2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
鳥取県東部、日本海沿岸の砂丘。千代(せんだい)川河口東部の福部(ふくべ)、浜坂(はまさか)砂丘、西岸の湖山(こやま)砂丘の総称で、東西16キロメートル、南北2キロメートル。狭義の鳥取砂丘は浜坂砂丘をさし、最高点92メートルの日本最大の起伏が、内陸砂漠の景観を思わせる。砂地環境下での動植物生態が学術的に貴重なことから、東半部は国の天然記念物に指定され、山陰海岸国立公園にも属する。
スリバチとよばれる凹地底には飛砂と闘う砂地植物の群落が島状の緑地をなし、内陸へ行くほど安定度を増すが、イソコモリグモなどの食虫類は、夏高温の砂丘表面を避けて穴居している。現砂丘形成の主営力は秋季、冬季の北西季節風で、風速2メートル内外では風紋(ふうもん)が、10メートル以上では砂嵐(すなあらし)が生まれて砂丘を変化させる。層序は上から腐植黒砂層を挟む現砂丘層、縄文(じょうもん)―土師器(はじき)遺物包含層、黒ボク腐植土層、大山(だいせん)火山灰層、化石古砂丘層、基盤岩床と重層し、ビュルム氷期以来の海面低下と古砂丘の発達、火山灰の堆積(たいせき)と先史人の居住、新砂丘の形成などの過程を物語っている。
1785年(天明5)以降、砂防造林に次いで新田開発も始まったが、1896年(明治29)以降は鳥取連隊の演習地となり、3砂丘は残った。
第二次世界大戦後クロマツとニセアカシアによる大規模造林で砂防化は進んだが、天然記念物地域への北西方向よりの砂の移動が弱化し、草原化が進行したので、文化財保護か緑化かをめぐり長年論議のすえ、風上にある50.5ヘクタールの保安林を伐採した。鳥取砂丘こどもの国(1973年開園)などの観光施設があり、年間約150万人(2004)が訪れる。
なお西半部には鳥取大学乾燥地研究センターがあり、国際的研究を進めているが、周辺の砂地農業は福部砂丘のラッキョウ栽培を除き、住宅団地化で後退している。[岩永 實]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[(福部)砂丘ラッキョウ]
鳥取県鳥取市(旧・福部村)の砂丘地で生産されるラッキョウ。実が大きく歯ごたえがよく、独特の風味がある。甘酢漬けのほか、新鮮なものは生のまま味噌をつけて食することもある。「福部在来」ともいう。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
中国地方、鳥取県の地域ブランド。
主に鳥取市福部地区で生産されている。鳥取県でのらっきょう栽培の歴史は古く、江戸時代に参勤交代のとき小石川薬園より持ち帰って始まったという。砂地栽培のため色が白い。しまった肉質と歯切れの良さが特徴。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」
鳥取県中央部、三朝町にある温泉。中心地区の三朝にあり、ラドンの含有量では世界屈指の放射能泉。黒雲母花崗(うんもかこう)岩中から湧出(ゆうしゅつ)、100近くの泉源があり、自噴する露天風呂(ぶろ)もある。岡山大学病院三朝医療センター、三朝温泉病院などの温泉療法を取り入れた医療機関のほか、岡山大学地球物質科学研究センターがある。8月にはキュリー祭が行われる。JR山陰本線倉吉(くらよし)駅からバスの便がある。[岩永 實]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
鳥取県中部,三朝町にある温泉。天神川支流の三徳川沿いに湧出。単純泉,食塩泉,放射能泉で,ラジウムの含有量は世界でも有数。泉温は 40~80℃。神経痛,気管支喘息,リウマチにきく。岡山大学温泉研究所や国立温泉病院がある。付近に三徳山 (名勝・史跡) ,小鹿渓 (名勝) などの景勝地があり,三朝東郷湖県立自然公園の一中心地をなす。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
写真出処:三佛寺Wikipediaより
鳥取県三朝(みささ)町にある天台宗の寺。8世紀初頭役行者(えんのぎょうじゃ)が開基という。849年円仁(えんにん)が再興して,釈迦・阿弥陀・大日の三仏を安置し三仏寺と号した。山全体が古代以来の山岳仏教の道場として国指定名勝及び史跡。平安時代の特徴を持つ懸造(かけづくり)の〈投入堂(なげいりどう)〉ともいわれる奥の院は国宝。また愛染(あいぜん)堂・納経堂や,蔵王権現(ざおうごんげん)立像などは重要文化財。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
地区名:倉吉市打吹玉川
種 別:商家町
選定年月日:平成10年12月25日
特徴:鳥取県中央にある倉吉は、江戸時代から明治・大正時代にかけて、商工業都市として繁栄した。保存地区は豊かな意匠を持つ町家が建ち並ぶ本町通りと、土蔵群と石橋が連続する玉川沿いからなる。赤褐色の石州瓦の屋根、軒まわりの海老錠に曲がった腕木や持送り板、腰格子や繊細な出格子などの意匠に地域的特色があらわれている。
『倉吉市打吹玉川(鳥取県) 』重要伝統的建造物群保存地区(文化庁)
2022年日本地理に出題。国引き神話からの大山の位置を問う問題。
2020年日本地理。司馬遼太郎「街道をゆく」の『因幡・伯耆のみち』で司馬が訪れている。
2019年は大山開山1300年祭であった。
[大山]
鳥取県西部にある複式火山。三角点のある主峰弥山(みせん)は標高1710.6メートルであるが、最高点の剣ヶ峰(けんがみね)は1729メートルで中国地方の最高峰。『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の国引(くにび)きの神話では「大神岳(おおかみのだけ)」と記される。
古期と新期の火山体のうち、古期大山は更新世(洪積世)の中期末までにできた成層火山で、古期火山砕屑(さいせつ)岩を基層とする東西37キロメートル、南北30キロメートルの裾野(すその)と、船上山(せんじょうさん)などの石英安山岩質溶岩に覆われた東部大山とからなる。新期大山は、確証を欠くが、成層火山の中央部にできたカルデラ内に噴出した弥山などの大円頂丘群(鐘状火山)と、鍔抜山(つばぬきやま)(705メートル)、鈑戸山(たたらどやま)、豪円山(ごうえんざん)などの寄生火山、新期の火砕流堆積(たいせき)物や火山灰、軽石などからなる。後者は古期大山の裾野の侵食谷を埋め、西半部には平坦(へいたん)面を示す成(なる)や原のつく地名が多い。この間の爆発は、C‐14の測定値で約4万8000年、1万8000年前後以前と推定されている。山容は変化に富み、西方からは伯耆富士(ほうきふじ)、北方、南方からは北壁(きたかべ)、南壁(みなみかべ)とよばれる急崖(きゅうがい)、東方からは峨々(がが)たる壮年期の山形に変わる。大山寺のある標高765メートルの地の年平均気温は10.5℃、年降水量3635ミリメートル、冬期は最深積雪量247センチメートルに及び、西日本最大のスキー場となる。
生物相も気候の垂直的変化とともに変化する。大山寺以下では、暖帯二次林のアカマツ、クロマツや、キマダラルリツバメが注目され、約700~1350メートルの間では温帯落葉広葉樹林帯となり、日本海沿岸のブナ林分布の西限をなし、低木には日本海沿岸系のハイイヌガヤや、太平洋沿岸系のクロモジなども分布し、ゴジュウカラやキビタキ、ムササビやヤマネなども生息する。約1400メートル以高では、亜寒帯の針葉樹林帯を欠いたまま低木草本帯となり、1600メートル付近には特別天然記念物で県木のダイセンキャラボクの純林(南北320メートル、東西110メートル)があり、貝類のダイセンニシキマイマイやホシガラスが生息する。また234種の野鳥がおり、昆虫では寒地系エゾゼミから暖地系オバホタルまで多様である。大山集落から弥山までの約2時間の行程が一般的な登山コース。
[岩永 實]
[参照項目] | 大山隠岐国立公園
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
他の選択肢として、国引き神話で土地を引き寄せるための杭となったとされる島根県大田市の三瓶山、イザナミノミコトが葬られたとする比婆山(ひばやま)(広島県、島根県)、国引き神話で作られたとされる島根半島がある。
鳥取県,島根県,岡山県の 3県に広がる自然公園。面積 350.53km2。鳥取県西部にある大山,岡山県北部の蒜山,島根半島の北海岸,島根県の三瓶山,隠岐諸島などを含む。1936年大山国立公園として指定され,1963年隠岐諸島,島根半島,三瓶山,蒜山地域が追加指定され現名称に変更。2002年,鳥取・岡山県境の毛無山一帯を追加指定。大山は溶岩円頂丘(鐘状火山)であるが,西方から見ると富士山のような円形をなすため伯耆富士(ほうきふじ)と呼ばれる。東側はこれと反対に,アルプス的な岩壁がそそり立っている。大山に続く火山の中腹はブナの原始林に覆われており,草原にはクロマツがかなり高いところまで生育している。山頂には高山植物群落があり,国指定特別天然記念物ダイセンキャラボク純林が見られる。枡水原(ますみずばら),豪円山の一帯にはスキー場があり,夏はキャンプ場となる。大山は修験道の盛んなところで,大山寺,大神山神社などの社寺がある。蒜山は,上蒜山・中蒜山・下蒜山の三峰とそれに続く高原地帯であり,レクリエーションの中心となっている。隠岐諸島は島前,島後に分かれるが,各所に豪快な断崖,洞窟,多数の島々などの見られる海岸景勝地。特に摩天崖,白島,赤壁,寿仙崖が優れている。島内には南北朝の歴史を物語る数々の遺跡がある。美保ノ関,日御碕は島根半島の東西の岬で,出雲大社とともに山陰観光の一中心。三瓶山南麓の三瓶温泉はキャンプ,スキー,登山の基地である。海域は,島根半島海域公園地区,浄土ヶ浦海域公園地区,代海域公園地区,国賀海域公園地区,海士海域公園地区に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2020年日本地理設問本文中。
鳥取県西部、米子(よなご)市の弓ヶ浜に臨む温泉。皆生は旧名を海池(かいけ)と書き、江戸初期に嗣子(しし)がなく断絶した松江藩堀尾氏の没落家臣団が開拓した地という。明治の初めに漁民が海底から泡が湧(わ)くのを発見、のち陸化で1899年(明治32)泉源を確認、大正中期に温泉地化した。泉源約20、泉質は塩化物泉。設備のよい旅館が多く、大山隠岐(だいせんおき)国立公園の観光基地の一つ。山陰本線米子駅からバス便がある。[岩永 實]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
上記にはバス便があるとあるが、米子市は平野部は平たんなので、自転車でも行っていけない距離ではない。頑張れば、境港までも自転車で行けるが、境港線は情緒たっぷりなので、電車がお薦め。
米子レンタサイクル→https://www.city.yonago.lg.jp/8076.htm
[国引き神話]
《出雲国風土記》(《風土記》)に見える〈意宇(おう)〉という地名の起源伝説。巨人の神が他の国土を引き寄せて国作りしたとの内容からこの名がある。八束水臣津野(やつかみずおみつの)命なる神が〈八雲立つ出雲の国〉はまだ狭く稚い国だ,この小さな最初の国土を作り縫おうといって,新羅の三埼(みさき),北門(きたど)の佐伎(さき)の国,北門の農波(ぬなみ)の国,越(こし)の都々(つつ)の三埼の諸方より,それぞれの土地に綱をかけて引き寄せ出雲の国に結びつけたと語られている。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
[八束水臣津野命]
『出雲国風土記』にみえる神。出雲の国が狭いというので,次々とよその土地の余っている所を切り取って,綱をつけて海上はるかに引き寄せてきて,しっかり繋ぎとめたという。これは「国引き神話」と呼ばれており,こうしてできたのが今日の島根半島ということになる。この神話はあまりにも実際の地理に即していることで知られているが,その記述によれば,海岸から半島目がけて伸びている弓ケ浜半島を綱に見立て,そしてその綱を結びつける杭に伯耆大山を見立てるなど,スケールの大きな巨人伝説としての側面も持っている。この神の名の「おみつ(=オミズ)」とは「大水」つまり洪水のことであり,この神が島根半島を作ったというのは,島根半島がもともと沖合いに並ぶ数個の島であり,それが斐伊川の度重なる氾濫をはじめ,その他日本海へ注ぐ諸河川の流し込む土砂の堆積によって本土と繋がったという,半島形成の歴史をも反映していると考えられる。また中央の文献である『古事記』『日本書紀』では,出雲という国名を,素戔嗚尊の命名によるとしているが,『出雲風土記』ではこの神を命名者としており,国引きの業とも併せ,出雲現地では国土創造の神として厚く遇されていたことが思われる。<参考文献>神田典城『日本神話論考』
(神田典城)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
[弓ヶ浜半島]
夜見ヶ浜ともいう。鳥取県北西部,美保湾と中海を分ける砂州。長さ約 18km。幅約 1.5~2km。境水道をはさんで島根半島と対し,行政的には突端部の境港市と基部の米子市に2分される。平坦な砂地帯で,内側には砂丘がみられ,ほかに数条の砂堆列がある。先史時代に内陸側に内浜が形成され,次第に美保湾側に砂浜が成長した。その過程で島状になっていた時期もある。縄文・弥生時代の遺物も出土。鎌倉時代から開拓が進められ,元禄年間 (1688~1704) 後期に日野川から取水する米川用水が築造されてからはサツマイモ,ワタの栽培が可能となり集落が発達。その後養蚕が盛んとなり,第2次世界大戦後はネギ,タバコの栽培が増加した。現在は中海新産業都市の中核として工業化が進み,木工・鉄工団地がある。砂州中央部を JR境線が通じ,北西部に米子空港がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
