2026年度は、日本歴史教科免除のために歴史検定日本史2級を頑張ります!
平成30年度~の全国通訳案内士試験問題・歴史能力検定日本史の問題を参考に書いています。
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上の年表も再確認の事。8世紀末~11世紀まで
49光仁天皇:光仁天皇呪詛事件(一転、桓武天皇が立太子。藤原家は式家から北家へ。藤原良継・藤原百川陰謀説あり)。氷川河継(天武天皇孫)の乱
50桓武天皇:長岡京。平安京遷都。紀小佐見蝦夷討伐(征東大使)。坂上田村麻呂蝦夷征討(征夷大将軍は令外官)・勘解由使(令外官)。続日本紀・胆沢城・阿弖流為降伏・志波城・清水寺(田村麻呂)建立。健児制。天台宗。
51平城天皇(父は桓武天皇):平安京から平城京に遷都。
52嵯峨天皇(父は桓武天皇、祖父は式家藤原良継。三筆の一人):薬子の変(藤原式家の没落。冬嗣の北家が台頭)→蔵人頭(令外官・巨勢野足と藤原冬嗣)・検非違使(令外官)・文屋綿麻呂・弘仁格式(公営田・勅旨田の設置)・新選姓氏録・嵯峨源氏。文華秀麗集(勅撰漢詩集)。
53淳和天皇(父は桓武天皇):令義解(養老律令公選注釈書)、日本後記(勅撰史書)
54仁明天皇(父は嵯峨天皇、母は檀林皇后):承和の変(名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃。橘逸勢は三筆)。
55文徳天皇(父は仁明天皇):『続日本後紀』。『日本文徳天皇実録』。藤原良房
56清和天皇(父は文徳天皇、祖父は藤原良房。9歳で即位):応天門の変(左大臣源高明、大納言伴善男失脚)。良房が摂政(皇族以外で初)。摂関政治の始まり。清和源氏の起こり。
57陽成天皇(父は清和天皇、母は藤原高子。9歳で清和天皇から譲位される):伯父の藤原基経が摂政となったが、元服の後、基経と対立。乱行の名目で17歳で光孝天皇(祖父の弟)へ譲位させられる。
58光孝天皇(父は仁明天皇):天皇になる予定ではなかったので、皇子たちを臣籍降下させ文徳・清和・陽成の3天皇に重職で仕えていた。文化活動。54歳で即位したが、藤原基経に政治を取らせる。光孝天皇以降漢風諡号中断。
59宇多天皇:阿衡事件(阿衡の紛議)→基経(初めての関白)→基経死後菅原道真等を使って親政。遣唐使廃止。門民苦使の派遣。昇殿制の開始。日本三代実録・類聚国史の編纂。基経腹の即位を避けて醍醐天皇に譲位。『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』という書置を新帝に与える。譲位に際しての詔書で時平と道真に対して奏請と宣行の権限を与え、事実上政務を委ねる意思を示した。寛平の治。出家後仁和寺(御室)。宇多天皇御記。
60醍醐天皇(父は宇多天皇。13歳で即位):壺切御剣。道真を重用したが、昌泰の変で菅原道真失脚。律令制の基本法である延喜格式、国史『日本三代実録』や『古今和歌集』の完成。延喜の治。
61朱雀天皇(父は醍醐天皇、母方の祖父は基経、8歳で即位、伯父忠平が摂関):承平天慶の乱
62村上天皇(父は醍醐天皇、朱雀天皇同母弟。病弱な朱雀帝から譲位された):著書に三代御記のひとつである『村上天皇御記』や、和歌集『村上御集』。忠平死後は摂関を置かなかったが、親政は名目的だった。『後撰和歌集』の編纂を下命。『清涼記』。天暦の治。村上源氏。
63冷泉天皇(円融天皇の同母兄、父は村上天皇、祖父は藤原師輔):安和の変(969)。摂政藤原実頼。源高明左遷後譲位。摂政関白が常置。円融系と皇位迭立。
64円融天皇(冷泉天皇の同母弟、即位時は11歳):藤原実頼が摂政。→藤原伊尹→兼通・兼家間で関白職争い。円融天皇x兼家。
65花山天皇(父は冷泉天皇):
参考:『5分でわかる!桓武天皇の時代』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12556/『5分でわかる!嵯峨天皇の時代』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12556/point-2/ 『5分でわかる!藤原良房の時代』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12560/point-2/ 『5分でわかる!藤原基経・宇多天皇の時代』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12560/point-3/ 『5分でわかる!村上天皇の時代/天暦の治』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12569/point-3/
桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまべ)。
平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇である。現代の皇室及び桓武平氏の祖。
白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系諸蕃氏族の和氏の出身である和新笠(のちに高野新笠)。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇の崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってからである。
父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子の他戸親王の母である皇后の井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、宝亀4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもあった夫人の藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。
延暦4年(785年)9月24~28日に早良親王を内裏に幽閉し藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、早良親王が桓武天皇のいかなる逆鱗にも怯えないと決意し絶食して配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。
在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。
平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。
また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。ただし、健児導入の目的について、紀古佐美の遠征軍が騎馬を巧みとする蝦夷に太刀打ちできなかったために、従来の中国大陸・朝鮮半島からの沿岸防備を念頭に置いて編成された農民を徴集した歩兵に代わって対蝦夷戦争に対応した騎兵の確保を目指した軍制改革であったとする新説も出されている。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。
その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて延暦19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、地方行政を監査する勘解由使の設置など、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡にあった奈良時代末期(または平安時代初期)の都城(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。
延暦3年(784年)11月11日、第50代桓武天皇により平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。
概要
長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40キロメートルの長岡の地に遷都して造営され、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。また、造営地の南東には当時巨椋池が存在し、ここも物流拠点として期待された。
発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。
桓武天皇は自らの宮殿を街より15メートルほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。
歴史
「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、
既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係
父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人心一新
難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国が東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国の経路が成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)。
などの説がある。784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武天皇は天武系とは異なる天智系の天皇であった。
785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。
しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、792年(延暦11年)6月10日にその原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2か月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙った。このことから、治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年(延暦12年)1月15日には再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。2月には賀茂大神への再遷都奉告、3月には再遷都先の百姓に立ち退き補償が行われ、再遷都作業が始まった。そして長岡京への遷都からわずか10年後となる翌794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。もっとも、789年(延暦8年)の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消しており、791年(延暦10年)平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されていることから、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている。
平安京への遷都後の旧長岡京地域は菅原道真の領地になったとされ、901年(昌泰4年)に道真が失脚した昌泰の変に際して在原業平が贈った木像を神体とした長岡天満宮に「長岡」の名が残った。また、旧長岡京地域の南西側を占める地域は1949年(昭和24年)の3村合併で「長岡町」、1972年(昭和47年)の市制施行で「長岡京市」となり、行政区域名で「長岡京」の名前が復活した。同市内にあったJR西日本東海道本線(JR京都線)の神足駅は1996年(平成8年)に「長岡京駅」と改称している。
『長岡京』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC
平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、日本における古代最後の宮都。794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。
歴史
桓武天皇は延暦3年(784年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれからわずか9年後の延暦12年(793年)1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10 km、2つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、都に相応しいか否か確かめたと云われている。『日本紀略』には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。
建造地の選定、範囲、都市計画
桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の洛陽城や長安城を模して793年(延暦12年)から建設された。翌794年(延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。
遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都として機能し、1869年(明治2年)まで続いた。但し京都御所が保持され、京都は都の地位を放棄されていなく今日まで都として続いていて、今日の京都市街が形成されるに至る。
新都建設地の選定にひそかに入った桓武天皇は、792年(延暦11年)1月そして5月、狩猟をよそおって、候補地の一つであった山背国葛野郡宇太村を訪れた。 さらに翌793年(延暦12年)には、大納言の藤原小黒麻呂や左大弁の紀古佐美らも派遣し同地を確認・検討させた。その結果ここが建設地と決まり、新都市建設計画、遷都計画が動き出し、と同時に長岡京の取り壊しが始まった。
当時の山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地(結果として現在の京都市街となった地)に東西4.5 km、南北5.2 kmの長方形の都城として計画された。
平安京の計画の大枠(平面計画)は基本的に中国の隋・唐の洛陽城や長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京・長岡京を踏襲したものでもある。都市全体が四角形で、左右対称で、街路が「碁盤の目」状に整然と直交するように設けられ、市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置し、政治の中心となる大内裏は朱雀大路の北、都の北辺に設けられた(「北闕型」)。朱雀大路によって分けられた京域の東西をそれぞれ左京・右京と呼んだ(「左・右」はあくまで内裏側から見ての左右である)。また後には大内裏の南を東西に走る二条大路の北を「上辺」(かみのわたり)、南を「下辺」(しものわたり)、さらには「上京」(かみぎょう)、南を「下京」(しもぎょう)と呼ぶようになり、これが地形も相俟って現代の京都で北に行くことを「上ル」、南に行くことを「下ル」と呼ぶことに繋がる。手本となった長安城は羅城(=都市を囲む城壁)で囲まれていたのに対して、平安京では京域南辺の入り口である羅城門の左右の短い部分を除き羅城は造られなかったと考えられている。
この地の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。この四神とは北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀の霊獣をいうが、選地にあたりこれを「山」「川」「道」「沢」に当てはめ、それぞれを船岡山、鴨川、山陰道、巨椋池といった具体的な地物に擬したというものである。この考えは通説となっているものの、現在では否定する研究者も少なくない。それは、平安京が四神相応の地として造られたことが平城京とは異なり不明である上に[注釈 2]、四神を山川道沢とするのは宅地の風水に見られる考え方で、本来都市の風水でもって占地すべき都の四神とは別のものであることなどを理由とするものである。(議論については、「四神相応#平安京」の項参照。)
平安京の範囲は、現代の京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。
京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた(『条坊制』。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。
道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった。また、堀川小路と西堀川小路では中央に川(堀川、西堀川)が流れていた。
『平安京』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC
[生]天平宝字2(758)
2021年、2022年出題。
[没]弘仁2(811).5.23.
平安時代初期の武将。父は苅田麻呂。宝亀 11 (780) 年近衛将監,延暦6 (787) 年近衛少将,同 10年征東副使に任命され,同 13年征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討った。同 15年陸奥出羽按察使兼陸奥守,さらに鎮守府将軍,同 16年征夷大将軍に任命された。同 20年2月蝦夷討伐のため東北に向い,同年 10月平安京に凱旋。翌年造陸奥国胆沢 (いざわ) 城使として陸奥に行き,さらに翌年志波城を築いた。同 23年再び征夷大将軍に任じられ,大同1 (806) 年中納言,同4年正三位に叙せられた。弘仁1 (810) 年平城上皇の平城遷都に擬し造宮使となった。同年薬子の変が起ると,大納言に昇進した田村麻呂は美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努めた。没後従二位を贈られた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
没年:弘仁2.5.23(811.6.17)
生年:天平宝字2(758)
平安初期,蝦夷征討にもっとも深くかかわった武将。苅田麻呂の子。母は畝火浄永の娘とも。宝亀11(780)年,23歳で近衛将監に任じられて以来,武官を歴任。延暦13(794)年,征東副使として下向,これが東北経営にかかわった最初である。16年征夷大将軍,詳しくいえば「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使兼陸奥守鎮守将軍」に任じられ,東北経営にかかわる全指揮権を与えられている。21年,造胆沢城使として現地に下っていたとき,蝦夷の族長阿弖流為,盤具母礼らが五百余人を率いて投降,田村麻呂はふたりを連れて上京し,命を助け彼らによる現地民政の安定化を進言するが,公卿たちの認めるところとならず,ふたりは殺されてしまう。これを,彼らを欺く行為とみる理解もあるが,田村麻呂の性格から考えても善意を疑うことはないであろう。翌年,造志波(斯波)城使に任命,さらに23年,再び征夷大将軍に任じられたが,いわゆる「徳政相論」によって事業は中止された。のち薬子の変(810)では平城上皇の東国行きを阻止している。 身長5尺8寸(約175cm),胸の厚さ1尺3寸(約40cm),赤ら顔で目は鷹のように鋭く,黄金色のあごひげがふさふさしていたといい,東北での活躍ぶりから「稀代の名将」「毘沙門の化身」と称された。性格は柔和で,怒れば鬼神猛獣でもひれ伏したが,笑えば赤ん坊もなつくようなやさしい顔になったという。弘仁1(810)年大納言となり,翌年東山粟田の別荘で没した。武人にふさわしく王城に向かい,武具姿で立ったまま棺に納められたといい,栗栖野(京都市山科区)にある円墳がそれと伝え,嵯峨天皇は詩や「田村麻呂伝記」を作ってその死を悼んでいる。11男1女の子供のうち大野,広野らは武官となり継承,娘春子は桓武に入内。大同2(807)年,清水寺を建立(開基は延鎮)したと伝えるが,東北地方にも田村麻呂建立と伝える寺社が少なくない。<参考文献>高橋崇『坂上田村麻呂』,亀田隆之『坂上田村麻呂』,瀧浪貞子『平安建都』
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
日本の朝廷における令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭(嵯峨天皇時)に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。
明治天皇初年まで。
参考:蔵人頭wikipedia
「蔵人所(くらうどどころ)」の長官。「別当」の下位で、蔵人所の事務を指揮した要職。定員は二名で、四位の殿上人(てんじようびと)から選任された。一人は弁官、一人は近衛府(このえふ)の中将・少将から選ばれ、それぞれ「頭(とう)の弁」「頭の中将」「頭の少将」という。
参考:「蔵人頭」Weblio
令外官(りょうげのかん)とは、律令の令制に規定のない新設の官職。令外官が管掌する官司を令外官司(りょうげのかんし)と称する場合もある。
現実的cxvな政治課題に対して、既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために置かれた。中国ではじまり、8世紀前期~中期に令外官が多数新設された。日本では、8世紀末の桓武期の改革の際に多くの令外官が置かれ、その後も現実に対応するため、いくつかの令外官が設置されていった。
日本でも、初の本格律令となる大宝律令の制定直後から、参議・造平城京使・中納言・按察使などの令外官が置かれていた。また、儒教以外の知識に通じた官人育成の観点から大学寮に文章博士・明法博士を令外官として設置して、後に文章博士は大学寮の博士の首位となった。淳仁・孝謙(称徳)両天皇の時代には大規模な令外官(造宮省・勅旨省・内豎省・法王宮職など)が乱立され政治が不安定になった。8世紀末になると、律令制の弛緩が進んだため、桓武天皇による大規模な行政改革が行われたが、この桓武による改革以降、律令官制の不備を補うために、令外官が積極的に設置されるようになった。
桓武天皇のときに置かれたのが、797年の勘解由使で、地方国司の行政を監察する職である。9世紀前期には、嵯峨天皇によって天皇の秘書官として機密文書を取り扱う蔵人所(蔵人頭)が810年に新設された。同じく嵯峨は、京都の治安維持や民政を行わせるため、824年に検非違使を置いた。10世紀になり、地方で富豪層が登場すると、所領紛争などにより治安が悪化していった。そこで、押領使・追捕使が置かれ、地方の治安警察を担当した。
また、天皇を補佐する関白を884年におき、他に天皇の権限を代行する摂政、天皇が決裁する文書を事前に閲覧できる内覧も令外官であり、平安中期以降、藤原北家が代々これらの職に就任し、摂関政治を行った。
武家政権(幕府)の長として武家の棟梁が就任した征夷大将軍も、本来は蝦夷征討を目的とした令外官の一つであった。
出処:「令外官」wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%A4%96%E5%AE%98
<時系列>
奈良時代
大宝律令(701)制定直後:中納言(705)、参議(政治に参議する、702に大伴安麻呂・粟田真人・高向麻呂・下毛野古麻呂・小野毛野が参議することを命じられたがまだ官職名ではなかった。731年参議が正官に)、造平城京使、按察使(元正天皇、719、地方行政を監督・監察)
*淳仁・孝謙(称徳)天皇:大規模な令外官(造宮省・法王宮職など)が乱立され政治が不安定に。
平安初期
桓武天皇:勘解由使(797年、地方国司の行政を観察)、征夷大将軍(東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職、大伴弟麻呂(794)・坂上田村麻呂)
嵯峨天皇:蔵人所(蔵人頭)(天皇の秘書官として機密文書を取り扱う、810年)、検非違使(京都の治安維持や民政を行う、824年)
平安中期
*地方で富豪層が登場すると、所領紛争などにより治安が悪化していった。
押領司(おうりょうし)・追捕使(ついぶし)(どちらも地方の治安警察)が置かれた。
押領司は、795年に防人に随行したのが初出。やがて塀の戦闘などの指揮官に変化。基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けたものが兼任した。下野国押領司として平将門の乱で将門を滅ぼした藤原秀郷が有名。
追捕使は、932年に最初に設置された。南海道で頻繁に出没していた海賊・凶賊を掃討する目的で設置されたため、実際に戦闘に当たることが多かった。承平天慶の乱で藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古が有名。
その後、諸国に常設。国司に追捕使を兼任させたり、地方の豪族を任命したりもした。
(1185年に源頼朝が日本国惣追捕使に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が鎌倉殿に移り、守護と名を変えて発展していった。)
文徳天皇(最晩年)・清和天皇:858年、清和天皇(即位時9歳。幼少期は良房の邸宅で育つ)即位時、藤原良房が人臣として初めて摂政となる。(聖徳太子など皇族が摂政を行った例はあった) ただし、この時も、官職ではなく、一種の称号として授与されたものであった。天安元年(857年)、時の文徳天皇は病に伏し近い将来、幼い皇太子惟仁親王が即位してからの朝政を憂慮し、伯父である右大臣良房に後事を託した。
陽成天皇:良房の嫡男・藤原基経が、貞観18年(876年)、陽成天皇の即位に伴って摂政となる。
成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。
ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。摂政は幼い天皇に代わって政務を摂する(代理する)職であり、詔書の御画日およびその覆奏における御画可を天皇に代わって代筆するとともに、当時において天皇の主要な大権であった官奏を覧ずることと除目・叙位を行うことを執り行った。また、天皇が出御する儀式(出御儀)においては扶持・代行を行った[13]。また、伊勢神宮に奉幣使を発遣する際に天皇に代わって宸筆宣命を書き仰詞を奉幣使に伝えて代拝を行うこと、即位式に先立って天皇の代理として天皇の礼服を覧ずる(礼服御覧)ことが挙げられる[14]。また、天皇の元服の際に加冠役を太政大臣が務めることになっていたが、通常は摂政が元服に先立って太政大臣に任命されることになっていたので慣例としての摂政の職務のうちに加えられる[15]。ただし、天皇の代理ではあっても臣下である摂政が天皇の同伴無くして内裏の中心部にある紫宸殿や清涼殿を用いることは出来ず、伊勢神宮への奉幣使発遣では紫宸殿での行事は省略され、官奏・叙位・除目は清涼殿ではなく摂政の直廬にて行って奏者・執筆担当者も大臣ではなく参議や大弁が務めるなど、一定の格差は設けられていた[15]。なお、関白は成人に達した天皇の補佐をする役割であり、天皇代行としての摂政とは性格が異なっており(『西宮記』巻8 摂政・関白)、摂政の職務として掲げた項目のうち、関白に認められた職権は官奏に関するものだけである。
光孝天皇・宇多天皇 :884年、関白(天皇の補佐。天皇に奏上する権限を持つ臣下の最高位)宣下。関白職の初任者は藤原基経であるが、実際には、基経およびその養父である先代・藤原良房の二代の間で、「関白」の役割の先例が形作られていった。関白は、成人(基経関白時、光孝天皇55歳)の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意(ちよろぎ:せめぎあいでもある)を図りながら政務を進めることが基本となる。
平安前期の文化で、その中心をなす嵯峨(さが)、清和(せいわ)両朝の年号による呼称。当時は、すでに100年余にわたる大陸文化の摂取を経てかなりの程度までそれを消化していた時代で、文章経国を理想とする雰囲気のなかで漢詩文をつくることが盛行していたが、一方では国風(こくふう)文化の端緒もみえ始めていた。大学において詩文を学ぶ文章道(もんじょうどう)が隆盛し、嵯峨、淳和(じゅんな)、仁明(にんみょう)天皇は自ら詩作し、廷臣のなかにも藤原冬嗣(ふゆつぐ)、小野岑守(みねもり)、菅原清公(すがわらのきよきみ)、小野篁(たかむら)、春澄善縄(はるずみのよしただ)、都良香(みやこのよしか)などの文人が輩出した。嵯峨朝では『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』(818ころ)が編まれ、淳仁朝では『経国集(けいこくしゅう)』(827)がつくられている。これらに収められた詩文は8世紀の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』に比べ、柔らかみが出てきている。国風文化の現れとしては、仮名(かな)の使用が始まっている。漢詩文では十分に表現しえない国風の思想、情緒の発達が、仮名の使用を促したのであって、「斯道已(しどうすで)に墜(お)つ」とまで称された和歌も清和朝のころから復興し、六歌仙らの活動も始まっている。仏教方面では密教が貴族の嗜好(しこう)にかない、神秘的ないし呪術(じゅじゅつ)的な密教芸術が栄えた。加持祈祷(かじきとう)を目的とするため、如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王(ふどうみょうおう)の像がつくられたり描かれたりした。彫刻では一木造(いちぼくづくり)が多く、豊満で官能的なものが目だち、翻波(ほんぱ)式彫法が行われ、絵画では仏像のほかに仏の世界を描いた曼荼羅(まんだら)が発達した。観心寺如意輪観音像や園城寺黄不動(おんじょうじきふどう)ないし神護寺両界曼荼羅は密教芸術の代表的作品である。また神仏習合の傾向も進み、神像もつくられている。
[森田 悌]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『弘仁・貞観文化』
薬子の変(くすこのへん)、または平城太上天皇の変(へいぜいだいじょうてんのうのへん)は、平安時代初期に起こった事件。810年(大同5年)に故桓武天皇である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城(へいぜい)上皇の愛妾の尚侍(ないしのかみ・しょうじ)藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成(式家)らが処罰された。
その後嵯峨天皇が北家の藤原冬嗣を取り立てたこともあり、式家の没落と北家の台頭のきっかけとなった。
なお薬子の変と言う名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。また、「薬子の変」と呼ばれるのは、嵯峨天皇が平城上皇に配慮したためだという指摘もある。また、様々な解釈が可能であるこの事件を新元号の弘仁に由来する「弘仁元年の政変」もしくは「弘仁の変」と呼ぶ研究者もいる。
『薬子の変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89
『娘の夫を虜にした悪女・藤原薬子は果たして黒幕だったのか? 「薬子の変」の真相とは?』(歴史人) https://www.rekishijin.com/35585
参考:『凌雲集』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%9B%B2%E9%9B%86
『凌雲集』(りょううんしゅう)は、平安時代初期の弘仁5年(814年)に嵯峨天皇の命により編纂された日本初の勅撰漢詩集。全1巻。正式名称は『凌雲新集』。小野岑守、菅原清公らによって編纂された。
概要
小野岑守、菅原清公、勇山文継が編纂に当たり、さらに「大才」・賀陽豊年にも質問して完成させた[3]。岑守の序文によれば、延暦元年(782年)から弘仁5年(814年)の23人90首を選んだとあるが、後に1人1首が加えられ、24人91首となって現在に伝わっている。配列は作者別であり、官位の順である。
内容
凌雲集序
小野岑守上
凌雲集
作者 首数 作品
平城上皇 2首 詠桃花一首
賦桜花
嵯峨天皇 22首 神泉苑花宴賦落花篇
重陽節神泉苑錫宴群臣勒空通風同
