室町時代(戦国)
(建武の新政・戦国時代含む)
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
(建武の新政・戦国時代含む)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの過去問題ページを参照しています。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日[1]〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。
概要
大覚寺統の天皇。天皇による親政を理想とし、武家政権の鎌倉幕府を打倒し建武の新政を行った。その後軍事力の中核であった実子を粛清した事と失政により失脚。一地方政権の主として生涯を終える。建武の新政は2年半で崩壊し、足利氏の武家政権に戻ることとなり、朝廷の支配力は鎌倉時代以上に弱まることとなる。
両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を崩すために、倒幕運動を行った。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り[3]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した。
先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる[2]。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している。一方で、優れた統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評される。
室町幕府・南朝両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。特筆されるのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである。裁判機構に一番一区制を導入したり[8]、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は、以降の全国政権の統治制度の基礎となった。その他には、土地の給付に強制執行を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと(高師直へ継承)、官位を恩賞として用いたこと、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあることなどが挙げられる。
学問・宗教・芸術の諸分野で高い水準の業績を残した。儒学では宋学(新儒学)受容を進めた最初の君主である。また、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著した。真言宗では父の後宇多上皇と同様に真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていた。禅宗では禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に影響を与えた。伊勢神道を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等4件の書跡が国宝に指定されている。二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。『源氏物語』の研究者。雅楽では琵琶の神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。茶道では、その前身である闘茶を最も早く主催した人物の一人ともいわれる。
結果的には敵同士になってしまった尊氏からも敬愛された。真言律宗の僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、おしどり夫婦として、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。
一方で、大塚紀弘は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している。
『後醍醐天皇』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は天皇による親政を理想とし、建武の新政を行い、鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)に河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、親政は2年半で崩壊し、足利氏が支配する武家政権に戻り、朝廷の支配力は鎌倉時代よりも弱まっていく事となる。
歴史
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。
後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗した。これを奉じる形で幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。足利尊氏は京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府を滅亡させた。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する。
新政の開始
後醍醐天皇は光厳天皇の即位自体を遡って無かったことにし、正慶の元号も廃止。光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言する。さらに関白の鷹司冬教を解任した。
帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を万位[要説明]主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。高氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り高氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月13日に護良親王を征夷大将軍に任命する。
6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵を北条氏一族のみと定め、知行の安堵を諸国の国司に任せたもので、事実上前令の撤回であった[注釈 2]。
8月5日、足利高氏は後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改め、のち鎮守府将軍に任命された。
記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。
元弘4年/建武元年(1334年)正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められる。また、年号が「建武」と定められる。「楮幣」とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていない。この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政の問題が早くも露呈する。
5月には諸国の本家、領家職が廃される。徳政令が発布され、寺社を支配下に置くための官社解放令が出される。また、雑訴決断所の訴訟手続法10ヶ条が定められた。将軍職を解任され、建武政権における発言力をも失っていた護良親王は武力による尊氏打倒を考えていたとされ、10月には拘束を受け、鎌倉へ配流される。12月には八省卿が新たに任命され、実力を重視し家格の伝統を軽視した人事が行われる。
新政の瓦解
建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。
鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据えた。8月には新政下の世相を風刺する二条河原落書が現れた。
尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張し、その討伐を後醍醐天皇に対して要請する。
後醍醐天皇は尊氏のこの要請を拒絶し、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は建武2年(1335年)12月、箱根・竹ノ下の戦いで敗北する。建武3年(1336年)1月に足利軍は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。
同月、後醍醐帝は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。兵糧もつき、周囲を足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山を降りて足利方と和睦。和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐帝は光明天皇に三種の神器を渡し、花山院に幽閉される。後醍醐帝は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。
新政の瓦解後
新政の瓦解後、足利尊氏が光明天皇によって征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。初期には南北朝時代の戦乱が続き、15世紀以降になると戦国時代となって京都周辺以外の実効支配力を失うものの、1573年に織田信長によって足利義昭が京都から追放されるまで、足利氏の15代に渡る武家政権が続いた。
武家・公家の入れ替わり
第82代後鳥羽院の御宇造の時代は公家の天下であったが、1185年(文治元年)に平氏から源氏へ政権移行が行われると、総追捕使が支配力を強めていき、諸国には武家の守護が立てられ、神社や寺、旧来の武家や公家の荘園には地頭が置かれるようになった。公家の五摂家などと繋がった新興の武家が勢力を強め、反乱を起こした古来の武家も次第にその傘下に入っていった。ただ依然として公家天下の時の国士や公家、寺社の領造は変わらずにあったので旧来の公家はさのみ衰微せず、国士も所領の地頭御家人として地位を保っていた。どこの国でも地頭御家人を直人と呼び、鎌倉9代の間はその方式であった。
ところが、建武の新政のときから古い法が捨てさられ、公家の知行や寺社領がみな諸軍勢に分け与えられ、地頭御家人も養子を取らざるを得ない状況になるなどして武家の家人となっていった。足利将軍の時代も同様であったが、これが織田信長、徳川家康の時代になると、古来の武家・公家の存在感は薄くなって、それまでの功績や俗姓すら分からないような新興の武家が所領を維持していた。
『建武の新政』Wikipedia
足利尊氏が1336年(建武3・延元元)に開設した武家政権。名目的には15代将軍義昭が織田信長に追放される1573年(天正元)まで続いた。
名称は3代義満が本拠を構えた京都室町邸にちなむ。
鎌倉幕府にならい諸機関が設置されたが,室町幕府では将軍補佐の重職として管領(かんれい)がおかれ,評定(ひょうじょう)・引付(ひきつけ)は初期に衰退して将軍親裁の御前沙汰(ごぜんざた)にかわった。将軍は直轄軍の奉公衆と直轄領の御料所をもち,京都を支配して土倉(どそう)・酒屋に財源を求めたが,京都支配のうえで政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)が重要な機関となった。地方には鎌倉府・九州探題,諸国に守護がおかれた。幕府は一門中心の守護配置策をとり,南北朝内乱の過程で強権を付与して幕府支配体制の根幹とした。
義満は明徳・応永の両乱で強豪守護の勢力を削減,南北朝合一をはたして国内を統一し,朝廷勢力を圧倒して公武統一政権を樹立。
中国の明との国交を開き日本国王の称号を得た。
しかし守護は任国を領国化して分権的傾向を強めた。将軍は守護統制のため守護の在京を義務づけ,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させた。義満の死により有力守護の支持で義持(よしもち)が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護層の合議により運営された。
6代義教(よしのり)は専制化を志向,将軍の親裁権を強化するとともに守護大名抑圧策を断行したが,その反動で嘉吉の乱に倒れた。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。乱ののち守護は在国化して,幕府に結集せず,将軍は守護に対する統制力を失った。
将軍義尚(よしひさ)および義稙(よしたね)は奉公衆を基盤として権威回復をはかるが,明応の政変で幕府の実権は細川氏に掌握された。以後,義澄(よしずみ)・義晴・義輝が細川氏などに擁立されたが,各地に割拠する戦国大名に全国支配をさえぎられ,義輝は松永久秀に殺された。
義栄(よしひで)ののち,織田信長に擁立された15代義昭も,1573年(天正元)信長と不和となって京都を追われ,室町幕府は滅びた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
<平成30年(2018年)の問題>
*室町時代の区分 広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が建武式目を制定した1336年(南朝:延元元年/北朝:建武3年)または征夷大将軍に補任された1338年(延元3年/建武5年)から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年(元亀4年)までの237年間、もしくは235年間を指す。
狭義では建武新政から明徳の和約による南北朝合一(1392年、明徳3年/元中9年)までの最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年、応仁元年)または明応の政変(1493年、明応2年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間から100年間を室町時代と区分する場合もある。
*南北朝時代 南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った延元元年/建武3年(1336年)12月21日、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した元中9年/明徳3年(1392年)閏10月5日である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。
*建武式目 建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)は、建武3年11月7日(南朝:延元元年/ユリウス暦1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目である。足利尊氏の諮問に対し、法学者の是円(中原章賢)・真恵兄弟らが答申するという形式で公布された。御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。
*天龍寺 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。本尊は釈迦三尊。正式には霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後、約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、北朝の治天である光厳上皇に奏請し、院宣を以って大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。 現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
曹源池庭園:国指定特別名勝・史跡 - 方丈裏庭。夢窓疎石による作庭。池泉回遊式庭園で嵐山や亀山を取り込んだ借景式庭園である。
天龍寺方丈庭園:夢窓疎石
ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」については、当サイトの「日本の世界遺産」でも触れています。
*鹿苑寺金閣(通称:金閣寺) 日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている。正式名称は、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。
寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失(金閣寺放火事件)し、1955年(昭和30年)に再建された。金閣寺放火事件の僧の「美しすぎるから焼かなければいけない」と言う発言に題材を得た作家三島由紀夫が小説「金閣寺」を書いている。
義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[12]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。
金閣(鹿苑寺斜里殿)は、木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。
初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。 「究竟頂」の扁額は後小松天皇の宸筆である。
また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
*能(観阿弥・世阿弥) 日本の伝統芸能である能楽の一分野。能面を用いて行われる。
江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。
能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。世阿弥は『風姿花伝』を著した(応永7年(1400年))。この書の第一章にあたる「年来稽古条々」は「初心わするべからず」や「時分の花」などよく知られた内容があり、その理論は現代で通用するものと評価されている。 (能-Wikipediaより)
日本の古典芸能。橋懸りという独特な構造の舞台で,地謡の合唱と囃子方の伴奏で舞う歌舞劇。平安時代に発生した猿楽が,鎌倉時代に猿楽の能と呼ばれるようになり,室町時代に足利義満の庇護のもとに観阿弥,世阿弥父子によって大成された。主演者をシテ,助演者をワキといい,曲目によっては数人の出演者(シテヅレ,ワキヅレ)が登場する。シテは面(→能面)をつけることが多い。夢幻能と現在物に大別される。また神,男,女,狂,鬼の五つに分類され,上演順位が定められている。江戸時代以来,このような五番立の番組を正式とし,能と能との間には狂言を上演したが,今日では狂言 1番,能 1番でも上演される。現行曲は約 240曲。1957年国の重要無形文化財に指定。2008年狂言とともに世界無形遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
コトバンク「能」の小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) の詳しい説明も読んでおくこと。
*慈照寺銀閣(銀閣寺) 慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。銀閣は、慈照寺観音殿。慈照寺観音殿(以下「銀閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489年)の上棟である。屋根は宝形造、杮葺で、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた。
鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。これには色々な説がある。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。初層は「心空殿」と称し住宅風の造り 、上層は「潮音閣」と称し、初層とは異なって禅宗様の仏堂風に造る。
「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
