涙もろく世間知らずの面もあり、失敗をして恥をかくこともある。それでもやはり大名であるので、大らかさや骨太の演技が求められる役といえる。
女
狂言に登場する女性は生活力にあふれ行動力のある役柄が多い。夫を思うあまりに嫉妬や怒りを露にすることもあり、狂言の女性は「わわしい女」と評される。
山伏や僧侶
宗教者が登場する作品には、彼らを風刺の対象にして笑い飛ばすものがある。
中世・近世初期に僧侶は教養と知識があると見なされ、敬われる存在であった。一転、狂言では、経を知らない、布施に執着する僧が登場し、無知や欲深さゆえに失敗をしてしまう。
人知を超えた修験の力があるとされた山伏も、自分の験力を誇るものの、その力が役に立たなかったり、逆に力を制御できなかったりという結果になる。
すっぱ
すっぱとは詐欺師のことであり、その騙しの内容が作品の中心となっていく。狂言には珍しく悪人ではあるが、それでも徹底した悪人ではなく、もちろん残忍性などもない。あくまでも言葉を巧みに操って人をたばかるのである。ずるさや調子の良さといった面も、また人間の一面を表しているといえよう。
人間ではないもの
狂言の神は福神や七福神など現世利益的な願いを叶える存在で、人間から遠い存在ではない。鬼や雷も人間を威嚇し、恐ろしさはあるが、人間と同じように泣き笑う存在として描かれている。
ほかにもキノコや蚊・蟹の精などといった、人間に身近な生き物が登場する。小さく、か弱いと思われていたものが、それぞれの能力を発揮して人間を圧倒する筋が多く、そこに驚きと面白さが生まれる。
演技の特徴
狂言の中心は会話であり、台詞が重要となるため客席の隅々までとおる声が求められる。狂言ならではのアクセントによって台詞が発せられ、役柄によって声のトーンは工夫されるが、女の役だからといって声色を作るようなことはない。物語を語って聞かせる語りが見どころとなる作品も多く、抑揚や緩急といった語りの技術も必要となる。
動きには基本の姿勢(カマエ)と歩き方(ハコビ)がある。腰を少し後ろへ引いて反らせ、膝と足首をやや曲げた姿勢で、腰の位置を変えずにすり足をする。このような基本の上に笑う・泣く・拝む・酒を汲み飲む・舟を漕ぐなどの写実的な「型」が付け加えられる。狂言の動きは観客が見て何をしているかすぐにわかるものであり、現実の動作よりも大きく誇張され、擬音語を伴って演じられることが多い。
喜劇である狂言は現実生活よりも大きな動作をするが、笑いをとりに行くようなあざとい演技はしない。発声やカマエ・ハコビ・型などの基本的な要素の上に、役者個人が作品や人物像を解釈し、間(ま)や動きの調節をして演じていく。
歌舞の要素も重要である。酒宴の場面では小舞が舞われ、能のように抽象的な型をつなげて舞う。中世の流行歌である小歌や平家節などの謡が趣向の中心となる作品もある。
間狂言
狂言役者は能の中にも一役として登場し、その場合はアイまたは間狂言と呼ばれる。多くの能では、前シテが中入り(一旦舞台から退場すること)をして、後半に後シテとして再登場するまでの間、アイの演技が中心となる。ワキである僧の前にアイの土地の男が現れ、前シテが語った内容を再度語り、僧に供養を勧め立ち去る。能のシテである幽霊や精霊は昔に思いを残して過去の視点で語るが、土地の男という今を生きるアイの役は、現在の視点で昔物語を相対化して語る。そして後半、再び舞台は後シテによる過去の物語の再現へと変わってゆく。このように現在と過去を行き来する能においては、アイには能の曲趣に合わせた語りの技術が求められる。
また前半と後半の間だけでなく、一曲を通してアイが活躍する作品もある。アイは船頭・寺男・山伏の召使などに扮し、シテやワキなどと台詞を交わして筋を展開させていく。シテやワキなどが荷いきれないような滑稽さや人間味を醸し出す役割を負っているといえる。
狂言面
能と同様に狂言でも鬼・神・動物・精霊などに扮する際には面をかける。狂言面は能面と比べると、親しみやすい表情をしている。
例えば鬼に用いる「武悪」という面がある。目じりの下がった、はれぼったい瞼に覆われた大きな眼や、むき出した歯などの「武悪」の造形からは、全体的にユーモラスな印象を受ける。人間らしい行動や思考をする鬼にふさわしい面といえる。
女の役は基本的に面を用いず、素顔のままで演じる。上記に述べたような「わわしい女」は、装束の小袖に、ビナンと呼ばれる長く白い布を頭に巻いた姿をする。
ただし「乙」という女の面を使うこともある。乙は低い鼻、しもぶくれの頬といった特徴があり、愛嬌や可愛らしさを感じさせる。乙の使用は限定的であって、「わわしい女」のように他の役と向き合い、会話を重ねていく役には使われない。女の顔を見た男がその容貌に驚くといった趣向の作品の女や、茸や鬼の女の子などに、乙は用いられる。台詞自体がそれほど多くなく、存在そのものに重きが置かれる特徴がある。
装束
装束の柄や模様は斬新なものが多く、例えば太郎冠者が着る肩衣の背には、鬼瓦や蕪、瓢箪など大胆で印象的な図案が染められている。肩衣の下に着る縞熨斗目や狂言袴などの装束との組み合わせによって、太郎冠者の明るさを引き立ている。
大名、主人、女、僧、山伏などは、装束と小道具などによって、その役が何者であるかわかるものが多い。動物でも狐や猿、狸の役は、写実的な面とモンパといった着ぐるみによって、その動物であることが一目瞭然である。一方で馬や茸、蚊などは、そのものの姿を真似て扮するのではなく、面や装束、頭や小道具などで、それらしさを表現する。
能では役者は白足袋を用いるが、狂言では淡い金茶色・黄色の足袋をはく。家によっては細い縞が入っている。
◎参考:『歌舞伎ってどんな芸能?』国立劇場制作部歌舞伎課 松﨑彩加 文化庁広報誌 ぶんかる
https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/youkoso/youkoso_061.html
◎参考:『歌舞伎の歴史』初めての方へ 歌舞伎美人(松竹株式会社) https://www.kabuki-bito.jp/lets-kabuki/history/
歌舞伎の語源は「傾(かぶ)く」。流行の最先端をいく奇抜なファッション、世間の常識はお構いなしの「かぶき者」をまねた扮装で見せたのが、歌舞伎のルーツといわれる「かぶき踊り」でした。既存の考えにとらわれずに流行を取り入れ、人々を楽しませる――それは、歌舞伎がたえず受け継いできた精神なのです。
歌舞伎を成り立たせているのは、芝居、踊り、音楽。この3要素で楽しませることを追求し、一つの総合芸術にまで磨き上げてきました。面白いものを貪欲に取り込み、楽しませるための工夫や努力を重ねた結果が、歌舞伎を多彩なものにしました。江戸と上方(京都大坂)を中心に、各時代の観客の趣味嗜好を反映し、名優、名作家たちの活躍で新しいレパートリーを増やしながら今日の歌舞伎に至ります。お上に頼らず、市井の人々が育ててきたところに大きな特徴があります。
そのレパートリーは700以上で、基本は“ロングラン”。一つの作品に、俳優や裏方の数えきれない工夫が重ねられ、今現在の集大成が、目の前の舞台に広がっている――それが歌舞伎なのです。
◎参考:『5分でわかる!芸能(歌舞伎)』トライ https://www.try-it.jp/chapters-13570/lessons-13587/point-2/
阿国歌舞伎→女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎
◎参考:『歌舞伎』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E
歌舞伎(かぶき)は、日本の演劇で、伝統芸能の一つ。1603年(慶長8年)に京都で出雲阿国が始めたややこ踊り、かぶき踊り(踊念仏)が始まりで、江戸時代に形成されたものである。
日本の重要無形文化財に1965年(昭和40年)4月20日に指定され、2005年(平成17年)にはユネスコにおいて傑作宣言され、2009年(平成21年)9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。
歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われている。戦国時代の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標は松竹が取得している。
歴史
草創期
歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。阿国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている。
『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のことで、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである。後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている。しかし内容面では両者は質的に異なったものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びという性的な場面を含んだものである。
なお、この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。
「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった。