九月九日於神泉苑宴群臣各賦一物得秋菊
重陽節神泉苑同賦三秋大有年題中取韵大韵成篇
夏日皇太子南池
秋日皇太弟池亭賦天字
秋日入深山
夏日左大将軍藤冬嗣閑居院
河陽駅経宿有懐京邑
江亭暁興
春日遊猟日暮宿江頭亭子
和左大将軍藤冬嗣河陽作
和左金吾将軍藤緒嗣過交野離宮感旧作
和左衛督朝臣嘉通秋夜寓直周廬聴早雁之作
和菅清公秋夜途中聞笙
和菅清公賦早雪
和進士貞主初春過菅祭酒宅帳然傷懐簡布臣藤三秀才作一絶
聴誦法華経各賦一品得方便品取韵
吏部侍野美聞使辺城賜帽裘
餞右親衛少将軍朝嘉通奉使慰撫関東探得臣
贈賓和尚
大伴親王 5首 九月九日侍讌神泉苑各賦一物得秋露応製
秋晩侍内殿宴
奉和春日遊猟日暮宿江頭亭子応製
奉和江亭晩興呈左神栄清藤将軍
駕幸南池後日簡大将軍
藤原冬嗣 3首 神泉苑雨中眺矚応製一首 探得魚字
和菅祭酒秋夜途中聴笙之什
奉和聖製宿旧宮応製一首
菅野真道 1首 晩夏神泉苑同勒深臨陰心応製一首
仲雄王 2首 早舟発
謁海上人 韵勒遇樹住澍句孺務霧芋聚賦趣
賀陽豊年 13首 三月三日侍宴応詔
三月三日侍宴応詔三首
晩夏神泉苑釣台同勒深臨陰心応製
留別故人
同元忠初春宴紀千牛池亭之作
別諸友入唐
史記竟宴賦得大史自序伝
代琴之詞
逸人詞
高士吟
傷野将軍
良岑安世 2首 九月九日侍宴神泉苑各賦一物得秋蓮応製
早秋月夜
藤原道雄 2首 詠雪
春日代妓古詩体
林娑婆 2首 自山崎乗江赴讃岐在難波江口述懐贈野二郎
久在外国晩年帰学知旧零落已無其人聊以述懐簡山請益菅原五郎桃李之報豈無環
上毛野穎人 1首 春日帰田直疏
小野岑守 13首 雑言於神泉苑侍讌賦落花篇応製
夏日神泉苑釣台応製
九月九日侍宴神泉苑各賦一物得秋柳応製
秋日皇太弟池亭応製賦園字
奉和観佳人蹋歌御製
雑言奉和聖製春女怨
奉和江亭暁興詩応製
奉和春日暮遊猟宿江頭亭子御製
奉和傷右衛大将軍故宿禰御製
賀賜新集兼謝
砂土印仏応製
遠使辺城
別故人之任贈琴
菅原清公 4首 九月九日侍宴神泉苑各賦一物得秋山
秋夜途中聞笙
冬日汴州上源駅逢雪
越州別勅使王国父還京
小野永見 2首 田家
遊寺
淡海福良満 3首 早春田園
言志
被譴別豊後藤太守
仲科吉雄 1首 秋夜臥病
高丘弟越 2首 三月三日侍宴神泉苑応詔
雑言於神泉苑侍花宴賦落花篇応製
坂上今継 2首 渉信濃坂
詠史
大伴氏上 1首 渤海入朝
滋野貞主 2首 夏日陪幸左大将藤原冬嗣閑居院応製
王昭君
多治比清貞 2首 奉和御製春朝雨晴応製
和菅祭酒賦朱雀衰柳作
桑原公宮 1首 伏枕吟
桑原腹赤 2首 春日過丈人山庄与飲探得飛字
春日於丈人山庄与飲探得簷字
巨勢志貴人 1首 和進士貞主初春過菅祭酒旧宅帳然傷懐之作
「日本古典全集」, 国立国会図書館デジタルコレクション、国立公文書館デジタルアーカイブ及び関西大学アジア・オープン・リサーチセンターを基に作成
参考:『文華秀麗集』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8F%AF%E7%A7%80%E9%BA%97%E9%9B%86
『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう)は、平安時代初期の弘仁9年(818年)に、嵯峨天皇の勅命により編纂された勅撰漢詩集。全3巻。先に編纂された『凌雲集』に続くもので、勅撰三集の一。藤原冬嗣、菅原清公などにより編纂された。作者は嵯峨天皇、淳和天皇をはじめ28人に及び、渤海使節や女流詩人の作品も収める。もともとは148首が収められていたが、内5首は伝わらない。
参考:『文華秀麗集』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E8%8F%AF%E7%A7%80%E9%BA%97%E9%9B%86-128346#
平安前期の勅撰漢詩集。3巻。嵯峨天皇の命により、藤原冬嗣が仲雄王(なかおおう)・菅原清公・滋野貞主らと撰進。弘仁9年(818)成立。「凌雲集」に漏れたものやその後の作など、28人の詩140余首を収める。
出典 小学館デジタル大辞泉
承和の変(じょうわのへん)は、平安時代初期の842年(承和9年)に起きた廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件である。
823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位した。ついで皇位は、833年(天長10年)嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に伝えられた。仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。嵯峨上皇による大家父長的支配のもと30年近く政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こらなかった。
この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。良房は道康親王の皇位継承を望んだ。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。
840年(承和7年)、淳和上皇が崩御する。2年後の842年(承和9年)7月には、嵯峨上皇も重い病に伏した。これに危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢である。彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに与せずに、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に健岑らの策謀を密書にて上告した。皇太后は事の重大さに驚き中納言良房に相談した。当然ながら良房は仁明天皇へと上告した。
7月15日、嵯峨上皇が崩御。その2日後の17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。しかし、23日になり政局は大きく変わり、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津を捕らえた。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃した。藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となった。また、春澄善縄ら恒貞親王に仕える東宮職・春宮坊の役人が多数処分を受けた。
事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた。
通説において、承和の変は藤原氏による他氏排斥事件の初めで、良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。承和の変の意味は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨-仁明-文徳の直系王統を成立させたという点も挙げられる。また良房は、この事件を機にその権力を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。
『承和の変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%89
858年(天安2年)、冬嗣の子藤原良房が摂関となり、初期の摂関政治が始まった。良房は冬嗣の路線を継承し、開墾奨励政策をとった。当時、課税の対象だった百姓らの逃亡・浮浪が著しく、租税収入に危機が迫っていた。冬嗣・良房は墾田開発を促進し、土地課税に転換することで状況に対応しようとしたのである。良房は、政治権力の集中化も進めていき、そうした中で応天門の変(貞観8年/866年)が発生した。この事件は、藤原氏による他氏排斥と理解されることが多い。良房執政期を中心とした時期は、政治も安定し、開発奨励政策や貞観格式編纂などの成果により、貞観の治と呼ばれている。
良房の養子、藤原基経もまた、良房路線を継承し土地課税重視の政策をとった。基経執政期で特徴的なのが、元慶官田の設置である。それまで中央行政の経費は地方からの調・庸によっていたが、畿内に設定した官田の収益を行政経費に充てることとしたものである。
平安中期に摂政(せっしょう),関白が天皇を代理あるいは補佐した政治。律令政治が変質したもので,藤原氏による閥族政治。平安初期,藤原氏は冬嗣(ふゆつぐ)・良房・基経3代で他の朝廷貴族を圧倒し,良房が最初の摂政,基経が最初の関白となった。安和(あんな)の変以後は,歴代天皇が幼いうちは摂政,長じては関白に,藤原氏が就任して,11世紀前半の道長・頼通(よりみち)時代には政権を独占した。摂関の権威の根拠は,公的には律令官僚の最高の地位,私的には天皇の外戚(がいせき)(ふつう母方の祖父)だったことにあった。また律令国家の公地公民制に代わって発達した荘園制を基礎としたため,政治の視野は狭くなり,政務は儀式化し,公私混同も一般化した。頼通の晩年,院政が起こるに及んで摂関家は実権を失った。
→関連項目王朝国家|外戚|承和の変|天皇|読史余論|藤原道長|藤原基経|藤原良房|藤原頼通|平安時代
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応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件。
応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
経過
大納言・伴善男は左大臣・源信と不仲であった。源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣・藤原良相が昇進し、自らは右大臣に任ぜられることを望んでいたともされる。
貞観6年(864年)に伴善男は源信に謀反の噂があると言い立てたが、これは取り上げられなかった。
貞観8年閏3月10日(866年4月28日)応天門が放火され炎上する事件が起こる。朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。ほどなく、伴善男は右大臣・藤原良相に対して源信が犯人であると告発する。応天門は伴氏(大伴氏)が造営したもので、源信が伴氏を呪って火をつけたものだとされた。
藤原良相は源信の捕縛を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。参議・藤原基経がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げた。
8月3日に備中権史生・大宅鷹取が、応天門放火の犯人は伴善男・中庸親子であると訴え出る。鷹取は応天門の前から善男と中庸、雑色の紀豊城の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の娘が善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたと言われる。告発者を保護し、虚偽の告発であった場合に処罰するための法規に基づいて、鷹取は左検非違使に引き渡される。
天皇は勅を下して参議・南淵年名、参議・藤原良縄らに伴善男の取調べを命じた。8月7日に行われた善男に対する鞫問では善男は無罪を主張した。また、陰陽寮が応天門の火災は山陵が穢されたことにあると勘申を行い、14日になって実際に山陵を点検したところ山陵に人が立ち入って木々が伐採された跡が見つかったため、18日には応天門の火災は山陵を穢されたことに対する譴責と判断されて陵守の処分の方針が決定された。なお、翌19日には藤原良房が摂政に任じられるが、これは源信が自宅で籠居し、藤原良相も病気で出仕が滞り、それに次ぐ大納言である伴善男にまで放火の疑いをかけられる中で、形の上では名誉職である太政大臣である良房に太政官の政務に関与させる意図があったと考えられる(仮に大納言である伴善男が放火の犯人であった場合、善男の処分を判断できるのは上官である大臣のみとなる)。
ところが、応天門の火災の捜査とは別に進行していた大宅鷹取父娘が殺傷された事件の捜査に関連して、8月29日に伴中庸が左衛門府に拘禁され、同じく善男の従者である生江恒山・伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問されているが(杖で打ち続けられる拷問を受けていた可能性もあり)、その過程で鷹取の件のみならず応天門の放火についても自供を始め、一度は誣告と判断されかけた伴善男父子に対する放火容疑が再び浮上する。善男への取調べがいつ再開されたかは不明であるものの、否定を続ける善男に対し「伴中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、善男は観念して自白したという(『江談抄』)。
9月22日に朝廷(太政官)は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。首謀者として、伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国への流罪となった。また首謀者の親族8名も連座して流罪となった。また、大宅鷹取父娘の殺傷については引き続き審理が続けられ、生江恒山ら2名が処罰を受けたのは10月に入ってからであった。この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。藤原氏の勢力削減を図った伴善男であったが、結果として伴氏らが一掃され藤原氏の権勢が増す事となった。このため、藤原氏による伴氏追い落としのための陰謀とする見方が強いが、鈴木琢郎のように実際に伴中庸の独断による犯行で父である善男は無関係であったが、清和天皇によって善男も同罪とされたのではないかとみる説もある。
『応天門の変』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%A4%A9%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
平安時代の878年に起きた夷俘(いふ)(蝦夷)の反乱である。出羽国の夷俘が朝廷の苛政に対して蜂起して秋田城を襲ったもので、官軍は苦戦し鎮圧は難航したが、朝廷摂政・藤原基経は、能吏で知られた藤原保則、武人の小野春風らを起用し、藤原保則による寛政によって鎮撫して終息した。
元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。
4月、出羽守よりの急使を受けた朝廷は、下野国と上野国にそれぞれ1000ずつの徴兵を命じた。19日には最上郡郡司擬大領の伴貞道が戦死する。
5月、朝廷は藤原梶長を押領使に任じて陸奥国より騎兵1000、歩兵2000を派遣して鎮圧に向かわせた。出羽掾藤原統行、文室有房、小野春泉の出羽兵2000もこれに合流する。6月、夷俘の軍勢が大挙して再度秋田城を襲い、官軍は大敗を喫して、藤原梶長も陸奥国へ逃げ帰ってしまう。城中の甲冑300領、米700石、衾(寝具)100条、馬1500匹が夷俘の有に帰した。反乱は拡大して秋田城下の12村(上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡)が夷俘の支配に落ち、出羽北部ではわずか3村(添河、覇別、助川)の俘囚だけが出羽国に属していた。さらに津軽・渡嶋の蝦夷も蜂起した蝦夷を支援する。
5月、朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は備中国、備前国の国司として善政をしいた人物であった。保則は小野春風の起用を願い、6月、春風は鎮守府将軍に任命される。陸奥介坂上好蔭(坂上田村麻呂の曾孫)とともに出羽国へ向かった。この時点で俘囚3人が陣営に来て、秋田河以北を朝廷の直接支配が及ばない「己地」となすことを要求した。
保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の不動穀を賑給して懐柔にあたった。保則の寛大な施策の一環である。また、保則の手持ちの兵力が寡兵であるため常陸国、武蔵国の兵2000を動員する許可を朝廷に求めている。
8月、夷俘の集団が次々と秋田城下に来て降伏した。寛政の噂が広まり、夷俘の敵意が和らいだためである。保則は来降を許したが、元慶3年(879年)1月、朝廷は討伐の強行を命じ、これに対して保則は出羽国の現状を報告した。寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると意見した。朝廷はこの意見を容れ、3月、征夷の軍を解いた。
藤原保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功した。一方でこれは、朝廷の力が低下して坂上田村麻呂の時代のように武力によって夷俘を制圧できなくなっていたことも意味していた。夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。
乱後、秋田城は保則の手により再建された。出羽国司次官である介が受領官に格上げされると共に、秋田城常駐となり軍事機能も強化された。これは後に秋田城介と呼ばれる。
異説
元慶の乱は朝廷側の蝦夷に対する懐柔政策が功を奏して、蝦夷は降伏したとするが、田牧久穂は『元慶の乱・私記』でこれに異を唱えている。
まず、広範囲の蝦夷をまとめて、自分たちの要求を朝廷側に文書にして提出するなど、反乱を指導した人物がいるはずであるが、この人物が朝廷側の多数の犠牲者[注釈 1]にもかかわらず彼らの名前が明確に記録されていないこと[注釈 2]、また915年北東北に2000年来最大の自然災害である十和田湖火山の大噴火が起きるが、この噴火あるいはそれに続く広範囲の自然災害が全く文書で記述されていないことなどから、この元慶の乱は事実上蝦夷側の要求が通り、雄物川以北は蝦夷側の支配する地区となり、朝廷が手を出せなくなってしまったというのである。同時期に仙北郡で極めて大規模な城柵として使われたのにもかかわらず、記録が全く残っていない払田柵跡にあった施設で中央から監視しに来た人を接待したのではないかとする説もある。いずれにせよ、全く記録に残っていない払田柵の存在は当時のこの地区の人が中央の管理とは別に比較的自由に行動できたことを示す。
また『秋田県の不思議辞典』(野添憲治編、新人物往来社)によると、931年から938年頃に作られた『和名類聚抄』では、南から北へ日本の地名が並べられているが、日本海沿岸地方では、出羽国の秋田郡、率浦郷が最も北の地として地名が記録されており、それは現在の五城目町から八郎潟町の森山、高岡山、三倉鼻のラインで、これより北には地名の記述が無いとしている。このことは、上記のこととほぼ一致する。
元慶の乱の記録は日本三代実録によるが、ところどころ記録が欠けていると記して略した箇所がある。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。
元慶の乱が始まる直前に、秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大は、出羽国の財政を圧迫するまでに問題化していたという。また乱の収束後、元慶の乱時に国家側と対立した地域には、9世紀末から10世紀にかけて秋田十二林窯、青森五所川原窯などが相次いで出現した。これらは秋田城が独占していた対北海道蝦夷貿易がこの地区の新興階層の手に移行したことを示唆しているとする人もいる。また、製鉄所も能代地区を中心として出現した。そのため、蝦夷は鉄を朝廷側から得る必要も無かった。これは、貞観地震で被災した製鉄技術者が製鉄に有利な風を求めて移住したものとも考えられている。
『元慶の乱』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1
阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経と宇多天皇の間で起こった政治紛争である。阿衡の紛議とも呼ばれる。先代の光孝天皇の時代のように引き続き政務を執るよう求めた詔勅を基経が形式的に辞退した後、天皇は改めて詔勅を下した。しかし基経は、詔勅中の「阿衡」の語は名ばかりで実権のない職を指すと抗議し、一切の公務の遂行を放棄した。天皇は二度目の詔勅を撤回するなど対応に苦慮したが、最終的には妥協が成立した。
仁和3年(887年)、光孝天皇の重病に伴い、8月25日には臣籍降下していた皇子源定省は皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子、践祚した(宇多天皇)。この時期に問題となったのは光孝天皇および宇多の擁立を行い、長らく執政の任にあった太政大臣藤原基経の権限の確認であった。基経の後の手紙では「仁和3年8月以降から現在(書状を出した仁和4年5月)まで、太政官から天皇への奏上は行われていない」とあり、これは宇多天皇が基経の執政の任の確認を行わなかったため、基経は践祚から即位式までの間に執政を辞退する旨の伝達を行っていたと見られる。11月17日に即位式を終えた天皇は参議左大弁橘広相に命じて「基経に父光孝天皇の時代と同じように引き続き政務を執る」ことを命じた詔書を作成させ、21日に発給した[2][注 1]。詔勅中の「皆関白於太政大臣」という言葉は、「関白」の初出である。
基経は先例により26日に一旦辞退する[注 2]。天皇は橘広相に命じて二度目の詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。阿衡は中国の殷代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。これを文章博士で基経の家司であった藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。池田晃淵によれば基経は「厩馬を放散して、京中を驚かす如き、亂暴の擧動もなせしなるべし」怒りを表したという。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。
翌仁和4年(888年)4月、天皇は左大臣源融に命じて明経博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。善淵愛成・中原月雄らの見解は佐世と同じであった。広相は「阿衡」は「三公で万機を執るもの」を指すものだと言い、職務が無い物を指すことはないと反論した。5月23日には紀伝道の儒者である藤原佐世・三善清行・紀長谷雄への諮問が行われたが、彼らも阿衡には職掌がないと回答した。6月1日には天皇の御前で広相と善淵・中原の対論が行われたが結論は出なかった。6月2日、天皇は仁和3年11月21日の詔書のごとく政を補佐するよう基経に伝えた。ここの日、天皇は以前「卿従前代猶摂政焉、至朕身親如父子、宜摂政耳(そなたは前代[光孝天皇の代]から摂政です。だから親しいことは父と子に対する如く、子に当たる私にも摂政であって下さい)」と基経に伝えたことに対して基経が「謹奉命旨必能奉(謹んでご命令を承ります。必ず天皇の御意に従い奉ります)」と返答しているのに裏切られたと憤慨する想いを記している。
しかし基経は阿衡の問題が解決しなければ政務に復帰できないと回答し、これを受けた源融は11月27日の勅答を改めるべきだと天皇に奏上した。天皇は難色を示したものの、11月27日の勅答は改められた。しかしなおも広相への批難は集まり、6月27日の大祓では広相以外の公卿が参列せず、完全に孤立するという事件も起きた。9月17日には天皇が善処を求める勅書を基経に送り、10月6日には基経の娘藤原温子が入内、9日には女御とされた。一方で広相は逼塞に追い込まれており、10月13日には詔書を作り誤った罪の量刑が求められ、15日には勘文が作成されている[12]。10月27日の返答で基経は広相に重ねて処分を求めることはしない、仁和3年11月27日の勅答の改正は誤りであったと回答した。これは勅書の改正により、広相に罪があったと天皇が認定してしまったことを指している。天皇はこれを見て事件に一段落がついたと判断し、広相を罪に問うことはなく復帰させた。
天慶4年(941年)、朱雀天皇の成人に伴い、摂政藤原忠平は、「仁和の例」に従って「摂政」を改め「関白」と呼ばれることになった。これ以降成人天皇を補佐する関白の制度が定着する事となる[14]。
『阿衡事件』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%A1%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,935年(承平5)以来,常陸西部に館をもつ一族の平国香,平貞盛,良兼,良正らと合戦を繰り返していたが,939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い,国守藤原維幾らを捕らえた。この直接の原因としては,将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説と,国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説とが,ともに《将門記》にみえる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
10世紀前半,平将門(まさかど)と藤原純友(すみとも)が東国と西国で相次いで起こした反乱。下総(しもうさ)に勢力をつちかっていた将門は所領に関して一族と紛争を起こし,935年(承平5年)伯父の国香(くにか)を殺し,次いで常陸(ひたち)国司に抵抗した藤原玄明(はるあき)を助けて常陸の国府を襲い,国家への公然たる反逆を行い,ついには関東8国を手中に収め,新皇(しんのう)と称した。朝廷は鎮圧の軍を発したが,到着以前に,平貞盛・藤原秀郷(ひでさと)の軍が将門を討ちとった。伊予(いよ)国の藤原純友は瀬戸内海各地で海賊行為を働き,淡路(あわじ)・讃岐(さぬき)の国府,さらに大宰府(だざいふ)をも襲ったが,941年(天慶4年)小野好古(よしふる)らによって鎮圧された。この二つの反乱で中央政府の動揺ははなはだしく,中央政府の全国統制力の喪失を示す事件であった。
出典 株式会社平凡社
なお、平将門の首塚は千代田区大手町1-2-1、東京メトロ大手町駅C5出口すぐのところにあった。平将門の乱を起こして下総で討ち死に、藤原秀郷によって平安京の七条河原でさらされた将門の首は、数か月経った後も再戦の言葉を叫ぶなど聞くものを恐怖に陥れた。そののち首は故郷の東国に向かって飛んでいき、落ちたところの一つが首塚のある場所だという。そののちも首塚が交配するたびに将門が祟ったとされ、江戸時代は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭だったが、その間、伊達騒動と呼ばれる刃傷沙汰が発生している。その後、関東大震災後、復興計画として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、塚が壊されたが、その際、当時の大蔵大臣(早速整爾はやみせいじ)を初め工事関係者がつぎつぎ普請死を遂げたという記事が出た(実は死亡年が異なるなど強引な記事であったと後に判明したが)。また第2次世界大戦後、GHQや高層ビル開発時も不審な事故が続き、今は塚跡は整備され、無事に首が帰った所から、「無事帰りたい」「無事帰ってほしい」人々などの崇敬を集めているという。
承平天慶の乱は、平安時代中期の935年から940年にかけて、関東と瀬戸内海で相次いで発生した平将門の乱と藤原純友の乱の総称です。承平年間(931年 - 938年)から天慶年間(938年 - 947年)にかけての出来事であるため、この名前で呼ばれます。
日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。
◎参考:『陰陽道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93
陰陽道(おんみょうどう)は、陰陽五行思想を起源として、天文学や暦の知識を駆使し、日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術である。
陰陽道は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つであり、これら道の呼称は、当時の国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語では無い。
(中略)
平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師の神格化
延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために怨霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯説(讖緯思想)・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交(8世紀末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
仁明天皇・文徳天皇の時代(9世紀中半)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら『九条殿遺誡』や『九条年中行事』を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える讖緯説による災異改元が取り入れられて延喜元年(901年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化が更に進んだ。あわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。同時期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなり、晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は両家が本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更にはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では道満などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出した。
平安時代中・後期(11世紀から12世紀)を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)のころには安倍晴明の子吉平の玄孫にあたる泰親が正四位上、その子の季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、鎌倉時代末期の両統迭立に呼応した家内騒動、その後の南北朝時代の混乱によってその勢力は一時衰退した。
◎参考:『陰陽師』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E5%B8%AB
陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
◎参考『陰陽寮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E5%AF%AE
陰陽寮(おんようりょう、おんようのつかさ)は、日本の律令制において中務省に属する機関のひとつ。占い・天文・時・暦の編纂を担当する部署。「うらのつかさ」とも。
概要
四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している。
博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦3博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ。宣明暦が、862年2月3日(貞観4年1月1日)から1685年2月3日(貞享元年12月30日)の823年間使用された。天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている。
飛鳥時代(7世紀後半)に天武天皇により設置され、明治2年(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として翌年廃止された。なお、天平宝字2年(758年)から8年までは、藤原仲麻呂による官号改易(仲麻呂失脚後、復旧)により、「太史局」と称されていた。
