日本文化
年中行事を中心に(日本語)
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
年中行事を中心に(日本語)
過去問に出たものを中心に。喫緊の受験科目である韓国語訳対象表は2次対策の項の韓国語・年中行事にあります。
1月7日…人日の節句(七草の節句)
3月3日…上巳の節句(桃の節句)
5月5日…端午の節句(菖蒲の節句)
7月7日…七夕の節句(笹の節句)
9月9日…重陽の節句(菊の節句・栗の節句)
参考:『人日』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%97%A5
人日(じんじつ)とは、五節句の一つ。1月7日。七草がゆを食べることから七草の節句(ななくさのせっく)ともいう。
また、霊辰(れいしん)、元七(がんしち)、人勝節(じんしょうせつ)ともいう。
古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日 (中国)(中国語版、英語版))とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。
また、この日には一年の無病息災を願って、また正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為、7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食する習慣があり、これが日本に伝わって七草がゆとなった。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。人日を含む五節句が江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝った。
また、この日は「新年になって初めて爪を切る日」ともされ、「七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかない」とも言われている。
なお、経緯からわかるように、本来は1月7日 (旧暦)の風習である。
参考:『上巳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%B7%B3
上巳(じょうし、じょうみ)とは、五節句の一つ。3月3日。
旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句(もものせっく)とも呼ばれる。
「桃の節句」の起源は平安時代より前であり、京(現在の京都府)の貴族階級の子女が、天皇の住居である御所を模した御殿や飾り付けで遊んで健康と厄除を願った「上巳の節句」が始まりとされている。
やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展して行った。その後、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になった。この風習は、現在でも「流し雛」として残っている。
元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代の頃から、豪華な雛人形を飾る雛祭りは女子に属するものとされ、端午の節句(菖蒲の節句)は「尚武」にかけて男子の節句とされるようになり、現在に至る。
「上巳」は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。
新暦の3月3日に行われ、雛人形の段飾りを飾る。上巳節に雛人形を飾るのは、日本特有の習俗。
◎中国:中国では、漢初より両漢を通して行われた行事であり、『後漢書』礼儀志上には「官民皆な束流の水の上に潔し、洗濯祓除と曰う。宿き垢痰を去りて大潔を為すなり」とあり、官民そろって水辺に出て祓除をする行事であった。
三月上巳に限らず、季節の節に同様の祓除が行われ、この祓除の行事が宮中では洗練され、曲水宴として人工の流水に盃を浮べて酒を飲む宴と変遷した[1]。唐代に至ると、曲水宴は宮中だけでなく上流階級の私宴となり、次第に上巳節は本来の川禊が失われて水辺での春の遊びと変化し、庶民にとっては農事の節日へと展開していった
◎韓国:旧暦に行い、サンジナルと呼ばれている。踏青を行う。外出先の屋外に女性たちは燔鉄(ボンチョル)という鉄板を持参して、チンダルレ(カラムラサキツツジ)などの春の花を載せた花煎(ファジョン、朝:화전)という甘いお焼きを作り、花びらをハチミツ水や五味子水に入れた花菜(ko:화채、ファチェ)という甘い飲み物とともに食べる。
参考:『端午』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%8D%88
端午(たんご)は、五節句の一つ。端午の節句(たんごのせっく)、菖蒲の節句(しょうぶのせっく)とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。少ないながら旧暦や月遅れの6月5日に行う地域もある。なお、日本以外では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。
旧暦では午の月は5月に当たり(十二支を参照のこと)、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている。
もともと端午節に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは南朝梁や隋の時代の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある。
日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる。
鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、又、菖蒲の葉の形が剣を連想させる事などから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(但し「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。
[韓国]
삼짇날 또는 삼월 삼짇날, 상사(上巳), 중삼(重三)은 음력 삼월 초사흗날이다.한국을 비롯한 동아시아의 명절이다. 이 날이 되면 강남 갔던 제비가 다시 돌아온다고 한다. 삼짇날에는 주로 화전(花煎)을 먹는 풍습이 있다.