その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった。今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50から60人もの遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという[18]。
ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていたことからも分かるように好色性を持ったものであった。全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていた。
しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった。遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年、第3代将軍の徳川家光時期)であるとされていたが、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった。
なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているものがあるが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録がある[12]。また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する。
元禄
次の画期が元禄年間(1688~1704)にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文・延宝の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた。江戸四座のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である。
元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。藤十郎の演技は、後に和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた。芳沢あやめ (初代)も京随一の若女形として評判を博した。
なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない。また荒事の成立過程はよくわかっておらず、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない。
狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。
作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った。すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である。
また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられたのである。これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。
江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰された。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。
享保から寛政
歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである。享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。宝暦年間の大坂では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた。これらの工夫は江戸でも取り入れられた。こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展した。
作品面では18世紀から趣向取り・狂言取りの手法が本格化した。これらは17世紀の時点で既に行われていたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になった。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる。
また、この頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった。
延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(1746年)、4年(1747年)、5年(1748年)である。
またそれから少し遡る享保16年(1731年)には初代瀬川菊之丞が能の道成寺に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を収め、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた[36][注釈 7]。その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年(1753年)には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった。
宝暦9年(1759年)、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立した。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い[37]。
文化から幕末
これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し[38]、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言)を確立して評判を得た。
天保3年(1832年)には五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられた。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。
しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。
幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。
江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別されたとされる。
明治から昭和初期
明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求したのである。江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった。
1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で[33]演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストらが参加した。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった。
時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した。それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めた。
こうした團十郎の芸は高く評価されながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみで、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けたが、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適用され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていったことが活歴の歴史的意義である。
劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。
歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった[33]。他にも歌舞伎の中央集権化[33]、改良演劇の確立[33]、歌舞伎演出の様式美化の促進[33]といった影響があったことが指摘されている。
一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えた。
19世紀末[45]になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場した。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演、「新しい観客の掘り起こし」によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」である。松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。
その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された。
第二次大戦後