鳥取県北西部、美保湾と中海(なかうみ)を隔てる湾口砂州「弓ヶ浜」の別称。「出雲国風土記」の国引神話には“夜見嶋(島)(よみのしま)”として登場している。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
2020年設問の文章中にあった。
日本の鳥取県境港市に整備された商店街の名称である。観光対応型商店街であり、漫画家・水木しげるが描く妖怪の世界観をテーマとした観光名所として日本では広く知られている。正規の日本の妖怪像として文化的価値も認知されている。
境港駅から本町アーケードまでの全長約800メートルの間に、水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターを中心として日本各地の妖怪たちをモチーフとした銅像など多数のオブジェが設置されており、商店街は、同じ主題、共通のコンセプトを持った上で、思い思いの販売・サービスを展開する各種店舗・施設の集合体に成長した。
境港市が市民から親しまれるコミュニティ道路にしようと、全市一体となって整備したもので、同市出身の漫画家である水木しげるの代表作『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する鬼太郎やねずみ男などの妖怪たちのオブジェ、絵タイル、モニュメントなどを歩道に設置して「水木しげるロード」と名付けた。JR境港駅前から延びる駅前通りは商店街となっており、歩道には100体を超す妖怪たちの銅像が設置されている。この奇抜な発想が反響をよび、マスコミなどにも取り上げられるようになってからは全国的に知られるようになり、観光スポットとして各地から多くの観光客を集めるようになった。この人気にあやかり、妖怪のオブジェのほかにも「妖怪神社」ができたり「妖怪ポスト」が設置され、さらにゲゲゲの鬼太郎のイラストの入ったラッピング列車も走るまでになり、水木しげるロードの人気を後押しした。
キャラクターを使った商店街活性化(地域おこし、まちづくり)の成功例であり、シャッター通りであった商店街の空き店舗に新規出店があるなどの好影響を生んでおり、その取り組みは商店街・地域活性化のモデルケースとして注目されている。2004年(平成16年)12月、水木しげるロードは「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に入選。2006年(平成18年)5月には、水木しげるロード周辺商店街が「がんばる商店街77選」に入選した。さらに人気を裏付けるように2017年8月、水木しげるロードは一般社団法人アニメツーリズム協会が選定する日本国内外のアニメファンの投票を参考にした「訪れてみたい日本のアニメ聖地88(2018年版)」の1つにも選ばれている。
同商店街で行なわれるイベントも盛んで、毎年夏には、妖怪フェスティバルや鬼太郎祭、妖怪オブジェコンクールが催される。オープンと同時に運行開始されたJR境線の「鬼太郎列車」を皮切りに、これら日本妖怪および水木妖怪のキャラクター性と水木しげるロードの知名度を活かして、多くのタイアップ事業が展開されている(後述)。また、「世界妖怪会議」「妖怪そっくりさんコンテスト」など、多くの妖怪関連イベントが開催されている。
2017年から実施された大規模なリニューアル工事は2018年7月に完成し、歩道の拡張、夜間照明の新設、銅像の再配置などが行われた。
(田舎のキャラクターを使った町おこし&記念館ではありません。ずらりと並ぶ像はあまりの出来に盗難が相次いだほど。ただし、水木しげる記念館自体は、再整備のため、2023年はお休み中です。)
島根県松江市殿町にある平山城跡。別名、千鳥(ちどり)城。松江市街の北部、宍道(しんじ)湖北側湖畔の亀田山に築かれ、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながり、南に流れる大橋川を外堀とする。江戸時代初期建造の天守は、外観4重、内部は5階で地下があり、3重目の南北面に入り母屋屋根の出窓がある。山陰地方の現存例としては唯一で、重要文化財に指定されている。城地は東西が約360m、南北が約560mあり、周囲に幅20~30mの内堀がめぐっている。亀田山頂上部に本丸を置き、天守は本丸の東北隅に築かれ、二の丸は本丸の南側に一段低く隣接し、城山の南には藩主の御殿があった三の丸がある。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで東軍に与(くみ)して武功を立てた堀尾吉晴が、徳川家康から出雲24万石に転封され、あしかけ5年の歳月をかけて1611年(慶長16)、城は竣工した。1638年(寛永15)、松平直政が18万6000石で入封し、江戸時代には出雲地方の政治・経済の中心となった。明治初頭の廃城令により、天守以外の建物はすべて撤去された。1934年(昭和9)に国の史跡に指定。1960年(昭和35)以来、本丸一ノ門、三の丸と二の丸をつなぐ御廊下橋(千鳥橋)、北惣門橋、二の丸南櫓(やぐら)、塀などが復元されている。JR山陰本線松江駅からレイクラインバス「松江城(大手前)」下車、徒歩すぐ。
出典 講談社国指定史跡ガイド
島根県松江市にある平山城。別名は千鳥城。慶長12(1607)年堀尾吉晴が築城に着手し,同 16年完成。縄張り(曲輪,堀などの配置)をしたのは小瀬甫庵という説もある。のち長く松平氏の居城。宍道湖に臨む亀田山の丘陵に壕をめぐらし,地下 1階,四重 5階の望楼風の素朴な天守閣を中心に本丸,二の丸,三の丸を擁し,6基の櫓(やぐら)をもつ。豪壮な石垣は往時を偲ばせる。2015年,天守閣が国宝に指定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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島根県出雲市に鎮座する元官幣大社。主神はオオクニヌシノミコト (→オオクニヌシノカミ ) 。客神として,アメノミナカヌシノカミ,タカミムスビノカミ,カミムスビノカミ,ウマシアシカビヒコジノミコト,アメノトコタチノカミの5神をまつる。創立は神話時代にさかのぼる。杵築大社ともいう。現在の本殿 (国宝) は延享1 (1744) 年のつくり替えであるが,古代の神社建築様式 (→大社造 ) を最も純粋に伝える。社殿の平面は方2間,高床の切妻造,妻入りで階段や入口を向かって右側に片寄せる。内部は中央に特に太い柱 (→心御柱 ) が立ち,前後2室に分かれ,奥に内殿を置く。この内部構造が古代住宅建築の形式を残すものとして特に重要視される。例祭5月 14~16日。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
選択肢:赤間神宮(下関市、平家一門の墓、安徳天皇、竜宮城を模した水天門)、太鼓谷稲成神社(津和野町、千本稲荷、お揚げさんを購入して奉納する)、日御碕神社(大社町。島根半島の西の端。出雲大社の西北。大社系でなく、神明系。権現造。日沉宮(ひしずみのみや)と神の宮。夜を守る宮)
参考:
出雲大社の古代の巨大神殿(48m有ったといわれる)の最新CGあり→
『[歴史探偵] 古代出雲CG復元でよみがえる謎の高層神殿 | NHK』
2022年に設問中に出題。
[ヤマタノオロチ(八岐大蛇)]
『古事記』『日本書紀』に記されている大蛇。出雲国簸川 (ひのかわ。斐伊川 ) の上流にすみ,八つの頭,八つの尾,そして真赤な目をもつと伝わる。スサノオノミコト (素戔嗚尊)に退治され,尾から出た天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ。草薙剣 ) はアマテラスオオミカミ (天照大神)に献上された。八つの支流をもつ河川の神格化と解する説もある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2022年日本地理に出題。斐伊川の場所を問う問題。宍道湖にそそぐことに注目。
島根県東部,奥出雲町と鳥取県日南町の境にある船通山に源を発し,出雲平野を貫流して宍道湖に注ぐ川。全長 153km。古くは簸川 (ひのかわ) と呼ばれ,八岐大蛇 (やまたのおろち) の神話で知られる。かつて下流は西流して日本海に注いでいたが,寛永 12 (1635) 年からの数度の洪水でしだいに東流し,同 16年以後は宍道湖へ注ぐようになった。上流は花崗岩山地で流砂が多く沖積化が早いため,宍道湖岸線は 17世紀中頃から今日までに約 5km東進。治水の歴史も古く出雲平野には早くから良田が開かれた。上流域では砂鉄を産し,古くからたたら製鉄が発達。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
他の選択肢としては、隣県の鳥取県米子市を流れる日野川(米子市と日吉津村を分ける)、島根県出雲市を流れる神戸川、島根県益田市に流れ込む高津川が挙げられている。
日本古来の砂鉄製錬炉(→砂鉄)。送風装置のふいごも「踏鞴」と書いてたたらと呼び,また製錬炉とふいごを備えた建物全体も「高殿」と書きたたらと呼んだ。たたらを用いる製鉄は弥生時代から行なわれたといわれるが,確認されていない。奈良時代には渡来人らによって播磨国,美作国,備前国,備中国,備後国,出雲国の山中で行なわれたことが文献にみえる。江戸時代に全盛をきわめたが,幕末に洋式製鉄法が伝わるとともに衰微した。(→たたらぶき,たたら師)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:「ここまでわかった『出雲風土記』」(しまこだチャンネル) → https://youtu.be/4GYUnH6pvx0?si=-vs8goOqrc90bj_I
オオクニヌシノミコト (大国主命) ,アシワラシコオ (葦原醜男) ,ヤチホコノカミ (八千戈神) ,オオナムチノカミ (大己貴神) などともいう。『日本書紀』ではスサノオノミコトの子 (母はクシイナダヒメ) ,『古事記』では6世の孫とする。神代の出雲国の主神。兄弟神 (八十神) たちから迫害されて根の国に逃げ,多くの試練を経て,スサノオの娘スセリヒメと結婚。スサノオより得た太刀と弓矢で八十神を討ち,スクナヒコナとともに天下を経営,農業を興し,禁厭,医薬の法を教えた。のちに天孫降臨にあうと,国土をニニギノミコトに譲って (国譲り) ,出雲に隠退。出雲大社に祀られる。オオクニヌシとは本来単一の神格の名称ではなく,出雲地方を勢力圏とする大地神,農耕神が神話統合の過程で他の同様の性格をもつ神々と結びつけられ,ついに「大いなる国土の主宰者」という意の総称を得たと考えられる。後世仏教の大黒天と同一視され,福の神として庶民から信仰された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
島根県・出雲地方で特産されるそば。山あいの奥出雲で生産されるそばを,甘皮も一緒に挽いてそば粉にする特徴があり,仕上がったそばは黒みを帯びている。ろくろづくりの丸い朱塗りの器,〈割子〉で食べるのが一般的で,数段に重ねられた割子を上段から下ろし,だしや薬味をかける。残っただしは次の段,また次の段へとかけてゆく。山間地以外でも,松江市や宍道湖畔,出雲大社周辺などに味のよいそば屋が点在している。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
島根県北東部,日本海に突出する半島。東の地蔵埼から西の日御碕まで東西約 68km,南北 5~20km,平均標高約 350mで三つの地塁山地(→地塁)が東西に雁行。新第三紀層の砂岩,礫岩,頁岩,凝灰岩類の互層からなり,その上に流紋岩,安山岩などの火成岩が貫入し,地形は複雑。東部山地は,南に断層があり中海に向かって急傾斜。北側の傾斜はゆるやかで,七類湾をはじめ多くの湾があり,リアス海岸をなす(→七類海岸)。中部山地は北が断層で急傾斜し,南の宍道湖側に緩傾斜して多くの谷が発達。西部山地は南が断層で出雲平野に臨み,日本海側に緩傾斜する。北部沿岸には漁港が発達。南部では農業が行なわれる。七類港は隠岐への基地で,港湾整備がなされている。出雲大社,一畑薬師,日御碕神社,美保神社,加賀潜戸などは観光の中心地。日御碕周辺の海域は島根半島海域公園地区に属する。海岸は大山隠岐国立公園に属し景勝地が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
宍道湖北の島根県の帽子のような感じの半島が島根半島です。
地元出身の実業家足立全康により,1970年 11月島根県安来市古川町に設立。横山大観 (約 130点) をはじめ,榊原紫峰,竹内栖鳳,上村松園,川合玉堂,伊東深水,橋本関雪らの近代日本画約 1200点のほか,林義雄らの童画を収蔵。さらに陶芸館 (1988開館) には,河井寛次郎 (約 150点) と北大路魯山人 (約 200点) の作品を収蔵する。古戦場,勝山,月山を借景した庭園は中根金作の設計。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
足立美術館および桂離宮の庭については、「NHKスペシャル 驚異の庭園 ~美を追い求める 庭師たちの四季~」NHKオンデマンド(2024年2月11日放送)に詳しい。庭師たちの過剰なまでの美への追及によって庭園が管理されている事が良くわかる。
備前国御野郡岡山(現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。国指定の史跡。
旭川の流域の石山にあった石山城を宇喜田直家が改修し、息子の宇喜多秀家がさらに手を入れて岡山城とした。梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城。