*永享の乱 永享 10 (1438) 年関東公方足利持氏が室町幕府にそむいた事件。正長1 (28) 年,実子のなかった4代将軍足利義持が後継者を定めず没したあと,将軍への野望をいだいていた持氏は,次期将軍の地位を期待していたが,同年管領畠山満家らが引いたくじによって天台座主青蓮院義円 (義教) が将軍に決定した。そのため持氏は次第に反幕府的行動をとるようになった。幕府は以前から関東の佐竹氏,宇都宮氏など諸豪族に保護を与え,関東公方を牽制していた。さらに関東管領上杉憲実もひそかに幕府に通じていたので,永享 10年8月,憲実が持氏と不和となり領国上野に引上げたのを機に義教は今川氏,武田氏,小笠原氏らに持氏追討を命じた。持氏は幕府の東征軍と憲実軍に迫られ,その年9月,箱根足柄に敗れ鎌倉に退いたが,留守役三浦時高にも裏切られ,金沢称名寺に出家したが,義教の怒りはとけず,翌年2月,居所鎌倉永安寺を憲実軍に囲まれ自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*九鬼水軍 九鬼水軍(くきすいぐん)は、戦国時代の水軍。志摩国を本拠とし、九鬼氏に率いられた。強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口の戦いで破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取した。志摩水軍(しますいぐん)とも称する。九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造した。 九鬼嘉隆は、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長に対する尊敬の念から志摩から三河へ船で向かった。永禄11年(1569年)に織田信長の大淀城攻めの際には織田軍の水軍の将となる。2年後の織田家の大河内城の攻略作戦の折には、九鬼水軍は伊勢の海岸をすべて封鎖して、伊勢湾からの援軍を寄せ付けなかった。嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献した。しかし守隆没後家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり、水軍としての歴史は終わりを迎えた。
*村上水軍 南北朝時代から戦国時代,瀬戸内海で活動した村上氏の水軍(海賊衆)。村上氏は伊予能島(のしま),同来島(くるしま),備後因島の3家に分かれるが,同一氏族であったかについて疑義もある。伊予の河野氏に属し,遣明船の警固にあたり,また船舶から通行税を徴収,ときに倭冦ともなった。1555年の厳島の戦を契機に毛利氏に従い,石山合戦では織田水軍を破り,石山本願寺に兵糧を入れたことで知られる。関ヶ原の戦後,来島(久留島)氏は豊後森藩主となり,能島・因島両家は船手組として萩藩毛利氏に仕えた。
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*倭寇 13~16世紀に朝鮮,中国の沿岸を襲った海賊集団に対する朝鮮,中国側の呼称。北九州,瀬戸内海沿岸の漁民,土豪が中心で,もともと私貿易を目的としていたが,しばしば暴力化した。しかし,倭寇が日本人とは限らず,その構成の大部分が中国人の場合,ポルトガル人を含む場合などもあった。その活動の時期は前後2期に大別される。前期は南北朝~室町時代初期,主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸にも及び,そのため高麗は滅亡を早めたほどであった。しかし,李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易,日明勘合貿易の発展とともに消滅した。勘合貿易が行われなくなると再び倭寇の活躍をみたが,後期倭寇の活動舞台は主として東シナ海,南洋方面で,明はこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした (→北虜南倭 ) 。しかし,明の海防の強化と,国内を統一した豊臣秀吉の賊船停止の命令で倭寇は姿を消した。
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*勘合貿易 室町時代,幕府と中国の明との間で勘合符を用いて行われた貿易。3代将軍足利義満が応永8 (1401) 年,明との国交を回復すると,同 11年,日明間に勘合符制が設けられ,勘合符による貿易が始った。日本の勘合船は,「本字勘合符」に幕府の勘合印を押したものをもって渡航し,明側では,これを保管してある「本字底簿」と照合して公認船かどうかを確かめた。この勘合貿易は足利義持の時代に一時中絶したが,義教のとき永享年間 (29~41) に再開された。初めは幕府の資金による船舶と商品であったが,次第に寺社や諸大名の船が多くなり,さらに表面上は幕府,寺社,大名の船であっても,堺,博多商人の請負によるものが多くなり,幕府などは名義料を徴収するにすぎなくなった。応仁の乱後,大内氏と細川氏が貿易の利権を争ったが,やがて大内氏が独占した。大内氏は天文年間 (1532~55) に滅亡するまで貿易の利益を収め,巨富を蓄積した。おもに銅銭,生糸などを輸入し,硫黄,刀剣,銅などを輸出した。
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*永楽通宝(永楽銭) 明の永楽帝(在位 1402~24)が永楽9(1411)年に鋳造を始めた銅銭。正しくは永楽通宝と称し,日本では永楽銭,永銭,永などと略称した。大小 5種類あり,足利義政がたびたび明に請うて永楽銭を求めたので,日本に多量に輸入され,広く流通した。室町時代には質のよさから標準的通貨として珍重され,特に北条氏が永楽銭のみを本位貨幣として用いることにしたので,関東地方ではこれを標準にした永高制が成立し,大量の永楽銭が流通した。豊臣秀吉は永楽銭を模して,永楽金銀銭を鋳造したこともある。慶長9(1604)年,鐚銭(びたせん)4対永楽銭 1という比率が定められたが,交換をめぐって紛争が続発したので,同 13年に使用が禁止された。
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*唐物(からもの) 「とうぶつ」とも読み,中国大陸 (唐土〈もろこし〉) から渡来した物品の総称。後世になると,南洋諸島方面の産である島物 (しまもの) に対して中国,朝鮮から輸入された器物を,唐物と呼んだ。平安時代,「唐物の使」という役職があり,室町幕府には唐物奉行がおかれた。
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*室町時代の輸出入品
*管領 将軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。最初,執事と称されていたが,正平 17=貞治1 (1362) 年斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが,3代将軍足利義満のときに管領職がおかれ,足利氏の一族,斯波,細川,畠山の3氏が交代で就任したのでこの3氏を三管領 (→三管四職 ) といった。管領が出軍などの理由でその任務を遂行できない場合は,臨時に管領代がおかれた。室町幕府の政務の実権は管領にあったが,応仁の乱以後は名目化し,欠職した場合もあった。
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*侍所 近侍の者の伺候する場所。転じて職名となった。
(1) 院および親王家,三位以上の摂関家などにおかれ,別当,年預,所司などの職員をおいた。
(2) 鎌倉,室町幕府の職名。平時は守護,地頭,御家人などを管轄し,非違を検断し,罪人を処罰し,戦時には軍事を指揮した。長官を別当といい,和田義盛が初めて任じられた。室町幕府では,長官を所司または頭人と称し,赤松,一色,山名,京極の4氏が交代でつとめたため,四職 (→三管四職 ) と称せられた。所司のもとに所司代がおかれた。
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*政所 平安時代中期以後,親王家,摂関家,公卿,有力社寺の家政機関。主として所領荘園の事務を司った。特に摂関家の政所は大規模で,多数の別当を配していた。源頼朝は建久2 (1191) 年2月大江広元を別当に,以下令 (れい) ,案主 (あんじゅ) ,知家事 (ちけじ) の職制を定め,鎌倉幕府および一部の民事訴訟を管掌させた。その後執権政治が成立すると,別当は北条氏の兼職となり,令,案主,知家事は二階堂,菅野,清原氏の世襲となった。室町幕府におかれた政所もこれを踏襲し,財政事務を司った。執事は伊勢氏,政所代は蜷川氏がこれを世襲した。
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*関東管領 室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名。足利尊氏が京都に幕府を開くにあたって,一族を鎌倉におき,その政庁を鎌倉府と称して関東諸国を統括させた。鎌倉府の主は鎌倉公方と呼ばれ,その下には執事以下ほぼ室町幕府と同様の官職機構が整えられていた。ところが,尊氏と直義との対立 (→観応の擾乱 ) から,幕府と鎌倉府との関係が険悪となり,幕府は鎌倉府が関東に独立的権力を確立することを恐れ,鎌倉公方の補佐役として,正平 18=貞治2 (1363) 年,鎌倉府執事であった上杉憲顕を関東管領に任命して目付的役割を果させることにした。以後,関東管領は幕府が直接補任することとなり,上杉氏が世襲して,次第に鎌倉公方と対立するようになった。鎌倉公方は関東において独立的権力確立のため積極的行動をとって幕府との対立が先鋭化し,ついに永享の乱で持氏は自殺,その子成氏は下総古河に逃れて古河公方と称し,関東管領上杉氏と対立した。以後,関東は両者の抗争をめぐって争乱が続いたが,長禄1 (1457) 年,幕府は足利政知を伊豆堀越にくだして上杉氏を助けたので,関東の実権は上杉氏が握ることになった。しかし,やがて上杉氏の内部で山内,扇谷両上杉氏の対立が生じ,戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭して,関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏 (山内上杉氏の被官) を頼って逃れ,のちに関東管領職を上杉の家名とともに長尾景虎 (上杉謙信) に譲った。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが,後北条氏,武田氏らにはばまれて失敗,関東管領は有名無実の存在となり,謙信の死後は関東管領職を継ぐものがなく,名実ともに消滅した。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代、観応元年/正平5年10月26日(1350年11月26日)から正平7年2月26日(1352年3月12日)にかけて、足利政権の内紛によって行われた戦乱。
将軍・足利尊氏の弟足利直義の派閥が、足利家執事・高師直の派閥に反乱を企てたため、征夷大将軍である足利尊氏がこれを制圧した。
実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、公家と武家同士の確執なども背景とする。複雑な政治状況の中で、日本全国には地域ごとの権力者が存在し、彼らもまた南朝と北朝のどちらを支持するかで立場を変えていた。
経過
直義の京都出奔と擾乱の勃発
ところが、直冬討伐へ尊氏が出陣する直前の10月26日夜に、直義は京都を出奔していた。一般に、この事件をもって観応の擾乱の開始とする[注釈 1]。
直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ、国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。こうして、戦乱が本格的に始まった。
関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。
高一族の滅亡
観応2年(南朝:正平6年、1351年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び2月17日の摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は、表向きは師直の出家を条件として挙げていたが、実際は氏直を通じて直義に"師直の殺害を許可する"旨の密命を伝えていた。2月20日、和議は成立するも、果たして2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲の軍勢により、摂津武庫川で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。
直義と尊氏の対立
高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も経たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、直義派の武将の処罰や自派の武将に対する恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派に取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝に帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。
3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する態勢を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇に比叡山へ逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。
正平一統
京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件だったが、観応2年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。これを正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。
尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えること、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。
薩埵峠の戦い
一方、尊氏は直義追討のために出陣、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。
直義の死と擾乱の決着
その後、直義は鎌倉の浄妙寺境内の延福寺に幽閉された。2月25日には鎌倉で尊氏の四男基氏の元服が行われている[12]。その翌日、直義は2月26日(西暦3月12日)に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の一周忌にあたり、『太平記』の物語でも尊氏による毒殺であると描かれていることから、毒殺説を支持する研究者としない研究者に分かれる。
一般に、直義の死をもって擾乱の決着とする。
『観応の擾乱』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1
2024年 日本歴史
足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。
南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させ、北山第の中心とした鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。
邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。
生涯
幼少期
延文3年(1358年)8月22日、義満は2代将軍・足利義詮の子として京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継の屋敷で生まれた。祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。母の紀良子は石清水神官善法寺通清の娘で、母を通じて順徳天皇の玄孫でもあった。幼名は春王と名付けられた。
春王は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折しており、その後、幸子との間に子はなく、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。幼児期は伊勢邸で養育された。
春王が幼少の頃の幕府(北朝方)は南朝との抗争が続き、さらに足利氏の内紛である観応の擾乱以来、幕政を巡る争いは深刻さを増していた。康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝方に京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江国に逃れた。春王は僅かな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛され、赤松則祐の居城の播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後、しばらくの間、春王は(赤松)則祐により養育される。幕府側はすぐに京都を奪還し、春王も京都への帰路につくがその道中、摂津国に泊まった際に景色が良いことを気に入り、「ここの景色は良いから京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」という命令を出し、家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。京都に帰還した春王は、新しく管領となった斯波義将に養育され、貞治3年(1364年)3月には7歳で初めて乗馬した。
貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行い、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。
貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により、細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の春王は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている。
家督・将軍職相続
貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた[7][6]。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。
貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。
12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ。
応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之を烏帽子親として、元服した。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。
応安2年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
さらに京都の支配を強化するために、応安3年(1370年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。
永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。
永和4年(1378年)には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
応安7年(1374年)、日野業子を正室に迎えた。
永徳2年(1382年)、開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。
至徳2年(1385年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し、康応元年(1389年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった。
権力強化と南北朝合一
康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康・山名時義らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。
永和4年(1378年)3月、義満は右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。
自らの昇進により足利家の家格を准摂家にまで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた(武士の棟梁足利家の立場が必要な文書の場合は其の後も武士型花押が用いられ続ける)。
永和5年(1379年)8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が、春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ(康暦の強訴)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、康暦2年(1380年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて、寺社勢力に大打撃を与えた。
もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が至徳2年(1385年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、応永元年(1394年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している。
義満は祖父の尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。永徳3年(1383年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。