第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
終戦後の1945年(昭和20年)9月22日、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から、「封建的忠誠」や「復讐の心情に立脚する」「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。同年11月15日、GHQは東京劇場上演中の『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった。一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復した。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こった。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」を創り出した。また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家や映画監督山田洋二演出で女優寺島しのぶで文七元結物語が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。
歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。
演目
分類
現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊に分けられる。
歌舞伎狂言は、さらにその内容により時代物と世話物に大別される。時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品[53]や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう。一方、世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう。
時代物のうち、お家騒動を書いたものは御家物(おいえもの)、飛鳥時代から平安時代を描いたものは王朝物(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に写実的要素の濃いもの[56]を生世話物(きぜわもの)という。明治になると当時の世相を描いた散切物という世話物のサブジャンルも生まれた。
また歌舞伎狂言はその起源によって分類することもでき、人形浄瑠璃の演目を書き換えたものを丸本物といい、能・狂言の曲目を原作としてそれらに近い様式で上演する所作事を松羽目物[注釈 13]という。丸本物は義太夫物・義太夫狂言・でんでん物などとも呼ばれる。なお丸本物の対義語は純歌舞伎[59]である。
活歴物(かつれきもの)は明治期に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして生まれた演目の総称であり、新歌舞伎(しんかぶき)は、明治後期から昭和初期にかけて、劇場との関係を持たない独立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の総称である。なお、第二次世界大戦中から戦後以降に書かれた新しい演目は、新作歌舞伎(しんさくかぶき)または単に新作(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは区別している。
歌舞伎狂言の分類方法は人によって揺れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例もある。
特徴
歌舞伎の演目には他の演劇の演目にはない特徴がいくつかある。まず歌舞伎狂言は世界という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開するうえでの時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもの[61]で、たとえば「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。当時の観客はこれらの約束事に精通していたため、世界が設定されていることにより芝居の内容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものであることも多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れていることも珍しくない。
複数の世界を組み合わせて一つの演目を作ることもあり、これを綯交ぜ(ないまぜ)とよぶ。世界ごとに描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結びつけてひとつの演目を作りだす。
江戸時代に作られた演目のその他の特徴として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり、場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりすることなどがあげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演したことによる。一方、後者は興行の中にさまざまな場面を取り込むことで多種多様な観客を満足させることを狙ったものである。
現在ではこのような長大な演目の全場面を上演すること(通し狂言)はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じること(ミドリ/見取り)が多い。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」(所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。
また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を仮名にしたうえで無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても羽柴秀吉のことを「真柴久吉」と呼ぶ程度のもので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった。
演目名と通称
江戸時代の歌舞伎狂言の演目名(外題(げだい)という)は縁起を担いで「割りきれない」奇数個の漢字で書けるものが選ばれることが多く、その読み方は粋を競って当て字や当て読みを駆使したものであるため、一見しただけではその読み方が分からないものも少なくない。こうした事情により、外題のほかにより親しみやすい通称がついていることが多く、この場合もともとの外題を通称と区別するために本外題と呼ぶ。また各演目の人気のある場面(段・場・幕など)には演目それ自身の通称とは別にその場面の通称がついている場合もある。
具体例は下記のとおりである。
演目そのものに通称がついている例:
『都鳥廓白波』(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)
『大塔宮曦鎧』(おおとうのみや あさひの よろい) →『身替り音頭』(みがわり おんど)
『慙紅葉汗顔見勢』(はじ もみじ あせの かおみせ) →『伊達の十役』(だての じゅうやく)
『刈萱桑門筑紫𨏍』(かるかや どうしん つくしの いえづと) →『刈萱道心』(かるかや どうしん)
『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ) →『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)
『与話情浮名横櫛』(よはなさけ うきなの よこぐし) →『切られ与三』(きられ よさ)
『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ) →『葛の葉』(くずのは)
特定の段に通称がついている例:
『絵本太功記』(えほん たいこうき)十段目「尼ヶ崎閑居の場」 →『太十』(たいじゅう)
『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)二段目「天満紙屋内の場」→『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)
『国性爺合戦』(こくせんや かっせん)二段目「獅子ヶ城楼門の場」→『楼門』(ろうもん)
『楼門五三桐』(さんもん ごさんの きり)二幕目返し「南禅寺山門の場」→『山門』(さんもん)
『平家女護島』(へいけ にょごがしま)二段目切「鬼界が島の場」→『俊寛』(しゅんかん)
『恋飛脚大和往来』(こいびきゃく やまと おうらい)二段目「新町井筒屋の場」→『封印切』(ふういんぎり)
『義経千本桜』(よしつね せんぼん ざくら)四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』(よしのやま)、四段目切「河連法眼館の場」→『四ノ切』(しのきり)
なお、返し(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意ができ次第すぐに次の幕を開けること、切とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義経千本桜』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。