外壁が黒い下見板で覆われているため、全体がカラスのように黒く見えることから烏城(うじょう)とも呼ばれ、また、豊臣秀吉の猶子秀家が、豊臣政権下の有力大名(五大老の一人)であったことから、城郭のあちこちに金箔をあしらう豪華で、かつ威厳を持つつくりであったことから、金烏城とも呼ばれている。上記のように天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのが特徴である。
関ケ原の戦いで秀家が西軍についたため、宇喜多家は改易となり、その後、同じ羽柴一族であったが東軍についた小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として1600年に入城した。小早川秀秋は、城下町や岡山城を拡大するなど発展に寄与したが、入場2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。
その後、池田忠継(池田輝正と家康の次女督姫の長男)、池田忠雄(忠継の同母弟)、池田光政(秀忠の養女鶴姫(家康の重臣榊原康正の娘))と代々池田氏が明治の廃城令まで藩主として住まった。
廃城令で本丸を残して広大な岡山城の敷地は、市街地と変貌したが、昭和期まで天守の詳細な図面も残る貴重な存在であり、昭和6年には天守が国宝指定を受けた。
しかし、戦災で天守・石川門は焼失した。
現在の天守は、1966年に鉄筋コンクリート造で再建された(外観復元)。
1950年(昭和25年) - 文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定。
1987年(昭和62年) - 「岡山城跡」として史跡に指定。
2006年(平成18年) - 日本100名城(70番)に選定。
2021年(令和3年)7月30日から2022年(令和4年)11月まで耐震補強などを含めた「令和の大改修」が行われた。
池田剛正によって、後園として日本三大名園である、後楽園が作られている。池泉回遊式の庭園で岡山城や周囲の山を借景とする。歴史家の磯田道史氏は、旭川を挟んで後楽園側からながめる、川の水面に映る岡山城が大変美しいとしている。
参考:岡山城ウェブサイト→ https://okayama-castle.jp/
岡山城を知る(岡山城ウェブサイト)→ https://okayama-castle.jp/learn-history/
参考:『岡山城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E
参考:『岡山城(烏城(うじょう))』(岡山観光WEB 「晴れの国xくだもの王国」) https://www.okayama-kanko.jp/spot/10002
倉敷美観地区
大原美術館公式HP→ https://www.ohara.or.jp/history/
大原美術館(おおはらびじゅつかん)は、岡山県倉敷市にある美術館で、公益財団法人大原美術館が運営する、日本初の私立西洋美術館である。倉敷美観地区の一角をなす。
2003年には分館が、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。
大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、古代エジプト美術・中近東美術、中国美術などの作品を展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。
第二次世界大戦後、日本にも西洋近代美術を主体とした美術館が数多く誕生したが、日本に美術館というもの自体が数えるほどしか存在しなかった昭和初期、一地方都市の倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど注目度は低かった。
美術館所蔵品の中核をなす作品の多くは、1920年から1923年の間に児島虎次郎によって、フランスの首都パリにおいて主に収集された。モネ『睡蓮』は晩年のモネ本人から児島が直接購入したものであり、マティス『画家の娘―マティス嬢の肖像』もマティス本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出した[7]。児島は「こんな機会は二度とない」と思ったが、非常に高価で手持ちの金もなかったため、この時ばかりは大原に写真を送り購入を相談した。現在ではこの名画が日本にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の肖像―ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である[8]。これらの西洋美術の他に、エジプト美術、ペルシャ陶器、中国美術なども児島は収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度か公開され、評判を得ていた。
「大原美術館」wikipediaより
岡山県高梁市にある山城。別名,備中松山城,高梁城。高梁川の東岸,大松山,天神 (てんじん) ノ丸,前山,小松山の4峰から成る臥牛山山頂にある。仁治1 (1240) 年この地の地頭だった秋葉重信が大松山に築城したのが最初。江戸時代には小松山山頂を本丸とし,池田,水谷,安藤,石川,板倉の諸氏の居城となった。現在の城は元和6 (1620) 年水谷勝宗の築城に成るもの。本丸,二の丸,三の丸の構をもち,2層の天守閣となっていた。現在,天守,二重櫓 (やぐら) ,大小の曲輪跡,石垣,土塀などが残っており,重要文化財の指定を受けているほか,城跡は史跡に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
秋から冬にかけては雲海がたなびき、雲海の中に浮かぶように見えることから、「天空の城」と呼ばれる。
また、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングでは、険しい岩山(臥牛山)の上に残る山城がイメージに近かったため、真田の城としてCGを加えながらも大手門周辺が印象的に登場していた。松山城と真田氏の直接的関係はない。→参考:「NHK大河ドラマ(2016)オープニング映像」(高梁市公式サイト「わたしあうまち高梁市」)
写真出処:wikipedia
Jogungagon - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=112649577による
[シャインマスカット春王]公式サイト(全農)→ https://www.zennoh.or.jp/oy/product/fruits/hareou/
皮ごと食べられる種なしの白葡萄である。外観が美しく、大粒であり、皮ごと食べられるのが特徴。
岡山県下JAより出荷するシャインマスカットの名称で、「晴れの国おかやま」で太陽の恵みをおおいに浴びて育てられたところから命名された。
シャインマスカットは、1973年から広島県東広島市安芸津町にある農研機構のブドウ研究拠点(旧農林水産省果樹試験場安芸津支場)において開発改良が始まり、2022年には栽培面積も急拡大され、果物王国岡山県を代表する品種として全国的にも大人気となった。
病害虫や暑さ寒さにも強いので、全国的にも栽培されるようになっている。
その中で岡山の晴王は、18度で選果されているので、甘みも保ちつつ、薫り高いマスカット香が楽しめる。
参考:
広島市の中心部、中区中島町にある公園。太田川(本川)と元安(もとやす)川に挟まれた地で、第二次世界大戦前は広島市の繁華街であったが、1945年(昭和20)8月6日の原子爆弾投下の爆心地に近く、居住者のほとんどが死亡した。戦後、市はこの地区を平和記念公園とすることとし、原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館、広島国際会議場などを設置した。慰霊碑前には平和広場がある。慰霊碑には平和への願いを込めた碑文や死没者の過去帳が収められている。毎年8月6日、平和広場に広島市民をはじめ、世界各地から多数の人が集まり、平和祈念式が行われる。公園の北には休憩所となった元燃料会館が焼け残り、元安橋も残っている。元安川対岸には原爆ドームがある。
[北川建次]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(広島県広島市中区大手町1-10)
「世界遺産」指定の地域遺産。
原爆ドームは1915(大正4)年に建設された広島県物産陳列館のことで、チェコの建築家ヤン・レツル(1880-1925)の設計。鉄筋コンクリート造り3階建、一部5階建(ドーム)。噴水池をもつ洋風庭園や、和風庭園も整備されていた。産業奨励だけでなく、会場を提供することで博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場として大きな役割を担っていた。1921(大正10)年に広島県立商品陳列所、1933(昭和8)年からは広島県産業奨励館と改称された。1945(昭和20)年8月6日の原子爆弾により、爆心地から北西約160mの至近距離にあった建物は大破・全焼した。戦後、いつしかこの残骸が「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。被爆後の状況をそのまま保存することを目的として1967(昭和42)年度に保存工事が行われた。その後も保存工事が行われている。
「美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
広島県広島市にある資料館。昭和30年(1955)創立。別称原爆資料館。被爆者の遺品や原爆の惨禍を示す写真などを収集・展示する。建物の設計は丹下健三。広島市中央公園内にある。
URL:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
住所:〒730-0811 広島県広島市中区中島町1-2
電話:082-241-4004
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
広島県廿日市市の厳島にある元官幣中社。祭神イチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)ら 3神。創立は社伝に推古1(593)年とあるが,平安時代末,平清盛の援助によって今日の規模に定まった。社殿の大半は潮干潟の上に建てられ,満潮時には海中に浮かんだ姿となる。清盛時代の建造物は 2度の火災にあい,仁治2(1241)年に再建,本社社殿(国宝)はさらに元亀2(1571)年大修理を受けている。国宝『平家納経』ほか優れた社宝を多く所蔵する。毎年 7月に行なわれる管絃祭は有名。朱塗の建築群が海上に展開する景観が評価され,1996年世界遺産の文化遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
広島県呉市にある歴史博物館。平成17年(2005)創立。別称大和ミュージアム。呉の歴史や造船・製鋼技術について紹介する体験型の学習施設。戦艦大和の10分の1スケールの模型や人間魚雷回天の実物などがある。
URL:http://www.yamato-museum.com/
住所:〒737-0029 広島県呉市宝町5-20
電話:0823-25-3017
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
広島県呉市にある資料館。平成19年(2007)創立。愛称「てつのくじら館」。海上自衛隊の歴史・活動を紹介する。潜水艦あきしおの実物を展示。
URL:http://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/
住所:〒737-0029 広島県呉市宝町5-32
電話:0823-21-6111
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
2020年、瀬戸内海国立公園を問う問題で出題。
広島県福山市南部の海岸地区・港町。瀬戸内海のほぼ中央にあたり、万葉の時代から瀬戸内海の東西航路の「潮待ち港」として知られる。中世には交易・軍事の要地として栄え、江戸時代には、琉球使節・朝鮮通信使・オランダ商館長らの一行がたびたび寄港した。幕末には、坂本龍馬と紀州藩との交渉の舞台にもなっている。
港に臨む鞆地区には、こうした歴史をとどめる旧跡・古刹の他、江戸時代から続く保命酒の酒蔵などが点在し、近世の古い町並みが残されている。とりわけ歴史的価値が高いのが、常夜灯・雁木(がんぎ)・波止・焚場(たでば)・船番所がそろった港湾施設である。近世の港湾遺構がワンセットで残されているのは、日本で唯一といわれる。また、仙酔島・弁天島・玉津島など、沖合の島々と一帯の景観も人気で、歴史と自然が息づく景勝は多くの人々を魅了してきた。1992年には「都市景観100選」(国土交通省)、2007年には「美しい日本の歴史的風土100選」(古都保存財団等)にも選ばれている。最近では、宮崎駿監督のアニメ映画『崖(がけ)の上のポニョ』(08年公開)の舞台になったことでも知られる。
その一方、鞆地区は開発から取り残され、かねてから住環境の改善が求められてきた。県は湾岸を埋め立て、東西180mを結ぶ橋や駐車場、下水道を造る計画を1983年に策定。その後、埋立計画は縮小・凍結されたが、2004年に計画推進派の市長が当選して再燃した。公共施設は老朽化、道幅は狭く、交通の便も悪い。さらに観光客の増加で交通渋滞に悩まされるようになった住民の不満も大きいと見られる。しかし、歴史的景観の保存を望む声も多く、07年4月、埋立計画に反対する住民は県を相手どり、工事の「差し止め訴訟」を起こした。架橋と広い道路ができると、かえって交通量が増え、生活環境が脅かされると主張。同時に反対派住民は、山側にトンネル道路を造ることも提案した。