1870年に陰陽寮は廃止され大学寮星学局(現国立天文台)に改組。
なお、日本の陰陽寮のモデルとなったのは、唐において天文・暦法・漏刻を扱った太史局であったと考えられているが、唐では占卜方術を管轄していた太卜署に相当する機関が日本では設置されずに陰陽寮の職掌に含まれ、しかもこちらの方に重きを置かれた(陰陽道系の官人の方が比較的官位相当が高い)のが特徴と言える。
職員
陰陽頭(おんようのかみ)
長官として陰陽寮を統括し、天文、暦、風雲、気色のすべてを監督する。異常発生時には外部に漏れることなくこれを記録密封し極秘に上奏し(天文密奏)、暦博士が作成した新年の暦を毎年11月1日までに調進(御暦奏)、また都度占筮及び地相の結果を上奏する職務。定員1名で官位は従五位下相当。
陰陽助(おんようのすけ)
陰陽頭の補佐業務を行った次官。従六位上相当。定員は初め1名であったが後に権官も置かれるようになった(下述)。
陰陽允(おんようのじょう)
判官(第3等官)。寮内を糾見し書類の審査など寮内事務全般の管理を行った。従七位上相当。定員は初め1名で後に大允(たいじょう)と少允(しょうじょう)の2名が置かれた(下述)。
陰陽大属(おんようのたいぞく)・同少属(しょうぞく)
主典(第4等官)。大属は公文書の記載・読上げなどの記録実務を、少属は大属を補佐する記録実務を行った。定員各1名。大属は従八位下、少属は大初位上相当。
陰陽師
占筮(吉凶を占うこと)、地相(方位を観ること)の専門職。従七位上相当で定員は6名。
陰陽博士
陰陽道の主担当者。修習生である陰陽生(おんようのしょう)を指導する。定員1名。正七位下相当。天文博士と同様に高い位に設定されている。
天文博士
天文道の主担当者。「天文の気色を観測して異変があれば部外に漏れぬようこれを密封する」とともに、修習生である天文生(てんもんのしょう)を指導する。定員1名で正七位下相当。正七位下の官位は他の博士よりも高いが、これは陰陽諸道の中では天文道(天文学)が最も難しいとされたためである。
暦博士
暦道の主担当者。暦の作成・編纂・管理を担当し、修習生である暦生(れきのしょう)を指導する。定員1名。従七位上相当。
漏刻博士
時間管理の主担当者。漏刻(水時計)の設計・管理を指導し、実際に守辰丁を率いて漏刻を稼動させ、その目盛りを読み時刻を管理する職務。2交代制のため定員は2名。従七位下相当。
学生・得業生
博士の下で各道を修める学生(修習生)で、天文、陰陽、暦の3道それぞれに各10名が配され、また博士を目指す得業生(2から3名)も置かれた。
守辰丁(しゅしんちょう)
漏刻博士の管理の下で漏刻を測り、毎時ごとに鳴り物(太鼓、鐘鼓)を打ち鳴らして時報を知らせる実務担当者。定員20名。
使部(じぶ)・直丁(じきちょう)
陰陽寮以外にも各省・寮に共通に配置された庶務職で、使部は定員20名、直丁は定員2名。
官人の肥大化に伴い本来は員外配置である権官(律令本来の定めにはない運用法で、当初の実態は該当職務を行わないにもかかわらず該当職と同等の待遇とする暫定名誉職位であり、正規の任命ではない「仮」という意味の「権(ごん)」を冠せられた待遇職のことであったが、後に常設化されると正官と同等かそれに近い権限を持つようになった)等が常態化する。「助」の権官である陰陽権助(ごんのすけ)が正官の陰陽助同様従六位を与えられて陰陽頭の補佐を行うようになり、允も陰陽大允と同少允各1名が置かれ、少允は大允を補佐する立場をとったが官位は双方同格の従七位上とされた。
方技においても各博士を補佐する権博士(ごんのはくじ)が常設化されたが(天文権博士・陰陽権博士・暦権博士・漏刻権博士)、こちらの官位はすべて各正博士よりも一段階低く設定され、学生も大学寮の修業生(しゅうぎょうのしょう)の運用にならって、天文得業生(てんもんとくごうしょう)(定員2名)、陰陽得業生(おんようとくごうしょう)(定員3名)、暦得業生(れきとくごうしょう)(定員2名)が、各博士職や陰陽師職の後任候補として設置された。
なお、漏刻部門に関しては、唐と同じく漏刻博士は設置されていたものの、漏刻生・漏刻得業生は設けられなかった。そもそも唐の制度では漏刻の実務を行う職として挈壺正・司辰・漏刻典事が別に設けられて漏刻博士は漏刻生を教育することを専門としていたが、日本の制度では挈壺正・司辰・漏刻典事が置かれず漏刻博士がその任を務め、また本来の漏刻博士の職掌であった教育対象である漏刻生も置かれない、など、日本と唐の制度の間に大きな違いが生じていたが、その事情については不明である。
また、庶務職においても史生と寮掌が新設された。陰陽史生(おんようのししょう)(定員不明)は文書の複写や寮内で稟議書を届けて回る伝令として用いられたようであるが、史生職は現存する記録が不充分でその実態は明らかにされておらず、本来律令で定められた使部(じぶ)の一部が転用されたとする説や新規に職制として設置されたとする説がある。
◎参考『(芦屋)道満』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%BA%80
道満(どうまん)は、平安時代の非官人の法師陰陽師[1]。近世以降の著作物では、蘆屋道満/芦屋道満(あしや どうまん)の名で知られる。
江戸時代の地誌『播磨鑑』によると芦屋道満は播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とある。また播磨国の民間陰陽師集団出身とも伝えられている。一般的には生没年不詳とされているが兵庫県加古川市の正岸寺という寺の芦屋道満の位牌に天徳二年(958年)生誕との記述がある。また、同一人物として道摩が挙げられるが道満と道摩とは別人であるという説も存在するなど実像については不明な点が多い。
実在の法師陰陽師「道満」
『政事要略』巻七十糾弾雑事蠱毒厭魅及巫覡に「勘申散位源朝臣為文・民部大輔同方理・伊予守佐伯朝臣公行妻及方理朝臣妻・僧円能等罪名事」という罪名勘文が引かれており、ここに道満という法師陰陽師の名が現れる。これは寛弘6年(1009年)2月に発覚した中宮藤原彰子、敦成親王および左大臣藤原道長に対する呪詛事件の記録で、『日本紀略』『権記』『百錬抄』などによれば高階光子・源方理・方理の妻・源為文・法師陰陽師円能が処罰された。高階光子は藤原伊周のおばにあたることから、道長の排除と伊周の復権を目論んだものとされる。
『政事要略』にはこの事件に関して検非違使が円能らを尋問した際の記録が引用されており、円能は高階光子に道満という法師陰陽師が召し使われていたことを供述している。もっとも処罰を受けた人物として道満の名は上がっていないため、陰謀への直接関与はなかったものとみられる。
安倍晴明は寛弘2年(1005年)に死去しているためこの事件との関わりはないが、安倍晴明と同時代に藤原道長の敵対勢力側の陰陽師として道満という法師がいたという史実が後世の伝説に発展したと考えられる。
子孫を称する人物
安土桃山時代には『播州府中記』の著者で播磨国三宅(姫路市飾磨区三宅の周辺)の芦屋道仙や、『播磨府中めぐり』『近村めぐり一歩記』の著者で播磨国英賀(姫路市飾磨区英賀宮町の周辺)で播磨三木氏に仕えた芦屋道海など、芦屋道満の子孫を称する人物の著作が天川友親編『播陽万宝智恵袋』に収録されている。
登場作品
江戸時代までの文献では、ほとんどにおいて安倍晴明のライバルとして登場し、「正義の晴明」に対して「悪の道満」という扱いをされる。安倍晴明が伝説化されるのと軌を一にして、道満の伝説も拡散し、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。
中世文学
『峯相記』(ぶしょうき / ほうそうき / みねあいき)
この中では「清明・道満は一条院の御宇、一双の陰陽の逸物也」と道満が安倍晴明と双璧をなすほどに優れた陰陽師であったと記述される。藤原伊周が道満に依頼して、道に呪物を埋める呪詛を藤原道長に対して行い、それを安倍晴明が看破。道満は播磨国に流され、その地で没したとする説話が紹介されている。
近世
『簠簋抄』
三国相伝簠簋金烏玉兎集之由来
薩摩から道満が上京し安部清明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を16個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が16」と答えたが、清明は加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた。観客であった大臣・公卿らは安部清明が当てられなかったと落胆したが、長持を開けてみると、中からは鼠が16匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は清明の弟子となった、と言われているという。
遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた清明の留守中に清明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、清明の唐からの帰国後に清明との命を賭けた対決に勝利して清明を殺害し、秘法で清明の死を悟った伯道上人が来日して呪術で清明を蘇生させ道満を斬首、その後に清明は書を発展させた。
信太妻
浄瑠璃・歌舞伎の「信太妻」でも悪人として描かれる。
芦屋道満大内鑑
竹田出雲作の浄瑠璃(およびそこから派生した歌舞伎作品)「芦屋道満大内鑑」は、先行作との差別化を図りあえて道満を善人として描いたとされる。
「芦屋道満大内鑑」では、天文博士・加茂保憲[10]が急死したことで安倍晴明の父である安倍保名と芦屋道満による後継者争いが発生する。この後継者争いのモデルは『続古事談』に記載のある出来事だが、それによれば、争いの当事者は賀茂光栄(暦道を継承)と安倍晴明(天文道を継承)となっている。
明治以降は道満がメインとなる第3段の上演が稀になったため、なぜこの作品の題名が「芦屋道満大内鑑」なのか理解しにくくなった。歌舞伎で本作を上演する場合は第4段のみのケースが多く、『葛の葉』と通称されることがある(第4段に道満の出番は僅かにしかない)。
◎晴明神社(京都) https://www.seimeijinja.jp/
◎参考:『晴明神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%B4%E6%98%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
晴明神社(せいめいじんじゃ)は、京都市上京区晴明町にある神社。安倍晴明を主神とし、倉稲魂命を合祀した。一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。旧社格は村社。
歴史
寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、時の一条天皇はその遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、かなり広大であった。しかし、度重なる戦火や、豊臣秀吉の都市整備などにより次第に社域を縮小し、社殿も荒れたままの状態となる。また、隣接して千利休の屋敷が設けられていた。
安政元年(1854年)の京都大火と天明の大火により社記を焼失し、神社の詳しい由緒などは不明になってしまった。
幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われている。明治時代になると村社に列せられた。
戦後の1950年(昭和25年)には、堀川通に面するように境内地が拡張されている。
平成以降、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる2005年(平成17年)には、安倍晴明千年祭が行われた。
2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調され、安政元年(1854年)に土御門晴雄により奉納されたものを忠実に再現したものとなった。
一の鳥居の社号額には、五芒星の社紋が描かれている。
祭神
主祭神 - 安倍晴明御霊神
◎参考:『安倍晴明』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E
安倍 晴明(あべ の せいめい / はるあき / はるあきら 、921年2月21日(延喜21年1月11日)- 1005年10月31日(寛弘2年9月26日))は平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と音読みする場合が多いが、読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。官位は従四位下。
史実上の人物像
出自
晴明の系譜は不詳だが、中級貴族の大膳大夫・安倍益材(あべ の ますき)子と伝わっている。
各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣・阿倍御主人(みうし)の子孫とある。一次史料や『本朝世紀』では安倍朝臣晴明と記されている。
経歴
延喜21年(921年)に生まれたとされる。生地については生誕地を参照。
幼少の頃については確かな記録がない。陰陽道については賀茂氏の門下生であったという。
天徳4年(960年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった。その後の経歴は記録によって複数の説があるが、高田義人の整理によれば天徳4年に発生した内裏火災で焼損した霊剣鋳造の功労によって翌応和元年(961年)6月以降に陰陽師(官職)に任じられ、天禄元年(970年)に陰陽少属に昇進、天禄2年(971年)には51歳で天文博士の兼任が認められた。
貞元2年(977年)、賀茂保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。その後、『占事略决』を撰した。
花山天皇の信頼を受けるようになり、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。
そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された。
長保2年(1000年)10月、一条天皇の新造内裏遷御において、御輿が南階の前に到着する前に晴明は反閇(へんばい)を奉仕した。応和の前例では、陰陽寮が供奉して散供していたが、晴明が陰陽道の傑出者であるため奉仕した。
『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものとして被物(かずけもの)を与えるよう命じたことなどが記されている。
陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することはなかったが、位階はその頭よりも上位にあった。さらに晴明の2人の息子(安倍吉昌、安倍吉平)が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。のちに賀茂・安倍(土御門)の両家は二大陰陽道宗家となる。
晴明の邸宅は『大鏡』によると土御門町口付近、『今昔物語集』によると土御門西洞院北東(現在の京都市上京区土御門町・菊屋町)にあったとされる。
末裔
系譜上安倍晴明の後裔とされる家柄としては、堂上家では、安倍氏嫡流の土御門家と、江戸時代にそこから分家した庶流倉橋家があり、明治以降は共に子爵に列せられた。 ただし安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家の子で倉橋家の養子となった倉橋有儀(1738年 - 1784年)と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄(1758年 - 1806年)の代で断絶している。
また、地下家の幸徳井家も、系譜上は賀茂氏であるが、家祖友幸が安倍氏出身であり、安土桃山時代の当主・友豊まで晴明の男系血脈が続いた。
創作作品での人物像
今日では平安時代の代表的な陰陽師のように扱われている晴明であるが、その名が広く知られることになったのは晴明を説話の登場人物として扱った『大鏡』や『今昔物語集』が出た12世紀前半、すなわち晴明の死から100年ほど後の時代のことと考えられている。
しかし、これらの作品の同世代もしくは少し後の作品である『江談抄』や『中外抄』には、他の陰陽師の名は出ても晴明の名前は登場しない。11世紀後半から12世紀後半にかけて陰陽道といえば賀茂氏と認識される時代が長く続き、一方で安倍氏の者の中にも陰陽道にその才を示すものがいたものの、早世や内紛なども多く不振の時代であった。そのなかで、晴明流の安倍氏が自らの立場の安定化のために、祖先である晴明の顕彰活動を行ったと推測される。
その甲斐があったのか、13世紀(鎌倉時代)に入ると『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』などに晴明の活躍が記されるようになった。
また、晴明が阿倍仲麻呂の子孫とする説話がある。
平安文学
『大鏡』- 帝紀「花山天皇」
花山天皇が帝位を捨てて出家しようと寺に向かっている時、晴明の家の前をちょうど通ったところ、「天皇が退位されるとみられる天変があった。式神一人内裏に参上して奏上せよ」という晴明の声が聞こえた。
『今昔物語集』
「代師入太山府君祭都状語」
ある僧が重病を患い、弟子たちは安倍晴明に泰山府君祭を行って僧の病気を治してほしいと頼んだ。晴明は、弟子の誰かが僧の身代わりとなって寿命を差し出せば、都状に名前を記して泰山府君に頼んでみると答えた。弟子の一人が身代わりを申し出たので晴明が泰山府君祭を行うと、師匠の病気はたちまち回復した。弟子は死を覚悟したが、夜が明けてもまだ生きていた。弟子が不思議に思っているところに晴明がやってきて、「泰山府君は弟子を哀れんだので師匠も弟子も共に助かった」と伝えた。
なお『曽我物語』『安倍晴明物語』に類似の説話がある。
「安部晴明随忠行習道語」
晴明が幼少の頃、賀茂忠行の夜行に供をしている時、夜道に鬼の姿を見て忠行に知らせた。忠行は晴明が優れた才能を持つことを悟り、陰陽道のすべてを教え込んだ。
陰陽道の大家となった晴明は、ある時播磨国から来た陰陽師(後述)に術比べを挑まれたが、いともたやすく懲らしめた。
仁和寺の寛朝僧正のところで、同席した公卿達に陰陽道の技でカエルを殺してみせるようにせがまれ、術を用いて手を触れずにカエルを真平らに潰した。
晴明の家では式神を家事に使っており、人もいないのに勝手に門が開閉していた。
「播磨国陰陽師智徳法師語」
播磨国の陰陽師、智徳法師が方術で海賊を捕らえた物語だが、末尾に「智徳はこれほど優れた陰陽師でありながら晴明にはかなわなかった」と記されているので、前の物語に登場した播磨の陰陽師は彼のことだとわかる。
中世文学
『無名抄』
かつて晴明が在原業平の家に祈祷して火の力を封じたので、業平の家は長らく火災に遭わなかった。しかし、末世には晴明の力も及ばなかったのか、とうとう焼けてしまった。
『古事談』- 晴明、花山天皇の前生を知ること
花山天皇は頭痛を患い、雨の日は特に痛んだ。晴明は天皇の前世が優れた行者であることを見抜き、前世の髑髏が岩の隙間に挟まっているので雨の日にひどく痛むのだと説明した。晴明は髑髏のある場所を指し示し、使者が髑髏を取り出すと天皇の頭痛は治まった。
『続古事談』
安倍晴明が大舎人だった頃、勢多橋を通りかかったところで、慈光から貴方は陰陽道の達者になる者だと告げられる。そこで、晴明は陰陽師具曠の許へ行き弟子入りを志願するが断られる。次に賀茂保憲の許へ行ったところ、保憲は晴明の才能を見抜いて弟子に迎え入れた。
晴明はもっぱら術法に長けた者であり、学問については特に優れていたわけではなかったと言われている。
ある時、晴明は保憲の息子賀茂光栄と議論をしていて、晴明が「生前、保憲は光栄を自分より上に立たせることはなかった」と言うと、光栄は「愛弟子と実の息子とでは違う」と反論した。晴明が「保憲は陰陽道に関する数多の書物を自分に伝授してくれたが、光栄には伝えなかった。これがその証である」と言ったが、光栄は「その書物は私の許にある。また、父保憲は自分に暦道を伝授してくれた」と言い返した。
『宇治拾遺物語』
「晴明蔵人少将封ずる事」
晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。
「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」
藤原道長が可愛がっていた犬が、あるとき道長が法成寺に入るのを止めようとした。道長が晴明に占わせると、晴明は呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、呪いをかけた陰陽師道摩法師を式神を使って見つけ出して捕らえた。
『十訓抄』にも同様の記述がある。
『平家物語』-「剣巻」
貴船神社に祈願し鬼となった橋姫の腕を渡辺綱が切り落とし、播磨守であった晴明が封印した。
なお「剣巻」を元に制作された能の演目『鉄輪』にも晴明はワキとして登場する。
『源平盛衰記』
「巻三 法皇熊野山那智山御参詣の事」
花山法皇が山に籠もっていると天狗が妨害してきたので、法皇は陰陽博士・安倍晴明を召した。晴明は狩籠の岩屋に多くの魔類を祀った。
「巻十 中宮御産の事」
治承2年(1178年)11月12日から、平徳子は産気づいたが出産しなかった。母である平時子が一条戻橋で橋占をしたところ、12人の童が同じ歌を歌って橋を渡っていった。昔、安倍晴明は天文道を究め十二神将という式神を使役していたが、晴明の妻は式神の顔を怖がった。そこで、晴明は呪いで式神を橋の下に隠し置き、必要な時だけ喚び出していたというので、12人の童というのは十二神将の化現だろうと推測された。
『古今著聞集』-「巻七 陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふこと」
晴明が早瓜を占ったところ、そのうちの一つの瓜から毒気を感じたので取り出してみた。僧正・観修が念仏を唱えていると瓜が揺れ始めた。藤原道長は医師・丹波忠明に毒気を治すように命じ、忠明は瓜に針を刺した。すると、瓜の動きが止まったので、源義家が刀を抜いて瓜を割った。瓜の中では小さな蛇が死んでいた。
『撰集抄』「巻八 一〇四 空也上人の手を祈ること」にも同様の説話が収録されている。
『簠簋内伝』
『簠簋内伝』は『金烏玉兎集』とも呼ばれ、後世に陰陽道の経典となる秘伝書。晴明が著者に仮託されている。
近世
『芦屋道満大内鑑』
「 朱雀天皇の御代、天文博士の加茂保憲が急死し、陰陽道の奥義書『金烏玉兎集』を誰が継ぐかをめぐって争いが起こり、高弟にあたる安倍保名と蘆屋道満も巻き込まれる。そのうちに同書が盗まれる事件が起き、保憲の娘で安倍保名の恋人である榊の前がこの争いを苦に自害。保名は悲嘆のあまり気がふれてしまい、形見の小袖をまとい榊の前の幻を追って徘徊する。
信太森に至った保名は、榊の前と瓜二つの妹・葛の葉に出会い、正気に戻る。保名は、信太森の中で石川悪右衛門に追われていた白狐を助けるがその際に重傷を負う。その時に介抱してくれたのが葛の葉で、二人は夫婦となり男児(安倍童子。のちの安倍晴明)に恵まれて幸せに暮らしていた。
ところが童子が五歳になった折、葛の葉は自らの正体が本物の葛の葉ではなくかつて保名に救われた白狐であると明かし、童子を保名に託し断腸の思いで信太森へ帰って行った。去り際に障子へ書き残したという和歌「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」は名高い。」
この『芦屋道満大内鑑』を始めとして、晴明の父を安倍保名という人物、母を葛の葉という狐とする作品が存在する。
『安倍晴明物語』
浅井了意作の仮名草子。
現代
小説家の夢枕獏の書いた長編小説『陰陽師』の影響で平安時代に活躍した天才的な占い師や魔術師として様々なメディアで取り扱われている。
ゆかりの事物
陰陽道
セーマンドーマン - 現在に残る陰陽道の名残と言われる咒であるが、五芒星と九字が描かれていることから安倍晴明の吉祥紋であり、蘆屋道満安倍家陰陽道の名残ではないかとも言われている。
寺社
由緒地
後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明を祀った晴明塚といわれる塚が建立されている。他にも以下の土地に伝承が残る。
屏風ヶ浦(千葉県銚子市)- 延命姫から逃げる晴明は屏風ヶ浦「通漣坊」にて着物と履き物を脱ぎ捨て投身自殺を装い、自らは近くの寺に身を隠した。その晴明の着物と履き物を見て延命姫が身投げした場所。
セーメーバン(山梨県大月市)- 山名が晴明に由来するという伝承がある。
喜八河戸(きはちごうど)(岐阜県揖斐川町)- 晴明が諸国巡遊の途中、当村の住人喜八の家に宿した折に湧き出る清水の効力を褒めた現存する井戸[34]。
晴明塚(静岡県掛川市)- 晴明が津波被害の話しを聞き、あずき色の小石を積み上げて祈祷し、以後この村だけ津波の被害がなくなったと伝えられている。
阿寺の七滝(愛知県新城市)- 晴明が若年期に修行したという伝説が残る滝
晴明塚(愛知県蟹江町)- 日吉神社の鬼門封じの場所。晴明が火伏せの祈祷を行った場所とされ、その時に用いた刀や法螺貝を埋めた場所と伝えられる[35]。
一条戻橋(京都市上京区)- 『源平盛衰記』に、晴明は自分が操る式神十二神将を橋の下に隠していたと書かれている。
セイメイさん(兵庫県加古川市)- JR加古川線の厄神駅建築工事中に掘り出された顔像が刻まれた石板。病気平癒に霊験あらたかとされる。
猫又の滝(和歌山県田辺市龍神村)- 晴明が里の妖怪を杖を柱に笠を屋根とみなして三日三晩護摩を焚き、その法力で滝に封じ込めた伝承が残っている。
笠塔山 (和歌山県田辺市龍神村)- 晴明が妖怪を笠の下に封じ込めて退治したという伝承がある[38]。
晴明の蛭伏石(和歌山県田辺市本宮町)- 血を吸うヒルに悩む住人のもとに現れた晴明が、祈祷によってそれを抑え、この石を大切にするよう言い残して去ったとの伝承がある。
安倍晴明の腰掛石(和歌山県田辺市中辺路町)- 熊野を旅する途中、この石に腰を下ろして休んでいた晴明。その時、上方の山がにわかに崩れはじめ、法力で崩壊を未然に食い止めたと伝えられている。
生誕地
猫島(茨城県筑西市)-『簠簋抄』(ほきしょう)に書かれた「簠簋内伝」の由来に、安倍晴明が猫島で誕生したとの伝承が記されている。猫島には晴明が築いたことに由来する晴明橋という石橋があったとされ、現在は晴明橋公園内に「安倍晴明生誕の地」の石碑がある。
坂本(滋賀県大津市)-『簠簋袖裡伝』に書かれた「簠簋内伝」の由来に、安倍晴明は花山天皇の代に坂本に出生したと記されている。
大阪(大阪府大阪市阿倍野区) - 「葛之葉子別れ」の伝説では、古代豪族・阿倍氏の子孫である安倍保名は大阪市阿倍野区に生まれ、和泉国の信太明神の神使である葛之葉姫(本性は白狐)との間に生まれたのが安倍晴明で、天慶7年(944年)3月辰の日の辰の刻を以て、この地に生誕し安倍童子と称されたとされる。
讃岐国香東郡井原庄(香川県高松市香南町)-『空華日用工夫略集』によれば安倍晴明は讃岐出身とされている。『讃岐国大日記』『讃陽簪筆録』によれば讃岐国香東郡井原庄、丸亀藩の公選地誌『西讃府志』によれば讃岐国香川郡由佐に安倍晴明が生まれたとされている。
墓所
安倍晴明墓所(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町12)- 安倍晴明は寛弘2年(1005年)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨野の「塔頭・寿寧院」に葬られたと伝わっている。荒廃していたため、昭和47年(1972年)に晴明神社、天社土御門神道の協力の下、晴明神社奉賛会により神道式に改修・建立されて、現在晴明神社の飛び地境内として管理されている。
赤碕塔(鳥取県東伯郡琴浦町赤碕)- 町内の名所である花見潟墓地の東端に高さ約3mの宝篋印塔があり、昭和10年(1935年)に調査の結果「赤碕塔」と命名され、昭和31年(1956年)5月には鳥取県指定保護文化財に指定される。制作年代は鎌倉末期頃とされている。この赤碕塔は元禄7年(1694年)『伯陽六社道乃記』に「晴明たうまん」、安永2年(1772年)『伯路記』に「安倍道満晴明ノ墓アリ」との記述があり、この塔は安倍晴明の供養塔と考えられている。近くには蘆屋道満の供養塔もある。
晴明霊墳(岡山県浅口市金光町占見宮東)- 石碑は明治22年(1889年)建立とある。この晴明霊墳碑から500mほど東の荒神社の隣に「道満」碑も鎮座する。
冠名語
晴明 (小惑星):晴明にちなんで名付けられた小惑星。
京都大学3.8m望遠鏡:晴明にちなんで愛称が「せいめい望遠鏡」となった。
SEIMEI:夢枕獏原作の劇場版『陰陽師』のサウンドトラックを用いた羽生結弦のフリースケーティング用プログラム。
◎映画『陰陽師』マイシアター+(有料) https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0FLDNLQ36/ref=atv_dp_share_cu_r
安和2 (969) 年,冷泉天皇の宮廷に起きた政変。この結果,源高明が失脚して,藤原氏の独占的地位が確立した。当時,左大臣高明は,その女子が村上天皇に愛された皇子為平親王の妃となっていたので,その将来をおそれた藤原氏が,高明らが為平親王を擁立して,皇太子守平親王 (円融天皇) の廃立をたくらんでいると密告して高明とその一門を中央政界から追放した。事件の結果,藤原氏を圧倒する氏族はなくなり,摂関政治の定着をみた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考『藤原道長』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年〈966年〉- 万寿4年12月4日〈1028年1月3日〉)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。
概要
関白・藤原兼家の五男に生まれる。兼家の死後に摂関を継いだ兄の道隆・道兼が病で相次いで没すと、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って内覧に就任して政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周が失脚すると、左大臣に昇った。当時、一条天皇には既に中宮・藤原定子がいたが、道長は娘の彰子を入内・立后させ一帝二后を実現させている。
次代の三条天皇には次女の妍子を中宮に立てる。しかし、妍子が皇子を産まなかったことで生じた天皇との確執や天皇の眼病により政務が停滞したため、道長は再度に亘って天皇に譲位を迫り、受け入れさせた。一条・三条朝において、道長は摂関に就任せず内覧のまま過ごし、一上(首席公卿)として廷臣を率いて公事・政務を奉行。その権勢は摂政・関白と異ならずと評され、のちに御堂関白と呼ばれた。
長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として道長は摂政となる。しかし、早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り、自身は太政大臣に就任した。後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。立后の日に道長が詠んだ望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」は、藤原氏九条流による摂関政治の絶頂を示すものとされる。
寛仁3年(1019年)出家するが、当時の貴族の常として篤く仏教に帰依しており、壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。晩年は糖尿病を病み、万寿4年(1027年)薨逝。没後、彰子所生の後朱雀天皇、六女の嬉子所生の後冷泉天皇が相次いで即位し、道長は3代の天皇の外祖父となっている。
日記に『御堂関白記』があり、自筆本14巻が伝わっている。
生涯
生い立ち
村上朝末の康保3年(966年)摂関家の流れを汲む藤原兼家の五男として生まれる。村上朝の実力者であった祖父の右大臣・藤原師輔(九条流の祖)は既に天徳4年(960年)に没しており、師輔の兄にあたる藤原実頼(小野宮流の祖)が左大臣として太政官の首班に立っていた。