嘉慶元年(1388年)に土岐頼康、翌康応元年(1389年)に山名時義が死去する。反細川派の重鎮として知られた両者には義満も思うところがあったらしく、土岐頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐康行を討伐(土岐康行の乱)、続けて山名時煕も討伐した。
明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)[注釈 4]。
明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、56年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。
明徳4年(1393年)、義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が崩御し、自己の権力を確固たるものにした義満は、応永元年12月(1395年1月)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、大御所として政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。
応永2年(1395年)6月、義満は出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の、太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためと考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、皇族の常盤井宮滿仁親王まで追従して出家している。
同年、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。
応永6年(1399年)、西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
上記、室町幕府とはの項、参考。
こちらの図がよくわかりました→5分でわかる!政治機構の全体図 Try iT様
奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。
沿革
室町幕府初期
奉行人は鎌倉幕府より存在しており大江氏や二階堂氏等、鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏に従って室町幕府に参加した者の中には引き続き、奉行人として用いられる者もいた。当初、引付と呼ばれる裁判機関に右筆と呼ばれる奉行人を配置して奉書・御教書などを作成した。また、仁政方・庭中方・内奏方などの各種訴訟機関も設置されて奉行人が配置された。
しかし、鎌倉幕府の体制を引き継いだ政権構想を主導してきた足利直義の没落、3代将軍足利義満が院別当・太政大臣などを歴任することで院政・朝廷の政治機能が幕府機構に吸収されるなどの変化に伴って奉行人の役割も変質してくることになる。
引付が事実上廃止されて、政所・侍所・問注所・恩賞方などに右筆が配置された。
「別奉行」と呼ばれる特命を担当する役職に任命される奉行人が現れるようになる[2]。
将軍が主宰する御前沙汰にも御前奉行人(御前衆・御前沙汰衆・恩賞方衆)と呼ばれる右筆中の有力者が参加を許されるようになった。御前沙汰とは本来、恩賞方に設置されて評定衆・引付衆(内談衆)による会議の中でも将軍の私的会議としての性格の強いものであり、奉行人は御前沙汰においては意見状と呼ばれる判決原案を作成する立場にあったが、後には将軍の私的権限において御前奉行人が御前沙汰に参加する事が許されて直接意見を述べるようになった。
義教時代
6代将軍足利義教の時代になると、将軍が管領以下を抑制するために御前沙汰によって重要決定を行うようになり、法制や先例、有職故実などに詳しい御前奉行人は公的には将軍の命令書である奉書(奉行人奉書)の作成・加判を行うとともに、御前沙汰などにおける意見や伺事は将軍の裁決に重大な影響を与えるようになり、次第に将軍の私的顧問としての性格も有するようになった。
特に御前奉行人のうち最高位の者を公人奉行と呼んで右筆・奉行人を統括するとともに評定衆の一員に列せられ、これに続く上位数名も引付衆(内談衆)に準じた待遇を受けるようになる。この頃になると鎌倉時代の奉行人であった太田氏・三善氏らの子孫で、代々こうした知識を家伝・家学として伝えてきた斎藤氏・松田氏・飯尾氏・布施氏など限られた家系によって右筆・奉行人などの地位が独占されるようになり、彼らは奉行衆・右筆方として集団を形成していくことになる[3]。彼らはその重要性にもかかわらず幕府本来の機構の中では組織の次官に当たる開闔・執事代にまでしか昇進できなかった[4]。なお、奉行人のうち御前奉行人(御前沙汰衆)に達しない者をまとめて御前未参衆と称した。
更に、こうした家々の庶流の中には幕府の役職には就けなかった者もいたが、そうした者の中には有力な守護大名に登用されて司法や文書作成などの分野においてその能力を発揮した者も存在した。阿波国守護細川氏に仕えて応仁の乱後の京都の焼け野原の有様を詠ったとされる飯尾常房(彦六左衛門尉)もその1人であるとされている。
その後
義教以後も幕府内部における奉行衆の発言力は増大して、8代将軍足利義政の頃には評定衆などの既存の幕府制度上の役職に代わって、事実上の幕府最高諮問機関を構成することになる。こうした中で、文明17年(1485年)には奉行衆と奉公衆の間で衝突を起こすまでに至っている。義政は奉行衆を基盤に置いていたが、息子の9代将軍足利義尚は奉公衆を近臣に取り立てていたため、衝突は権力を巡って発生した事件であった。
武官である奉公衆は管領による幕府権力の掌握を目指した明応の政変を機に解体に向かうものの、文書作成・裁判行政を担当する奉行衆の価値は幕府機構が存在する限りは引き続いて存在し、戦国時代に入って10代将軍足利義稙・11代将軍足利義澄の2人の将軍が並立した時期には奉行衆も分裂して双方に幕府機構が存在した。また、この時期になると御前沙汰に将軍が出席するのも稀となり、将軍の側近集団によって新たに再編された内談衆(殿中申次・内談方)が奉行衆による沙汰の結論を将軍に伝えて裁可を仰ぐようになった。このように奉行衆は室町幕府の行政機構を支える存在として幕府滅亡まで存続したと考えられている。
奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆(小番衆)、番方などと呼ばれた。
概要
鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。
奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収や京済(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていた。奉公衆は守護から自立した存在であったために守護大名の領国形成の障害になる存在であったが、在国の奉公衆の中には現地の守護とも従属関係を有して家中の親幕府派として行動する事例もあった。
成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。福田豊彦の分析によれば、足利一門および守護大名家の庶流(土岐氏の斎藤妙椿のような有力被官も含める)、根本被官・家僚と称される足利将軍家の古くからの家臣、地方の有力国人領主の3つの層に分けられるとされる。また地域的には近江国・美濃国・尾張国・三河国・摂津国や北陸・山陽・山陰の各地方の出身が多く、意外にも摂津以外の畿内出身者は少ないなどの特徴があるとされる。
沿革
室町時代の初期には南朝や諸勢力の活動をはじめ、幕府内部でも有力守護の政争が絶えず、天授5年/康暦元年(1379年)には康暦の政変で管領細川頼之が失脚している。そこで、3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するため、御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめる。具体的な成立時期については研究者でも意見が分かれているが、戦国時代の大舘常興は管領細川頼之の命で曾祖父の大舘氏信が番役についての注文を作成したと記していること、康暦の政変が起きる前年の永和4年(1378年)に義満が右大将に任ぜられたり花の御所に移り住んだりして警固体制を強化する事情が生じている事から永和から永徳にかけてその原型が出来、応永の初頭には後世に知られる形が整ったとみられている。彼らは将軍直属の軍事力として山名氏が蜂起した明徳の乱や大内義弘が蜂起した応永の乱などで活躍する。
それでも4代将軍・足利義持の頃にはまだ畠山氏や大内氏の軍事力などに依存しており、6代将軍・足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指した。9代将軍・足利義尚は、文官である奉行衆と共に奉公衆を制度として確立していくが、文明17年(1485年)の4月に発生した奉行衆と奉公衆の抗争に際して義尚は一貫して奉公衆を支持したことで彼らの信望を集めていき、長禄元年(1487年)に近江の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)を行った際には、奉公衆が将軍の親衛隊として活動している。大名と将軍の取次役の申次衆から取り立てられる例もあり、政所執事・伊勢氏の一族であった伊勢盛時(北条早雲)も申次衆から義尚の奉公衆に加えられたとされている。ただし、この時期の奉公衆の強化の背景として、応仁の乱以降の混乱で所領支配が困難になった奉公衆の中に帰国して戻ってこなかった者が多く、この欠員を補うために新規に奉公衆を取り立てていかざるを得なかった事情もある[5]。
10代将軍足利義材(義稙)は、延徳3年(1491年)に奉公衆を率いて再度の六角氏討伐を行い、明応2年(1493年)には河内の畠山義豊を討伐するために出陣するが、出陣中に管領の細川政元が将軍廃立を行い(明応の政変)、奉公衆の制度が事実上崩壊し、奉公衆は形骸化していった。ただし、11代将軍になった足利義高(義澄)も、亡命して再起を図った前将軍・足利義材(義稙)も自派の奉公衆の立て直しに努めており、義澄を継いだ12代将軍足利義晴の時代には領国に戻ったり没落した守護大名の庶流家に代わって大舘氏や佐々木流細川氏(大原氏の分家)が番頭になった形跡がある。
13代将軍足利義輝が殺害された永禄の変後、阿波から14代将軍になった足利義栄には義稙以来の奉公衆に加えて義輝の奉公衆だった者が加わる一方、越前に逃れた足利義昭の将軍擁立を図る奉公衆もいた。義昭は織田信長の支援で15代将軍になったが、義栄に味方した奉公衆の多くは追放されたために、安見宗房のように新たに奉公衆に取り立てたり、奉公衆とは別に創設されていた足軽衆の整備が図られた(明智光秀も元は足軽衆の出身であったと考えられている)[7]。
天正元年(1573年)、足利義昭は織田信長によって京都から追放されるが、義昭と行動を共にした奉公衆は全体の2割ほどであったと伝えられ、多くは信長に従ったとされる。また、そもそもの話として、義昭期の奉公衆に対する待遇の悪化と信長が彼らの保護策を義昭に求めたことも対立の一因として考えられている[8]。義昭が京都から追放された後も将軍職は解任されておらず、身分の称号としては存在し続けていたものの制度としての奉公衆は完全に崩壊し、その称号自体も義昭が豊臣政権に従って将軍職を正式に辞任したことで廃止されることになった[9]。
しかし、番の結束力は固さは幕府終末期まで続き、その後も明智光秀の中心的な家臣として石谷氏(斎藤利三)、肥田氏、進士氏など旧奉公衆が参加している。
守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。
鎌倉時代
鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていた。
室町時代
室町幕府が成立すると、鎌倉幕府の守護制度を継承した。当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていく。
1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)、観応の擾乱における軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領から年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初、半済は戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化され、各地に拡がっていく。1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)に出された応安の半済令は、従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。この守護請によって、守護は土地自体を支配する権利、すなわち下地進止権(したじしんしけん)を獲得していく。
また、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のため田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収は、守護が行うこととされた。守護はこの徴収権を利用して、独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的権能をますます強めていった。
守護は以上のように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収し、国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衙領や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領(しゅごりょう)を形成した。
またこれと並行して、守護は強い経済力をもって、上記の在庁官人の他、国内の地頭・名主といった有力者(当時、国人と呼ばれた)をも被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力(一円支配)を強めていった。
こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は、後世の大名領国制と比べると必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例も、実際には多く見られる。また、幕府も荘園制度の解体や守護の権力強化は望ましいとは考えておらず、有力守護大名に対して度々掣肘を加えている。
室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置いた。さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。なお、東国の守護は京都ではなく、鎌倉府のある鎌倉に出仕していた。これを在倉制と称する。
これに対して幕府の将軍も自らの側近を従来の奉公衆・奉行衆とともに守護大名家の庶流にも求め、庶流出身の側近に宗家とは別箇に守護職の地位を与える場合もあった。彼らの補佐のもとに将軍の親裁権を高めるとともに守護大名家の分裂と弱体化を誘った。この路線は守護大名の強力な後ろ盾の下に足利将軍家を継いだ足利義持の頃から見られその後継者に継承されるが、守護大名家の分裂と弱体化には一定の成果が見られたものの、肝心な将軍の親裁権強化は有力守護大名の抵抗を前に困難を極め、室町幕府の権力基盤を弱めたばかりではなく、嘉吉の乱や応仁の乱の原因の一つとなった。
戦国時代へ
応仁の乱の前後から、守護大名同士の紛争が目立って増加した。それに歩調を合わせるように、国人層の独立志向(国人一揆など)が顕著に現れるようになった。これらの動きは、一方では守護大名の権威の低下を招いたが、また一方で守護大名による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2年)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護大名は、守護代・国人などにその地位を奪われて没落し、逆に国人支配の強化に成功した守護大名は、領国支配を一層強めていった。
こうして室町期の守護のうち領国や家中の統一に成功した守護や、守護家に代わり地域支配を成し遂げた守護代・国人は、独自の領域支配や軍事・外交的行動を行う戦国大名へと変質・成長し、戦国大名の出現をもって「戦国時代」の時代呼称が行われている。
戦国期においても室町将軍体制は一定の影響を保っており、室町将軍の御分国であった畿内や西国には守護家出身の戦国大名が多く、東国には駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名出自の戦国大名家のほか、非守護家でありつつも広域支配を行った後北条氏や、関東・東北地方では郡単位の地域勢力が分立するなど地域的特徴をもつ。戦国期における守護権威の位置づけについては諸説あるが、おおむね一定の影響力はもちつつも、戦国大名は室町将軍に認証される守護権威に左右されない独自の大名権力を有していた点も指摘される。また、斯波氏の一家臣から正式の守護に転じて数代を経た越前朝倉氏のような少数例も存在する。
それに対応する形で、守護は国府付近に構えていた平地の守護所を、山城およびその山麓の館に移し防衛力を強化した。戦国時代は下位の者が上位者に取って代わる下剋上の時代とされているが、実際にはかなりの守護大名も城郭を構えて戦国大名への転身を遂げていた。
織豊政権・江戸時代へ
室町幕府の滅亡後、織豊政権や江戸幕府の統一政権によって承認された地域勢力は近世大名となった。守護大名家のうち近世大名として残存できた家は、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家と、室町時代の末期に守護に任命された伊達家、毛利家を合わせた計10家にとどまる。さらに江戸期まで守護の地に踏みとどまれたのは島津家(薩摩・大隅・日向守護→薩摩鹿児島藩)、伊達家(陸奥守護→陸奥仙台藩)、毛利家(長門・周防守護→長門萩藩)、宗家(対馬守護→対馬厳原藩)のみである。京極家(出雲守護→出雲松江藩)と小笠原家(信濃守護→信濃飯田藩)は一時的にだが旧守護地に戻れた時期があった。本領を失った大名のうち、山名家、河内畠山家、能登畠山家、駿河今川家、甲斐武田家、土岐家、大友家は交代寄合や高家として存続した。
補足
なお、室町時代当時においては、「守護」と「大名」の言葉は明確に区別して用いられていた。室町幕府関係の古文書を参照すると、同じ守護大名を指す場合でも大犯三ヶ条を始めとして軍役や徴税など守護の管国内における職務に関する活動についての文書には「守護」と呼称され、管国以外の国や国政全般に関する活動についての文書には「大名」と呼称されていた。つまり室町時代当時において守護、あるいは大名と呼ばれる存在を、後世の歴史用語として守護大名と呼称している訳である。
斯波氏 - 尾張・越前・遠江・越中・加賀・信濃
畠山氏 - 河内・能登・越中・紀伊・山城
細川氏 - 和泉・摂津・丹波・備中・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
一色氏 - 三河・若狭・丹後・伊勢(北)・志摩・山城・尾張
赤松氏 - 摂津・播磨・美作・備前
京極氏 - 出雲・隠岐・飛騨
山名氏 - 但馬・因幡・伯耆・石見・備後・安芸・播磨・美作
北畠氏 - 伊勢(南)
土岐氏 - 美濃・伊勢
朝倉氏 - 越前
今川氏 - 遠江・駿河
大崎氏 - 若狭・(陸奥)
伊達氏 - 陸奥(追加設置)
武田氏 - 甲斐・信濃・若狭・安芸
小笠原氏 - 信濃・阿波
上杉氏 - 相模・伊豆・上総・武蔵・上野・越後
佐竹氏 - 常陸
六角氏 - 近江
仁木氏 - 伊賀
宇都宮氏 - 下野
小山氏 - 下野
結城氏 - 下野
千葉氏 - 下総
富樫氏 - 加賀
大内氏 - 石見・安芸・周防・長門・筑前・豊前
尼子氏 - 出雲・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後・隠岐
毛利氏 - 安芸・周防・長門・備後・備中
河野氏 - 伊予
渋川氏 - 肥前
大友氏 - 豊後・豊前・筑後
少弐氏 - 筑前・肥前・豊前
阿蘇氏 - 肥後
菊池氏 - 肥後
島津氏 - 日向・大隅・薩摩
宗氏 - 対馬
(興福寺) - 大和
『守護大名』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E5%A4%A7%E5%90%8D
軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。最初,執事と称されていたが,正平 17=貞治1 (1362) 年斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが,3代将軍足利義満のときに管領職がおかれ,足利氏の一族,斯波,細川,畠山の3氏が交代で就任したのでこの3氏を三管領 (→三管四職 ) といった。管領が出軍などの理由でその任務を遂行できない場合は,臨時に管領代がおかれた。室町幕府の政務の実権は管領にあったが,応仁の乱以後は名目化し,欠職した場合もあった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[細川頼之]
[生]元徳1(1329)
[没]元中9=明徳3(1392).3.2. 京都?