開発と景観をめぐる裁判として注目された「鞆の浦景観訴訟」は、広島地方裁判所で審理。09年10月、裁判所は反対派原告住民の訴えを認め、工事着工を差し止める判決を出した。鞆の浦は「国民の財産」であり、「その恵沢を日常的に享受する住民の景観利益は法律保護に値する」とし、道路は改善の必要性があると認めながらも、原告住民の山側トンネル案を支持した。主文でも「埋立計画の調査・検討は不十分で、合理性に欠くもの」と県・市の主張をはねつけた。工事着工の手続き段階で、景観保全を求める地域住民の訴えを認め、行政に差し止めを命じたという判決は全国初で、今後の様々な開発型公共事業への影響は必至と見られる。県は判決を不服として、控訴している。
(大迫秀樹 フリー編集者 / 2009年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」より抜粋
崖の上のポニョの舞台(『鞆物語』(日本で最も愛される港町、鞆の浦)(鞆の浦公式ページ))
2020年日本地理で瀬戸大橋に関連する出題があった。
讃岐と備前の中間にある瀬戸。瀬戸内海最狭部にあたり,岡山県玉野市日比と香川県大崎鼻間は幅6.7kmである。東から小豆島,直島諸島,塩飽(しわく)諸島,笠岡諸島など備讃諸島に属する島々が並び,東西の干満の潮が出あうところである。潮流3~4ノットの瀬戸が多く,小瀬島沖は水深100mに達するが,大半は30m以下。古代から水運の要衝で,また自然の多島美に恵まれ,1934年国立公園第1号に指定された。1日1500隻の航行量があり,春先から初夏にかけての霧の発生時には海難事故も多い。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
瀬戸内海の中央部、岡山・香川両県の間にある海域。東西約90キロメートル、南北約10~55キロメートルで、最狭部は岡山県玉野市日比(ひび)と香川県高松市五色(ごしき)台の大崎ノ鼻間で約7キロメートル。瀬戸内海で本州と四国がもっとも近接した所である。東は播磨灘(はりまなだ)、西は燧(ひうち)灘に続き、備讃諸島の島々が点在する。水深は10~30メートルの所が多く、最深部は小瀬居(こせい)島の北の100メートル。瀬戸内海は、氷河時代には陸地であったため、海底からナウマンゾウやシカの化石がときどき引き上げられる。東西の潮の干満の境にあたり、潮流が速く、好漁場をなしている。また海底には良質の砂堆(さたい)が多く、セメント用の海砂採取が盛んで、環境保護の面で問題化している。古くから海上交通の要路で、1日1500隻を超える船舶が往来する。本州四国連絡橋児島(こじま)―坂出(さかいで)ルート(瀬戸大橋)が1988年(昭和63)開通した。以来、10年間で、JR瀬戸大橋線で乗客約1億4000万人、瀬戸中央自動車道で約5000万台が利用、3ルートのうち唯一の鉄道(JR瀬戸大橋線)・道路(瀬戸中央自動車道)併用橋であり、本州―四国間の大動脈となっている。[坂口良昭]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
上記備讃瀬戸に関連して(2020年)。
本州四国連絡橋児島〜坂出ルートの海峡部9.4kmにかかる橋。1975年着工,本四連絡橋の他ルートに先がけて1988年4月開通。中央支間長1100mの南備讃瀬戸大橋を含む吊橋3と斜張橋2,トラス橋1の計6橋に分かれ,JR本四備讃線(通称瀬戸大橋線。延長31.0km),本四連絡橋公団の有料道路(37.3km)からなる世界最長の鉄道・道路併用橋である。同年3月には青函トンネルも開業して,日本列島の主要4島が鉄路で結ばれた。
出典 株式会社平凡社
本州の岡山県倉敷市と四国の香川県坂出市を結ぶ10の橋の総称である。瀬戸内海をまたぐ本州四国連絡橋の児島・坂出ルートにあたり、橋の大部分は香川県に属する。1988年(昭和63年)に全線開通。それにより初めて四国と本州が陸路で結ばれた。
橋には道路と鉄道が通り、鉄道道路併用橋としては世界最長で「世界一長い鉄道道路併用橋」としてギネス世界記録(2015年)にも認定されている。2017年(平成29年)に日本の20世紀遺産に選定。完成したのはレインボーブリッジができる前のことで、海に架かる長大橋はそれまでサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジなど海外のものがよく知られ、海峡部10 km近く、主塔の高さ200 m近いものとしては国内初だった。完成時は同じ1988年に開通した青函トンネル(約1か月早く開業)と合わせて大々的に報道され、当時一大観光スポットになった。
橋梁部構造は上部に4車線の道路(瀬戸中央自動車道)、下部に複線の鉄道(四国旅客鉄道〈JR四国〉本四備讃線〈愛称:瀬戸大橋線〉)が通る2層構造となっており、用途が2通りある「鉄道道路併用橋」である。下部の鉄道については、新幹線・在来線合わせて4線を敷設できるようになっているが、現在は在来線用に中央寄りの2線分のみが暫定的に敷設され、使用されている。計画中の四国横断新幹線が建設される際には2線増設され、東側2線を在来線に、西側2線を同新幹線として使用する予定である。
設計最高速度は上部の道路が100 km/h(第1種第2級)、下部の鉄道が130 km/h(在来線部分)または160 km/h(新幹線部分)。新幹線用のスペースには何も設置されていないが、一部スペースに建設当初想定されていた新幹線用設備分の死重が設置されている。
瀬戸大橋Wikipediaより
広島県南西部,呉市の警固屋 (けごや) と倉橋島との間の水路。かつて平清盛が沈む太陽を呼び戻して1日で開削したと言い伝えられるところ。幅約 90m。広島湾と安芸灘をつなぐ水路中最も狭く,潮流は最大 4ktにも達する。広島-松山航路など船舶の通過量が多い。 1961年音戸大橋 (橋長 172m,幅 6m,水面からの高さ 23.5m) の完成により,橋を中心として展望台,国民宿舎などが設けられた。倉橋島北部の海岸に清盛塚がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
お好み焼きのうち、具材と生地とを一度に混ぜず、重ね焼きにしたもの。薄い生地と崩した目玉焼きの間に、具材や中華麺をはさむ。広島県の名物で、当地では単にお好み焼きともよぶ。
出典 小学館デジタル大辞泉
広島県宮島の名物菓子。小麦粉に鶏卵、砂糖、蜂蜜を加えたカステラ状の生地でこし餡を包み、モミジの葉をかたどった型で焼き上げたもの。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
広島県南東部,尾道水道に面する市。沼隈半島の一部と向島,因島,生口島,高根島などを含む。 1898年市制。 1951年深田村の一部,1954年美ノ郷村,木ノ庄村,原田村の3村,1955年高須村,西村,百島村の3村,1957年浦崎村,1970年向東村,2005年御調町,向島町,2006年因島市,瀬戸田町をそれぞれ編入。中心市街地の尾道は,平安時代備後国太田荘の船津倉敷地になったことに始まり,室町時代は明,朝鮮との貿易港として繁栄。江戸時代は広島藩の保護のもとに九州,四国のほか遠く山陰,北陸から北海道への西廻海運の一拠点となり,港町として隆盛をきわめた。因島は室町から戦国時代にかけ,村上水軍 (→村上氏 ) の根拠地。 1900年代初頭からは造船業を中心に発展し,近年は商港としての実績をいかした卸・小売業が盛ん。船具の錨 (いかり) と推進機の生産は全国有数。松永湾岸の埋立地では工業開発も進んでいる。島嶼部では海産物の加工生産のほか,温暖な気候をいかした柑橘類の栽培が盛んで,全国有数の産地。作家志賀直哉,林芙美子,歌人中村憲吉ゆかりの地。市街地背後の山腹には浄土寺,西国寺,千光寺,持光寺,天寧寺などの名刹があり,浄土寺の本堂,多宝塔は国宝に,庭園は国の名勝に指定され,持光寺には国宝の普賢延命像の画幅が所蔵されている。また,生口島にある向上寺の三重塔は国宝に,光明坊の十三重塔は国の重要文化財に指定。「西の日光」と呼ばれる耕三寺は十数点の国指定登録有形文化財を保有するなど,名所が点在する。市域の一部は瀬戸内海国立公園に属する。本州四国連絡橋の西瀬戸自動車道 (尾道-今治ルート) ,JR山陽本線,国道2号線が通じる。面積 285.11km2。人口 13万1170(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[尾道ラーメン]
広島県尾道市のご当地ラーメン。しょうゆ味のスープに豚の背脂のミンチを浮かせるのが大きな特徴。麺は平打ち麺を用いることが多い。
出典 講談社和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典について
行政圏域は、山口県HPによる https://faq.pref.yamaguchi.lg.jp/faq/detail.aspx?id=1216
岩国圏域
参考:『錦帯橋』岩国市公式ホームページ https://kintaikyo.iwakuni-city.net/
参考:『錦帯橋』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B8%AF%E6%A9%8B
錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された、5連の木造アーチ橋である。
概要
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政期史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」「五竜橋(ごりゅうばし)」「帯雲橋(たいうんばし)」「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた。「錦帯橋」という美名は、完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。
5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られている。 石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。 また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て、1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。現在、そのほとりには、錦帯橋友好の石碑が建立されている。
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。
構造
川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっている。長さはアーチ橋が35.1メートル、桁橋は34.8メートル。
アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配を緩めながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、10番桁鼻間に小棟木を入れる。
こうした構造形式は世界的にも珍しく、ユネスコの世界遺産に登録されている橋梁の中にも、類似の構造をもった木造橋は見られない。
2005年の台風被害の際は、桁橋の橋脚の一部が流失したにもかかわらず橋体には被害がなかった。橋脚に衝撃を受けた場合、接続部のホゾ構造が橋本体に損傷を与えずに抜ける構造になっていたためである。
なお、2001年、錦帯橋のアーチ形状は、カテナリー曲線(懸垂線)である可能性を複数の研究者が指摘している[8]。
2023年12月 350年間謎であった錦帯橋アーチ設計法が解明される。
参考:『【若一調査隊】絶景!錦帯橋&岩国城 流されない橋と攻めにくい城への人々の想い 山口県SP第1弾』読売ニュース(youtube) https://youtu.be/nL661F7Slas?si=ds00gKCmGGjP4EKr
街の中心部から錦川へ向かうと5連の木造橋の錦帯橋に至る。水害で川が流され続けたために考え出された工法で建てられた。金属のくぎを一本も使っていないわけではないが、南京玉すだれの原理で木で作られている。江戸時代は武士以外は錦帯橋を渡れなかった。現在の市街地は町人たちが住み、対岸に武家が住んだ。幕府に独立した大名として認められていたにもかかわらず、長州藩から長期にわたって陪臣として扱われて、元和の一国一城令を理由として岩国城が破却されたので、麓に「御土居」が築かれて、陣屋となった。御土居は明治に入って吉香公園となり、昭和37年(1962年)、もとの天守の位置でなく錦帯橋から視界に入りやすい南側の位置に鉄筋コンクリート造りの復興天守が建てられた。
参考:『岩国城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%9F%8E
岩国城(いわくにじょう)は、山口県岩国市横山にあった日本の城(山城)。
概要
江戸時代初期は岩国領の居城となり、山城である横山城は本丸を中心として南西に二ノ丸、北東に北ノ丸、ほかに水の手などの曲輪が配置され、麓には、「御土居」が築かれた。本丸には4重6階の天守などを上げていたが、廃城後は天守は破却されて土居が陣屋として存続した。城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、特徴的な景観を作り出している。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。
現在、御土居跡は、吉香公園(きっこうこうえん)として整備され、横山山頂には再建天守がある。発掘調査で旧天守台が発見されたが、建物の木造復元計画はない。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利家は領土を大幅に削減された)した吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。