「外題」という語は「芸題(げいだい)」が詰まって「げだい」になったとする説もあるが、古代から中世にかけては絵巻物の外側に書かれた短い本題を「外題」、内側に書かれた詳題を「内題」と言っており、これが起源だとする説もある。外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江戸歌舞伎では名題(なだい)といっていた。こちらにも「内題(ないだい)」が詰まって「なだい」になったとする説があり、上方の「外題」と江戸の「名題」で対になることが、絵巻物起源説の根拠となっている。
演出
舞台上の黒衣
歌舞伎の舞台には役者に小道具を手渡すなど演技の手助けをする役割の人物がいることがあり、この人を後見(こうけん)という。特に全身黒装束に身を包んだ後見を黒衣後見(くろごこうけん)、あるいは略して黒衣(くろご)という。役者以外の人物が舞台に登場しないことが原則の通常の演劇と違い、黒衣をはじめとした後見は観客の目から見える位置に現れる。しかし後見たちが舞台にいないものとして扱うのが歌舞伎の暗黙の了解である。
黒衣以外にも、紋付袴の後見(着付後見(きつけごうけん)もしくは袴後見という)や裃の後見(裃後見(かみしもごうけん)という)もいる[67]。さらに海や水辺の場面に登場する青装束の波後見(なみごうけん)、雪の場面に登場する白装束の雪後見(ゆきごうけん、白衣(しろご)とも)などの後見がいるが、波後見は幕末、白衣はおそらく明治以降に考案されたものである。
また歌舞伎の演出では拍子木(ひょうしぎ)あるいは略して柝(き)を用いることがあり、芝居の開始時の合図として打ったり幕切れで打ったりし、これらのときには2本を打ち合わせる。また役者の足取りに合わせて打たれたるなど、動作や物音を強調するためにも用いられ(ツケという)、この場合には床に置いた板(ツケ板)に打ちつける。
隈取の例
隈取はおもに時代物で行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、もともとは血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、青系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。
見得は演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止することを指す。映画におけるストップモーション技法に相当し、役者を印象づけたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられる。六方(ろっぽう)は伊達や勇壮なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、当初は舞台への出のときに行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ込みのときにこれが行われる。
外連(けれん)は宙乗りや早替り、仕掛けなどを使うなど観客を驚かせるような演出である。
役者
名跡と屋号
一代に終わらず何代も受け継がれる歌舞伎役者の芸名は、名跡(みょうせき)と呼ばれている。名跡を継ぐことを襲名(しゅうめい)といい、役者たちは経験を経るにつれ、名跡を順々に取り換えて次第に大きな名跡を継いでいく。実子や血縁者が継承することが多いが、養子や実力のある高弟らに名跡を継がせることもある。ただし、ここでいう養子は法的な意味でのそれとは限らず、いわば芸の上での養子であることもあり、これを芸養子という。
役者たちは名跡とは別に名跡・芸名ごとにきまる屋号(やごう)を持っている(歌舞伎役者の屋号一覧参照)。歌舞伎では役者の登場時やセリフ・見得が決まった時などに大向こう(≒後ろの方の席)などから役者に声をかける習慣があるが、その時は芸名でなく屋号で呼ぶのが基本である。
役者の養成
歌舞伎役者の家柄に生まれた者の場合、幼少時から芸の基礎となる習い事(日本舞踊、長唄、鳴物など)を始め、未就学のうちに役者の子や孫として舞台に上がる「初お目見え」、そして「初舞台」を経験し、子役として舞台経験を積む[73][74]。思春期になり変声をすると役がつかなくなり、20歳ごろまでは稽古をしながら学業に励む時期となるため、ここで自らの進路について考えることとなる。歌舞伎役者になることを選ばない者もいる。
歌舞伎とは関係のない家に生まれた世襲以外の志望者については、国立劇場の新人育成研修、1997年に開塾した松竹上方歌舞伎塾で研修生を募集しており、選考試験に合格した者が研修を受けることができる。研修終了後は国立劇場養成課などを通じ、歌舞伎俳優に弟子入りをして、師匠から芸名をもらう。また入門後に歌舞伎の世界の礼儀作法やしきたりなどを覚え、セリフの無い役や立ち廻り、後見や付き人などとして役者修行をはじめる。このような経緯を辿って役者となり、抜擢も受けるようになった例としては、二代目市川笑也や中村芝のぶ、二代目市川月乃助や二代目市川春猿らが知られる。
ほか、子役で歌舞伎の舞台に出演したときに素質を見込まれて部屋子・芸養子となると、役者と同じ楽屋で鏡台を並べ、有力な役者の子弟(御曹司)と同様に教育を受けることとなる。このように育成された例としては、五代目坂東玉三郎や六代目片岡愛之助などが知られている。
歌舞伎界に入門して10年以上で幹部俳優の推薦を受けた役者は、日本俳優協会の名題資格審査(名題試験)を受験することができる。筆記・作文・実技の審査に合格して『名題適任証』を取得し、関係各方面の賛同を受けて名題昇進披露を行った者は「名題俳優」と呼ばれる。歌舞伎俳優の家に生まれた者も歌舞伎とは無関係な家に生まれた者も、同様に受検して資格を得ている。名題に昇格していない者は「名題下」と呼ばれるが、『名題適任証』を取得しているにもかかわらず、あえて昇格をしない者もいる。単なる身分の上下ではなく、立ち廻りの演出を行う専門職の立師(たてし)は名題下の職分であるためである。
銀行員であったが市川宗家に婿入りしたことから29歳で役者修業に入った五代目市川三升、三代目市川猿之助と浜木綿子の息子として生まれたが両親の離婚のため母親に養育され、長らく本名で俳優活動を行った後に45歳で歌舞伎の世界に入った九代目市川中車などは珍しい例といえる。
伝統歌舞伎保存会
社団法人伝統歌舞伎保存会は、1965年(昭和40年)に文化財保護法に基づき設立された団体である。
翌1966年(昭和41年)4月に歌舞伎は国の重要無形文化財に認定され、同会はその保持団体として認定を受けた。会員は歌舞伎関係者のうち「舞台経験20年以上の技能に優れたもの」で、重要無形文化財「歌舞伎」の保持者として総合認定を受けている。俳優、長唄(唄方、三味線方)、竹本(唄方、三味線方)、鳴物、狂言作者[84]など、2021年6月の時点で現会員は199名(引退・物故会員247名)である[85]。
独立行政法人日本芸術文化振興会(国立劇場)や松竹と協力し、歌舞伎俳優(1970年より)と歌舞伎音楽演奏者(竹本は1975年、鳴物は1981年、長唄は1999年より)の新人養成事業を行っている[86]。また若手俳優や演奏家に対して各劇場の稽古場で日常的に研修を行うほか、研修・勉強会に指導者を派遣するなど、歌舞伎という芸能の伝承と育成のための活動[87]、中学生・高校生を対象としたワークショップも継続している。
2020年5月28日に日本俳優協会とYouTubeチャンネル「歌舞伎ましょう」を開設しており、歌舞伎の魅力を伝えるための動画配信を行っている。歌舞伎の舞台裏や役者の稽古の様子、自主公演のPRや私生活での趣味など多種多様な内容の動画がアップロードされており、六代目市村竹松・尾上音蔵による歌舞伎・歌舞伎化粧の英語解説の動画も作られている。
舞台
舞台の各部分
客席から舞台を見たとき右側を上手(かみて)、左側を下手(しもて)という。
花道は舞台下手から客席を貫いて設けられている通路状の舞台である。正面の舞台は本舞台という。花道は役者の入退場に用いられるばかりでなく、ここで重要な演技も行われる。観客のすぐそばを通ることで役者の存在感をアピールするなどの演出が可能となる。
舞台の両端には大臣囲い(だいじんがこい)があり、下手側の大臣囲いには太鼓などの演奏や長唄、効果音などを演奏するための場所で外側には黒い御簾(みす)がかけられている。この場所を黒御簾(くろみす)もしくは下座(げざ)ともいい、ここで奏でられる音楽を黒御簾音楽もしくは下座音楽という。一方、上手側の大臣囲いの2階は義太夫狂言(=人形浄瑠璃から取り込んだ演目)などで竹本という語り物とその伴奏である三味線を奏でる場所で、床(ゆか)と呼ばれる。大臣囲いの端の柱は大臣柱(だいじんばしら)と呼ばれている。これは現在では単なる柱にすぎないが、歴史的には歌舞伎舞台の先祖である能舞台で屋根を支える柱からきており、歌舞伎においても古くは舞台の屋根を支えるために用いられていた。
花道の舞台とは反対側の端には役者が入退場するための鳥屋(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を隠すための揚幕(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所を舞台寄りの七三、7:3に分ける場所を揚幕寄りの七三といい、花道上の演技は多くの場合このいずれかの場所(特に前者)で行われる。舞台寄りの七三にはセリがあり、すっぽんと呼ばれている。すっぽんは妖怪や幽霊などを演じる役者が登場したり退場したりする場合に使われる。花道は通常下手にしかないが、演目によっては演出の都合上、上手側にも花道を仮設する場合があり、これを仮花道(かりはなみち)という。