道長の母は摂津守・藤原中正の娘である時姫。兼家は色好みで多数の妻妾を抱えていたが、時姫は道隆・道兼・超子・詮子・道長の3男2女を産んでおり、正室として扱われていたとみられる。時姫は土御門大路北・西洞院大路東の1町に邸宅を持っていたことが知られており、ここが元は中正の家であったと想定される。中正の父は才識に富む能吏として清和朝から光孝朝にかけて活躍し中納言に昇った藤原山蔭。山蔭の学問を疎かにしない家風が保たれていたと思われる中正の家で、道長の人並み以上の才学が培われたか。なお、長兄の道隆は13歳年上であったため中正の家で一緒に過ごした期間は短かったはずだが、5歳上の道兼や4歳上の詮子とはある程度の期間一緒に暮らしていたと想定される。なお、この邸宅は天元3年(980年)に時姫が没した後は、代わりに兼家の正室的な役割を果たすことになった対御方(藤原国章の娘)と彼女が生んだ綏子が移り住んでおり、道隆や道兼が結婚して家を出て東三条殿が入内した超子・詮子の里邸として位置づけられる中、官に就いたばかりで未婚の道長が東三条殿と土御門西洞院の邸宅のいずれに住んでいたかは不明であるが、後者であれば異母妹・綏子とも同居していた時期があったことになる。
青年期
天元3年(980年)道長は従五位下に初叙。天元6年(983年)侍従、永観2年(984年)2月に右兵衛権佐に任ぜられる。
寛和2年(986年)既に58歳になっていた藤原兼家は外孫である春宮・懐仁親王の早期の即位を望んで、前年に女御・藤原忯子を喪って悲嘆に暮れていた花山天皇の退位を画策。兼家の三男の蔵人左少弁・道兼が花山天皇を唆して内裏から連れ出し出家させ、非合法に近い形でで花山天皇を退位させてしまった。この際に、道長は関白・藤原頼忠のもとに遣わされ、天皇の失踪を報告したともされる。(寛和の変)
花山天皇出家の翌日には直ちにわずか7歳の懐仁親王が践祚し(一条天皇)、兼家は外祖父として摂政に任じられる。執政の座に就いた兼家は息子らを急速に昇進させ、道長も同年中に三度の叙位を受けて従四位下・左近衛少将に、翌永延元年(987年)9月には従三位に叙せられ公卿に列した。同月、勅授帯剣を許されている。職務上帯剣を必要とする官職にない者が勅許によって帯剣を許されるという勅授帯剣は本来は親王と一世源氏(天皇の実子)の中でも限られた者にしか許されなかった。藤原基経が藤原氏として初めて許されて以降は一般の臣下に対しても勅許が出されるようになったが、道長のような非参議の者に許されるのは前例がなく、官位面で先を行く道隆や道兼にはこうした勅許が出された記録がないため、天皇の生母である姉・詮子の寵愛が関係していると想定される。
同年12月に、道長は2歳年上で当時の左大臣・源雅信の娘である倫子と結婚する。道長の兄・道綱が同じく雅信の娘と結婚していたことから、道長の倫子への求婚は道綱からの影響を受けたものである可能性もある。また、雅信は倫子を入内させる意向を持っていたため、当初は道長からの求婚を聞き入れようとしなかったが、倫子の母・藤原穆子が道長の将来性を買ってこの結婚の話を進めたとの話も伝わっている。一方で、雅信が倫子を入内させる気があれば年齢的に円融天皇に入内させても不自然ではないのにこの時までどの天皇にも入内させていないことや道綱の妻になった女性が倫子の妹とみられることから、そもそも入内の話を創作と考え、兼家と雅信の合意による政略結婚の可能性も指摘されている。道長は父の兼家の若い頃のように受領の娘を選ばず、いつかめぐってくるであろう摂関の地位に就く機会に備え、自らの運命を大きく切り開くために源氏の名門に賭け、父の摂政就任を経て自らの公卿昇進を求婚の好機として選んだ。 道長と源倫子は幸せな家庭を築き、翌永延2年(988年)には早くも長女の彰子が雅信の土御門殿で誕生、正暦3年(992年)長男の頼通、正暦5年(994年)次女の妍子、長徳2年(996年)次男の教道、長保元年(999年)三女の威子、寛弘4年(1007年)四女の嬉子と多くの子女が生まれている。
また、翌永延2年(988年)に安和の変で失脚した左大臣・源高明の娘である明子も妻とした。明子は高明の没後にまず盛明親王の養女となるが、のち藤原詮子に引き取られ厚く庇護されていた。明子に対して、道隆・道兼が詮子を訪ねては言い寄ろうとしたが、詮子の判断によって道長に機会を与えたとの逸話がある。この逸話の真実性は定かではないが、道長が詮子を介して明子に近づいたことは事実と想定される。道長が明子を選んだ理由については、身分的高貴さは当然ながら、姉によって愛護されている身近な存在であったことを踏まえると、多少の恋愛的要素が含まれていた可能性がある。そのころ読まれた物語に登場する薄幸に耐えて生きる美姫というのが、道長の明子に対するイメージであったかもしれない。一方、詮子は明子を幸せにしたいと心がけており、道長の夫人とし祖父の師輔が行おうとしていた藤原氏と源氏の共同政治を実現させたいとの思いと、明子の父・源高明に対する藤原氏一族の罪滅ぼしの思いがあったと考えられる。なお、嫡妻である倫子を重んじるために、『栄花物語』では道長と倫子が先に結婚したように記しているが、実際には明子との結婚の方が倫子よりも先、すなわち永延元年(987年)の春のことであったとする説も唱えられている。
道長も当時の貴族の常として多くの妻を持っていたが、倫子が2男4女、明子は4男2女と多数の子女を儲けるなど、この2人が道長の家庭の中枢を担っていく。ただ、道長は倫子とはほとんど毎日行動を共にしていたらしい一方で、明子とは時々しか会っていなかったと見られ、倫子は嫡妻で、明子は妾妻であった。道長が2人の源氏を妻にしたことは、村上天皇時代に祖父師輔が醍醐天皇の皇女(内親王)を次々妻にし、源高明とも深く交流したことを模範にしたと考えられる。
永延2年(988年)正月に、道長は参議を経ずに権中納言に昇進した。以後、摂関家の当主・嫡子は、近衛中将・少将から非参議の三位となり、参議を経ずに中納言となるのが常例となった。
伊周との争いに勝って内覧に就任
正暦元年(990年)正月に道長は正三位に叙せられる。5月に兼家は病気のため出家し(7月に薨去)、長男の道隆が摂関を継いだ。道隆は摂関の地位に就くと子女を宮廷・政界に急速に進出させ始める。同年10月に父・兼家の喪中にもかかわらず、長女の定子を前代未聞の四后並立として世の反感を買いながら一条天皇の中宮に立后。ここで、道長は中宮大夫に任ぜられるが、道隆の強引かつ時期を配慮しないやり方についていけなかったとらしく、敢えて中宮定子のもとに参らず、世間から気丈なことであると賞賛されたという。
道長は、正暦2年(991年)権大納言、正暦3年(992年)従二位に叙任される。しかし、道隆は嫡男の伊周を後継者に擬して強引に昇進させていき、正暦5年(994年)には道長を凌いで弱冠21歳で内大臣に引き上げた。
同年冬頃から道隆は飲水病(糖尿病)により体調を崩し、長徳元年(995年)に入っても体調は回復しなかった。3月には道隆が病気の間に限って伊周に政府文書の内覧を行わせる旨の宣旨が出される。4月に入って道隆は重態となり没した。半月ほどの摂関不在を経て弟の右大臣・藤原道兼が関白を継ぐも、就任僅か数日で疫病に倒れ「七日関白」と呼ばれた。この間に道長は左近衛大将を兼ねているが、道兼の意向によるものと想定される。なお、4月から5月にかけて、中納言以上の公卿だけで道隆、道兼、左大臣・源重信ら8人が薨じ、四位から五位の者は60人余が病没したという。
道兼の死から3日後の5月11日に道長は内覧の宣旨を蒙る。摂関に任命される条件は「大臣であること」が不可欠で、権大納言に過ぎなかった道長は兼通の例に倣い、内覧の宣旨を受けることとなった。道兼の後任選考にあたっては、伊周は自らが摂関たらんと欲し、一時は一条天皇もかなり伊周に傾きかけたらしい。その理由については、定子への愛情が深く、文才豊かな伊周とも親しかったためと想定される。一方で、一条天皇の母后・東三条院(詮子)は、伊周より道長の方が人格も資質もはるかに優っていると考え、道兼の死後は中関白家ではなく道長に政権を引き継いで欲しいと願っていた。女院は一条天皇に対して、弟の道長は伊周に大臣を越えられ、道兼に関白を与えたのになぜ道理通り道長にもそうしないのか訴える。さらには、なかなか聞き入れない一条天皇の寝所にまで押しかけて膝詰めで涙を流して訴えかけると、遂に天皇も女院の執拗な説得に折れて道長の内覧宣旨を下した。また、道長は東三条院の局で天皇と女院の協議の結果を待っていたが、非常に長い時間、女院が天皇の寝所から出てこないため、だめかもしれないと緊張していたところ、ようやく出てきた女院は、顔は泣きはらしていたが、口元は満足げに微笑んで「あはや宣旨下りぬ(ああやっと、内覧宣旨が下りました)」と言ったという逸話がある。
6月19日に道長は権大納言から右大臣に昇り氏長者となる。7月28日には蔵人別当に補され、信頼している藤原行成を蔵人頭に抜擢する。道長が大臣に昇った後も内覧に留まった理由は明らかでないが、道長自身が望んだか、一条天皇が聖代と讃えられる延喜・天暦の治を手本として摂関を置かなかったなどが想定される。
一方、内覧に任じられなかった伊周は苛立っており、道長にとって以下のように思わしくない事件が繰り返される。
7月24日:陣座で道長と伊周が諸公卿を前に激しく口論。
7月27日:道長と伊周の弟・隆家の従者が七条大路で集団乱闘。
8月2日:隆家の従者が道長の随身を殺害。道長は下手人を出さない限り、隆家の参内停止を要求。
8月10日:伊周の外祖父・高階成忠が陰陽師・法師を邸宅に招いて道長を呪詛させる。
長徳の変による伊周の失脚
伊周ら中関白家と対立を深める中、伊周の苛立ちが先帝の花山法皇に向けられる。当時、花山法皇は故太政大臣・藤原為光の四の君に通っていたが、伊周は自分が通っている姉の三の君の方に花山法皇も通っていると勘違いする。長徳2年(996年)正月16日夜に伊周は隆家と共に花山法皇を脅すべく、弓の達者な従者に命じて花山法皇に矢を射かけるという事件を起こす。『栄花物語』では矢は法皇の袖を貫いたとあるが、事実はもっと深刻で、その後、為光邸で花山法皇・伊周・隆家が遭遇し従者も交えて乱闘が発生、法皇の童子2人が殺害されたともいう。史料により事件の内容に違いが見られるが、殺人事件であったのはほぼ間違いないと考えられる。
2月11日の陣定では一条天皇から伊周・隆家の罪科を決定せよとの勅が道長に伝えられ、明法博士に罪名を勘申させる運びとなる。ちょうどその頃、東三条院が御悩となり3月28日に大赦が行われるが、女院の御悩は呪詛が原因との噂が広まり、女院の寝殿の下から厭物(呪いの人形)が掘り出されるとの噂まで出る。さらに、4月に入ると伊周が大元帥法(臣下がこの法を修めることは禁じられている)を行っているとの法琳寺からの密告があり、伊周らに対する処罰は避けられない状況となった。4月末になって、花山法皇を射る事、女院を呪詛せる事、私に大元帥法を行なう事、の3つの罪状により、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷する宣命が出されて失脚した(長徳の変)。また、この変のいざこざの中で、中宮・藤原定子も落飾し出家している。
道長は花山院事件の直後には、伊周・隆家の罪科について陣座に付議したが、すぐに懲罰を行わなかった。じっくりと断罪の根拠を固め、東三条院への呪詛・大元帥法の修法という伊周に不利となる情勢も合わせて、恐らく左遷の除目の直前に、一条天皇に内情を奏上して決断を迫ったと推測される。挙げられた罪状はいずれも不敬としかいいようのない行為であり、中関白家と関係が深く好意的であった一条天皇も、さすがに道長の提案を退けることはできなかった。この変を通じて、道長は中関白家に不可逆的なダメージを与えて権力を確立。一方で、一条天皇は立場をひどく悪化させることになった。好意を持っていた中関白家の人々が断罪され、信頼する後ろ盾を失っただけでなく、道長はもとより公卿集団に対して非常に具合の悪いことになってしまった。そのため、一条天皇は今までよりもいっそう道長を恐れ憚らなくてはならない状況に陥った、という見解がある。
なお、かつては長徳の変について道長が伊周に対して無実の罪をきせた事件とする説があったが、伊周自身が処罰されて然るべき事件を起こした事は明らかである。当該説は『愚管抄』の影響とみられるがその説には無理があり、藤原氏の陰謀であったそれまでの政変とは異なり、伊周と隆家の軽率な行動による中関白家の自滅行為でしかないとされる。
7月には道長は左大臣に昇進し名実ともに廟堂の第一人者となる。長徳3年(997年)4月に東三条院の御悩による大赦が再度行われて伊周・隆家の召還が決まり、4月中に隆家が、12月に伊周が帰京。また、6月には落飾していた定子が再び参内している。
一条天皇と道長
道長は一条天皇とは決して対立的な関係ではなく、1人で権力を振るうことなく公卿と一緒に政治にあたったというのが事実に近い。道長が内覧に留まったのは、醍醐天皇が天皇親政を良しとし摂関を置かない建前で行われた先例に対して、一条天皇も同様に考えたか、あるいは道長が兄道隆や伊周が権力欲をあらわにしすぎて実資などから批判を受けたことを考慮し、謙虚の姿勢から摂関を辞退し内覧に落ち着いたとも考えられる。また、当時の主な日記類を通覧すると、道長が内覧に留まったのは本人が賢人であり、父・兼家や兄・道隆のように外戚に執拗にこだわる事なく、有能な四納言(藤原斉信・藤原公任・藤原行成・源俊賢)などと協力しよき政治をしようとした事の表れであるともみられている。
関白の職権そのものには決裁権がなく、あくまでも最高決裁権者である天皇の後見的存在であった。このため、天皇との関係次第によってその権限は左右される性質のものであった(現に道長と三条天皇とは疎遠であった)。また、公式な政府の最高機関である太政官に対しては、摂政・関白は大臣兼任であったとしても関与出来ない決まりであった(道長の息子はまだ若く、大臣に就任して道長の立場を代理することはできなかった)。そこで道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、太政官の事実上の首席である左大臣(一上)として公事の執行にあたると同時に関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたとみられる。
当時、一条天皇の後宮には中宮・藤原定子のほか、藤原義子(藤原公季の娘)・藤原元子(藤原顕光の娘)が女御として入内していた。しかし、定子が出家していたこともあり、近親による皇子の誕生を望んだ道長は、長徳4年(998年)2月に兄の道兼の娘である尊子を御匣殿別当として入内させている。
まもなく道長は重い腰病を患い、3月に天皇に対して再三に亘って辞官を請い、その中で出家の志にも触れるが、許されなかった。その後、病状はやや回復し出家には至らなかったが、数ヶ月は病気がちで政務に倦んでいた様子が窺われる。冬に入って、道長はようやく健康を取り戻したらしいが、ほとんど政治の指導に当たらず、辞官のことに関わっては宇治の山荘に遊覧して心の憂さを晴らすといった状態であった。時には権力・栄華を追求した道長が、官職を捨てて出家を願う様子は不思議にも思えるが、それこそが道長の性格の弱さ・脆さであるとの指摘がある。
道長の首席の大臣としての職務の中に、除目の際に儀式を執り行って決定した人事を大間書に記載する執筆の職務がある。しかし、道長は長保2年(998年)の秋の除目の執筆を病後を理由に辞退して次席の右大臣・藤原顕光を譲り、その後も除目の際に障りがあるとして度々出席の辞退を申し入れるようになった。これに対して一条天皇は、道長に除目への奉仕を厳命し、どうしても不都合ならば除目の日程の方を変えるように命じている。これは関白の不在という状況に自ら積極的に政務を遂行する意思を見せる天皇に対し、道長が不満を抱いていた可能性も指摘されている。なお、寛弘5年(1008年)彰子に皇子が生まれて以降、道長は除目の執筆を滞りなく行うようになっている。
なお、道長は一条天皇と良好な関係であり、『御堂関白記』『権記』などの当時の日記からは、道長が一条天皇を不満に思っていた様子は読み取れず、一条天皇も道長・道長の娘中宮彰子を尊重した。なお、道長・彰子が天皇の遺品を整理している際、「王が正しい政を欲するのに、讒臣一族が国を乱してしまう」という天皇の手書を見つけ怒って破り捨てた、という逸話が後世の書物(『古事談』『愚管抄』)にあるが、大げさに考えなくてよいとされる。
彰子の入内と立后
長保元年(999年)2月に道長の長女・彰子は裳着を行い、従三位の叙位を受けるなど、道長は彰子の入内の準備を進める。またこの頃、定子が再び懐妊するが、これを知った道長はかなり複雑な心境になったと想定される。将来の天皇の外戚たらんと、定子の出産前に彰子の入内を急がせたい一方で、彰子の年齢を考えるとすぐの皇子誕生は期待できないため、この段階では九条家(特に兼家流)のために、定子が皇子を産むことを期待していたとみられる。8月になると、定子は出産のために宮中を出て前但馬守・平生昌の邸宅に移る。しかしこの日に、道長は多くの公卿らを伴って宇治の別荘で遊覧を催し、行啓を妨害している。
9月頃より彰子の入内の具体的な準備が始まる。入内にあたっては豪華な調度品が用意され、その中には参議・源俊賢を介して公卿たちから和歌を募り、能書家の藤原行成が色紙形に筆を入れた四尺の屏風もあり、これには花山法皇までもが積極的に御製を贈った。この際、公卿たちの中で唯ひとり中納言・藤原実資だけは「上達部左府の命に依り和歌を献ずるは、往古聞かざる事也」と批判して、道長から直接催促を受けるも和歌の献上を頑として拒む。実資は小野宮流有職故実の継承者で当時では一流の学識者であり、権勢におもねらず筋を通す態度を貫いた。
11月7日に彰子は入内するが、偶然同じ日に定子が第一皇子・敦康親王を産む。皇子の誕生と同日に彰子の入内が行われたため、道長が敦康親王の誕生を快く思っていなかったと見る説もあるが、彰子の入内は前々から決まっていた事で、定子の出産が偶然同じ日となっただけと考えられる。一方で、道長は兼家流から皇子が産まれたことを喜んでいた逸話も伝わっている。
翌長保2年(1000年)2月に道長は彰子を皇后(号は中宮)とした。先立の后に定子がいたが、定子は一度出家しており中宮職は行えず、一帝二后が成立。先例がないことであったが、定子立后時の四后を先例とした。また蔵人頭・藤原行成がすでに彰子立后の必然性を把握し名分をどうすべきか悩んでいる一条天皇を代弁して、その裏付けを展開したという。一条天皇や公卿らから広く納得を得る上での大きな手助けとなった。
同年12月に定子は第二皇女・媄子内親王を出産後まもなく没す。これにより一帝二后状態は1年足らずで解消され、彰子は一条天皇の唯一の后となった。
伊周との和解
同年5月に道長は伊周の復位について奏上を行ったものの、一条天皇からは異常な奏上として取り上げられなかった。
長保3年(1001年)8月に敦康親王が彰子の御局に渡り、そこで敦康の魚味始(生後初めて魚を食べさせる儀式)が行われるなど、彰子が敦康の養母となった様子が窺われる。これは、蔵人頭・藤原行成の献策を受けた一条天皇の意向によるものだが、娘の彰子が未だ皇子誕生を見ない道長にとっても受け入れられるものであった。
10月に道長は一条天皇を土御門殿に迎えて東三条院の四十の賀を開催。かねてより東三条院は病気がちであったが、賀ののちも体調は優れず、同年閏12月に出家後まもなく没した。なお、死に際した東三条院からの勧めに従い、道長は伊周を本位の正三位に復している。
当時、道長は敦康親王に期待するところが大きく、以下のように親身に後見を行った。
長保4年(1002年)6月:敦康親王は一条院内裏から道長の土御門邸に渡る。のち、内裏に戻るために方違で大蔵卿・藤原正光邸に赴いた際、道長が車に陪乗。再度の参内にあたって、道長は野釼一腰を贈った。
長保5年(1003年)3月:敦康親王が賀茂の河原で上巳の祓いを行った際、道長が車に陪乗。
寛弘元年(1004年)9月:敦康親王の参内に際して祓いが行われた際、道長は近侍。
寛弘2年(1005年)3月:一条天皇と敦康親王の初めての対面の儀について、道長は別記を残す。
寛弘2年(1005年)5月:敦康親王の御悩を聞いて、道長は参内し候宿。
寛弘2年(1005年)10月:敦康親王が石山寺に参詣した際、道長は妻・倫子を連れて扈従。
またこの間、道長は以下の通り伊周の復権も進めた。これは伊周の復権を望む一条天皇からの働きかけもあったと想定されるが、旧敵であった伊周を自らの羽翼のもとに包容しようとした、道長の強気一点張りではない性格が窺われる。
長保5年(1003年)9月:従二位への叙位。
寛弘2年(1005年)2月:宮中での席次を大臣の下で大納言の上と定める。
寛弘2年(1005年)11月:朝儀へ参加する旨の宣旨。
寛弘5年(1008年)1月:大臣に準じて封戸を支給。
寛弘6年(1009年)1月:正二位への叙位。
浄妙寺の創建
少年時代にしばしば道長は兼家に伴われて木幡にある一族の墓所を詣で、「古塚纍纍、幽𡑞寂寂、仏儀を見ず、只春花秋月を見、法音を聞かず」といった状況に強い印象を受けていた。そこで、道長は伊周との和解が進展すると、木幡に造堂を行うことを決心する。藤原氏一族の墓所の地に造堂を行うことについては、伊周を含む藤原北家、とりわけ九条流の諸分流を大きくまとめていく上に効果が大きいという、政治的判断もあったと想定される。
寛弘元年(1004年)2月に陰陽関係の安倍晴明・賀茂光栄を伴って木幡に赴き、寺地を定める。翌寛弘2年(1005年)10月に木幡堂の造作が完了し供養が行われた。堂内には当代随一の仏匠・康尚の手による普賢菩薩像が安置され、藤原行成は扁額を、大江匡衡は願文と鐘銘を、菅原輔正は呪願文を手掛けるなど、当代最高の人々が道長の求めに応じて造堂に参加。また、のちに寺の別当に就任する勧修が浄妙寺の寺名を付けている。供養には、道長を筆頭に、藤原顕光・藤原公季・藤原伊周・藤原道綱・藤原実資・藤原懐忠・藤原斉信・藤原公任・源俊賢・藤原隆家・藤原忠輔・藤原有国・藤原懐平・藤原行成・藤原正光・平親信・藤原兼隆・源経房が参加。道長が『御堂関白記』に特に不参の人として記した藤原時光・菅原輔正を除いて、ほぼ全ての公卿が一堂に会した。造堂は藤原氏の諸分流をまとめていく効果を狙ったものであったが、この供養は諸傍流を含めた全ての藤原氏一族ではなく、公卿の人々が中心となって営んでおり、仏事でありながら極めて政治性の強い行事であった。
その後も勧修らによって浄妙寺の整備が進められ、寛弘4年(1007年)新たに造営された多宝塔の供養が行われる。道長は倫子とともにこれに臨み、ここでも、藤原顕光・菅原輔正を除くほぼ全ての公卿が参加している。一方で、このころの『御堂関白記』には、当供養を除いて浄妙寺に関する記事を欠いており、創立者でありながら道長の関心がかなり弱くなっていたと推察される。
金峯山への参詣
金銅藤原道長経筒(国宝、金峯神社所蔵)、1691年(元禄4年)、大峯山寺本堂(山上蔵王堂)改築の際に出土。
中宮・藤原彰子は入内後10年近くが経ち、一条天皇との関係も良好であったが、一向に懐妊の兆しはなかった。道長は一条天皇の長男・敦康親王の後見を続ける一方で、寛弘3年(1006年)には春宮・居貞親王(のち三条天皇)の長男・敦明親王が元服を迎えるなど、次代の皇嗣は着々と成長しつつあった。
この状況の中、寛弘4年(1007年)閏5月に道長は彰子の皇子出生を祈念するために吉野の金峯山に参詣することを決め、精進生活に入る。8月2日に権中納言・源俊賢や覚運・定澄ら僧侶を従えて平安京を出発した。8月11日に山上に到着すると、まず小守(子守の意味)の三所に参詣し、次いで三十八ヶ所を巡詣して、一条天皇・冷泉院・中宮・春宮らのために諸経の供養を行う。ここで道長は本殿の前に事前に準備していた金銅の灯籠を建て、その下を掘り自身が書写した法華経一部八巻を含む諸経を銅篋に納めて埋蔵している。なお、道長一行が平安京を発ったのち、伊周・隆家兄弟が伊勢国を基盤とする武士の平致頼を抱き込んで、金峰山参詣中の道長の暗殺を企てているとの噂がにわかに浮上し、8月13日には道長と連絡を取るために頭中将・源頼定が勅使として派遣された。結局、暗殺はあくまでも噂に終わり、8月14日に道長らは無事帰京している。
浄妙寺の創建と金峯山への参詣は、寛弘年間における道長にとっての代表的な宗教的行事であるが、家門の往事を想い現在を案じる摂関家的な心情が貫かれているとの指摘がある。
外孫・敦成親王の誕生
寛弘5年(1008年)道長の念願がようやく叶い入内後10年目にして彰子が懐妊。7月には彰子は内裏を出て道長の土御門第に遷り、9月に皇子・敦成親王を出産した。中宮を迎えた土御門第の雰囲気や、待望の孫皇子が誕生した時の道長の狂喜ぶりは『紫式部日記』に詳しい。なお、敦成親王が誕生したときに、一条天皇は道長を従一位へ進める意向を示したが、道長本人は加階を辞退して妻子や家司の叙位を求めた。その結果、道長と同じ正二位であった妻の倫子が先に従一位に叙され、以降10年余りにわたってその状態が続くことになる。翌寛弘6年(1009年)11月にはさらに彰子から年子の敦良親王も生まれている。
寛弘6年(1009年)正月に中宮と敦成親王に対する呪詛事件が発生する。まず、厭符を製作したとして円能が捕縛・訊問を受け、高階光子(佐伯公行の妻)、民部大輔・源方理、播磨介・高階明順らが追及を受けた。結局、朝廷は事の根元は伊周にありと断じ、正二位への叙位を受けたばかりの伊周の朝参を禁じた。6月になって伊周の朝参が再び許されるが、嫌疑を受けた伊周は精神的に大きな打撃を受けたらしく、翌寛弘7年(1010年)正月に失意の内に没した。なおこの頃、道長は日記の執筆を怠っていたこともあり、『御堂関白記』にこの事件や伊周の死に関しての記載はなく、かつて互いに権力争いを繰り広げた伊周の死を道長がどのように受け止めていたかは明らかでない。
同年2月に道長は次女の妍子を春宮・居貞親王の妃とする。7月には敦康親王が元服し、道長は加冠役を務めている。
寛弘8年(1011年)正月に道長は以前から望んでいた金峯山への再度の参拝に向け長斎に入り、法華経の写経などを行う。しかし、3月初旬に立て続けに犬産穢・犬死穢が発生。安倍吉平ら陰陽師らの助言も踏まえて、参拝を取り止めた。その代わりなのか、3月末に道長は土御門第で金色の道長等身阿弥陀仏と阿弥陀経百巻の供養を行う。『御堂関白記』で道長はこの供養について「是れ只後生の為也」と記しており、かつての浄妙寺創建や金峯山参詣は現実的な希望を祈念するためものであったのに比べ、今回の供養において初めて来世への関心が深いものになったとの評価がある。
一条天皇の譲位と崩御
同年5月下旬に一条天皇は急病に倒れ、早くも5月27日には道長に対して譲位の準備を指示する。譲位に先立って、一条天皇は厚く信頼していた権中納言・藤原行成に対して、第一皇子・敦康親王の立太子の可否を相談する。これに対して行成は、一条朝の重臣かつ外戚である道長が外孫の第二皇子・敦成親王を春宮に立てることを欲すことは至極当然のことで、天皇が敦康親王を東宮に立てることを欲しても、道長は簡単に承知せず、政変の発生や不満・批判が巻き起こる可能性も考える必要がある、従って、春宮には敦成親王を立て、敦康親王には年官・年爵・年給の受領の吏等を与え、有能な廷臣を仕えさせるなど、然るべき待遇を与えるように進言した。彰子も一条天皇の意を尊重して、定子亡き後、我が子同然に養育した敦康親王の次期春宮擁立を望んでいたが、道長がそれを差し置いて敦成親王の立太子を進めたことを怨んだという。
6月13日に一条天皇は居貞親王(三条天皇)に譲位し、まもなく剃髪出家した後に崩御。道長の強い意向を受けて、春宮にはわずか4歳の敦成親王が立てられた。
三条天皇の践祚と再度の二后並立
三条天皇は践祚すると道長に関白就任を命じるが、道長はこれを断り引き続き内覧のみ受け入れた。関白就任を固辞した理由は必ずしも明らかでないが、以下理由が想定される。
一条天皇の時と同様に、道長は左大臣・一上として太政官の政務を直接的に掌握・指揮し続けようとした。
春宮に外孫・敦成親王が立っている中、関白に就任することが三条天皇の在位期間を長引かせることに繋がりかねないことを懸念した。
道長は三条天皇とも外戚(叔父・甥)関係にあったが、早くに母后の超子(道長の姉)を失い成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は親政を望んだ。公卿たちからも、当初から両者の争いを危ぶまれていた。
寛弘9年(1012年)1月に道長次女の妍子に対して立后宣旨があり、2月に中宮となった。一方で、三条天皇には20年以上前に妃となり第一皇子・敦明親王始め多くの皇子女を儲けていた女御・藤原娍子(藤原済時の娘)がいたことから、天皇は娍子の立后も希望。4月に娍子は皇后に冊立され、一条朝に続いて二后並立となった。娍子の立后にあたっての道長の反応は必ずしも明確ではないが、三条天皇の意向に沿って取り計らった以下の逸話がある。
天皇は娍子の立后を希望していたが、納言(大納言・藤原済時)の娘は后になる資格がないとあきらめていた。そこで道長は大臣の贈官を提案。それを受けて天皇は済時に太政大臣(実際には右大臣)を贈り、晴れて娍子の立后が実現した。
この逸話について、道長を善人とするための虚構であり信頼できないとの見方もあるが、大臣贈官は事実であり、少なくとも道長はこのやり方に強い反対はしなかったと想定される。
ところが、娍子の立后の日と妍子の参内の日が同じ日(4月27日)に重なってしまう。当日は妍子の参内の儀を終えた後に娍子の参内(本宮の儀)が開始されるスケジュールが組まれていた。実際に妍子も本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは不可能ではなかった。しかし、道長は本宮の儀を欠席、道長の威勢を憚って右大臣・藤原顕光(病気)と内大臣・藤原公季(物忌)も障りがあるとして欠席し、これを見た公卿・殿上人も多くが欠席してしまった。この有様にやむなく、三条天皇は右近衛大将・藤原実資を呼び出して儀式を行わせている。なお、実資の他に参内したのは、中納言・藤原隆家(皇后宮大夫)、参議・藤原懐平(実資の兄)、参議・藤原通任(娍子の兄)といずれも娍子を後見する立場にある3名のみと寂しい儀式となった。一方で、道長は妍子の参内の参加者に対して非常に神経質になっており、『御堂関白記』に不参の公卿として、本宮の儀の準備のため天皇に呼ばれた実資に続いて隆家・懐平を記し、年来親しく交際している人々が来ないことを気にしている。
なお、翌長和2年(1013年)三条天皇が娍子参内の行賞として娍子の兄の通任に叙位を行おうとした。ここで、道長は本来は長年娍子の後見をしたのは長兄の藤原為任であり、通任は偶々その代理をしたに過ぎないことを指摘、もし参内の功労で通任が叙位されれば、為任の功績をもって通任が賞される事となり、「伊賀国の人が(大国の格式を持つとされた)伊勢国の人と偽るようなものだ(然伊賀人借伊勢人歟)」と天皇の姿勢を批判して、最終的に為任を昇進させている。
子息の引き立てと三男・顕信の出家
道長には複数の男子がいたが、彰子・妍子と同じく倫子腹の頼通・教通と、明子腹の頼宗・顕信・能信の間で昇進に差を付けていた。寛弘8年(1011年)8月時点で頼通(20歳)正二位・権中納言、教通(16歳)正三位に比べて、頼通の1歳下の頼宗(19歳)がようやく従三位に叙せられて公卿に列しているものの、教通より年上の顕信(18歳)は従四位上・左兵衛佐、能信(17歳)は正五位下・右兵衛佐とすぐに公卿を狙える官位にはなかった。
10月に顕信は左衛門佐から公卿への昇進ルートである近衛中/少将ではなく右馬頭に遷る[142]。この状況の中で、12月に三条天皇から顕信を蔵人頭に抜擢する人事の打診を受けた道長は、「不足職之者」を補すことによる「衆人之謗」を避けるためとして、これを辞退した。明けて寛弘9年(1012年)1月に顕信が突然比叡山に登り出家してしまった。道長はかねてより自身の出家を志していたが、その意志を遂げないうちに息子に先を越されてしまったことを酷く嘆いている。5月に延暦寺で顕信の受戒が行われ道長も参列する。ここで道長は騎馬のまま比叡山に登ったため、法師から馬から引きずり下ろせとの放言を受けたり、石を投げつけられたりされてしまい、藤原実資から「相府当時後代の大恥辱也」と批判されている。この仕打ちに対して道長は、老いて徒歩で登るのはつらいから馬で登っただけなのに石を投げつけられるのは心外だ、と自らの正当性を主張している。
まもなく道長は重病に伏して、一時は飲食物を受け付けないほど状態が悪化し、致仕の上表を行う。この病気について、比叡山に騎馬で登ったために日吉大社の祟りを受けたためとも噂された。この頃、道長の病気を喜ぶ公卿が5人おり、大納言道綱、実資、中納言隆家、参議懐平、通任である、との風説が流れる。これに対して道長は「私の病気を喜ぶ者が5人いると最近聞いたが、そんなはずはない。中宮大夫(道綱)と右大将(実資)がそうだとは信じられない」と述べたという。
その後、道長は子息の昇進を強引に進め、長和2年(1013年)には頼通を四納言の藤原斉信・公任に肩を並べる権大納言に任じると、教通を権中納言、頼宗を従二位、能信を従四位上・左中将兼蔵人頭に叙任させる。さらに、長和3年(1014年)正月の除目では、頼宗を権中納言、能信を従三位に昇進させる噂を伝え聞いた藤原実資から「言外の事」「指弾すべし」「乱代の極み又極み也、悲しむかな」と、人事の専横を批判されている。