岩国領は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われた。これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかったことと深く関わりがあるとする説があるが、実際には長府藩や徳山藩が長州藩主の子孫による分家として宗家継承権を有していたが、吉川家にはそれがなかったなどの事情があったとされている。当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)にようやく独立の藩として認められ諸侯に列したが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった。
近現代
1885年(明治18年)居館「土居」跡が吉香公園となり、堀端に絵馬堂である錦雲閣(きんうんかく)が旧藩時代の櫓を模して建造され、現存している。また、藩政時代の建造物として寛政年間(1789年 - 1800年)に建てられた昌明館(7代当主経倫の隠居所)の長屋が現存している。
1962年(昭和37年)3月21日、麓からの見栄えを重視し本丸のあった位置より約30m南側に「天守構造図」という絵図を元に、東京工業大学教授藤岡通夫の設計による鉄筋コンクリート構造の復興天守が建てられた。本来の天守台の位置には平成7年(1995年)に発掘復元された天守台があり、山上には、他に石垣や堀の遺構がある。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(74番)に選定された。
2012年(平成24年)現在、山上と吉香公園のある山麓はロープウェイ(岩国城ロープウェー)で結ばれており、2013年4月から岩国市の指定により錦川鉄道が運営管理している。
参考:『【若一調査隊】絶景!錦帯橋&岩国城 流されない橋と攻めにくい城への人々の想い 山口県SP第1弾』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/nL661F7Slas?si=AF7v8L-rp14pXiXA
柳井圏域
参考:『柳井市古市金屋』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_96.pdf
参考:『古市・金屋伝統的建造物群保存地区(白壁の町並み)』柳井市 https://www.city-yanai.jp/site/kanko/denkenchiku.html
参考:『柳井市古市金屋』全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協) https://www.denken.gr.jp/archive/yanai-furuichikanaya/index.html
参考:『白壁の町並み(柳井市古市金屋地区伝統的建造物群保存地区) 商屋の町並みに映える金魚ちょうちん』おいでませ山口へ(山口県観光サイト) https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_15062.html
参考:『39 柳井市古市金屋重要伝統的建造物群保存地区(白壁の町並み)』柳井にっぽん晴れ街道 https://yanainipponbare.com/kaidoichiran/ozekaminoseki/yanai1/4-39important-preservation-district-for-traditional-buildings/
参考:『柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E5%B8%82%E5%8F%A4%E5%B8%82%E9%87%91%E5%B1%8B%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E5%9C%B0%E5%8C%BA
柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区(やないしふるいちかなやでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)は、山口県柳井市にある伝統的建造物群保存地区。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。柳井市柳井津の一部、約1.7haの範囲である。
山口県柳井市を流れる柳井川は、物資輸送の役割を果たし、古くから瀬戸内海の要衝として栄えた。柳井川の北側にある柳井津はその中心街であり、その東西に通じる本町通りの南北両側に、江戸時代中期から明治初期にかけての伝統的建造物が立ち並んでいる。
建物は、妻入り本瓦葺の二階建てを基本とし、漆喰壁の白壁に深い陰影をつけた重厚な造りである。
柳井市の伝統工芸品の1つである金魚ちょうちんは、古市の商人であった熊谷林三郎が考案したと言われており、毎年8月には「柳井金魚ちょうちん祭り」が開催され、古市金屋の白壁の街並みにも金魚ちょうちんが飾られている。
アクセス
JR西日本山陽本線柳井駅下車 徒歩約10分
山陽自動車道玖珂ICから車で約20分
山陽自動車道熊毛ICから車で約25分
周南圏域
山口・防府圏域
参考:『【山口】山口市 米国からの宿泊客1.8倍』ybb山口ニュース https://youtu.be/pUyk_Lvro24?si=vCk6l7UA6qUEVKJL
参考:『ニューヨーク・タイムズ紙「2024年に行くべき52カ所」に「山口市」が選ばれました!!』山口市
https://www.city.yamaguchi.lg.jp/soshiki/21/152652.html
参考:『山口市』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%B8%82
山口市(やまぐちし)は、山口県の中部に位置する市。山口県の県庁所在地で、中枢中核都市に指定されている。
概要
山口県の県庁所在地であるが、人口規模は関門都市圏構成都市である下関市に次ぐ2番目、市内総生産(総額ベース)では製造業の拠点を多く有する周南市・下関市に次ぐ県内3番目である。民間調査会社・ブランド総合研究所が2018年に調査した主要都市の「認知度」では、山口市は下関市や萩市を下回り、47都道府県の県庁所在地の中で最下位であった。
地理
山口県のほぼ中央に位置しており、市域は南北に長く南端は瀬戸内海(山口湾)に面し、北端は島根県と接する。道路網が整備されており、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来る。山口盆地の中央を南北に椹野川が貫き、その両岸に市街地が形成されている。
歴史
南北朝時代の延文5年/正平15年(1360年)に周防国を平定した大内弘世が大内氏の本拠地を吉敷郡御堀氷上(現在の山口市大内御堀)から現在の山口市中心部に移したのがルーツとされている[注 1]。室町時代には大内館が築かれ、日明貿易が行われる。応仁の乱以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)、雪舟、フランシスコ・ザビエルなど、この町に縁のある人たちは多い。
天文21年12月9日(1552年12月24日)に山口の宣教師コスメ・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。
大内氏の滅亡後、毛利氏の支配のもとで山口奉行が置かれたため山口は防長二国における政治的中心地となった。関ヶ原の戦いののち、防長二国に減封された毛利輝元が萩に居城(萩城)を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。
観光
市内にある名所・旧跡
瑠璃光寺
一の坂川桜並木
山口サビエル記念聖堂
常栄寺雪舟庭
中心市街地周辺(一の坂川沿い・湯田)
保寧山瑠璃光寺 - 室町時代に大内義弘が建立。五重塔は国宝。
淸涼山月輪寺
香山常栄寺 – 庭園「雪舟庭」は国の名勝・史跡
正宗山洞春寺・のむら美術館
瑞雲山龍福寺 – 釈迦堂(本堂)は国の重要文化財、庭園は県指定名勝
古熊神社
山口大神宮
豊栄神社・野田神社 – 別格官幣社
仁壁神社
木戸神社
山口サビエル記念聖堂
SLやまぐち号
湯田温泉
中原中也記念館
山口市民会館
おおすみ歴史美術館
鴻ノ峰
一の坂川(後河原)
竪小路
山口市菜香亭
今八幡宮
八坂神社
旧市周辺部
象頭山
姫山
豆子郎本店 (外郎販売)
鳴滝
鳴滝温泉
佐波山
赤田神社
土師八幡宮
瀧塔山龍蔵寺
月光山泰雲寺(闢雲寺) – 下小鯖2358[17]
中原中也の墓
南部(陶・鋳銭司・嘉川・佐山・小郡・阿知須・秋穂)
陶ヶ岳 (火の山連峰)
長沢ガーデン
其中庵:俳人種田山頭火が住んだ庵。
中郷八幡宮
中領八幡宮
正八幡宮
阿知須温泉
きらら浜
山口県立きらら浜自然観察公園
道の駅きらら あじす
道の駅あいお
秋穂八十八箇所
北部(仁保・徳地・阿東)
木戸峠
大原湖(佐波川ダム)
重源の郷
長門峡
道の駅長門峡
道の駅仁保の郷
道の駅願成就温泉
柚木慈生温泉
KDDI山口衛星通信センター その他、スカパーJSATがSUPERBIRDの地上局(山口ネットワーク管制センター)を市中心部に近い荻町に、自治体衛星通信機構が地上局(山口管制局)を市内宮野上にそれぞれ設けている。後者については、全国瞬時警報システムなど最重要ミッションを運用している。
十種ヶ峰ウッドパーク(オートキャンプ場・スキー場)、船平山スキー場
徳佐しだれざくら(特に、徳佐八幡宮周辺で見られる)
船方総合農場(観光牧場)
蔵目喜(ぞうめき)梨園
リンゴ狩り
釣り堀(地福近辺)
亀山の宝篋印塔(伝・静御前の墓)
公式サイト→『日本最初の天神様 防府天満宮』https://www.hofutenmangu.com/
菅原道真公 御神忌1125年 式年大祭事業(令和9年)
参考:『防府天満宮』防府市観光情報ポータル「たびたびほうふ」 https://visit-hofu.jp/spot/%E9%98%B2%E5%BA%9C%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE/
参考:『防府天満宮』おいでませ山口へ(山口県観光サイト) https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_14780.html
学問の神様として有名な菅原道真を祀る神社は全国に約1万2千社ありますが、最初に創建されたのはここ、防府天満宮といわれています。京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神のひとつに数えられています。
参考:『防府天満宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%BA%9C%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、山口県防府市松崎町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。
防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、年間を通して天満宮の行事での来訪者が多い。また市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録している。有名な祭りとしては2月の牛替神事(うしかえしんじ)と11月の御神幸祭(ごじんこうさい)が挙げられる。御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、約1トンある御網代(おあじろ)を引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという危険なことをするために、毎年怪我人が絶えない。また牛替神事は、天神様の乗られる牛車を引く牛を取り替えるということでの儀式である。その他、8月3日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われる。夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われる。
道真は学問の神とされているため、ここで筆を買ったり、受験のお守りを買う若者の参拝も多い。
春には太宰府天満宮などと同様、梅の花が開き境内を飾る。
境内の西側には、春風楼と名付けられた楼閣式の参籠所がある。当初は、長州藩第10代藩主の毛利斉熙が、文政5年(1822年)から五重塔の建立に着手したが、天保2年(1831年)に不慮の支障によって工事は中断、幕末の動乱などが妨げとなって五重塔は完成しなかったものの、当時着工されていた組物(寺院建築の軒荷重を支える部材で、斗と肘木からなる)を床下に組み入れる形で、明治6年(1873年)に作られた。春風楼からは防府市街地が一望できるほか、御誕辰祭などの行事でも利用されている。
以前の社殿は江戸中期の建立であったが、1952年に焼失[1]。現社殿の設計は山口県出身の京都大学教授村田治郎の指導で、工学博士の杉山信三が設計図を担当、1958年に完成、2009年に登録有形文化財に登録された。
2024年「日本地理」の第6問に湯田温泉を問う設問があった。
山口市湯田温泉|湯田温泉旅館協同組合【公式】→ https://yudaonsen.com/
参考:『湯田温泉』山口県観光サイト「おいでませ山口へ」 https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_12262.html