なお歴史的には七三といえば揚幕寄りの七三のことであったが、大正の頃から混同が起こり「七三」という言葉が舞台寄りの七三のことも表すようになった。混同された理由としては、揚幕寄りの七三が2階席から見づらいために演技の位置が舞台よりの七三に移ったこと、無知なジャーナリストが誤用した可能性などが挙げられている。また「鳥屋」という言葉は上方のものであり、江戸ではこの部屋も揚幕と呼ばれた。
日本の家屋は床が地面よりもかなり高いため、舞台でもこの高さを作り出すことが多い。この高さの水準を二重舞台、略して二重といい、そのための大道具類も二重と呼ばれる。高さによって常足、中足、高足などがある。どれを使うかは場面によってだいたい決まっている。
舞台機構
廻り舞台
廻り舞台(まわりぶたい)は舞台中央にあって、水平に回転する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の装置を仕込んでおき、回転させることによって素早く場面転換ができる。通常は役者が舞台に乗ったままの状態で、装置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の装置をこわし、さらに次の場面の装置を仕込むことができる。廻り舞台の回転は歌舞伎の見せ場のひとつで、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回転させ、場面転換を観客に印象づけることができる。この手法を明転(あかてん)という。また、たとえば悪だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に乗せ、一方から他方への転換を見せ、次に逆回転させて元の場面に戻るというようなことができる[注釈 27]。これを俗に「行って来い」といい、場面が戻るとともに時間も戻るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を強く表現できる。
『佐倉義民伝』の子別れ、『入谷』などのように、少しだけ廻して建物の横などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では装置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある装置を組むことがある。ときには裏側まで作る。
迫り
迫り(セリ)は昇降装置で、地下(奈落(ならく)という)からせり上がって役者の登場や退場に使われるほか、大道具それ自身をせり上げることで屋敷の地下が現れるなどの迫力のある演出を行う。回り舞台が場面を水平方向へ、迫りが鉛直方向に切り替えて立体感を出す。なおセリの配置や個数は劇場により異なる。廻り舞台や迫りは今日では様々な演劇に用いられているが、もともとは享保年間に歌舞伎に取り入れられたものである。
幕
歌舞伎では舞台と客席を仕切る幕として定式幕という引き幕(=横方向に引いて開閉する幕)が用いられる。現在用いられている定式幕は三色の縦縞であり、色は左から黒、柿、萌黄の順(歌舞伎座や京都南座など)もしくは柿、黒、萌黄の順である(国立劇場や大阪新歌舞伎座など)。平成中村座は例外的に左から黒、白、柿の順の三色を用いている。
また歌舞伎座などでは上に開く幕である緞帳も定式幕の後ろに備え付けられており、明治以降に作られた演目の場合は定式幕の代わりに緞帳を用いる場合がある。また開場直後や長い幕間では緞帳が下りているが、芝居が始まるだいぶ前の段階で緞帳を上げる。その後定刻になると(江戸時代に作られた演目であれば)定式幕を下手から上手へ引き開けて芝居が始まる。
江戸時代に引き幕を使用することができたのは幕府から許可を得た芝居小屋だけであり、定式幕はいわば官許の芝居の証のひとつであった。江戸には幕府の許可を得た芝居小屋は3つのみ(江戸三座)であり、前述した3種類の定式幕はそれぞれ江戸三座の森田座、市村座、中村座に起源を持つ。ただし引き幕に関する事情は地方によって異なり、たとえば上方では紺無地一色の幕を中央から2つに分けて開いていた。
一方幕府の許可のない場所での芝居はさまざまな制限を受けており、引き幕を使えないため代わりに簾を上下させて幕の代わりに利用していた。したがって歌舞伎における緞帳の歴史をさかのぼるとこうした許可のない芝居小屋にたどりつくが、現在歌舞伎で使われている緞帳の起源は別にあり、明治12年新富座の贈り幕(=大夫元や役者が贔屓客から貰った豪華な幕)がその起源である。
その他にも演出上の都合で別の幕が使われることもある。浅葱幕はその名の通り浅葱色の幕で、定式幕のすぐ後ろに配置される。舞台上部で吊られており、吊っている部分を引っ張ることで簡単に幕を落下させられる(「振落し(ふりおとし)」という)。通常であれば定式幕が横に開いていくとそれに従って役者や背景が順に観客の目に入っていくが、浅葱幕はそれを遮る目的で使用される。そして定式幕が完全に開いた段階で浅葱幕を振り落とせば舞台が一瞬にして観客の目の前に表れるため、舞台の鮮やかさを観客に印象づけることができる。逆に舞台上部の棒に縛った浅葱幕を芝居の途中で下ろすことで一瞬にして舞台を観客の目から隠す(「降りかぶせ」という)目的でも使用される。
道具幕は背景として用いられる。道具幕には浪幕(なみまく)、山幕(やままく)、網代幕(あじろまく)などがあり、それぞれ海の波、山、塀の築地が描かれている。黒幕(くろまく)は黒一色の幕で闇夜を表すための背景として用いられる。これらの幕は浅葱幕と同様の仕組みで振り落とされる場合もある。
また不必要なものを隠す目的でも幕は使用され、消し幕は殺された人物の退場、霞幕(かすみまく)は竹本や清元などの演奏者の入退場や演奏していない状態を隠す目的で使用される。消し幕は時代物では緋毛氈(ひもうせん)、世話物では黒布を使用する。霞幕は白い布に水色の雲が描かれた布で作られており、霞のようであることからこの名称で呼ばれる。また化粧幕は化粧を直している役者を隠す目的の緋色の幕で、鳴神など古風な演出を狙った狂言で用いられる。
照明
歌舞伎の古典的な演目では舞台上のどこにも影がなく、均一な照明が好まれるため、通常の劇場の前明かりばかりでなく、舞台上・舞台脇にも多くの明かりがある。現在の歌舞伎座には7列のボーダーライトと5列のサスペンションライトが設備されている。ボーダーライトは作業用の照明ではなく、上演中に点灯するためのものである。
歌舞伎音楽
歌舞伎には、多彩な音楽が用いられる。これは「歌舞伎」が本来、最初から劇として作られた演目、人形浄瑠璃を原作とした演目、さらには舞踊といったさまざまの種類の舞台を総合したものであり、各分野に適応した音楽が存在するためである。大きく分けて(1)歌物である長唄と、(2)語り物である浄瑠璃がある。演奏家たちを地方(じかた)という。
長唄
歌舞伎の伴奏音楽として発達した音楽。舞踊劇や舞踊で演奏される(例:『勧進帳』『連獅子』など)。また囃子方とともに下座音楽を担当する。
義太夫節
人形浄瑠璃は、義太夫節(浄瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目(『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など)は同様に義太夫節が演奏される。人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明をすべて義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、太夫は状況の説明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を「竹本(チョボ)」といって区別することがある。義太夫狂言での義太夫節はおもに舞台上手上部にある専用の場所で演奏される。この場所を「床(ゆか)」または「チョボ床」と呼ぶ。
常磐津節・清元節
ともに浄瑠璃のひとつ。大坂で発展した義太夫節に対し、これらは江戸で発展したもので「江戸浄瑠璃」と呼ばれる。重厚な義太夫節に比べて軽妙洒脱な芸風が特徴で、清元節はさらに繊細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。常磐津節『関の扉』『戻駕』、清元節『落人』『保名』など。
その他
上記の他に、大薩摩節、河東節、新内節などが使われる演目がある。江戸浄瑠璃の一つである富本節(常磐津節と清元節の系譜の中間に位置する)は江戸時代に盛んに用いられたが、近代以降は衰退し、現在では歌舞伎の伴奏として演奏されることはない。
下座音楽
「黒御簾音楽」ともいい、劇中音楽を担当し、「黒御簾(くろみす)」と呼ばれる舞台下手脇の専用の場所で伴奏音楽や効果音を演奏する。効果音では、太鼓を使った水辺を表す音や鉦による寺院の鐘の音など、楽器を使ってさまざまな効果を表す。
長唄は舞台の正面または上手に雛段を設け、そこに出囃子とともに並んで演奏する。義太夫節の床以外での演奏は出語りという。常磐津や清元は山台という台に上がって演奏するが、山台はふつう常磐津だと舞台下手に、清元は舞台上手に置かれる(ただし清元の山台も本来は舞台下手に置くものだったという)。各流派の演奏はひとつの演目の中で単独で行うとは限らず、異なる音曲が順番に演奏を担当する(掛け合い)ものや、合奏するものがある。たとえば『京鹿子娘道成寺』では初めに義太夫が語り、次に長唄が演奏する。また舞踊劇『紅葉狩 』では常磐津節、長唄、義太夫節が掛け合いで演奏し、これを三方掛合(さんぼうかけあい)という[108]。長唄や浄瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や単独での演奏会も行われている。
興行