三条天皇との譲位を巡る駆け引き
長和2年(1013年)7月に妍子が三条天皇との間の子を出産するが、生まれたのが皇女(禎子内親王)だったと聞いて、道長は甚だ喜ばなかったという。一方で、道長はこの皇女をかわいがっており、五十日の儀の日には深夜になっても皇女の所に来るので、既に打ち解けて寝ていた女房が恥ずかしそうにしていたほどであったという。妍子が産んだのが皇女であったため、三条天皇との外戚関係を築くことが難しくなったこともあり、天皇と道長の関係は次第に悪化していく。天皇と道長との確執から政務が渋滞するが、大勢は道長に有利であった。これに対して、三条天皇は藤原実資のことを特に自分の理解者と考えていたらしく、道長と意見が相違する場合に直ちに実資に相談することが多かった。しかし、天皇との間に何ら特別な結び付きがないこともあり、実資も物事の筋は通すが権勢家の道長と正面から対抗しようとはしなかった。
さらに、三条天皇は長和3年(1014年)失明に近い眼病に罹患し、3月初旬には「天皇は片目見えず、片耳聞かず」の状態となり、いよいよ政務に支障が出るようになる。これを理由に道長はしばしば天皇に譲位を迫るようになった。この状況の中で、同年2月に内裏が、3月には内蔵寮・掃部寮が相次いで焼失、これについて道長は「天道が天皇を責めている」と語ったという。長和4年(1015年)3月には眼病の進行により、叙位・除目が行われず官奏もできない状況になる。この状態のため、8月に天皇は道長に対して官奏を見るように要請するが、道長はこの要請を受けずに、頻りに譲位を迫るばかりであった。ついに、三条天皇は焼失から再建中の新内裏に遷っても眼が見えなかったら、道長の進言に従って退位する意向を見せる。9月に天皇は新造内裏に遷るが、やはり眼病が快方に向かうことはなかった。10月に入ると道長は天皇に対して譲位を迫るとともに、三条天皇の皇子(敦明親王・敦儀親王ら)は春宮の器ではなく、一条天皇の皇子で道長の外孫である敦良親王を春宮とすべきと言い放つ。これに対して、三条天皇は憤慨して譲位の意向を翻し、眼病快癒を願って伊勢大神宮での加持祈祷を命じている。
この頃、道長との関係改善を図ってか、三条天皇から第二皇女・禔子内親王の頼通への降嫁の打診がある。道長は一旦同意するが、頼通は妻である隆姫女王への思いに悩んで重病に伏し、この縁組は成立しなかった。頼通の病床には隆姫の父・具平親王の霊が現れて涙ながらに訴えたという。また、現れたのは藤原伊周の怨霊であったとする話もある。実際のところ、道長はこの縁談にあまり積極的ではなく、頼通の病気を口実に破談に持ち込んだ可能性も指摘されている。
10月下旬になってようやく、道長は官奏を見ることを受け入れることにしたらしく、天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬことを詔した。道長は准摂政となっても一上の事を行い、引き続き太政官を直接把握し続けた。11月に新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。これを理由に道長はさらに強く譲位を迫り、眼病も全く快方に向かうことなく三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子である敦明親王を東宮とすることを条件に譲位を受け入れた。
後一条天皇の外祖父として摂政就任
長和5年(1016年)正月下旬に三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王が践祚(後一条天皇)。天皇はわずか9歳の幼帝であったため、直ちに、道長は摂政の宣下を受けた。また、三条天皇の強い意志により、東宮には敦明親王が立てられる。敦明親王と道長には外戚関係がなく疎遠であり、道長は春宮坊の人事についても、東宮傅・藤原顕光(敦明の舅)、春宮大夫・藤原通任(敦明の叔父)など、敦明の近親に限定し、それ以外の者は認めない姿勢であった。実際に、藤原実資は三条天皇から春宮大夫任官の打診を受けるも、道長の意向に沿ってこれを固辞している。
摂政となった道長は引き続き左大臣に留まったが、3月にようやく一上を手放すことにし、この権限を当日出仕の大納言以上の公卿に分与した。6月には、道長と倫子は天皇の外祖父母として准三宮の称号を与えられ、年官・年爵・封戸を給されている。一方でこの間、4月ごろより道長は体調を崩して、高熱が続いてやたらと湯を飲み、憔悴が目立つ状態で、医師のすすめで葛根を服用している。4月末には周囲の人々にも生命を危ぶまれる状況で、5月初旬に道長家で行われた法華三十講に出席した僧侶から道長の死期は遠くないであろうとの話を聞いた藤原実資は「朝(朝廷)の柱石、尤も惜しむべし」と嘆息している。道長の病気は糖尿病であるとみられており、伊尹・道隆・伊周といった近親も苦しんだものであった。その後、一時期小康状態にあったものの、寛解するには至らなかった。また5月下旬に四男能信が起こした暴行事件に激怒し、翌日に弁解のために訪れた能信を追い払ってしまったという。
その後、道長は立て続けに火災に見舞われ、7月に土御門殿が、9月に枇杷殿が焼失する。諸国の受領は道長の好意を得るために1間ごとに分担して資財をもってその再建に尽くした。特に、伊予守・源頼光は建物の他に道長一家に必要な生活用品全てを献上した。受領に私邸を造らせ、あたかも主君のように振舞う道長の様には政敵であった藤原実資でさえ呉の太伯の故事を引用しながら、「当時太閤徳如帝王、世之興亡只在我心(今の太閤(=道長)の徳は帝王のようで、世の興亡はその思いのままである)」と評している。その一方で、前年に焼失した内裏の再建は土御門殿の再建を優先する受領たちによって疎かにされ、実資を嘆かせている。
寛仁元年(1017年)3月に道長は頼通を内大臣に進めると、まもなく摂政と藤氏長者を頼通に譲って左右大臣の上に置き、後継体制を固める。一方で、道長は「大殿」と呼ばれ、引き続き政界に大きな影響を及ぼし続けた。
5月に三条上皇が崩御する。道長は退位後の三条院に対しては過去のわだかまりを捨ててかなりよく勤めたらしく[194]、院に対して宿直を務めたり、4月末には死に瀕した三条院からの迎えの使者が来るとすぐに駆けつけ、出家を奏上したりしている。三条院の崩御後程ない8月に敦明親王は自ら東宮辞退を申し出た。道長は敦明親王を准太上天皇とし(院号は小一条院)、さらに娘の寛子を嫁させ優遇した。東宮には道長の望み通りに敦良親王が立てられる。
12月に道長は太政大臣に任じられる。これは、翌寛仁2年(1018年)正月に行われる後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕するためである。天皇の元服の際には太政大臣が加冠を務める例であった。実際に、2月に入ると道長は太政大臣を辞している。表向き、道長は政治から退いた形になるが、その後も摂政となった若い頼通を後見して指図している。頼通や一上である藤原実資も重大な案件に関しては出家後も道長に判断を仰いでいるが、道長の意見が摂関や太政官の方針に異論を挟んだ場合でも頼通らが必ずしもその意見には従っていない。引退後の道長は強力な影響力を持っていたものの、宮廷の政策決定の枠から外れているために在任中のような絶対的な権力は持っていなかったとみられる。
一家三后
3月に道長は11歳になった後一条天皇に対して、三女の威子を女御として入内させ、10月には中宮となした。実資はその日記に「一家立三后、未曾有なり」(『小右記』)と感嘆の言葉を記した。10月の威子の立后の日に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」を詠じた。実資は「優美なり」としたが返歌はできないとして、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。道長自身は『御堂関白記』において歌を和したことについては記しているが、内容については残していない。実資は『小右記』において道長の行動についてたびたび批判を行っているが、この歌そのものに対しては否定的な意図や反応を示した訳では無い。しかしこの歌は「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」と解釈され、後世において道長の奢りの象徴であるとして批判されることとなった。一方で、この和歌について以下のような解釈もある。
この句は口頭で詠んだだけで道長本人は文字にしていないため、漢字は他人の解釈にすぎない。「この世」は「この夜」とも解釈できるため、単に「今夜の宴は満足です」という意味にもとれる(山本淳子)。
「わが世」とは我が生涯というような意味で、この世は自分の一生を表徴している。要するに、満ち足りた感激で満足感をそのまま詠んだ歌である(池田亀鑑)。
このころから道長は健康状態の悪化が目立つようになった。4月ごろより「胸病」の発作が起こるようになり、閏4月・5月の発作では叫び声を上げて苦しんだという。その後、7月頃まで不調が続いた。さらに、9月ごろからは目が見えづらくなっており、翌寛仁3年(1019年)2月には二・三尺先の人の顔も見えず、手許の物しか見えない状況だった。またこの頃、再び胸病の発作に苦しむようになった。道長は三年ほど魚肉を絶っており、病状の回復のために医者と陰陽師から魚肉を食べることを勧められた際もこれを受け入れなかった。しかしあまりに目の具合が悪くなったため、思い悩んだ末に魚肉を摂ることをようやく承諾した。肉食する間は法華経一巻を書くようにしたという。
晩年
寛仁3年(1019年)3月に道長は剃髪して出家する。戒師は院源で、法名は行観(後に行覚)。『日本紀略』では「胸病」によるものであるとされる。出家に際して、彰子が末妹・嬉子の行く末を心配して出家を制止しようとした、倫子が夫の後を追って出家しようとしたが道長が押し止めたなどの話が伝わっている(『栄花物語』)。道長は胸病の苦しみが激しかったため突如出家したが、一月に5、6度は参内して天皇の顔を拝したいと述べるなど、出家により完全な隠遁生活に入るわけではなかった。9月に東大寺で受戒。
同年3月末から4月には刀伊の入寇が起こり、8月末から9月にかけ高麗虜人送使が保護した日本人270人を同行して対馬を訪れて、9月22日には陣定において対応が検討されることとなったが、道長は新羅使が貢納を行ってきた際の先例を踏まえ、米や絹を与えて帰国させるべきだと藤原実資に伝えている。
7月からは無量寿院(法成寺)の造営を開始。道長はこれに心血を注ぎこみ、造営には資財と人力が注ぎ込まれ、諸国の受領は官への納入を後回しにしても、権門の道長のために争ってこの造営事業に奉仕した。更に道長は公卿や僧侶、民衆に対しても役負担を命じた。道長はこの造営を通じて彼らに自らの権威を知らしめると同時に、当時の末法思想の広がりの中で「極楽往生」を願う彼らに仏への結縁の機会を与えるという硬軟両面の意図を有していた。これについて、以下の議論がある。
道長が仏俗両面に指導的な役割を果たすことで天皇とは異なる「王権」を確立しようとしたとし、それは後三条天皇・白河天皇によって天皇家に吸収されて治天の君の「王権」の一部に転化された(上島享)。
引退後の道長は依然として影響力はあったものの、引退後の道長の意見が頼通らに拒否されるなど、摂関や太政官を支配する程の絶対的なものとは言えず、独自の「王権」の存在は認められない(佐々木宗雄)。
寛仁4年(1020年)3月に御堂の落慶法要が行われるが、三后(太皇太后彰子・皇太后妍子・皇后威子)の行啓を伴う盛大な儀式であった。『栄花物語』は道長の栄耀栄華の極みとしての法成寺の壮麗さを伝えている。治安2年(1022年)7月には金堂の供養が行われ、三后に加えて後一条天皇と春宮・敦良親王も行啓している。道長はこの法成寺に住んだが、寛子・嬉子・顕信・妍子と多くの子供たちに先立たれた上に、自身も病気がちで安らかとはいえなかった。
寛仁5年(1021年)道長の末女・嬉子も将来の皇妃たるべく、尚侍となり東宮・敦良親王に入侍したが、万寿2年(1025年)嬉子は親仁親王を産んでまもなく没した。その後、万寿4年(1027年)になって道長は妍子が生んだ禎子内親王を敦良親王に入内させ、他の公卿の娘の入内を阻止している。
万寿元年(1024年)頼通の妻・隆姫の実弟である源師房に五女の尊子を嫁がせた。師房は頼通の猶子となっており、道長からも可愛がられていることから、将来は公卿になるのは確実であったとは言え、道長の娘で「たゞ人」(非皇族・非公卿)と婚姻を結んだのは尊子だけであった。これに尊子の同母兄である頼宗や能信は強い不満を抱いたと伝えられている。しかし、当時の皇族・公卿の中に道長の娘婿に相応しい未婚の適齢者がいなかったこと、藤原実資が寵愛する娘・千古を師房に嫁がせようと動いていたために小野宮家と村上源氏の連携が成立するのを阻止する必要性に迫られていたこと、道長の健康状態が芳しくない中で自身に何かがあった場合に父親の後ろ盾を失った尊子の婚姻が困難になることを恐れたことから強行されたと思われる。
最期
万寿4年(1027年)10月末の妍子の四十九日法要の夜から病床に付き、激しい下痢と背中の腫れ物に苦しんだ。12月4日に病没。享年62。死因は癌または持病の糖尿病に起因する感染症といわれている。死期を悟った道長は、法成寺の東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわった。僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したという。同じ日に道長と関りが深かった藤原行成も亡くなっている。
道長の亡骸は12月7日に鳥辺野で葬送の儀式が行われた後に荼毘に付され、遺骨は他の藤原北家の人々と同様に現在の京都府宇治市木幡の「宇治陵」と称される墓地群に葬られた。生前の道長は一族の菩提を弔うために宇治に浄妙寺という寺院を創建していた。しかし、浄妙寺は中世末期には廃絶し、宇治陵も現在では一部を除いて住宅街や茶畑と化してしまい、道長を含めたほとんどの人々の葬地は不明となっている。
道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と、九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出した。その一方で頼通の異母弟・能信は摂関家に疎んじられた即位前の後三条天皇をほぼ独力で庇護し、それが摂関政治の凋落・院政へと繋がっていく。長家からは御子左家として俊成・定家らが出て、冷泉家として今日まで続く。
国宝・御堂関白記
道長の33歳から56歳にかけての日記は『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)と呼ばれ、自筆本14巻、書写本12巻が京都の陽明文庫に保存されている。誤字・当て字が随所に散らばり、罵言も喜悦の言葉も素直に記してある。当時の政治や貴族の生活に関する超一級の史料として、1951年(昭和26年)に国宝に指定された。また、2011年5月、ユネスコの「世界の記憶」への推薦が決定した。
人物・逸話
藤原道長(菊池容斎『前賢故実』より)
豪爽な性格であったとされており、『大鏡』には次のような逸話が残されている。若い頃の話として父・兼家が才人である関白・藤原頼忠の子の公任を羨み、息子たちに「我が子たちは遠く及ばない、(公任の)影を踏むこともできまい」と嘆息した。道隆と道兼は言葉もなく恥ずかしそうにしていたが、道長のみは「影をば踏まで、面をやは踏まぬ。(影などは踏まない、その面を踏んでやる)」と答えている。また花山天皇が深夜の宮殿をめぐる肝試しを命じた際には、同様に命ぜられた道隆と道兼が逃げ帰ってしまったのに対し、道長一人大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってきたという。
23歳の頃、懇意にしている甘南備永資を合格させようと永延2年(988年)12月4日に式部省の試験官だった式部少輔橘淑信を、従者に命じて自身の邸宅に拉致して、試験結果を改ざんするよう迫ったが、拉致行為が世間に露見し、父・兼家から𠮟責の処分を受けたとされる。
父・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見た源頼光は将帥の器であると感嘆して、自ら従うようになったという。
弓射に練達し、後に政敵となる兄・道隆の嫡男の伊周と弓比べをし、「道長が家より帝・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ。」と言って矢を放つと見事に命中し、臆した伊周は外してしまった。続いて道長が「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ。」と言って放つとやはり命中した。道隆は喜ばず、弓比べを止めさせたという。
左大臣だった頃、長和2年(1013年)6月に行われた祇園御霊会(現在の祇園祭)に参加していた散楽人たちを、従者たちに命じて衣装が破損するほどの暴行を加え、祭礼を台無しにしたことがある。
48歳の頃、妻が外出する際の準備の手際が悪かったとして、長和2年(1013年)8月15日、前摂津守藤原方正と前出雲守紀忠道を、自邸の小屋に監禁する行為に及んでいる。
文学を愛好した道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている(自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる)。また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。
歌集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。また、花山天皇時代に行われた寛和二年内裏歌合に召人として参加している。もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである。ただし、その漢詩に関しても一条天皇の趣向に合わせたものでしかなかったとする見方もある(三条天皇の即位後に『御堂関白記』などから漢詩との関わりを示す記録がほとんど無くなるため)。
政治家としては、長保元年(999年)に新制(長保元年令)を発令し、過差(贅沢)の禁止による社会秩序の引締や估価法の整備などの物価対策などにも取り組んだ(道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政や武家政権に政治の実権を奪われる遠因となる)。
『本朝世紀』長保元年6月14日条によれば道長が前年の祇園天神会の行列で出された山鉾が、天皇の大嘗祭で用いられるものそっくりに作られていたために道長が同年の祭りの停止を命じたところ、天神が怒って報復を示唆する詫宣をしたために道長がやむなく祭りを許したことが記されている。
天皇が物忌を行う際には蔵人が参内して天皇に従って内裏に籠もることとなっていた。右大臣就任以降蔵人所別当を兼ねていた道長も別当として特別な事情が無い限りは参籠に参加した(別当は翌日に政務があるなどの事情がなければ参籠の義務はない)。これについて、不仲であった三条天皇の時も同様であった。これについて加納重文は「人並み以上に危険を敏感に感じる、否定的に言えば、大権勢者に似合わず神経の細かい、小心翼々たる平凡感覚の人間像」として捉え、野口孝子は「大権勢者であるがゆえに故人の性格のみで禁忌に対処したのではなく、秩序維持の一つの方策としてよりよく守らなければならなかった」として公卿のトップとして責任を果たすことで自らの地位を再確認させたとしている。ただし、物忌参籠と言っても単に一晩夜通しで謹慎していた訳では無く、管弦や和歌の席が設けられるなど遊興的な要素も含まれていた(物忌参籠と異なり非公式の行事でかつ費用負担も貴族や女房達の自己負担であったとされる「庚申の夜」と実態としては似た要素がある)。
仏教(特に浄土教)に対して信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で臨終の時を迎えたとされる。
随身のなかに、童話「金太郎」のモデルとなったとされる下毛野公時がいる。
法成寺を建立したことから御堂関白とも呼ばれるが、実際に関白になったことはない。
官歴
※ 特に指示の無い限り『公卿補任』の記載による。()は新暦換算での日付。新暦はユリウス暦で換算。
天元3年(980年)
1月7日(1月27日):従五位下に叙位
天元5年(982年)
1月10日(2月6日):昇殿を許される
天元6年(983年)
1月27日(3月14日):侍従に任官
永観2年(984年)
2月1日(3月6日):右兵衛権佐に転任
4月14日(5月17日):禁色を許される
4月28日(5月31日):東宮(のちの花山天皇こと、師貞親王)昇殿を許される
寛和2年(986年)
2月8日(3月20日):昇殿を許される
6月23日(8月1日):一条天皇践祚により、あらためて昇殿を許される
7月23日(8月30日):従五位上に昇叙し、蔵人に補任。右兵衛権佐如元
7月27日(9月3日):正五位下に昇叙し、蔵人・右兵衛権佐如元
8月15日(9月21日):少納言を兼任
10月15日(11月19日):左近衛少将に転任し、少納言如元
11月18日(12月21日):従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。皇后宮御給による年爵。禁色と昇殿をあらためて許される
寛和3年(987年)
1月7日(2月7日):従四位上に昇叙し、左近衛少将如元
1月27日(2月27日):讃岐権守を兼任
永延元年(987年)
7月11日(8月8日):備前権守を兼任し、讃岐権守を去る
9月4日(9月29日):左京大夫を兼任し、左近衛少将如元
9月20日(10月15日):従三位に昇叙し、左近衛少将如元
9月26日(10月21日):左近衛少将を止むが、帯剣を許される
永延2年(988年)
1月29日(2月19日):権中納言に転任し、帯剣如元
永延3年(989年)
3月4日(4月12日):右衛門督を兼任
永祚2年(990年)
1月7日(2月5日):正三位に昇叙し、権中納言・右衛門督如元
10月5日(10月26日):中宮(道隆の娘で一条天皇中宮・藤原定子)大夫を兼任
正暦2年(991年)
9月7日(10月17日):権大納言に転任し、中宮大夫如元
正暦3年(992年)
4月27日(5月31日):従二位に昇叙し、権大納言・中宮大夫如元
長徳元年(995年)
4月27日(5月29日):左近衛大将を兼任
5月11日(6月11日):内覧宣下
6月19日(7月19日):右大臣に転任し、藤原氏長者宣下
7月28日(9月10日):蔵人所別当を兼ねる(『御堂関白記』同日条)
6月20日(7月20日):左近衛大将如元
長徳2年(996年)
7月20日(8月6日):正二位に昇叙し、左大臣に転任。内覧如元
7月21日(8月7日):左近衛大将如元
8月9日(9月24日):左近衛大将を辞任
長和4年(1015年)
10月27日(12月11日):准摂政宣下。左大臣如元
長和5年(1016年)
1月29日(3月10日):摂政宣下。左大臣如元
12月7日(1017年1月7日):左大臣を辞任
長和6年(1017年)
3月16日(4月15日):摂政を辞し、従一位に昇叙
寛仁元年(1017年)
12月4日(12月24日):太政大臣宣下
寛仁2年(1018年)
2月9日(2月27日):太政大臣を辞任
寛仁3年(1019年)
3月21日(4月28日):出家。法名:行観。のち、行覚と改める
系譜
父:藤原兼家 - 右大臣藤原師輔の三男
母:藤原時姫 - 摂津守藤原中正の娘
正室:源倫子 - 左大臣・源雅信の娘。
長女:藤原彰子(988-1074) - 一条天皇中宮。後一条天皇・後朱雀天皇の母
長男:藤原頼通(992-1074) - 摂政・関白。藤原寛子(後冷泉天皇皇后)の父。藤原嫄子(後朱雀天皇中宮)の伯父で養父。
次女:藤原妍子(994-1027) - 三条天皇皇后(号中宮)。禎子内親王(後朱雀天皇皇后)の母
五男:藤原教通(996-1075) - 関白、藤原歓子(後冷泉天皇皇后)の父
四女:藤原威子(1000-1036) - 後一条天皇皇后(号中宮)。章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)の母
六女:藤原嬉子(1007-1025) - 後朱雀天皇東宮時代の妃。後冷泉天皇の母
妻:源明子 - 左大臣・源高明女、盛明親王養女
次男:藤原頼宗(993-1065) - 右大臣・中御門流の祖
三男:藤原顕信(994-1027) - 入道前右馬頭
四男:藤原能信(995-1065) - 権大納言
三女:藤原寛子(999-1025) - 敦明親王女御
五女:藤原尊子(1003?-1087?) - 源師房室
六男:藤原長家(1005-1064) - 権大納言・御子左家の祖
女子:藤原盛子 - 三条天皇の尚侍、女御だったと伝わる。存在の実否は不明。
妾:源簾子(大納言の君) - 上東門院女房大納言、源扶義の娘
妾:源重光の娘
七男:長信(1014-1072) - 東寺法務僧正
妾:藤原儼子(四の君) - 太政大臣・藤原為光の四女
妾:藤原穠子 - 太政大臣・藤原為光の五女
なお、養子・猶子となった者に実父の出家・死去によって縁戚の道長が後見を務めた源成信(致平親王の子・倫子の甥)、道長の実の孫でその昇進の便宜のために道長が養子とした信基(教通の子、後の通基)・藤原兼頼(頼宗の子)、同様のケースと考えられる道長の異母兄道綱の実子である藤原兼経・道命(四天王寺別当[注釈 15])兄弟が挙げられる。この他に正式な縁組は無かったものの、源経房(源高明の子、明子の実弟で道長が後見を務めた)や藤原兼隆(道兼の子)もこれに准じていたと言われている。
関連作品
主人公もしくは主要キャラクターの作品のみ記載。
小説
永井路子『この世をば』(新潮社、1984年)
平岩弓枝『平安妖異伝』『道長の冒険 平安妖異伝』(新潮社、2000年・2004年)
谷恒生『安倍晴明-陰陽宮』(小学館文庫、2000年 - 2002年)
髙山由紀子『源氏物語 悲しみの皇子』(文庫題『源氏物語 千年の謎』)(角川書店、2010年/角川文庫、2011年)映画化・漫画化された。
鳥越碧『萌がさね 藤原道長室明子相聞』(講談社、1996年/講談社文庫、2000年)
漫画
瀧波ユカリ『あさはかな夢みし』(講談社、2014年 - 2017年)
映画
『紫式部』(1939年、演:浅香新八郎)
『羅生門の妖鬼』(1956年、演:加賀邦男) ※役名は藤原左大臣
『大江山酒天童子』(1960年、演:小沢栄太郎)
『千年の恋 ひかる源氏物語』(2001年、演:渡辺謙)※藤原宣孝と二役
『源氏物語 千年の謎』(2011年、演:東山紀之)
『映画刀剣乱舞-黎明-』(2023年、演:柄本明)[240]
テレビドラマ
『紫式部絵巻』(1962年、TBS、演:松本幸四郎)
『源氏物語』(1965年、MBS、演:高橋幸治)
『陰陽師』(2015年、フジテレビ、演:和田正人)
『光る君へ』(2024年、NHK大河ドラマ、演:柄本佑)[241]
『紫式部のスマホ』(2024年、NHK総合、演:賀屋壮也(かが屋))
◎『御堂関白記』国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231930/1?ln=ja
◎参考『道長記した「御堂関白記」が"世界に誇れる"凄い訳』東洋経済オンライン 濱田 浩一郎
2024/10/26 6:10
https://toyokeizai.net/articles/-/835372
前例を重んじた公家(官僚)たちが子孫のために儀式などのやり方を日記に残したのと違い、御堂関白記は道長の備忘録であり、これは残すべきものではないと書いたりもしている。備忘録ゆえに感情をあらわにして書いた部分などもあり、道長の性格をおもんぱかるに当たって大変助けになる。
しかし、道長の思いとは別にこの日記は写本もされ、道長の子孫の間で大事に保管され(摂政・関白でさえ見られなかった場合も)、今日まで直筆本が残されている。直筆本が残されているという事で、御堂関白記は現在、世界で最も古い日記となっていると述べている。
◎参考:『御堂関白記』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%82%E9%96%A2%E7%99%BD%E8%A8%98
『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本14巻、古写本12巻が伝わる。国宝に指定。現存する世界最古の直筆日記とされ、平成23年(2011年)5月には、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦、平成25年(2013年)6月18日に登録された。
概要
藤原道長は平安時代の貴族の摂政太政大臣で、一条、三条、後一条の3代にわたって左大臣や内覧を歴任し『日記』ではその間の詳細を綴り、同時代の貴族が記した『小右記』(藤原実資)『権記』(藤原行成)などと共に、当時の貴族社会を知る重要な史料となっている。
道長は生前一度も関白とならなかった。「御堂」の名称は、晩年の道長が法成寺無量寿院を建立して「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによる後世の呼称である。しかし「御堂関白記」の呼称は江戸時代にはすでに通称になっていたようである。
平安末期までに36巻が存したとされるが、現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事で、直筆本14巻が伝わっている。古写本の筆者について従来道長の長男頼通によるものとされていたが根拠は乏しく、現在は頼通の子師実か師実猶子の忠実によるものと考えられている。本書を後世に抜き出した『御堂御記抄』などの断簡も残り、それによると、道長は『日記』の日付から 3 年を遡る政権を獲得した長徳元年(995年)には日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けていたことがわかっている。
『日記』は具注暦に書かれており、文体や筆跡には道長の性格のおおらかさが看てとれる。内容は簡潔ながら、当て字、脱字、誤字、また重ねて字を書いていたり、塗抹(塗り潰し)、傍書、省略、転倒などが散見する特異な文体となっており、文の意味が不明だったり、文法的な誤りが多い。このような文筆は同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる。
寛弘5年12月20日(1009年1月18日)条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年(1008年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという。
道長が『御堂関白記』を記した契機として「子供に対する意識」があったためであったという。
文法の乱れによる解釈から、戦前には黒板勝美らが、摂関政治は天皇家に代わって国政の全般を掌握していたとする政所政治説を唱えていたが、現在は『日記』の内容から政所の下文や御教書は摂関家内部の私的な通達に過ぎないとされ、否定されている。
◎『小右記』国書データベース(原文) https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100135430/1?ln=ja
◎『大河「光る君へ」支える男性貴族の日記 「小右記」が異例のヒット』朝日新聞有料記事 https://www.asahi.com/articles/ASS7V2246S7VUCVL02VM.html
◎参考:『小右記』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8F%B3%E8%A8%98
『小右記』(しょうゆうき / おうき)は、平安時代の公卿・藤原実資の日記。「小右記」とは小野宮右大臣(実資のことを指す)の日記という意味。全61巻。全文が漢文で書かれている。『野府記』(やふき)ともいう。
概要