参考:『湯田温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E6%B8%A9%E6%B3%89
湯田温泉(ゆだおんせん)は、山口県山口市(旧国周防国)にある温泉。山口県を代表する温泉(「防長四湯」)の一つである。
泉質
【湯田温泉ミックス泉】
アルカリ性単純温泉
源泉温度63.6℃。
多くの入浴施設は複数の源泉を混合した「湯田温泉ミックス泉」を使用しているが、「山水園」や「梅乃屋」など、自家源泉を使用する入浴施設もいくつか存在する。温泉評論家の郡司勇は山水園で入浴し、「良い湯である。(中略)湯田の湯は名湯である」と高く評価している。
温泉街
山口市の南西部に、大型ホテルや旅館、ビジネスホテルなどが存在する。山陽路にはあまり温泉街は存在しないが、そんな中で山陽路随一の温泉街である。また山口市内の観光や萩・津和野という有名観光の宿泊拠点であり、バス路線網が発達している。
同地は山口市の繁華街・歓楽街でもあり、飲食店なども数多い。甲府温泉、鳥取温泉、松江しんじ湖温泉、道後温泉などと並び、県庁所在地の中心市街地に湧出する温泉である。ビルやホテルが林立しているので、温泉街特有の情緒とは一線を画す形であるが、夜には宿泊客が散策できるスポットも点在する。
温泉街にある松田屋ホテルは、幕末の志士たちが集った宿として知られる。また、同ホテルは石井宏子により「美食を堪能する宿10軒」に選ばれており、松田忠徳による「お薦めの宿&共同湯200選」にもリストアップされている。
足湯に力をいれており、温泉街には井上公園(旧・高田公園)など5つ存在する。2005年10月17日からは湯田温泉配給協同組合と山口県立大学が共同で足湯の効能検証を行った。2015年3月には山口市が有料の足湯などを設けた観光回遊拠点施設『狐の足あと』を開設した。
共同浴場は湯田温泉街の中には『亀乃湯』(2020年閉業)のみであった。ほかに日帰り入浴施設や旅館に併設された立ち寄り温泉浴場が存在する。温泉街から北東に少し離れた中央4丁目にある『天然温泉 清水湯』も湯田温泉系の自家源泉を利用した温泉銭湯として営業している。
交流施設
山口市では交流や健康増進の拠点施設「湯田温泉パーク・交流センター」を設置する予定で[6]、2024年(令和6年)3月に愛称は「こんこんパーク」とすることに決定し、2025年(令和7年)4月のオープンを目指している。同施設では湯田温泉の既設源泉を利用して温浴設備や暖房設備の消費エネルギーを大幅に削減することになっている。
祭事・催事
湯田温泉白狐まつり(4月第一土日)
湯田ちょうちんまつり (8月6,7日)
歴史
開湯は約600年前といわれる。白狐が毎夜温泉に浸かっていたところを権現山の麓のお寺のお師匠さんが発見したとされる。田んぼの真ん中から金色のお地蔵さんや、源泉が湧出したことが「湯田」の名前の由来である。江戸時代末期には、尊王攘夷派の藩士や公家がこの地に滞在していた。
井上馨や中原中也の出身地で、温泉街に広い敷地を持つ井上公園と中原病院がそれぞれの生家であったが、中原病院は昭和47年(1972年)5月6日の火事で玄関前のイブキの木、茶室、蔵を残して焼失。平成6年(1994年)2月18日、生家の敷地の一部に中原中也記念館が開設された。その向かいにあり、中也が結婚式を挙げた旅館西村屋は2017年に経営破綻した。井上公園は、三条実美がしばらく滞在した何遠亭が復元され、2015年から一般公開されている。
漂泊の俳人として知られる種田山頭火も一時湯田前町、竜泉寺の上隣に四畳半一間の部屋を見付けて移り住み、「風来居」と称した。彼は、この温泉を愛したとされ、山頭火の代表的句集『草木塔』[9]に収載された、「ちんぽこも おそそも湧いて あふれる湯」の句碑が立てられている。
参考:『湯田温泉の旅館&ホテルのおすすめ10選!湯量豊かな温泉地を満喫!』良い旅ナビ(youtube)
https://youtu.be/RaixBXqI-rc?si=Ab1fGDLCWNgKz9LC
美しくていい温泉が多そう。後半の温泉グルメも素晴らしいです。
参考:『防長四湯』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E9%95%B7%E5%9B%9B%E6%B9%AF
防長四湯(ぼうちょうよんとう)は、山口県(旧長門国・周防国)に存在する温泉のうち、以下の4つの温泉を指した呼称である。
湯田温泉(山口市)
長門湯本温泉(長門市)
俵山温泉(長門市)
川棚温泉(下関市)
いずれも開湯の起源が古く、江戸時代には萩藩や長府藩の藩主にも利用された。山口県内の温泉はすべて非火山性であるため源泉温度が25℃未満のものが多数であるが、湯田温泉の源泉温度は70℃以上と高温であり、他の三つの温泉も源泉は40℃前後と比較的高い。泉質は湯田・長門湯本・俵山が単純温泉、川棚が放射能泉(含弱放射能―カルシウム・ナトリウム―塩化物泉)で、いずれも無色透明の清澄な湯である。
湧出量の多い湯田温泉は早くから開発が進み、“山陽路随一”ともいわれる温泉街が形成され、多くの旅館・ホテルが建ち並んでいる。長門湯本・川棚も内湯を持つホテル・旅館が軒を連ねている。その一方、俵山温泉は昔ながらの湯治場としての風情を残しており、内湯を持つ旅館は少なく、多くの旅館は共同浴場(「町の湯」・「白猿の湯」)を外湯として利用している。
近年、各温泉地は利用客の減少に苦しみ、宿泊施設や入浴施設の閉業が続いている。その中で、長門湯本温泉は長門市が星野リゾートと提携し、温泉街全体の再生に取り組んでいる。
防長4湯=湯田ゆだ温泉、湯本ゆもと温泉、俵山たわらやま温泉、川棚かわたな温泉
2024年「日本地理」の6の問2に山口市の戦国大名で日明貿易で富を蓄え繁栄した文化を築いた大内氏の名を問う出題があった。
参考:『大内氏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F
大内氏(おおうちし、おほちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。
周防大内氏
本姓は多々良氏。姓(カバネ)ははじめ宿禰のちに朝臣を名乗った。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と伝わる。周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期の大内義隆の代には山陽・山陰と北九州の6か国を実効支配した。家紋は「大内菱」。
室町時代
当主になった盛見は義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出した。了俊の後任となった九州探題渋川氏に代わって北九州を担当、幕府の信任を得て豊前国守護にも任命されたが、少弐満貞・大友持直との戦いに敗れ、永享3年(1431年)に敗死した。しかし、跡を継いだ甥の大内持世(義弘の遺児)は盛見に匹敵する人物であり、6代将軍足利義教の信任を受け筑前守護に任じられ、少弐氏・大友氏を征伐するなど、大内氏の北九州における優位を確立した。また、この頃山口氏の系統が興った。 大内持世は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に巻き込まれ非業の死を遂げるが、いとこで養子の大内教弘(盛見の子)が勢力を引き継いだ。
応仁の乱から戦国時代
大内政弘は、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全に属して勇名を馳せ、宗全の没後に山名氏が戦線を離脱すると、西軍における事実上の総大将になった。乱の終結後は、九州での復権を目論んで挙兵した少弐氏・大友氏を再び屈服させた。それだけに留まらず室町幕府にも影響力を及ぼす守護大名としての地位を保持し続けた。また、分国法である「大内家壁書」を制定し、守護代ら重臣の台頭を抑えようとした。
戦国時代、政弘の後を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州・中国地方の覇権を確立し、その勢力基盤を確固たるものとした。そして京都を追われた放浪将軍足利義稙を保護した。永正5年(1508年)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛を果たした。上洛後は管領代として室町幕政を執行し、表面上は一大勢力を築き上げた。しかし長期の在京は大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となり、先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となった。その対応に苦慮した義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦った。
享禄元年(1528年)に義興が死去すると、嫡子の大内義隆が家督を継いだ。この時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、義隆が学問・芸術に熱心でキリスト教布教を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。
衰退
大内義隆は陶興房や内藤興盛等の優秀な家臣に補佐されて、出雲国の尼子経久と孫の晴久、筑前の少弐資元・冬尚父子らと戦う一方、豊後の大友義鑑や安芸国の毛利元就などとは何度か戦うも、最終的に融和策を講じた。また内紛の起きていた厳島神主家の家督争いにも介入している。天文5年(1536年)には少弐氏を再び滅亡に追いやり、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)には吉田郡山城の戦いで尼子氏を撃破したが、同年の出雲遠征に敗北し、甥で養嗣子の晴持を失っている。
この遠征の失敗により義隆は政務を放棄し、文芸や遊興にふけるようになる。さらに以前からくすぶっていた陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立が激しくなり、大内氏の勢力にも陰りが見え始める。天文20年(1551年)に義隆は武断派の陶隆房の謀反に遭って義隆は自害する(大寧寺の変)。これにより大内氏は急速に衰退し始めた。
義隆の死後、陶隆房は義隆の甥で以前義隆の猶子であった大友氏出身の大友晴英を当主として擁立、偏諱を受けて晴賢と改名した。晴賢が実権を掌握し、大内義長と改名した晴英を傀儡として頂点に抱くという形で大内氏は存続した。この晴賢の強引な手法に不満を持つ者も少なくなく、義隆の姉婿であった吉見正頼が石見三本松で反旗を翻し、鎮圧の最中に安芸の最大勢力であった毛利元就も反旗を翻して、安芸国内の陶方の諸城を攻略した。弘治元年(1555年)、安芸国宮島で晴賢は元就の奇襲攻撃の前に自害して果てた(厳島の戦い)。
家中を牛耳っていた晴賢の死により、大内家内部はもはや統制のきかない状況となった。弘治2年(1556年)、元就は晴賢亡き後の大内領への侵攻を開始した。それにも関わらず杉氏や陶氏、内藤氏が山口周辺で内紛により衝突。親族の吉見氏も毛利氏へと従属。まともな戦闘能力を失った大内義長は内藤隆世の守る長門且山城に逃亡。弘治3年(1557年)に隆世と義長は自害した。
しかし、大原氏との間に生まれた義隆の四男である義胤は石見に落ち延びて益田氏重臣の城一氏に匿われて生き延びた。
豊後大内氏
永禄2年(1559年)、室町幕府将軍足利義輝は大内義長の実兄である大友義鎮(後の宗麟)に対して九州探題の職とともに大内氏の家督を認める御内書を発給している(「大友家文書」『大分縣史料(26)』424号)。ところが、永禄5年(1562年)に安芸守護(永禄3年任命)である毛利隆元を大内氏の本国である周防・長門守護に任命する御判御教書を発給し(「毛利家文書」『大日本古文書』317号)、更に翌年には両国守護は大内氏が復活するまでの一時的なものと但書を付した(「毛利家文書」『大日本古文書』318号)。この義輝の対応は大友氏・毛利氏の幕府への忠誠を繋ぎ止めると共に両者の和解(芸豊和平)を図りたい立場と名門守護大名である大内氏の滅亡を許容し難い立場が混じったものと言える。
永禄12年(1569年)、大内氏の一門である大内輝弘は大友宗麟の後ろ盾を得、加勢の兵を糾合し周防山口に侵攻した。周防においては大内氏旧臣らの帰参が相次ぎ一時は山口の占拠に成功するが、大友氏との交戦をやめ北九州より反転してきた毛利軍主力の逆襲に遭い、攻められ自害した(大内輝弘の乱)。
参考:『大内義興』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E8%88%88
この時の義興の活躍は相当のものだったようであり、永正9年(1512年)3月にはその武功により、従三位に上階されて公卿に列せられた。これは将軍である足利義尹の意向を押し切って後柏原天皇自らの決断で決めた決定(『実隆公記』永正9年3月26日条)であったが、義尹は最終的な判断は天皇に任せる旨を述べたため同意せざるを得なかった。また、娘を足利義維(義澄の次男)に嫁がせ将軍家の親族ともなった。永正13年(1516年)には大内氏に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられた。これは細川高国の反対を押し切ったものであり、後の寧波の乱の原因となる。
しかし次第に将軍・足利義稙(永正10年(1513年)義尹より改名)や細川高国と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった領国の石見や安芸の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ[32]。そこへ出雲の尼子経久が侵攻を開始してきた。義興ははじめ在京して尼子氏を討つため、永正14年(1517年)に石見守護となり、益田氏や吉川氏など石見---在地の豪族と手を結んだ(ただし、尼子経久の侵攻と義興の石見守護補任については異なる解釈もある)。しかし尼子氏の勢力拡大は抑え難かったため、永正15年(1518年)8月2日に管領代を辞して堺を出発、10月5日に山口に帰国した。
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他の選択肢は、尼子氏、大友氏、長曾我部氏であった。
*尼子氏:近江の守護大名京極氏の傍流で出雲に下って戦国大名となり、大内氏と中国地方の覇権を争ったが、大内氏滅亡後、やがて毛利氏に滅ぼされた。
参考:『尼子氏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F
*大友氏:元は相模国から出たが豊後で守護大名となり、戦国時代に至って戦国大名化した。大友義鎮(宗麟)の代には肥前・肥後・筑前など北九州を支配し大内氏と北九州の覇権を争ったが、薩摩の侵攻にも苦しめられて頼った秀吉に豊後一国に限定され、また、息子の大友義統の失政と朝鮮戦争時の不手際により没落した。
キリシタン大名として有名な宗麟であるが、彼が本来ねらったのは南蛮貿易であり、大変な大金持ちだった。江戸期には破壊され廃墟と化した大友屋敷跡を近年調査したところ、南蛮貿易で得た数々の品が発掘されたという。
参考:『大友氏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F
参考:『大友義鎮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
参考:『大友義統』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E7%B5%B1
参考:『大友氏館跡庭園』大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o204/20200605teienopen/2000605teienopen.html
参考:『大友氏遺跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F%E9%81%BA%E8%B7%A1
参考:『大友氏遺跡』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207143
*長曾我部氏:中世の土佐(高知県)の有力土豪から戦国時代、長宗我部元親の時代に戦国大名に成長し、阿波・伊予を手中にして四国制覇を狙ったが、羽柴秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国の大名となり、秀吉の下で戦った。元親の息子盛親の代に関ケ原の戦い・大坂の戦いで西軍につき、滅亡した。
参考:『長曾我部氏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F
参考:『瑠璃光寺』(西の京 やまぐち(山口市観光情報サイト)) https://yamaguchi-city.jp/details/aa_ruri_tou.html
参考:『国宝 瑠璃光寺五重塔(鉱山公園)』おいでませ山口へ(山口県観光サイト) https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_15401.html
日本三名塔のひとつに数えられる国宝 瑠璃光寺五重塔。
室町時代、長門・周防国(現在の山口県)の守護であった24代大内弘世が、京の都を模した街づくりを進めた山口の地で花開いた大内文化の最高傑作といわれいています。
四季折々、趣の異なる姿をみせてくれる五重塔は、花々や紅葉との競演はもちろんのこと、夜のライトアップも見逃せません。
1時間半ほどで散策できる公園は桜や梅の名所としても知られ、五重塔をはじめとしたさまざまな史跡が点在し、長州藩13代藩主・毛利敬親が山口に居城を移して以降の、毛利家墓所も残っています。
また、幕末、薩長の藩士らが密談を重ねた「枕流亭」や美しい茶室「露山堂」など、維新ゆかりの地でもあります。
散策中、「うぐいす張りの石畳」で手をたたいたり足踏みしてみてください。不思議なことに、うぐいすのような美しい音が返ってきます。
歴史の流れを感じながら、ゆったりとした散策を楽しめる公園です。
【NHK総合解体キングダムに登場】2024年2月7日(水)放映の解体キングダム「国宝・瑠璃光寺五重塔を 解体修復せよ!」に令和の大改修中の五重塔が登場!
参考:『ニューヨーク・タイムズ紙「2024年に行くべき52カ所」に「山口市」が選ばれました!!』おいでませ山口へ(山口県観光サイト) https://yamaguchi-tourism.jp/feature/detail_119.html
参考:『52 Places to Go in 2024』The New York Times https://www.nytimes.com/interactive/2024/travel/places-to-travel-destinations-2024.html
参考:『瑠璃光寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A0%E7%92%83%E5%85%89%E5%AF%BA
瑠璃光寺(るりこうじ)は、山口市香山町にある曹洞宗の寺院。国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されている。
歴史
香積寺
室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死する。義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後嘉吉2年(1442年)頃に完成した。また、後の天文9年(1540年)に建てられた仏殿は広島市の不動院に移築され、国宝に指定されている。
仁保瑠璃光寺
陶氏の7代当主陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した。当初は安養寺と呼ばれ、現在の山口市仁保高野にあったが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。
移転
江戸幕府成立後、萩に依った毛利輝元が慶長9年(1604年)に香積寺を萩に引寺したため、跡地に元禄3年(1690年)、仁保瑠璃光寺を移転した。これが現在の瑠璃光寺である。
宇部・小野田圏域
2024年日本地理に秋芳洞(秋吉台の地下にある日本最大規模の鍾乳洞として)の名前を問う出題。
秋吉台公式ホームページ→https://akiyoshidai-park.com/spot/akiyoshi-do.html
参考:『よくある質問』美祢市立秋吉台科学博物館 https://akihaku.jimdofree.com/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/
Q.
秋芳洞の読み方は「あきよしどう」と「しゅうほうどう」とどちらが正しいのでしょうか?
A.
正しい読み方は「あきよしどう」で、「しゅうほうどう」は誤った読み方です。
秋芳洞は古くは「瀧穴(たきあな)」と呼ばれていましたが、
大正15年(1926年)の昭和天皇(当時皇太子)による探勝を契機として「秋芳洞(あきよしどう)」と命名されました。
秋芳洞が位置する地名が「美祢市秋芳町秋吉(みねししゅうほうちょうあきよし)」であるため、
町名の読みである秋芳(しゅうほう)と混同され誤用されたものと考えられます。
参考:『秋芳洞』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%8A%B3%E6%B4%9E
秋芳洞(あきよしどう)は、山口県美祢市東部、秋吉台の地下100-200mにある鍾乳洞で、約1kmの観光路をもって公開されている。鍾乳洞としては日本最大規模。洞奥の琴ヶ淵より洞口まで、約1kmにわたって地下川が流れ下っている。1990年前後の洞窟探検家による琴ヶ淵から奥への潜水調査の結果、東方約2.5kmにある葛ヶ穴まで連結し、総延長は8,850mに達した。
2016年7月からの山口大学洞穴研究会と秋吉台科学博物館でつくる「秋吉台カルスト洞窟学術調査隊」の測量調査によって総延長は10,300mに伸び、現在日本第3位にランクされている。
1926年以前は滝穴(瀧洞)と呼ばれていた。特別天然記念物。秋吉台国定公園に属する。
洞内の主な名所(抜粋)
長淵:幅約15m、長さ100mの直線的な地下川。上方約10mに数万年前の川の跡を示す岩棚がある。
百枚皿:世界的にも知られている一群の畦石池からなる石灰華段。東宮行啓前は縮皿[13]。
洞内富士:直径約5mの巨大な石柱。下部はフローストーンで裾広がりとなり、富士山のようなスロープをつくっている。
千畳敷:幅80m、長さ175m、高低差35mの、日本第2位(現存では第1位)の巨大な洞内空間。観光路は数万年前に生じた大規模な落盤層の上を登っている。
傘づくし:昔の傘屋のように、天井から沢山の鍾乳石が傘のようにぶら下がっている。改称前は傘屋[13]。
大黒柱:鍾乳石と石筍がつながって、天井を支えているかのような石柱をつくっている。
黄金柱(こがねばしら):高さ約15mの巨大な石柱状フローストーン。秋芳洞のシンボル。昔は金の釣柱(金柱とも)と呼んだ。
五月雨御殿:無数の鍾乳石が天井から下がっている大空間。
名所名の中には明治末の梅原文次郎による開発時とは変わっているものもある。美祢郡細見絵図が描かれた江戸時代末の32景の名は不明であるが、日本各地を巡り歩くことを楽しみとしていた地元の人が名付けたものという。
百枚皿(旧名、縮皿)、千町田(〃百町田)、傘づくし(〃傘屋)、黄金柱(〃金柱)、岩谷観音(〃穴観音)、黒谷(〃地獄)など6名称は東宮行啓後、洞名と共に入江東宮侍従長から改名されたもの
長門圏域
2019年日本地理に出題。
山口県長門市油谷津黄にある神社。旧称は元乃隅稲成神社(もとのすみいなりじんじゃ)。
宗教法人やその他のいかなる法人でもなく、個人の所有物である。そのため、神社本庁・山口県神社庁には所属していない。
1955年(昭和30年)、地元の網元であった岡村斉の枕元に白狐が現れ「吾をこの地に鎮祭せよ。」というお告げがあったことで、元乃隅稲成神社として建立された。商売繁盛、大漁、海上安全は元より、良縁、子宝、開運厄除、福徳円満、交通安全、学業成就などの大神として、地域の人々の信仰を集めているという。
神社から日本海側に見下ろした先には、断崖下の海蝕洞に荒波が打ち付ける度に海水が中の空気と一緒に吹き上がる現象が見られる「龍宮の潮吹」(りゅうぐうのしおふき)があり、神社の間に1987年(昭和62年)から10年かけて奉納された123基の朱色の鳥居が、龍宮から100メートル以上に渡り並んでいる。また、裏参道出口付近にある大鳥居の中央上部(高さ約5m)に設置された、「日本一入れづらい」とも言われる賽銭箱[2]は、見事賽銭を投げ入れることが出来れば願いが叶うと言われている。
アメリカのニュース専門放送局・CNNが2015年(平成27年)3月に発表した「Japan's 31 most beautiful places」(日本の最も美しい場所31選)の一つとして選ばれた。これをきっかけとして外国人を含む観光客の参拝が急増したが、長い社名が外国人にわかりにくいという事もあり、2019年(平成31年)1月に社名が元乃隅神社に改名された。
『元乃隅神社』Wikipediaより抜粋
Japan's 31 most beautiful places
2015年の記事は見つからなかった。2017年の記事は→こちら。
◎稲荷神社はその鳥居の多さと並ぶ美しさから外国人観光客に人気がある。伏見稲荷大社など。
2024年日本地理に、天橋立のような砂州に囲まれた潟湖のある島としてその名を問う出題があった。
参考:『青海島 「海上アルプス」と称される日本海の景勝地』おいでませ山口へ(山口県観光サイト) https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_17017.html
青海島は、北長門海岸国定公園の代表的な景勝地で、「海上アルプス」の別称で呼ばれています。
東西北の三面は日本海の荒波を浴び、波浪に侵食されて断がい絶壁、洞門、石柱、岩礁などが16kmにわたって変化に富む豪壮雄大な景勝をつくり出しています。
青海島の景色は、海上からは青海島観光遊覧船に乗って、陸上からは青海島自然研究路を散策しながら楽しむことができます。
また、中央静ヶ浦には、キャンプ場、海水浴場などがあります。
海中は透明度が高く、水中洞窟など多彩な水中地形を楽しめるとともに、日本海ならではの魚から熱帯系の魚まで多様な生き物を観察できるため、ダイビングスポットとしても人気があります。
参考:『青海島 北長門海岸国定公園、国の名勝及び天然記念物指定の青海島』ななび(ながと観光なび) https://nanavi.jp/sightseeing/omijima/
基本情報開ける
住所 〒759-4106 山口県長門市仙崎紫津浦
アクセス ・JR長門市駅からバスで約20分
・中国自動車道美祢ICから車で約50分
駐車場 150台
駐車場料金 ■乗用車(普通車・軽自動車)
500円/回
■バス(大型・中型・マイクロ)
1,500円/回
■二輪車
100円/回
※駐車場入退場毎に料金が必要となりますのでご注意ください。
参考:『青海島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%B5%B7%E5%B3%B6
青海島(おおみじま、おうみじま)は、山口県長門市の北の日本海にある島である。
地理