2014年現在、歌舞伎の興行は松竹がほぼ独占的に行っている。松竹の興行の名称の多くは大歌舞伎、花形歌舞伎のいずれかの名称がついており(例:三月大歌舞伎)、前者はベテランの役者が、後者は若手の役者が中心となる興行を指す。
歌舞伎のみが演じられる劇場としては歌舞伎座があるが、一定の頻度で行われる劇場として発祥の地・南座、大阪松竹座、関東では新橋演舞場、国立劇場、明治座、日生劇場、浅草公会堂(新春浅草歌舞伎)、他の地域では御園座、博多座、旧金毘羅大芝居(金丸座)、内子座、永楽館、康楽館 等がある。その他にも「松竹大歌舞伎」等の名称で全国に地方巡業を行っている。他に福岡県嘉穂劇場、熊本県八千代座で行われることがある。
観劇
以下、歌舞伎座での興行形態を説明するが、ほかの劇場でもこれに準じた形態で興行することが多い。興行は1か月を単位とし、各月の興行は月初めから25日間(途中数日の休演日を挟む[注釈 30])である。
基本的に2部制(3部制のときもある)で、昼の部と夜の部からなる。各部は複数の演目から構成されている場合も多いが、観劇の料金は部単位であり、これら演目の料金をセットで支払う必要がある。昼の部は午前11時から午後4時頃まで、夜の部は午後4時半から午後9時ごろまでである。終了時間は公演内容によって異なる。各演目は見取りで上演されることが多い。すなわち人気場面のみの上演となる。
歌舞伎鑑賞の助けとして「筋書」の販売や、「イヤホンガイド」と「字幕ガイド」の貸し出し(いずれも有料)を行っている。
「筋書」は各演目の(上演する場面の)あらすじを書いた冊子(プログラム)である。「字幕ガイド」は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。
イヤホンガイドは歌舞伎上演中に上演内容の解説を無線で劇場内に飛ばし、観客がイヤホンでそれを聞くことができるサービス(有料)のことである。日本語版、英語版がある。劇場内で料金と保証金を払うことでイヤホンと無線の受信端末を借り受け、終演後にこれらを返却すれば保証金は返される。
イヤホンガイドでは「あらすじ・配役・衣裳・道具・独特な約束事など」を聞くことができる。また歌舞伎興行では通常各演目は人気場面のみの上演となる(いわゆる見取り方式)が、イヤホンガイドは幕間に上演場面の前後のあらすじの解説も行ったり演目の背景知識を説明したりする。
1975年(昭和50年)11月の歌舞伎座顔見世興行から導入された。邪道と言う者もいるが、イヤホンガイド登場以前も、歌舞伎観劇では、歌舞伎通が歌舞伎初心者に客席でひそやかに解説することがあった。その他の歌舞伎
通常の歌舞伎とは演出・興行団体などが異なる歌舞伎興行として以下のものがある。
スーパー歌舞伎:三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)が1986年に始めた現代風の歌舞伎で、特徴としては明治以降の歌舞伎では軽視されることが多い外連(けれん)の重視、現代の価値観に沿った演出などがあげられる。新橋演舞場などで上演されることが多い。2015年現在は三代目猿之助が二代目市川猿翁を襲名して事実上隠居したものの、四代目市川猿之助が後を引き継ぎ「スーパー歌舞伎II(セカンド)」と銘打って新たな演目に挑戦している。
コクーン歌舞伎:渋谷のBunkamuraの劇場シアターコクーンで行われる歌舞伎公演で、古典歌舞伎の演目を新たな演出で上演し、たとえば下座音楽の代わりにエレキギターやクラシック管弦楽を使う。
平成中村座:十八代目中村勘三郎と演出家の串田和美らが中心となり、浅草の隅田公園内に江戸時代の中村座を模した仮設の芝居小屋で行われる。勘三郎逝去後は長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年7月にニューヨークで復活公演を行った[112]。
前進座:公演は歌舞伎のみならず、歴史劇、現代劇や子ども向けミュージカルなど多彩。毎年5月の国立劇場公演を中心に、南座での初春公演、2月国立文楽劇場公演、9月の国立文楽劇場公演、秋の名古屋公演など都市部のみならず、地方での巡業公演も積極的に行っている。
超歌舞伎:2016年のニコニコ超会議2016より行われている公演で、バーチャルアイドル初音ミクと二代目中村獅童を中心とした歌舞伎役者がNTTによる最新テクノロジーを駆使した演出により共演する。2019年8月には京都南座での公演も行われている[113]。「初音ミク」を含めて女性が舞台に上がるのが特徴で[独自研究?]、2021年の『九月南座超歌舞伎』では元タカラジェンヌの花柳まり草を含めた女流舞踊家たちが出演している[114]。
六本木歌舞伎:十一代目市川海老蔵を中心とした新作歌舞伎の公演で、三池崇史が演出している。2017年の六本木歌舞伎座頭市では女優の寺島しのぶが盲目の少女と花魁で出演[115]。
システィーナ歌舞伎:複製画の展示施設である徳島県鳴門市の大塚国際美術館システィーナホールで行われる公演。2009年に初演されて以来ほぼ毎年の恒例行事となっており、「和と洋のコラボレーション」をテーマとして水口一夫による書き下ろし新作が上演される。
滝沢歌舞伎:滝沢秀明を中心とした歌舞伎公演で、前身の「滝沢演舞城」から改題。バンジーやフライング、イリュージョンなどの要素を取り入れている。2019年以降は「滝沢歌舞伎ZERO」に改題。
1955年から1983年までは東宝も歌舞伎を行っていた(東宝歌舞伎)。また歌舞伎以外では劇団新派の公演に歌舞伎役者が登場することが多い。
地芝居
専門の演者による公演のほか、地域住民が祭礼の奉納行事などとして江戸時代以来の伝統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを「地芝居」と呼び、歌舞伎と人形浄瑠璃のどちらかかが演じられることが多い。歌舞伎では農村で行われる芝居(農村歌舞伎)や都市における曳山の上で芝居(曳山祭り)などがある。地芝居における演目の多くは専業の演者による公演と重なり、その影響が強く見られる。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展を見せている公演も存在する。
歌舞伎に由来する語
大向うを唸らす(おおむこうを うならす) - 大向うに座る目の肥えた芝居の見物客の賞讃を博する。転じて、人々の人気を集める。
差金と黒衣
差金(さしがね) - 舞台に舞い踊る蝶・鳥・人魂などの小道具は、長い黒塗りの竿の先に差した針金にそれらを吊るし、後見や黒衣(後述)がこれを舞台上の物陰から操作したが、この小道具一式を差金と呼んだ。そこから意味が転じて、陰で人をそそのかしたり、入れ知恵したりする者がいると思われる場合に、「あれは誰々の差金に違いない」などと言い表すようになった。
黒衣(くろご) - 表には出ないものの、なくてはならない存在。縁の下の力持ち。ただし「黒子」「くろこ」はともに誤用が定着した慣用で、正しい表記は「黒衣」読みは「くろご」。黒装束に黒頭巾を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
黒幕(くろまく) - 歌舞伎の黒幕は通常夜を表すために用いるが[116]、人形浄瑠璃の黒幕は舞台を操る者をその陰に隠すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して舞台を操る興行主・金主(投資者)・芝居茶屋などのことを「黒幕」と呼ぶようになった。そもそも黒という色に悪の意味を絡ませるのは近代になってからの連想で、当時はむしろ御公議の「幕府」「幕閣」や大相撲の「幕内」などの語にみられるように、「幕」という語には「中に立ち入り難く、様子が見えにくい」という語感があった。ここから「外部の者には実情がよく分からない」という意味で、今日の「政界の黒幕」のような使われ方がされるようになったと考えられている。
暗闘(だんまり) - 暗桃とも。登場人物が暗闇のなかにいるという設定で無言で立ち回りを演じること。転じて黙秘することを「黙り」と書いて「だんまり」と呼ぶようになった。
二枚目(にまいめ)・三枚目(さんまいめ) - 一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫禄のある役を務める立役の看板役者を「一枚目」、美男で人気が高い若衆役を務める役者を「二枚目」、面白おかしい役を務める道外方を「三枚目」に掲げていたことが語源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
幕切れ(まくぎれ)・大詰(おおづめ) - それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、江戸歌舞伎の一番目の最後の幕を大詰と言った。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」のように使用される。
千両役者(せんりょうやくしゃ) - 名優と呼ばれる歌舞伎役者の収入は1,000両を超えたことから、転じて素晴らしく活躍した人の意味。女形では初代芳澤あやめが正徳年間(1711年 - 1715年)に、立役では二代目市川團十郎が享保6年(1721年)に、初の年給1,000両を得たという。
十八番(おはこ、じゅうはちばん) - 市川家が得意演目の歌舞伎十八番の台本を桐の箱に入れて保管したことが語源となっている。
歌舞伎症候群(かぶきしょうこうぐん) - 常染色体優性遺伝の遺伝疾患。特有の切れ長の目が歌舞伎役者の化粧を髣髴とさせることから命名された。
参考:『文楽とは』公益財団法人 文楽協会 https://www.bunraku.or.jp/about/