室町幕府管領 (在職 1367~79) 。阿波,讃岐,土佐,淡路の守護。頼春の子。中国管領として正平 17=貞治1 (62) 年幕府から離反したいとこ清氏を讃岐に滅ぼし,細川一族を統制,四国を平定した。正平 22=貞治6 (67) 年将軍足利義詮 (よしあきら) の委託を受けて管領となり,幼少の将軍義満の補佐役となり,以後 12年間事実上幕政を主宰した。正平 23=応安1 (68) 年武蔵守,3年後相模守となった。しかし彼の専横なやり方に,斯波氏をはじめ諸大名が反発し,康暦の政変 (79) で失脚,四国へ下った。元中8=明徳2 (91) 年政界へ復帰,養子の管領頼元の後見となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名、室町幕府2代管領。官位は従四位下、始め武蔵守、相模守。細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。
観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、2代将軍義詮の執事だった清氏は失脚し、これを討った頼之が幼少の3代将軍義満の管領として幕政を主導、半済令の施行や南朝との和睦などを行った。義満が長じた後、斯波義将らとの政争康暦の政変で一旦失脚するが、後に赦免されて幕政に復帰した。その後は家督を継がせた養子(異母弟)頼元とその子孫が、斯波氏(武衛家)・畠山氏(金吾家)と共に将軍に次ぐ三管領として幕政を担った。頼元以後代々右京大夫(唐名右京兆)の官位に任ぜられたことから、この系統は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれ、没落した清氏の系統に代わって細川氏の本家嫡流となった。
生涯
観応の擾乱から四国平定まで
三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)にて細川頼春の子として誕生した。幼名は弥九郎。
史料上の初見は観応の擾乱における阿波国での軍事行動となる。初代将軍尊氏に従う父のもとにあったが、観応元年(正平5年、1350年)に阿波の国人小笠原頼清が乱に乗じて南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣された。阿波在陣中の観応3年(正平7年、1352年)に南朝の京都侵攻で父が戦死すると、頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京、将軍継嗣義詮に属し、讃岐国の軍勢を率いる弟頼有らと共に男山合戦に参加して南軍を駆逐した。その間に阿波の南軍が再び活発になると、頼之は父の阿波守護を継承して領国経営に従事し、小笠原氏や伊予国の河野氏、国人勢力らとの戦いの中、次第に四国における領国支配体制を固める。
この頃、南朝と通じて山名時氏ら反幕府勢力を結集させ、中国地方から伊予にかけて勢力を及ぼし、京都を脅かしていた足利直冬(義詮の異母兄)に対し、義詮が征討の軍を起こした際は、阿波の頼之は伊予への発向が命じられ、文和3年(1354年)には河野通盛に代わって伊予の守護に補任された。
義詮軍は翌年進発したが、越前国守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還されたため、頼之は引き返した義詮と共に京都奪還に加わり、摂津神南合戦に加わった。南軍駆逐後は従兄の清氏と共に三宝院賢俊を訪ねるなど京都に滞在し、右馬頭に任じられた。
翌延文元年(1356年)に再び直冬征討軍が起こされると、頼之は備後国守護に補任され、九州で勢力を持っていた直冬の追討を指揮する大将を命じられた。この時頼之は、闕所処分権を将軍尊氏に拒否されたため、就任を固辞し阿波へ下国しようとしたが、従兄清氏の説得で帰京したという。頼之は、阿波の南軍に対しては有力被官新開氏を守護代として備えつつ、自らは中国地方へ発向して備前国・備中国・備後・安芸国・伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与などの軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使している。正式な幕職であるかは不明だが、頼之は軍事指揮者として中国大将、地方統轄者としては中国管領と呼ばれており、長門探題として中国地方に勢力を広げた直冬に対抗させる幕府の意図があったとも考えられている。
頼之が直冬勢力を逼塞させ中国地方を平定しているころ、中央では将軍尊氏が死去して義詮が2代将軍となり、頼之の従兄清氏が執事に任命された。だが、貞治元年(1362年)に清氏が斯波氏や佐々木道誉らとの政争に敗れ南朝側に奔って阿波へ下ったことから、頼之は義詮から清氏討伐を命じられた。7月に讃岐国へ移った清氏勢を、頼之は宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)の兵を率いて白峰城で破った。清氏はこの戦いで敗死した。
清氏討伐中、再び活発化した直冬勢力だったが、その有力な支持勢力だった大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰順していたため、やがて鎮圧された。時氏の帰順工作には頼之も関わっていたとも言われる。頼之は、中国地方の安定により中国管領を解かれたものの、本国の阿波国に加えて讃岐・土佐国の守護を兼ね、さらに伊予の河野通朝を追討して四国を平定した。
管領時代
貞治5年(1366年)に執事(管領)斯波義将とその父高経が失脚する(貞治の変)。頼之は幕府に召還され、佐々木道誉や赤松氏ら反斯波派の支持や鎌倉公方足利基氏の推挙もあって、死去直前の義詮の命により管領に就任した。頼之は当時11歳の新将軍義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わった。内政面では倹約令など法令の制定、応安元年(1368年)には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行する。またばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制した。
南朝勢力に対しては、応安2年(1369年)に楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し、翌年には今川貞世(了俊)を九州探題として派遣して懐良親王ら九州の南軍を駆逐させ、平定を推し進めた。
応安3年(1370年)8月には、北朝後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問すると、後光厳の兄の崇光上皇が実子の栄仁親王が正嫡であると主張したため皇位継承問題が発生した。頼之は事態収拾は聖断によるべきと深入りを避けつつも天皇側を支持するが、上皇側は義詮の正室で義満の継母渋川幸子らに運動して対抗すると、頼之は光厳院の遺勅を示して介入を封じた。
さらに比叡山など伝統的仏教勢力と五山の南禅寺など新興禅宗勢力の抗争から政治問題が発生した。天龍寺住職春屋妙葩の発議で進められていた南禅寺の楼門建造を幕府は助成していたが、南禅寺と園城寺の抗争から南禅寺僧定山祖禅が著作において天台を非難すると、叡山側がこれに猛抗議して朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めた。山門側が神輿を奉じて入京すると、頼之は内裏を警護させ強訴を阻止し、朝廷の要請もあり定山祖禅は流罪に処したが楼門造営は続行させた。山門側は尚も破却を求めて強訴を続け、朝廷や諸将も山門を恐れたため遂に屈し、7月には楼門撤去を決定する。五山側では春屋妙葩が住職を辞するなど幕府の裁定に抗議し、五山側とは溝が生じることとなった。
康暦の政変
頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、渋川幸子や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。また、今川了俊の九州制圧も長期化していた。こうした中、頼之は辞意を表明して義満に慰留されることで信任を回復することも何度かあった。
しかし、康暦元年(天授5年、1379年)に頼之の養子頼元を総大将とする紀伊国への南朝征討が失敗する。義満がこれに代えて反頼之派の山名氏清らを征討に向かわせ、さらに斯波氏や土岐頼康に兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極高秀らも参加して将軍邸を包囲した(御所巻)。この康暦の政変と呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて本幹の領地である讃岐へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された。
義満は斯波派の頼之討伐の要望を抑えたが、政変を知った伊予の河野通堯は幕府に帰服すると斯波派と結んで討伐の御書を受け、頼之に対抗した。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化を進めていたことから、その力で通堯や細川正氏(清氏の遺児)らを破り、永徳元年(1381年)には通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めていった。
復権と晩年
頼之の養子頼元は赦免運動を行い、康応元年(1389年)の義満の厳島神社参詣の折には讃岐の国人らの船舶の提供を手配し、宇多津で赦免された。そして、明徳2年(1391年)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、義満から上洛命令を受けた頼之が入京を果たした。
義満は頼之の管領復帰を望んでいたが、頼之は既に出家していたため、代わりに頼元を管領とし、頼之はこれを補佐することとなった。幕府役職にない頼之を幕政に参画させるため、義満は将軍の私的な会合に近かった御前沙汰に頼之を加える形式で開催し、重要事項の審議を行った。この先例は、後に義満が嫡男義持に将軍職を譲って出家した後、自ら幕政を主宰する場合にも用いられた。
明徳元年(1390年)、備後国が乱れるにおよび、頼之は備後守護になってこれを平定した[1]。翌年の明徳の乱では幕府方として山名氏清と戦った後、再び京都に召喚されて幕政に関与したが、元中9年/明徳3年(1392年)にはいって風邪が重篤となり3月に死去した。享年64。
葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。
人物
細川頼之(『前賢故実』より)
江戸時代の逸話集『雑々拾遺』によれば幼くして聡明さを見せ、『細川三将略伝』によれば従兄の細川清氏と力比べをしたなどの幼少時の逸話や、父頼春に伴われ夢窓疎石の法話を聞き感化されたという。
10歳のころ、「主人の御用で使いにゆく途中で親の仇に出会ったらどうするか」が話題になったとき、たちどころに「親の仇を持つものはなによりも仇討ちを遂げるべきであり、そのあいだは主に仕えるべきではない」と述べたという[2]。
文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰している。失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩『海南行』も有名である。また、軍事作法について記した書状も存在している。幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行う。
管領を辞任して出家すると言い義満に引き止められたり、評議の場で故意に義満の怒りを買い将軍の権威を高めようとしたとされる。
京都での頼之の邸は、火事見舞いの記録などから六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所であった。
『細川家譜』等に拠れば、明徳の乱に従軍した折、路傍の寺院で供え物を拝借したという。細川家ではこれを吉例とし、代々元旦には饗膳を供えたという。
江戸時代に徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた阿部忠秋は、「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」「細川頼之以来の執権」と評される。
勝海舟は、日本の経済を発展させた歴史上の人物として、豊臣秀吉などと共に頼之を挙げている。
家系
父は細川頼春、母は黒沢禅尼。妻は春日局(持明院保世の娘)で室町幕府3代将軍足利義満の乳母となっており、義満と同年代の実子がいたが早世したとも考えられる。弟には、細川氏嫡流(京兆家)となった養子頼元の他、阿波守護家の祖詮春、和泉上守護家の祖頼有、備中守護家の祖満之がいる。養子は、頼元の他に、和泉下守護家の祖基之(満之の子)がいる。
墓所・木像・肖像画
墓所は頼之が建立した寺である京都府京都市西京区の衣笠山地蔵院、山型の自然石が墓石として残されている。地蔵院には頼之の法体の肖像画や木像、頼之夫人の肖像画も所蔵されている。その他、頼之が細川氏発祥地に建立した愛知県岡崎市細川町の細川山蓮性院にも墓がある。頼之の位牌や念持仏なども所蔵されている。
相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派の大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。本尊は釈迦如来。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
歴史
永徳2年(1382年)、室町幕府第3代将軍足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願した。その地はかつて行基により創建された出雲寺(現・毘沙門堂。出雲寺は現・上京区毘沙門町にあった)や、法然が住していた賀茂の釈迦堂(現・百万遍知恩寺)が建っていた場所であるが、当時は安聖寺や公家の屋敷が建てられていたのでそれらを移転させている。こうして新たな寺院が建立されることとなり、その名称は、春屋妙葩が開基である足利義満が唐名では「相国」と呼ばれる職である左大臣に任じられていたことから相国寺を推し、また、義堂周信が明には五山制度の始まりの寺院である大相国寺があり、それにあやかって相国寺を推したことから「相国寺」と名付けられた。
その間、至徳3年(1386年)には義満によって京都五山と鎌倉五山が改めて制定され、相国寺は京都五山の第二位に叙されている。寺が竣工したのは創建から10年後の明徳3年(1392年)であった。
義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた[注釈 1]。空谷明応は3度住持を務め、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)の火災で伽藍が全焼した際も義満に乞われて住職に復帰して再建にあたっている。応永8年(1401年)3月5日に義満は相国寺を京都五山の第一位に昇らせた。応永14年(1407年)頃に寺は復興を果たした。この頃には塔頭が50か寺ほどもあり隆盛を誇っていた。ただ、義満が亡くなった後の応永17年(1410年)2月28日、相国寺の京都五山の序列は元の通りの第二位に戻されている。
しかし、応永32年(1425年)に再び火災で全焼し、寛正4年(1463年)に復興している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地とされたため、そのあおりを受けて全焼した(相国寺の戦い)。その後、再建が進められていたが天文20年(1551年)に細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて全焼した(相国寺の戦い)。ここまでで都合4回も全焼の憂き目にあっている。
天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって建立されたものである。慶長14年(1609年)には三門が徳川家康によって寄進されている。その後、元和6年(1620年)に火災があった。
明和2年(1765年)9月29日、伊藤若冲により釈迦三尊像と動植綵絵が寄進されている。
天明8年(1788年)の天明の大火で法堂、浴室、塔頭9か寺を残してほとんどの堂宇が焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間(1804年 - 1818年)に再建されたものである。
明治時代になると廃仏毀釈の影響を受け、多くの塔頭が統合されたり廃絶されたりし、相国寺は困窮した。そこで、1889年(明治22年)3月に伊藤若冲が描いた動植綵絵を明治天皇へ献納し金1万円が下賜された。これにより、1万8千坪の敷地の維持ができた。それでも塔頭が建っていた跡地の多くは失われ、その跡地には同志社大学、京都府立鴨沂高等学校、京都市立烏丸中学校などが建てられた。
七重大塔
足利義満によって応永6年(1399年)に建てられた七重大塔は、応永10年(1403年)に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。1914年(大正3年)の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。七重大塔は北山山荘(現・鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が、義満の没後の応永23年(1416年)に再び落雷で焼失した。その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建されたのが3代目の塔であるが、文明2年(1470年)にまたもや落雷で焼失している。
境内
境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。
法堂(重要文化財) - 無畏堂とも呼ばれるが、現在、当寺には仏殿がないために仏殿も兼ねているため本堂とも呼ばれる。慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が米1万5千石を寄進して再建された。この時点で5回目の再建であった。日本にある法堂建築としては最古のものである。本尊である釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像、迦葉尊者像は運慶による作とされている。天井にある蟠龍図は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。最初に建てられたのは明徳2年(1391年)であり、法雷堂と称された。
開山堂(開山塔、京都府指定有形文化財) - 開山・夢窓疎石像を祀る堂で、桃園天皇の皇后・恭礼門院の女院御所内にあった黒御殿を文化4年(1807年)に下賜されて現在地に移築したもの。礼堂と祠堂で構成されている。創建時の開山堂は資寿院と呼ばれていた。
開山堂庭園「龍渕水の庭」 - 奥が山水庭園で、手前が枯山水庭園となっている。山水庭園にはかつては水が流れていた。
方丈(京都府指定有形文化財) - 文化4年(1807年)再建。扁額「方丈」は中国の名筆家・張即文の筆。方丈と周りの杉戸絵、琴棋書画の間の琴棋書画図、聴呼の間の八仙人図は原在中の筆。竹の間の竹図は浄土宗の僧・玉潾の筆。梅の間の老梅図は伊藤若冲の弟子で相国寺第115世・維明周奎の筆。御所移しの間にある吉野山桜図は御所の清涼殿より拝領したもので、土佐光起の筆ともされている。
大玄関 - 1883年(明治16年)に設けられたもので、それまでは韋駄天を祀る堂であったと考えられている。
方丈前庭 - 白砂が敷かれている。
方丈勅使門(京都府指定有形文化財)
裏方丈庭園(京都市指定名勝) - 苔庭に石の川が造られている。
庫裏(京都府指定有形文化財) - 香積院とも呼ばれる。文化4年(1807年)再建。
承天閣美術館 - 相国寺と塔頭寺院(鹿苑寺、慈照寺など)の文化財を収蔵展示する施設で、1984年(昭和59年)4月に開館した。
般若林 - 本来は境内のアカマツ林の名称であったが、現在は演劇塾「おさだ塾」の本拠地の建物をいう。
浴室(京都府指定有形文化財) - 宣明(せんみょう)とも呼ばれる。慶長4年(1596年)再建。蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる。創建は応永7年(1400年)頃。(右の画像参照)