음력 3월 3일을 삼월 삼짇날이라고 한다. 옛말에 '삼질'이라고도 하며, 한자로는 상사(上巳)·원 사(元巳)·중삼(重三)·상제(上除)·답청절(踏靑節)이라고도 쓴다. 삼짇날은 삼(三)의 양(陽)이 겹친다는 의미이다. 최남선에 의하면 삼질은 삼일의 자음(字音)에서 변질되어 파생된 것이며, 상사는 삼월의 첫 뱀날이라는 의미를 담고 있다고 한다.
삼짇날은 봄을 알리는 명절이다. 이날은 강남 갔던 제비가 돌아온다고 하며, 뱀이 동면에서 깨어나 나오기 시작하는 날이라고도 한다. 또한 나비나 새도 나타나기 시작하는데, 경북 지방에서는 이날 뱀을 보면 운수가 좋다고 하고, 또 흰나비를 보면 그해 상을 당하고 노랑나비를 보면 길하다고 한다. 이날 장을 담그면 맛이 좋다고 하며, 집안 수리를 한다. 아울러 농경제(農耕祭)를 행함으로써 풍년을 기원하기도 한다. 대표적인 풍속은 화전놀이이며, 사내 아이들은 물이 오른 버드나무 가지를 꺽어 피리를 만들어 불거나 풀을 뜯어 각시인형을 만들어 각시놀음을 즐기기도 했다.
이날 각 가정에서는 여러 가지 음식을 장만하여 시절음식을 즐긴다. 조선 후기에 간행된《동국세시기》에 의하면 이날 "진달래꽃을 따다가 찹쌀가루에 반죽, 둥근 떡을 만들고, 또 그것을 화전(花煎)이라 한다. 또 진달래 꽃을 녹두 가루에 반죽하여 만들기도 한다. 혹은 녹두로 국수를 만들기도 한다. 혹은 녹두가루에 붉은색 물을 들여 그것을 꿀물에 띄운 것을 수면(水麵)이라고 하며 이것들은 시절음식으로 젯상에도 오른다."라고 하여 화전과 국수를 시절음식으로 즐겼음을 알 수 있다. 이외에도 시절음식으로 흰떡을 하여 방울모양으로 만들어 속에 팥을 넣고, 떡에다 다섯가지 색깔을 들여, 다섯개를 이어서 구슬을 꿴 것같이 하는데, 작은 것은 다섯개씩이고, 큰 것은 세개씩으로 하는데, 이것을 산떡이라고 한다. 또 찹쌀과 송기와 쑥을 넣은 고리떡이 있다. 또한 이날에는 부드러운 쑥잎을 따서 찹쌀가루에 섞어 쪄서 떡을 만드는데, 이것을 쑥떡이라 한다.
参考:『七夕』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95
七夕(たなばた/しちせき)は、中国語で乞巧節(きっこうせつ)とも呼ばれ、中国神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りである[2][3][4][5]。中国の旧暦7月7日に行われる[2][3][4][5]。
ロマンチックな愛を祝うこの祭りは、しばしば中国の伝統的なバレンタインデーに相当すると言われる。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものである。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきた。この有名な神話に関する最も古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られている。
[日本]
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わった[1]。牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[2]。
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会[3])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[4]。その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され[5]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[4]。
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[6]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[7]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[8]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない[13]。
「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。
サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては半夏生のように農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承[14]していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。
富山県黒部市東布施地区の尾山では、2004年(平成16年)7月16日に富山県の無形民俗文化財に指定、2018年(平成30年)3月8日国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択された七夕流しが、毎年8月7日に行われる。子供達が満艦舟や行燈を作り、和紙で人型人形である「姉さま人形」を折る。夕刻から姉さま人形を板にくくり付け、笛や太鼓のお囃子とともに地区内を引き回し、午後9時になると両岸に七夕飾りを立てた幅約1mの泉川に入り、満艦舟や行燈、姉さま人形を流すものであり、江戸時代より続けられている。
沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
[主な七夕まつり]
参考:『【2024年】全国の七夕祭り11選』楽天トラベル https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/tanabata
**仙台七夕まつり
*能代七夕 天空の不夜城:江戸の後期から明治にかけて運行されたと伝えられる城郭灯籠を、過去の文献や写真を基に、2013年夏に一世紀の時を超えて復元。高さ17.6mの「嘉六」灯籠と、城郭型の灯籠としては日本一の高さ24.1mの「愛季」が能代の街を練り歩きます。空にも届くような巨大な灯籠の姿は圧巻です!
**湘南ひらつか七夕まつり:10mを超える豪華な七夕飾り。日本三大七夕まつり・関東三大七夕まつりの一つ。
*下町七夕まつり:東京都浅草~上野 かっぱ橋本通りを天の川に見立てる
*阿佐ヶ谷七夕まつり:都内随一の七夕まつり
*狭山市入間川七夕まつり:関東三大七夕まつりの一つ。
*小川町七夕まつり(埼玉県比企郡小川町)
*茂原七夕まつり(千葉県茂原市):毎年80万人が訪れる
*安城七夕まつり(愛知県安城市):3日間で約100万人もの人が訪れる。
**おりもの感謝祭 一宮七夕まつり 日本三大七夕まつりのひとつ。毎年約130万人の人出。織物の町。4日間
*京の七夕:2010年から始まった新たな今日の風物詩。鴨川会場・堀川会場・二条城会場など各所で様々なイベント
[韓国の七夕]
평안남도 대안시 덕흥리의 5세기초 고구려 광개토왕 시대의 고분 안쪽 벽화에 견우와 직녀가 그려졌다.
여자들은 직녀성에 바느질 솜씨가 늘기를 빌었다.
아이들은 견우와 직녀를 소재로 시를 지었다.
옷과 책을 볕에 말린다.
칠석날 새벽에는 참외, 오이 등의 1년생 과일을 상에 놓고 절하며 솜씨가 늘기를 빈다.
북두칠성에 장수와 복을 빌기도 했다.
경상북도 영일에서는 바닷물이 약수가 된다고 여겨 멱을 감는다.
칠석날은 신이 내려와서 수확량을 정해준다고 여겨 아침 일찍 들에 나가지 않거나 집안에서 근신한다.
민간에서는 명절음식으로 밀국수·호박부침 등을 만들어 먹었다고 한다.
参考:『重陽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%99%BD
重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、旧暦の9月9日のこと。中国、香港、マカオ、台湾、ベトナムにおいて伝統的な祝日であり、後漢(西暦25年)以前の文献で確認されている。日本では旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。
中国では祖先の墓を訪れて敬意を払う日である。香港とマカオでは、一族全員が先祖代々の墓を訪れ、墓を綺麗にして捧げものをする。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。
[韓国の重陽節]
중양절(重陽節)은 한국, 중국, 베트남, 일본, 대만등 동아시아 지역에서 매년 음력 9월 9일에 지내는 세시 명절로, 시를 짓고 국화전을 먹고 놀았다.
1년 중 홀수가 두 번 겹치는 날에는 복이 들어온다고 하여 음력 1월 1일, 5월 단오(5일), 7월 칠석(7일) 등을 명절로 지내왔다. 중양절이 되면 산에 올라가 국화주를 마시며 시를 읊거나 산수를 즐기기도 하였다. 또한 가정마다 화채를 만들어 먹고 국화전을 부쳐 먹기도 하였다. 이날 제비들은 따뜻한 강남을 향해 떠나고 뱀과 개구리는 겨울잠을 자기 위해 땅속으로 들어간다.
옛날 [중국]의 어느 마을에 신통력을 지닌 장방이란 사람이 살았다. 어느날 장방이 환경이란 사람을 찾아와 “9월 9일 이 마을에 큰 재앙이 닥칠 것이니 식구들 모두 주머니에 수유꽃을 넣었다가 팔에 걸고 산꼭대기로 올라가라”고 하였다. 환경이 장방의 말대로 식구들을 데리고 산에 올라가 국화주를 마시며 놀다가 이튿날 집에 내려와 보니 집안의 모든 가축들이 죽어 있었다. 그후부터 중양절이 되면 산에 올라가는 풍습이 생겼다고 한다.
【中国】
重阳节,是汉字文化圈传统节日,为每年农历九月初九日,“重阳”一词始见于三国时期,因《易经》中“九九”两阳数相重,故名“重阳”,在唐代,唐德宗在位时将重阳节列为“三令节”之一,重阳节开始成为正式节日。中国民间素有在重阳节登高、祭祖及祈求丰收等习俗。2006年,重阳节被列入中国首批国家级非物质文化遗产名录。另外,重阳节也是中国法定的老年节,被赋予了尊老敬老、祝福健康长寿的含义。
关于重阳节的由来有很多说法,最有名的是桓景剑刺瘟魔的故事。
[活動]
活动
祭拜祖先
敬老活动
登高旅游
佩带茱萸
放风筝
玩花煎游戏。
射箭
赏菊
和家人团聚
哪吒寿诞
祭菊
[食物]
参考動画:『100カメ 大河ドラマ「光る君へ」平安の雅を生み出す舞台裏』NHKオンデマンド 2024年9月12日放送 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024141010SA000/
NHKプラス(9/19まで) https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024091226417?playlist_id=d7267c5c-5953-4374-90f4-5768431d70c6
参考動画:『平安貴族の歌会を再現した「曲水の宴」』産経ニュース(2014/11/03)(youtube) https://youtu.be/LVZ1adFZN4Q?si=7e0lDwVHLU_FmLCR
参考:『主な行事』毛越寺 https://www.motsuji.or.jp/event/index.html 5月
参考:『2024年5月 世界遺産平泉・毛越寺で「曲水の宴」が開催されます!』ヒライズミミーツ(一般社団法人世界遺産平泉・一関DMO) https://hiraizu-meets.com/2024%e5%b9%b45%e6%9c%88-%e4%b8%96%e7%95%8c%e9%81%ba%e7%94%a3%e5%b9%b3%e6%b3%89%e3%83%bb%e6%af%9b%e8%b6%8a%e5%af%ba%e3%81%a7%e3%80%8c%e6%9b%b2%e6%b0%b4%e3%81%ae%e5%ae%b4%e3%80%8d%e3%81%8c%e9%96%8b/
参考:『曲水の宴』太宰府天満宮 https://www.dazaifutenmangu.or.jp/omatsuri/kyokusui-no-utage 3月
参考:『賀茂曲水宴』上賀茂神社のひととせ(賀茂別雷神社) https://www.kamigamojinja.jp/hitotose/ 4月
参考:『曲水の宴』行催事カレンダー(仙巌園) https://www.senganen.jp/calendar/ 4月中旬
参考:『曲水の宴』年中行事(北野天満宮) https://kitanotenmangu.or.jp/event/ 3月上旬
参考:『曲水の宴』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%AE%B4
曲水の宴(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。略して曲水、曲宴ともいう(『広辞苑』第2版)。
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行う(流觴曲水=盃を曲水に流す)ようになったとされる。古代、周公の時代に始まったとも秦の昭襄王の時代に始まったとも伝えられている。東晋の永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が蘭亭で「曲水の宴」を催したが、その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である[4]。
その後、一時的に行われなくなったものの、唐の時代になって朝儀ではなく、私宴の形式で再興されるようになった。
日本
日本では顕宗天皇元年(485年)3月に宮廷の儀式として行われたのが初見(『日本書紀』)。ただしこの記事から曲水の宴に関する記録は文武天皇5年(701年)まで途絶え、その間も行われていたかは不明。顕宗天皇の時代ならば曲水は中国では盛んに行われていて、日本にその風習が伝わっていても不自然ではない。しかし、中国では魏(220年-265年)以降「3日を用いて上巳を用いず」としており、顕宗天皇紀が依然として上巳を用いており、公式の記録も奈良時代まで飛んでいるため、或いは顕宗天皇紀の記事は編者による挿入かとも疑われる。
文武天皇以降史上に散見するようになり、奈良時代にはこれらの行事は3月3日が常例となり、奈良時代後半には盛んになった。主に宮廷の催しごと(主催者は天皇)として行われたが、『万葉集』には中納言大伴家持が自第で催した曲水宴を詠んだ「漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶてふ今日そ我が背子(せこ)花縵(はなかづら)せな」の歌が載せられ、詞書から天平勝宝2年(750年)3月3日のものと分かるので、その頃までには私的な遊びとして催されていたことも分かる。平城天皇の代に一時廃されたが(平城天皇は父母が亡くなった3月に宴を開くことを嫌ったからとされている[12])、嵯峨天皇がこれを再開し(宇多天皇とする説もある)、平安時代には宮廷や貴族の邸宅などでも行われるようになった。 摂関時代には内裏の公式行事として催されたが、『御堂関白記』には寛弘4年(1007年)藤原道長が主催したとする記事があり、『中右記』には寛治5年(1091年)藤原師通が主催したとする記事がある。
『天満宮安楽寺草創日記』によると、大宰府でも天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐、小野好古が始めたとされるが、中世以降は断絶した。権勢を誇った藤原氏などは中国に倣って船を浮かべたりしたともいう。
朝鮮
曲水の宴は、古代朝鮮でも盛んであったが、李氏朝鮮では執り行なわれた記録は残っていない。このためかなり以前に廃れたものと思われる。慶州市の南4kmにある西南離宮・鮑石亭(Poseokjeong)は、「流觴曲水宴」が開かれた場所として知られ、鮑模様の石溝、曲粋渠(ゴッスゴ)が残っている。ここは927年に新羅第55代景哀王が宴会を開いている最中に後百済軍に攻め殺され、新羅が滅亡に向かうきっかけとなった場所である。
参考:『お盆』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。8月13日 - 8月16日[1]。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。
明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった。
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。
中華文化では道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする風習がある。旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる。台湾や香港、華南を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われている。
1600年代(慶長年間)に、イエズス会が編纂した『日葡辞書』には、「bon(盆)」と「vrabon(盂蘭盆)」という項目がある。それらによると、盆は、仏教徒(宣教師の立場から見れば「異教徒」)が、陰暦7月の14日・15日頃に、死者の為に行う祭りであると、説明されている。
[八尾おわら 風の盆](富山県富山市八尾町)
参考:『おわら風の盆』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%89%E9%A2%A8%E3%81%AE%E7%9B%86
富山県富山市八尾地区で、毎年9月1日から3日にかけて行われている富山県を代表する行事(年中行事)である。
越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了する。おわら風の盆が行なわれる3日間、合計25万人前後の見物客が八尾を訪れ、町はたいへんな賑わいをみせる。2006年(平成18年)に、「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されている。
1998年(平成10年)からは、9月末 - 10月初頭前後にて開催される『月見のおわら』も実施されている。
おわらの起源は、江戸時代の元禄期にさかのぼると伝えられている(『越中婦負郡志』)。それによると、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するのだという。
おわらの11団体とおわら保存会と越中八尾おわら道場
風の盆の行事を行なっているのは、「東町・西町・今町・上新町・鏡町・下新町・諏訪町・西新町・東新町・天満町」の10の旧町内とそれらの旧町内外から移り住んだ人たちからなる「福島」の計11団体である。これらの11団体の代表者によって構成される「富山県民謡越中八尾おわら保存会」がある。
おわらの踊り
町流しは、地方(じかた)の演奏とともに各町の踊り手たちがおわらを踊りながら町内を練り歩くものである。この町流しが、古来からのおわらの姿を伝えるものとされている。
輪踊りは、地方を中心にして踊り手たちが輪を作って踊るものである。
舞台踊りは、演舞場での競演会や各町に設置される特設ステージで見られる踊りで、旧踊りや新踊りを自在に組み込んで各町が独自の演技を披露する。
参考:『富山のお盆』(TJ富山ジョイント・富山のお盆と東京のお盆) https://toyama-joint.jp/living/lvg20220714/#st-toc-h-3
この記事にあるとおり、都会のお盆は7月15日前後、田舎は旧暦に合わせて8月15日前後。関東は精霊馬や精霊牛(野菜を動物に見立てて組み立ててご先祖様の乗り物とする)を飾ったり、九州だと親戚からの華やかなお供えセットが飾られたり、地方によっても差がある。
私の実家などは(北陸の田舎)、文中と同じく祖先や親せきのお墓参りまわりをしたり、お坊さんに来てもらってお参りしてもらったりで仏教的な行事が多く、馬や牛、迎え火・送り火などもなかったです。
参考:『亀谷良長 吉村良和』https://x.com/yoshimura0303/status/1830516906778050800
参考:『行き合ひの空』goo辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A1%8C%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%B2%E3%81%AE%E7%A9%BA/
夏から秋へと移り変わるころの空。
「夏衣片 (かた) へ凉しくなりぬなり夜や更 (ふ) けぬらん—」〈新古今・夏〉
参考:『七五三』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%94%E4%B8%89
七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社・寺などで「七五三詣で」を行い、報告、感謝、祈願を行う奉告祭。
由来
日取りは、天和元年(1681年)旧暦11月15日に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男徳川徳松の髪置祝いがおこなわれたことを前例にするとも伝えられ、暦学の上でも吉日にあたる。
江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部において現在のような華やかな風習となった[3]。やがてこの儀式は京都、大阪でも行われるようになり、だんだんと全国に広まっていった。
日付
旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。
江戸時代に始まった神事であり、旧暦の数え年で行うのが正式となる。
神事としては、感謝をささげ祝うことが重要であるとの考え方から、現代では、数え年でなく満年齢で行う場合も多い。
明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっている。
北海道等、寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行う場合が多い。
各年齢の意味
現在は「七五三」という名称から、それぞれの年齢で行う同じ行事のように捉えられる傾向にあるが、実際には別々の異なった行事である。3つの子供の行事を「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。そのため、現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なる。
関東
発祥とされる関東地方では以下のように考えられている。
数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置き」とし、主に女児が行う(古くは男児も行ったため、現在も行う場合がある)。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。
数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴着(袴儀)」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。平安時代に公家階級で行われていた行事にならったもので、古くは男女ともに行ったが、武家では男子のみに行ったため、次第に男児の行事となった。
数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解き」(または「紐解き」)とし、女児が行う。女子が付け紐の着物を卒業し、大人と同じ幅の広い帯を結び始める儀。
最近では性別問わず三回すべて行う例も散見する。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。
服装:和装の場合に正式とされる服装を示す。
3歳女児
友禅染めの縮緬地で無垢仕立て(表裏共生地)にした四つ身、下着(内側に重ねる中着)は調和する無地や友禅、匹田模様の縮緬など。長襦袢は赤の紋羽二重。しごきは八尺もの、帯揚げは赤の絞り、帯締めは丸ぐけとし、扇子と筥迫を身につける。被布をつける場合も多い。
5歳男児
熨斗目模様(長着の腰のあたりと袖の下部に横段になるよう模様を配した柄行き)の羽二重の長着に、無地や縞、または熨斗目の袴、熨斗目の羽織。羽織紐は白の丸打ちとし、白扇を持つ。
7歳女児
本裁ちの小振袖。成長しても着られるようにする場合は五つ紋とする。しごきや帯揚げ、帯締めなどは3歳女児に同じ。
品物
千歳飴
七五三では、親が自らの子に長寿の願いを込めた「千歳飴(ちとせあめ)」を与えて食べて祝う。千歳飴という名称は、「千年」つまり「長い」「長生き」という良い意味があると共に、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。
由来
千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り七兵衛が売り出し流行した「千年飴」から始まったとされている。
参考動画(袴着(5歳)):『“後継者”は4歳男児 密着「現代に残る武士の名家」(2021年3月15日放送「news every.」より)』日テレNEWS https://youtu.be/4dUMJP3yzFM?si=n3mvx-kWuJJSGQsL
小笠原流の33代目候補の袴着と流鏑馬練習。
参考:『相撲のいろは』日本相撲協会公式サイト https://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/sumo_history/
参考:『大相撲』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、世界中で行われる相撲興行の中で、最も有名かつ権威のある競技興行である。東京での開催場所は国技館である。 土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる。
[歴史]
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。
ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。
[天皇賜杯]
1925年、当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。
[本場所]
大相撲の興行としては、本場所と巡業が特に大きなウェイトを占める。
本場所:
1月:一月場所、初場所、両国国技館
3月:三月場所、春場所、大阪場所、エディオンアリーナ大坂(大阪府立体育館)
5月:五月場所、夏場所、両国国技館
7月:七月場所、名古屋場所、(~2024年)ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)、(2025年~)愛知県国際アリーナ
9月:九月場所、秋場所、両国国技館
11月:十一月場所、九州場所、福岡国際センター
[横綱]
横綱(よこづな)は、大相撲の力士における最高の称号であり、現行の番付制度においては力士の最高位でもある。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。
横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。
現在(2024年)の横綱は、モンゴル出身の照ノ富士春雄(伊勢が濱部屋)(横綱昇進:2021年9月)である。
[番付]
大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。
横綱・大関・関脇・小結・前頭・十両を纏めた総称が「関取」と呼ばれ、そのうち十両を除く横綱から前頭を纏めた総称が「幕内」と呼ばれる。大相撲では、この「幕内」を最上位とし、以下、十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成り立り、幕下以下を纏めた総称は「取的」と呼ばれる。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われる。なお、番付上においては序ノ口が最下位であるが、序ノ口で負け越しが続いたり、休場が続いたりすると序ノ口から陥落し、番付の範疇に含まれない「番付外」と呼ばれる立場になる。
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。
幕内(横綱~前頭) 大銀杏、紋付き羽織袴、博多帯、番傘・蛇の目傘、足袋に雪駄(畳敷き)、けいこ廻しは白色・木綿、取り廻しは博多織繻子、下がりは取り廻しの友布、足袋のいろは白、控えの敷物は私物の座布団、月額給与、場所ごとの収入として力士報奨金が許されている。
[新弟子検査]
現行制度では、大相撲の力士を志望する者(男性限定)は、新弟子検査を受検し、体格検査及び内臓検査に合格しなければならない。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。2019年2月に力士(競技者)規定の一部が改正となり、入れ墨の禁止も明文化された。
[報酬]
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。
給与
十両以上の力士(関取)には、次の通りの金額が月額給与として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。
給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっている。給与額は2001年に現行の金額となって以降2018年まで据え置きだったが、2018年11月の理事会の決定により、2019年1月場所から十両以上の力士の給料が増額されている。
参考:『相撲用語集』日本相撲協会 https://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/glossary
力士・番付・行事・呼び出し・床山・土俵・国技館・決まり手・その他の項目で詳しく述べている。