人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、古くはあやつり芝居、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。竹本義太夫の義太夫節と近松門左衛門の作品により、人形浄瑠璃は大人気を得て全盛期を迎え、竹本座が創設されました。この後豊竹座をはじめいくつかの人形浄瑠璃座が盛衰を繰り返し、幕末、植村文楽軒が大阪ではじめた一座が最も有力で中心的な存在となり、その名を「文楽座」というようになりました。「文楽座」の人形浄瑠璃が、その後も継承され、今の「人形浄瑠璃文楽」として存在することとなります。
ユネスコ無形文化遺産
人形浄瑠璃文楽は、ユネスコにより2003年(平成15年)に「人類の口承及び無形遺産に関する傑作」として宣言され、2008年(平成20年)に「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されました。
参考:『人形浄瑠璃 文楽』文化デジタルライブラリー(独立行政法人日本芸術文化振興会)より https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc26/aramashi/int1.html
文楽とは17世紀後半に大坂(現在の大阪)で生まれた「語り物」と「人形」が結びついた芸能。
語り物は物語を声で表現し、人形は物語を視覚的に表現する。
江戸時代竹本義太夫が生み出した語りが大流行して義太夫節と呼ばれるようになり、近松門左衛門が書いた優れた作品と合わさることで大坂中の人気を集めた。
19世紀初めの興行師・上村文楽斎の名から、人形浄瑠璃を「文楽」とよぶようになった。
文楽の作品は大きく分けて「時代物」(歴史上の人物や事件)「世話物」(江戸時代の庶民の生活)「景事」(舞踊劇など)の3種。
物語の筋がわかるように1つの作品の全体を上演することを「通し」、いくつかの作品から、良い場面や人気のある場面を集めて上演することを「みどり」という。
参考:『文楽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%A5%BD
文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し同地を本拠地とする人形浄瑠璃の系譜。
1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。2003年ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」、2008年「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」への掲載、そしてユネスコ無形文化遺産保護条約が発効した2009年9月の第1回登録であらためてユネスコの無形文化遺産に登録された。2019年現在、公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場と東京の国立小劇場を中心に公演を行っている。
1684年、古浄瑠璃を独自に発展させた「義太夫節」の始祖である竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形による三業での人形浄瑠璃の興行を始めた。その後、竹本義太夫の弟子が独立し豊竹若太夫を名のって興した「豊竹座」と競うなど、隆盛の時代には複数の興行元を数えたが、明治初期には興行元が「文楽座」と「彦六座」の2座のみとなった。その後大正期に彦六座の流れを汲む竹豊座が解散、興行が文楽座のみとなったため、現在では「文楽」という2字の名称が、江戸時代のものを含むすべての人形浄瑠璃の代名詞として使われることが少なくないが、実際は下述のように、文楽=人形浄瑠璃ではない。
なお、文楽および文楽座という名称の直接的由来は、兵庫県淡路出身の植村文楽軒という人物が興行元であった上述の文楽座ではあるが、前述どおり、義太夫節の始祖が大坂で直接成立させた人形浄瑠璃の一形態の系譜であるため、人形浄瑠璃文楽を成立させた源流=淡路ということではない(淡路には淡路人形浄瑠璃が存在する)。
人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本の伝統芸能で、浄瑠璃[注 2]と人形によって演じられる人形劇。大正期以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある[注 1]。人形浄瑠璃は、徳島や淡路から全国に伝わり、日本の伝統文化となった。
三業
文楽は男性によって演じられる。太夫・三味線・人形の「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の技芸である。客席の上手側に張りだした「床(ゆか)」と呼ばれる専用の演奏台の上で、太夫と三味線が浄瑠璃を演奏する。そのことから演奏者そのものに対しても「床」と呼ぶことがある(「太夫と三味線」を示す表現として)。同じように人形遣いのことを「手摺」と表現して呼ばれる場合もあるが、これは人形遣いの腰から下が隠れる板のことを手摺ということに由来している。
床には「盆(ぼん)」という回転機構が設けられている。浄瑠璃演奏の基本形である「太夫1人+三味線1人」が乗れる構造で、2人掛かりの人力で180度回転させることで、舞台の緊張感保持に影響させない登場もしくは演奏者交代が可能となっている。
太夫
浄瑠璃語り。配役にて割り当てられた担当場面の物語を、その太夫が1人で全て語る(語ったり歌ったりする)のが基本形で、情景描写から始まり多くの登場人物を語り分けるが、長い作品などでは途中で別の太夫と交代して務める。「掛け合い」の場合には複数の太夫が並ぶ。浄瑠璃には多くの種別があるが、文楽においては竹本義太夫を創始者とする義太夫節が用いられている。
三味線
浄瑠璃三味線を演奏する三味線弾きのこと。太棹の三味線を使う。座り方は正座であるが、膝を広めに座り両足の間に完全に尻を落としている。響きが重いことから「ふと」(⇔細棹は「ほそ」)ともいう。
人形
人形遣い。古くは1つの人形を1人の人形遣いが操っていたが、1734年に『芦屋道満大内鑑』で三人遣いが考案されたと伝えられ(詳細は「芦屋道満大内鑑#三人遣い」参照)、現在では3人で操るのが普通である。主遣い(おもづかい)が首(かしら)と右手、左遣いが左手、足遣いが脚を操作する。「頭(ず)」と呼ばれる主遣いの合図によって呼吸を合わせている。黒衣姿だが、重要な場面では主遣いは顔をさらすこともあり「出遣い」と呼ばれる。非常に特別な演目を除き「出遣い」の場合でも左・足遣いは顔を隠している。ただし、端役の人形は1人の人形遣いが首と右手を操作する1人遣いであり、つめの人形あるいは詰人形と呼ぶ。端役の「出遣い」は行われない。左遣いは差金と呼ばれる棒を用いて人形から少し離れた位置で操作する。左遣いは主遣い・足遣いと違い片手が開いているため道具の受け渡しなどの補助的な役割も分担する。
文楽人形
文楽人形の改良
(1861年(文久元年刊行)の文献[3]による)
足を附けるようになる。・・・・・・17世紀後半(山本土佐椽角太夫(やまもととさのじょうかくだゆう)の時代)の「源氏烏帽子折(げんじえぼしおり)」の木偶より。
指先を動かせるようになる。・・・・1733年(享保18年)「車返合戦桜大森彦七(くるまかえしかっせんざくらおおもり ひこしち)」の木偶より。
帷子衣装を着せるようになる。・・・1745年(延享2年)「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の木偶より。
眉毛を動かせるようになる。・・・・1741年(元文5年)「武烈天皇艤(ぶれつてんおうふなよそおい)」の木偶より。
目を動かし、舌を出し、髪を逆立て、腹を動かせるようになる。…1861年(文久元年)の当時の様子。
現在の文楽人形
文楽人形には、男女のほか、年齢・身分・性格によって「かしら」が異なり、それぞれ以下のような種類がある。
男性のかしら
男性的で哀愁を帯びた強さがあらわれている立役、検非違使・剣菱(けんびし)
嫌味で卑屈な表情の端敵役の陀羅助(だらすけ)
三枚目の敵役、与勘平(よかんぺい)
正直な町人、又平(またへい)
慈愛に満ちた心を持つ老武士、鬼一(きいち)
20代前後の二枚目役、源太(げんだ)
10代の恋愛ものの相手役に用いられる、若男(わかおとこ)
40代から50代頃の武将で、聡明繊細な表情を浮かべた孔明(こうめい)
時代物の豪快な武将、金時(きんとき)
など
女性のかしら
14、5歳の未婚女性他に用いられる、初々しい表情の娘(むすめ)
20代から40代の幅広い女性に用いられる老女形(ふけおやま)
最高位の遊女としての気品と色気、芯の強さを持ち合わせた女性のかしらで、最も華麗である傾城(けいせい)
三枚目役のお福(おふく)
など
素材は木曽檜を用い、眉(アオチ)・目(ヒキ目・ヨリ目)など動くものには仕掛けを、また内部にうなづき糸をつけるなどして、表情を豊かにする工夫が施されている。かしらを動かすための操作索には鯨ひげが使われる。
人形の衣裳はそのつど脱がされ、かしらと別々に保管されている。よって使用する際には、人形遣いは自分で遣う人形の衣裳をつけることが必要となる。それを、人形拵えという。
歴史
人形浄瑠璃について
人形芝居が江戸時代初期に三味線音楽、浄瑠璃と結びついて生まれたとされる。太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった優れた才能によって花開いた。一時期は歌舞伎をしのぐ人気を誇り、歌舞伎にもさまざまな影響を与えた。今日でも櫓下(最高位の太夫)は芸事における地位が高いとされる。多くの歌舞伎が人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を丸本と称するところから、丸本物(まるほんもの)と呼ばれる。
その後、福内鬼外(平賀源内)により江戸浄瑠璃が発生した。18世紀末から19世紀のはじめにかけて(寛政年間)、淡路仮屋出身の初世植村文楽軒は歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった人形浄瑠璃の系統を引き継ぎ、高津橋(大阪市中央区)に座を作り再興させた。この劇場は1872年、三世植村文楽軒(文楽翁)の時に松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。大正期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在となった。
1909年には文楽座は松竹の経営となり、松竹が文楽の興行を行うこととなった。文楽座はのちに御霊神社境内(大阪市中央区)に移転。焼失後の1929年には四ツ橋(大阪市西区)に新築移転したが、1945年の大阪大空襲で再度焼失。翌1946年に復興したが、1956年、道頓堀弁天座跡(大阪市中央区)へ新築移転した。
1948年、松竹との待遇改善がからみ、文楽界は会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂した。こうした内紛もあって戦後は興行成績が低迷。1963年、松竹は文楽から撤退し、文楽座も朝日座と改称。新たに大阪府・大阪市を主体に文部省(現・文部科学省)・NHKの後援を受けた財団法人文楽協会が発足し、文楽界は再統一され、再出発することとなった。
1984年には国立文楽劇場が完成し、松竹の撤退後も文楽を興行して大阪の文楽の定席的役割を担っていた道頓堀朝日座(旧文楽座)は長い歴史の幕を閉じた。
2003年、「人形浄瑠璃文楽」が「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言された(無形文化遺産参照)。
2012年、有料入場者数が3年ぶりに10万人を超えた。劇場の開場25周年だった2009年度以来[5]。
2014年、日本財団が人形浄瑠璃「文楽」の普及をめざし「にっぽん文楽」プロジェクトを立ち上げ、東京オリンピックが開催される2020年まで年2回の全国公演を実施することを発表した。
2015年、2014年度の入場者数が増加。1994年度以来、20年ぶりの高水準で、1984年の劇場開場以来3番目に多い。平均入場者数は、過去最高となった。3月には「にっぽん文楽」プロジェクトの一環で、六本木ヒルズのアリーナに檜舞台を組み立てての公演を実施した。
主な作品
江戸時代から見て過去の出来事を扱った「時代物」と、同時代のことを主題にした「世話物」がある。ほとんどの作品は江戸時代に創作・初演されたものだが、明治以降に創作・初演された作品もある。 昭和年間以降では大西利夫の翻訳、脚本化によりハムレット、蝶々夫人などの「赤毛物」も上演されるようになった。
時代物
芦屋道満大内鑑 (あしやどうまんおおうちかがみ)(葛の葉)
伊賀越道中双六 (いがごえどうちゅうすごろく)(伊賀越)
一谷嫩軍記 (いちのたにふたばぐんき)(一の谷)
妹背山婦女庭訓 (いもせやまおんなていきん)(妹背山)
絵本太功記 (えほんたいこうき)(太功記)
奥州安達原 (おうしゅうあだちがはら)(安達原)
近江源氏先陣館 (おうみげんじせんじんやかた)(近江源氏)
加賀見山旧錦絵 (かがみやまこきょうのにしきえ)(鏡山)
仮名手本忠臣蔵 (かなでほんちゅうしんぐら)(忠臣蔵)
鎌倉三代記 (かまくらさんだいき)(鎌三)
鬼一法眼三略巻 (きいちほうげんさんりゃくのまき)(鬼一法眼)
祇園祭礼信仰記 (ぎおんさいれいしんこうき)(信仰記、金閣寺)
傾城反魂香 (けいせいはんごんこう)(吃又)
源平布引滝 (げんぺいぬのびきのたき)(布引、布引滝)
恋女房染分手綱 (こいにょうぼうそめわけたづな)(重の井子別れ、恋女房)
国性爺合戦 (こくせんやかっせん)(国性爺)
御所桜堀川夜討 (ごしょざくらほりかわようち)(御所桜、弁慶上使)
生写朝顔話 (しょううつしあさがおばなし)(朝顔日記)
新薄雪物語 (しんうすゆきものがたり)(新薄雪)
菅原伝授手習鑑 (すがわらでんじゅてならいかがみ)(菅原)
攝州合邦辻 (せっしゅうがっぽうがつじ)(合邦)
壇浦兜軍記 (だんのうらかぶとぐんき)(阿古屋琴責め)
花上野誉碑 (はなのうえのほまれのいしぶみ)(志渡寺)
ひらかな盛衰記 (ひらかなせいすいき)(盛衰記、逆櫨、源太勘当)
平家女護島 (へいけにょごのしま)(俊寛)
本朝廿四孝 (ほんちょうにじゅうしこう)(廿四孝)
嬢景清八島日記 (むすめかげきよやしまにっき)(嬢景清)
伽羅先代萩 (めいぼくせんだいはぎ)(先代萩)
義経千本桜 (よしつねせんぼんざくら)(千本桜)
良弁杉由来 (ろうべんすぎのゆらい)
世話物
桂川連理柵 (かつらがわれんりのしがらみ)(桂川)
碁太平記白石噺 (ごたいへいきしらいしばなし)(白石噺、碁太平記)
心中天網島 (しんじゅうてんのあみじま)(天網島)
心中宵庚申 (しんじゅうよいごうしん)(お千代半兵衛)
新版歌祭文 (しんばんうたざいもん)(お染久松)
曾根崎心中 (そねざきしんじゅう)(お初徳兵衛)
近頃川原の達引 (ちかごろかわらのたてひき)(お俊伝兵衛、堀川)
壺坂観音霊験記 (つぼさかかんのんれいげんき)(壺坂)
夏祭浪花鑑 (なつまつりなにわかがみ)(夏祭)
艶容女舞衣 (はですがたおんなまいぎぬ)(酒屋)
双蝶々曲輪日記 (ふたつちょうちょうくるわにっき)(双蝶々)
堀川波の鼓 (ほりかわなみのつづみ)(波の鼓)
冥途の飛脚 (めいどのひきゃく)(梅川忠兵衛)
イヤホンガイド
江戸時代に成立した古典の文楽では、当時は当たり前の様式や言葉遣いが、現代人には分かりにくいものに成っているが、その解説を無線で劇場内に飛ばしイヤホン端末で客が受けるものをイヤホンガイドと呼んで、国立文楽劇場や国立劇場内売店で本体(端末)保証金とイヤホンガイド料金で購入し、終演後に本体(端末)返却時に保証金は返される。英語版も有る。邪道と言う者もいるが、イヤホンガイド登場以前も、文楽観劇では、文楽通が文楽初心者に客席でひそやかに解説する習慣があったが、歌を聞くオペラやミュージカルと違い、義太夫を聞くだから許された観劇習慣だった。2〜3日の地方公演の場合、イヤホンガイドの替わりに、中日劇場は字幕表示、名古屋市芸術創造センターや博多座の場合は開演前に解説される。
文楽以外の人形浄瑠璃
国指定の重要無形民俗文化財である人形浄瑠璃
尾口のでくまわし
石川県白山市。保護団体名 東二口文弥人形浄瑠璃保存会。深瀬木偶廻し保存会。定期公演は毎年概ね2月第2・3土、日に開催される。
相模人形芝居
神奈川県厚木市・小田原市。保護団体名:相模人形芝居連合会(林座(厚木)、長谷座(厚木)、下中座(小田原))。連合会には3座の他、前鳥座(平塚市)と足柄座(南足柄市)の2座(戦後に復興)も加盟している。
佐渡の人形芝居(文弥人形、説経人形、のろま人形)
新潟県佐渡市。保護団体名:佐渡人形芝居保存会(佐渡文弥人形振興会、新穂村人形保存会)。演目は「源氏烏帽子折」など。文弥人形の文弥節は古浄瑠璃の1つ。
真桑人形浄瑠璃
岐阜県本巣市。物部神社で奉納上演される。保護団体名:真桑文楽保存会。演目は「蓮如上人一代記」など。上演会場の「真桑の人形舞台」は重要有形民俗文化財である。
安乗の人形芝居
三重県志摩市阿児町安乗。保護団体名:安乗人形芝居保存会。別名安乗文楽。安乗神社で奉納上演される。演目は「伊達娘恋緋鹿子」など。
淡路人形浄瑠璃
兵庫県南あわじ市。保護団体名:財団法人淡路人形協会(理事長は南あわじ市長)。常設館「淡路人形浄瑠璃館」を持つ。淡路島内の学校のクラブ活動・部活動としても盛んである。演目は「傾城阿波の鳴門」など。
阿波人形浄瑠璃
徳島県。保護団体名:財団法人阿波人形浄瑠璃振興会。振興会には2004年9月現在、人形座14団体、大夫部屋6団体、三味線師匠6団体が所属しており、阿波十郎兵衛屋敷では阿波十郎兵衛座が定期公演を行っている。県下の学校のクラブ活動・部活動としても盛んである。演目は「傾城阿波の鳴門」など。人形師・天狗久の制作用具・製品等が重要有形民俗文化財に指定されている。
山之口の文弥人形
宮崎県都城市。保護団体名:山之口麓文弥節人形浄瑠璃保存会。文弥節は古浄瑠璃の1つ。
東郷文弥節人形浄瑠璃
鹿児島県薩摩川内市東郷町斧渕。保護団体名:東郷文弥節人形浄瑠璃保存会。17世紀後半に上方で流行した文弥節の系統に属し、古浄瑠璃の面影を伝える貴重な芸能。
今田人形
長野県飯田市の人形芝居で国選択無形民俗文化財。飯田市龍江の大宮八幡宮秋季大祭などで上演される。
黒田人形
長野県飯田市上郷の下黒田諏訪神社で上演される。「手」と言われる古い型を遺すといわれている。
その他の人形浄瑠璃
恵那文楽
岐阜県中津川市。県指定無形文化財。
半原人形浄瑠璃
岐阜県瑞浪市。県指定無形文化財。
冨田人形
滋賀県長浜市富田町。県選択無形民俗文化財。天保6年(1835年)に富田を訪れた阿波の芝居一座が村人に人形を譲ったことが始まりとされる。現在では海外公演も行っている。
乙女文楽
女性による人形遣いのもの。現在は一人遣いのもののみだが、発祥当初(昭和初期)は三人遣いのものもあった。湘南座(平塚市)のほか、吉田光華、桐竹繭紗也らが活躍している。
直島女文楽
戦後、島の女性たちによって復興された。
清和文楽
熊本県上益城郡山都町。県指定重要無形文化財。
道の駅清和文楽邑内の清和文楽館は九州唯一の人形浄瑠璃専用劇場である。