天響楼(鐘楼) - 2011年(平成23年)夏の建立。中国の開封にある大相国寺(中国語版)により二つ鋳造された梵鐘のうちの一つ。日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもの。
鎮守八幡宮 - かつては現在の上京区御所八幡町にあった。
後水尾帝歯髪塚 - この地には、もともと承応2年(1653年)に後水尾上皇によって再建された大塔があり、その上層部に後水尾上皇の歯と髪を納めていた。しかし、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失したため、この塚が造られた。
経蔵(京都府指定有形文化財) - 万延元年(1860年)再建。この地にはもともと宝塔が建てられていた。
足利義政の墓
藤原定家の墓
伊藤若冲の墓
弁天社(京都府指定有形文化財) - 17世紀後半の建築で、もともとは久邇宮邸で祀られていたもの。1880年(明治13年)に久邇宮朝彦親王によって寄進され、移築された。
宗旦稲荷社 - 千宗旦に化けていた狐・宗旦狐を祀る。
洪音楼(鐘楼、京都府指定有形文化財) - 天保14年(1843年)再建。袴腰付鐘楼。梵鐘は寛永6年(1629年)に鋳造されたものを寛政元年(1789年)4月に買い取ったもの。
仏殿跡 - 礎石と土壇が残る。以前の建物は天文20年(1551年)の石橋の乱で焼失した。
三門跡 - 礎石と基壇が残る。以前の建物は慶長14年(1609年)に徳川家康によって寄進されたものだったが、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失した。
方丈池
天界橋
勅使門(京都府指定有形文化財) - 御幸門とも呼ばれる。慶長年間(1596年 - 1615年)再建。
総門(京都府指定有形文化財) - 寛政9年(1797年)再建。
法然水 - 法然ゆかりの井戸。境内の外、北側にある。
塔頭寺院
かつては臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括する役所鹿苑院があった。足利義満が鹿苑院の院主である絶海中津を僧録に任命して以来、その院主が僧録を兼務し鹿苑僧録として権勢を振るうことになった。明治時代初期の廃仏毀釈の嵐に見舞われて廃絶。
山内塔頭
大光明寺
豊光寺 - 西笑承兌が豊臣秀吉追善のため創建。天明の大火で焼失し、廃絶の危機にあったが、明治15年(1882年)荻野独園が、慧林院とその子院霊香軒の客殿を移築し再興。
長得院
慈照院
慈雲院 - 室町時代中期に創建された[5]。開祖の瑞渓周鳳は相国寺第42世住持を務め、室町幕府8代将軍足利義政に重用されて幕府の外交文書の作成にあたり、日本初の外交史書とされる『善隣国宝記』を編集した。相国寺第113世住持で慈雲院第9世住持の大典顕常(梅荘顕常)は詩文に長じて一世を風靡し、幕府の信任を受け朝鮮修文職として多くの外交文書に携わった。特に伊藤若冲との親交は深く、売茶翁とも交友があった。本堂仏間には本尊の釈迦如来像が安置されている。本堂北側の廊下には岸連山が虎を描いた板戸が残されている。そのほかにも岸連山の障壁画があり、これらは元は二条家の屋敷にあったものと伝えられている。足利義俊筆の松鶴図や別所如閑筆の釈迦三尊像、伝明兆筆の涅槃図などを寺宝として所蔵している。
瑞春院 - 水上勉が幼い時に暮らし、小説『雁の寺』のモデルになった。
養源院
普広院
大通院 - 相国寺の「専門道場」となっている。坐禅堂は選仏場ともいう。
林光院 - 足利義嗣の菩提を弔うため、夢窓疎石を勧請開山として創建。元は二条西ノ京にあった紀貫之邸宅跡にあったが、移転を繰り返した後、豊臣秀吉の命により山内に移った。明治時代には荒廃し廃院となっていたが、大正8年(1919年)橋本獨山によって再興。建物は仁正寺藩藩邸を買い取り移築。南庭の鶯宿梅には、平安時代の村上天皇の代に清涼殿の梅が枯れたので紀内侍(紀貫之娘)宅の梅を移植したが、「勅なればいともかしこし鶯の 宿はととはばいかがこたえん」という別れを惜しむ娘の和歌短冊が添えられ、これに心打たれた天皇は梅を返したという逸話が残る(『大鏡』[注釈 2])。大正4(1915)年に境外墓所に「甲子役戊辰役薩藩戦死者墓」が建てられた。この墓は甲子役すなわち禁門の変(元治元(1864)年と戊辰戦争(特に鳥羽伏見の戦い)に関わって亡くなった方を弔ったものである[6]。
光源院 - 応永28年(1421年)に創建された[5]。永禄の変で三好義継と松永久通らの軍勢に襲撃され亡くなった室町幕府13代将軍の足利義輝の菩提寺となり、義輝の院号から光源院と名付けられた。昭和63年(1988年)に再建された本堂には、室中の12面に亘り、日本画家の水田慶泉が半年がかりで描いたという襖絵「十二支の図」がある。本堂南には自然石で十二支を表した庭も造られている。2021年に上間と下間の2部屋に、画家の加藤晋による襖絵「風雷坊」「春」「夏秋冬」が奉納された。風景の中に、桃太郎や笠地蔵などの日本の昔話や西遊記などの登場人物を潜ませた絵で、あらゆるものが仏性を持つとする草木国土悉皆成仏の世界を表したものである。明治期の廃仏毀釈の折に移築されたという行者堂には、岩窟に前鬼と後鬼を従えた神變大菩薩(役行者)像が祀られている。その左右には弘法大師像と不動明王像が安置されている。
玉龍院
山外塔頭
鹿苑寺(金閣寺)
慈照寺(銀閣寺)
真如寺
かつての山内塔頭
鹿苑院
文化財
承天閣美術館収蔵品については、同美術館の項を参照。以下には相国寺伝来品のみを掲げる。
国宝
無学祖元墨蹟 4幅 与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日:弘安2年11月1日(1279年12月11日)
重要文化財
本堂(法堂)附:玄関廊
紙本墨画猿猴竹林図 長谷川等伯筆 六曲屏風一双
絹本著色十六羅漢像 陸信忠筆 16幅
絹本著色鳴鶴図 文正筆 2幅
絹本墨画淡彩 鳳凰図 林良筆
紙本墨画 山水図 絶海中津の賛あり
子元祖元高峰顕日問答語
十牛頌(伝・絶海中津筆)10幅
明主勅書 永楽五年五月二十五日とあり(1407年)
異国通船朱印状 13通
普広院指図
京都府指定有形文化財
開山堂
方丈
方丈勅使門
庫裏
浴室
鐘楼(洪音楼)
経蔵
弁天社
勅使門
総門
京都市指定名勝
相国寺裏方丈庭園 - 1985年(昭和60年)6月1日指定。
主な行事
観音懴法 6月17日 相国寺で最も特徴的な法要。観音懴法とは、観音菩薩に対して一切の罪を懺悔し、その罪を消し去るための法要。方丈室中中央に「白衣(びゃくえ)観音像」を掛け、周囲にも文殊菩薩、普賢菩薩等の三十三観音像が掛けられて、その中で相国寺独特の声明により、法要が行なわれる。この法要での声明は「相国寺の声明面(しょうみょうづら)」と評されるほど特徴的なものである。
鹿苑忌 5月6日 開基足利義満の命日である5月6日に執り行なわれる法要。
普明忌 10月3、4日 創建開山春屋妙葩の忌日法要。
開山忌 10月20、21日 勧請開山夢窓疎石の忌日法要。
後水尾天皇忌 8月19日 後水尾天皇の忌日法要。
『相国寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%9B%BD%E5%AF%BA
2024年
鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。建物の内外に金箔が貼られている舎利殿「金閣」が特に有名なことから金閣寺(きんかくじ)という通称で呼ばれることも多い。
寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し(金閣寺放火事件)、1955年(昭和30年)に再建された。
また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
歴史
鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。
応永4年(1397年)、金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394年)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。
応永6年(1399年)には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される。相国寺の七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる。
応永10年(1403年)、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。
応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた。
当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[14]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。
足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた。
足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。
1935年(昭和10年)には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。
1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。
1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。
2003年(平成15年)茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。
『鹿苑寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA
金閣寺と共に2024年の設問中にあった「きぬかけの路」については、当サイトの日本地理「京都市」の項を参照
室町幕府3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の晩年から、4代将軍足利義持(よしもち)の時代にかけて栄えた文化の総称。後の8代将軍足利義政(よしまさ)の時代の文化が京都の東山山荘(ひがしやまさんそう)(慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく))を中心に開花したので東山文化とよぶのに対して、北山山荘(鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく))を中心に栄えたというのでこのように呼び習わして、双方を室町文化の二つの巨峰とみなしている。
義満は、南北朝合一の翌々年、1394年(応永1)に将軍職を子の義持に譲って、太政(だいじょう)大臣となったが、義持がまだ幼少であったので、幕府の実権を握るとともに公家(くげ)の最高職をも兼ねる立場にたち、絶大な権威のもとで政治を左右しただけでなく、この時代の文化に新生面をもたらした。その影響は義満没後にも及び、応永(おうえい)~永享(えいきょう)期(1394~1441)における室町文化の多彩な発展には目を見張るものがあり、この時代を日本のルネサンスとする説もあるくらいである。
北山文化の大きい特徴は、伝統的な公家文化と新興の武家文化との融合ということ、さらには禅宗の深い影響や庶民文化の洗練ということに示される。代表的な建築とみられ、北山文化のシンボルともされる金閣は、舎利殿(しゃりでん)という仏教的な名称をもち、公家邸宅の伝統にたつ寝殿(しんでん)造と寺院風の仏殿(ぶつでん)造とが一体化して、しかも最高の価値を示す金(きん)で飾られた。またこれに付随していた会所(かいしょ)では、連歌(れんが)や闘茶(とうちゃ)の会が催されたり、日明(にちみん)貿易の舶来美術品である唐物(からもの)が陳列されたり、立花(りっか)(いけ花)が展示されたりした。また文学では五山(ござん)の禅宗寺院を中心とする漢詩文(五山文学)が主流を占め、絵画では宋(そう)・元(げん)の影響を受けた水墨画が流行した。さらに芸能では、もともと庶民芸能の一つであった猿楽(さるがく)が、ほかの芸能の美点をも吸収しながら、義満や公家の二条良基(にじょうよしもと)らの保護を被った世阿弥(ぜあみ)によって能楽(のうがく)へと大成された。
[横井 清]
『林屋辰三郎著『日本 歴史と文化 下』(1967・平凡社)』
[参照項目] | 東山文化
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
土岐康行の乱(ときやすゆきのらん)は、南北朝時代の康応元年(1389年)から明徳元年(1390年)にかけて発生した、守護大名の土岐康行が室町幕府に討伐された事件である。美濃の乱、美濃土岐の乱とも呼ばれる。
土岐氏
美濃源氏の土岐氏は美濃国で大きな勢力を有し鎌倉幕府の有力御家人となった。土岐頼貞は南北朝の争乱では北朝方について室町幕府から美濃守護職に任じられ、足利尊氏を助けて功績が大きく幕府創業の功臣となった。その孫の頼康は美濃国・尾張国・伊勢国の3ヵ国の守護に任ぜられて評定衆に連なり、土岐氏の最盛期を築いた。
三代将軍足利義満の時、頼康は管領細川頼之と不和になって勝手に帰国してしまい、義満を激怒させ討伐令を出されたことがある(後に謝罪して許された)。康暦元年(1379年)の康暦の政変では斯波義将とともに細川頼之排斥に動いている。頼康は幕府創業以来の宿老として重きをおいた。
乱の経緯
嘉慶元年(1387年)頼康が70歳の高齢で死去。土岐氏の惣領は養子の康行が継いだ。康行は従兄弟の詮直を尾張守護代とし、弟の満貞を京都代官として義満に近侍させた。
将軍専制権力の確立を目指す義満は統制が困難だった有力守護大名の弱体化を狙っていた。嘉慶2年(1388年)義満は美濃国、伊勢国の守護職の継承のみを康行に許し、尾張国は満貞に与えてしまった。満貞は野心家で尾張守護職を欲して度々義満へ康行と詮直の讒言をしていた。義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を図ったのである。
これに激怒したのが尾張守護代の詮直で、満貞は尾張国へ下向するがこれを拒んで尾張国黒田宿で合戦になり、満貞は敗れて敗走した。京へ逃げ帰った満貞は康行と詮直の謀叛を訴えた。義満はこの機を逃さず、康応元年(1389年)4月に康行を謀反人と断じて討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠・頼益父子が征討に向かった。翌明徳元年(1390年)閏3月に康行は美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)で挙兵するが敗れて没落した。
戦後
康行の美濃国・伊勢国の守護職は没収され、美濃国は戦功のあった土岐頼世(頼忠)、伊勢国は仁木満長へ与えられた。『䕃涼軒日録』によると義満は土岐氏の断絶を考えたが、雲渓支山のとりなしでこれを思い止まり、義満は頼世へ支山に感謝して在所を寄進するよう命じ、頼世は美濃国玉村保を寄進したという。
義満の有力守護大名弱体化政策は続けられ、明徳2年(1391年)には11カ国を領して『六分の一殿』と呼ばれた山名氏一族が征伐された(明徳の乱)。
応永6年(1399年)には6カ国の守護だった大内義弘が義満の挑発によって挙兵して滅ぼされた(応永の乱)。
美濃守護職は後に土岐頼益へ譲補され、以後、頼益の家系が土岐氏の惣領として美濃国を支配する。
康行は明徳2年(1391年)に許されて明徳の乱で戦功を挙げ、応永7年(1400年)に伊勢北半国守護に再任された。以後、康行の家系は伊勢守護職を継承して土岐世保家と呼ばれた。
満貞は明徳の乱に参戦するが、卑怯な振る舞いがあったと咎められて明徳3年(1392年)に尾張守護職を解任されている。尾張守護職は土岐氏から離れて、応永7年(1400年)以降は斯波氏が継承することになった。
乱の発端となった詮直は応永の乱の時に大内義弘に呼応して尾張国で挙兵して美濃国へ討ち入り、美濃守護の土岐頼益に敗れている。
明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年12月(1392年1月)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。
背景
六分の一殿
山名氏守護領国拡大
山名氏は新田氏の一族であったが、山名時氏の時に鎌倉幕府に対する足利尊氏の挙兵に従い、南北朝時代の争乱でも足利氏に味方して功があった。観応の擾乱では尊氏の弟足利直義に加担して戦い、直義の死後は幕府に帰参するが、再び叛いて南朝に降って一時は京都を占領する勢いを示した。その後は直義の養子直冬を助けて戦い山陰地方に大きな勢力を張り、2代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の5か国の守護となった。
時氏の死後も山名氏は領国を拡大する。惣領を継いだ長男の師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国(正確には68か国だが、1.陸奥・出羽は守護不設置なので除く、2.「嶋」扱いなので対馬・壱岐を除く、3.狭島・遠島扱いの隠岐とあまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いの志摩を除いたため通称全国66か国にしたとの3説あり)のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。
将軍権力の強化
室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものであった。正平24年/応安2年(1369年)に3代将軍に就任した足利義満は将軍権力の強化を図った。
天授5年/康暦元年(1379年)、康暦の政変により幕府の実権を握っていた管領細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任する。義満は細川氏と斯波氏の対立を利用して権力を掌握。直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化した。
これに加えて、義満は勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る。元中4年/嘉慶元年(1387年)、幕府創業の功臣であり、美濃、尾張、伊勢3か国の守護である土岐頼康が死去した。甥の康行が後を継いだが、義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発して康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中6年(1389年)に義満は康行討伐の命を下して、翌明徳元年/元中7年(1390年)にこれを下した(土岐康行の乱)。康行は領国を全て取り上げられ、康行の弟満貞が尾張を領有、土岐氏の惣領は叔父の頼忠に移ったが、美濃一国の領有しか許されなかった。
義満の次の狙いは11か国を領する山名氏であった。
山名氏の内紛
山名師義は天授2年/永和2年(1376年)に死去し、4人の息子義幸、氏之、義熙、満幸は若年であったため、中継ぎとして末弟の時義が惣領となった。これに対して、氏清とその婿の満幸が不満を示す。また、時義自身にも不遜な側面があったらしく、康暦の政変で失脚した細川頼之の赦免問題で義満と対立し、義満は時義追討を計画したものの実現しなかったという。もっとも、時義の息子時熙が氏清の婿になったのは時義の存命中であったと考えられることから、氏清には時義に取って代わるなどの意思は持っていなかったとみられ、むしろ一族のネットワークを介した都鄙分業が確立されていたとする見方もある。
元中6年/康応元年(1389年)に時義が死去、惣領と但馬・備後は時熙が、伯耆は時義の養子になっていた時熙の義兄弟の氏之に与えられた。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていった(義幸は永徳元年/弘和元年(1381年)に病を理由に丹後・出雲・隠岐守護を辞任、満幸が3か国を継承した)。
また、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代家臣、師義が佐々木氏(京極氏)に追われた後も彼に随従したことから重用された出雲出身の家臣、支配地域で新たに登用された家臣に分かれて争うようになり、それが主家一族の内紛に拍車をかけた。