面積14平方キロメートル、周囲は約40キロメートル。最狭地点でおよそ50メートル離れている本土との間は青海大橋で連絡されている。島の最高点は北東側にある高山319.9メートル。外縁部はいくつかの小島が砂州でつながっている。島の北岸は日本海の荒波を受けた浸食地形となっており、その奇岩の並び立つ様子は「海上アルプス」とも称される。本土の仙崎港から観光遊覧船が発着しており、島の外周を一周することができる。島の南西には砂州の波の橋立に囲まれた潟湖の青海湖(おおみこ)がある。
北長門海岸国定公園を代表する景観の一つ。日本百景に選定されている。また国の名勝および天然記念物に指定されている。
元々は本土の一部を含めて大津郡仙崎通村(せんざきかよいむら)という一つの村であったが、青海島東部が通(かよい)村に、西部と本土部分が仙崎村に分かれた後、1954年(昭和29年)3月31日に通村・仙崎村ともに周辺の町村と合併し長門市が発足したため、現在では長門市の一部となっている。現在の町域は島の西側の旧仙崎村域が対岸の本土部とともに仙崎地区、東側の旧通村域が通地区となる。
通地区は漁港がある。通地区は江戸時代から明治時代末期まで沿岸捕鯨の基地として栄えたが、鯨を湾岸に追い込み漁師が鯨の上に飛び乗って銛を刺す古式捕鯨であり、近代捕鯨へは移行せず捕鯨は消滅した。向岸寺には当時捕獲された鯨の胎児を埋葬するための「鯨墓」(1692年建立、国の史跡)があり、約70体の鯨の胎児が埋葬されているほか、毎年鯨回向が執り行われ、鯨の霊を弔っている。また、現在でも地域に伝わる伝統芸能として「通鯨唄」が歌い継がれている。当時の沿岸捕鯨の様子については、向岸寺そばの「くじら資料館」に詳しい展示がある。
大日比に県花の夏みかん原樹があり、200年以上実をつけているが、今は根だけが原樹で上は接木である。
萩圏域
参考:『萩城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%9F%8E
参考:『萩城下町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA
萩公式サイト→ 『世界遺産|萩市観光協会公式サイト|山口県萩市』萩観光協会公式サイト https://www.hagishi.com/spots/sekaiisan/
萩反射炉・恵美須ヶ鼻造船所跡・大板山たたら製鉄遺跡・萩城下町(①城跡、②旧上級武家地、③旧町人地)・松下村塾
参考:『世界文化遺産推進室・世界遺産登録決定』山口県 https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/97/26600.html
2015年ユネスコ世界遺産委員会で8県11市の23構成資産による「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録が決定されました。
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は、九州(福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島)・山口を中心に静岡県伊豆の国市や岩手県釜石市など全国8県11市に分布しており、23の構成資産から成っています。相互に密接な関連性があり、群として1つの価値ある資産として2015年のユネスコ世界文化遺産として登録が決定されました。
西洋から非西洋への産業化の移転が成功したことを証言する産業遺産群です。19世紀後半から20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国の土台を構築し、後に日本の基幹産業となる製鉄・製鋼、造船、石炭産業といった重工業において急速な産業の近代化を成し遂げました。一連の遺産群は重工業分野において1850年代から1910年の半世紀で西洋の技術が移転され、日本の伝統文化と融合し、実践と応用を経て産業システムとして構築される産業国家形成への道程を時系列に沿って証言しています。
23の構成資産は8つのエリアに分布しています。
山口県(萩市)【エリア1】の構成資産は次の5つです。
萩反射炉
幕末、海防の危機感から大砲鋳造のため全国各地に建設された反射炉十一基の内、現存する三つの反射炉の一つ(他は鹿児島と韮山)。海防上の重要拠点を統治した萩(長州)藩は、オランダ陸軍将校ヒュゲニン少将の著作「ルイク国立鋳造所における鋳造法」の情報を元に佐賀藩が建設した反射炉を模倣し、1856年、独力で試作的に反射炉建設に挑んだ。西洋科学への試行錯誤の取り組みを象徴する遺構である。
恵美須ヶ鼻造船所跡
吉田松陰に明倫館で師事を受けた木戸孝允の建白により、萩(長州)藩が洋式船建造のために建設をした造船所。萩(長州)藩は伊豆半島戸田村で建造されたロシア式のスクーナー(君沢型)を模して和船の技術で建造をした。造船所跡には船渠の跡(地下遺構)や護岸の遺構が残存している。同造船所で1856年に丙辰丸、1860年に庚申丸の二隻の洋式帆船を建造。造船に継続性はなかったが、和船技術で洋式の船に挑戦をした試行錯誤の実験として貴重である。当時の防波堤がいまも残されている。
大板山たたら製鉄遺跡
大板山たたら製鉄遺跡は1991-1994年に発掘調査が行われた。日本の伝統的な製鉄方法であるたたら製鉄の遺構である。恵美須ヶ鼻造船所で組み立てられた君沢型スクーナーの船釘(和釘)や碇など、船の部材を供給した製造拠点であった。西洋の製鉄技術が導入される前に、日本の伝統技術が利用されたことを示している。
萩城下町
外堀の外側には,中・下級の武家屋敷や町人地,寺院などが区画を分けて整然と配置されている。萩はこの歴史的な町割りと,徳川体制における近世の封建社会の特徴を示す日本の城下町の主な特徴を現在までよく残している。萩の城下町の町割りは、産業革命の担い手を育成した幕末の萩(長州)藩、侍が西洋科学に挑戦した封建時代の時代背景となる社会構造を象徴する。萩(長州)藩による統治の拠点である城跡、旧上級武家地、旧町人地の封建的町割りが良好な状態で残っている。
松下村塾
松下村塾は産業革命の担い手となる維新の志士の育成に貢献した吉田松陰の私塾。1854年、松陰はペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が日米和親条約締結のために二度目の来航をした際、下田沖に停泊していたペリー艦隊の船に乗船を試み、失敗して国許幽閉となった。後に松下村塾にて塾生たちに海防の必要性と、西洋に学び、産業、技術の獲得を重視する思想を教えた。松陰は29歳で死罪となるが、松陰の教えを受けた塾生たちは後に、明治政府を樹立。塾生の一人である初代総理大臣伊藤博文は、殖産興業政策の中心として、日本の急速な産業化を牽引した。
参考:『ブラタモリ#106「萩 ~萩はなぜ 世界遺産になった?~」』NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0040648
参考:『萩反射炉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89
参考:『世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」 エリア1萩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD%E9%81%BA%E7%94%A3_%E8%A3%BD%E9%89%84%E3%83%BB%E8%A3%BD%E9%8B%BC%E3%80%81%E9%80%A0%E8%88%B9%E3%80%81%E7%9F%B3%E7%82%AD%E7%94%A3%E6%A5%AD#%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A21_%E8%90%A9
下関圏域
参考:『唐戸市場』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%88%B8%E5%B8%82%E5%A0%B4
参考:『赤間神宮公式サイト ご由緒』 https://akama-jingu.com/history/
(要約):寿永4年(1185)3月24日平家一門と共に海底深くわずか八歳で入水崩御された第八十一代安徳天皇をお慰めするため、朝廷が長門の国に霊廟を立てるよう勅を発して御陵の上に御影堂を建立した。命阿尼など3代の尼を経て住職に転じ、阿弥陀寺として浄土宗を経て真言宗の寺院となった。朝廷はもとより、豊臣秀吉、大内氏、毛利氏など将軍や大名の崇敬が深く、要人の参詣が続いた。
明治になり、阿弥陀寺は廃され、御影堂を改めて天皇社となり、明治8年に官幣中社・赤間宮が創建されたが、昭和20年7月戦火で本殿以下すべて焼失。戦後、本殿・祝詞殿、水天門、拝殿が再建、昭和40年に回廊が建立され、龍宮づくりの社殿が完成した。昭和60年にはご祭神八百年式年大祭を迎えた。
参考:『赤間神宮 悲劇の幼帝・安徳天皇を祀る、陸の竜宮城』おいでませ山口へ 山口県観光サイト https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_10467.html
(要約) 壇ノ浦の合戦に敗れ、わずか8歳と言う幼さで入水した安徳天皇を祀る「赤間神宮」。竜宮城をイメージして建立された朱色の水天門が参拝客を迎え入れ、安産・家内安全・無病息災・開運招福・海上安全・商売繫盛などの後利益があると言われる。
堂々とした朱の水天門をくぐると安徳天皇阿弥陀寺御陵や貴重な資料を展示した宝物殿がある。また、赤間神宮の前身の「阿弥陀寺」は、小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の舞台になった寺で、琵琶を引く芳一の像が立つ芳一堂の隣には、平家一門の墓(七盛塚(壇ノ浦の合戦後海難事故が頻発したため、原因と考えられた平家の怨霊を供養するための碑))が立っている。また、1928年に下関を訪れた際、歌人高浜虚子が詠んだ「七盛の墓包み降る椎の露」と言う句を刻んだ句碑が七盛塚の前に立っている。
しものせき海峡まつり・先帝祭
毎年5月2日~4日に、悲劇の幼帝・安徳天皇を偲ぶ「先帝祭」が開催されます。中でも“上臈参拝”が行われる3日は、「関の先帝、小倉の祇園、雨が降らなきゃ、金が降る」といわれ、豪華絢爛たる道中を見る人で、通りは埋めつくされる。
参考:『赤間神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E9%96%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE
赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて入水した安徳天皇を祀る。
江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり現在に至る。
貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた。以後、勅願寺として崇敬を受ける。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定された。天皇社は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。
昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称した。
安徳天皇延喜絵図
赤間神宮に伝わる襖絵。伝・土佐光信筆。
文化財
重要文化財
平家物語(長門本)20冊
赤間神宮文書10巻、1冊
登録有形文化財
水天門(竜宮造)
回廊
参考:『赤間神宮略起』赤間神宮(赤間神宮100円にて販売)
御祭神:第八十一代安徳天皇
御祭祀:(安徳天皇神鏡)八咫鏡
御由緒:
水天門の由来:
参考:『角島大橋』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E6%A9%8B
角島大橋(つのしまおおはし)は、山口県下関市豊北町神田と同市豊北町角島間の海士ヶ瀬戸に架かる橋。全長1780メートル。かつて、角島へは渡船による交通が主であったが、完成により陸路でつながった。北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを抑え、周囲の景観に配慮した構造となっている。
橋の両側の海はエメラルドグリーンやコバルトブルーの美しい色をしている日も多く、完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている[1]。テレビCM[3]、特に自動車のCM(レクサス・GS450h、三菱・ギャランフォルティス、スズキ・スイフト、日産・ノートなど)のロケ地として多く採用されている。
また、完成当初は通行料金が無料の離島架橋としては日本最長であったが、2005年に古宇利大橋(沖縄県・全長1,960m)、2006年に新北九州空港連絡橋(福岡県・全長2,100m)、2015年に伊良部大橋(沖縄県・全長3,540m)と、本橋梁よりも長い通行料無料の離島架橋が建設されている。
参考:『角島大橋』おいでませ山口へ(山口県観光サイト) https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_11030.html
コバルトブルーの美しい海に伸びるフォトジェニックな橋
テレビCMやロケ地にたびたび登場する角島大橋。リゾートのような白い砂浜とコバルトブルーの海が広がる絶景がSNSでも話題となり、またたく間に日本トップクラスの絶景ポイントとして紹介されるようになりました。
橋の長さも無料で渡れる一般道としては日本屈指の長さです。(1,780m)
青く美しい海を眺め、海風を感じながらサイクリングや散歩を楽しむのもおすすめです。
特に夏の晴れた日は海の青と道路の白、島の緑のコントラストが美しく、まさに絶好のフォトスポットです。