後世に残されたもののうち、三条西家所蔵本には『小右記』、伏見宮家所蔵本には『野府記』という書名が付けられており、近世以後の写本・刊本はそのいずれかの系統に依拠するところが大きかったために、両方の書名が並存した。更に祖父・実頼の『水心記』を継ぐという意味で『続水心記』という呼称も用いられるなど、異名が多い。もっとも、これらは全て実資の没後の命名であり、実資自身は『暦記』と呼称していた。これは原本が具注暦の余白に書かれたことに由来すると考えられ、当時の貴族の日記に広く見られる呼び名である。ただし、全ての文章が直接具注暦に記されたものではなく、実資がやりとりした手紙や作成したメモ、更に家族から提供された情報が記載されたメモなどを具注暦の行の左側に貼り付けてコメントを書き加えたのではないかとする推測もある。原本は伝わっておらず、著名な写本には伏見宮本、前田本、九条本の古写本のほか、江戸時代の新写本として東山御文庫本、内閣文庫本がある。天元元年(978年)頃から書かれたとされるが、現存するのは天元5年(982年)~長元5年(1032年)の部分であり、途中の欠巻も多い。1033年以降には索引となる「小記目録」が作成されており、これは20巻中18巻が現存する。
内容
60年間上級公卿として朝廷に参画した実資による政治、宮廷の儀式、故実の詳細な記録が書かれたもので、平安時代、特に藤原道長・頼通の摂関政治全盛時代の社会を知るうえで大変重要な史料である。一日の記録が長く、内容も具体的で実資の感想も含めて書かれているのが特色である。人物評は全体的に辛口であり、実力者であった道長を始めとする貴族たち、また天皇に対しても痛烈な批判が記されている。道長の日記『御堂関白記』、藤原行成の『権記』、源経頼の『左経記』とともにこの時代を知るうえでの一級資料とされている。
記録の一例
長和三年(1014年)には三条天皇が実資の養子資平を蔵人頭に任じると約束したが、それを反故にして藤原兼綱を任じた。実資は三条天皇の態度に憤慨し、「後々、私のことは頼みにしないでもらいたい」と不信感を記している。
長和三年四月十三日、藤原隆家は三条天皇から、「今日参上した道長は大変不機嫌であった。私の調子がよいのを見て不機嫌になったのであろう。」と告げられている。隆家からこのことを聞いた実資は、道長を「大不忠の人」と非難している。
寛仁二年十月十六日条は、土御門殿で開かれた中宮藤原威子の立后の式典と、その後の祝宴について書かれている。この日、道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」という和歌を読んでいるが、実資が和歌を書き残すことも、二次会である穏座に出席することも大変珍しいことであった。実資は道長から返歌を求められていたが、「御歌優美なり」と答えて、列席した公卿たちとともに唱和することを提案している。この歌は後に道長が権勢を誇った歌であるとして考えられ、実資の行動も批判的なニュアンスがあったものであるとするという解釈が一般的に取られている。一方で倉本一宏は「たんなる座興の歌」であり、道長にも実資にも深い意図があっての行為ではないとしている。
従兄弟である藤原公任が孫娘2名(藤原教通の娘・生子と真子)の誕生日の記録が火災で失われたので困ったために実資に相談したところ、実資が2人の誕生日と時刻を記録していたためにそれを公任に伝えたところ、公任は大いに喜んだという。
殿上において、暑さに堪えきれずに氷水を飲んだ話
自邸にマルハナバチが巣を作ったので蜜を採集した話
藤原忠国という大食いで評判の男を召して、飯6升を食べさせた話
◎『権記』国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000052247.html
◎『権記』国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100135432/1?ln=ja
◎参考:『権記』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E8%A8%98
『権記』(ごんき)は、平安時代中期の公卿・藤原行成の記した日記である。名の由来は、行成の極官(ごくかん)の権大納言による。『行成卿記』、『権大納言記』とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中(一条天皇期)の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。
正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに加えて万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された伏見宮本(宮内庁書陵部蔵)である。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。
参考:『刀伊の入寇』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
2021年著書を当てる出題。
[九条兼実]
[生]久安5(1149)
[没]承元1(1207).4.5. 京都
平安時代末期,鎌倉時代初期の公卿。九条家の始祖。藤原忠通の子。母は藤原仲光の娘加賀局。保元3 (1158) 年,元服して正五位下となり,永暦1 (60) 年正三位,権中納言,翌年従二位,権大納言,右大将,長寛2 (64) 年内大臣に進み,仁安1 (66) 年右大臣となる。文治2 (86) 年には兼実は摂政氏長者 (うじのちょうじゃ) となり,朝廷に重きをなした。建久1 (90) 年娘の任子を入内させ,後鳥羽天皇の中宮とした。同年上洛した源頼朝と会してともに朝政の振興をはかり,同2年関白となった。同3年,後白河法皇が没すると,頼朝の征夷大将軍宣下に尽力し,勢力の伸長をはかったが,土御門通親 (源通親 ) の策謀によって,同7年兼実は関白を罷免され,中宮任子は宮中を退き,兼実の弟慈円は天台座主の地位を追われ,九条一門の多くは失脚していった。建仁2 (1202) 年,出家して法性寺に住し,法然の浄土宗に帰依した。法名を円証という。博学で故実に通じ,和歌に長じた。『千載集』『新古今集』など勅撰和歌集に五十余首が収められている。彼の日記『玉葉』 (『玉海』) は史料価値が高い。月輪殿,のち法性寺殿と呼ばれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[慈円] 九条兼実(かねざね)の弟
1155-1225 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。
久寿2年4月15日生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条兼実(かねざね)の弟。天台宗。覚快(かくかい)法親王の弟子となり,明雲(みょううん),全玄にまなぶ。4度天台座主(ざす)に就任したほか,無動寺検校(けんぎょう),四天王寺別当などをつとめる。大僧正。「愚管抄」をあらわして公武協調を主張。歌が「新古今和歌集」に92首のる。家集に「拾玉集」。嘉禄(かろく)元年9月25日死去。71歳。法名ははじめ道快。通称は吉水僧正,無動寺法印。諡号(しごう)は慈鎮。
【格言など】おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣(そま)に墨染の袖(「小倉百人一首」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
[二条良基]
[生]元応2(1320)
[没]元中5=嘉慶2(1388)
南北朝時代の歌人,連歌作者。関白,太政大臣,摂政などを歴任。初め後醍醐天皇に仕えたが,のち北朝に仕えた。歌道に通じ,博学多識。特に連歌の興隆に果した役割は注目される。救済 (ぐさい) の協力を得て『菟玖波集 (つくばしゅう) 』を正平 11=延文1 (1356) 年に編纂,文中1=応安5 (72) 年には『応安新式』 (『連歌新式』) を制定。父道平のあとをうけて 20歳前後から邸宅で連歌会を催し,生涯指導的立場にあった。連歌論書も多く著わしているが,特に『筑波問答』は後世に影響を与えた。連歌の作者としても著名で,『菟玖波集』には 87句入集。ほかに連歌論書『僻連抄』 (45) ,『撃蒙抄』 (58) ,『愚問賢註』 (頓阿と共著) ,『九州問答』 (76) ,『連歌十様』 (79) ,『十問最秘抄』 (83) ,『近来風体抄』 (87) ,『知連抄』 (87) ,紀行『小島 (おじま) の口ずさみ』 (53) など。『増鏡』もその作かといわれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
平安の文化
10世紀以降,とくに10~11世紀(平安中・後期)の日本の文化の特徴を表現した文化史の時代区分。9世紀の唐風文化に対する呼称。政治史では,藤原氏を中心とする摂関政治の時代に相当する。9世紀の唐風文化を基盤に発展した日本風文化で,仮名文字の発展にもとづく和歌・物語文学,漢文の日本化による和漢混淆文,浄土教思想と浄土教美術,寝殿造のような住宅建築,束帯・直衣(のうし)・女房装束などに代表される服飾などの文化現象がみられる。のちの日本文化の基本形が成立した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
平安時代の女流日記文学。作者は藤原倫寧(平安中期の歌人・中級貴族)の娘の藤原道綱母。天暦8年(954年) - 天延2年(974年)の出来事が書かれており、成立は天延2年(974年)前後と推定される。上中下の3巻よりなる。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。
藤原道綱母は右大臣藤原兼家の妻の一人。結婚して間もなく道綱を産んだが、権力者兼家は妻が多く、蜻蛉日記は嫉妬と孤独の悩みにあふれている。
「なげきつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」
蜻蛉日記はリアルタイムの日記ではなく、兼家が訪れて来なくなった夜涸れの後に、今までのオモタイ念をまとめた若干フィクションを交えてまとめた小説に近いエッセイ。
参考:『蜻蛉日記』Wikipedia
平安時代の著名歌人清原元輔の娘で女房(宮中の住み込み高級女官)・随筆家。一条天皇の中宮(妃)藤原定子に仕えた清少納言が執筆。中宮定子のサロンの様子を描き出したエッセイで、当時の宮中や宮中に住む人々の様子や考え方を知る貴重な資料となっている。出仕中から定子の死後、女官を辞めた後も執筆をつづけた。
清少納言は鋭い五感・感性の持ち主でその感性を文書化する能力にたけ、するどい書き方の中にほとばしる才能が感じられる。
参考:『枕草子』Wikipedia
参考:『百花繚乱!平安時代文学女性作家たちのリアルな生き方』(NHK『知恵泉』)
今から約1000年前に作られた作品。中級貴族の藤原為時の娘で、物語作者・女房(宮中の女官)・歌人・一条天皇の皇后で藤原道長の長女藤原彰子の家庭教師であった紫式部が書いたとされている。全54帖、文献初出は1008年(寛弘五年)、平安末期に「源氏物語絵巻」として絵画化されました。日本の歴史上、貴族階級の全盛期だった平安中期に生き、宮仕えで宮中の内情にも日常的に接した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して当時の貴族社会を描いた小説で、54帖と大変長いので研究者の間では、主人公光源氏の誕生から権力を得るまで、権力を得た後から光源氏が亡くなるまで、最後は光源氏の死後の子孫の話、の3部に分けて調査しているそうです。
参考:NHK『趣味どきっ!源氏物語の女君たち』(清泉女子大学文学部 藤井由紀子教授など)
参考:「源氏物語」「紫式部」「藤原爲時」「大弐三位」「藤原宣孝」「紀時文」「藤原道長」Wikipediaなど
貴族
男性
[束帯] 平安時代以降、男子が参内する際に着用した正式の服装。天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をする。その形状・構成は時代により変遷するが、中心となる構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しとうず)・靴等で武官と帯剣勅許の文官は剣・平緒(ひらお)を着用する。
出典 精選版 日本国語大辞典
束帯コトバンクより
[衣冠] 広義には,衣服と冠をつけた服装の総称。狭義には朝服としての束帯(そくたい)の略装。束帯を昼装束(ひのしょうぞく)というのに対し,衣冠は宿衣(とのいぎぬ)とよばれ,平安中期までは遠行や院参に用い,参内には通常使用されなかった。束帯のうち半臂(はんぴ)・衵(あこめ)・下襲(したがさね)・石帯(せきたい)を省略し,表袴(うえのはかま)も指貫(さしぬき)にかえる。袍は文武両官とも縫腋袍(ほうえきのほう)を使用。平安時代末の強装束(こわしょうぞく)の普及以来,束帯が儀礼用となり,衣冠が日常参内用に格上げされた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
衣冠コトバンクより
[狩衣] (もと、狩などの時着用したところから) 古く、公家が常用した略服。胡服系の盤領(まるえり)で、前身頃と袖が離れており、袖付けをわずかにしてくつろぎをよくしたもので、袖口にくくりの緒がついている。布製であるところから布衣(ほうい)と呼んだが、野外の出行や院参に華麗な絹織物を用い、位階、年齢に相応する慣習を生じ、近世は有文の裏打を狩衣、無文の裏無を布衣と呼んで区別した。狩襖(かりあお)。かりごろも。
出典 精選版 日本国語大辞典
狩衣コトバンクより
女性
十二単
女房装束の通俗名称。本来十二単とは,表着(うわぎ)と肌着の間に着用して寒暖を調節するのに用いた袿(うちき)を数領重ね,肌着である単(ひとえ)を着けただけの重ね袿姿をいい,袿を12領重ねたときの名称である。したがって宮中出仕の女房装束の唐衣(からぎぬ)・裳(も)・袿・袴・単などを着用した姿とは異なる。「源平盛衰記」に建礼門院の姿を「藤重の十二単」としていることから,女房装束を十二単とよぶことが一般的となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
女房装束のことを俗に十二単と言う。
十二単コトバンクより
庶民
水干 平安時代以降、朝廷に仕える下級官人が用いた衣服の一種。水干とは、布に糊(のり)を使わず、板に水張りにして干し、乾いてから引きはがして張りをもたせて仕立てた衣という意味。その形式は盤領(あげくび)、身一幅(ひとの)仕立て、脇(わき)あけで、襖(あお)系の上着。襟は組紐(くみひも)で結び留め、裾(すそ)は袴(はかま)の中に着込める。同じ襖系の狩衣(かりぎぬ)はボタン式の入れ紐と受緒で襟を留め、裾は外に出して垂らす点で異なる。水干のほころびやすい箇所である袖付(そでつ)け、奥袖と端袖の縫い目、身頃(みごろ)と衽(おくみ)の縫い目の要所に組紐を通して結び、その結び余りをほぐして総(ふさ)とし、補強と飾りにして、これを菊綴(きくとじ)とよんだ。水干姿には烏帽子(えぼし)をかぶり、袴の裾口に紐を通して締める括(くく)り袴をはくが、股立(ももだち)の合せ目と膝(ひざ)の上の縫い目に左右それぞれ2個ずつ菊綴をつけた水干袴をはくこともあった。
平安時代後期には、白麻布のほか色無地、描絵(かきえ)、絞り染め、型染めなど文様を表したものが使われ、祭りの使い、供奉(ぐぶ)などのときに端袖や衽に別の色のものや美しい織物を用いた、いわゆる風流(ふりゅう)の水干を着た。衛府の下級武官となった武士も水干を用い、鎧(よろい)の下にも着用した。宮中の警護にあたる滝口の武士が着る狩衣を水干狩衣といい、これも衽と端袖の地質を変えて華麗につくられた水干の一種である。水干姿もしだいに礼装化して、水干と袴が同質のものを水干上下(かみしも)と称した。また水干は盤領形式であるが、その襟を内側に折り込んで垂領(たりくび)式に着る方法も考案された。鎌倉時代から室町時代にかけて、武家は狩衣とともに礼装として着用し、麻布のほか平絹、綾(あや)、紗(しゃ)などの生地を使ったものも現れた。
[高田倭男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
水干コトバンクより
釈尊の入滅後,年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言,およびそれに基づく思想。正法,像法の時代を経て,教えのみ残り,修行も悟りも得られなくなる末法に入るとされる。釈尊の入滅およびそれ以後の正像末の年数に関しては異説があるが,平安時代末期に,釈尊入滅を壬申の年 (前 949) とし,正法 1000年,像法 1000年ののち永承7 (1052) 年に末法を迎えるとする説が行われた。末法思想は当時の思想の指導的原理となって,それを乗越えたところに新しい宗教が起ることとなった。末法思想はすでに早く中国において注目されていたが,特に唐の道綽,善導などは末法に相応する教法は浄土教のみであると主張し,日本の源信,源空などもこれを受けて浄土思想を鼓吹した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[浄土教]
阿弥陀仏の救済によって浄土に生れ,悟りを開くという大乗仏教のなかの一つの流れ。浄土の観念自体は,ベーダ文献中に起源を求めることができ,それにヒンドゥー教などの影響も加わって成立したものらしいが,インドのクシャン朝頃には,阿弥陀仏信仰は民衆の間に普及し,『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」が成立した。馬鳴 (めみょう) ,龍樹,世親 (天親) らによって次第に体系化され,中国に移入されて非常に普及し慧遠 (えおん) に発する念仏結社,白蓮社,曇鸞,道綽,善導らによって盛んとなった。特に普及した原因の一つは,浄土思想が道教的観念と結合して民衆に受入れられたためと考えられる。日本でも空也,源信らを経て,法然によって浄土宗が創始され,その弟子である親鸞は浄土真宗を,また一遍は時宗を興し諸国を遊行して念仏を説き,その普及に努めた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
浄土教コトバンクより
[源信] 942-1017 平安時代中期の僧。
天慶(てんぎょう)5年生まれ。天台宗。比叡(ひえい)山で良源に師事。横川(よかわ)の恵心院に隠棲して修行と著述に専念し,恵心僧都(そうず),横川僧都とよばれた。宋(そう)(中国)でもたかく評価された「往生要集」をあらわしたほか,念仏結社を指導するなど,のちの浄土教におおきな影響をあたえた。寛仁(かんにん)元年6月10日死去。76歳。大和(奈良県)出身。俗姓は卜部(うらべ)。著作に「一乗要決」「観心略要集」など。
【格言など】人かずならぬ身のいやしきは,菩提を願うしるべなり(「横川法語」)
空也上人像についてが2022年出題
903-972 平安時代中期の僧。
延喜(えんぎ)3年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の国分寺で出家。諸国をめぐり,阿弥陀(あみだ)念仏をとなえ,橋をかけ,井戸をほるなどの社会事業をおこなう。天慶(てんぎょう)元年から京都市中で庶民に念仏と浄土信仰を説き,市聖(いちのひじり),市上人,阿弥陀聖などとよばれる。天暦(てんりゃく)2年比叡山で受戒し,貴族層にまで布教を拡大した。応和年間に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立。天禄3年9月11日死去。70歳。法名は別に光勝。「こうや」ともよみ,弘也ともかく。
【格言など】忍辱(にんにく)の衣厚ければ,杖木瓦石(じょうもくがせき)を痛しとせず(「一遍上人語録」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
[空也上人像] 京都市六波羅蜜寺所蔵の鎌倉前期の肖像彫刻
康勝作。平安中期の阿弥陀聖と呼ばれた空也の立像。口から南無阿弥陀仏を表す6体の阿弥陀仏を出している。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
参考:『江家次第』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%AE%B6%E6%AC%A1%E7%AC%AC
江家次第(ごうけしだい)は、平安時代後期の有職故実書。著者は大江匡房。全21巻(現存は19巻)。大嘗会や四方拝に関する記述を含め、この時代の朝儀の集大成として評価が高い。「江次第(ごうしだい)」が当初の書名と考えられ、諸書に「江帥次第」、「江中納言次第」、「匡房卿次第」、「江抄」として引用される。
概要
正確な編纂の開始時期は不明。『中外抄』などの記述によると、匡房が藤原師通の命令を受けて編纂がはじめられたという。そして、大江匡房の没した天永2年(1111年)まで書き続けられたと思われる。のちに加筆・増補が行われた。全21巻の編目は以下の通りである。
第1巻〜第11巻 - 年中慣例の朝儀
第12巻 - 臨時神事
第13巻 - 臨時仏事
第14巻〜第17巻 - 臨時の朝儀(欠巻の第16巻は行幸)
第18巻 - 政務
第19巻 - 弓射・競馬および院中雑務
第20巻 - 臣下の儀礼
第21巻 - 崩御以下の凶事(欠巻)
全21巻であるが、目録に見える第16巻・第21巻は散逸したとも、初めより編まれなかったとも言われる。有職故実書として高い評価を得ており、これに対する注釈書として、一条兼良の『江次第抄』、尾崎積興の『江家次第秘抄』がある。現在伝わる本文は、『江次第抄』の一部が竄入したものもある。
四方拝 呪文
「江家次第」が記録する、天皇が正月元旦早朝の四方拝の際に唱えるとされる呪文である。いずれも「危険や害毒からわが身を守らしめよ」という意味で、天皇の玉体安穏・宝祚延長を祈るものである。「危険や害毒がわが身に取りこまれるように」という現代の解釈は、呪文の漢語の誤読に基づく俗説で正しくない。
賊寇之中過度我身
毒魔之中過度我身
毒氣之中過度我身
危厄之中過度我身
五急六害之中過度我身
五兵六舌之中過度我身
厭魅之中過度我身
萬病除癒
所欲随心
急急如律令
参考:『大江匡房』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E6%88%BF
大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥ごうのそつと号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では権中納言匡房。鎌倉幕府創建に功を成した大江広元は曾孫にあたる。
経歴
若年期
大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる。匡房の詩文に関する自叙伝『暮年記』の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている。早くも天喜4年(1056年)16歳にして省試に合格して文章得業生に、康平元年(1058年)に対策に及第し、康平3年(1060年)には治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙爵した。
その後は、目立った官職にも任じられず身の上を不満に思って出家・隠遁しようとするが、中納言・藤原経任の諫止により思いとどまる。その後、匡房は春宮・尊仁親王の御所に参上するようになるが、困窮により衣服に事欠く状況であったため、他の人から装束を借りていたという。治暦3年(1067年)尊仁親王の東宮学士に任じられると、学士を務める中で尊仁親王の信頼を得た。
後三条朝
治暦4年(1068年)4月に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられる。当初は官職もなく蔵人のみを帯びていたため、蔵人の式部大夫と呼ばれていたが、7月に欠官が生じたため中務大輔に任ぜられるとともに、学士の労により正五位下に昇叙された。翌延久元年(1069年)左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得た。また、東宮・貞仁親王の東宮学士も務める。後三条朝では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、匡房は藤原実政や藤原正家らとともにブレーン役の近臣として重要な役割を果たしている。中でも匡房は朝から晩まで始終天皇に近侍していたという。
白河朝
延久4年12月(1073年1月)の貞仁親王の即位(白河天皇)後も引き続き五位蔵人を務めるとともに、実仁親王の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務める。延久6年(1074年)従四位下・美作守に叙任されて一旦弁官を離れるが、翌承保2年(1075年)正四位下と順調に昇進する。美作守に任ぜられても引き続き東宮学士を務めていたため、任地に赴くことは多くなかったと想定される。一方で、美作国在地豪族と思しき藤原秀隆のために願文を作成するなど在地民との関係が見られるほか、承保4年(1077年)には、関白・藤原師実から美作国の所領を譲り受けるなど、受領として経済的な躍進ぶりを示している。なお、この間の承暦2年(1078年)自らの邸宅に江家文庫を設置している。
承暦4年(1080年)権左中弁として弁官局に復す。当時は一度地方官に遷ると、そのまま転々と地方官を渡り歩くケースも多かったが、匡房は相応の経済力を蓄えて京官に復したところに匡房の慎重さが窺い知れる一方、当時の宮廷において匡房のような故実に精通した学者官僚が必要とされていたことも、京官への復帰を可能とした要素の一つとも考えられる。同年2月に高麗王文宗から王の病気の治療のため、日本の名医の派遣を要請する書状が届くも、朝議の結果、派遣を断ることに決まるが、匡房が断りの返信を起草した(医師招請事件)。
その後も永保元年(1081年)左中弁、応徳元年(1084年)左大弁と弁官にて累進する一方、永保3年(1083年)式部権大輔も兼ねた。この間の永保元年(1081年)匡房は蔵人頭を望むが、歌道の競争相手でもあった下僚の右中弁・藤原通俊に敗れ、激しい憤怒の感情を示した。一方で、永保2年(1082年)右大臣・藤原俊家が出家した際、白河天皇は後任の右大臣として中宮・藤原賢子の実父である顕房を念頭に匡房に相談するが、かつて教えを受けた俊房の学才に敬服していた匡房の意見によって、結局俊房を任じたとの逸話がある[10]。匡房が大臣の人事を左右するほど白河天皇からの信頼が厚かった様子が窺われる。
白河院政期
応徳3年(1086年)白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始すると、匡房は初代院司の一人となる。またこれに前後して従三位に叙せられて公卿に列した。応徳4年(1087年)式部大輔に任ぜられ、寛治2年(1088年)正三位・参議に叙任された。議政官の傍らで、式部大輔・勘解由長官を兼帯している。この間、寛治4年(1090年)には堀河天皇に漢書を進講している。
寛治8年(1094年)従二位・権中納言に叙任される。永長2年(1097年)大宰権帥を兼ね、翌承徳2年(1098年)大宰府へ下向する。大宰権帥を大過なく勤め上げ、康和4年(1102年)任期満了に伴って正二位に叙せられた。長治2年(1105年)所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われてしまっている。長治3年(1106年)権中納言を辞して、大宰権帥に再任されるが、今度は病気もあって任地には下向しなかった。匡房が下向しないことで、大宰府管内は「神民蜂起、群盗相乱、凡管内放火殺害者、不可勝計」という混乱状況に陥り、廟堂からの批判にさらされている。
鳥羽朝の天永2年(1111年)大蔵卿に遷任されるが、同年11月5日薨去。享年71。
人物
大江氏の再興を願う匡房にとって、大江維時以来途絶えていた[注 1]公卿の座に自らが就いたことは大きな喜びであった。惟宗孝言が大学者として知られていた匡房の曾祖父大江匡衡について尋ねたところ、匡房は自分が意識しているのは維時のみであると述べて暗に匡衡は評価に値しないことを示した[14]。これは匡衡の位階が正四位下に終わった事から、公卿を目指す匡房には目標たるべき人物ではないと見ていたと考えられている。
『後拾遺和歌集』(巻7 賀438)には匡房誕生時にまだ健在であった曾祖母の赤染衛門(匡衡の未亡人)が曾孫の誕生を喜ぶ和歌が載せられている。
大江氏の祖・大江音人を阿保親王の子とする伝承を作成したのは、匡房であるという説がある(今井源衛説)。
学才を恃まれ多くの願文の代作をし、それらをまとめた江都督納言願文集が残る。
和歌にも優れ、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に114首の作品が収められている(『勅撰作者部類』)。歌集に『江帥集』、著書に『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』がある。また『江談抄』は、彼の談話を藤原実兼(信西の父)が筆記したものである。
兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた。『古今著聞集』(1254年成立)や『奥州後三年記』(1347年成立)に見える話である。このことは戦国時代に九州で常勝無敗であった智将、山田宗昌にも影響を与えており、「匡房の兵法を得たり」として彼は「山田匡得」を名乗っている。
逸話
幼少の頃より学問に優れていたことを示す逸話として以下がある。
源師房に「雪裏看松貞」の題を与えられたが、筆が停滞することなく漢詩を作り、師房を深く賞嘆させた(『暮年記』)
11歳の時、優れた漢詩を作ったことから、後冷泉天皇に見てもらったところ、天皇は感心して匡房に学問料を与えた(『続古事談』)[8]
藤原頼通が匡房を見て地を履みて人を踰えて必ず大位に至ると述べた(『暮年記』)
関白・藤原頼通が平等院を創建するために、源師房と宇治を訪問した際、大門が北に向いていた。そこで頼通は師房に対して寺門が北を向いている例はあるかと問うた。師房は「私は知らないが、後ろに乗っている匡房はこれらの事柄に通じているので問うてみましょう」と言って、匡房に尋ねた。匡房は即座に、天竺の那蘭陀寺、震旦の西明寺、本朝の六波羅蜜寺は門が北に向いていると回答し、頼通を驚嘆させた(『十訓抄』『古事談』)
著作
洛陽田楽記(1096年) - 永長の大田楽を記録
江家次第 - 有職故実書
朗詠江注 -『和漢朗詠集』の注釈
江談抄 - 説話集
闘戦経 - 兵法書。大江維時作とも
続本朝往生伝(1101年~1111年)
本朝神仙伝
江帥集 - 和歌集
江都督納言願文集
江記 - 日記
暮年記
代表的な歌
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり とやまの霞 立たずもあらなむ(百人一首73番:『後拾遺和歌集』)
官歴
『公卿補任』による。
天喜4年(1056年) 12月29日:文章得業生(給料)
天喜5年(1057年) 2月30日:丹波掾
康平元年(1058年) 12月29日:対策
康平3年(1060年) 2月21日:治部少丞。3月20日:式部少丞。7月6日:従五位下(策)
治暦3年(1067年) 2月6日:東宮学士(春宮・尊仁親王)
治暦4年(1068年) 4月19日:五位蔵人(後三条天皇受禅日、先坊学士)。7月8日:中務大輔。7月19日:正五位下(学士労)
治暦5年(1069年) 正月27日:左衛門権佐。4月28日:兼東宮学士(春宮・貞仁親王)。12月17日:兼右少弁(三事兼帯)
延久4年(1072年) 4月26日:兼備中介、防鴨河使。12月8日:五位蔵人、兼東宮学士(春宮・実仁親王)
延久6年(1074年) 正月28日:従四位下(策)、美作守
承保2年(1075年) 正月5日:正四位下(先坊学士)
承暦4年(1080年) 8月22日:権左中弁、止守
永保元年(1081年) 8月8日:左中弁
永保3年(1083年) 2月1日:兼備前権守、兼式部権大輔
応徳元年(1084年) 6月23日:左大弁
応徳2年(1085年) 2月15日:兼勘解由長官。11月8日:止学士
応徳3年(1086年) 11月20日:従三位
応徳4年(1087年) 正月25日:式部大輔
寛治2年(1088年) 正月19日:正三位(院行幸別当賞)。正月25日:兼周防権守。8月29日:参議
寛治6年(1092年) 正月:兼越前権守
寛治8年(1094年) 6月13日:権中納言[17]。12月11日:従二位?
永長2年(1097年) 3月:兼大宰権帥
康和4年(1102年) 正月5日:正二位(赴任賞、追叙)。正月:得替解任
長治3年(1106年) 3月11日:去権中納言
天永2年(1111年) 7月29日:大蔵卿。11月5日:死去
系譜
父:大江成衡
母:橘孝親の娘
妻:藤原重経の娘
男子:大江隆兼(?-1102[18])
生母不明
男子:大江維順(?-?)
養子女
養子:大江広房(?-1111) - 実は橘以綱の子
養子:大江有元 - 実は源有宗の子
平安中期,陸奥国の豪族安倍氏がおこした反乱(1051〜62)
1056年の源頼義の再征から'64年の京凱旋までの年数を数えてこう呼ぶ。代々陸奥の俘囚 (ふしゆう) の長であった安倍氏は陸奥6郡を支配して強勢を誇ったが,頼時が国司の命に服従せず貢租を奪ったので,朝廷は,1051年源頼義・義家父子にこれを討たせた。頼時は初め帰順したが,'56年再び反乱をおこし,頼時敗死後は子の貞任らが抗戦。頼義らは出羽国の豪族清原氏の援助で,苦戦の末 '62年にようやく乱を平定した。源氏が東国に勢力を築く端緒となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
平安後期、永保三年(一〇八三)から寛治元年(一〇八七)にかけて奥羽地方で行なわれた戦役。前九年の役で奥羽地方を制覇した清原武則の子武貞の没後、真衡と家衡・清衡(ともに武貞の実子および養子)の間で紛争があり、真衡の死後には家衡と清衡が争った。この頃、陸奥守として源義家が入国して両者の調停をはかったが失敗し、清衡の請に応じてこれをたすけ、叔父武衡と組んだ家衡と対抗した。戦役は、寛治元年に武衡らのこもる金沢柵を攻落して清衡方の勝利に終わり、清衡は奥羽両国の押領使と鎮守府将軍を兼ねて、以後の平泉を中心とする藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華の基を開いた。他方、義家に対して、朝廷は私闘とみて行賞しなかったが、義家もこの戦役を通じて東国武士団を組織動員し、源氏の東国における勢力基盤を築いた。
出典 精選版 日本国語大辞典 コトバンク『後三年の役』
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする。
概要
摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。
天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という(院という場所で政治を行ったから院政というとする説もある)。 1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。
「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。
前史
本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。
平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与することがあった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。
だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。
後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令(1069年)などの積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ譲位したが、その直後に病没してしまう。
白河院政
次の白河天皇の母も御堂流摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信(異母兄頼通とは反目していた)の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、御堂流嫡流摂関家の藤原師実を関白に任じつつ後三条天皇と同様に親政を行った。白河天皇は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。
ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇は御堂流藤原能信の養女藤原茂子を母親、同じく御堂流の関白藤原師実の養女藤原賢子(御堂流と親密な村上源氏中院流出身)を中宮としており、生前の後三条天皇および反摂関家の貴族にとっては、異母弟である実仁親王・輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)への譲位が望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承を断念させる意図があった。これは再び摂関家を外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった。佐々木宗雄の研究によれば、『中右記』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白藤原師通が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、承徳3年(1099年)の師通の働き盛りの年齢での急逝と若年で政治経験の乏しい藤原忠実の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更に嘉承2年その堀河天皇も崩御して幼い鳥羽天皇が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。一方、樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[注釈 2]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[注釈 3]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[注釈 4]。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。
直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。
また、外戚関係を媒介に摂政関白として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給した。従来の学説では院庁において実際の政務が執られたとされていたが、鈴木茂男が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、橋本義彦がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて朝廷に圧力をかけ、院独自の側近を院の近臣として太政官内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として北面武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって中世の起点とする事もある。
平安後期以降に院政が定着した背景として、岡野友彦は財政面の理由を指摘している。公地公民制が実態として崩壊したこの時期であっても、法制上は律令国家の長である天皇は荘園を私有できなかった。このため寄進によって皇室領となった荘園を上皇が所有・管理し、国家財政を支えたという見解である。
ただし、院政の登場は摂政関白の必要性を否定するものではなかったことには注意を要する。院(上皇・法皇)の内裏への立ち入りはできない慣例が依然として維持されている中で、摂関は天皇の身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割を担った。そして、長い院政の歴史の間には白河法皇と藤原忠実のように院が若い摂関を補佐する状況だけではなく、反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関、ひいては天皇家と摂関家は王権を構成する相互補完的な関係であり続けたのである。
院政の最盛と転換
白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなったが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛天皇没後はその兄の後白河天皇(母、待賢門院)が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽上皇が崩じた直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。
後白河天皇は保元3年(1158年)に二条天皇へ譲位すると院政を開始した。しかし、皇統の正嫡としての意識の強い二条天皇は天皇親政を指向しており、後白河院政派と二条親政派の対立がもたらされ、平治の乱後もその対立は続いた。したがって二条天皇の時代、後白河院政は強固なものとは到底言えなかった。しかし、病を得た二条天皇は永万元年(1165年)6月25日に幼い六条天皇に譲位、7月28日には崩じてしまった。ここで後白河院政には実質上の内容がもたらされたのである。後白河院政期には、平治の乱と平氏政権の隆盛およびその崩壊、治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭する時代となった。
『院政』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
◎参考『白河上皇』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。諱は貞仁(さだひと)。
後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、曾孫の崇徳天皇の3代43年にわたり院政を敷いた。
略歴
後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一皇子として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に後の関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。
延久4年(1072年)、後三条天皇から譲位され、20歳で即位する。藤原教通、師実を関白に任じつつも、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れた。承保元年(1074年)に頼通と上東門院彰子が、承保2年(1075年)に教通が死去すると、永保元年(1081年)には宇佐神宮境内地に新宝塔院を建立するなど、摂関家の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる師実と信長の対立があった。なお永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)には陸奥国・出羽国で後三年の役が起こっている。
父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが(母・茂子没後に本来は姉聡子内親王に仕える一介の女房に過ぎなかった源基子が父・後三条天皇の寵愛を受けて皇子を生んで女御に取り立てられた経緯が幼かった白河天皇の心を傷つけ、祖母や父・異母弟に対する反発につながったとする見方もある)、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。ただし堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・藤原賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。なお、この年に後拾遺和歌集が一応の完成となり10月奏覧されている。
ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位による皇位継承が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、嘉保3年(1096年)に後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。
それが大きく転換したのは、承徳3年(1099年)の師通の働き盛りな年齢での急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く嘉承2年(1107年)の堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。永久元年(1113年)に発生したとされる永久の変において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。
政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた。武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年、保安元年の政変)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河法皇の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・媞子内親王に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、媞子内親王を堀河天皇の准母とし中宮に立后させた。非配偶の后(尊称皇后)の始めである。また、自分の従兄である藤原公実の遺児である藤原璋子を養女として育て、後に鳥羽天皇の中宮としてその子を崇徳天皇として即位させた。崇徳天皇は系譜的な外祖父は公実であるが、現実の外祖父は故人である公実ではなく璋子の養父の白河法皇であり、法皇も天皇の外祖父として儀式に関与するなどの役割を果たしている。
熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。また、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用し、成功がより一層横行するようになった。
堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。
最晩年の大治元年(1126年)か翌年の頃、自身の命による2つ目の勅撰集たる金葉和歌集が3度目の奏覧によって収められた。大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。
人物
女性関係
不遇な状況にある東宮の王子であったため、治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。延久元年(1069年)に立太子後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が参入し、同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。
中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍・藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。
白河法皇は両性愛者だったと考えられる。奔放な女性関係と併せて男色も大いに好み、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。
天下三不如意
『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。
「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。「双六の賽(さい)」とは、盤双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことである。
法皇がこの三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだということで、やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになった。今日ではこれを、白河法皇の権力はこの三つ以外のものであれば何でも思い通りになると豪語するほど絶大なものだった、という逆説的な意味に取ることが多い。しかし「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された荘園を国司が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。
十訓抄での記述
十訓抄によると、「天下に殺生を禁制せられたりければ、国土に魚島のたぐひ絶えにけり。」とあり、徳川綱吉政権時の生類憐みの令のような法律(殺生禁断令)が発令されたと記述されている。またこれが記述されている説話では、ある僧が禁令を犯し、魚を獲ってしまったことを問いただし、僧が母親に食べさせてやりたかったと答えると、白河天皇は僧の心情に感動し、罪を赦し、多くの物を与えて帰らせたとある。
平安時代末期に起った2つの争乱。保元の乱は,藤原忠通,頼長兄弟の争いが崇徳上皇,後白河天皇兄弟の対立と結びつき,保元1 (1156) 年7月鳥羽法皇の死を機に勃発した戦い。上皇側は敗れ,崇徳上皇は讃岐に配流,頼長は敗死し,天皇側を勝利に導いた源義朝,平清盛らの武士が政界に進出することとなった。また平治の乱は,後白河院政開始後の信西 (藤原通憲 ) の専横に対して不満をもった藤原信頼,源義朝が平治1 (59) 年 12月に起した争い。信西の武力的後援者の平清盛が熊野詣に出かけた留守をねらって挙兵したが,引返した清盛軍に敗れて信頼は討たれ,尾張に逃れた義朝も殺され,平氏の全盛期を迎えた。 (→待賢門の戦い )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『保元・平治の乱』
平氏政権(へいしせいけん、旧字体:平󠄁氏政權)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)における日本の武家政権。創始者平清盛を中心とする伊勢平氏#正盛流(平家)による政権であった。
清盛の館が京都の六波羅にあったことから、六波羅政権(ろくはらせいけん)ともいう。
概説
以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、1970年代・1980年代頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の武家政権とする見解が非常に有力となっている。
平氏政権の成立時期については、仁安2年(1167年)5月宣旨[注釈 1]を画期とする見解と、治承三年の政変(1179年)の時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、源頼朝による諸国の治安維持権を承認した建久2年(1191年)3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承三年の政変の際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は12世紀中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承三年の政変により平氏政権の成立が完了したものと考えられている。
歴史
前史
平氏政権に至る基盤形成は、白河院政期に遡る。平正盛は、桓武平氏貞盛流の伊勢平氏に出自し、その父の正衡までは軍事貴族の中でもそれほど有力な一族ではなかったが、永長2年(1097年)伊賀国の所領を六条院(白河上皇の娘・郁芳門院の御堂)に寄進して鞆田荘を成立させた。正盛は預所となり、周辺の東大寺領も取り込んで立荘するなど、白河の政治権力を後ろ盾に東大寺や国衙の支配を除去して実質的な土地所有に成功した。立荘の背景には、東大寺や国衙の支配と収奪を逃れようとする田堵農民層と、自らの所領の拡大・安定を狙った正盛の間に利害の一致があったと考えられる。正盛は自らに服従した田堵を郎等・家人にして、武士団を形成していった。
一方、白河上皇も権力維持のために、正盛の武力を必要としていた。当時の白河は院領が少なく、直属武力もほとんどなかった。しかも、白河に対抗する勢力として、異母弟・輔仁親王や摂関家を始めとする伝統的貴族が存在し、田堵農民層を神人・寄人に組織して巨大化した寺社勢力の圧力も熾烈だった。これらの諸勢力を抑えて国政の主導権を確保するため、白河は自らの手足である院近臣や親衛隊ともいえる北面武士を、受領・太政官・兵衛府・衛門府などの公的機関に強引に送り込んでいった。
このような情勢の中で北面武士になった正盛は、出雲で源義親の濫行が起こると、嘉承2年(1107年)12月19日、追討使に抜擢される。翌年正月には早くも義親の首を携えて華々しく凱旋し、白河は正盛を但馬守に任じた(ただし、その後も義親生存説が根強く残る)。これを契機に北面武士の規模は急激に膨張し、元永元年(1118年)延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『中右記』)。正盛は主に、北面武士・検非違使・追討使といった国家権力の爪牙として活躍するが、各地の受領も歴任した。当時、国衙は在地領主・田堵農民層との闘争でその支配体制が危機に瀕していたため、武力による補強が求められていた。
正盛の子・忠盛も父の路線を継承して、院政の武力的主柱となった。その役割は鳥羽院政期となっても変化はなく、牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核ともいえる院御厩(いんのみうまや)の預(あずかり)となった。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神埼荘の預所となった忠盛は、大宰府の関与を排除して日宋貿易にも直接介入するようになった。
この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。鎮圧するには強力な武士の棟梁を追討使にする他に手はなく、忠盛に白羽の矢が立てられる。忠盛は海賊追討に成功するが、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。忠盛は他の院近臣受領と同じく院への経済奉仕に励む一方で、荘園の預所・受領・追討使の地位を利用して在地勢力を自らの私兵に編成するなど、武士団の増強も怠らなかった。これは院の権威のみを頼みとする通常の院近臣とは、決定的に異なる点だった。
浴び3年(1153年)忠盛が没したとき、藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」(『宇槐記抄』)と評したが、これは平氏の実力の大きさを物語っている。忠盛の築いた経済的・軍事的基盤は、子の清盛に継承された。
形成期
保元元年(1156年)、治天の君及び摂関の座をめぐる対立が激化し、保元の乱が発生した。この乱で清盛は後白河天皇に味方し、その武功により播磨守となった。その後、政治を主導する信西と後白河院政派(藤原信頼・藤原成親・源師仲)・二条親政派(藤原経宗・藤原惟方)の対立が激しくなり、3年後の平治元年(1159年)に平治の乱が起こった。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。
平治の乱後の永暦元年(1160年)、清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だった。乱後、後白河上皇と二条天皇の対立はしばらくの小康状態を経て再燃するが、武士で最大の実力者となっていた清盛は室の時子が二条の乳母であったことから、天皇の乳父として後見役の地位を得て検非違使別当・中納言となった。その一方で後白河院庁別当として後白河への奉仕も怠らず、両派の争いに巻き込まれないように細心の注意を払った。時子の妹・平滋子(建春門院)が後白河の皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)を出産すると、平時忠・平教盛らはその立太子を画策したことで二条の逆鱗に触れて解官、後白河院政は停止された。ここに至り、清盛は院政派の反発を抑えるため皇居の警護体制を整えるなど、二条支持の姿勢を明確にした。さらに関白近衛基実を娘の盛子の婿に迎え、摂関家にも接近する姿勢をとった。
永万元年(1165年)に二条天皇が崩御した。前後して前関白藤原忠通(1164年 薨去)、太政大臣藤原伊通(1165年薨御)、摂政近衛基実(1166年薨去)など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。清盛は院近臣の昇進の限界とされていた大納言となり女婿の基実を補佐していたが、基実が急死して後白河院政が復活すると「勲労久しく積もりて、社稷を安く全せり。その功、古を振るにも比類少なければ、酬賞無くてやは有るべき」という理由で仁安元年(1166年)に内大臣へ昇進した。大臣に昇進できたのは摂関家(中御門流・花山院流も含む)・村上源氏・閑院流に限られていて、清盛の昇進は未曽有のものだった。なお翌年には太政大臣となるが、太政大臣はすでに実権のない名誉職となっていて、清盛は僅か3ヵ月で辞任している。
この時期の清盛の出世について「当時の貴族社会の中では清盛を白河上皇の落胤とする説が信じられており、このことが清盛の異例の昇進に強く影響した」という説もある。一方、橋本治はこれについて憲仁親王が立太子の式を挙げた場所が摂関家の正邸・東三条殿であったことに注目し、東三条殿の当時の所有者が清盛の娘の盛子であった(基実はこの立太子式の3ヶ月前に薨去)ことが強く影響したという説を立てている。橋本によれば、清盛はこの状況を奇貨として滋子の生んだ皇子の養母を「先の摂政の未亡人」である盛子に引き受けさせ、「東宮の養母の父親」である清盛が内大臣や太政大臣に出世する口実としたとされる。
全盛期
仁安3年(1168年)、六条天皇が退位して憲仁親王が即位した(高倉天皇)。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河の院司として精力的に貢献を重ねてきた。応保2年(1162年)、後白河が日宋貿易の発展を目論んで摂津の大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。
清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。
また、基実が薨去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室・盛子に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ基房は平氏による押領だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。
以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。
この時期、後白河は院政の強化を図っており、清盛の長男・平重盛に軍事警察権を委任し、東海道・東山道・山陽道・南海道の追討を担当させた。また、内裏の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって、院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。
仁安3年(1168年)に清盛は出家した。政界から引退して福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めた。後白河も清盛の姿勢に理解を示し、嘉応元年(1169年)から安元3年(1177年)まで毎年のように福原の山荘へ赴いた。嘉応2年(1170年)後白河は福原山荘にて宋人と対面しているが、これは当時、宇多天皇の遺誡でタブーとなったとされていた行為であり[注釈 2]、九条兼実は「我が朝、延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」(『玉葉』)と驚愕している。同年に藤原秀衡が鎮守府将軍になるが、日宋貿易の輸出品である金の貢納と引き換えに任じられたと推測される。これについても兼実は「夷狄(いてき)」の秀衡を任じたことは「乱世の基」であると非難しているが、これらの施策により日宋貿易は本格化していった。
承安元年(1171年)、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮とした。清盛一族と同様に、建春門院に連なる堂上平氏(高棟流)も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出するに至った。『平家物語』によれば、平時忠は「平家一門でない者は人ではない(この一門にあらざれば人非人たるべし)」と放言したと伝えられている。
動揺期
長らく続いた後白河と清盛の良好な関係は、安元2年(1176年)の建春門院の死によって大きな変化が生じ始めた。後白河の寵愛する建春門院は、後白河と清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は、両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった。
高倉天皇は成人して政治への関与を深めていたが、後白河も院政継続を望んでいたため、高倉を擁する平氏と後白河を擁する院近臣の間には人事を巡って鋭い対立が生じていた。院近臣の藤原定能・藤原光能が蔵人頭になったことに対抗して、平氏側からは重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将になるなど、しばらくは膠着状態が続いた。後白河は福原を訪れて平氏との関係修復を模索するが、ここに突然、新たな要素として延暦寺が登場する。加賀守・藤原師高の目代であり弟である藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師高・師経の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。この強訴では、重盛の兵が神輿を射るという失態を犯したことで延暦寺側に有利に事が運び、師高の配流・師経の禁獄で一旦は決着する。
安元3年(1177年)4月には、大内裏・大極殿・官庁の全てが全焼する大火が発生した(太郎焼亡)。この大火は後白河に非常に大きな衝撃を与えた。このような中で延暦寺への恨みを抱く西光は後白河に、天台座主・明雲が強訴の張本人であり処罰することを訴えた。明雲は突如、座主を解任されて所領まで没収された上、伊豆に配流となった。激怒した延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、ここに延暦寺と院勢力との抗争が再燃することになった。後白河は清盛に延暦寺への攻撃を命じるが、清盛自身は攻撃に消極的であり、むしろ事態を悪化させた後白河や西光に憤りを抱いていた。延暦寺攻撃直前の6月1日、多田行綱が、京都郊外の鹿ヶ谷で成親、西光、俊寛ら院近臣が集まり平氏打倒の謀議をしていたと密告した。清盛は関係者を速やかに斬罪や流罪などに処断した(鹿ケ谷の陰謀)。陰謀が事実であったかは定かでないが、これにより清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができ、後白河は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまった。また、成親と婚姻関係を結び、一貫して盟友関係にあった重盛の平氏政権後継者としての地位は、彼が清盛の現在の正室であった時子の所生ではないこともあって、動揺することになる(重盛は清盛最初の正妻であった高階基章の娘の所生)。
清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し、高倉もまた後白河院政からの独立を志向し、翌治承2年(1178年)、両者は連携して新制17条を発布した。同年には中宮・徳子が高倉の皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を出産、同親王は生後1月で皇太子に立てられた。
治承3年(1179年)重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河は関白基房と共謀し、清盛に無断で重盛の知行国(越前)と盛子の荘園を没収した。特に盛子の所領は高倉が相伝することが決まっていたため、高倉・清盛側と後白河側の対立は悪化の一途をたどった。11月14日清盛は福原から上京すると、基房・師家父子を手始めに、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を解官、後白河も鳥羽殿へ幽閉した。これは事実上、軍事力による朝廷の制圧であり後白河院政は完全に停止された。以後、平氏政権はますます軍事的な色彩を強めていく。この治承三年の政変をもって、武家政権としての平氏政権が初めて成立したとする見解もある。従前の高官に代わって平氏一族や親平氏的貴族が登用され、また知行国の大幅な入れ替えもあって中央・地方の両面において平氏一門を中心とする軍事的な支配体制が強化していった。
同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、平氏の勢力基盤の西国のみならず、東国にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は本家などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、領家や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、荘園においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、武士による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の鎌倉幕府による本格的な武家政権支配と比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの守護・地頭の祖形だと考えられている。
治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王に譲位(安徳天皇)、平氏の傀儡としての高倉院政が開始された。清盛が先のクーデターを起こし得た要因の1つとして、言仁親王の誕生によって清盛自らが治天の君(高倉天皇→高倉上皇)と今上(言仁親王→安徳天皇)を擁立することが可能になったことが挙げられ、この譲位によって平家は単なる軍事的・警察的な側面で朝廷に奉仕する権門から、皇位継承に直接関与できる権力集団へと上昇することができ、名実と共に武家政権として確立されたとする見解もある[3]。
平氏は軍事貴族の枠を超えて政治の実権を掌握したが、後白河の幽閉は多くの反対勢力を生み出し、高倉院政もクーデターで成立した政権であるため平氏の軍事力に支えられている面が大きく、その正統性に疑問があった。さらに新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が発生するなど、平氏政権は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。
衰退・消滅期
清盛は高倉院政の開始に当たって、高倉とともに安芸国厳島への社参を行った。しかしこれは、代替わりに石清水八幡宮・賀茂神社へ社参するという慣例に反するものであり、園城寺・興福寺などは一斉に清盛へ反抗の姿勢を見せ始めた。反清盛の気運が高まる中、治承4年(1180年)4月には以仁王(後白河の第 3皇子)が平氏追討の令旨を発し、源頼政と結んで挙兵した。しかし清盛は迅速に対応し、平氏軍は以仁王と頼政をすぐに敗死へ追い込んだ。しかし叛乱に興福寺や園城寺などの有力寺院が与したことから、清盛は平氏にとって地勢的に不利な京都からの遷都を目指して福原行幸を決行した。
ところが高倉上皇が平安京を放棄しない意向を示すなど、この遷都計画は貴族らに極めて不評であり、朝廷内部に清盛への反感が募っていった。さらに、以仁王の令旨を受けて、東国の源頼朝、木曾義仲、武田信義らが相次いで反平氏の兵を挙げ、さらに多田源氏、美濃源氏、近江源氏、河内国の石川源氏、九州の菊池氏、紀伊熊野の湛増、土佐国の源希義らも反平氏の行動を始めていた。こうした反平氏の動きの背景には、平氏が現地勢力を軽視して自らの家人や係累を優先して平氏知行国や平氏所領の支配に当たらせていたことへの反発があった。特にクーデターで国司が交代した上総・相模では、源頼朝の下に武士たちが瞬く間に集結して一大勢力を形成しており、清盛は孫の維盛に追討軍を率いさせたが、富士川の戦いであえなく敗走してしまった(そもそも頼朝の挙兵自体が、以仁王の乱後の処分に関係した伊豆における国司の交代による混乱に乗じたものであった)。
福原への行幸以降、貴族の不満も高まり、高倉上皇の健康が悪化していくなか、重盛に代わって嫡子となった宗盛が公然と還都を唱えて父との激論を引き起こし、親平氏派の延暦寺(彼らは園城寺や興福寺と敵対関係にあったが、遷都には不満を抱いていた)などからの要望を契機として、福原行幸から半年後の11月、清盛は福原から京へ戻った。翌12月、園城寺・興福寺などが反平氏の挙兵を行ったため、清盛は断固とした態度で臨み、知盛率いる軍は園城寺を焼き払い近江源氏を撃破、重衡率いる軍も南都(奈良)の諸寺を焼き払って荘園を没収した(南都焼討)。これにより畿内周辺の叛乱はひとまず沈静化した。
治承5年(1181年)1月、高倉上皇が崩御し、後白河院政が再開されたが、畿内に臨時の軍政を布くべしという高倉の遺志に基づいて、清盛は嫡子の宗盛を畿内周辺を直接管領する惣官に任じた。この惣官職は、畿内近国を軍事的に直轄支配することを目的に設置されたもので、平氏政権の武家政権としての性格を如実に表しており、平氏政権が本格的な武家政権へ成長していく可能性をここに見出しうると、学界では考えられている。清盛はこれにより京の富裕層から兵粮を徴収すると同時に、伊勢周辺の水軍に動員をかけて、反平氏勢力の追討に意欲を燃やしていたが、同年閏2月に熱病で急死し、平氏政権は大きな打撃を受けた。
清盛の死後、跡を継いだ宗盛は後白河との融和路線を採り、各地の叛乱も平氏の反撃と養和の大飢饉で小康状態となった。しかし、寿永2年(1183年)7月に木曾義仲の軍が北陸から一気に京へ進軍すると、義仲軍に主力を壊滅させられていた平氏は、ついに安徳天皇を伴って京を脱出し大宰府に下向するが、豊後の武士・緒方惟栄に撃退され屋島にたどり着いた。この時点で平氏政権は、貴族社会に形成してきた基盤を捨て、西国の地方政権へと転落した。後白河は平氏と行動を共にせず、京に残って孫の後鳥羽天皇を即位させたが、これにより天皇が2人存在するという未曽有の事態となった。
平氏は、西国の勢力を再編成して軍の再建を進め、瀬戸内沿岸で義仲軍を徐々に押しやり、寿永3年(1184年)1月に義仲が鎌倉軍(源範頼・源義経軍)に滅ぼされる頃には福原を回復するまでに至っていた。平氏は、後白河の仲介による京への復帰を目指していたが、後白河にすれば平氏が政権に復帰することになれば再び院政停止・幽閉となる危険性があり、和平はありえなかった。平氏は半ば騙し討ちを受けた形で一ノ谷の戦いに敗北し、西下していった。
その後、平氏は西国の諸勢力を組織して戦争に当たっていたが、元暦2年(1185年)3月、関門海峡での最終決戦(壇ノ浦の戦い)で義経軍に敗れて滅亡し、平氏政権は名実ともに消滅した。
意義と評価
平氏政権は、今日では日本史上初の武家政権と考えられている。
『平家物語』や『愚管抄』など同時代の文献は、平氏滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇が自己の政権維持のために平氏を利用して、高い官職を与え知行国を増やさせてきたという経緯や当時の社会問題に対する貴族社会の対応能力の無さという点には触れず、清盛と平氏一門がいかに専横を振るい、「驕れる者」であったかを強調している[注釈 3]。そのため、以後の歴史書もこの歴史観に引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。
こうした背景を受けて以前の学界では、平氏政権が貴族社会の中で形成されたことに着目して、武家政権というよりも貴族政権として認識されていた。貴族社会の官職に依存していること、院政と連携して政策推進を行っていたこと、などがその理由である。そのため、平氏政権は、武士に出自しながら旧来の支配勢力と同質化してしまったと批判されたのに対し、在地領主層 = 武士階級から構成される鎌倉幕府は、旧来の支配階級を打倒した画期的・革新的な存在だとして、階級闘争史観などにより高く評価されていた。こうした歴史像に基づく記述が、21世紀初頭まで一部の辞書などに残存していた。
しかし、1970年代 - 1980年代頃から、史料に基づく実証的な研究が進んでいくと、平氏政権も鎌倉幕府に先立って武家政権的な性格を呈していたことが判明するようになった[4]。史料によれば、平氏政権は支配地域の勢力を武士として系列化し、知行国・荘園に国守護人・地頭などといった従来あまり見られなかった職を置いて、半軍事的な支配を進めた。関係史料が少ないため、平氏政権における国守護人・地頭の設置とそれに伴う支配の深化がどれほど進んでいたかは、必ずしも明らかとなっていないが、学界では、これら国守護人・地頭は、後の鎌倉幕府における守護・地頭の先駆的な存在だと考えるようになっている。また治承5年(1181年)に設置した畿内惣官職や諸道鎮撫使は、これもその職能の詳細は不明な点もあるが、数か国にわたる広い領域を軍事的に直轄支配するものと見られており、特に畿内惣官職は征夷大将軍と同様の性格を見出しうるとする見解もある。このように、平氏政権は従来の貴族政権と異なり、武力に大きな基盤を有していたことが明らかとなり、学界では日本最初の武家政権とするのが通説となっている。そのため、元暦2年(1185年)滅亡することがなければ、平清盛の政権は鎌倉幕府とはまた違った、西国を中心とした独自の武家政権へ成長したのではないかとの可能性も指摘されている。
また、武士の起源を在地領主層に求める従来の歴史学会の見解も、1970年代以降の研究では軍事貴族層を武士の起源とする新たな見方が生まれている。そういった見解からは、平氏は元より貴族であり、旧来の支配勢力と同質化した訳ではなく、旧来の支配層の中から軍事貴族たる平氏が台頭したと言えるのである。
また、日宋貿易に支えられた平氏政権を10世紀朝鮮半島の張保皐・弓裔・甄萱・王建らと比較し、唐王朝の滅亡と私貿易の拡大によってもたらされた政治・社会の変動が、旧来の出入国・貿易統制(公式の使者以外の往来を禁止・制限する「渡海制」)がある程度維持された日本では、地理的条件と商工業の遅れもあって2世紀以上遅れて到達し、平氏政権の成立をもたらしたとする見方もある。
平氏政権は清盛という一個人に大きく依存しており、清盛の死から数年のうちに瓦解に至った。また、前述したように、後白河との良好な関係に依存するところも大きかった。院政期は律令制に代わり、院を頂点とした主従制的関係が形成され、官職や土地を恩給として臣下に与えて奉仕させるようになり、知行国・荘園制度が確立していった時期だった。保元の乱で摂関家が事実上壊滅し、平治の乱で源義朝などの有力武士が淘汰されると、平氏の勢力は他より突出することになった。
治承三年の政変により平氏政権は完成されたかに見えたが、それは平氏と反対勢力の全面衝突をもたらした。平氏の軍制の欠陥は、直属部隊が伊勢・伊賀の重代相伝の家人や「私郎従」と呼ばれる諸国の特定武士だけで、兵の大部分を公権力の発動によって動員する形態を採っていたことにある。都落ちして平氏追討宣旨が下された時点で、平氏に従う兵は僅かになっていた。安徳天皇を擁していてもその即位はクーデターによるものであり、平氏が自己の立場を正当化することは困難だった。更に清盛が出家・隠退の後、後継者である重盛の下に一部の重代相伝の家人が集まるようになり、重盛も平氏政権の基盤強化のために源氏の影響力が強い東国武士の郎従化に努めていたが、鹿ケ谷の陰謀後の重盛の没落と急死、それに伴う宗盛への嫡流の交替はこうした重盛傘下の兵力を平氏の軍制の中枢から排除することとなり、弱体化した軍制の再構築を終えないうちに源頼朝の挙兵を迎える結果となった
『平氏政権』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9
2024
参考:『平清盛の生涯』(平清盛の京を歩く) https://ja.kyoto.travel/kiyomori/nenpyou/index.html
1118年(元永元年) 1歳 平忠盛の嫡子(長男)として生まれる。
1153年(仁平3年) 36歳 父・忠盛死去し、平氏の棟梁を継ぐ。
1156年(保元元年) 39歳 保元の乱 勃発
後白河天皇側につき源義朝とともに源為義、平忠正らを討つ。勲功賞で播磨守を任じられる。
1159年(平治元年) 42歳 平治の乱 勃発
源義朝と戦い勝利。武士の王となる。信西、藤原信頼も敵方。
1160年(永暦元年) 43歳 後白河上皇に命じられ、新熊野神社を造営。
1161年(応保元年) 44歳 後白河上皇に嫁いだ妻の妹・滋子が、皇子(高倉天皇)を生む。
1167年(仁安2年) 50歳 太政大臣を任じられるが、3か月で辞任。
1168年(仁安3年) 51歳 厳島神社を大規模に造営する。この時までに平家納経。
1170年(嘉応2年) 53歳 後白河法皇を福原に迎え、中国・宋の特使と面会する。日宋貿易
1172年(承安元年) 55歳 娘徳子が高倉天皇のもとに入内。
1173年(承安3年) 56歳 大輪田泊に人工島・経が島竣工。
1177年(治承元年) 60歳 鹿ヶ谷の陰謀 発覚
平家に対立する院近臣を一掃し、後白河法皇との対立が深刻化。
1179年(治承3年) 62歳 清盛、後白河法皇を幽閉、院政を停止する。
1180年(治承4年) 63歳 京都から福原への遷都を断行するが、6か月で還都する。
源頼朝が伊豆で挙兵。富士川の戦いで平家軍敗走。
1181年(治承5年) 64歳 熱病に倒れ死去。
誤答の選択肢の赤間神宮は、安徳天皇の陵(宮内庁管理)がある場所。
平家の隆盛
参考:『歴史探偵 海の革命児 平清盛』NHKオンデマンド 2025年9月11日まで https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024140737SA000/ 伊勢の国で採れる辰砂。不老不死の薬の原料。宋への輸出。博多の商人。瀬戸内海を抑える必要。沿岸部の国司を歴任し、海岸輸送のルートを整備。宋からの貴重な輸入品。白磁。貴族や上皇に献上。異例の出世。厳島神社は貴族としての地位を誇示するために寝殿造りかつ巨大。海を池に見立てた。都の有力な貴族を呼んで参拝させる。千僧供養。平家納経。軍事貴族。瀬戸内海の海賊の取り締まり。合わせ弓(竹と木材)(初速度と飛距離がはるかに優れている。遠矢)。京都で作られ、海賊には入手困難。平治の乱(対源義朝)でも力を発揮。源氏は流鏑馬でスピードのある接近戦にたけていたが、清盛は源氏を本拠地六波羅に誘い込み、バリケード(逆茂木・置盾・櫓)で海と同じ状況を作り、遠矢を矢の雨のように放って源氏を抑えた。清盛は目競のスキル。目力。政治力、軍事力、組織力で太政大臣まで上り詰める。権力を握ったまま出家。神戸に居を移す。海のビッグプロジェクト。古代の大輪田泊を拡張して宗船を来航させて国際貿易をもくろむ。宋銭を輸入して貨幣経済を導入してその大元を平家に握らせようとした。経の島(経ヶ島)。堤防のような人口島を作り、回折現象を起こして波を安定させ、中国船を入国できるようにし、宋銭は全国に流通させた。大輪田の泊付近の福原京に遷都。国際的に解放された王朝。海洋国家を実現しようとした。