明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。時熙と氏之は挙兵して戦うが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め、翌元中8年/明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落した。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。備後も満幸の兄義熙が継承したが、同年に細川頼之に交替させられた。
ただし、『明徳記』に記されているような一族による時煕・氏之への讒言を裏付ける史料は確認されておらず、義満側近でかつ嫡流筋に近く時煕に代わって惣領になり得る可能性があった満幸はともかく、氏清に至っては一度は討伐の中止と時煕らの赦免を願い出ているのである。このため、前年より行われていた土岐氏討伐(土岐康行の乱)の「ついで」に行われた以上の域を出ないとする見方もある。
山名氏との対決
義満の挑発
山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放したが、氏清と満幸の勢力が強まってしまった。義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行っていく。
元中8年/明徳2年(1391年)、逃亡していた時熙と氏之が京都に戻って清水寺の辺りに潜伏して義満に赦免を嘆願。義満がこれを許そうとしているとの噂が広まった。氏清は不安になり、同年10月の義満を招いての宇治の紅葉狩りを直前になって病を理由に中止してしまい、義満の不興を買う。ただし、時熙・氏之が赦免された場合に窮地に立つ可能性が高いのは時煕に代わって惣領の地位を狙っていたと思われる満幸の方であることには注意を要する。
3月に斯波義将が管領を罷免され、後任の管領に頼之の弟で養子の頼元が就任、四国に逼塞していた頼之が赦免され上洛したことと、既に政変に参加していた土岐氏が勢力削減されたことから義満は斯波派の打倒も図ったと推測されている。
その一方で、山名氏の内紛は観応の擾乱において時氏と師義が一時的に対立して以来の長期にわたる構造的な問題であること、時熙と氏之が討伐された後に氏清が山城守護に任じられた理由が説明できないことから、足利義満による守護大名家惣領への権力集中を回避する政策があったとしても、山名氏そのものに対する一族への分裂策や挑発が実際にあったかどうかは不明で、むしろ山名氏の内紛の深刻化に乱の原因を求めるべきであるとする考え方もある[7]。もう一つの問題として、結果的に京都の中心部と言える「内野」にまで山名軍に攻め込まれたのは足利義満及び室町幕府の失態と呼べる事態であり、この乱が義満による挑発であるならば挙兵の可能性を考慮した備えがなかったのは不自然とする見方もある。
同年11月、満幸の分国出雲において後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪され京都から追放されてしまった。仙洞領の保護はかつて応安大法によって規定されたもので、同法の施行時には守護や守護代が召集されて、当時幼少であった将軍義満および管領細川頼之から直々に遵守を命じられた経緯がある土地政策の基本法令であった。当時、幕府による守護統制は重要な課題となっており、幕府にとって重要法令と言える応安大法を無視した守護・満幸に対して解任という厳しい処分を下すことで、他の守護に対しても警告を示すと言う側面もあった。なお、横田荘はその性格から出雲守護ではなく山名氏惣領の管理下にあり、先の時煕追討の結果、満幸の支配下に入った可能性が高く、満幸が横田荘の事情に疎かったために起きた問題である可能性もある。
怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。氏清もこれに同意して一挙に京へ攻め上ることを決意する。満幸を分国丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせ、氏清は堺に兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説いた。義理は躊躇するが遂に同意した。氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜される。
幕府に氏清、満幸謀反の報が12月19日に丹後と河内の代官より伝えられた。幕府重臣らは半信半疑であったが氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)が一族と合流すべく京都を退去するに及んで洛中は大騒ぎになり、重臣達も山名氏の謀反を悟る。
12月25日、義満は軍評定を開き、重臣の間では和解論も出た。氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、必勝を確信していたわけではなかった。山名氏の勢力は強大であり、時氏の時代には山名氏の軍勢によって2度も京都を占領されているからである。義満は和解論を退け「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決める。
内野合戦
幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を平安京の旧大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機した。一色氏は若狭国の守護であったが、前任守護の斯波氏の時代に小浜など若狭国の主要部を占める今富名が恩賞として山名氏に与えられたために守護領のほとんどが失われて以来、歴代の若狭守護は領国経営の基盤を持てずに苦しんでおり、山名氏に対する反感を持っていた。
山名軍は決戦を12月27日と定めて、氏清の軍勢3000騎は堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍した。丹波路を進む満幸の軍勢は26日には内野から三里の峯の堂に布陣する。しかし、氏清は河内守護代遊佐国長に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始める。
12月29日夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り3隊に分かれて京に進撃。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけた。夜間の進軍のため各隊の連係は乱れがちで各個に京へ突入することになった。
12月30日早朝、氏清の弟山名義数、小林上野守の700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘の300騎と激突して合戦が始まった。大内勢は下馬して矢を射かけた。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野守は討ち死に覚悟で突撃。義弘は上野守と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。義数も討死、山名軍は緒戦で敗れてしまう。義満は義弘の武勇を賞して太刀を与えた。
次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3000騎で戦闘となるが、義満の馬廻5000騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ逃亡した。
氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、一色氏と斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範・満範父子に討ち取られた。
こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去った。幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は879人であった。
戦後
明徳3年/元中9年(1392年)正月、論功行賞が行われ、山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範(父の範詮は若狭国今富名を与えられて若狭守護領を回復する)、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は山名氏家(反乱に加わったが、降伏して許された)、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられた。11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か3か国に減らされてしまった。また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示した。
同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落。応永2年(1395年)、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。
ただし、満幸が捕縛されるまで出雲・美作・備中などで旧山名氏勢力による蜂起が頻発している。
その後も義満は明徳の和約で南北朝合一を成し遂げ、応永6年(1399年)大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼし(応永の乱)、将軍権力を固めていく。一方、山名氏はこの乱では幕府方として活躍し、その戦功により(大内氏を牽制する意図を含めて)山名時熙に備後、山名満氏に安芸、山名氏利に石見が与えられた。満氏・氏利兄弟は氏清の遺児であったが、時熙に匿われてその後赦免を受けていたのである。また、山名満氏の家臣で乱の発生まで若狭国今富名の代官であった高木加賀守理宗という人物が明徳の乱で幕府側に参陣して戦功を挙げ、その恩賞として満氏が取り立てられたという逸話も伝えられている[14]。満幸が逃亡して抵抗を続ける中、惣領の時煕や戦死した氏清の遺族らに対しては温情を与えてこれ以上の混乱を防ぐ意図もあったと考えられている。なお、応永12年(1405年)頃に山名氏利が早世すると、没落していた山名義理が復権して石見を与えられている。義理は間もなく亡くなったと推測されるが、その子孫が石見守護を世襲している[16]。
乱の様子を詳細に記した『明徳記』は太平記の流れを汲む軍記物語で、著者不明で全3巻。同書は資料性は高いものの、幕府寄りの視点で書かれている。一方で、首謀者で最後まで抵抗・逃亡を続けた末に処刑された山名満幸ではなく、戦死した氏清を義満と対峙させる存在として描いたことなど戦死した山名側の将兵を含めた鎮魂の意味合いもあったとされている[17]。
『明徳の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
明徳の和約(めいとくのわやく)は、日本の南北朝時代の内乱の講和条約で、明徳3年/元中9年10月27日(ユリウス暦1392年11月12日)に南朝と北朝(室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。
南北合体条件(なんぼくがったいじょうけん)とも。
概要
南朝の後亀山天皇と北朝の征夷大将軍足利義満の両首脳間の下で、南朝の参議楠木正儀が中心となって合一の下準備が進められ、正儀の死後は、南朝では右大臣吉田宗房と前内大臣阿野実為が、北朝では祠官・公卿の正三位吉田兼煕が交渉の窓口となった。
この和約に従って、同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北合体(なんぼくがったい)もしくは南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)が実行された。
これによって、延元元年/建武3年12月21日(ユリウス暦1337年1月23日)以来の朝廷の分裂状態が終了し、日本史における南北朝時代の終焉を迎えた。
内容
内容は次の4つである。
南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。
皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など南朝系皇族の立太子)。
国衙領を大覚寺統の領地とする。
長講堂領を持明院統の領地とする。
経緯
50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍・足利義満の時代の明徳3年(1392年)には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。
義満は明徳2年/元中8年(1391年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。そして3か条(前述)を条件に和睦が成立。明徳3年/元中9年(1392年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落したと考えられる。
そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[注釈 1]。元号についても北朝の「明徳」を継続し、2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現した。さらに国衙領についても、建武の新政以来知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとしてきた南朝と、知行国として皇族や公家たちに与えて国衙領の実質私有化を認めてきた北朝とが対立し、南朝方が北朝側の領主権力を排除して実際に保有出来た国衙領はわずかであったと見られている[2]。
なおも北朝方は、応永19年(1412年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、正長元年(1428年)の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。
『明和の和約』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84
自天王(じてんのう、永享12年(1440年)? - 長禄元年12月2日(1457年12月18日))は、室町時代の皇族。南朝の再建を図った後南朝の第2代(『南方紀伝』では第4代)とされるものの定かではない。北山によったので便宜上、北山宮とも称する。地元に伝えられる位牌には北山宮を自天勝公、弟の河野宮を忠義禅定と称している。
なお、世上、禁闕の変の首謀者とされる源尊秀(尊秀王)を自天王に当てる見方があるものの、菅政友は『南山皇胤譜』で「尊秀王ヲ自天王ニ当テシハ誤ナリ」としており、これが常識的な見方となっている。
参考動画:『歴史探偵 後醍醐天皇と南朝』 −NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025147770SA000/
室町幕府の官職である管領(かんれい)と侍所(さむらいどころ)の長官(所司(しょし))とに任命される家のこと。三管とは、管領が斯波(しば)・細川(ほそかわ)・畠山(はたけやま)の3家から、また四職とは、侍所所司が赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・山名(やまな)・京極(きょうごく)の4家からおこった称である。『南方紀伝(なんぽうきでん)』によると、1398年(応永5)足利義満(あしかがよしみつ)は朝廷における五摂家(ごせっけ)・七清家(せいが)の制に倣って三管・四職の家を定めたという。三管の斯波・細川・畠山の3氏と四職の一色氏は、足利一門の家格の高い有力守護で、四職の赤松・山名・京極氏も、畿内(きない)近国の重要な国々の守護を務める有力な大名であり、いずれも幕政の中枢に参与し、幕府体制を支えていた。しかし、応仁(おうにん)の乱(1467~77)以後名目化していった。
[清水久夫]
『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。
背景
室町幕府の将軍は有力守護大名たちに擁立されており、その権力は脆弱だった。そのため3代将軍足利義満は将軍権力を強化するべく、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強した。
また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下す(土岐康行の乱)。
そして明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏之の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、時熙と氏之を赦免して氏清と満幸を挑発、挙兵に追い込み滅ぼした。山名氏は3カ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。
守護大名大内氏
大内氏は百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖と称し、周防に土着して武士となり、鎌倉幕府の御家人に連なった。南北朝の争乱では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられた。
大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられた。明徳の乱では義弘は大いに奮戦して武功著しく、和泉・紀伊の守護職を与えられる。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになった。
義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていた。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘った。
義満と義弘の対立
応永元年(1394年)義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。応永2年(1395年)には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。
この頃までは義満と義弘の関係は良好だったが、応永4年(1397年)、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、義満の不興を買った。
同年末、義弘は少弐氏討伐を命じられ、筑前で戦い弟の満弘が討死するがその子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせ、義満が裏で少弐氏と菊地氏に義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。
応永5年(1398年)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、それが義弘に聞こえて激怒させている。大陸との貿易の推進を図る義満にとっても朝鮮と強いつながりを持つ義弘の存在は目障りなものになった。
義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。
追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠氏(楠木正勝とその二子の正盛(正顯)・正堯)・菊地氏(菊池肥前守=菊池武照もしくは菊池兼朝)ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。
戦いの経過
挙兵
大内氏分国と反義満派の挙兵
応永6年(1399年)10月13日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させるが、自身は参洛しなかった。義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わる。
義満は青蓮院門跡尊道法親王に仕える伊予法眼を堺へ送り上洛を促すが、義弘は「意に沿わないことがある」と参洛に応じない。10月27日、義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣した。
義弘は一門重臣たちと対応を内談。弟の弘茂は上意に従い参洛することを主張。平井備前入道も恭順して嘆願すべきであり、さもなくば朝敵となり御家滅亡になると義弘を説得した。一方、杉豊後入道は将軍は当家を滅ぼそうとしていると抗戦を主張した。
義弘は絶海中津と面談。絶海中津は将軍家が義弘を滅ぼそうとしているとの噂を信じず、上洛して将軍家に謝罪すべきことを説く。義弘は将軍家からの御恩の深さを感謝しながらも、今川了俊に従軍しての九州での戦い、明徳の乱、南北朝合一、少弐氏退治での自らの功績を述べ、それにも関わらず将軍家は和泉と紀伊を取り上げようとし、先年の少弐氏との戦いで討ち死にした弟の満弘の子への恩賞がない不満を述べる。絶海中津は義弘の忠節は隠れ無きものであり、世の噂を信じるべきではない、また満弘の子への恩賞がないのは上洛しないために行賞できないからだと重ねて上洛を促した。これに対して、義弘は政道を諌めるため関東(鎌倉公方足利満兼)と同心しており、ここで上洛すれば約束を違える事になる、来月2日に関東とともに上洛すると言い放った。事実上の宣戦布告である。絶海中津は説得を諦めて帰京する。
もっとも、「応永記」などに描かれた義弘の姿には必ずしも実際の流れに則していたとは言えない。この時、既に関東の鎌倉公方足利満兼から義弘の元に興福寺に対して決起を促す御教書が届けられていたが、その御教書が実際に興福寺へ届けられたのは11月4日であった。堺と奈良の距離を考えると、この書状が堺を出たのは絶海中津との会談から数日経っていたと考えられ、義満が実際に義弘討伐の軍を発向させるまで、義弘の心中では義満と戦うか否かで迷っていた可能性が高い。
絶海中津からの報告を受けた義満は翌10月28日に義弘討伐を命じる治罰御教書を出した。ただちに細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊6000余騎が淀から和泉へ発向する。11月8日、義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えた。11月14日、義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向した。
義弘は評定を開き作戦を談じた。弟の弘茂は城を構えて和泉、紀伊に割拠して持ちこたえる策を提案。杉豊後入道は機制を制して舟で尼崎に上陸して八幡の陣を突き決戦することを主張した。かねてから謀反を諌めていた平井備前入道は出戦は無益であるとし篭城策を説いた。義弘は篭城策を採った。
義弘は材木を集め、井楼48と矢倉1000余を建てて堺に方18町の強固な城を築き、「たとえ百万騎の軍勢でも破ることはできない」と豪語した。一方で、義弘は討死を覚悟して、かねて帰依していた僧を招き自らの葬儀を執り行った。また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見には分国を固く守るよう申し送った。義弘に従う者たちもみな討死を覚悟した。
城攻め
幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖した。義弘は河内国の森口城で戦っていた杉九郎と鴨山に配備した杉備中守を立退かせて堺に兵力を集中させた。義弘の軍勢は5000余騎。
11月29日、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて総攻撃を開始した。大内勢はこれに応じて、矢倉からさんざんに射まくった。管領畠山基国の軍勢2000余騎が北側の一の木戸、二の木戸を打ち破り、三の木戸まで攻め寄せ700人余が死傷する激戦を展開する。
畠山勢に代って山名時熙の軍勢500余騎が攻め寄せ、城内からは杉豊後ら500余騎が出撃して戦う。義弘も200余騎を率いてこれに合力する。伊勢国司の北畠顕泰の軍勢300余騎が山名勢に加勢、子息の満泰が討死する程激しく戦った。
細川勢、赤松勢の5000余騎は南側から、六角勢、京極勢は東側から攻め寄せる。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出た。
反義満派の蜂起
その頃、義弘に同心した土岐詮直が挙兵して尾張へ討ち入り、美濃国へ侵攻した。美濃守護の土岐頼益は大内攻めの陣にいたが、直ちに美濃へ引きかえして詮直を打ち破る。
宮田時清も義弘に同心して丹波へ討ち入り、京へ侵入して火を放ち、300余騎で八幡の幕府軍本陣を目指して突入した。時清の軍勢は幕府軍の陣を次々に打ち破るが力尽きて退却した。
京極秀満は近江で挙兵して、京への侵攻を図った。三井寺の衆徒500人が勢多で橋を焼いてこれを待ち受ける。秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙した。大内攻めに加わっていた京極勢1000余騎が引き返して森山へ迫ると、秀満は土岐詮直と合流すべく美濃へ向かうが途中で土一揆の蜂起に遭って潰走、秀満は主従2騎で落ちて行方知れずになった。なお、秀満の官職が金吾(左衛門尉)であったことから、この挙兵だけを指して金吾騒動(きんごそうどう)とも称する。
鎌倉公方足利満兼は1万騎余を率いて武蔵府中高安寺まで進んだが、関東管領上杉憲定に諌められて兵を止めた。
落城
堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が意気を揚げていた。しかし、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、12月21日早朝に総攻撃を開始した。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せた。
杉備中守は今日が最後の戦いになると覚悟し、山名(河口)満氏(氏清の子、宮田時清(既述)の弟)の陣に突撃して見事な討死を遂げた。これを見ていた義弘は項羽の討死の故事を引き、自分も後代に残るような最期を遂げようと決意する。義弘は幕府軍の北側の陣へ斬り込み大太刀を振るって奮戦。管領畠山基国の嫡子満家の軍勢200騎がこれに挑むが、義弘はよき敵であると僅か30騎でさんざんに戦った。その時、石見の住人200騎が幕府軍に内応してしまう。激怒した義弘は石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢は逃げ散った。
義弘はなおも満家を討ち取ろうと戦い続け、幕府軍はこれを取り囲んで攻め立てた。義弘の手勢は次第に数を減らし森民部丞ひとりになってしまった。森民部丞は義弘を守って敵陣に斬り込み奮戦して討死した。一人になった義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて「天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して、討ち取られた。
南側を固めていた杉豊後守は義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死。東側を固めていた弘茂は今川勢、一色勢を相手に戦っていたが、手勢も討ち減らされ、最早これまでと自害しようとした。平井備前入道が押し止めて降伏を勧め、弘茂もこれに従った。
その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城した。
鎌倉公方足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍するが、義弘敗死の報を聞いて鎌倉へ引き返した。
戦後
応永7年(1400年)3月、鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられている。以後は政治活動は起こさず、和歌、連歌に没頭することになる。また、妙心寺6世住持の拙堂宗朴は義弘と関係が深かったため義満の怒りを買い、妙心寺の寺領を没収された上に義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。
その後の論功行賞で、義満は大内氏の分国和泉・紀伊・石見・豊前を没収。和泉を仁木義員、紀伊を畠山元国、石見を京極高詮に、周防・長門を降参した弘茂に与えた。しかし、周防・長門の本拠を守っていた盛見はこれに従わずに抵抗。弘茂は幕府の援軍とともに盛見を攻めてこれを追うが、応永8年(1401年)に九州で盛見は再挙し、数度の合戦の後、弘茂は佐加利山城(現在の下関市長府)で滅ぼされた。
盛見は更に安芸、石見まで勢力を伸ばす。幕府もこれを認めざるを得なくなり応永12年(1405年)頃に盛見に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えてようやく帰順させた。こうして、いったんは没落しかけた大内氏は再び勢力を盛り返すことになった。
応永記
この乱の内容は、軍記物語である『応永記』(別名『大内義弘退治記』)に記されている[2]。作者や成立年は不詳だが、乱の終結からあまり時間をおかずに成立したと推定される。別名の通り幕府(足利義満)側の視点で記録されているが、乱の史料として信憑性は高いとされる。写本として『堺記』がある。
『応永の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
2025年 誤答として出題
14~17世紀の日本と中国の明との貿易。日本国王(懐良(かねよし)親王・足利将軍)の名義で派遣された遣明船(勘合船)による貿易と,倭寇(わこう)などによる密貿易がある。遣明船は,1401~1547年(応永8~天文16)に19回派遣され,1404年以降の17回は勘合の所持を義務づけられた。貿易形態は,日本国王・遣明使の朝貢品と明皇帝の回賜(かいし)品の交換のかたちで行われる進貢(朝貢)貿易と,遣明船の乗員による公貿易・私貿易の3種類がある。進貢貿易は,馬・刀剣・硫黄(いおう)・硯・扇子・屏風などを献上し,羅・紗などの高級絹織物,白金や巨額の銅銭などが回賜された。公貿易では,遣明船の付搭(ふとう)貨物(国王付搭品)を明政府と貿易し,刀剣・硫黄・銅・蘇木(そぼく)・蒔絵(まきえ)漆器などを銅銭・絹・布などと交換。刀剣は大量に輸出された。私貿易は,遣明船乗員の私的な貨物を中国商人らと取引した。寧波(ニンポー)の牙行(がこう)との貿易,北京(ペキン)の貿易場の会同館(かいどうかん)での貿易,北京から寧波への帰路の沿道で行われる貿易の3種類がある。輸出品は公貿易と同じ。輸入品は生糸・絹織物が主流で,ほかに麻布・薬種・砂糖・陶磁器・書籍・書画・銅器・漆器など。遣明船途絶後,中国からの渡航船や倭寇との密貿易で,中国の物資が多く日本に運ばれた。日本からは銀が大量に輸出された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
日本国王源道義
金閣で明の使節を迎えた義満が、当時の明の皇帝からの国書を開いてみると、そこには「国王源道義(げんどうぎ)」という宛て名があった。
明は義満を日本国王として認めたのである。
こうして日中の国交は、500年あまりの断絶を経て、義満の粘り強い外交戦略によって回復したのである。
『第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ 室町時代の交易と文化』NHK高校講座 https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/assets/memo/memo_0000000581.pdf
廻船式目
かいせんしきもく
古くは『船法』『船法度 (ふねはっと) 』『船作法書』ともいわれた。日本最古の海商法規。 15~16世紀,瀬戸内海の海運業者の慣習法を成文化したもの。船舶および船主,船頭,水主,共同海損,海難救助,航海儀礼など 31ヵ条 (のち 43ヵ条) から成る。多く写本で伝わるが,活字では『海事史料叢書』『改訂史籍集覧』『日本経済大典』に収められている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
廻船式目
かいせんしきもく
わが国最古の海事商法規
1223年制定説もあるが,15世紀後半〜16世紀中ごろとする説が有力。おもに西国海運業者に適用され,内容は船舶・船主・船員・借船・共同海損・衝突・海難救護など多面にわたる。後世の海事商法に与えた影響は大きく,豊臣秀吉はこれを参照して海路諸法度を制定した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
三津七湊(さんしんしちそう)とは、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に、日本の十大港湾として記されている三津・七湊の港湾都市の総称。
三津
廻船式目
安濃津 - 伊勢国安濃郡(三重県津市)
博多津 - 筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
堺津 - 摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡(大阪府堺市)
武備志
中国明代の歴史書『武備志』では、次の3港が「日本三津」「三箇の津(さんがのつ)」として記されている。
安濃津 - 伊勢国安濃郡(三重県津市)
博多津 - 筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
坊津 - 薩摩国川辺郡(鹿児島県南さつま市坊津町坊)
七湊
三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口
本吉湊(美川港) - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市(旧:美川町))、手取川河口
輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口
岩瀬湊 - 越中国新川郡(富山県富山市)、神通川河口
今町湊(直江津) - 越後国頸城郡(新潟県上越市)、関川河口
土崎湊(秋田湊) - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口
十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口
これらは日本海交易の拠点として栄え、近世には北前船の寄港地ともされた。
『三津七湊』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B4%A5%E4%B8%83%E6%B9%8A
室町中期に形成された文化。足利義政が京都東山に営んだ山荘(現,銀閣寺)をシンボルとするので,この呼称がある。生活に根ざした文化として簡素さを旨とし,書院造の住宅,侘茶(わびちゃ)の誕生,立花(たてはな)の様式化など,現在の伝統的日本文化の源流がはぐくまれた。雪舟による水墨画の大成,禅宗の精神に基礎をおく枯山水(かれさんすい)の庭園の盛行などに特徴づけられる。室町前期の北山文化と対をなす。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
東山文化コトバンクから引用
日本中・近世社会に固有な武士・農民の結合および行動様式。「揆(き)を一(いつ)にする」意から、一致団結することを意味するようになり、一致した集団行動に対して用いられるようになる。
鎌倉時代には、武家が一揆して党をつくるなどに用いられているが、南北朝の内乱期以降、14世紀から16世紀には、「一揆の世」といわれているほど多様な形態の一揆が頻発し、政治に大きな影響を与えるようになる。まず、南北朝期に武家らの党や集団を一揆というようになり、土着の武士である「国人(こくじん)」の地域的結合である国人一揆が生まれた。しかしこのころ畿内(きない)近国の農村では、不法な代官の罷免や年貢減免を求める名主(みょうしゅ)を中心とする「庄家(しょうけ)の一揆」が組織されるようになり、これがその後、争乱、そして収奪強化、高利貸支配による生活不安などが増大すると、年貢減免や新税賦課反対を領主に求めたり、徳政を求めて結集し実力でかちとる土(つち)一揆へ発展し、1428年(正長1)の大一揆以降、主流となる。土一揆は「土民」の一揆ということであるが、一揆を組織し指導したのは国人で、名主・地侍らの農民が主体となり、それに馬借(ばしゃく)・都市貧民などが加わる場合が多い。しかし、15世紀末土一揆を主導してきた国人が農民支配を強化し、山城(やましろ)(京都府)でみられたように国一揆を組織するようになると、土一揆はしだいに減少し、戦国時代には一向(いっこう)一揆など宗教的色彩を帯びるようになる。ただこれも信仰的結合というより、大名に抵抗するために農民を巻き込んだ国人らの一揆の性格が強い。
[青木美智男]
『青木美智男他編『一揆』全5巻(1980~82・東京大学出版会)』▽『勝俣鎮夫著『一揆』(岩波新書)』
[参照項目] | 一向一揆 | 国一揆 | 土一揆 | 百姓一揆
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
一揆コトバンクより一部引用
室町時代末期,足利将軍家ならびに管領畠山,斯波両氏の継嗣問題に端を発し,細川,山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって,東西両軍に分れ,応仁1 (1467) 年から文明9 (77) 年までの 11年間にわたって京都を中心として争われた大乱。原因としては次の3つが考えられる。
(1) 室町幕府8代将軍足利義政には当初嗣子なく,細川勝元とはかり,寛正5 (64) 年 11月,義政の弟の浄土寺門主義尋を還俗させ,義視(よしみ)と名のらせ,将軍職につけた。ところが,翌6年1月,義政夫人日野富子が義尚(よしひさ)を生んだため,日野氏は山名持豊 (宗全) とともに義尚擁立を策した。
(2) 畠山氏に政長,義就兄弟の継嗣争いがあり,将軍義政は政長を助けて義就を追い,勝元もこれに味方した。義就は吉野に走ったが,持豊は彼を京都にいれた。
(3) 斯波氏に子がなく,一族義敏を嗣としたが,家宰らは義敏を廃し義廉を立てるように奏した。一応これは許されたが,義廉は持豊の女婿であるなどの事情から再度義敏擁立の策謀があって混乱し,ここに勝元,持豊の干渉もあって,京都の形勢は騒然となった。これら3つの事情が前提となって応仁1年1月,持豊は畠山政長を退けて斯波義廉を管領とし,細川一族を追放しようとした。その間にまず畠山氏の政長と義就が戦いに突入し,勝元は,政長を助け,室町第警護を名目として,諸国に令して 10万の軍勢を集めた。畠山政長,斯波義敏,京極持清,武田国信,赤松政則らがこれに属した (東軍) 。一方持豊は,斯波義廉,畠山義就,六角高頼,一色義直ら9万の兵をつのって幕府の西に陣した。かくて東西両軍は,京都を中心として,邸宅,寺院の炎上その数を知らぬ戦いを繰広げた。関白以下公卿らがこの乱を避けて地方に下ったのもこの頃である。両軍は数年間抗争を続けたが,文明2年,大内氏をはじめ,帰国する大名や相手軍にくだる大名が出はじめた。同5年3月,持豊が病没し,同年5月に勝元も没した。同年 12月には義政は致仕して義尚が将軍職を継ぎ,畠山政長が管領となったが,戦いはなおやまず,同9年 11月,まず西軍が,次いで東軍も陣を解くにいたって大乱は終結をみた。この大乱によって京都は焼土と化し,幕府の権威は失墜して,在地武士層の勢力が増大し,戦国大名の領国制が大きく展開されることとなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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応仁の乱(1467〜77)以後,織田信長政権の確立する時期(1570前後)までの約1世紀にわたる群雄割拠時代
政治史的にみれば室町幕府の弱体化と下剋上 (げこくじよう) の風潮の中で,各地に台頭した戦国大名によって従来の守護領国制に代わる新しい大名領国制が形成された時代であり,社会経済史的にみれば,荘園制の崩壊,郷村制への移行が促進された時代である。文化史的には,南蛮貿易開始によるヨーロッパ文化との接触,城下町文化の発生などが注目される。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
2021年出題
[生]応永27(1420).備中,赤浜
[没]永正3(1506).周防,山口?