参考:『平清盛盛衰年表(平清盛の生涯)』【製作】京都市産業観光局観光MICE推進室
https://ja.kyoto.travel/kiyomori/nenpyou/index.html
参考:『平清盛』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
平 清盛(たいら の きよもり、旧字体:平󠄁 淸盛󠄁)は、平安時代末期の日本の武将、公卿、貴族、棟梁。
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。
厳島神社の祭神は、宗像三女神
壇ノ浦の戦い2022年出題
【鹿ケ谷の陰謀】
平安末期の1177年,京都郊外の鹿ケ谷でなされた平氏打倒の謀議事件
鹿ケ谷事件ともいう。後白河法皇の近臣の藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となったが,密告により発覚し,西光は死罪,成親は備前国に配流後殺害され,ほかは薩摩国鬼界ケ島に流された。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 『鹿ケ谷の陰謀』コトバンク
【源平の争乱】
平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする板東平氏も多分に含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことが反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている。
後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に起こり、反乱勢力同士の対立がありつつも、最終的には平氏政権は打倒された。源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される武士集団が平氏政権勢力打倒の中心的役割をつとめ、新たな武力政権である関東政権(鎌倉幕府)の樹立に至った。
一般的には
「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)「源平争乱(げんぺいそうらん)」「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。
また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。
[鹿ケ谷の陰謀] 上記参照
[治承三年の政変] 治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。
[以仁王の挙兵] 治承4年(1180年)、安徳天皇の即位により皇位継承が絶望となった以仁王が、源頼政の協力を受け、平家追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発した。その令旨は源行家により、全国各地の源氏や八条院の支配下にある武士達に伝えられた。しかし挙兵直前に紀伊熊野の平家方(権別当湛増を中心とした本宮勢力)と反平家方(行快を中心とした新宮・那智勢力)との熊野新宮合戦があり、その後、権別当湛増からの平氏への注進により平家追討の企てが発覚した。以仁王らは、平知盛・平重衡率いる平家の大軍の攻撃を受け、同年5月、宇治の平等院で戦死するが、この挙兵が6年間に及ぶ内乱の契機となった。
[東国における挙兵] 以仁王敗死の頃、令旨が各地の武士に配られていた。源頼朝はそのうちの1人で、相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めた。頼朝は8月17日に挙兵、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃して殺害する。その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが頼朝軍は惨敗し追い詰められた(石橋山の戦い)。その直後に平氏方は甲斐国境付近で甲斐源氏の安田義定らと軍事衝突する(波志田山合戦)。 同時期に甲斐の武田信義を棟梁とする甲斐源氏の一族や、信濃の木曾義仲も相次いで挙兵している。
[富士川の戦い] 平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。 大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった 。これにより駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に入った。
その後鎌倉に帰還した頼朝は侍所を新設し、和田義盛を別当、後に梶原景時を所司に任じる。
[清盛の死・高倉天皇の崩御] 院政をとっていた高倉上皇が崩御したため、平氏は停止していた後白河院政の復活を余儀なくされる。さらに閏2月に、清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失った。
[木曽義仲の上洛] 寿永2年(1183年)4月、平氏は北陸の反乱勢力を討つために、平維盛・平通盛率いる大軍を派遣する。平氏軍は越前・加賀の反乱勢力を撃破するが、5月に加賀・越中国境の倶利伽羅峠で義仲軍に敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。
7月には義仲軍は延暦寺まで到達した。多田行綱は摂津・河内を占拠して平氏の補給路を遮断、遠江の安田義定も東海道を進撃して京都に迫った。京都の防衛を断念した平宗盛は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。この時、後白河法皇は比叡山に脱出して都落ちに同行しなかったため、安徳天皇奉じる平氏の正統性は弱まることになった。義仲軍は上洛を果たすが、期待された都の治安維持はうまく機能せず、しかも前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して、市中で略奪や狼藉が横行する。
[寿永二年十月宣旨] 義仲が出陣して不在の間に後白河法皇は頼朝に使者を送った。頼朝は法皇から上洛を催促されたが、鎌倉に留まって逆に法皇へ東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように、国司・本所へ返還させる内容の宣旨発布を要請する。その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、ほぼ上記の内容を認める寿永二年十月宣旨を頼朝へ発して東海道・東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)が頼朝に認められた。また平治の乱以降流刑者という身分であった頼朝は、以前帯びていた従五位下の位階に復して流刑者の身分から脱する。頼朝は、既に実質的に東国を支配していたが、この宣旨発給は、頼朝が東国支配権を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。また、今まで反乱軍とみなされていた頼朝とその支持者たちの軍勢は反乱者とはみなされなくなった。
[義仲の滅亡] 義仲は、11月19日、法住寺殿を襲撃して後白河法皇を幽閉し、松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立する(法住寺合戦)。義仲は法皇に迫って源頼朝追討の院庁下文を発給させ、翌寿永3年(1184年)正月には征東大将軍となり、形式的には官軍の体裁を整えた。
このような情勢下、頼朝は弟の源範頼を新たに援軍として派遣し、正月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多と田原から総攻撃を開始する。義経軍は義仲軍と交戦して宇治の防衛線を突破し(宇治川の戦い)、そのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。
[一ノ谷の戦い] 義仲滅亡に至るまでの間に平氏は勢力を立て直し、寿永3年(1184年)正月には摂津福原まで戻っていた。その頃、都では後鳥羽天皇の即位を控え、三種の神器不在を憂慮されるようになっていた。三種の神器は安徳天皇の元にあり、三種の神器を後鳥羽天皇側に迎え入れる為に平氏と和平するか、交戦して実力で奪取するか朝廷内の意見は割れたが、武力攻撃による三種の神器奪還へと意見が固まる。やがて京都に駐留していた範頼・義経軍は、福原に陣を構える平氏を攻撃することになった。範頼・義経軍は二手に分かれて平氏を急襲し、海上へと敗走させた(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。
[屋島の戦い] 一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。8月、西国へ向かった範頼軍は当初は順調に山陽道を制圧したが、やがて長く延びた戦線を平氏の水軍によって分断された。また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥り進軍は停滞した。この状況をみた義経は元暦2年(1185年)正月、後白河法皇に西国への出陣を奏上してその許可を得る。同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて背後から屋島を急襲し、平氏を追い落とした。
[壇ノ浦の戦い] 屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と義経軍に加わり、時を同じくして範頼軍が九州を制圧したことで、平氏は完全に包囲される形となった。
元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。
[日本最初の全国的な内乱] 日本において、この乱以前にも大規模な内乱は発生しているが、それらの反乱は大規模であっても辺境地域に留まる性格のものか中央地域(畿内周辺)における短期間の内乱に限定されていた。だが、この乱は中立的な立場を取った奥州藤原氏が支配する東北地方以外の当時の日本の国土のほぼ全域を巻き込んでおり、かつ5年近くにわたって続くものとなった。ところが、当時の朝廷の軍制はあくまでも京都およびその周辺の短期間の騒擾(僧兵や盗賊など)や海賊対策には十分であったものの、こうした大規模な内乱に対応できる体制にはなっていなかった。平氏政権にしてもその成立のきっかけとなった保元・平治の乱において重代相伝の家人などからなる少数の直属部隊で勝利を収め、政権掌握後は必要に応じて公権力の発動を行うことによって諸国の兵士を動員することで補う形態を採っていた。ところが、この乱において当初小規模勢力でかつ「反乱軍」の扱いを受けていた源頼朝勢力は、関東地方の支配権確保とその後の平氏政権打倒という長期的・領域的な目標を達成するため、傘下の武士に対して独自の本領安堵や占領した土地の給付などを実施し、これを梃子にして長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した。これに対して平氏政権側は朝廷内の旧勢力(王家、貴族、寺社)との兼ね合いからこうした大胆な措置を採ることが困難であり、それが平氏政権側の苦戦につながったと考えられている
参考:『西行』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 建久元年2月16日〈1190年3月30日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。
和歌は約2,300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。
生涯
ウィキソースに西行一生涯草紙の原文があります。
誕生は元永元年(1118年)。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女である。
父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称す。祖父の佐藤季清も父の康清も衛府に仕え、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市、旧那賀郡打田町竹房)を知行地としていた。母系についてはよくわかっていないが、源清経については考証があり文武に秀でた人物だったとされている。
祖父の代から徳大寺家に仕えており、『古今著聞集』の記述から自らも15〜16歳頃には徳大寺実能に出仕していた。『長秋記』によると保延元年(1135年)に左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽院に下北面武士としても奉仕していた(同時期の北面武士に平清盛がいる)。この頃、徳大寺公重の菊の会に招かれ、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、既に歌人としての評価を得ていたとされる。
保延6年(1140年)10月、出家して西行法師と号した(『百錬抄』第六)。出家後は東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んだ。30歳頃に陸奥に最初の長旅に出る。その後、久安5年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入った。
仁安3年(1168年)には崇徳院の白峯陵を訪ねるため四国へ旅した(仁安2年とする説もある)。これは江戸時代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。また、この旅は弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたとされる。
高野山に戻り、治承4年(1180年)頃に伊勢国に移った。文治2年(1186年)、東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥行きを行い藤原秀衡と面会。この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。
伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川[gm 1])にある弘川寺(龍池山瑠璃光院弘川寺)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した[3]。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。
生誕の地
西行の生誕地は佐藤氏の支配した紀伊国田仲荘(紀の川市)であるとする説と、佐藤氏の生活の基盤は京都にあり京都が生誕地であるという説がある。
出家の動機
友人の急死説
『西行物語絵巻』(作者不明、2巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。
失恋説
『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎの歌」を詠みかけられて失恋したとある。この恋の相手の女性は待賢門院璋子であるという。
近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて1度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
瀬戸内寂聴は自著『白道』(1995年)の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。
五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬している。
妻子・兄弟
妻子の存在については否定説と肯定説がある。『尊卑分脈』では「権律師隆聖」という男子があるとする。また『西行物語絵巻』では女子があるとする。『発心集』には九条民部卿(藤原顕頼)の娘・冷泉殿が西行の娘の母に「ゆかり(血縁関係か)」があったと記されており、『撰集抄』では冷泉殿は「(西行の娘の)ははかたのをば」とされ、『撰集抄』が事実であるとするならば西行は藤原顕頼の娘を娶っていたことになる。
さらに『尊卑分脈』には兄弟に仲清がみえるが西行の兄とする説と弟とする説がある。
『地下家伝』では山形左衛門尉を称した俊宗という子がいたとされており、子孫は日野家に仕えた山形氏である。
評価
西行法師(菊池容斎画/江戸時代)
「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(『小倉百人一首』86番、『千載和歌集』恋・936)
『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであった。
和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。
しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これは明らかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。
後世に与えた影響は極めて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇、芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇、芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」と刻まれた口碑が残っているのはこのためである。
逸話
和歌山県紀の川市の西行法師像
出家
出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。この出家に際して以下の句を詠んだ。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
崇徳院
ある時(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ(山家集)。
「最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」
意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。
対して西行は次の返歌を詠んだ。
「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」
意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。
旅路において
西行戻し
各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。
松島「西行戻しの松」
秩父「西行戻り橋」
日光「西行戻り石」
甲駿街道「西行峠」
鴫立沢
奥州下りの折、神奈川県中郡大磯町の旧宿場町(江戸時代における相模国淘綾郡大磯宿、幕藩体制下の相州小田原藩知行大磯宿)の西端(江戸時代における淘綾郡西小磯村付近、幕藩体制下の寺社領相州西小磯村付近、鎌倉時代における相摸国餘綾郡内)の海岸段丘を流下する渓流にて、下記を詠んだと伝えられる。
《原歌》 ※字は旧字体。振り仮名は歴史的仮名遣。振り仮名とスペースは現代の補足。
心なき 身にもあはれは しられけり 鴫しぎ立たつ澤さはの 秋の夕ゆふぐれ
「鴫立沢(しぎたつさわ、旧字体表記:鴫立澤、古訓:しぎたつさは)」は「鴫の飛び立つ沢」を意味するだけの、ありふれた地名であったろうが、いつしかこの地は西行の歌にちなんでその名で呼ばれるようになったと思われる。時を下り、伝承にあやかって江戸時代初期の寛永年間(1624-1645年間)に結ばれた「鴫立庵」が今も残る。
伊勢神宮で詠んだとされる歌
伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる歌は、日本人の宗教観を表す一例に挙げられる。古来、西行の歌か否か真偽のほどが問われていた歌であるが、延宝2年(1674年)板本系統の『西行上人集』に収録されている。
何事なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに 淚なみだこぼるる ──『西行上人集』
源頼朝との出会い
頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけたといわれている。
頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。
晩年の歌
以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ ──『山家集』
ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 ──『続古今和歌集』
花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。その欲望の意味するところは、下の句の、如月(きさらぎ)の満月(望月)の頃つまり涅槃の頃に朽ち果てたいということである。(あくまで日本仏教の文脈における後世の解釈)
伝説
『撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。“鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは〜”。
<要約>(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く、声もか細く魂も入っていないものが出来てしまい、高野山の奥に捨ててしまったという記述がある。伏見前中納言師仲に会い作り方を教わるものの、つまらなく思い、その後、人を作ることはなかった[12]。
西行の子・隆聖の子孫・佐藤正岑の子が長束正家であるという伝説がある。
ゆかりある人々
西行の娘
西住 - 西行自身が「同行に侍りける上人」と呼んだ僧侶。
木下勝俊(木下長嘯子) - 最晩年、西行出家の寺の近くの寺に居を構えた。
似雲 - 江戸時代の僧。西行を尊崇し、「今西行」と呼ばれた。
刊行著作
『山家集 新潮日本古典集成』 後藤重郎校注、新潮社、新装版2015年
『新訂 山家集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫、ワイド版も刊
『山家集』 風巻景次郎校注 日本古典文学大系29:岩波書店
『山家集』 伊藤嘉夫校註 日本古典全集・第一書房 1987年
『西行法師全歌集』 伊藤嘉夫編・第一書房 1987年
『西行全集』 久保田淳編 日本古典文学会、貴重本刊行会、1990年
『新訂増補 西行全集』 尾山篤二郎編著、五月書房、1978年
『西行全集』全2巻、伊藤嘉夫・久曾神昇編、ひたく書房、1981年
『西行 コレクション日本歌人選』橋本美香編、笠間書院、2012年
『西行全歌集』久保田淳・吉野朋美校注、岩波文庫、2013年
『山家集』宇津木言行校注、角川ソフィア文庫、2018年
関連文献
『西行物語』 桑原博史訳注、講談社学術文庫 1981年
『西行物語絵巻 日本の絵巻19』 小松茂美編、中央公論社
『新訳 西行物語』 宮下隆二訳 選書版:PHP研究所 2008年
『絵巻=西行物語絵』 千野香織編 〈日本の美術416号〉 至文堂 2000年
『毎日グラフ別冊 古典を歩く5 西行物語』毎日新聞社 1989年
『西行の時代』堀江朋子著 論創社 2021年
『西行』人物叢書 目崎徳衛著 吉川弘文館 1980年。新装版[3]1989年 ISBN 9784642051781
『西行の思想史的研究』目崎徳衛著 吉川弘文館 1978年 ISBN 9784642020879、オンデマンド版[4] 2017年 ISBN 9784642720878
西行庵(善通寺)
西行庵と呼ばれる西行が結んだとされる庵跡は複数ある。京都の「皆如庵」は明治26年(1893年)に、当時の庵主・宮田小文と富岡鉄斎によって再建されて、現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山の奥千本にある「西行庵」が有名であり、善通寺市には「水茎の岡 西行庵」がある。
西行を題材にした作品
能
江口
西行桜
西行西住
落語
西行
西行鼓ヶ滝
長唄
時雨西行
義太夫節
軍兵富士見西行
文学作品
上田秋成『雨月物語』「白峯」
幸田露伴「二日物語」(全集第5巻)
白洲正子『西行』ISBN 4101379025
瀬戸内寂聴『白道』ISBN 4062638819
辻邦生『西行花伝』ISBN 4101068100
火坂雅志『花月秘拳行』ISBN 4043919050
中津文彦『闇の弁慶―花の下にて春死なむ』 ISBN 978-4396630164
夢枕獏『宿神』(全4巻)ISBN 978-4022510020, ISBN 978-4022510037, ISBN 978-4022510235, ISBN 978-4022510242
三田誠広『西行月に恋する』『阿修羅の西行』
テレビドラマ
平清盛 - NHK大河ドラマ。主人公・平清盛と出家前の西行(演:藤木直人)が親友だったという設定。本作においては、西行の出家の原因を、待賢門院璋子との愛憎劇によるものとしている。
ゲーム
東方妖々夢 〜 Perfect Cherry Blossom.- 上海アリス幻樂団。六面ボスの西行寺幽々子は西行の娘をモデルにしている。一部演出に西行の歌を利用。
その他
西行が諸国を旅したことから、後年、各地を遍歴する大工などの職人のことを「西行」と呼んだ。
[生]保安2(1121)
[没]建永1(1206).6.4.
鎌倉時代初期の浄土宗の僧。字は俊乗坊。号は南無阿弥陀仏。紀季重の子で,俗名は刑部左衛門尉重定。出家し醍醐寺で密教を学んだが,のち源空 (法然) から浄土宗を学んで念仏の弘通に畿内を遊行。仁安2 (1167) ~安元2 (1176) 年に3回宋に留学した。入宋中,浄土教の知識を得るほか,阿育王山の舎利殿を建てた建築法を体得したといわれる。近来,重源の入宋を疑う説もある。治承4 (1180) 年東大寺が兵火に焼かれると,東大寺再建のため造東大寺大勧進職となり,諸国を回って勧進に努めた。周防国が東大寺造営料国になると,同国司となった。慈善救済にも事績が多く,魚住の泊 (とまり) の改修,清水寺橋,勢多橋,渡辺橋などの架橋がある。著書に『南無阿弥陀仏作善集』がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
〇浄土宗【公式サイト】 https://jodo.or.jp/
〇参考:『浄土宗』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97
浄土宗(じょうどしゅう)は、大乗仏教の宗派であり鎌倉仏教のひとつである。浄土教に基づく日本の仏教の宗旨で、法然を宗祖とする。
本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。
白旗派を中心とし知恩院を総本山とする現在の浄土宗の他、浄土宗西山派 (西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派)もあり、法然の高弟親鸞が開いた浄土真宗も同一系統の宗派である。
概要
承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水の吉水草庵に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。
その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故
(意訳)一心に専ら弥陀の名を称え、いつでも何処でも時間の短い長いに関係なく、常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意味。
それを称名念仏といい、阿弥陀佛の選択によって選び取られた本願の行と解される。
浄土宗における念仏は「南無阿弥陀仏」を示すこの善導の文言から始まったと言っても過言ではない。
法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。
日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。
歴史
草創期
法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空、弁長、幸西、長西、隆寛、親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、安貞2年(1228年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち四流とは、信空の没後、京都の浄土宗主流となった三鈷寺証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた善導寺弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた長楽寺隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた九品寺長西の九品寺義の4流を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団は、後に浄土真宗としてまた別の流れを作っていくのでこの4流には含まれていない。
他にも比叡山黒谷別所(現・青龍寺)と白川本坊(現・金戒光明寺)の信空教団と白川門徒、嵯峨二尊院の湛空と嵯峨門徒、知恩院を再興した賀茂功徳院神宮堂(現・百万遍知恩寺)の源智と紫野門徒、一念義を唱える幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立していく。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と現在の浄土宗である鎮西義の2つである。浄土宗西山派とも呼ばれる西山義は、証空の死後にその弟子たちにより、証安の西山義、証入の東山義、証慧の嵯峨義、浄音の西谷義、遊観の本山義、立信の深草義、聖達の弟子一遍の時宗などが分立した。
関東においては鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、西山義は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西義を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし、関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。良忠は上洛すると源智の弟子である紫野門徒知恩寺代3世信慧と「赤築地の談」を行い、鎮西義と紫野門徒の統合を行った。
分裂の時代
鎮西義は良忠の死後にその弟子たちが、鎌倉悟真寺良暁の白旗派(現・浄土宗)・鎌倉善導寺尊観の名越派・性心の藤田派(これらを関東三派という)・然空の弟子、清浄華院向阿証賢の一条派・道光の三条派・良空の木幡派(これらを京都三派という)、さらに蓮華寺一向俊聖の一向派などに分かれ、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になった。
その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西義の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとし、やがて白旗派が鎮西義を統一していくこととなる。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。
また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して分派し、天文17年(1548年)には知恩院にある法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。
近世の浄土宗
応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院28世の尊照と増上寺12世の存応は、家康の崇敬を受けた。そしてこの二人によって元和元年(1615年)7月に寺院諸法度の一環として出された「浄土宗法度」が制定され、幕府の命によって発布された。そこには知恩院が宮門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」(宗務所)が設置された。これにより白旗派が主導する鎮西義は幕府の手厚い保護を受けることになる。
また、このとき西山義に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されており、浄土宗とは違う対応がなされた。
享保10年(1725年)には全国に浄土宗の寺が14万あり、仏教諸宗派の中で最多であった。
明治時代以後
江戸幕府が倒れ明治時代に入ると廃仏毀釈の混乱のなかから養鸕徹定・福田行誡らによって近代化が図られ、徳川家の菩提寺(伝通院・増上寺・大樹寺等)を開山し外護を受けた白旗派が、名越派などを統合する形で鎮西義を統一し現在の浄土宗が成立する。
( 1876年(明治9年)- 証空による西山義が連合して浄土宗西山派を結成。)
1943年(昭和18年) - 浄土宗に時宗十二派のうちの本山を蓮華寺とする一向派と本山を佛向寺とする天童派が合流する。
1945年(昭和20年)12月28日 - 宗教法人令が施行。
1946年(昭和21年)
「宗教法人浄土宗」が宗教法人令に基づき設立。
宗教法人浄土宗から、金戒光明寺を本山とする黒谷浄土宗が分派する。
1947年(昭和22年)
12月8日 - 宗教法人浄土宗から、知恩院を本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)が分派し、「宗教法人 本派浄土宗」が宗教法人令に基づき設立[3]。
1950年(昭和25年) - 浄土宗から一心院を本山とする浄土宗捨世派が分派する。
1951年(昭和26年)4月3日 - 宗教法人法が施行。
1952年(昭和27年)
4月7日 - 「宗教法人浄土宗本派」(本派浄土宗を改めた)が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。
7月25日 - 「宗教法人浄土宗」が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。
1961年(昭和36年)1月 - 法然上人750年忌を機に、浄土宗本派が浄土宗に合流する。
1962年(昭和37年)3月27日 - 宗教法人浄土宗と宗教法人浄土宗本派の合併が認証され、新しい「宗教法人浄土宗」が設立。
1977年(昭和52年) - 黒谷浄土宗が浄土宗に合流する。
2011年(平成23年)11月17日 - 念佛寺(三重県伊賀市)住職の豊岡鐐尓が、「宗教法人浄土宗」の宗務総長に就任。
2019年(令和元年)11月19日 - 當麻寺奥院(奈良県葛城市)住職の川中光教が、「宗教法人 浄土宗」の宗務総長に就任[5]。
西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。
宗教法人浄土宗
認証:1962年(昭和37年)3月27日[3]
登記:1962年(昭和37年)4月7日[3]
所在地:京都府京都市東山区新橋通大和大路東入 3丁目林下町 400番地 8号[3]
代表役員:川中光教[5]
東大寺再建の際に重源が採用した大仏様(宋スタイル)については、当サイトの寺・仏像の項へ。
日本で唯一完全に大仏様が保存されている浄土寺(小野市)については、当サイトの近畿・三重(地方別観光)の項へ。
◎『鳥獣人物戯画』栂尾山高山寺 https://kosanji.com/chojujinbutsugiga/
◎『鳥獣人物戯画』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%8D%A3%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%88%AF%E7%94%BB#
鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は、京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。元来、表面裏面に書かれていたものが裏打ちで剥ぎ取られ現在に伝わる状態になっていることが近年の修復で判明している。
一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。
成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。
作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)が擬されてきたが、それを示す資料はなく、前述の通り各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうかは疑わしい。
現在は部分的に欠落した絵巻の一画面を掛け軸にした「断簡」や、原本で失われた画面を写し留めている「模本」が東京国立博物館、京都国立博物館、ホノルル美術館等に寄託保管されている。
各巻の内容および断簡・模本
鳥獣人物戯画は製作されてから800年程度と長い年月を経過し、また多数の作品を集めた性格から、描かれた当時の形態を留めていない。脱落や繋ぎの変更があり、本来は鳥獣人物戯画の一部であったと思われる断簡が多数ある。それらは現在の形になる以前に模写された模本により、描かれた当時の姿、あるいは時代経過に従って進む錯簡を推定することができる。
甲巻
様々な動物による水遊び・賭射/賭弓(のりゆみ)・相撲といった遊戯や法要・喧嘩などの場面が描かれる。描かれた萩などの植生から、秋の光景とみられる。断簡や模本から、甲巻は成立当初は2巻立て以上のそれら自体で独立した絵巻物だったと考えられ、内、少なくとも1巻は、草むらからの蛇の出現によって動物たちは遁走し、遊戯が終わりを迎えるという構成だった。現在の甲巻は、後世に遭遇した火災による焼損被害や、失われた(恐らくは何らかの形で持ち去られた)断簡による不自然さを補うための加筆が一部に見られる。
2009年(平成21年)から4年かけて行われた大規模な修理において甲巻の中盤と後半の絵が入れ替わっていることが判明した。室町時代の戦乱時に高山寺の伽藍が焼けた記録が残っているが、この時に一度持ち去られた可能性があり、後に回収してつなぎ直した際に順序が入れ替わった可能性あり。
乙巻
馬・牛・鷹・犬・鶏・山羊といった身の回りの動物だけでなく、豹・虎・象・獅子・麒麟・竜・獏といった海外の動物や架空の動物も含め、さまざまな動物の生態が描かれており、動物図鑑としての性質が強い巻。絵師たちが絵を描く際に手本とする粉本であった可能性も指摘されている。
丙巻
前半10枚は人々による遊戯を、後半10枚は甲巻の様に動物による遊戯を描いている。後半部分については、甲巻の動物の遊戯を手本に描かれたものとも言われる。
前半と後半の筆致に違いがあることから、別々に描かれた絵巻を合成して1巻とした巻とみられていたが、京都国立博物館による修復過程で元は表に人物画、裏に動物画を描いた1枚だった和紙を薄く2枚にはがし繋ぎ合わせて絵巻物に仕立て直したものだと分かった。19枚目の歩く蛙の絵に墨跡があり、2枚目のすごろく遊びをする人の絵と背中合わせにすると、19枚目の墨跡(烏帽子の滲み)と2枚目の人物画の烏帽子の位置と合致すると判明した後、この他にも1枚目と20枚目、3枚目と18枚目というように墨跡などが合致することが分かった。これにより元々は10枚の人物画の裏に動物画が描かれ、江戸時代に鑑賞しやすいように2枚に分けられたと推定されている。
丁巻
人々による遊戯の他、法要や宮中行事も描かれている。描線は奔放で、他の巻との筆致の違いが際立つ巻。
断簡
東京国立博物館蔵
縦30.7センチメートル、横83.2センチメートル、中央の横長の紙に左右に横の短い紙が継がれており、現在は掛軸に表装されている。右から、ツバの長い帽子や下駄を身につけ扇を操る蛙、木の葉の帽子や太刀に見立てた枝を身につける狐、頭、肩口、腰回りに木の葉を身につける猿、烏帽子を被る猿、その猿の上を被う傘がわりの大きな葉を持つ蛙が描かれている。上述の国宝4巻のうち、甲巻第16紙の前に繋がる部分が描かれており、継ぎ目に押される「高山寺」の朱印が押された形跡がないことから、比較的早い時期に分断されたものと考えられている。上述の国宝の調査によって国宝との一連性が明らかとなったため、2017年(平成29年)に重要文化財に指定された。現在は独立行政法人国立文化財機構が所有し、東京国立博物館が保管している。
その他
益田家旧蔵断簡(実業家・茶人である益田孝が収集していた)
高松家旧蔵断簡(ブルックリン美術館寄託、A.B.マーチン旧蔵)
MIHO MUSEUM所蔵断簡 2点。1点は甲巻系、1点は丁巻系
模本
住吉家伝来模本(江戸幕府の御用絵師だった家系に伝わっていた「兎猿遊戯中巻」)
長尾家旧蔵模本(ホノルル美術館蔵):この模本にのみ見られる特徴として、サルの顔だけ朱塗りが施されている。
京都国立博物館所蔵模本(狩野探幽によって模写。長尾家旧蔵模本から更に模したものとされる)
その他
1966年(昭和41年)に同人グループ映像社がこれを基に短編映画を制作している。またその映画の音楽を基に間宮芳生が合唱のためのコンポジションシリーズの一つとして鳥獣戯画というタイトルの作品を製作している。
福音館書店『こどものとも』で『かえるのごほうび』として、甲巻から場面を抽出してコマ割りされ、新たなストーリーを構成して使用された。
2005年(平成17年)にはキリンビバレッジ「茶来」のおまけとして鳥獣人物戯画のカエル・ウサギ・キツネ・サルの携帯ストラップが登場した。
「劇団鳥獣戯画」という絵巻物から名前をとったミュージカル劇団がある。
2013年(平成25年)1月25日、岩手県平泉町の柳之御所遺跡で、カエルを擬人化した絵が書かれた木片が出土したと岩手県教育委員会が発表した。木片は、他に出土した遺物などから12世紀後半奥州藤原氏の時代のものと見られ、鳥獣人物戯画の成立時期と同じ時代とされる。都の最先端の表現技法が、既に平泉にまで到達していたことを示す貴重な資料である[8]。
2016年(平成28年)には登場する動物がカプセルトイ(バンダイ)や動物フィギュア(海洋堂)として商品化。また、丸紅新電力のテレビCMとしてスタジオジブリによりアニメーション化された。
2017年(平成29年)には登場する動物がペンケース・ぬいぐるみ(セキグチ)として商品化。
甲巻の画像(全巻)
本節の画面説明は以下による。
辻惟雄『鳥獣人物戯画と嗚呼絵』至文堂〈日本の美術 300〉、1991年、pp.22 - 33, 87 - 91頁。
◎第1紙 - 第4紙前半
谷川で水浴する兎と猿、鼻をつまんで水に飛び込もうとする兎、柄杓をもつ兎、猿の背中をさするもう1匹の猿、鹿に馬乗りする兎と、後から水を引っかける猿。
◎第4紙後半 - 第7紙
草木の描写に続いて、兎組と蛙組の賭射/賭弓競技。蓮の葉製の的、狐火を点す狐、篠竹の弓を引き絞る兎、出番 を待ち弓矢の具合を調べる兎と蛙の選手たち。
◎第8紙 - 第10紙
賭射/賭弓競技後の宴会用の酒肴を運ぶ。長唐櫃をかつぐ2匹の兎、重い酒甕を大儀そうにかつぐ蛙と兎。賭弓競技に遅刻し、あわてて試合場に駆け付ける兎。
◎第11紙 - 第16紙前半
猿僧正に引出物の鹿を渡す兎/猪の手綱を引く蛙と世話をする兎(この場面は前の場面とつながりがなく、本来は甲巻最後の猿僧正への贈り物の後に続く場面)。
走って逃げる猿の犯人と、それを追跡する兎・蛙の検非違使/仰向けにひっくり返った蛙(喧嘩の被害者か)と心配して声をかける兎・蛙、「何ごとか」と振り向く狐の一家。
びんざさらを手に舞う蛙の田楽法師、それを見物する烏帽子姿の老蛙と猫。兎の背後から猫の様子をうかがう2匹の鼠もいる。左端の雉(裾から尾羽が出ているのでそれと分かる)の姫君とその従者たちの絵は本来この場面にあったものではない。
◎第16紙後半 - 第18紙
兎と蛙の相撲。声援する兎、兎の耳にかぶりつき足技をかける蛙、兎を投げ飛ばして気を吐く蛙、投げ飛ばされ、仰向けにひっくり返る兎、それを見て笑い転げる蛙たち。鳥獣人物戯画で最もよく知られる場面のひとつである。
◎第19紙 - 第23紙
双六盤と袋(中身は碁石か)を運ぶ2匹の猿(模本によれば、この後に囲碁の場面があった)。
法要の場面、袈裟を着て読経する猿僧正と本尊に扮した蛙、猿僧正の背後には狐と兎の僧、かたわらには扇で顔を隠す狐夫人(故人の縁者か)と涙をぬぐう猿。
法要を終えて一息つく猿僧正、猿僧正への僧供(御礼の品)を運ぶ兎・蛙。
参考:『景徳鎮市』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E9%8E%AE%E5%B8%82#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
歴史
原名は新平。後に昌江の南岸に位置することから昌南鎮と改名された。北宋の景徳年間に、皇帝御用の陶器を作ることから年号にちなんで景徳鎮と改名され、浮梁県に属した。1960年に浮梁県から出て、浮梁県をも含めた景徳鎮市となった。
燃料となる木が生える山に囲まれ、地質には陶器製造に向くカオリンを多く含む磁器原料があったことから、後漢(東漢、西暦25‐220年)の時代から陶業が行われた。
漢代からすでに陶磁器(中国語版)生産が始まっていたとされ、宋代には青白磁の梅瓶など、元、明、清の時代には「青花」と呼ばれる染付磁器の優品を輩出し、宮廷でも用いられる一方、ヨーロッパ、イスラム圏など外国にも広く輸出された。広東省仏山、湖北省漢口、河南省朱仙鎮とともに中国四大名鎮(中国語版)とされる。明代から清代にかけて景徳鎮民窯では輸出向けの雑器も大量生産され、日本へは江戸前期に渡来し、南京焼と呼ばれた。明代の初期には、政府直営の陶器工場(官窯)である御器廠(ごきしょう)が置かれた。御器廠では、23の分業組織となっている。
文化大革命の折には「旧文化」であるとされ、紅衛兵による被害を受けた。
2010年代においても陶磁器の生産は盛んに行われているが、付加価値の低い汎用品が中心であり、他の中国国内の産地と比べても目立つ規模ではない。また、市内にあるいくつかの古窯および陶磁器博物館は2013年に中国の5A級観光地に認定された。