室町時代後期の禅僧,水墨画家。幼少時に出家し上京して相国寺に入り,春林周藤に師事して禅僧となる。諱 (いみな) を等楊 (等揚) といい,知客 (しか) の職をつとめるかたわら,周文に画法を学んだと推定される。 34~35歳頃周防,山口に移り,大内氏の庇護下に画房雲谷庵を営み,ようやく画僧として高名となる。元の禅僧楚石梵 琦の墨跡「雪舟」の二大字を得て雪舟と号した。応仁1 (1467) 年室町幕府の遣明船で入明,天童山景徳寺を訪れて禅の修行をし,第一座の位を与えられた。のち北京において礼部院中堂の壁画を描いて名声を博したと伝える。文明1 (69) 年帰朝。初め大分に天開図画楼を構え,のち山口に雲谷庵を再興し,以後ここを本拠として死没までの間に美濃,京都,丹後などへ旅した。遺作には『山水長巻』 (86,国宝,毛利博物館) ,弟子如水宗淵に与えた『破墨山水図』 (95,国宝,東京国立博物館) などの山水画,『鎮田瀑布図』 (76,焼失) ,『山寺図』 (模本) ,『天橋立図』 (国宝,京都国立博物館) などの風景画,『寿老人図』,『益田兼堯像』 (79) ,『慧可断臂図』 (96,斎年寺) などの人物,道釈画などがある。雪舟の画風は従来の日本画の抒情性を離れて,構図や広大な空間表現の巧みさなど,自然に対する写実的表現を特色とし,そこに禅僧のもつ真摯なきびしさが表出される。弟子に雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがいる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[秋冬山水図] 文化遺産オンライン『雪舟』解説
室町時代・15世紀末~16世紀初
紙本墨画
本紙 各縦47.7 横30.2
2幅
国宝
『室町時代の禅僧画家、雪舟(せっしゅう)によって描かれた山水画の傑作です。もとは京都の曼殊院(まんしゅいん)に伝来しました。雪舟は如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)など、日本の先輩画家の画風を学ぶとともに、明時代の中国にも留学し、当時の様々な絵画様式を学んでいます。その結果、独自の構築性と力強い筆致を持った画風を確立し、以後の山水画に大きな影響を与えました。
2幅のうち、「秋景」は、川沿いに道が奥へと伸び、遠くに楼閣が見えます。モチーフは画面の下半分にまとめられ、上部の空間は秋空の広大さを感じさせます。一方「冬景」では大胆に切り立った崖を中心に据え、対照的に建物を小さく見せることで、厳しい冬枯れの様子が描き出されています。
どちらの画面も下の方から見ていくと、近いものから遠いものへ、モチーフを順にたどることができ、それぞれの位置関係が明確に描き分けられていることに気付きます。そこには雪舟以前の山水画には見られない絵画の理知的な構築性が強く感じられます。小さな画面にあらわされた広大で奥深い世界をお楽しみください。』
明兆は、江戸時代まで雪舟と並び称せられた伝説の絵師。室町時代、京都・東福寺の絵仏師として活躍した。吉山明兆。巨大伽藍にふさわしい大作を冴えわたる水墨の技と極彩色で次々と描いた。江戸時代の格付け古今名画競(すもう)に、東西の大関が狩野元信、雪舟が並ぶ中、力士たちとは別格扱いの勧進元に明兆(兆殿司と記載)の名が一番大きく記載されている(と下記の番組にはあるが、インターネットではその古今名画競が調べきれなかった)。
日曜美術館 よみがえる伝説の画聖・明兆(みんちょう) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023127337SA000/
1352-1431 南北朝-室町時代の画僧。
文和(ぶんな)元=正平(しょうへい)7年生まれ。大道一以に師事して京都東福寺にはいり,同寺に多数の仏画,道釈画,頂相(ちんぞう)をのこした。殿司(でんす)職をつとめ,兆殿司と通称される。作品に「五百羅漢(らかん)図」「大涅槃(ねはん)図」など。詩画軸「渓陰小築図」(国宝)も明兆筆とつたえられる。永享3年8月20日死去。80歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。字(あざな)は吉山。号は破草鞋(はそうあい)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
室町初期の画僧。諱(いみな)は吉山(きちざん)。号は破草鞋(はそうあい)。淡路(あわじ)国(兵庫県)に生まれ、若くして大道一以(だいどういちい)(1289―1370)の門に入り、のち師とともに上洛(じょうらく)、東福寺に入寺して堂守の殿主(でんす)職についたので、兆殿司(ちょうでんす)と俗称される。終生東福寺の絵仏師的な立場を貫き、同寺のために多くの仏画や頂相(ちんぞう)を制作、それらの代表作はいまも東福寺に残る。1386年(元中3・至徳3)に完成した『五百羅漢図』50幅(現在45幅は東福寺、2幅は根津美術館)をはじめ、『聖一国師(しょういちこくし)像』『大涅槃(だいねはん)図』(1408)、『達磨蝦蟇鉄拐(だるまがまてっかい)図』(いずれも東福寺)などの大作がそれで、宋元(そうげん)仏画に範をとりながらも、肥痩(ひそう)のある強い墨線と、やや色調の暗い色彩とを用いて、独自の力強い画風を完成させている。こうした作風は、一之(いっし)や赤脚子(せっきゃくし)、霊彩(れいさい)などに受け継がれ、如拙(じょせつ)―周文(しゅうぶん)の系統を引く相国寺派に対し、東福寺派とよばれている。後年、明兆は仏画以外に純然たる水墨画にも筆を染め、『白衣観音(びゃくいかんのん)図』(静岡県、MOA美術館)や『渓陰小築図』(京都・南禅寺金地院(こんちいん)、国宝)などの作がある。なお東福寺には、明兆が病の母へ描き送ったと伝えられる自画像の模本が現存し、自画像のきわめて早い作例として注目に値する。[榊原 悟]
『金沢弘著『日本美術絵画全集1 可翁/明兆』(1981・集英社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2022年出題
[武田信玄]
[生]大永1(1521).11.3. 甲斐,石水寺
[没]元亀4(1573).4.12. 信濃,駒場
戦国時代の大名。甲斐守護信虎の長子。名は晴信。号は徳栄軒。法号は法性院信玄。法名恵林寺殿機山信玄大居士。天文 10 (1541) 年父信虎を駿河に追放して家督を継ぎ,次いで信濃に攻め入って諏訪頼信,村上義清,小笠原長時らを攻略し,同 22~永禄7 (64) 年に越後の上杉謙信と川中島で合戦 (→川中島の戦い ) 。同 11年には今川氏真を追放して駿河を押え,大領国を形成した。元亀3 (72) 年には大軍を率いて西上,織田信長,徳川家康の連合軍を遠江三方ヶ原に破り (→三方ヶ原の戦い ) ,元亀4 (73) 年さらに三河に侵攻したが,病を得て陣没。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[甲州法度] 正しくは『甲州法度之次第』,俗に『信玄家法』ともいう。甲斐の戦国大名武田信玄が制定した家法。初め 26ヵ条を天文 16 (1547) 年に制定,のち追加して 57ヵ条となる。武田氏による分国支配の骨子を知るうえで好史料。『中世法制史料集』所収。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[上杉謙信]
[生]享禄3(1530).1.21. 高田
[没]天正6(1578).3.13. 高田
戦国大名の雄。越後守護代長尾為景の次男。母は越後栖吉城主長尾顕吉の娘。幼名は虎千代,元服して長尾平三景虎。のち政虎,輝虎と改め,入道して謙信,不識庵と号した。兄晴景は天文5 (1536) 年家督を継いだが次第に対立。同 17年越後守護上杉定実の仲裁を得て晴景から家督を奪い,春日山城主となる。以後国内の統一に努力しつつ,周囲の諸大名と大規模な戦闘を展開した。武田信玄と信濃の覇権をめぐって数度合戦。特に永禄4 (61) 年の川中島の戦いは有名である。一方,関東管領上杉憲政を擁して北条氏康と対立,同3年には関東に侵入し,小田原城を包囲して北条氏を脅かしたが成功せず帰還。憲政から上杉姓を与えられ,同4年関東管領。しかしその後関東経略は進まず,同9年以後は越中を平定し,加賀,能登に進出。毛利氏と連合して織田信長と対決しようとしたが,出陣の矢先に脳卒中で没した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
コトバンクより
2022年出題
戦国時代,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,信濃更級郡の犀川と千曲川との合流点,川中島で天文 22 (1553) 年頃から永禄7 (64) 年頃まで数度にわたって行なった戦いの総称。武田信玄は,本国甲斐より信濃に攻め入り,天文 16年頃から北信の村上義清攻略の軍を起した。同 22年4月,信玄に敗れた村上義清は同年8月,越後に逃れて上杉謙信に頼ったことから謙信対信玄の川中島の戦いが始った。合戦は数多く行われたが,そのうち同 22年8月,弘治1 (55) 年7月,同3年4月,永禄4 (61) 年9月,同7年8月の5度の合戦が明らかである。最も有名なのは,永禄4年9月1日夜から翌2日午後にかけて展開された戦いである。謙信は,8月 14日,1万 3000人余と称する兵を率いて居城春日山城を出発し,北国街道から信濃善光寺平に入り,武田方の高坂昌信の守る海津城の東方妻女山に布陣した。一方,信玄は,同月 18日,2万人余といわれる兵を率いて甲府を出発し,同 24日,川中島をへだてて妻女山を東南にみる茶臼山に布陣した。信玄は,1分隊に妻女山を襲わせ,これによって妻女山を下る謙信を,本陣を含む残る1隊で川中島に迎え討つ策を立て,9月1日夜半これを実行した。一方,謙信は,これより早く妻女山を下り,9月2日未明,川中島に信玄と対戦するにいたった。これは,両軍本陣同士の戦いとなり,謙信みずからが大刀をもって信玄に切りつけたというほどの激戦であった。勝敗は,結局決しなかったが,川中島の地は,以降武田方の領有に帰した。この戦いは,戦国時代最大の激戦といわれ,後世,信玄のとった戦法は「きつつき法」,謙信のそれは「車がかり法」といわれ,江戸時代の軍学に大きな影響を与えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『川中島の戦い』
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧しさらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した。
1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。
第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
2021年出題
伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。
出典 株式会社平凡社 コトバンク
戦国時代,関東に広く勢力をもった戦国大名
始祖伊勢長氏の出身は明らかではない。駿河今川氏の食客であったが,15世紀末伊豆韮山 (にらやま) から相模に進出,小田原を本拠とし長氏の子氏綱から北条氏を称した。孫氏康は支配圏を広げ関東南半を制圧し,上杉謙信・武田信玄と覇を競う戦国大名の雄となった。1590年豊臣秀吉の小田原征討で滅びるまで,5代にわたり領国統治を巧みに行い栄えた。鎌倉時代の執権北条氏と区別するため,俗に後北条氏と称す。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
[北条早雲]
[生]永享4(1432)
[没]永正16(1519).8.15. 伊豆
戦国時代の大名。後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したが,入道して宗瑞と号した。出自は不明で,室町幕府政所執事伊勢氏の一族とも,鎌倉幕府執権北条氏の子孫ともいい,出身地も伊勢,京,備中などの諸説がある。応仁年間 (1467~69) 今川義忠を頼って駿河に下向し,義忠の死後国内が乱れたときにこれを平定し,興国寺城主となった。延徳3 (91) 年堀越公方足利政知の遺児茶々丸を殺して伊豆を領し,明応4 (95) 年相模小田原城主大森藤頼を追出して同城を奪った。永正9 (1512) 年相模岡崎城の三浦義同 (よしあつ) を破り,同 13年同国新井城に三浦氏を滅ぼし,相模を手中に収め後北条氏の基礎を築いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク