室町時代(戦国)
(建武の新政・戦国時代含む)
全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
(建武の新政・戦国時代含む)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの過去問題ページを参照しています。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日[1]〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。
概要
大覚寺統の天皇。天皇による親政を理想とし、武家政権の鎌倉幕府を打倒し建武の新政を行った。その後軍事力の中核であった実子を粛清した事と失政により失脚。一地方政権の主として生涯を終える。建武の新政は2年半で崩壊し、足利氏の武家政権に戻ることとなり、朝廷の支配力は鎌倉時代以上に弱まることとなる。
両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を崩すために、倒幕運動を行った。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り[3]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した。
先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる[2]。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している。一方で、優れた統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評される。
室町幕府・南朝両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。特筆されるのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである。裁判機構に一番一区制を導入したり[8]、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は、以降の全国政権の統治制度の基礎となった。その他には、土地の給付に強制執行を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと(高師直へ継承)、官位を恩賞として用いたこと、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあることなどが挙げられる。
学問・宗教・芸術の諸分野で高い水準の業績を残した。儒学では宋学(新儒学)受容を進めた最初の君主である。また、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著した。真言宗では父の後宇多上皇と同様に真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていた。禅宗では禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に影響を与えた。伊勢神道を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等4件の書跡が国宝に指定されている。二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。『源氏物語』の研究者。雅楽では琵琶の神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。茶道では、その前身である闘茶を最も早く主催した人物の一人ともいわれる。
結果的には敵同士になってしまった尊氏からも敬愛された。真言律宗の僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、おしどり夫婦として、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。
一方で、大塚紀弘は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している。
『後醍醐天皇』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は天皇による親政を理想とし、建武の新政を行い、鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)に河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、親政は2年半で崩壊し、足利氏が支配する武家政権に戻り、朝廷の支配力は鎌倉時代よりも弱まっていく事となる。
歴史
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。
後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗した。これを奉じる形で幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。足利尊氏は京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府を滅亡させた。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する。
新政の開始
後醍醐天皇は光厳天皇の即位自体を遡って無かったことにし、正慶の元号も廃止。光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言する。さらに関白の鷹司冬教を解任した。
帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を万位[要説明]主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。高氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り高氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月13日に護良親王を征夷大将軍に任命する。
6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵を北条氏一族のみと定め、知行の安堵を諸国の国司に任せたもので、事実上前令の撤回であった[注釈 2]。
8月5日、足利高氏は後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改め、のち鎮守府将軍に任命された。
記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。
元弘4年/建武元年(1334年)正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められる。また、年号が「建武」と定められる。「楮幣」とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていない。この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政の問題が早くも露呈する。
5月には諸国の本家、領家職が廃される。徳政令が発布され、寺社を支配下に置くための官社解放令が出される。また、雑訴決断所の訴訟手続法10ヶ条が定められた。将軍職を解任され、建武政権における発言力をも失っていた護良親王は武力による尊氏打倒を考えていたとされ、10月には拘束を受け、鎌倉へ配流される。12月には八省卿が新たに任命され、実力を重視し家格の伝統を軽視した人事が行われる。
新政の瓦解
建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。
鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据えた。8月には新政下の世相を風刺する二条河原落書が現れた。
尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張し、その討伐を後醍醐天皇に対して要請する。
後醍醐天皇は尊氏のこの要請を拒絶し、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は建武2年(1335年)12月、箱根・竹ノ下の戦いで敗北する。建武3年(1336年)1月に足利軍は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。
同月、後醍醐帝は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。兵糧もつき、周囲を足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山を降りて足利方と和睦。和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐帝は光明天皇に三種の神器を渡し、花山院に幽閉される。後醍醐帝は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。
新政の瓦解後
新政の瓦解後、足利尊氏が光明天皇によって征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。初期には南北朝時代の戦乱が続き、15世紀以降になると戦国時代となって京都周辺以外の実効支配力を失うものの、1573年に織田信長によって足利義昭が京都から追放されるまで、足利氏の15代に渡る武家政権が続いた。
武家・公家の入れ替わり
第82代後鳥羽院の御宇造の時代は公家の天下であったが、1185年(文治元年)に平氏から源氏へ政権移行が行われると、総追捕使が支配力を強めていき、諸国には武家の守護が立てられ、神社や寺、旧来の武家や公家の荘園には地頭が置かれるようになった。公家の五摂家などと繋がった新興の武家が勢力を強め、反乱を起こした古来の武家も次第にその傘下に入っていった。ただ依然として公家天下の時の国士や公家、寺社の領造は変わらずにあったので旧来の公家はさのみ衰微せず、国士も所領の地頭御家人として地位を保っていた。どこの国でも地頭御家人を直人と呼び、鎌倉9代の間はその方式であった。
ところが、建武の新政のときから古い法が捨てさられ、公家の知行や寺社領がみな諸軍勢に分け与えられ、地頭御家人も養子を取らざるを得ない状況になるなどして武家の家人となっていった。足利将軍の時代も同様であったが、これが織田信長、徳川家康の時代になると、古来の武家・公家の存在感は薄くなって、それまでの功績や俗姓すら分からないような新興の武家が所領を維持していた。
『建武の新政』Wikipedia
参考:『雑訴決断所』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%A8%B4%E6%B1%BA%E6%96%AD%E6%89%80
雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)とは、日本の南北朝時代、いわゆる建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関(令外官)。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたったが、建武政権の崩壊に伴い、短期間で消滅した。
雑訴とは
雑訴ないし雑訴沙汰とは、中世における土地に関する訴訟制度の称である。朝廷の公的行事・儀式を「公事」と称したのに対し、所領に関する争い・訴訟を雑訴と称した。最も早い用例としては『平戸記』仁治3年(1242年)4月29日条に「雑訴」の語が見られる。
土地訴訟の激増
中世社会へ移行する平安時代末から鎌倉時代を通じて、公家の社会の構成単位は、「氏」から「家」への変化が生じつつあった。鎌倉時代前期までは、公家の子弟が分家することによって新たな「家」が生み出されることが行われてきたが、後期に入ると経済的理由などから分割が困難となり、新規「家」への分流も減少、むしろ既存の家領(荘園)の継承を巡って、嫡子と庶子の争いなど各種の訴訟が生じるようになった。
この現象は武士においても概ね共通し、それまで所領を一族へ分割相続していた形態から、惣領から嫡子のみに受け継がれる単独相続への移行が鎌倉後期、14世紀に入ってから本格化した。一般的には西国は伝統的な分割相続が遅くまで残存し、東国では比較的早くから単独相続に移行しつつあったとされ、鎌倉末期から南北朝期はまさに両者が交錯する混乱状態にあったため、所領をめぐる相論は日常化していた。さらに13世紀後半における2度にわたる元寇や、その後の警固役・軍備のための支出による御家人らの窮乏化や社会不安の増大などから、武士や悪党による公家・寺社領荘園の濫妨・押領が相次ぎ、所領を巡るトラブルは全国的に増加していた。
朝廷政治の刷新と雑訴
雑訴は、公事とくらべ従来は軽視されてきたが、13世紀半ば以降いわゆる「徳政」の一環として重視されるようになる。弘安9年(1286年)12月には亀山上皇の院政において、院文殿に持ち込まれた訴訟処理の迅速化を企図し、院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰の二つに分け、雑訴沙汰には月6回中納言・参議クラスの公卿に評議させることとした。ここに雑訴沙汰は初めて一連の訴訟手続きとして独立することとなった。
また、後嵯峨天皇代に復活した記録所(記録荘園券契所)も訴訟沙汰を扱う機関であり、天皇の記録所と上皇の院文殿(院評定)が並んで公家の訴訟を処理する体制となっていた。父の後深草院の院政を停止して親政を開始した伏見天皇は、正応6年(1293年)6月には記録所機構を大幅に改編し、「庭中」が置かれて参議・弁官・寄人が配され、公事とともに雑訴沙汰も取り扱うようになった。なお同年7月に天皇が伊勢神宮に奉納した宸筆宣命案の中に「雑訴決断」の言葉が初めて出現している。
以上のごとく、院政が行われた時期には院文殿における院評定、親政が行われた時期には記録所が、雑訴の処理を行った。
鎌倉幕府における引付
いっぽう武家においては、鎌倉幕府ははじめ評定衆がすべての行政事務を管轄していたが、これも裁判の迅速化のため、13世紀半ばに執権北条時頼が設置した引付衆が訴訟処理の主体となっていく。引付は評定衆の下におかれ、一番から三番まで(後には五番まで増加)の部局に分けられ、各局の長官である引付頭人と、その下で合議する数人の引付衆、訴訟事務を行う奉行が置かれた。この機構は雑訴決断所の組織に大きな影響を与える。ただし、鎌倉時代末期には引付衆の多くを北条氏一門の若年者が占め、評定衆に至るまでの出世コースの腰掛けのような地位となり、訴訟審理機関としては形骸化した。このような状況においては、増大し続ける雑訴沙汰を処理することはできず、御家人・非御家人などの間に不満が高まった。
鎌倉幕府打倒に乗り出した後醍醐天皇に武士層からの賛同者も多かった一因には、これらの層が停滞した訴訟や理不尽な審理など、既存の秩序に不満を抱いていたこともある。そのような経緯を経て幕府を倒し新たに成立した後醍醐天皇の建武政権も、必然的にこれらの訴訟を迅速に解決する機関の設置が求められていた。
建武政権と雑訴決断所の設立
後醍醐天皇の主導により元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が倒れ、建武政権が成立すると、それまで記録所・院文殿・幕府引付で扱われていた公武の訴訟沙汰は、すべて記録所に集中され、記録所が強大な権限を持つ機関となった。しかし、記録所にあまりに多くの事務が集中し、その処理能力を大幅に超えていたため、新たに雑訴沙汰を取り扱う専門機関の必要性が高まり、ここに雑訴決断所が新設され、記録所は寺社・権門に関わる大事の訴訟のみを扱うことになった。
軍記物語『太平記』によれば三番編成であったとされるが、『比志島文書』(薩摩国比志島家の史料群)に残された結番交名(けちばんきょうみょう)によれば四番制であったことが分かる。各番は裁判長にあたる頭人(とうにん)1名と合議官にあたる寄人(よりうど)数名の下に、弁官クラスの公家や法曹系公家、および武家出身者が5~7名ほどの奉行が配置され、全体で十数名から成っていた。それぞれの番が各地域を担当し、一番は畿内・東海道、二番が東山道・北陸道、三番が山陰道・山陽道、四番が西海道・南海道と、それぞれ2道ずつを管轄した。設置場所は『太平記』によれば「郁芳門の左右の脇」であった。
成立時期
雑訴決断所の成立時期ははっきりとした記録が残っておらず、推定に頼らざるを得ない。後述する雑訴決断所による牒の初見が元弘3年10月8日であるため、これまでに設立されたのは間違いない。阿部猛による『比志島文書』結番交名の研究[6]とそれに対する笠原宏至による批判によって、設立の下限として9月10日が導かれた。森茂暁はさらに同文書の注記部分の分析を進め、9月10日に設立された可能性が高いとしている。
組織の拡大
翌建武元年(1334年)秋には雑訴決断所はさらに拡大し、八番制107名の大規模な組織となった(『続群書類従』雑部に所収の「雑訴決断所結番交名」より。構成員は後掲)。これはそれまで2道を受け持っていた各番を分割し、それぞれ1道を担当するようにしたためである。一番が畿内、二番が東海道、三番が東山道、四番が北陸道、五番が山陰道、六番が山陽道、七番が南海道、八番が西海道を担当した。
公家では中原氏・小槻氏・坂上氏など明法道や紀伝道・算道等に携わった朝廷の中流実務官僚から、武家では二階堂氏や飯尾(三善)氏などの鎌倉幕府奉行人や、太田・町野氏ら問注所執事であった家からの採用が多く、前時代の訴訟慣例や事務手続きを継続しようとしていたことが窺える。実際、南北朝期を扱った歴史書『梅松論』によれば、雑訴決断所は「決断所と号て、新に造らる、是は先代(鎌倉幕府)引付の沙汰のたつ所也」と評価されている。すなわち鎌倉幕府体制における引付衆と同様の存在として見なされていた。また中には楠木正成・名和長年のような元弘の変の勲功武士、六角時信・京極道誉のような守護クラスの在地武士、高師直・師泰のような足利家被官も含まれており、「才学優長ノ卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人」(『太平記』)を寄せ集めた公武折衷的な組織であった。また、のちに『建武式目』を起草することになる法学者、中原氏出身の是円坊道昭・真恵兄弟は、法体のまま出仕している。
このような組織の拡大やそれに伴う無原則な人材起用により、必ずしも訴訟事務が効率的になったとはいえず、かえって各出身母体の利害が衝突する可能性もあった。そのため、雑訴決断所は建武の新政を揶揄した二条河原の落書でも、「器用ノ堪否沙汰モナク、漏ルル人ナキ決断所」と皮肉られている。
決断所の職能
雑訴決断所の職務内容は、所領相論の採決や地頭・御家人らの所領安堵、のちには天皇の綸旨の承認も行うようになり、建武政権の枢要機関としての地位を占めるようになった。
決断所の所轄事項や訴訟手続きについては『建武記』に規定があり、これによって雑訴決断所の発展過程を知ることができる。雑訴決断所の判決は牒や下文の形式で出された(ただしほとんどは牒であり、下文はわずかである)。現存する最古のものは元弘3年10月8日付河内国司宛のもの(『島田文書』)であり、建武2年12月10日付(『松浦山代文書』)に至るまで約130通が現存する。これらの文書は
所領相論の裁許(主として寺社権門領への濫妨の停止命令)
地頭御家人層への所領安堵
綸旨の施行
訴訟進行上の手続き(召還命令や論所点置・事情聴取など)
に分類される。このうち雑訴決断所の基調となる機能は1と2であり、権限の拡大とともに3が加わった。建武政権成立前後から濫発された後醍醐天皇による綸旨は、公平性の上で問題があり、また相互に矛盾したり、無原則に与えられたにもかかわらず、所領安堵には必ず綸旨を必要とするとしたことや「綸言汗の如し」と称された無謬性により、各地で混乱を起こしていた。そこで施行に決断所の牒を必要とすることでこれらの綸旨を整理し権威の降下を防ごうとした。これによって鎌倉幕府滅亡直後の応急措置として濫発されたことによって低下した綸旨の権威を回復させ、実効性を伴うものとした。また、雑訴決断所の一員に足利尊氏側近で室町幕府の執事(後の管領にあたる)を務めた高師直がいることも注目される。室町幕府の執事施行状(後の管領施行状)の初出とされる文書は、後醍醐天皇の綸旨の施行を求めるという体裁をもって師直の名で発したものであり、室町幕府が将軍の命令と同時に発した管領の施行状が雑訴決断所の牒の継承を想定して成立した文書である可能性を示すからである。
決断所の崩壊とその後の雑訴
雑訴決断所は上記のごとく膨大な訴訟事務を扱っていたが、建武2年(1335年)8月に足利尊氏が中先代の乱の鎮圧を名目に鎌倉へ下り、建武政権から離反した後、尊氏を中心に内乱が激化したことに伴い、決断所の活動は急速に衰退。上記のごとく建武2年いっぱいをもって決断所発給の牒も見られなくなることから建武3年以降は機能も停止したと考えられる。延元元年(1336年)には、尊氏の還京と後醍醐天皇の吉野退去(いわゆる南北朝の分立)により建武政権自体が完全に消滅した。しかし決断所の職員の多くは、後に北朝の院政・親政や室町幕府の訴訟機関の構成員として引き続き法曹業務に携わったとみられる。建武政権における失敗の反省から、公家・武家の雑訴は分けられ、幕府・朝廷それぞれに訴訟機関が復活した。
室町幕府においては引付が復活し、鎌倉幕府と同様の機構をとったが、やはり足利氏一門が頭人を占有して形骸化し、引付衆は身分・格式を表す名目的な存在となっていく。代わってむしろ訴訟審理の主体となったのは政所であり、雑訴決断所に名を連ねた飯尾氏や斎藤氏は政所奉行人として幕府に仕えるようになった。
朝廷でもやはり前代と同様、院文殿や記録所が雑訴の審理機関として復活したことが、『園太暦』(洞院公賢)、『師守記』(中原師守)、『愚管記』(近衛道嗣)、『後愚昧記』(三条公忠)など北朝に仕えた公家の日記から窺える。光厳院政期(1336年 - 1352年)に復活した院文殿には、かつて雑訴決断所を構成した公家メンバーである平宗経・中御門宣明・甘露寺藤長らが名を連ね、やはり雑訴沙汰を扱っている。続く後光厳親政期(1352年 - 1371年)には伏見天皇の例にならって記録所庭中で雑訴が取り扱われるようになったが、その後譲位して後光厳院政期(1371年 - 1374年)になると再び院文殿で行われた。しかしこの頃から、群議を経た後に関白(二条師良や近衛道嗣)の諮問が重視されたり、公家の雑訴沙汰は関連文書を幕府に提示し、最終決断を幕府に委ねる傾向が見られはじめる。幕府側はむしろ院評定における雑訴審議を重んじようとしたが、観応の擾乱後の壊滅状態を経た北朝側は実力の低下を自覚し、幕府への依存体質を深めていったのである。この傾向は武家の棟梁でありながら公家政権における地位を高めることをも追求した3代将軍足利義満の時代にさらに加速し、後円融親政期(1374年 - 1382年)には記録所庭中も雑訴沙汰も全く形骸化し、ほぼ廃絶同然となっていったのである。
このように、雑訴沙汰は鎌倉時代の公武並立から、建武新政期の公武折衷型の雑訴決断所を経て、いったんは再び公武分立となったものの、南北朝時代を通じて次第に公家の雑訴審理機能が形骸化し、次第に幕府政所に蚕食される傾向を見出すことができる。すなわち、雑訴決断所は武家主導の室町幕府体制への移行過程の中で、武家側が公家の機能を吸収するきっかけとなったという意味で、重要な役割を果たした機関であったといえよう。
足利尊氏が1336年(建武3・延元元)に開設した武家政権。名目的には15代将軍義昭が織田信長に追放される1573年(天正元)まで続いた。
名称は3代義満が本拠を構えた京都室町邸にちなむ。
鎌倉幕府にならい諸機関が設置されたが,室町幕府では将軍補佐の重職として管領(かんれい)がおかれ,評定(ひょうじょう)・引付(ひきつけ)は初期に衰退して将軍親裁の御前沙汰(ごぜんざた)にかわった。将軍は直轄軍の奉公衆と直轄領の御料所をもち,京都を支配して土倉(どそう)・酒屋に財源を求めたが,京都支配のうえで政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)が重要な機関となった。地方には鎌倉府・九州探題,諸国に守護がおかれた。幕府は一門中心の守護配置策をとり,南北朝内乱の過程で強権を付与して幕府支配体制の根幹とした。
義満は明徳・応永の両乱で強豪守護の勢力を削減,南北朝合一をはたして国内を統一し,朝廷勢力を圧倒して公武統一政権を樹立。
中国の明との国交を開き日本国王の称号を得た。
しかし守護は任国を領国化して分権的傾向を強めた。将軍は守護統制のため守護の在京を義務づけ,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させた。義満の死により有力守護の支持で義持(よしもち)が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護層の合議により運営された。
6代義教(よしのり)は専制化を志向,将軍の親裁権を強化するとともに守護大名抑圧策を断行したが,その反動で嘉吉の乱に倒れた。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。乱ののち守護は在国化して,幕府に結集せず,将軍は守護に対する統制力を失った。
将軍義尚(よしひさ)および義稙(よしたね)は奉公衆を基盤として権威回復をはかるが,明応の政変で幕府の実権は細川氏に掌握された。以後,義澄(よしずみ)・義晴・義輝が細川氏などに擁立されたが,各地に割拠する戦国大名に全国支配をさえぎられ,義輝は松永久秀に殺された。
義栄(よしひで)ののち,織田信長に擁立された15代義昭も,1573年(天正元)信長と不和となって京都を追われ,室町幕府は滅びた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
<平成30年(2018年)の問題>
*室町時代の区分 広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が建武式目を制定した1336年(南朝:延元元年/北朝:建武3年)または征夷大将軍に補任された1338年(延元3年/建武5年)から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年(元亀4年)までの237年間、もしくは235年間を指す。
狭義では建武新政から明徳の和約による南北朝合一(1392年、明徳3年/元中9年)までの最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年、応仁元年)または明応の政変(1493年、明応2年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間から100年間を室町時代と区分する場合もある。
*南北朝時代 南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った延元元年/建武3年(1336年)12月21日、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した元中9年/明徳3年(1392年)閏10月5日である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。
*建武式目 建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)は、建武3年11月7日(南朝:延元元年/ユリウス暦1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目である。足利尊氏の諮問に対し、法学者の是円(中原章賢)・真恵兄弟らが答申するという形式で公布された。御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。
*天龍寺 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。本尊は釈迦三尊。正式には霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後、約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、北朝の治天である光厳上皇に奏請し、院宣を以って大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。 現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
曹源池庭園:国指定特別名勝・史跡 - 方丈裏庭。夢窓疎石による作庭。池泉回遊式庭園で嵐山や亀山を取り込んだ借景式庭園である。
天龍寺方丈庭園:夢窓疎石
ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」については、当サイトの「日本の世界遺産」でも触れています。
*鹿苑寺金閣(通称:金閣寺) 日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている。正式名称は、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。
寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失(金閣寺放火事件)し、1955年(昭和30年)に再建された。金閣寺放火事件の僧の「美しすぎるから焼かなければいけない」と言う発言に題材を得た作家三島由紀夫が小説「金閣寺」を書いている。
義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[12]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。
金閣(鹿苑寺斜里殿)は、木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。
初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。 「究竟頂」の扁額は後小松天皇の宸筆である。
また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
*能(観阿弥・世阿弥) 日本の伝統芸能である能楽の一分野。能面を用いて行われる。
江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。
能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。世阿弥は『風姿花伝』を著した(応永7年(1400年))。この書の第一章にあたる「年来稽古条々」は「初心わするべからず」や「時分の花」などよく知られた内容があり、その理論は現代で通用するものと評価されている。 (能-Wikipediaより)
日本の古典芸能。橋懸りという独特な構造の舞台で,地謡の合唱と囃子方の伴奏で舞う歌舞劇。平安時代に発生した猿楽が,鎌倉時代に猿楽の能と呼ばれるようになり,室町時代に足利義満の庇護のもとに観阿弥,世阿弥父子によって大成された。主演者をシテ,助演者をワキといい,曲目によっては数人の出演者(シテヅレ,ワキヅレ)が登場する。シテは面(→能面)をつけることが多い。夢幻能と現在物に大別される。また神,男,女,狂,鬼の五つに分類され,上演順位が定められている。江戸時代以来,このような五番立の番組を正式とし,能と能との間には狂言を上演したが,今日では狂言 1番,能 1番でも上演される。現行曲は約 240曲。1957年国の重要無形文化財に指定。2008年狂言とともに世界無形遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
コトバンク「能」の小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) の詳しい説明も読んでおくこと。
*慈照寺銀閣(銀閣寺) 慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。銀閣は、慈照寺観音殿。慈照寺観音殿(以下「銀閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489年)の上棟である。屋根は宝形造、杮葺で、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた。
鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。これには色々な説がある。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。初層は「心空殿」と称し住宅風の造り 、上層は「潮音閣」と称し、初層とは異なって禅宗様の仏堂風に造る。
「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
*永享の乱 永享 10 (1438) 年関東公方足利持氏が室町幕府にそむいた事件。正長1 (28) 年,実子のなかった4代将軍足利義持が後継者を定めず没したあと,将軍への野望をいだいていた持氏は,次期将軍の地位を期待していたが,同年管領畠山満家らが引いたくじによって天台座主青蓮院義円 (義教) が将軍に決定した。そのため持氏は次第に反幕府的行動をとるようになった。幕府は以前から関東の佐竹氏,宇都宮氏など諸豪族に保護を与え,関東公方を牽制していた。さらに関東管領上杉憲実もひそかに幕府に通じていたので,永享 10年8月,憲実が持氏と不和となり領国上野に引上げたのを機に義教は今川氏,武田氏,小笠原氏らに持氏追討を命じた。持氏は幕府の東征軍と憲実軍に迫られ,その年9月,箱根足柄に敗れ鎌倉に退いたが,留守役三浦時高にも裏切られ,金沢称名寺に出家したが,義教の怒りはとけず,翌年2月,居所鎌倉永安寺を憲実軍に囲まれ自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*九鬼水軍 九鬼水軍(くきすいぐん)は、戦国時代の水軍。志摩国を本拠とし、九鬼氏に率いられた。強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口の戦いで破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取した。志摩水軍(しますいぐん)とも称する。九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造した。 九鬼嘉隆は、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長に対する尊敬の念から志摩から三河へ船で向かった。永禄11年(1569年)に織田信長の大淀城攻めの際には織田軍の水軍の将となる。2年後の織田家の大河内城の攻略作戦の折には、九鬼水軍は伊勢の海岸をすべて封鎖して、伊勢湾からの援軍を寄せ付けなかった。嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献した。しかし守隆没後家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり、水軍としての歴史は終わりを迎えた。
*村上水軍 南北朝時代から戦国時代,瀬戸内海で活動した村上氏の水軍(海賊衆)。村上氏は伊予能島(のしま),同来島(くるしま),備後因島の3家に分かれるが,同一氏族であったかについて疑義もある。伊予の河野氏に属し,遣明船の警固にあたり,また船舶から通行税を徴収,ときに倭冦ともなった。1555年の厳島の戦を契機に毛利氏に従い,石山合戦では織田水軍を破り,石山本願寺に兵糧を入れたことで知られる。関ヶ原の戦後,来島(久留島)氏は豊後森藩主となり,能島・因島両家は船手組として萩藩毛利氏に仕えた。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
*倭寇 13~16世紀に朝鮮,中国の沿岸を襲った海賊集団に対する朝鮮,中国側の呼称。北九州,瀬戸内海沿岸の漁民,土豪が中心で,もともと私貿易を目的としていたが,しばしば暴力化した。しかし,倭寇が日本人とは限らず,その構成の大部分が中国人の場合,ポルトガル人を含む場合などもあった。その活動の時期は前後2期に大別される。前期は南北朝~室町時代初期,主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸にも及び,そのため高麗は滅亡を早めたほどであった。しかし,李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易,日明勘合貿易の発展とともに消滅した。勘合貿易が行われなくなると再び倭寇の活躍をみたが,後期倭寇の活動舞台は主として東シナ海,南洋方面で,明はこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした (→北虜南倭 ) 。しかし,明の海防の強化と,国内を統一した豊臣秀吉の賊船停止の命令で倭寇は姿を消した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*勘合貿易 室町時代,幕府と中国の明との間で勘合符を用いて行われた貿易。3代将軍足利義満が応永8 (1401) 年,明との国交を回復すると,同 11年,日明間に勘合符制が設けられ,勘合符による貿易が始った。日本の勘合船は,「本字勘合符」に幕府の勘合印を押したものをもって渡航し,明側では,これを保管してある「本字底簿」と照合して公認船かどうかを確かめた。この勘合貿易は足利義持の時代に一時中絶したが,義教のとき永享年間 (29~41) に再開された。初めは幕府の資金による船舶と商品であったが,次第に寺社や諸大名の船が多くなり,さらに表面上は幕府,寺社,大名の船であっても,堺,博多商人の請負によるものが多くなり,幕府などは名義料を徴収するにすぎなくなった。応仁の乱後,大内氏と細川氏が貿易の利権を争ったが,やがて大内氏が独占した。大内氏は天文年間 (1532~55) に滅亡するまで貿易の利益を収め,巨富を蓄積した。おもに銅銭,生糸などを輸入し,硫黄,刀剣,銅などを輸出した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*永楽通宝(永楽銭) 明の永楽帝(在位 1402~24)が永楽9(1411)年に鋳造を始めた銅銭。正しくは永楽通宝と称し,日本では永楽銭,永銭,永などと略称した。大小 5種類あり,足利義政がたびたび明に請うて永楽銭を求めたので,日本に多量に輸入され,広く流通した。室町時代には質のよさから標準的通貨として珍重され,特に北条氏が永楽銭のみを本位貨幣として用いることにしたので,関東地方ではこれを標準にした永高制が成立し,大量の永楽銭が流通した。豊臣秀吉は永楽銭を模して,永楽金銀銭を鋳造したこともある。慶長9(1604)年,鐚銭(びたせん)4対永楽銭 1という比率が定められたが,交換をめぐって紛争が続発したので,同 13年に使用が禁止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*唐物(からもの) 「とうぶつ」とも読み,中国大陸 (唐土〈もろこし〉) から渡来した物品の総称。後世になると,南洋諸島方面の産である島物 (しまもの) に対して中国,朝鮮から輸入された器物を,唐物と呼んだ。平安時代,「唐物の使」という役職があり,室町幕府には唐物奉行がおかれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*室町時代の輸出入品
*管領 将軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。最初,執事と称されていたが,正平 17=貞治1 (1362) 年斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが,3代将軍足利義満のときに管領職がおかれ,足利氏の一族,斯波,細川,畠山の3氏が交代で就任したのでこの3氏を三管領 (→三管四職 ) といった。管領が出軍などの理由でその任務を遂行できない場合は,臨時に管領代がおかれた。室町幕府の政務の実権は管領にあったが,応仁の乱以後は名目化し,欠職した場合もあった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*侍所 近侍の者の伺候する場所。転じて職名となった。
(1) 院および親王家,三位以上の摂関家などにおかれ,別当,年預,所司などの職員をおいた。
(2) 鎌倉,室町幕府の職名。平時は守護,地頭,御家人などを管轄し,非違を検断し,罪人を処罰し,戦時には軍事を指揮した。長官を別当といい,和田義盛が初めて任じられた。室町幕府では,長官を所司または頭人と称し,赤松,一色,山名,京極の4氏が交代でつとめたため,四職 (→三管四職 ) と称せられた。所司のもとに所司代がおかれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*政所 平安時代中期以後,親王家,摂関家,公卿,有力社寺の家政機関。主として所領荘園の事務を司った。特に摂関家の政所は大規模で,多数の別当を配していた。源頼朝は建久2 (1191) 年2月大江広元を別当に,以下令 (れい) ,案主 (あんじゅ) ,知家事 (ちけじ) の職制を定め,鎌倉幕府および一部の民事訴訟を管掌させた。その後執権政治が成立すると,別当は北条氏の兼職となり,令,案主,知家事は二階堂,菅野,清原氏の世襲となった。室町幕府におかれた政所もこれを踏襲し,財政事務を司った。執事は伊勢氏,政所代は蜷川氏がこれを世襲した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*関東管領 室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名。足利尊氏が京都に幕府を開くにあたって,一族を鎌倉におき,その政庁を鎌倉府と称して関東諸国を統括させた。鎌倉府の主は鎌倉公方と呼ばれ,その下には執事以下ほぼ室町幕府と同様の官職機構が整えられていた。ところが,尊氏と直義との対立 (→観応の擾乱 ) から,幕府と鎌倉府との関係が険悪となり,幕府は鎌倉府が関東に独立的権力を確立することを恐れ,鎌倉公方の補佐役として,正平 18=貞治2 (1363) 年,鎌倉府執事であった上杉憲顕を関東管領に任命して目付的役割を果させることにした。以後,関東管領は幕府が直接補任することとなり,上杉氏が世襲して,次第に鎌倉公方と対立するようになった。鎌倉公方は関東において独立的権力確立のため積極的行動をとって幕府との対立が先鋭化し,ついに永享の乱で持氏は自殺,その子成氏は下総古河に逃れて古河公方と称し,関東管領上杉氏と対立した。以後,関東は両者の抗争をめぐって争乱が続いたが,長禄1 (1457) 年,幕府は足利政知を伊豆堀越にくだして上杉氏を助けたので,関東の実権は上杉氏が握ることになった。しかし,やがて上杉氏の内部で山内,扇谷両上杉氏の対立が生じ,戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭して,関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏 (山内上杉氏の被官) を頼って逃れ,のちに関東管領職を上杉の家名とともに長尾景虎 (上杉謙信) に譲った。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが,後北条氏,武田氏らにはばまれて失敗,関東管領は有名無実の存在となり,謙信の死後は関東管領職を継ぐものがなく,名実ともに消滅した。
参考:『夢窓疎石』Wikipedia
夢窓 疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)。宇多天皇9世孫を称する。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖。
後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。たとえば、後醍醐に続き、武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。足利尊氏により全国に設立された安国寺・利生塔も夢窓疎石の勧めであったとされる。足利直義との対話を記録した『夢中問答集』は、信心の基本、仏道の要諦を指し示す、思想史上重要な書である。
禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。後醍醐帝の鎮魂のために建立された天龍寺の造営にあたっては、直義との協議のもと元に天龍寺船を派遣してその儲けによって造営費用を捻出するなど、商売人としての才覚もあった。さらに、五山文学の有力漢詩人であり、和歌においても勅撰和歌集に11首が入集するなど、文学史上でも足跡を残している。
生涯
建治元年(1275年)11月1日[3]、伊勢国(三重県)で誕生。宇多天皇9世孫と伝えられ、また、母方は平氏である。幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動?)で甲斐国(山梨県)に移住する。
弘安6年(1283年)に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学ぶ。正応5年(1292年)に奈良の東大寺で受戒する。しかし、永仁元年(1293年)、天台宗の碩学である明真の示寂に立ち会ったが、高僧が死に臨んで何も説かなかったことに、博学の明真でさえ仏法の大意を得ることができなかったのではないか、と疑問を抱いたという。そして、密かに教外別伝を説く禅宗へ関心を寄せるようになったという。
その後、京都建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。無隠からは「智曤」の法諱を安名されたが、のち法諱を「疎石」に改名し、道号を「夢窓」と自称した。鎌倉へ赴き、永仁3年(1295年)10月に東勝寺の無及徳詮に学び、次に建長寺の葦航道然を教えを受け、永仁4年(1296年)からは円覚寺の桃渓徳悟に学んだが、桃渓の指示で再び建長寺に戻って痴鈍空性に師事。しかし、結局は帰京して、禅宗における最初の師である建仁寺の無隠円範に再び参じた。その後は正安元年(1299年)8月に元から渡来し、のち鎌倉建長寺に移った一山一寧のもとで首座を勤めるも嗣法には及ばなかった。これは、日本語を解さない一山との間に、禅の細微まで理解することに困難を覚えたためという。嘉元元年(1303年)に鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び、最終的に嘉元3年(1305年)10月に至って浄智寺で高峰から印可を受けた。同年、甲斐牧の荘の浄居寺を創建。
応長元年(1311年)春、人里離れた山中を訪れ、龍山庵(後の天龍山栖雲寺)を結び一時隠棲する。西遊して正和3年(1313年)に美濃国に古谿庵、翌年に同地に観音堂(虎渓山永保寺)を開いた。文保2年(1318年)には北条高時の母である覚海尼の招きを避けて土佐国に下り、吸江庵を結んだ。元徳2年(1330年)、甲斐守護の二階堂貞藤(道蘊)に招かれ牧庄内に恵林寺を創建し、鎌倉中期の渡来禅僧蘭渓道隆以来になる甲斐の教化に務めた。また、相模国・泊船庵、上総国・退耕庵、など各地の寺庵に滞在している。
正中2年(1325年)、後醍醐天皇の要望により上洛。勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌嘉暦元年(1326年)には職を辞し、かつて鎌倉に自らが開いた瑞泉寺に戻り徧界一覧亭を建てた。北条高時に招かれ、伊勢国で善応寺を開いた後に鎌倉へ赴き、円覚寺に滞在。高時や北条貞顕からの信仰を得る。元徳2年(1330年)には甲斐に恵林寺を開き、再び瑞泉寺に戻った元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行った。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も疎石を師と仰いだ。同年10月に後醍醐天皇の正妃である皇太后宮西園寺禧子(後京極院)が崩御すると、後醍醐の願いでしばらく宮中に留まり、禧子の二七日供養を担当した(『夢窓国師年譜』)。翌年には再び南禅寺の住職となる。建武2年(1335年)、後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられた。
のち、建武の乱に勝利した足利尊氏や弟の足利直義らは北朝を擁立して京都室町に武家政権(室町幕府)を樹立した。延元4年/暦応2年(1339年)に幕府の重臣(評定衆)である摂津親秀(中原親秀、藤原親秀)に請われ、西芳寺の中興開山を行う。疎石は足利家の内紛である観応の擾乱では双方の調停も行い、この間に北朝方の公家や武士が多数、疎石に帰依した。後醍醐天皇の死後、疎石の勧めで政敵であった尊氏は天皇らの菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し、利生塔を設置した。また、京都嵯峨野に天龍寺を建立し、その開山となった。この建設資金調達のため興国3年/暦応5年(1342年)に天龍寺船の派遣を献策し、尊氏は資金を得ることができた。
生涯に数多くの弟子を持ち、規模の面から言えば当時の五山中最大の派閥だった。代表的な弟子に無極志玄・春屋妙葩・竜湫周沢・青山慈永・徳叟周佐・義堂周信・曇芳周応・絶海中津・無求周伸・方外宏遠・不遷法序・黙翁妙誡・古天周誓・観中中諦・黙庵周諭・碧潭周皎・古剣妙快・鉄舟徳済らがいる。
生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、「七朝の帝師」あるいは「七朝帝師」と称される。
正平6年/観応2年9月30日(1351年10月20日)に入滅、享年数え77歳[1]。
庭園
概要
世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。
作風は、自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現しようとしたものである。『夢中問答集』の第57「仏法と世法」の項では、疎石の庭園に関する考えが述べられている。
夢窓疎石設計による庭園一覧
西芳寺庭園 - 京都市西京区。世界遺産、国の特別名勝
天龍寺庭園 - 京都市右京区。世界遺産、国の特別名勝
永保寺庭園 - 岐阜県多治見市。国の名勝
瑞泉寺庭園 - 神奈川県鎌倉市。国の名勝
竹林寺庭園 - 高知県高知市。国の名勝
恵林寺庭園 - 山梨県甲州市。国の名勝
覚林房庭園 - 山梨県身延町。町指定文化財ほか
龍安寺庭園-京都
その他
『梅松論』には夢窓疎石による足利尊氏賞賛の辞が残されている。
1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。
著作に足利直義との対談を記録した仮名法語である『夢中問答集』(興国5年/康永3年(1344年))など。
元の渡来僧である一山一寧の門下からは、虎関師錬を筆頭として数多くの五山文学(日本の禅僧による漢詩文)の逸材が出たが、夢窓疎石もまたその一人に数えられる。和歌にも優れた才能を持ち[10]、『風雅和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集している。
小泉八雲『怪談』の「食人鬼 (小説)」では、餓鬼道に落ちた僧侶の魂を救う役として登場する。
佐々木哲の主張によれば、夢窓疎石は佐々木頼綱(六角頼綱)の兄・経泰(つねやす)の孫であるという。
像:吸江寺所蔵
史料:国師年譜
平成21年(2009年)に、高知県高知市五台山にある吸江寺で、弟子の絶海中津に授けられた九条袈裟が発見され、翌年に京都国立博物館へ寄託されたが、平成29年度に高知県立歴史民俗資料館へ寄託預かりとなった。
点茶法による飲茶を嗜んでいたことが、法話集である『夢中問答』に書かれている。
参考:『夢窓疎石』相国寺 https://www.shokoku-ji.jp/reference/person/
伊勢の人。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。
正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄(ムキョクシゲン)、春屋妙葩(シュンオクミョウハ)、義堂周信、絶海中津(ゼッカイチュウシン)、龍湫周沢(リュウシュウシュウタク)、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(ゲンニュウ)、仏統、大円国師とし諡号(シゴウ)され、「七朝帝師」と称され尊崇された。
参考:『鎌倉公方』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%85%AC%E6%96%B9
鎌倉公方(かまくらくぼう)は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官[1]。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する。この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。
鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は鎌倉御所ないし鎌倉殿と呼ばれていた。
歴史
1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立(「観応の擾乱」に発展)した際、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した弟の足利基氏(尊氏の四男)を初代とする。
関東管領を補佐役として関東10か国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まった。1379年の康暦の政変の直前、第2代鎌倉公方足利氏満が幕府分裂の危機を察知して挙兵を企てたが、関東管領上杉憲春が諫死したことで断念した。また、1399年の応永の乱に際しては、今川貞世の仲介で大内義弘と第3代鎌倉公方足利満兼が連合を組む。一致団結して京都を攻めることが構想されたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫した。
永享の乱の際には関東管領上杉憲実とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ、1439年に自害させられたことで一旦断絶した。
1447年に持氏の遺児である成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活する。後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を1570年代まで継続させており、北条氏が関東管領の権限を事実上掌握したあとも、関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。
その末裔は、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉により喜連川に所領を与えられ、江戸時代には喜連川氏と称し、徳川将軍家の客分という特別な立場の大名家として存続した。明治時代に足利姓に復して子爵に叙せられた。
名称について
実際の史料では、「関東将軍」「東将軍ひがしのしょうぐん」などがある。また、将軍とあわせて「都鄙とひ之将軍家」とも呼ばれた。
一説には、「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となったという。しかし『鎌倉市史』によるとこれは『足利治乱記』から出た謬説とされる。『国史大辞典』でも、基氏のことを『園太暦』で「関東管領」と呼んでいるのは正式の称でなく、『武家補任』などで「鎌倉管領」と呼んでいるのも後世の書であるから信じられないとしている。
初代:足利基氏
2代:足利氏満
3代:足利満兼
4代:足利持氏
5代:足利成氏
足利政知
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代、観応元年/正平5年10月26日(1350年11月26日)から正平7年2月26日(1352年3月12日)にかけて、足利政権の内紛によって行われた戦乱。
将軍・足利尊氏の弟足利直義の派閥が、足利家執事・高師直の派閥に反乱を企てたため、征夷大将軍である足利尊氏がこれを制圧した。
実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、公家と武家同士の確執なども背景とする。複雑な政治状況の中で、日本全国には地域ごとの権力者が存在し、彼らもまた南朝と北朝のどちらを支持するかで立場を変えていた。
経過
直義の京都出奔と擾乱の勃発
ところが、直冬討伐へ尊氏が出陣する直前の10月26日夜に、直義は京都を出奔していた。一般に、この事件をもって観応の擾乱の開始とする[注釈 1]。
直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ、国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。こうして、戦乱が本格的に始まった。
関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。
高一族の滅亡
観応2年(南朝:正平6年、1351年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び2月17日の摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は、表向きは師直の出家を条件として挙げていたが、実際は氏直を通じて直義に"師直の殺害を許可する"旨の密命を伝えていた。2月20日、和議は成立するも、果たして2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲の軍勢により、摂津武庫川で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。
直義と尊氏の対立
高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も経たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、直義派の武将の処罰や自派の武将に対する恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派に取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝に帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。
3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する態勢を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇に比叡山へ逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。
正平一統
京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件だったが、観応2年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。これを正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。
尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えること、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。
薩埵峠の戦い
一方、尊氏は直義追討のために出陣、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。
直義の死と擾乱の決着
その後、直義は鎌倉の浄妙寺境内の延福寺に幽閉された。2月25日には鎌倉で尊氏の四男基氏の元服が行われている[12]。その翌日、直義は2月26日(西暦3月12日)に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の一周忌にあたり、『太平記』の物語でも尊氏による毒殺であると描かれていることから、毒殺説を支持する研究者としない研究者に分かれる。
一般に、直義の死をもって擾乱の決着とする。
『観応の擾乱』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1
参考:『武家執奏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%9F%B7%E5%A5%8F
武家執奏(ぶけしっそう)とは、武家政権である室町幕府と公家政権である北朝(朝廷)の公武関係(朝幕関係)に関連する用語で次の2つの意味がある。
室町幕府の将軍が北朝(朝廷)に対して特定の事項に関する政治的要請を行うこと。なお、この意味においての武家執奏はその後の武家政権(織豊政権・江戸幕府)でも行われている。
北朝(朝廷)に設けられた役職の1つで将軍からの武家執奏を取り次ぎ、反対に治天の君・天皇の意向を将軍に伝達する役目を果たした。
室町将軍の武家執奏
室町幕府の将軍による執奏は「奏聞」「申入」「口入」など記録によっていくつもの表記が存在している。通常は将軍の意向を受けて朝廷との交渉役にあたる役人が、役職としての武家執奏に申入れを行うことが多い(逆に当該役人は朝廷や院庁からの幕府への申入れ(公家施行)を受け取って将軍に伝達する立場になる場合もある)。特に鎌倉幕府時代に東使を務めた二階堂氏・佐々木氏らが使者に立てられる場合を「武家申詞」と称した。
武家執奏は足利尊氏が将軍に補任された暦応年間から事例が見られるが、特に回数・影響力が高まってくるのは正平一統(南北朝統一)以後のことである。所領安堵や武家官位のみならず、公家の官職任免などの人事や家門安堵、寺社に対する政策、勅撰和歌集の撰進など朝廷のあらゆる分野に及んだ。
その結果、延文3年(1358年)には関白二条良基が足利義詮の執奏によって16年務めた関白を更迭され、以後摂政関白や太政大臣の任命や更迭に武家執奏が介在するようになった。なお、崇光上皇と後光厳天皇が激しく対立した緒仁親王(後円融天皇)の立坊問題を巡って後光厳天皇は実子・緒仁の立坊を求める武家執奏を期待したものの、当時の将軍は13歳の足利義満であり、後見である管領細川頼之は「可為聖断」「武家更難申是非」と慎重な態度を示し、あくまで天皇の聖断によるべしとの態度を示した。これによって天皇は親王の立坊・譲位を決断することになった(『後光厳院御記』)。
また、武家執奏による改元(文和・康暦・正長・康正・延徳・大永・享禄・天文・元亀)が存在が知られている。本来、室町幕府の将軍は公卿であることが多かったためにその多くは公卿の政務としての改元発議ではあったものの、新将軍の就任を理由とした代始改元(正長・延徳・大永・元亀、ただし公式には「兵革」「天変」などを名目とする)や後世には将軍の官職が参議もしくは公卿に達しない場合における武家執奏の事例もあり、更に執奏者である将軍足利義澄の失脚(永正の錯乱)によって中止に追い込まれた永正4年(1507年)を例外として武家執奏による改元が実施に移されたこと、また室町幕府が応永から新元号への改元を35年にわたって認めなかったこと(ただし、その原因については足利義満の意向とする説と義持の意向とする説がある)など、室町幕府および将軍の意向によって改元が制約されることとなった。
南朝の軍事的攻勢や戦乱による収入の途絶の危機を室町幕府の軍事力・経済力によって辛うじて回避していた北朝(朝廷)は室町幕府への依存なくして成り立たず、北朝自身もこれを認識して積極的に幕府と結びつこうとした。このため、武家執奏は拒むことは出来ないものという認識が広まるようになった。永徳元年(1384年)に後円融天皇が三条公忠に充てた書簡の中で「執奏之下、無沙汰者、可為公家御咎也」と記し、武家執奏に従わないことは公家の咎になる現状を嘆いている。
こうした状況が、後に足利義満による王権侵奪(室町将軍の日本国王化)へと発展し、義満以後の室町幕府においても引き続き武家執奏による朝廷への介入が行われることとなった。
役職としての「武家執奏」
もう1つの「武家執奏」の意味として、北朝の勅裁である治天の君の院宣や親政時における天皇の勅旨を室町幕府に伝達する役目を担う公家のことを指した。だが、それは前述のように反対の経路によって幕府側の要望を治天の君もしくは天皇へと伝達する役目を果たすことにもなった。
鎌倉時代に治天の君・天皇の勅裁は関東申次を経由して鎌倉幕府あるいはその出先機関である六波羅探題に伝達された。室町幕府の創設には鎌倉幕府(武家政権)再興の意図も含まれていたため、公武関係もそれに近い形での復活が意図された(ただし、室町幕府は鎌倉幕府と違って北朝(朝廷)と同一の都市(京都)に置かれていたため、六波羅探題のような出先機関を必要とはしなかったが)。
だが、最後の関東申次であった西園寺公宗は建武政権によって処刑されて、後醍醐天皇の家門安堵を受けて親南朝派の弟公重が西園寺家を継いでおり、一方公宗処刑時に懐妊中だった正室日野名子が生んだ嫡男(後の西園寺実俊)は余りにも幼すぎた。更に公重も北朝側に従ったために公重を排除するわけにも行かなかった。このため、治天の君(光厳上皇)と室町幕府は実俊を後継者として庇護することを条件として後醍醐天皇の家門安堵を追認する一方で、実俊が西園寺家を継承するまで関東申次を継承する役目を誰が引き受けるかが問題となった。
そこで、登場したのが光厳天皇時代の太政大臣であった今出川兼季である(ただし、後醍醐天皇が元弘の変後に京都に帰還した際にこの人事は無効とされ、その後の北朝も特にこれを取消す措置を取らなかったため名義上は「前右大臣」であった)。兼季は関東申次を務めた西園寺実兼の子で公宗の大叔父にあたる人物であった。北朝成立翌年の建武4年(1337年)より、光厳上皇の院宣とともに兼季の消息・御教書が足利尊氏の執事であった高師直宛てに出されており、尊氏はこれを受けて守護や諸国の武士に命令を下している。その後、暦応元年(1338年)になって兼季が出家し、翌年正月には病没したことから、その役目は息子の今出川実尹が継承した。実尹は父の病没当時24歳の若さであったが、前述の通り西園寺実俊の成長までの中継ぎと考えられていたため問題とはされなかったとみられている。ところが、今出川兼季病没の3年後の康永元年(1342年)には今出川実尹が急逝してしまった。もっとも今出川家の取次役をしていた時期には十分な活動が行われていなかった可能性がある。『続史愚抄』によれば、建武5年8月28日に朝廷で行われた「暦応」改元の決定は幕府側には伝えられず、足利尊氏ら幕府首脳は9月4日になって初めて知ったという。
そこで、実尹の後任となったのは勧修寺経顕であった。経顕は光厳上皇の側近中最も重んじられた1人であったことが光厳天皇曾孫貞成親王の『椿葉記』に記されている。また、西園寺家一族ではないものの、初代の関東申次であった吉田経房の末裔であった。以後、経顕が尊氏及びその代理と言える高師直・足利直義・足利義詮らと間で朝幕交渉を行うことになる。経顕の活動は10年余りであるがこの時期に朝幕交渉の具体的な手続などが整備され、「武家執奏」の職制と名称が定まり、文書にも登場するようになる(『東寺百合文書』さ所収応安3年(1370年)2月東寺陳述状には観応2年の東寺側と「勧修寺一品于時武家執奏(勧修寺経顕は応安3年当時従一位)」の間のやりとりが引用されている)。
文和2年10月19日(1353年11月15日)、19歳の西園寺実俊が勧修寺経顕に代わって武家執奏に任じられた。この直後に実俊が権大納言に任ぜられて武家執奏に相応しい地位を得たこと、前々年から前年にかけて発生した正平一統の際に西園寺公重が南朝方に通じたとして失脚して吉野に逃れ、実俊が西園寺家の継承者であることに異論を挟む者がいなくなったことが大きかった。また、勧修寺経顕は後光厳天皇擁立の功労者であった反面、彼を登用した光厳法皇が南朝軍に連行されたことによって後ろ盾を喪失したことによる政治力の低下があったとする見方もある。以後、実俊は30年以上にわたって武家執奏を務めることとなった。上記の室町幕府将軍による武家執奏を多く取次したのも実俊であった。
治天の君・天皇の勅裁は治天の君の場合は院宣、天皇親政時には綸旨の形で出され、それぞれの伝奏を通じて武家執奏に伝えられる。武家執奏は施行状を発給して将軍に伝達する(公家施行)。そして将軍が執事(管領)や引付頭人(内談頭人)に命じて勅裁内容を伝えるべき対象である武士に対して施行状に相当する奉書を発給した(武家執行)。ただし、武家執奏自身の地位や室町幕府内の権力関係によって手続が変化する場合があり、今出川兼季や西園寺実俊(ただし、貞治3年以後)といった現職・前職大臣に勅裁を伝える場合には当時の公家社会の慣例に従って院宣や綸旨はその家の家司宛に出されたのに対して、武家執奏が大納言以下の場合には本人宛に出された。また、今出川親子時代には公家施行は消息・御教書の体裁で家司によって発給されていたのに対し、勧修寺経顕時代には体裁は消息・御教書であっても本人の直状によって発給され、西園寺実俊時代には幕府の影響力強化に沿う形で本人の直状である正式な施行状が発給されている。更に公家執行の宛先も足利尊氏将軍在任中は高師直・足利直義・足利義詮ら実務の最高責任者宛に出されていたが、義詮の将軍就任後は父・尊氏生存中から進めてきた将軍親裁権強化の方針に合わせて将軍自身に宛先が変更されるようになった。
だが、永徳2年(1382年)将軍である足利義満が左大臣に加えて院司の長である院執事に就任して伝奏以下を指揮することになったために、治天の君→伝奏→武家執奏→室町幕府将軍の図式が崩壊してしまう。このため、永徳2年から遠くない時期に武家執奏はその役目を終えて実質上廃止となったと考えられている。その後は治天の君に近侍する伝奏が直接自分達の上司でもある将軍・足利義満に伝達し、義満もしくは奉行などの幕府役人の意向も伝奏を経由して治天の君・天皇に取り次がれた。そして、義満の朝廷政策に批判的であったとされる息子の足利義持もまた後小松上皇の院執事に就任している。そのため、伝奏が将軍に対して直接天皇・上皇の意向を伝達するのが慣例となり、後にその役目を担った伝奏を特に「武家伝奏」と称するようになった。
2024年 日本歴史
足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。
南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させ、北山第の中心とした鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。
邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。
生涯
幼少期
延文3年(1358年)8月22日、義満は2代将軍・足利義詮の子として京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継の屋敷で生まれた。祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。母の紀良子は石清水神官善法寺通清の娘で、母を通じて順徳天皇の玄孫でもあった。幼名は春王と名付けられた。
春王は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折しており、その後、幸子との間に子はなく、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。幼児期は伊勢邸で養育された。
春王が幼少の頃の幕府(北朝方)は南朝との抗争が続き、さらに足利氏の内紛である観応の擾乱以来、幕政を巡る争いは深刻さを増していた。康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝方に京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江国に逃れた。春王は僅かな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛され、赤松則祐の居城の播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後、しばらくの間、春王は(赤松)則祐により養育される。幕府側はすぐに京都を奪還し、春王も京都への帰路につくがその道中、摂津国に泊まった際に景色が良いことを気に入り、「ここの景色は良いから京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」という命令を出し、家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。京都に帰還した春王は、新しく管領となった斯波義将に養育され、貞治3年(1364年)3月には7歳で初めて乗馬した。
貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行い、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。
貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により、細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の春王は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている。
家督・将軍職相続
貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた[7][6]。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。
貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。
12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ。
応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之を烏帽子親として、元服した。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。
応安2年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
さらに京都の支配を強化するために、応安3年(1370年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。
永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。
永和4年(1378年)には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
応安7年(1374年)、日野業子を正室に迎えた。
永徳2年(1382年)、開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。
至徳2年(1385年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し、康応元年(1389年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった。
権力強化と南北朝合一
康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康・山名時義らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。
永和4年(1378年)3月、義満は右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。
自らの昇進により足利家の家格を准摂家にまで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた(武士の棟梁足利家の立場が必要な文書の場合は其の後も武士型花押が用いられ続ける)。
永和5年(1379年)8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が、春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ(康暦の強訴)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、康暦2年(1380年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて、寺社勢力に大打撃を与えた。
もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が至徳2年(1385年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、応永元年(1394年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している。
義満は祖父の尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。永徳3年(1383年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。
嘉慶元年(1388年)に土岐頼康、翌康応元年(1389年)に山名時義が死去する。反細川派の重鎮として知られた両者には義満も思うところがあったらしく、土岐頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐康行を討伐(土岐康行の乱)、続けて山名時煕も討伐した。
明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)[注釈 4]。
明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、56年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。
明徳4年(1393年)、義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が崩御し、自己の権力を確固たるものにした義満は、応永元年12月(1395年1月)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、大御所として政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。
応永2年(1395年)6月、義満は出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の、太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためと考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、皇族の常盤井宮滿仁親王まで追従して出家している。
同年、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。
応永6年(1399年)、西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
上記、室町幕府とはの項、参考。
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参考:『奉公衆』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%85%AC%E8%A1%86
奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆(小番衆)、番方などと呼ばれた。
鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。
奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収や京済(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていた。奉公衆は守護から自立した存在であったために守護大名の領国形成の障害になる存在であったが、在国の奉公衆の中には現地の守護とも従属関係を有して家中の親幕府派として行動する事例もあった。
成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。福田豊彦の分析によれば、足利一門および守護大名家の庶流(土岐氏の斎藤妙椿のような有力被官も含める)、根本被官・家僚と称される足利将軍家の古くからの家臣、地方の有力国人領主の3つの層に分けられるとされる。また地域的には近江国・美濃国・尾張国・三河国・摂津国や北陸・山陽・山陰の各地方の出身が多く、意外にも摂津以外の畿内出身者は少ないなどの特徴があるとされる。
近衆番と小袖番
番衆(番方)には近衆番と小袖番があった。
番帳(番文)
室町幕府には出仕勤番を記録した番帳(番文)があった。8代将軍・足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』が現存しており、それによると奉公衆は五番編成で、各番の兵力は50人から100人、総勢で300から400人ほどの人数で、各番が抱える若党や中間なども含めると平均して5,000から10,000人規模の軍事力であったと考えられている。なお、鎌倉公方や古河公方の下にも奉公衆が編成されていたといわれている。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。ちなみに、足利氏にとって重要な拠点のひとつとされていた三河の奉公衆は40人を超えていたといい、国別で最多。
沿革
室町時代の初期には南朝や諸勢力の活動をはじめ、幕府内部でも有力守護の政争が絶えず、天授5年/康暦元年(1379年)には康暦の政変で管領細川頼之が失脚している。そこで、3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するため、御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめる。具体的な成立時期については研究者でも意見が分かれているが、戦国時代の大舘常興は管領細川頼之の命で曾祖父の大舘氏信が番役についての注文を作成したと記していること、康暦の政変が起きる前年の永和4年(1378年)に義満が右大将に任ぜられたり花の御所に移り住んだりして警固体制を強化する事情が生じている事から永和から永徳にかけてその原型が出来、応永の初頭には後世に知られる形が整ったとみられている。彼らは将軍直属の軍事力として山名氏が蜂起した明徳の乱や大内義弘が蜂起した応永の乱などで活躍する。
それでも4代将軍・足利義持の頃にはまだ畠山氏や大内氏の軍事力などに依存しており、6代将軍・足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指した。9代将軍・足利義尚は、文官である奉行衆と共に奉公衆を制度として確立していくが、文明17年(1485年)の4月に発生した奉行衆と奉公衆の抗争に際して義尚は一貫して奉公衆を支持したことで彼らの信望を集めていき、長禄元年(1487年)に近江の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)を行った際には、奉公衆が将軍の親衛隊として活動している。大名と将軍の取次役の申次衆から取り立てられる例もあり、政所執事・伊勢氏の一族であった伊勢盛時(北条早雲)も申次衆から義尚の奉公衆に加えられたとされている。ただし、この時期の奉公衆の強化の背景として、応仁の乱以降の混乱で所領支配が困難になった奉公衆の中に帰国して戻ってこなかった者が多く、この欠員を補うために新規に奉公衆を取り立てていかざるを得なかった事情もある。
10代将軍足利義材(義稙)は、延徳3年(1491年)に奉公衆を率いて再度の六角氏討伐を行い、明応2年(1493年)には河内の畠山義豊を討伐するために出陣するが、出陣中に管領の細川政元が将軍廃立を行い(明応の政変)、奉公衆の制度が事実上崩壊し、奉公衆は形骸化していった。ただし、11代将軍になった足利義高(義澄)も、亡命して再起を図った前将軍・足利義材(義稙)も自派の奉公衆の立て直しに努めており、義澄を継いだ12代将軍足利義晴の時代には領国に戻ったり没落した守護大名の庶流家に代わって大舘氏や佐々木流細川氏(大原氏の分家)が番頭になった形跡がある。
13代将軍足利義輝が殺害された永禄の変後、阿波から14代将軍になった足利義栄には義稙以来の奉公衆に加えて義輝の奉公衆だった者が加わる一方、越前に逃れた足利義昭の将軍擁立を図る奉公衆もいた。義昭は織田信長の支援で15代将軍になったが、義栄に味方した奉公衆の多くは追放されたために、安見宗房のように新たに奉公衆に取り立てたり、奉公衆とは別に創設されていた足軽衆の整備が図られた(明智光秀も元は足軽衆の出身であったと考えられている)。
天正元年(1573年)、足利義昭は織田信長によって京都から追放されるが、義昭と行動を共にした奉公衆は全体の2割ほどであったと伝えられ、多くは信長に従ったとされる。また、そもそもの話として、義昭期の奉公衆に対する待遇の悪化と信長が彼らの保護策を義昭に求めたことも対立の一因として考えられている。義昭が京都から追放された後も将軍職は解任されておらず、身分の称号としては存在し続けていたものの制度としての奉公衆は完全に崩壊し、その称号自体も義昭が豊臣政権に従って将軍職を正式に辞任したことで廃止されることになった。
しかし、番の結束力は固さは幕府終末期まで続き、その後も明智光秀の中心的な家臣として石谷氏(斎藤利三)、肥田氏、進士氏など旧奉公衆が参加している。
参考:『室町幕府と三河の武士』とよはしアーカイブ/豊橋市 https://adeac.jp/toyohashi-city/text-list/d100010/ht030040
参考:『第二章 鎌倉幕府と尾張・三河 』愛知県図書館 https://www.aichi-pref-library.jp/s005/search/050/02_tsuushi_chusei_1_mokuji.pdf
守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。
鎌倉時代
鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていた。
室町時代
室町幕府が成立すると、鎌倉幕府の守護制度を継承した。当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていく。
1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)、観応の擾乱における軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領から年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初、半済は戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化され、各地に拡がっていく。1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)に出された応安の半済令は、従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。この守護請によって、守護は土地自体を支配する権利、すなわち下地進止権(したじしんしけん)を獲得していく。
また、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のため田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収は、守護が行うこととされた。守護はこの徴収権を利用して、独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的権能をますます強めていった。
守護は以上のように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収し、国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衙領や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領(しゅごりょう)を形成した。
またこれと並行して、守護は強い経済力をもって、上記の在庁官人の他、国内の地頭・名主といった有力者(当時、国人と呼ばれた)をも被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力(一円支配)を強めていった。
こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は、後世の大名領国制と比べると必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例も、実際には多く見られる。また、幕府も荘園制度の解体や守護の権力強化は望ましいとは考えておらず、有力守護大名に対して度々掣肘を加えている。
室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置いた。さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。なお、東国の守護は京都ではなく、鎌倉府のある鎌倉に出仕していた。これを在倉制と称する。
これに対して幕府の将軍も自らの側近を従来の奉公衆・奉行衆とともに守護大名家の庶流にも求め、庶流出身の側近に宗家とは別箇に守護職の地位を与える場合もあった。彼らの補佐のもとに将軍の親裁権を高めるとともに守護大名家の分裂と弱体化を誘った。この路線は守護大名の強力な後ろ盾の下に足利将軍家を継いだ足利義持の頃から見られその後継者に継承されるが、守護大名家の分裂と弱体化には一定の成果が見られたものの、肝心な将軍の親裁権強化は有力守護大名の抵抗を前に困難を極め、室町幕府の権力基盤を弱めたばかりではなく、嘉吉の乱や応仁の乱の原因の一つとなった。
戦国時代へ
応仁の乱の前後から、守護大名同士の紛争が目立って増加した。それに歩調を合わせるように、国人層の独立志向(国人一揆など)が顕著に現れるようになった。これらの動きは、一方では守護大名の権威の低下を招いたが、また一方で守護大名による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2年)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護大名は、守護代・国人などにその地位を奪われて没落し、逆に国人支配の強化に成功した守護大名は、領国支配を一層強めていった。
こうして室町期の守護のうち領国や家中の統一に成功した守護や、守護家に代わり地域支配を成し遂げた守護代・国人は、独自の領域支配や軍事・外交的行動を行う戦国大名へと変質・成長し、戦国大名の出現をもって「戦国時代」の時代呼称が行われている。
戦国期においても室町将軍体制は一定の影響を保っており、室町将軍の御分国であった畿内や西国には守護家出身の戦国大名が多く、東国には駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名出自の戦国大名家のほか、非守護家でありつつも広域支配を行った後北条氏や、関東・東北地方では郡単位の地域勢力が分立するなど地域的特徴をもつ。戦国期における守護権威の位置づけについては諸説あるが、おおむね一定の影響力はもちつつも、戦国大名は室町将軍に認証される守護権威に左右されない独自の大名権力を有していた点も指摘される。また、斯波氏の一家臣から正式の守護に転じて数代を経た越前朝倉氏のような少数例も存在する。
それに対応する形で、守護は国府付近に構えていた平地の守護所を、山城およびその山麓の館に移し防衛力を強化した。戦国時代は下位の者が上位者に取って代わる下剋上の時代とされているが、実際にはかなりの守護大名も城郭を構えて戦国大名への転身を遂げていた。
織豊政権・江戸時代へ
室町幕府の滅亡後、織豊政権や江戸幕府の統一政権によって承認された地域勢力は近世大名となった。守護大名家のうち近世大名として残存できた家は、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家と、室町時代の末期に守護に任命された伊達家、毛利家を合わせた計10家にとどまる。さらに江戸期まで守護の地に踏みとどまれたのは島津家(薩摩・大隅・日向守護→薩摩鹿児島藩)、伊達家(陸奥守護→陸奥仙台藩)、毛利家(長門・周防守護→長門萩藩)、宗家(対馬守護→対馬厳原藩)のみである。京極家(出雲守護→出雲松江藩)と小笠原家(信濃守護→信濃飯田藩)は一時的にだが旧守護地に戻れた時期があった。本領を失った大名のうち、山名家、河内畠山家、能登畠山家、駿河今川家、甲斐武田家、土岐家、大友家は交代寄合や高家として存続した。
補足
なお、室町時代当時においては、「守護」と「大名」の言葉は明確に区別して用いられていた。室町幕府関係の古文書を参照すると、同じ守護大名を指す場合でも大犯三ヶ条を始めとして軍役や徴税など守護の管国内における職務に関する活動についての文書には「守護」と呼称され、管国以外の国や国政全般に関する活動についての文書には「大名」と呼称されていた。つまり室町時代当時において守護、あるいは大名と呼ばれる存在を、後世の歴史用語として守護大名と呼称している訳である。
斯波氏 - 尾張・越前・遠江・越中・加賀・信濃
畠山氏 - 河内・能登・越中・紀伊・山城
細川氏 - 和泉・摂津・丹波・備中・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
一色氏 - 三河・若狭・丹後・伊勢(北)・志摩・山城・尾張
赤松氏 - 摂津・播磨・美作・備前
京極氏 - 出雲・隠岐・飛騨
山名氏 - 但馬・因幡・伯耆・石見・備後・安芸・播磨・美作
北畠氏 - 伊勢(南)
土岐氏 - 美濃・伊勢
朝倉氏 - 越前
今川氏 - 遠江・駿河
大崎氏 - 若狭・(陸奥)
伊達氏 - 陸奥(追加設置)
武田氏 - 甲斐・信濃・若狭・安芸
小笠原氏 - 信濃・阿波
上杉氏 - 相模・伊豆・上総・武蔵・上野・越後
佐竹氏 - 常陸
六角氏 - 近江
仁木氏 - 伊賀
宇都宮氏 - 下野
小山氏 - 下野
結城氏 - 下野
千葉氏 - 下総
富樫氏 - 加賀
大内氏 - 石見・安芸・周防・長門・筑前・豊前
尼子氏 - 出雲・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後・隠岐
毛利氏 - 安芸・周防・長門・備後・備中
河野氏 - 伊予
渋川氏 - 肥前
大友氏 - 豊後・豊前・筑後
少弐氏 - 筑前・肥前・豊前
阿蘇氏 - 肥後
菊池氏 - 肥後
島津氏 - 日向・大隅・薩摩
宗氏 - 対馬
(興福寺) - 大和
『守護大名』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E5%A4%A7%E5%90%8D
軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。最初,執事と称されていたが,正平 17=貞治1 (1362) 年斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが,3代将軍足利義満のときに管領職がおかれ,足利氏の一族,斯波,細川,畠山の3氏が交代で就任したのでこの3氏を三管領 (→三管四職 ) といった。管領が出軍などの理由でその任務を遂行できない場合は,臨時に管領代がおかれた。室町幕府の政務の実権は管領にあったが,応仁の乱以後は名目化し,欠職した場合もあった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[細川頼之]
[生]元徳1(1329)
[没]元中9=明徳3(1392).3.2. 京都?
室町幕府管領 (在職 1367~79) 。阿波,讃岐,土佐,淡路の守護。頼春の子。中国管領として正平 17=貞治1 (62) 年幕府から離反したいとこ清氏を讃岐に滅ぼし,細川一族を統制,四国を平定した。正平 22=貞治6 (67) 年将軍足利義詮 (よしあきら) の委託を受けて管領となり,幼少の将軍義満の補佐役となり,以後 12年間事実上幕政を主宰した。正平 23=応安1 (68) 年武蔵守,3年後相模守となった。しかし彼の専横なやり方に,斯波氏をはじめ諸大名が反発し,康暦の政変 (79) で失脚,四国へ下った。元中8=明徳2 (91) 年政界へ復帰,養子の管領頼元の後見となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名、室町幕府2代管領。官位は従四位下、始め武蔵守、相模守。細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。
観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、2代将軍義詮の執事だった清氏は失脚し、これを討った頼之が幼少の3代将軍義満の管領として幕政を主導、半済令の施行や南朝との和睦などを行った。義満が長じた後、斯波義将らとの政争康暦の政変で一旦失脚するが、後に赦免されて幕政に復帰した。その後は家督を継がせた養子(異母弟)頼元とその子孫が、斯波氏(武衛家)・畠山氏(金吾家)と共に将軍に次ぐ三管領として幕政を担った。頼元以後代々右京大夫(唐名右京兆)の官位に任ぜられたことから、この系統は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれ、没落した清氏の系統に代わって細川氏の本家嫡流となった。
生涯
観応の擾乱から四国平定まで
三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)にて細川頼春の子として誕生した。幼名は弥九郎。
史料上の初見は観応の擾乱における阿波国での軍事行動となる。初代将軍尊氏に従う父のもとにあったが、観応元年(正平5年、1350年)に阿波の国人小笠原頼清が乱に乗じて南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣された。阿波在陣中の観応3年(正平7年、1352年)に南朝の京都侵攻で父が戦死すると、頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京、将軍継嗣義詮に属し、讃岐国の軍勢を率いる弟頼有らと共に男山合戦に参加して南軍を駆逐した。その間に阿波の南軍が再び活発になると、頼之は父の阿波守護を継承して領国経営に従事し、小笠原氏や伊予国の河野氏、国人勢力らとの戦いの中、次第に四国における領国支配体制を固める。
この頃、南朝と通じて山名時氏ら反幕府勢力を結集させ、中国地方から伊予にかけて勢力を及ぼし、京都を脅かしていた足利直冬(義詮の異母兄)に対し、義詮が征討の軍を起こした際は、阿波の頼之は伊予への発向が命じられ、文和3年(1354年)には河野通盛に代わって伊予の守護に補任された。
義詮軍は翌年進発したが、越前国守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還されたため、頼之は引き返した義詮と共に京都奪還に加わり、摂津神南合戦に加わった。南軍駆逐後は従兄の清氏と共に三宝院賢俊を訪ねるなど京都に滞在し、右馬頭に任じられた。
翌延文元年(1356年)に再び直冬征討軍が起こされると、頼之は備後国守護に補任され、九州で勢力を持っていた直冬の追討を指揮する大将を命じられた。この時頼之は、闕所処分権を将軍尊氏に拒否されたため、就任を固辞し阿波へ下国しようとしたが、従兄清氏の説得で帰京したという。頼之は、阿波の南軍に対しては有力被官新開氏を守護代として備えつつ、自らは中国地方へ発向して備前国・備中国・備後・安芸国・伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与などの軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使している。正式な幕職であるかは不明だが、頼之は軍事指揮者として中国大将、地方統轄者としては中国管領と呼ばれており、長門探題として中国地方に勢力を広げた直冬に対抗させる幕府の意図があったとも考えられている。
頼之が直冬勢力を逼塞させ中国地方を平定しているころ、中央では将軍尊氏が死去して義詮が2代将軍となり、頼之の従兄清氏が執事に任命された。だが、貞治元年(1362年)に清氏が斯波氏や佐々木道誉らとの政争に敗れ南朝側に奔って阿波へ下ったことから、頼之は義詮から清氏討伐を命じられた。7月に讃岐国へ移った清氏勢を、頼之は宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)の兵を率いて白峰城で破った。清氏はこの戦いで敗死した。
清氏討伐中、再び活発化した直冬勢力だったが、その有力な支持勢力だった大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰順していたため、やがて鎮圧された。時氏の帰順工作には頼之も関わっていたとも言われる。頼之は、中国地方の安定により中国管領を解かれたものの、本国の阿波国に加えて讃岐・土佐国の守護を兼ね、さらに伊予の河野通朝を追討して四国を平定した。
管領時代
貞治5年(1366年)に執事(管領)斯波義将とその父高経が失脚する(貞治の変)。頼之は幕府に召還され、佐々木道誉や赤松氏ら反斯波派の支持や鎌倉公方足利基氏の推挙もあって、死去直前の義詮の命により管領に就任した。頼之は当時11歳の新将軍義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わった。内政面では倹約令など法令の制定、応安元年(1368年)には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行する。またばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制した。
南朝勢力に対しては、応安2年(1369年)に楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し、翌年には今川貞世(了俊)を九州探題として派遣して懐良親王ら九州の南軍を駆逐させ、平定を推し進めた。
応安3年(1370年)8月には、北朝後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問すると、後光厳の兄の崇光上皇が実子の栄仁親王が正嫡であると主張したため皇位継承問題が発生した。頼之は事態収拾は聖断によるべきと深入りを避けつつも天皇側を支持するが、上皇側は義詮の正室で義満の継母渋川幸子らに運動して対抗すると、頼之は光厳院の遺勅を示して介入を封じた。
さらに比叡山など伝統的仏教勢力と五山の南禅寺など新興禅宗勢力の抗争から政治問題が発生した。天龍寺住職春屋妙葩の発議で進められていた南禅寺の楼門建造を幕府は助成していたが、南禅寺と園城寺の抗争から南禅寺僧定山祖禅が著作において天台を非難すると、叡山側がこれに猛抗議して朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めた。山門側が神輿を奉じて入京すると、頼之は内裏を警護させ強訴を阻止し、朝廷の要請もあり定山祖禅は流罪に処したが楼門造営は続行させた。山門側は尚も破却を求めて強訴を続け、朝廷や諸将も山門を恐れたため遂に屈し、7月には楼門撤去を決定する。五山側では春屋妙葩が住職を辞するなど幕府の裁定に抗議し、五山側とは溝が生じることとなった。
康暦の政変
頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、渋川幸子や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。また、今川了俊の九州制圧も長期化していた。こうした中、頼之は辞意を表明して義満に慰留されることで信任を回復することも何度かあった。
しかし、康暦元年(天授5年、1379年)に頼之の養子頼元を総大将とする紀伊国への南朝征討が失敗する。義満がこれに代えて反頼之派の山名氏清らを征討に向かわせ、さらに斯波氏や土岐頼康に兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極高秀らも参加して将軍邸を包囲した(御所巻)。この康暦の政変と呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて本幹の領地である讃岐へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された。
義満は斯波派の頼之討伐の要望を抑えたが、政変を知った伊予の河野通堯は幕府に帰服すると斯波派と結んで討伐の御書を受け、頼之に対抗した。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化を進めていたことから、その力で通堯や細川正氏(清氏の遺児)らを破り、永徳元年(1381年)には通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めていった。
復権と晩年
頼之の養子頼元は赦免運動を行い、康応元年(1389年)の義満の厳島神社参詣の折には讃岐の国人らの船舶の提供を手配し、宇多津で赦免された。そして、明徳2年(1391年)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、義満から上洛命令を受けた頼之が入京を果たした。
義満は頼之の管領復帰を望んでいたが、頼之は既に出家していたため、代わりに頼元を管領とし、頼之はこれを補佐することとなった。幕府役職にない頼之を幕政に参画させるため、義満は将軍の私的な会合に近かった御前沙汰に頼之を加える形式で開催し、重要事項の審議を行った。この先例は、後に義満が嫡男義持に将軍職を譲って出家した後、自ら幕政を主宰する場合にも用いられた。
明徳元年(1390年)、備後国が乱れるにおよび、頼之は備後守護になってこれを平定した[1]。翌年の明徳の乱では幕府方として山名氏清と戦った後、再び京都に召喚されて幕政に関与したが、元中9年/明徳3年(1392年)にはいって風邪が重篤となり3月に死去した。享年64。
葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。
人物
細川頼之(『前賢故実』より)
江戸時代の逸話集『雑々拾遺』によれば幼くして聡明さを見せ、『細川三将略伝』によれば従兄の細川清氏と力比べをしたなどの幼少時の逸話や、父頼春に伴われ夢窓疎石の法話を聞き感化されたという。
10歳のころ、「主人の御用で使いにゆく途中で親の仇に出会ったらどうするか」が話題になったとき、たちどころに「親の仇を持つものはなによりも仇討ちを遂げるべきであり、そのあいだは主に仕えるべきではない」と述べたという[2]。
文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰している。失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩『海南行』も有名である。また、軍事作法について記した書状も存在している。幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行う。
管領を辞任して出家すると言い義満に引き止められたり、評議の場で故意に義満の怒りを買い将軍の権威を高めようとしたとされる。
京都での頼之の邸は、火事見舞いの記録などから六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所であった。
『細川家譜』等に拠れば、明徳の乱に従軍した折、路傍の寺院で供え物を拝借したという。細川家ではこれを吉例とし、代々元旦には饗膳を供えたという。
江戸時代に徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた阿部忠秋は、「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」「細川頼之以来の執権」と評される。
勝海舟は、日本の経済を発展させた歴史上の人物として、豊臣秀吉などと共に頼之を挙げている。
家系
父は細川頼春、母は黒沢禅尼。妻は春日局(持明院保世の娘)で室町幕府3代将軍足利義満の乳母となっており、義満と同年代の実子がいたが早世したとも考えられる。弟には、細川氏嫡流(京兆家)となった養子頼元の他、阿波守護家の祖詮春、和泉上守護家の祖頼有、備中守護家の祖満之がいる。養子は、頼元の他に、和泉下守護家の祖基之(満之の子)がいる。
墓所・木像・肖像画
墓所は頼之が建立した寺である京都府京都市西京区の衣笠山地蔵院、山型の自然石が墓石として残されている。地蔵院には頼之の法体の肖像画や木像、頼之夫人の肖像画も所蔵されている。その他、頼之が細川氏発祥地に建立した愛知県岡崎市細川町の細川山蓮性院にも墓がある。頼之の位牌や念持仏なども所蔵されている。
参考:『康暦の政変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E6%9A%A6%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。
概要
背景
室町幕府2代将軍足利義詮の頃には守護同士が対立し、執事の細川清氏などは失脚した後に南朝に属して京都を奪還するなど幕政は不安定な状態にあった。清氏失脚後には斯波高経、義将父子が幕政を強権的に引っ張ったが、佐々木道誉との対立などから貞治の変で失脚する。義詮死去の直前には四国、中国地方で南朝側と戦っていた細川頼之が道誉など反斯波派の支持を得て管領に就任する。頼之は義詮の子で幼少の3代将軍足利義満を補佐し、半済令の試行(応安大法)や南朝との交渉、九州探題今川了俊の任命・九州派遣などの政策を実施するが、旧仏教勢力の比叡山と新興の禅宗南禅寺との対立においては南禅寺派を支持していたため比叡山と対立し、比叡山の強訴に屈服、南禅寺の住職春屋妙葩が隠棲して抗議するなど宗教勢力とも対立していた。
永和4年(1378年)、紀伊での南朝方の武将橋本正督の活動に対して、頼之は弟で養子の頼元を総大将として討伐軍を派遣するが、諸将が命令に従わず鎮圧に失敗。成長した義満は反頼之派の山名義理・氏清兄弟を派遣し、大和での軍事活動にも復帰した斯波義将や土岐頼康ら反頼之派を派遣した。永和3年(1377年)には義将の所領内の騒動が頼之の領地であった太田荘(現富山県富山市)に飛び火すると、頼之と斯波派、土岐氏、山名氏らの抗争が表面化し、頼之派から斯波派に転じる守護も現れた。
反頼之派の蜂起
康暦元年(1379年)に入ると、反頼之派は義満に対して頼之の排斥・討伐を要請し、近江で反頼之派に転じた佐々木高秀が挙兵した。中央進出への好機と見た鎌倉公方足利氏満がこれに呼応して軍事行動を起こそうとし、3月8日には関東管領上杉憲春が諌死する事件も起こる。それでも氏満は上杉憲方に出兵を命じるが、かねてから関東管領の地位を狙っていた憲方は伊豆まで兵を進めると密かに義満と交渉して関東管領任命の御内書を得ると直ちに鎌倉に帰還し、4月30日には氏満に迫って関東管領就任を認めさせた。一方、京都では4月13日に義満が義将らの圧力で高秀や頼康らを赦免すると、義将ら反頼之派は軍勢を率いて将軍邸の花の御所を包囲し(御所巻)、義満に頼之の罷免を迫った。そのため義満は閏4月14日に頼之を罷免、頼之は自邸を焼いて一族を連れて領国の四国へ落ち、その途上で出家した。
守護改替
政変後は大幅な守護改替が行われ、細川派から斯波派の大名への加増がほとんどであった。
越前:畠山基国→斯波義将
越中:斯波義将→畠山基国
伊勢:山名五郎→土岐頼康
摂津:細川頼元→渋川満頼
出雲:佐々木高秀→山名義幸
石見:荒川詮頼→大内義弘
隠岐:佐々木高秀→山名義幸
備後:今川了俊→山名時義
伊予:細川頼之→河野通堯
豊前:今川了俊→大内義弘
肥後:今川了俊→阿蘇惟村
日向:今川了俊→大友親世
政変後の状況
頼之の失脚後、後任の管領には義将が就任し、幕府人事が斯波派に塗り替えられ、春屋妙葩も復帰した。その後、斯波派と伊予の河野氏らの圧力で義満は頼之追討令を下すが、河野通堯が頼之に返り討ちに遭ったため追討は中止、翌年には頼之を赦免している。なお、この時に頼之の赦免に強硬に反対した山名時義が義満に対して不遜な振る舞いがあったとして討伐計画が検討されたものの実施されなかったという。そして、明徳2年(1391年)に頼之の弟の頼元を管領に任命し、頼之自身もその後見として幕政の中心に復帰させていることから、この政変は頼之からの自立を望んだ義満の提唱によって起こされたものと考えられる。また斯波氏・細川氏両派の抗争を利用し、相互に牽制させて守護大名の強大化を防ぐ狙いがあったとも考えられる。
一方、政変後、鎌倉公方の足利氏満は義満からの問責を受けたため、謝罪の使者として古先印元を派遣して許しを請い、5月2日に赦免を受けている。だが、翌年3月には氏満の幼少時代からの師であった義堂周信を義満が強引に京都に召し出し、義満の意向を受けた上杉憲方は氏満と周信を脅してこれを受け入れさせる有様であった[2]。これ以後、氏満は将軍家や関東管領に対抗するために自らの勢力拡大を意図して小山氏の乱などを引き起こして関東・奥羽の有力大名を抑圧するようになり、永享の乱・享徳の乱まで続く鎌倉(古河)公方と足利将軍家及び関東管領上杉氏との対立の発端となった。
義満はこの政変の後、将軍直轄の軍事力である奉公衆を整備し、康応元年(1389年)に土岐頼康の甥康行を追討(土岐康行の乱)、明徳2年の明徳の乱においては山名氏を討伐、応永2年(1395年)に九州探題今川了俊を罷免、応永6年(1399年)の応永の乱においては大内義弘を追討して有力守護を弱体化させ、幕府の支配体制を固めていく。
相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派の大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。本尊は釈迦如来。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
歴史
永徳2年(1382年)、室町幕府第3代将軍足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願した。その地はかつて行基により創建された出雲寺(現・毘沙門堂。出雲寺は現・上京区毘沙門町にあった)や、法然が住していた賀茂の釈迦堂(現・百万遍知恩寺)が建っていた場所であるが、当時は安聖寺や公家の屋敷が建てられていたのでそれらを移転させている。こうして新たな寺院が建立されることとなり、その名称は、春屋妙葩が開基である足利義満が唐名では「相国」と呼ばれる職である左大臣に任じられていたことから相国寺を推し、また、義堂周信が明には五山制度の始まりの寺院である大相国寺があり、それにあやかって相国寺を推したことから「相国寺」と名付けられた。
その間、至徳3年(1386年)には義満によって京都五山と鎌倉五山が改めて制定され、相国寺は京都五山の第二位に叙されている。寺が竣工したのは創建から10年後の明徳3年(1392年)であった。
義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた[注釈 1]。空谷明応は3度住持を務め、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)の火災で伽藍が全焼した際も義満に乞われて住職に復帰して再建にあたっている。応永8年(1401年)3月5日に義満は相国寺を京都五山の第一位に昇らせた。応永14年(1407年)頃に寺は復興を果たした。この頃には塔頭が50か寺ほどもあり隆盛を誇っていた。ただ、義満が亡くなった後の応永17年(1410年)2月28日、相国寺の京都五山の序列は元の通りの第二位に戻されている。
しかし、応永32年(1425年)に再び火災で全焼し、寛正4年(1463年)に復興している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地とされたため、そのあおりを受けて全焼した(相国寺の戦い)。その後、再建が進められていたが天文20年(1551年)に細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて全焼した(相国寺の戦い)。ここまでで都合4回も全焼の憂き目にあっている。
天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって建立されたものである。慶長14年(1609年)には三門が徳川家康によって寄進されている。その後、元和6年(1620年)に火災があった。
明和2年(1765年)9月29日、伊藤若冲により釈迦三尊像と動植綵絵が寄進されている。
天明8年(1788年)の天明の大火で法堂、浴室、塔頭9か寺を残してほとんどの堂宇が焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間(1804年 - 1818年)に再建されたものである。
明治時代になると廃仏毀釈の影響を受け、多くの塔頭が統合されたり廃絶されたりし、相国寺は困窮した。そこで、1889年(明治22年)3月に伊藤若冲が描いた動植綵絵を明治天皇へ献納し金1万円が下賜された。これにより、1万8千坪の敷地の維持ができた。それでも塔頭が建っていた跡地の多くは失われ、その跡地には同志社大学、京都府立鴨沂高等学校、京都市立烏丸中学校などが建てられた。
七重大塔
足利義満によって応永6年(1399年)に建てられた七重大塔は、応永10年(1403年)に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。1914年(大正3年)の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。七重大塔は北山山荘(現・鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が、義満の没後の応永23年(1416年)に再び落雷で焼失した。その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建されたのが3代目の塔であるが、文明2年(1470年)にまたもや落雷で焼失している。
境内
境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。
法堂(重要文化財) - 無畏堂とも呼ばれるが、現在、当寺には仏殿がないために仏殿も兼ねているため本堂とも呼ばれる。慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が米1万5千石を寄進して再建された。この時点で5回目の再建であった。日本にある法堂建築としては最古のものである。本尊である釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像、迦葉尊者像は運慶による作とされている。天井にある蟠龍図は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。最初に建てられたのは明徳2年(1391年)であり、法雷堂と称された。
開山堂(開山塔、京都府指定有形文化財) - 開山・夢窓疎石像を祀る堂で、桃園天皇の皇后・恭礼門院の女院御所内にあった黒御殿を文化4年(1807年)に下賜されて現在地に移築したもの。礼堂と祠堂で構成されている。創建時の開山堂は資寿院と呼ばれていた。
開山堂庭園「龍渕水の庭」 - 奥が山水庭園で、手前が枯山水庭園となっている。山水庭園にはかつては水が流れていた。
方丈(京都府指定有形文化財) - 文化4年(1807年)再建。扁額「方丈」は中国の名筆家・張即文の筆。方丈と周りの杉戸絵、琴棋書画の間の琴棋書画図、聴呼の間の八仙人図は原在中の筆。竹の間の竹図は浄土宗の僧・玉潾の筆。梅の間の老梅図は伊藤若冲の弟子で相国寺第115世・維明周奎の筆。御所移しの間にある吉野山桜図は御所の清涼殿より拝領したもので、土佐光起の筆ともされている。
大玄関 - 1883年(明治16年)に設けられたもので、それまでは韋駄天を祀る堂であったと考えられている。
方丈前庭 - 白砂が敷かれている。
方丈勅使門(京都府指定有形文化財)
裏方丈庭園(京都市指定名勝) - 苔庭に石の川が造られている。
庫裏(京都府指定有形文化財) - 香積院とも呼ばれる。文化4年(1807年)再建。
承天閣美術館 - 相国寺と塔頭寺院(鹿苑寺、慈照寺など)の文化財を収蔵展示する施設で、1984年(昭和59年)4月に開館した。
般若林 - 本来は境内のアカマツ林の名称であったが、現在は演劇塾「おさだ塾」の本拠地の建物をいう。
浴室(京都府指定有形文化財) - 宣明(せんみょう)とも呼ばれる。慶長4年(1596年)再建。蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる。創建は応永7年(1400年)頃。(右の画像参照)
天響楼(鐘楼) - 2011年(平成23年)夏の建立。中国の開封にある大相国寺(中国語版)により二つ鋳造された梵鐘のうちの一つ。日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもの。
鎮守八幡宮 - かつては現在の上京区御所八幡町にあった。
後水尾帝歯髪塚 - この地には、もともと承応2年(1653年)に後水尾上皇によって再建された大塔があり、その上層部に後水尾上皇の歯と髪を納めていた。しかし、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失したため、この塚が造られた。
経蔵(京都府指定有形文化財) - 万延元年(1860年)再建。この地にはもともと宝塔が建てられていた。
足利義政の墓
藤原定家の墓
伊藤若冲の墓
弁天社(京都府指定有形文化財) - 17世紀後半の建築で、もともとは久邇宮邸で祀られていたもの。1880年(明治13年)に久邇宮朝彦親王によって寄進され、移築された。
宗旦稲荷社 - 千宗旦に化けていた狐・宗旦狐を祀る。
洪音楼(鐘楼、京都府指定有形文化財) - 天保14年(1843年)再建。袴腰付鐘楼。梵鐘は寛永6年(1629年)に鋳造されたものを寛政元年(1789年)4月に買い取ったもの。
仏殿跡 - 礎石と土壇が残る。以前の建物は天文20年(1551年)の石橋の乱で焼失した。
三門跡 - 礎石と基壇が残る。以前の建物は慶長14年(1609年)に徳川家康によって寄進されたものだったが、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失した。
方丈池
天界橋
勅使門(京都府指定有形文化財) - 御幸門とも呼ばれる。慶長年間(1596年 - 1615年)再建。
総門(京都府指定有形文化財) - 寛政9年(1797年)再建。
法然水 - 法然ゆかりの井戸。境内の外、北側にある。
塔頭寺院
かつては臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括する役所鹿苑院があった。足利義満が鹿苑院の院主である絶海中津を僧録に任命して以来、その院主が僧録を兼務し鹿苑僧録として権勢を振るうことになった。明治時代初期の廃仏毀釈の嵐に見舞われて廃絶。
山内塔頭
大光明寺
豊光寺 - 西笑承兌が豊臣秀吉追善のため創建。天明の大火で焼失し、廃絶の危機にあったが、明治15年(1882年)荻野独園が、慧林院とその子院霊香軒の客殿を移築し再興。
長得院
慈照院
慈雲院 - 室町時代中期に創建された[5]。開祖の瑞渓周鳳は相国寺第42世住持を務め、室町幕府8代将軍足利義政に重用されて幕府の外交文書の作成にあたり、日本初の外交史書とされる『善隣国宝記』を編集した。相国寺第113世住持で慈雲院第9世住持の大典顕常(梅荘顕常)は詩文に長じて一世を風靡し、幕府の信任を受け朝鮮修文職として多くの外交文書に携わった。特に伊藤若冲との親交は深く、売茶翁とも交友があった。本堂仏間には本尊の釈迦如来像が安置されている。本堂北側の廊下には岸連山が虎を描いた板戸が残されている。そのほかにも岸連山の障壁画があり、これらは元は二条家の屋敷にあったものと伝えられている。足利義俊筆の松鶴図や別所如閑筆の釈迦三尊像、伝明兆筆の涅槃図などを寺宝として所蔵している。
瑞春院 - 水上勉が幼い時に暮らし、小説『雁の寺』のモデルになった。
養源院
普広院
大通院 - 相国寺の「専門道場」となっている。坐禅堂は選仏場ともいう。
林光院 - 足利義嗣の菩提を弔うため、夢窓疎石を勧請開山として創建。元は二条西ノ京にあった紀貫之邸宅跡にあったが、移転を繰り返した後、豊臣秀吉の命により山内に移った。明治時代には荒廃し廃院となっていたが、大正8年(1919年)橋本獨山によって再興。建物は仁正寺藩藩邸を買い取り移築。南庭の鶯宿梅には、平安時代の村上天皇の代に清涼殿の梅が枯れたので紀内侍(紀貫之娘)宅の梅を移植したが、「勅なればいともかしこし鶯の 宿はととはばいかがこたえん」という別れを惜しむ娘の和歌短冊が添えられ、これに心打たれた天皇は梅を返したという逸話が残る(『大鏡』[注釈 2])。大正4(1915)年に境外墓所に「甲子役戊辰役薩藩戦死者墓」が建てられた。この墓は甲子役すなわち禁門の変(元治元(1864)年と戊辰戦争(特に鳥羽伏見の戦い)に関わって亡くなった方を弔ったものである[6]。
光源院 - 応永28年(1421年)に創建された[5]。永禄の変で三好義継と松永久通らの軍勢に襲撃され亡くなった室町幕府13代将軍の足利義輝の菩提寺となり、義輝の院号から光源院と名付けられた。昭和63年(1988年)に再建された本堂には、室中の12面に亘り、日本画家の水田慶泉が半年がかりで描いたという襖絵「十二支の図」がある。本堂南には自然石で十二支を表した庭も造られている。2021年に上間と下間の2部屋に、画家の加藤晋による襖絵「風雷坊」「春」「夏秋冬」が奉納された。風景の中に、桃太郎や笠地蔵などの日本の昔話や西遊記などの登場人物を潜ませた絵で、あらゆるものが仏性を持つとする草木国土悉皆成仏の世界を表したものである。明治期の廃仏毀釈の折に移築されたという行者堂には、岩窟に前鬼と後鬼を従えた神變大菩薩(役行者)像が祀られている。その左右には弘法大師像と不動明王像が安置されている。
玉龍院
山外塔頭
鹿苑寺(金閣寺)
慈照寺(銀閣寺)
真如寺
かつての山内塔頭
鹿苑院
文化財
承天閣美術館収蔵品については、同美術館の項を参照。以下には相国寺伝来品のみを掲げる。
国宝
無学祖元墨蹟 4幅 与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日:弘安2年11月1日(1279年12月11日)
重要文化財
本堂(法堂)附:玄関廊
紙本墨画猿猴竹林図 長谷川等伯筆 六曲屏風一双
絹本著色十六羅漢像 陸信忠筆 16幅
絹本著色鳴鶴図 文正筆 2幅
絹本墨画淡彩 鳳凰図 林良筆
紙本墨画 山水図 絶海中津の賛あり
子元祖元高峰顕日問答語
十牛頌(伝・絶海中津筆)10幅
明主勅書 永楽五年五月二十五日とあり(1407年)
異国通船朱印状 13通
普広院指図
京都府指定有形文化財
開山堂
方丈
方丈勅使門
庫裏
浴室
鐘楼(洪音楼)
経蔵
弁天社
勅使門
総門
京都市指定名勝
相国寺裏方丈庭園 - 1985年(昭和60年)6月1日指定。
主な行事
観音懴法 6月17日 相国寺で最も特徴的な法要。観音懴法とは、観音菩薩に対して一切の罪を懺悔し、その罪を消し去るための法要。方丈室中中央に「白衣(びゃくえ)観音像」を掛け、周囲にも文殊菩薩、普賢菩薩等の三十三観音像が掛けられて、その中で相国寺独特の声明により、法要が行なわれる。この法要での声明は「相国寺の声明面(しょうみょうづら)」と評されるほど特徴的なものである。
鹿苑忌 5月6日 開基足利義満の命日である5月6日に執り行なわれる法要。
普明忌 10月3、4日 創建開山春屋妙葩の忌日法要。
開山忌 10月20、21日 勧請開山夢窓疎石の忌日法要。
後水尾天皇忌 8月19日 後水尾天皇の忌日法要。
『相国寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%9B%BD%E5%AF%BA
2024年
鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。建物の内外に金箔が貼られている舎利殿「金閣」が特に有名なことから金閣寺(きんかくじ)という通称で呼ばれることも多い。
寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し(金閣寺放火事件)、1955年(昭和30年)に再建された。
また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
歴史
鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。
応永4年(1397年)、金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394年)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。
応永6年(1399年)には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される。相国寺の七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる。
応永10年(1403年)、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。
応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた。
当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[14]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。
足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた。
足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。
1935年(昭和10年)には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。
1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。
1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。
2003年(平成15年)茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。
『鹿苑寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA
金閣寺と共に2024年の設問中にあった「きぬかけの路」については、当サイトの日本地理「京都市」の項を参照
室町幕府3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の晩年から、4代将軍足利義持(よしもち)の時代にかけて栄えた文化の総称。後の8代将軍足利義政(よしまさ)の時代の文化が京都の東山山荘(ひがしやまさんそう)(慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく))を中心に開花したので東山文化とよぶのに対して、北山山荘(鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく))を中心に栄えたというのでこのように呼び習わして、双方を室町文化の二つの巨峰とみなしている。
義満は、南北朝合一の翌々年、1394年(応永1)に将軍職を子の義持に譲って、太政(だいじょう)大臣となったが、義持がまだ幼少であったので、幕府の実権を握るとともに公家(くげ)の最高職をも兼ねる立場にたち、絶大な権威のもとで政治を左右しただけでなく、この時代の文化に新生面をもたらした。その影響は義満没後にも及び、応永(おうえい)~永享(えいきょう)期(1394~1441)における室町文化の多彩な発展には目を見張るものがあり、この時代を日本のルネサンスとする説もあるくらいである。
北山文化の大きい特徴は、伝統的な公家文化と新興の武家文化との融合ということ、さらには禅宗の深い影響や庶民文化の洗練ということに示される。代表的な建築とみられ、北山文化のシンボルともされる金閣は、舎利殿(しゃりでん)という仏教的な名称をもち、公家邸宅の伝統にたつ寝殿(しんでん)造と寺院風の仏殿(ぶつでん)造とが一体化して、しかも最高の価値を示す金(きん)で飾られた。またこれに付随していた会所(かいしょ)では、連歌(れんが)や闘茶(とうちゃ)の会が催されたり、日明(にちみん)貿易の舶来美術品である唐物(からもの)が陳列されたり、立花(りっか)(いけ花)が展示されたりした。また文学では五山(ござん)の禅宗寺院を中心とする漢詩文(五山文学)が主流を占め、絵画では宋(そう)・元(げん)の影響を受けた水墨画が流行した。さらに芸能では、もともと庶民芸能の一つであった猿楽(さるがく)が、ほかの芸能の美点をも吸収しながら、義満や公家の二条良基(にじょうよしもと)らの保護を被った世阿弥(ぜあみ)によって能楽(のうがく)へと大成された。
[横井 清]
『林屋辰三郎著『日本 歴史と文化 下』(1967・平凡社)』
[参照項目] | 東山文化
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
土岐康行の乱(ときやすゆきのらん)は、南北朝時代の康応元年(1389年)から明徳元年(1390年)にかけて発生した、守護大名の土岐康行が室町幕府に討伐された事件である。美濃の乱、美濃土岐の乱とも呼ばれる。
土岐氏
美濃源氏の土岐氏は美濃国で大きな勢力を有し鎌倉幕府の有力御家人となった。土岐頼貞は南北朝の争乱では北朝方について室町幕府から美濃守護職に任じられ、足利尊氏を助けて功績が大きく幕府創業の功臣となった。その孫の頼康は美濃国・尾張国・伊勢国の3ヵ国の守護に任ぜられて評定衆に連なり、土岐氏の最盛期を築いた。
三代将軍足利義満の時、頼康は管領細川頼之と不和になって勝手に帰国してしまい、義満を激怒させ討伐令を出されたことがある(後に謝罪して許された)。康暦元年(1379年)の康暦の政変では斯波義将とともに細川頼之排斥に動いている。頼康は幕府創業以来の宿老として重きをおいた。
乱の経緯
嘉慶元年(1387年)頼康が70歳の高齢で死去。土岐氏の惣領は養子の康行が継いだ。康行は従兄弟の詮直を尾張守護代とし、弟の満貞を京都代官として義満に近侍させた。
将軍専制権力の確立を目指す義満は統制が困難だった有力守護大名の弱体化を狙っていた。嘉慶2年(1388年)義満は美濃国、伊勢国の守護職の継承のみを康行に許し、尾張国は満貞に与えてしまった。満貞は野心家で尾張守護職を欲して度々義満へ康行と詮直の讒言をしていた。義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を図ったのである。
これに激怒したのが尾張守護代の詮直で、満貞は尾張国へ下向するがこれを拒んで尾張国黒田宿で合戦になり、満貞は敗れて敗走した。京へ逃げ帰った満貞は康行と詮直の謀叛を訴えた。義満はこの機を逃さず、康応元年(1389年)4月に康行を謀反人と断じて討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠・頼益父子が征討に向かった。翌明徳元年(1390年)閏3月に康行は美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)で挙兵するが敗れて没落した。
戦後
康行の美濃国・伊勢国の守護職は没収され、美濃国は戦功のあった土岐頼世(頼忠)、伊勢国は仁木満長へ与えられた。『䕃涼軒日録』によると義満は土岐氏の断絶を考えたが、雲渓支山のとりなしでこれを思い止まり、義満は頼世へ支山に感謝して在所を寄進するよう命じ、頼世は美濃国玉村保を寄進したという。
義満の有力守護大名弱体化政策は続けられ、明徳2年(1391年)には11カ国を領して『六分の一殿』と呼ばれた山名氏一族が征伐された(明徳の乱)。
応永6年(1399年)には6カ国の守護だった大内義弘が義満の挑発によって挙兵して滅ぼされた(応永の乱)。
美濃守護職は後に土岐頼益へ譲補され、以後、頼益の家系が土岐氏の惣領として美濃国を支配する。
康行は明徳2年(1391年)に許されて明徳の乱で戦功を挙げ、応永7年(1400年)に伊勢北半国守護に再任された。以後、康行の家系は伊勢守護職を継承して土岐世保家と呼ばれた。
満貞は明徳の乱に参戦するが、卑怯な振る舞いがあったと咎められて明徳3年(1392年)に尾張守護職を解任されている。尾張守護職は土岐氏から離れて、応永7年(1400年)以降は斯波氏が継承することになった。
乱の発端となった詮直は応永の乱の時に大内義弘に呼応して尾張国で挙兵して美濃国へ討ち入り、美濃守護の土岐頼益に敗れている。
明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年12月(1392年1月)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。
背景
六分の一殿
山名氏守護領国拡大
山名氏は新田氏の一族であったが、山名時氏の時に鎌倉幕府に対する足利尊氏の挙兵に従い、南北朝時代の争乱でも足利氏に味方して功があった。観応の擾乱では尊氏の弟足利直義に加担して戦い、直義の死後は幕府に帰参するが、再び叛いて南朝に降って一時は京都を占領する勢いを示した。その後は直義の養子直冬を助けて戦い山陰地方に大きな勢力を張り、2代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の5か国の守護となった。
時氏の死後も山名氏は領国を拡大する。惣領を継いだ長男の師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国(正確には68か国だが、1.陸奥・出羽は守護不設置なので除く、2.「嶋」扱いなので対馬・壱岐を除く、3.狭島・遠島扱いの隠岐とあまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いの志摩を除いたため通称全国66か国にしたとの3説あり)のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。
将軍権力の強化
室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものであった。正平24年/応安2年(1369年)に3代将軍に就任した足利義満は将軍権力の強化を図った。
天授5年/康暦元年(1379年)、康暦の政変により幕府の実権を握っていた管領細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任する。義満は細川氏と斯波氏の対立を利用して権力を掌握。直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化した。
これに加えて、義満は勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る。元中4年/嘉慶元年(1387年)、幕府創業の功臣であり、美濃、尾張、伊勢3か国の守護である土岐頼康が死去した。甥の康行が後を継いだが、義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発して康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中6年(1389年)に義満は康行討伐の命を下して、翌明徳元年/元中7年(1390年)にこれを下した(土岐康行の乱)。康行は領国を全て取り上げられ、康行の弟満貞が尾張を領有、土岐氏の惣領は叔父の頼忠に移ったが、美濃一国の領有しか許されなかった。
義満の次の狙いは11か国を領する山名氏であった。
山名氏の内紛
山名師義は天授2年/永和2年(1376年)に死去し、4人の息子義幸、氏之、義熙、満幸は若年であったため、中継ぎとして末弟の時義が惣領となった。これに対して、氏清とその婿の満幸が不満を示す。また、時義自身にも不遜な側面があったらしく、康暦の政変で失脚した細川頼之の赦免問題で義満と対立し、義満は時義追討を計画したものの実現しなかったという。もっとも、時義の息子時熙が氏清の婿になったのは時義の存命中であったと考えられることから、氏清には時義に取って代わるなどの意思は持っていなかったとみられ、むしろ一族のネットワークを介した都鄙分業が確立されていたとする見方もある。
元中6年/康応元年(1389年)に時義が死去、惣領と但馬・備後は時熙が、伯耆は時義の養子になっていた時熙の義兄弟の氏之に与えられた。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていった(義幸は永徳元年/弘和元年(1381年)に病を理由に丹後・出雲・隠岐守護を辞任、満幸が3か国を継承した)。
また、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代家臣、師義が佐々木氏(京極氏)に追われた後も彼に随従したことから重用された出雲出身の家臣、支配地域で新たに登用された家臣に分かれて争うようになり、それが主家一族の内紛に拍車をかけた。
明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。時熙と氏之は挙兵して戦うが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め、翌元中8年/明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落した。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。備後も満幸の兄義熙が継承したが、同年に細川頼之に交替させられた。
ただし、『明徳記』に記されているような一族による時煕・氏之への讒言を裏付ける史料は確認されておらず、義満側近でかつ嫡流筋に近く時煕に代わって惣領になり得る可能性があった満幸はともかく、氏清に至っては一度は討伐の中止と時煕らの赦免を願い出ているのである。このため、前年より行われていた土岐氏討伐(土岐康行の乱)の「ついで」に行われた以上の域を出ないとする見方もある。
山名氏との対決
義満の挑発
山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放したが、氏清と満幸の勢力が強まってしまった。義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行っていく。
元中8年/明徳2年(1391年)、逃亡していた時熙と氏之が京都に戻って清水寺の辺りに潜伏して義満に赦免を嘆願。義満がこれを許そうとしているとの噂が広まった。氏清は不安になり、同年10月の義満を招いての宇治の紅葉狩りを直前になって病を理由に中止してしまい、義満の不興を買う。ただし、時熙・氏之が赦免された場合に窮地に立つ可能性が高いのは時煕に代わって惣領の地位を狙っていたと思われる満幸の方であることには注意を要する。
3月に斯波義将が管領を罷免され、後任の管領に頼之の弟で養子の頼元が就任、四国に逼塞していた頼之が赦免され上洛したことと、既に政変に参加していた土岐氏が勢力削減されたことから義満は斯波派の打倒も図ったと推測されている。
その一方で、山名氏の内紛は観応の擾乱において時氏と師義が一時的に対立して以来の長期にわたる構造的な問題であること、時熙と氏之が討伐された後に氏清が山城守護に任じられた理由が説明できないことから、足利義満による守護大名家惣領への権力集中を回避する政策があったとしても、山名氏そのものに対する一族への分裂策や挑発が実際にあったかどうかは不明で、むしろ山名氏の内紛の深刻化に乱の原因を求めるべきであるとする考え方もある[7]。もう一つの問題として、結果的に京都の中心部と言える「内野」にまで山名軍に攻め込まれたのは足利義満及び室町幕府の失態と呼べる事態であり、この乱が義満による挑発であるならば挙兵の可能性を考慮した備えがなかったのは不自然とする見方もある。
同年11月、満幸の分国出雲において後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪され京都から追放されてしまった。仙洞領の保護はかつて応安大法によって規定されたもので、同法の施行時には守護や守護代が召集されて、当時幼少であった将軍義満および管領細川頼之から直々に遵守を命じられた経緯がある土地政策の基本法令であった。当時、幕府による守護統制は重要な課題となっており、幕府にとって重要法令と言える応安大法を無視した守護・満幸に対して解任という厳しい処分を下すことで、他の守護に対しても警告を示すと言う側面もあった。なお、横田荘はその性格から出雲守護ではなく山名氏惣領の管理下にあり、先の時煕追討の結果、満幸の支配下に入った可能性が高く、満幸が横田荘の事情に疎かったために起きた問題である可能性もある。
怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。氏清もこれに同意して一挙に京へ攻め上ることを決意する。満幸を分国丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせ、氏清は堺に兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説いた。義理は躊躇するが遂に同意した。氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜される。
幕府に氏清、満幸謀反の報が12月19日に丹後と河内の代官より伝えられた。幕府重臣らは半信半疑であったが氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)が一族と合流すべく京都を退去するに及んで洛中は大騒ぎになり、重臣達も山名氏の謀反を悟る。
12月25日、義満は軍評定を開き、重臣の間では和解論も出た。氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、必勝を確信していたわけではなかった。山名氏の勢力は強大であり、時氏の時代には山名氏の軍勢によって2度も京都を占領されているからである。義満は和解論を退け「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決める。
内野合戦
幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を平安京の旧大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機した。一色氏は若狭国の守護であったが、前任守護の斯波氏の時代に小浜など若狭国の主要部を占める今富名が恩賞として山名氏に与えられたために守護領のほとんどが失われて以来、歴代の若狭守護は領国経営の基盤を持てずに苦しんでおり、山名氏に対する反感を持っていた。
山名軍は決戦を12月27日と定めて、氏清の軍勢3000騎は堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍した。丹波路を進む満幸の軍勢は26日には内野から三里の峯の堂に布陣する。しかし、氏清は河内守護代遊佐国長に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始める。
12月29日夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り3隊に分かれて京に進撃。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけた。夜間の進軍のため各隊の連係は乱れがちで各個に京へ突入することになった。
12月30日早朝、氏清の弟山名義数、小林上野守の700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘の300騎と激突して合戦が始まった。大内勢は下馬して矢を射かけた。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野守は討ち死に覚悟で突撃。義弘は上野守と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。義数も討死、山名軍は緒戦で敗れてしまう。義満は義弘の武勇を賞して太刀を与えた。
次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3000騎で戦闘となるが、義満の馬廻5000騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ逃亡した。
氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、一色氏と斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範・満範父子に討ち取られた。
こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去った。幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は879人であった。
戦後
明徳3年/元中9年(1392年)正月、論功行賞が行われ、山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範(父の範詮は若狭国今富名を与えられて若狭守護領を回復する)、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は山名氏家(反乱に加わったが、降伏して許された)、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられた。11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か3か国に減らされてしまった。また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示した。
同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落。応永2年(1395年)、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。
ただし、満幸が捕縛されるまで出雲・美作・備中などで旧山名氏勢力による蜂起が頻発している。
その後も義満は明徳の和約で南北朝合一を成し遂げ、応永6年(1399年)大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼし(応永の乱)、将軍権力を固めていく。一方、山名氏はこの乱では幕府方として活躍し、その戦功により(大内氏を牽制する意図を含めて)山名時熙に備後、山名満氏に安芸、山名氏利に石見が与えられた。満氏・氏利兄弟は氏清の遺児であったが、時熙に匿われてその後赦免を受けていたのである。また、山名満氏の家臣で乱の発生まで若狭国今富名の代官であった高木加賀守理宗という人物が明徳の乱で幕府側に参陣して戦功を挙げ、その恩賞として満氏が取り立てられたという逸話も伝えられている[14]。満幸が逃亡して抵抗を続ける中、惣領の時煕や戦死した氏清の遺族らに対しては温情を与えてこれ以上の混乱を防ぐ意図もあったと考えられている。なお、応永12年(1405年)頃に山名氏利が早世すると、没落していた山名義理が復権して石見を与えられている。義理は間もなく亡くなったと推測されるが、その子孫が石見守護を世襲している[16]。
乱の様子を詳細に記した『明徳記』は太平記の流れを汲む軍記物語で、著者不明で全3巻。同書は資料性は高いものの、幕府寄りの視点で書かれている。一方で、首謀者で最後まで抵抗・逃亡を続けた末に処刑された山名満幸ではなく、戦死した氏清を義満と対峙させる存在として描いたことなど戦死した山名側の将兵を含めた鎮魂の意味合いもあったとされている[17]。
『明徳の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
明徳の和約(めいとくのわやく)は、日本の南北朝時代の内乱の講和条約で、明徳3年/元中9年10月27日(ユリウス暦1392年11月12日)に南朝と北朝(室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。
南北合体条件(なんぼくがったいじょうけん)とも。
概要
南朝の後亀山天皇と北朝の征夷大将軍足利義満の両首脳間の下で、南朝の参議楠木正儀が中心となって合一の下準備が進められ、正儀の死後は、南朝では右大臣吉田宗房と前内大臣阿野実為が、北朝では祠官・公卿の正三位吉田兼煕が交渉の窓口となった。
この和約に従って、同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北合体(なんぼくがったい)もしくは南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)が実行された。
これによって、延元元年/建武3年12月21日(ユリウス暦1337年1月23日)以来の朝廷の分裂状態が終了し、日本史における南北朝時代の終焉を迎えた。
内容
内容は次の4つである。
南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。
皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など南朝系皇族の立太子)。
国衙領を大覚寺統の領地とする。
長講堂領を持明院統の領地とする。
経緯
50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍・足利義満の時代の明徳3年(1392年)には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。
義満は明徳2年/元中8年(1391年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。そして3か条(前述)を条件に和睦が成立。明徳3年/元中9年(1392年)に後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落したと考えられる。
そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[注釈 1]。元号についても北朝の「明徳」を継続し、2年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では足利義満が後小松天皇や公家たちの反対意見を押し切る形で漸く実現した。さらに国衙領についても、建武の新政以来知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとしてきた南朝と、知行国として皇族や公家たちに与えて国衙領の実質私有化を認めてきた北朝とが対立し、南朝方が北朝側の領主権力を排除して実際に保有出来た国衙領はわずかであったと見られている[2]。
なおも北朝方は、応永19年(1412年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、正長元年(1428年)の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。
『明和の和約』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84
自天王(じてんのう、永享12年(1440年)? - 長禄元年12月2日(1457年12月18日))は、室町時代の皇族。南朝の再建を図った後南朝の第2代(『南方紀伝』では第4代)とされるものの定かではない。北山によったので便宜上、北山宮とも称する。地元に伝えられる位牌には北山宮を自天勝公、弟の河野宮を忠義禅定と称している。
なお、世上、禁闕の変の首謀者とされる源尊秀(尊秀王)を自天王に当てる見方があるものの、菅政友は『南山皇胤譜』で「尊秀王ヲ自天王ニ当テシハ誤ナリ」としており、これが常識的な見方となっている。
参考動画:『歴史探偵 後醍醐天皇と南朝』 −NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025147770SA000/
室町幕府の官職である管領(かんれい)と侍所(さむらいどころ)の長官(所司(しょし))とに任命される家のこと。三管とは、管領が斯波(しば)・細川(ほそかわ)・畠山(はたけやま)の3家から、また四職とは、侍所所司が赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・山名(やまな)・京極(きょうごく)の4家からおこった称である。『南方紀伝(なんぽうきでん)』によると、1398年(応永5)足利義満(あしかがよしみつ)は朝廷における五摂家(ごせっけ)・七清家(せいが)の制に倣って三管・四職の家を定めたという。三管の斯波・細川・畠山の3氏と四職の一色氏は、足利一門の家格の高い有力守護で、四職の赤松・山名・京極氏も、畿内(きない)近国の重要な国々の守護を務める有力な大名であり、いずれも幕政の中枢に参与し、幕府体制を支えていた。しかし、応仁(おうにん)の乱(1467~77)以後名目化していった。
[清水久夫]
『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。
背景
室町幕府の将軍は有力守護大名たちに擁立されており、その権力は脆弱だった。そのため3代将軍足利義満は将軍権力を強化するべく、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強した。
また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下す(土岐康行の乱)。
そして明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏之の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、時熙と氏之を赦免して氏清と満幸を挑発、挙兵に追い込み滅ぼした。山名氏は3カ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。
守護大名大内氏
大内氏は百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖と称し、周防に土着して武士となり、鎌倉幕府の御家人に連なった。南北朝の争乱では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられた。
大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられた。明徳の乱では義弘は大いに奮戦して武功著しく、和泉・紀伊の守護職を与えられる。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになった。
義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていた。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘った。
義満と義弘の対立
応永元年(1394年)義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。応永2年(1395年)には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。
この頃までは義満と義弘の関係は良好だったが、応永4年(1397年)、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、義満の不興を買った。
同年末、義弘は少弐氏討伐を命じられ、筑前で戦い弟の満弘が討死するがその子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせ、義満が裏で少弐氏と菊地氏に義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。
応永5年(1398年)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、それが義弘に聞こえて激怒させている。大陸との貿易の推進を図る義満にとっても朝鮮と強いつながりを持つ義弘の存在は目障りなものになった。
義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。
追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠氏(楠木正勝とその二子の正盛(正顯)・正堯)・菊地氏(菊池肥前守=菊池武照もしくは菊池兼朝)ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。
戦いの経過
挙兵
大内氏分国と反義満派の挙兵
応永6年(1399年)10月13日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させるが、自身は参洛しなかった。義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わる。
義満は青蓮院門跡尊道法親王に仕える伊予法眼を堺へ送り上洛を促すが、義弘は「意に沿わないことがある」と参洛に応じない。10月27日、義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣した。
義弘は一門重臣たちと対応を内談。弟の弘茂は上意に従い参洛することを主張。平井備前入道も恭順して嘆願すべきであり、さもなくば朝敵となり御家滅亡になると義弘を説得した。一方、杉豊後入道は将軍は当家を滅ぼそうとしていると抗戦を主張した。
義弘は絶海中津と面談。絶海中津は将軍家が義弘を滅ぼそうとしているとの噂を信じず、上洛して将軍家に謝罪すべきことを説く。義弘は将軍家からの御恩の深さを感謝しながらも、今川了俊に従軍しての九州での戦い、明徳の乱、南北朝合一、少弐氏退治での自らの功績を述べ、それにも関わらず将軍家は和泉と紀伊を取り上げようとし、先年の少弐氏との戦いで討ち死にした弟の満弘の子への恩賞がない不満を述べる。絶海中津は義弘の忠節は隠れ無きものであり、世の噂を信じるべきではない、また満弘の子への恩賞がないのは上洛しないために行賞できないからだと重ねて上洛を促した。これに対して、義弘は政道を諌めるため関東(鎌倉公方足利満兼)と同心しており、ここで上洛すれば約束を違える事になる、来月2日に関東とともに上洛すると言い放った。事実上の宣戦布告である。絶海中津は説得を諦めて帰京する。
もっとも、「応永記」などに描かれた義弘の姿には必ずしも実際の流れに則していたとは言えない。この時、既に関東の鎌倉公方足利満兼から義弘の元に興福寺に対して決起を促す御教書が届けられていたが、その御教書が実際に興福寺へ届けられたのは11月4日であった。堺と奈良の距離を考えると、この書状が堺を出たのは絶海中津との会談から数日経っていたと考えられ、義満が実際に義弘討伐の軍を発向させるまで、義弘の心中では義満と戦うか否かで迷っていた可能性が高い。
絶海中津からの報告を受けた義満は翌10月28日に義弘討伐を命じる治罰御教書を出した。ただちに細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊6000余騎が淀から和泉へ発向する。11月8日、義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えた。11月14日、義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向した。
義弘は評定を開き作戦を談じた。弟の弘茂は城を構えて和泉、紀伊に割拠して持ちこたえる策を提案。杉豊後入道は機制を制して舟で尼崎に上陸して八幡の陣を突き決戦することを主張した。かねてから謀反を諌めていた平井備前入道は出戦は無益であるとし篭城策を説いた。義弘は篭城策を採った。
義弘は材木を集め、井楼48と矢倉1000余を建てて堺に方18町の強固な城を築き、「たとえ百万騎の軍勢でも破ることはできない」と豪語した。一方で、義弘は討死を覚悟して、かねて帰依していた僧を招き自らの葬儀を執り行った。また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見には分国を固く守るよう申し送った。義弘に従う者たちもみな討死を覚悟した。
城攻め
幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖した。義弘は河内国の森口城で戦っていた杉九郎と鴨山に配備した杉備中守を立退かせて堺に兵力を集中させた。義弘の軍勢は5000余騎。
11月29日、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて総攻撃を開始した。大内勢はこれに応じて、矢倉からさんざんに射まくった。管領畠山基国の軍勢2000余騎が北側の一の木戸、二の木戸を打ち破り、三の木戸まで攻め寄せ700人余が死傷する激戦を展開する。
畠山勢に代って山名時熙の軍勢500余騎が攻め寄せ、城内からは杉豊後ら500余騎が出撃して戦う。義弘も200余騎を率いてこれに合力する。伊勢国司の北畠顕泰の軍勢300余騎が山名勢に加勢、子息の満泰が討死する程激しく戦った。
細川勢、赤松勢の5000余騎は南側から、六角勢、京極勢は東側から攻め寄せる。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出た。
反義満派の蜂起
その頃、義弘に同心した土岐詮直が挙兵して尾張へ討ち入り、美濃国へ侵攻した。美濃守護の土岐頼益は大内攻めの陣にいたが、直ちに美濃へ引きかえして詮直を打ち破る。
宮田時清も義弘に同心して丹波へ討ち入り、京へ侵入して火を放ち、300余騎で八幡の幕府軍本陣を目指して突入した。時清の軍勢は幕府軍の陣を次々に打ち破るが力尽きて退却した。
京極秀満は近江で挙兵して、京への侵攻を図った。三井寺の衆徒500人が勢多で橋を焼いてこれを待ち受ける。秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙した。大内攻めに加わっていた京極勢1000余騎が引き返して森山へ迫ると、秀満は土岐詮直と合流すべく美濃へ向かうが途中で土一揆の蜂起に遭って潰走、秀満は主従2騎で落ちて行方知れずになった。なお、秀満の官職が金吾(左衛門尉)であったことから、この挙兵だけを指して金吾騒動(きんごそうどう)とも称する。
鎌倉公方足利満兼は1万騎余を率いて武蔵府中高安寺まで進んだが、関東管領上杉憲定に諌められて兵を止めた。
落城
堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が意気を揚げていた。しかし、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、12月21日早朝に総攻撃を開始した。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せた。
杉備中守は今日が最後の戦いになると覚悟し、山名(河口)満氏(氏清の子、宮田時清(既述)の弟)の陣に突撃して見事な討死を遂げた。これを見ていた義弘は項羽の討死の故事を引き、自分も後代に残るような最期を遂げようと決意する。義弘は幕府軍の北側の陣へ斬り込み大太刀を振るって奮戦。管領畠山基国の嫡子満家の軍勢200騎がこれに挑むが、義弘はよき敵であると僅か30騎でさんざんに戦った。その時、石見の住人200騎が幕府軍に内応してしまう。激怒した義弘は石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢は逃げ散った。
義弘はなおも満家を討ち取ろうと戦い続け、幕府軍はこれを取り囲んで攻め立てた。義弘の手勢は次第に数を減らし森民部丞ひとりになってしまった。森民部丞は義弘を守って敵陣に斬り込み奮戦して討死した。一人になった義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて「天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して、討ち取られた。
南側を固めていた杉豊後守は義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死。東側を固めていた弘茂は今川勢、一色勢を相手に戦っていたが、手勢も討ち減らされ、最早これまでと自害しようとした。平井備前入道が押し止めて降伏を勧め、弘茂もこれに従った。
その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城した。
鎌倉公方足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍するが、義弘敗死の報を聞いて鎌倉へ引き返した。
戦後
応永7年(1400年)3月、鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられている。以後は政治活動は起こさず、和歌、連歌に没頭することになる。また、妙心寺6世住持の拙堂宗朴は義弘と関係が深かったため義満の怒りを買い、妙心寺の寺領を没収された上に義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。
その後の論功行賞で、義満は大内氏の分国和泉・紀伊・石見・豊前を没収。和泉を仁木義員、紀伊を畠山元国、石見を京極高詮に、周防・長門を降参した弘茂に与えた。しかし、周防・長門の本拠を守っていた盛見はこれに従わずに抵抗。弘茂は幕府の援軍とともに盛見を攻めてこれを追うが、応永8年(1401年)に九州で盛見は再挙し、数度の合戦の後、弘茂は佐加利山城(現在の下関市長府)で滅ぼされた。
盛見は更に安芸、石見まで勢力を伸ばす。幕府もこれを認めざるを得なくなり応永12年(1405年)頃に盛見に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えてようやく帰順させた。こうして、いったんは没落しかけた大内氏は再び勢力を盛り返すことになった。
応永記
この乱の内容は、軍記物語である『応永記』(別名『大内義弘退治記』)に記されている[2]。作者や成立年は不詳だが、乱の終結からあまり時間をおかずに成立したと推定される。別名の通り幕府(足利義満)側の視点で記録されているが、乱の史料として信憑性は高いとされる。写本として『堺記』がある。
『応永の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
2025年 誤答として出題
14~17世紀の日本と中国の明との貿易。日本国王(懐良(かねよし)親王・足利将軍)の名義で派遣された遣明船(勘合船)による貿易と,倭寇(わこう)などによる密貿易がある。遣明船は,1401~1547年(応永8~天文16)に19回派遣され,1404年以降の17回は勘合の所持を義務づけられた。貿易形態は,日本国王・遣明使の朝貢品と明皇帝の回賜(かいし)品の交換のかたちで行われる進貢(朝貢)貿易と,遣明船の乗員による公貿易・私貿易の3種類がある。進貢貿易は,馬・刀剣・硫黄(いおう)・硯・扇子・屏風などを献上し,羅・紗などの高級絹織物,白金や巨額の銅銭などが回賜された。公貿易では,遣明船の付搭(ふとう)貨物(国王付搭品)を明政府と貿易し,刀剣・硫黄・銅・蘇木(そぼく)・蒔絵(まきえ)漆器などを銅銭・絹・布などと交換。刀剣は大量に輸出された。私貿易は,遣明船乗員の私的な貨物を中国商人らと取引した。寧波(ニンポー)の牙行(がこう)との貿易,北京(ペキン)の貿易場の会同館(かいどうかん)での貿易,北京から寧波への帰路の沿道で行われる貿易の3種類がある。輸出品は公貿易と同じ。輸入品は生糸・絹織物が主流で,ほかに麻布・薬種・砂糖・陶磁器・書籍・書画・銅器・漆器など。遣明船途絶後,中国からの渡航船や倭寇との密貿易で,中国の物資が多く日本に運ばれた。日本からは銀が大量に輸出された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
日本国王源道義
金閣で明の使節を迎えた義満が、当時の明の皇帝からの国書を開いてみると、そこには「国王源道義(げんどうぎ)」という宛て名があった。
明は義満を日本国王として認めたのである。
こうして日中の国交は、500年あまりの断絶を経て、義満の粘り強い外交戦略によって回復したのである。
『第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ 室町時代の交易と文化』NHK高校講座 https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/assets/memo/memo_0000000581.pdf
廻船式目
かいせんしきもく
古くは『船法』『船法度 (ふねはっと) 』『船作法書』ともいわれた。日本最古の海商法規。 15~16世紀,瀬戸内海の海運業者の慣習法を成文化したもの。船舶および船主,船頭,水主,共同海損,海難救助,航海儀礼など 31ヵ条 (のち 43ヵ条) から成る。多く写本で伝わるが,活字では『海事史料叢書』『改訂史籍集覧』『日本経済大典』に収められている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
廻船式目
かいせんしきもく
わが国最古の海事商法規
1223年制定説もあるが,15世紀後半〜16世紀中ごろとする説が有力。おもに西国海運業者に適用され,内容は船舶・船主・船員・借船・共同海損・衝突・海難救護など多面にわたる。後世の海事商法に与えた影響は大きく,豊臣秀吉はこれを参照して海路諸法度を制定した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
三津七湊(さんしんしちそう)とは、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に、日本の十大港湾として記されている三津・七湊の港湾都市の総称。
三津
廻船式目
安濃津 - 伊勢国安濃郡(三重県津市)
博多津 - 筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
堺津 - 摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡(大阪府堺市)
武備志
中国明代の歴史書『武備志』では、次の3港が「日本三津」「三箇の津(さんがのつ)」として記されている。
安濃津 - 伊勢国安濃郡(三重県津市)
博多津 - 筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
坊津 - 薩摩国川辺郡(鹿児島県南さつま市坊津町坊)
七湊
三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口
本吉湊(美川港) - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市(旧:美川町))、手取川河口
輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口
岩瀬湊 - 越中国新川郡(富山県富山市)、神通川河口
今町湊(直江津) - 越後国頸城郡(新潟県上越市)、関川河口
土崎湊(秋田湊) - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口
十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口
これらは日本海交易の拠点として栄え、近世には北前船の寄港地ともされた。
『三津七湊』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B4%A5%E4%B8%83%E6%B9%8A
参考:『応永の外寇』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87
応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。
当時足利義持(室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
背景
前期倭冦
高麗史と日本側の記録によると、倭寇は元寇以前にも存在して高麗から財産を略奪したがその活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという。「高麗史」、「高麗史節要」に拠れば、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出したという(康応の外寇)。
高麗が朝鮮に代わった後にも倭寇は朝鮮半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、室町幕府将軍・足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事によって、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。
しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
朝鮮側の記録
ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。
対馬侵攻の決定
朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが、応永26年5月7日(1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明の浙江省に向かっていた途中、食糧不足で朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した。この倭寇は5月12日(6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬と壱岐からの倭寇ということを知り、5月14日(6月7日)、対馬遠征を決定。国王・世宗に出征を命じた。
朝鮮側は5月23日(6月16日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[20]、5月29日(6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。
対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17,285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた。
朝鮮軍司令部の構成は次の通りであった。
三軍都體察使:李従茂
中軍節制使:禹博・李叔畝・黄象
左軍都節制使:柳湿
左軍節制使:朴礎・朴実
右軍都節制使:李之実
右軍節制使:金乙和・李順蒙
太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ盗賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じた。
糠岳での戦闘
6月19日(7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した。
6月20日(7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。対馬の盗賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れて険阻な場所へ走り込む。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、宗貞盛に送った。だが答えがないと、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした。また同日、倭寇に捕らわれていた明国人男女131人を救出する。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、僅かな食糧を持って山に逃げ込んだ盗賊たちの飢え死にを図って、長く包囲し留まる意を示す。
6月29日(7月21日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、対馬側はすでに壱岐の松浦党に援軍を要請し険難な山の奥に伏兵を配置していた。そして朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、右軍の武官・李順蒙が対馬側の先鋒の指揮官らしき者を矢で射ち殺すと、対馬側は退いた。
撤収
6月29日、遠征の報告のため朝鮮に戻っていた従事官、趙義昫が対馬に帰ってきた。この時、崔岐という太宗の使いが同行しており、遠征軍に二つの宣旨(手紙)を届け、全てを仔細に李従茂と論じたとおりせよと命令した。その内容は、「7月は暴風が多いため、長期的に留まることを避けること」、および「李従茂は宗貞盛及びその他の日本人に太宗の意を論ぜよ」というものであった。このような楽観的とも言える宣旨がなされたのは、この時点では朝鮮軍が敗北したとの報告が太宗には届いていなかったためであった。また、宗貞盛からも「朝鮮軍が長期間留まることを恐れるため、修好と撤退を願う。7月は暴風が吹くため大軍が留まるのは(朝鮮側にとっても)良いことではない」との文書が送られた。7月3日、軍船は対馬から巨済島に撤退した。
損害
『世宗実録』では6月29日の戦いで死者百数十人、7月10日(8月1日)の記録として戦亡者180人となっている。朝鮮側は戦没した朝鮮軍の遺族全員に米と豆を支給した。対馬側の被害は正確には知られてないが、朝鮮の史料によると対馬の人命被害は200人に近く、対馬の糠岳には殿様壇という墓があり、戦死した対馬の守護宗貞茂の墓と伝えられているが、実際貞茂は前年に病死しており、誰の墓かは判明していない。
撤収後の影響
糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に帰らせて我が国の弱点を見せることはできない」という左議政(高位官吏)の主張があった。そのため、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「戦死者、倭人20人余り、朝鮮人100人余り」と朝鮮側の被害を多く言った。これについて、崔雲等が「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、太宗がこれに賛同し、中国人たちを明国へ帰すこととなった。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂も朝鮮の大臣たちの非難を受けたが、朴実の敗戦の罪は司令官の皆にあるとし、東征(対馬遠征)にとって勝利も多かったとして、後に朴実は免罪、李従茂は昇進する事になった。対馬遠征で功績があると官職を受けた朝鮮人は200人余りであった。 また対馬については、「我が族類にあらず(島倭非我族類)」と前言を翻し、さらに朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた対馬人を僻地に移転させることを決定した。
対馬再征計画
7月9日(7月31日)に、対馬へ向けて出港し再攻撃することが提案されたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損し、風も強くなっていたことから得策ではないとして、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとしたが、結局実現はしなかった。
日本側の記録
日本側の同時代資料には少弐満貞の注進状がある。その内容は、以下のようなものであった。
「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。
対馬侵攻が実施されたのは、ちょうど幕府と明との関係が悪化していた時期であった。『看聞日記』の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希璟一行が来日する。京都に着いた宋希璟は、初め将軍・足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希璟は、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した。
また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介している。
6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。
300年後に編纂された『宗氏家譜』(1719年)によると、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退した。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしており、探題持範注進状の3700人に近い数字となっている。
対馬の使臣
朝鮮王朝実録によれば、9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、印章の下賜を求めたという。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希璟が対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族である早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定した。
その後
戦後、対馬と朝鮮の間に使節は相変わらず往来する。10月17日、倭寇の首領早田左衛門太郎は「貴国が本島(対馬)を討つ時、王命を敬い、矢一本撃たなかった」と朝鮮に拘留されていた対馬人の送還を願い出た。12月2日、糠岳で対馬側の攻撃によって体に矢2本を撃たれて行方不明になった朝鮮の将校金亥の息子金彦容が対馬に行って父を探すことを朝鮮の朝廷に願い、これが許された。
1426年、左衛門大郎の要請で朝鮮は釜山浦、乃而浦以外にも塩浦を開港し、両国間の貿易が再度活発化した。しかし、来往する日本人の数が日々増え、接待費などが朝鮮に負担となり、1443年、朝鮮は対馬と嘉吉条約(癸亥約条)を結び解決する。なお、朝鮮は倭寇制御の一環として、対馬の色々な人に官職を与え、特に1461年、貞盛の子、宗成職(そうしげもと)にも官職を付与した。以後、朝鮮は定期的に対馬に米を贈ることになった。
朝鮮が対馬人に対する帰化・救恤等の政策を行ったため前期倭寇は一応衰退していく。1430年の朝鮮の記録によると当時朝鮮は応永の外寇の際朝鮮軍が威力を見せたことで倭寇が暴虐なことをそれ以上しないようになったと認識していた。嘉吉条約を結んだ翌年である世宗26年(1444年)をもって倭寇終息を宣言し、明にも報告した。また海賊貿易である倭寇が減ったことで、正規の貿易はむしろ増加し、制限するために通交統制が用いられるようになる。
それが恒居倭人(朝鮮に居住する日本人)の増加を促し、三浦の乱が起きた原因となった。乱後の交渉は、対馬の宗氏が偽使を介して行ったので、以後の日朝貿易は事実上の対馬独占となった。
その後、倭寇は一時的に衰退に向かうが、約一世紀後には明の海禁を破った中国人と日本人の集団が海に繰り出して後期倭寇として勃興した。
日本中・近世社会に固有な武士・農民の結合および行動様式。「揆(き)を一(いつ)にする」意から、一致団結することを意味するようになり、一致した集団行動に対して用いられるようになる。
鎌倉時代には、武家が一揆して党をつくるなどに用いられているが、南北朝の内乱期以降、14世紀から16世紀には、「一揆の世」といわれているほど多様な形態の一揆が頻発し、政治に大きな影響を与えるようになる。まず、南北朝期に武家らの党や集団を一揆というようになり、土着の武士である「国人(こくじん)」の地域的結合である国人一揆が生まれた。しかしこのころ畿内(きない)近国の農村では、不法な代官の罷免や年貢減免を求める名主(みょうしゅ)を中心とする「庄家(しょうけ)の一揆」が組織されるようになり、これがその後、争乱、そして収奪強化、高利貸支配による生活不安などが増大すると、年貢減免や新税賦課反対を領主に求めたり、徳政を求めて結集し実力でかちとる土(つち)一揆へ発展し、1428年(正長1)の大一揆以降、主流となる。土一揆は「土民」の一揆ということであるが、一揆を組織し指導したのは国人で、名主・地侍らの農民が主体となり、それに馬借(ばしゃく)・都市貧民などが加わる場合が多い。しかし、15世紀末土一揆を主導してきた国人が農民支配を強化し、山城(やましろ)(京都府)でみられたように国一揆を組織するようになると、土一揆はしだいに減少し、戦国時代には一向(いっこう)一揆など宗教的色彩を帯びるようになる。ただこれも信仰的結合というより、大名に抵抗するために農民を巻き込んだ国人らの一揆の性格が強い。
[青木美智男]
『青木美智男他編『一揆』全5巻(1980~82・東京大学出版会)』▽『勝俣鎮夫著『一揆』(岩波新書)』
[参照項目] | 一向一揆 | 国一揆 | 土一揆 | 百姓一揆
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
一揆コトバンクより一部引用
参考:『コシャマイン』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3
コシャマインまたはコサマイヌ(胡奢魔犬、生年不詳 - 1458年)は、北海道渡島半島東部のアイヌの首長。1457年(康正3年、長禄元年)に起こったコシャマインの戦いの指導者。
人物・事績
道南十二館
製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品を交易に頼っており、明や渡島半島から道南に進出した和人(渡党、道南十二館などを参照)との取引を行っていた。しかし1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると明との交易が急激に衰え、和人への依存度が高まった。一方、安藤義季の自害により安藤氏本家が滅亡し、道南地域に政治的空白が生じた。
そうしたとき、アイヌの少年が志濃里(現、函館市。「志苔」「志海苔」「志法」とも表記される)の和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生し、怒った鍛冶屋がその小刀で客であるアイヌ少年を刺殺した。
1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、日頃から和人に対して不満を持っていたアイヌはついに反乱を起こすことを決意し、首領コシャマインを中心にアイヌが団結した。1457年(長禄元年)5月14日、コシャマインらは大軍を率いて東は胆振の鵡川から西は後志の余市までの広い範囲で蜂起した。事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落とした。1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマインとその子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
コシャマイン父子は戦そのものには敗北したが、以後100年間も続く戦いの戦端を切ることとなった。この乱ののち、武田信広のもとに諸豪族の被官化が進み、その後裔は近世大名松前氏へと成長した。この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある。また、コシャマインのような大勢力を持つ首長層の出現を、和人・アイヌ民族双方の政治経済的成長ととらえる視点も存在する。
1994年(平成6年)以降、毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山でアイヌ・和人の有志によるコシャマインの慰霊祭が行われている。
室町時代末期,足利将軍家ならびに管領畠山,斯波両氏の継嗣問題に端を発し,細川,山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって,東西両軍に分れ,応仁1 (1467) 年から文明9 (77) 年までの 11年間にわたって京都を中心として争われた大乱。原因としては次の3つが考えられる。
(1) 室町幕府8代将軍足利義政には当初嗣子なく,細川勝元とはかり,寛正5 (64) 年 11月,義政の弟の浄土寺門主義尋を還俗させ,義視(よしみ)と名のらせ,将軍職につけた。ところが,翌6年1月,義政夫人日野富子が義尚(よしひさ)を生んだため,日野氏は山名持豊 (宗全) とともに義尚擁立を策した。
(2) 畠山氏に政長,義就兄弟の継嗣争いがあり,将軍義政は政長を助けて義就を追い,勝元もこれに味方した。義就は吉野に走ったが,持豊は彼を京都にいれた。
(3) 斯波氏に子がなく,一族義敏を嗣としたが,家宰らは義敏を廃し義廉を立てるように奏した。一応これは許されたが,義廉は持豊の女婿であるなどの事情から再度義敏擁立の策謀があって混乱し,ここに勝元,持豊の干渉もあって,京都の形勢は騒然となった。これら3つの事情が前提となって応仁1年1月,持豊は畠山政長を退けて斯波義廉を管領とし,細川一族を追放しようとした。その間にまず畠山氏の政長と義就が戦いに突入し,勝元は,政長を助け,室町第警護を名目として,諸国に令して 10万の軍勢を集めた。畠山政長,斯波義敏,京極持清,武田国信,赤松政則らがこれに属した (東軍) 。一方持豊は,斯波義廉,畠山義就,六角高頼,一色義直ら9万の兵をつのって幕府の西に陣した。かくて東西両軍は,京都を中心として,邸宅,寺院の炎上その数を知らぬ戦いを繰広げた。関白以下公卿らがこの乱を避けて地方に下ったのもこの頃である。両軍は数年間抗争を続けたが,文明2年,大内氏をはじめ,帰国する大名や相手軍にくだる大名が出はじめた。同5年3月,持豊が病没し,同年5月に勝元も没した。同年 12月には義政は致仕して義尚が将軍職を継ぎ,畠山政長が管領となったが,戦いはなおやまず,同9年 11月,まず西軍が,次いで東軍も陣を解くにいたって大乱は終結をみた。この大乱によって京都は焼土と化し,幕府の権威は失墜して,在地武士層の勢力が増大し,戦国大名の領国制が大きく展開されることとなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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参考:『西陣南帝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%99%A3%E5%8D%97%E5%B8%9D
後南朝の人物。
応仁・文明の乱の只中だった文明3年(1471年)、西軍によって一時的に「新主」として擁立され、京都に迎えられた。小倉宮を称していたが、諱は不明であり、南朝皇胤としてどのような系譜をたどるのかも定かではない。一説には後亀山天皇の曽孫および尊雅王の子とし、あるいは高倉天皇の玄孫である尾崎宮̤晶̤王の子孫ともされる。いずれにせよ、小倉宮の嫡流でも本流でもない(それどころか支流かどうかも怪しい)ため、元は出家していたとされている。
ただし、興福寺大乗院門跡・尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』では「小倉宮御末、岡崎前門主御息かと云々」(文明3年8月26日条)、「西方新主は小倉宮御息、十八歳に成り給ふ」(同9月8日条)とされており、このことから小倉宮の末裔だと考えられている。また、文明3年の時点で18歳とされていることから逆算して、生年は享徳3年(1454年)と推定されている。
生涯
西陣南帝の動向を時系列に沿って正確に描写することは不可能である。『大乗院寺社雑事記』は文明元年(1469年)頃より南朝皇胤にまつわる風聞を盛んに書き留めているものの、それぞれの南朝皇胤が誰であるか、他の場面に登場する南朝皇胤との関係など、肝心なことはほとんど不明だからである[3]。
しかし、最初に南朝皇胤の風聞が伝えられるのは文明元年11月21日で、吉野と熊野で南朝皇胤を称する兄弟の蜂起があり、年号を明応元年と制定したとの風聞が伝えられている[注釈 1]。森茂暁はその実態は不明であるが、年号を使っていたという情報がある以上、実質を備えた蜂起であった可能性が高い、と述べている。
続く文明2年(1470年)2月末、南朝皇胤が紀伊国有田郡の宇恵左衛門のもとで旗上したことが伝えられている。さらに3月8日には同国海草郡藤白に移り、郡の者がほとんど味方したとされる。そして同月下旬には大和国に入り、南方の旗が越智郷を上って、橘寺のあたりを通過した。
そんな中、5月になると、山名宗全をはじめとする西軍の大名たちが「南帝」を擁立し、禁裏に迎え入れようとしているとの風聞がもたらされる。『大乗院寺社雑事記』文明2年5月11日の条として「南帝事内々計略子細有之歟云々」。この動きについて森は、当時、東軍が後土御門天皇・後花園上皇を擁しており、それに対抗するためであったとしている。これに対し、西軍の大名の中で畠山義就だけは、自身の所領が南朝皇胤の所領と重なるので難色を示したものの、翌6月に義就は諸大名や足利義視に説得されて了承したことが『大乗院寺社雑事記』の文明2年6月25日の条で裏付けられる。
かくて、文明3年(1471年)8月26日、西軍諸将の要請を受けた南朝皇胤は遂に入洛し、北野松梅院に入った。この一連の動きを受けて森は「このようにして、小倉宮流の「新主」「南帝」は擁立された。後醍醐天皇の系譜を引く「南帝」にとってももっとも晴れやかな時期であったに相違ない」としている。
しかし、この「新主」「南帝」を受け入れる西軍の体制は必ずしも盤石ではなかった。足利義視は畠山義就を説得していたにもかかわらず、「新主」の擁立には同心していなかったとされる。そして、文明5年(1473年)3月18日、西軍大将の山名宗全が死ぬと、「新主」「南帝」の消息は『大乗院寺社雑事記』でも絶えて伝えられなくなる。西陣南帝のその後をめぐっては、滝川政次郎が「西陣の南帝は、諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」としているものの、いかなる典拠に基づくのかは不明である。
その後、南朝皇胤は各地を放浪したようであり、『妙法寺記』文明10年(1478年)11月14日条には「王京ヨリ東海ヘ流レ御坐ス甲州ヘ趣小石澤観音寺ニ御坐ス」とあり、文明11年(1479年)7月19日に越後から越中を経て越前の北ノ庄に到着している。『妙法寺記』によると、明応8年(1499年)11月には王(南帝とされる)が伊豆国三島に流れ着き、伊勢宗瑞が諌めて相模国に向かわせたという。これが南帝に関する最後の記録であり、同時に後南朝に関する記録もなくなり、歴史からは姿を消した。
参考:『樵談治要』京都国立博物館 館蔵品データベース 原文 https://knmdb.kyohaku.go.jp/3527.html
参考:『樵談治要』wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%A8%B5%E8%AB%87%E6%B2%BB%E8%A6%81
参考:『樵談治要』コトバンク https://kotobank.jp/search?q=%E6%A8%B5%E8%AB%87%E6%B2%BB%E8%A6%81&t=all
参考:『一条兼良』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E8%89%AF
一条 兼良(いちじょう かねよし/かねら)は、室町時代から戦国時代初期にかけての公卿・古典学者。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮。一条家8代当主。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。
永享4年(1432年)、兼良は摂政となったが、月余で辞退に追い込まれ、同時に左大臣も辞職を余儀なくされる。その背景には同年に実施された後花園天皇の元服を巡る兼良と二条持基の対立があった。かつて後小松天皇の元服の際に、摂政の二条良基が加冠役・将軍の足利義満(左大臣)の理髪役を務めた。後花園天皇の元服を後小松天皇の先例に倣って実施しようとした際に、二条家の摂政が加冠役・足利将軍が左大臣として理髪役を務めるべきとする主張が出され、兼良は摂政を持基に、左大臣を足利義教に譲ることになったのである。
その後は不遇をかこったが、学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与した。
享徳4年(1455年)頃、『日本書紀纂疏』を著す。同年7月、改元に強い意向を発揮して康正の年号に移行させたものの、享徳の乱の最中の関東において受け入れられず、一部で享徳の年号が使用されたままとなった。
応仁元年(1467年)1月、関白に還補したが、同年9月に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失した。
応仁2年(1468年)8月、奈良興福寺大乗院に子で門跡の尋尊を頼って身を寄せた。奈良でも講書、著作に力を入れ、源氏物語注釈書『花鳥余情』を完成させる。のち斎藤妙椿の招きで美濃国に赴き、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆している。
文明9年(1477年)、応仁の乱が終息すると、12月に帰京。9代将軍・足利義尚や生母日野富子の庇護をうける。富子の前で『源氏物語』を講じ、『樵談治要』を義尚に贈り、政道の指南にあたると共に公武を問わず好学の人々に学問を教えた。兼良は、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、有職故実の研究から、和歌・連歌・能楽などにも詳しかった。また、古典では従来の研究を集大成し、宋学の影響を受け、一種の合理主義的な立場から、神仏儒教の三教一致を説いた。主要著作は70歳を過ぎてからのものであり、その後女児3人をもうけるという精力家であった。
文明13年(1481年)4月2日、薨去。享年80。その死に対して、「五百年来この才学無し」とまで惜しまれた。墓は京都東山東福寺常楽院にある。
室町中期に形成された文化。足利義政が京都東山に営んだ山荘(現,銀閣寺)をシンボルとするので,この呼称がある。生活に根ざした文化として簡素さを旨とし,書院造の住宅,侘茶(わびちゃ)の誕生,立花(たてはな)の様式化など,現在の伝統的日本文化の源流がはぐくまれた。雪舟による水墨画の大成,禅宗の精神に基礎をおく枯山水(かれさんすい)の庭園の盛行などに特徴づけられる。室町前期の北山文化と対をなす。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
東山文化コトバンクから引用
参考:『5分でわかる!足利義政の東山文化』Try it(家庭教師のトライ) https://www.try-it.jp/chapters-2904/lessons-2931/point-2/
ポイント:銀閣に水墨画(雪舟)、足利義政(文化の保護)の東山文化、書院造(ふすま、床の間、障子など現在の和風建築のもと)
参考:『東山文化』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96
東山文化(ひがしやまぶんか)は、室町時代中期の文化を指す用語。八代将軍足利義政(1436年-1490年)が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれたとされる。慈照寺銀閣は東山文化を代表し、応仁の乱(1467年)以降、戦乱に明け暮れる世の中になったが、一方では能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開いた時代で、それらは次第に庶民にも浸透し、今日まで続く日本的な文化を数多く生み出した。また、京都が戦火に見舞われたことで多くの文化人・知識人が地方の守護大名のもとへ足を運び、文化の地方伝播が進行した。貴族的・華麗な足利義満の北山文化に対して、幽玄、わび・さびに通じる美意識に支えられていると評される。
建築
慈照寺銀閣:正式には慈照寺観音殿。一層は住宅風の書院造、二層は禅宗様(唐様)の仏殿という構成になっている。
慈照寺東求堂:持仏堂。四畳半の部屋(同仁斎)は義政の書斎で初期の書院造建築として知られる。茶室の起源とも、近代和風建築の原型ともなった。
大笹原神社本殿
庭園
竜安寺方丈庭園
長方形の庭に白砂を敷き、15個の石を配する。一木一草も用いず、きわめて象徴的な表現で自然をそこに写し出す手法を採っている。渓流を虎が児をともなって渡るようにみえるため「虎の子渡し」の俗称をもつ。相阿弥の作といい、細川勝元の作ともいうが、ともに確かでない。庭石に「徳次良」「小太良」の2名の名が刻まれているが、実際に石を組んだ河原者の名であろうと考えられている。
大徳寺大仙院庭園
枯山水の代表的な庭園のひとつ。深山幽谷を発した水が、落瀑となり、大河となって流れていく全景を石と白砂をもって象徴的に表現している。16世紀初めの作庭といわれる。
絵画
狩野正信(1434年-1530年):狩野派の祖。水墨画と伝統的な大和絵を融合させる。小栗宗湛のあと幕府の御用絵師になる。
土佐光信(生没年不詳):土佐派の祖。日本古来の大和絵を発展させた。宮廷絵所預になる。
雪舟(1420年-1506年):日本風の水墨画を大成。大内氏の庇護を受ける。
工芸
後藤祐乗(1440年-1512年):金工。義政に仕え、刀剣金具の製作を行う。
幸阿弥家:漆工
五十嵐家:漆工
相阿弥:盆庭
文化
茶道
村田珠光(1422年-1502年):一休宗純に師事、義政に仕えたとされる。禅を茶の湯に加味し、茶道の祖と言われる。
華道
池坊専慶
香道
志野宗信(1433年-1523年):義政に仕えた同朋衆の一人。志野流香道の祖であり、義政より名香「蘭奢待」を拝受。
連歌
仏教
臨済宗 栄西
一休宗純
浄土真宗 親鸞
日蓮宗 日蓮
室町文化
元々、「東山御物」などを重要視する茶道やその周辺の芸術工芸の分野から「東山時代」という語が生み出されたようであるが、歴史学で昭和初期から「東山時代」という用語が使われるようになり(笹川種郎「東山時代の文化」1928年、など)、東山時代の文化の意味で「東山文化」という用語が生まれた。のちにこれと対比して北山文化という用語も生まれた。当時は南朝が正統とされていたことから、室町時代のことが中々正面切って論じられなかったという背景もあったようである。
しかし、東山文化がいつ始まりいつまで続いたか区分が明確でないことや、義持・義教の時代が無視されてしまうことへの批判、禅宗の影響や公家文化と武家文化の融合など共通性が多いことから、今日の歴史学では両者を合わせて「室町文化」として論じるのが一般的であるという。
参考:『【高校日本史B】5分でわかる!東山期の文学・学問(連歌・小歌・御伽草子)』トライ https://www.try-it.jp/chapters-13452/lessons-13549/point-2/
南北朝期に流行が始まった、和歌を、前の人の上の句(5・7・5)に次いで下の句(7・7)を詠んでいく 連歌 は、東山期にさらに発展します。
宗祇 (そうぎ)が芸術性を高めた 正風連歌 (しょうふうれんが)を確立しました。
宗祇 が撰した『 新撰菟玖波集 』(しんせんつくばしゅう)は、この 正風連歌 をまとめた連歌集です。
宗祇らが詠んだ連歌百句を集めた『水無瀬三吟百韻』(みなせさんぎんひゃくいん)も同様の歌風です。
その後、こんどは滑稽さを押し出し、庶民に馴染みやすくなった 俳諧連歌 (はいかいれんが)が流行します。
俳諧連歌を作り出した 山崎宗鑑 (やまざきそうかん)がまとめた『 犬筑波集 』(いぬつくばしゅう)には、滑稽な俳諧連歌が多くまとめられています。
今的に言うなら、ギャグ連歌ですね。
この俳諧連歌は、江戸時代には更に発展し、「俳諧(俳句)」と呼ばれるジャンルへと繋がっていきます。
参考:『如拙』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%8B%99
如拙(じょせつ、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代中期の画僧。道号は大巧(たいこう)。絶海中津(ぜっかいちゅうしん)が『老子』の「大巧は拙なるが如し」にちなんで名づけたという。
伝記
伝記については不明な点が多いが、本朝画史や「墨梅図」の賛によると九州出身で、応永年間(1384年-1429年)室町幕府4代将軍足利義持の命により「瓢鮎図(ひょうねんず)」を描いたこと、文安5年(1448年)夢窓疎石の碑銘を刻む石を探すために義持の命で四国に出向いたこと(『臥雲日件録』)、などが知られる。足利将軍家と密接な関係を持ち、相国寺にいたことはほぼ確実である。
相国寺の画僧雪舟に祖と仰がれ、狩野派や長谷川等伯などによって日本における漢画(唐絵)の祖としての地位を与えられた。
作品
瓢鮎図 (京都・退蔵院) 1幅 紙本墨画淡彩 国宝
王羲之書扇図 (京都国立博物館) 1幅 紙本墨画 重要文化財
伝如拙作品
墨梅図 (正木美術館) 1幅 紙本墨画 絶海中津賛 重要文化財
琴棋図屏風 (京都・龍光院) 六曲一隻 紙本墨画淡彩重要文化財
高士探梅図 (個人蔵) 1幅 紙本墨画 重要文化財
三教図 (京都・建仁寺両足院) 1幅 紙本墨画 重要文化財
三教図 (ベルリン国立東洋美術館) 1幅 紙本墨画
参考:『瓢鮎図』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A2%E9%AE%8E%E5%9B%B3#
瓢鮎図(ひょうねんず)は、日本の初期水墨画を代表する画僧・如拙作の絵画作品である。日本の国宝に指定されている。
解説
ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いた、1415年(応永22年)以前の作。室町幕府将軍足利義持の命により制作された。京都市の妙心寺塔頭・退蔵院の所蔵。国宝。画面上半には、大岳周崇の序と玉畹梵芳など31人の禅僧による画賛がある。
画の上部にある大岳周崇の序によると、この作品は「大相公」が僧如拙に命じて、「座右之屏」に「新様」をもって描かせたものであることがわかる。「大相公」については、足利義持を指すと見るのが定説となっている。また「新様」の意味については諸説あるが、「中国(南宋)伝来の新しい画法」という意味に解釈するのが一般的である。原文は一部剥落し、不明の字もあることから全文は明らかではないが、判明しているものでは以下の通り:
『瓢箪図』画賛序(画題について)
原文 書き下し文 現代語訳
高翔雲者以矰繳罥之 高く雲に翔(か)ける者は矰繳(そうしゃく)を以て之を罥(と)り 空を飛ぶものはイグルミでからめとり
深泳水者以網罟致之 深く水に泳ぐ者は網罟(もうこ)を以て之を致すは 水中を泳ぐものは網でとらえる
乃漁猟之常也 乃ち漁猟の常なり これが漁や猟の常法である
夫以虚閎円滑之瓢 夫れ虚閎円滑の瓢を以て 中がうつろで丸くころころした瓢箪で
欲捺住無鱗多涎之鮎魚於泱〃泥水之中 無鱗多涎の鮎魚を、泱々たる泥水の中に捺住(なつじゅう)せんと欲す 鱗がなくネバネバした鮎を深い泥水の中で抑えつけることなど
豈可復得焉乎 豈(あ)に復(ま)た得可(うべ)けんや いったいできるであろうか
現状では掛軸装で、上半分に序と賛、下半分に絵があるが、元は義持の「座右之屏」(ついたて)の表裏に絵と賛がそれぞれ表されていたものである。
図は水流の中を泳ぐナマズ(題名の「鮎」はナマズの意)と、ヒョウタンを持ってそれを捕らえようとする一人の男を表す。男はヒョウタンをしっかり抱え持っているようには見えず、危なっかしい手つきである。左前景には数本の竹、遠景に山々を表す。主たるモチーフを画面の左下に集め、画面右方を広い空間とする構図法は「残山剰水」「辺角の景」と呼ばれるもので、南宋の画家馬遠が得意としたものである。また、人物の描法には同じ南宋の梁楷の「減筆体」の影響がうかがわれる。このように本作品は、南宋院体画の影響を強く受けたものであり、日本の初期水墨画を代表する人物である如拙の筆であることが確実な遺品として、日本絵画史上貴重な遺品である。
制作年代については、賛者の活動年代から、応永20年(1413年)前後と考えられており、賛者の一人である太白真玄が応永22年(1415年)に没していることから、この年が制作年代の下限となる。
データ
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
国宝指定名称:紙本墨画淡彩瓢鮎図 如拙筆 一幅 全愚周崇の序、玉畹梵芳等三十一僧の賛がある
サイズ:111.5cm × 75.8cm(賛の部分を含む)
所有者:京都府京都市右京区花園妙心寺町 退蔵院(京都国立博物館に寄託)
2021年出題
[生]応永27(1420).備中,赤浜
[没]永正3(1506).周防,山口?
室町時代後期の禅僧,水墨画家。幼少時に出家し上京して相国寺に入り,春林周藤に師事して禅僧となる。諱 (いみな) を等楊 (等揚) といい,知客 (しか) の職をつとめるかたわら,周文に画法を学んだと推定される。 34~35歳頃周防,山口に移り,大内氏の庇護下に画房雲谷庵を営み,ようやく画僧として高名となる。元の禅僧楚石梵 琦の墨跡「雪舟」の二大字を得て雪舟と号した。応仁1 (1467) 年室町幕府の遣明船で入明,天童山景徳寺を訪れて禅の修行をし,第一座の位を与えられた。のち北京において礼部院中堂の壁画を描いて名声を博したと伝える。文明1 (69) 年帰朝。初め大分に天開図画楼を構え,のち山口に雲谷庵を再興し,以後ここを本拠として死没までの間に美濃,京都,丹後などへ旅した。遺作には『山水長巻』 (86,国宝,毛利博物館) ,弟子如水宗淵に与えた『破墨山水図』 (95,国宝,東京国立博物館) などの山水画,『鎮田瀑布図』 (76,焼失) ,『山寺図』 (模本) ,『天橋立図』 (国宝,京都国立博物館) などの風景画,『寿老人図』,『益田兼堯像』 (79) ,『慧可断臂図』 (96,斎年寺) などの人物,道釈画などがある。雪舟の画風は従来の日本画の抒情性を離れて,構図や広大な空間表現の巧みさなど,自然に対する写実的表現を特色とし,そこに禅僧のもつ真摯なきびしさが表出される。弟子に雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがいる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[秋冬山水図] 文化遺産オンライン『雪舟』解説
室町時代・15世紀末~16世紀初
紙本墨画
本紙 各縦47.7 横30.2
2幅
国宝
『室町時代の禅僧画家、雪舟(せっしゅう)によって描かれた山水画の傑作です。もとは京都の曼殊院(まんしゅいん)に伝来しました。雪舟は如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)など、日本の先輩画家の画風を学ぶとともに、明時代の中国にも留学し、当時の様々な絵画様式を学んでいます。その結果、独自の構築性と力強い筆致を持った画風を確立し、以後の山水画に大きな影響を与えました。
2幅のうち、「秋景」は、川沿いに道が奥へと伸び、遠くに楼閣が見えます。モチーフは画面の下半分にまとめられ、上部の空間は秋空の広大さを感じさせます。一方「冬景」では大胆に切り立った崖を中心に据え、対照的に建物を小さく見せることで、厳しい冬枯れの様子が描き出されています。
どちらの画面も下の方から見ていくと、近いものから遠いものへ、モチーフを順にたどることができ、それぞれの位置関係が明確に描き分けられていることに気付きます。そこには雪舟以前の山水画には見られない絵画の理知的な構築性が強く感じられます。小さな画面にあらわされた広大で奥深い世界をお楽しみください。』
明兆は、江戸時代まで雪舟と並び称せられた伝説の絵師。室町時代、京都・東福寺の絵仏師として活躍した。吉山明兆。巨大伽藍にふさわしい大作を冴えわたる水墨の技と極彩色で次々と描いた。江戸時代の格付け古今名画競(すもう)に、東西の大関が狩野元信、雪舟が並ぶ中、力士たちとは別格扱いの勧進元に明兆(兆殿司と記載)の名が一番大きく記載されている(と下記の番組にはあるが、インターネットではその古今名画競が調べきれなかった)。
日曜美術館 よみがえる伝説の画聖・明兆(みんちょう) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023127337SA000/
1352-1431 南北朝-室町時代の画僧。
文和(ぶんな)元=正平(しょうへい)7年生まれ。大道一以に師事して京都東福寺にはいり,同寺に多数の仏画,道釈画,頂相(ちんぞう)をのこした。殿司(でんす)職をつとめ,兆殿司と通称される。作品に「五百羅漢(らかん)図」「大涅槃(ねはん)図」など。詩画軸「渓陰小築図」(国宝)も明兆筆とつたえられる。永享3年8月20日死去。80歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。字(あざな)は吉山。号は破草鞋(はそうあい)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
室町初期の画僧。諱(いみな)は吉山(きちざん)。号は破草鞋(はそうあい)。淡路(あわじ)国(兵庫県)に生まれ、若くして大道一以(だいどういちい)(1289―1370)の門に入り、のち師とともに上洛(じょうらく)、東福寺に入寺して堂守の殿主(でんす)職についたので、兆殿司(ちょうでんす)と俗称される。終生東福寺の絵仏師的な立場を貫き、同寺のために多くの仏画や頂相(ちんぞう)を制作、それらの代表作はいまも東福寺に残る。1386年(元中3・至徳3)に完成した『五百羅漢図』50幅(現在45幅は東福寺、2幅は根津美術館)をはじめ、『聖一国師(しょういちこくし)像』『大涅槃(だいねはん)図』(1408)、『達磨蝦蟇鉄拐(だるまがまてっかい)図』(いずれも東福寺)などの大作がそれで、宋元(そうげん)仏画に範をとりながらも、肥痩(ひそう)のある強い墨線と、やや色調の暗い色彩とを用いて、独自の力強い画風を完成させている。こうした作風は、一之(いっし)や赤脚子(せっきゃくし)、霊彩(れいさい)などに受け継がれ、如拙(じょせつ)―周文(しゅうぶん)の系統を引く相国寺派に対し、東福寺派とよばれている。後年、明兆は仏画以外に純然たる水墨画にも筆を染め、『白衣観音(びゃくいかんのん)図』(静岡県、MOA美術館)や『渓陰小築図』(京都・南禅寺金地院(こんちいん)、国宝)などの作がある。なお東福寺には、明兆が病の母へ描き送ったと伝えられる自画像の模本が現存し、自画像のきわめて早い作例として注目に値する。[榊原 悟]
『金沢弘著『日本美術絵画全集1 可翁/明兆』(1981・集英社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
参考:『ユネスコ世界文化遺産 能楽への誘い』文化デジタルライブラリー https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/noh/jp/history/history2.html
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大成と発展
観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)によって、猿楽(さるがく)は高い芸術性を備えた芸能へと発展します。
大和四座(やまとよざ)と観阿弥
猿楽の座のなかでも、とくに大和国(やまとのくに:現在の奈良県)を中心とした4つの座の活動はめざましく、これらが現在の能の流派へと繋がっているようです。なかでも、室町時代(14~16世紀)に猿楽の一座を率いていた観阿弥(1333 – 1384年)は、優れた演者として人気を集めるだけでなく、田楽(でんがく)の歌舞的な要素や、当時流行していた他の芸能の特長なども、積極的に猿楽へ取り入れました。そして、息子・世阿弥とともに、のちの能を大成させていったのです。
世阿弥と室町幕府
世阿弥と室町幕府
芸能を好んだ、室町幕府の3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は、観阿弥とまだ12歳だった世阿弥の猿楽を見物しました。父子の芸をたいへん気に入った義満は、彼らを手厚く保護します。寺社の祭礼などで演じられ、民衆の芸能だった猿楽や田楽は、その頃から将軍や貴族たちによって積極的に愛好されるようになったのです。彼らの鑑賞に応えられるように古典文学などの高い教養を身に付けた世阿弥は、優美で上品な芸風を猿楽に取り入れます。そして、美しい歌舞を中心とした、劇形式の芸能である能を作り上げるとともに、『風姿花伝(ふうしかでん)』など多くの芸術論を著しました。能の発展とともに、笑いを誘うせりふ劇として成立しつつあった狂言も、能の座に組み込まれ、能と交互に上演されるようになっていきました。
後継とひろがり
世阿弥を継ぐ者として、甥の音阿弥(おんあみ)や、娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)などが活躍します。音阿弥は世阿弥をしのぐといわれるほど演技がうまく、また金春禅竹は創作や理論に優れていました。その後、応仁の乱(1467~1477年)など、将軍家や他の武家が入り乱れる激しい内戦によって、世の中は大いに荒廃し、猿楽の座は、幕府や寺社などの後ろ盾を失ってしまいます。しかし、能は一般民衆のなかへも広まっていき、にぎやかでわかりやすい作風が生まれるとともに、能の詞章「謡曲(ようきょく)」をうたう「謡(うたい)」という声楽が、広い階層で親しまれるようにもなりました。
参考:『村田珠光』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%8F%A0%E5%85%89
村田 珠光(むらた じゅこう、応永30年(1423年) - 文亀2年5月15日(1502年6月19日)[1])は、室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者とされる人物。なお僧侶であり本来ならば苗字は持たないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている。
「しゅこう」と濁らないとする説もある。
生涯
応永30年(1423年)奈良に出生。父は検校の村田杢市。幼名・茂吉、木一子。
11歳の時、奈良の浄土宗寺院称名寺に入り出家。僧名である「珠光」の名は、浄土三部経の一つ『観無量寿経』の語句「一々の珠、一々の光」からとられた。
20歳以前に称名寺を出る。その後の経歴は不明。 応仁の乱の頃には、奈良に帰るが、称名寺には戻らずに、東大寺の近くの北川端町で、庵を営む。当時の北川端町は、民家もない田園だった(『奈良坊目拙解』)。
以前は還俗したとの説があり称名寺ですらそのようにHPに記載しているが[5]、『山科家礼記』[注釈 1]の文明18年(1486年)8月24日の記事に「珠光坊」との呼び名で登場することから、還俗はしなかったとされている。
僧であった珠光には子がなく、興福寺尊教院の下部(寺の雑務を行う寺男)だった宗珠を養子にした。
晩年に京都三条柳水町に移り、文亀2年(1502年)5月15日、80歳で死去。
珠光の茶の湯
茶道史研究者の神津朝夫は、足利義政将軍など貴人との関わりでの珠光の茶道創始説を否定した。応仁の乱以前に成立したとされる『おようのあま』という物語、及びその絵巻(サントリー美術館蔵)に描かれた、主人公の老尼が遁世の法師を訪ねた時にお茶をもてなされた様子に、同じく遁世者だった珠光の茶の湯は似ていて、珠光も奈良へ帰還したときには田地の中の庵で同様の生活を送り、訪問者には茶を点てて、もてなしていたと推定される。この庵での様式が茶の湯の原型であり、これを高め追及して「わび茶」が創始されたと、指摘している。物語の法師は独り住まいなので自らお茶を点て、蓋の割れた陶製の風炉釜、継ぎのある茶碗、竹の茶器、竹柄杓を使い、これらの茶道具は部屋から見える場所に置かれていた。このように、客の前で使われる風炉釜などの和物茶道具との調和のためには、《珠光茶碗》などの下手の唐物を使う必要があり、そのために、唐物名物を多く持つことはせず、「和漢この境を紛らわす」ことが重要だと考えたのではないか、と指摘している。
珠光が好んだとされる茶道具
珠光が好んだという伝来を持つ道具は多く、総称して「珠光名物」と呼ばれ、主なものは以下の通り。
《珠光茶碗》
《投頭巾茶入》
《珠光文琳》
《珠光香炉》
《圜悟墨蹟》
徐熙の《鷺の絵》
『山上宗二記』や『南方録』には、珠光が唐物の茶道具を多く所持していたと記載されている。これらの道具を所持したという事実が、珠光が還俗し商人になったという論の大きな根拠であった。これで「村田珠光」の名が流布した。しかし近年発見された天文年間の名物記『清玩名物記』では、掲載されている珠光旧蔵の道具は《珠光茶碗》4碗のみであった。天正16年(1588年)の『山上宗二記』に下ると多くの珠光旧蔵の道具が掲載され、この間に伝来品の記載の捏造が行われた可能性がある。また上記の『山科家礼記』の発見による、珠光が一生涯僧侶であったという説の信憑性を高める結果ともなった。
珠光伝来とされる名物《珠光茶碗》とは、還元焼成で青くなるべき青磁が、技術的な不備で酸化焼成となり赤褐色になった、中国民窯製雑器である。その四つの《珠光茶碗》のうちの一つを千利休が購入し、若かった頃の茶会で使用している。
一休宗純との関わり
偽書とされる『南方録』には、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅し、印可の証として一休から圜悟克勤の墨蹟を授けられた、と書いてある。しかし、圜悟克勤の墨蹟は、珠光の跡取りである宗珠が所有していたとの記録が『清玩名物記』にあるのみで、一休や珠光が所持していたとの記録はない。
一休開基の真珠庵の過去帳の文亀2年5月15日(1502年6月19日)条に「珠光庵主」の名が見え、一休13回忌に一貫文を出している。その真珠庵の方丈東庭「七五三の庭」は、珠光作と伝わる。また、一休が応仁の乱から逃れるために京都東山から酬恩庵に移築した住居である虎丘庵の庭園も、珠光作と伝わる。
足利義政との関わり
『山上宗二記』(二月本)中の「珠光一紙目録」にある記述より、能阿弥の紹介によって室町幕府8代将軍・足利義政に茶道指南として仕えたとされたが、これは同書中の能阿弥に関する記述がその生没年と合わないことから現在の茶道史研究では基本的に否定されている。
古市播磨法師宛一紙(心の文)
珠光が茶の湯の弟子である古市澄胤に宛てて書いたとされる『古市播磨法師宛一紙』(通称「心の師の文」)は、珠光の茶の湯に対する考えが記されていることで有名である。『松屋会記』という茶会記を記したことで有名な奈良の松屋が所持し、小堀遠州に表具を依頼して掛物とした[16]。江戸時代後期に大坂の豪商である鴻池道億へ譲られ、近代には平瀬露香が所蔵していたが、現在は所在不明となっている[16]。
原文
古市播磨法師 珠光
この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。また、当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。かるる(枯るる)ということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。ただ、我慢我執が悪きことにて候。または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。
現代語訳
この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての外ではないか。本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ育ててやるべきであろう。
そしてこの道でもっとも大事なことは、唐物と和物の境界を取り払うこと。(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。
さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。これこそ茶の湯の面白さなのだ。とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、人に教えを乞う姿勢が大事である。それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。
この道の至言として、
わが心の師となれ 心を師とするな
(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな)
と古人もいう。
(現代語訳 能文社 2009年)
解説
「和漢この境を紛らわす」、つまり、唐物と和物の茶道具を融和させることが茶の湯の道で重要だとしている。
「冷え枯るる」の下りは、初心者は「ただ美しく」という正風体を目指すべきであり、「冷え枯るる」境地は老境に至ってのみ自ずと達する、という連歌師心敬による連歌論を転用している。
最後の「心の師とはなれ、心を師とせざれ」は、浄土思想の恵心僧都『往生要集』からの引用。
珠光の門下
珠光の弟子として『山上宗二記』に記されているのは、奈良の豪族の古市澄胤(小笠原家茶道古流二代)、同じく奈良の興福寺西福院主、山名氏に仕えたのち奈良に隠棲した松本珠報、京都の裕福な商人だった志野宗信と石黒道提、同じく京都の侘び数寄であった粟田口善法、及び、堺に住み度々奈良を訪れていた商人だったと考えられる鳥居引拙。
歴史能力検定では、『桂川で鮎を売ったことでしられる京都の女性芸能者を漢字2字で示せ』とある。
単なる行商人でないことに注目。
参考:『桂女』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A5%B3
桂女(かつらめ)は、山城国葛野郡桂(現在の京都府京都市西京区桂)に住んでいた、あるいは頭に被り物「かつら(蔓)」を付けていたことからそう呼ばれた女性であり、かつて時代により巫女、行商、遊女、助産師、予祝芸能者といった役割を担った。桂御前(かつらごぜん)、桂姫(かつらひめ)、桂の女(かつらのめ)とも呼ばれた。
「桂」に住み、神功皇后を主祭神とした紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)の御香宮神社(862年以前に建立)に属し、同社および、八幡三所大神として神功皇后を祭神の一柱とする、綴喜郡八幡(現在の八幡市)の石清水八幡宮(860年建立)に仕える巫女に由来を求める説がある[2][3]。「桂女」の特徴とされる、白い布で頭部を覆う「桂包」(かつらづつみ)は、三韓征伐(神話的出来事とされる)の際に、神功皇后から「桂女」の始祖が頂戴した腹帯に由来するという伝説がある[8]。「桂女」の始祖は、武内宿禰の娘「桂姫」であり、「桂姫」が伝えた飴の製法が、のちの「桂飴」となったとも伝えられる。
平安時代後期(11世紀 - 12世紀)には、供御人として桂川で収獲した鮎を朝廷に献上する鵜飼集団の女性が源流であるともされる。鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)には、桂からくる女性の鮎売を指し、桶を頭上に載せて売り歩くスタイルをとった。
室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、「鬘捻」(かつらひねり)とともに「桂の女」として紹介されている。1500年(明応9年)に成立したとされる『七十一番職人歌合』には登場しない。『三十二番職人歌合』には、「桂女」の特徴、白い布で頭部を覆う「桂包」が描かれている。この時代になると、桂川での鵜飼が衰退し、鮎をなれずしにした鮎鮨、勝栗、飴といった食料品、酒樽のような道具を売り歩くようになる。「桂女」の商圏は京都市内だけではなく、関西地方の公家や寺院、守護大名の屋敷を渡り歩く、遊女的存在となっていく。
江戸時代(17世紀 - 19世紀)には、白い布で頭部を覆う「桂包」の特徴は定着し、年頭や八朔(旧暦8月1日)、あるいは婚礼、出産、家督相続の際には、京都市内の天皇、公家、京都所司代等の屋敷を訪れ、「祝い言」(ほかいごと)を発し、祈禱を行い、やがては疱瘡(現在の天然痘)や安産の札を売り歩くこともしたとされる。
明治以降の近代では「桂女」の風習は廃れ、「時代祭」の「中世婦人列」にその姿を見出すことができる。
参考『桂女』日本服飾史 https://costume.iz2.or.jp/costume/585.html
参考:『桂女』風俗博物館 https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000098
桂女は京都の西郊、桂に住み、桂川の鮎や飴を売りに来る女で、頭に長い白布を巻く習慣があった。これを桂包かつらづつみといい、この桂包は先祖の桂女が三韓征伐の時、神功皇后から戴いた腹帯であるという伝説によるが、真疑の程はわからない。これは麻の小袖で絞りと緂で文様が出来ている。緂染の細帯をして白の手甲てこう、 脚絆、頭に鮎や飴を入れた桶をのせている。
参考:『桂女』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A1%82%E5%A5%B3-45423#goog_rewarded
かつら‐め【×桂女】
1 京都の桂に住み、神功皇后を祭神とする伏見の御香宮ごこうのみやや石清水八幡宮に奉仕したという巫女みこ。祝い事のある貴族の邸へ行って祝言を述べ、後には疱瘡ほうそうや安産の守り札を売り歩くこともした。桂姫。
2 桂の里に住み、桂川の鮎あゆや飴あめなどを京都の町で売り歩いた女。頭を布で巻く風俗が特徴。
3 昔、貴人の婚礼のとき、花嫁の供をした女。鬘女かずらめ。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『草戸千軒町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E6%88%B8%E5%8D%83%E8%BB%92%E7%94%BA
草戸千軒町(くさどせんげんちょう)は、現在の広島県福山市にあった、鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した都市(大規模集落)である。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えた。遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は近隣にあった長和荘などの荘園や地頭、杉原氏や備後国人で一帯の領主であった渡辺氏の保護の元、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられている。また近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとみられている。
草戸千軒町遺跡
江戸時代初期の備後福山藩水野家の入封時に流路改修が行われるまで芦田川は今では廃川となった旧鷹取川方面や現在の福山駅前方面へ流れる流路が本流であり、当地は土砂が堆積した中州地帯の上にできた。今日の光景からは想像しがたいが江戸期の大規模な干拓事業が行われるまでは今の野上町付近より南東は瀬戸内海に直接面していた。昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近にあったが、遺跡の大部分が昭和初期に国により行われた芦田川の洪水対策工事のために拡張・浚渫工事で取り除かれた。また推定であるが芦田川東岸の河川敷にも遺跡が存在する可能性があり事実、草戸町1丁目付近の古道沿いの水路などにその痕跡が残る。遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて国の重要文化財に指定されている。同博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。なお、往時には瀬戸川河口に広がる沖積地に町があり、東方には福山湾が広がっており交通の要所にあったことから発展したと見られている。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されている。
草戸千軒町の発掘
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていた。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明した。
長年埋もれた後に昭和時代になって発掘されたことから「東洋のポンペイ」ないし「日本のポンペイ」といった呼ばれ方をされているが、最盛期に埋没したポンペイとは違い、洪水で完全に川の底に埋まった時期には既に町としては廃絶に近い状態であったとみられている。これは鎌倉・戦国期には度重なる戦乱の舞台となったことで荒廃し福山城が築かれた頃に行われた芦田川の改修事業により洪水対策の流路として改築されたのもあり江戸時代には既に無人であったろうと想像される。
応仁の乱(1467〜77)以後,織田信長政権の確立する時期(1570前後)までの約1世紀にわたる群雄割拠時代
政治史的にみれば室町幕府の弱体化と下剋上 (げこくじよう) の風潮の中で,各地に台頭した戦国大名によって従来の守護領国制に代わる新しい大名領国制が形成された時代であり,社会経済史的にみれば,荘園制の崩壊,郷村制への移行が促進された時代である。文化史的には,南蛮貿易開始によるヨーロッパ文化との接触,城下町文化の発生などが注目される。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
2022年出題
[武田信玄]
[生]大永1(1521).11.3. 甲斐,石水寺
[没]元亀4(1573).4.12. 信濃,駒場
戦国時代の大名。甲斐守護信虎の長子。名は晴信。号は徳栄軒。法号は法性院信玄。法名恵林寺殿機山信玄大居士。天文 10 (1541) 年父信虎を駿河に追放して家督を継ぎ,次いで信濃に攻め入って諏訪頼信,村上義清,小笠原長時らを攻略し,同 22~永禄7 (64) 年に越後の上杉謙信と川中島で合戦 (→川中島の戦い ) 。同 11年には今川氏真を追放して駿河を押え,大領国を形成した。元亀3 (72) 年には大軍を率いて西上,織田信長,徳川家康の連合軍を遠江三方ヶ原に破り (→三方ヶ原の戦い ) ,元亀4 (73) 年さらに三河に侵攻したが,病を得て陣没。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[甲州法度] 正しくは『甲州法度之次第』,俗に『信玄家法』ともいう。甲斐の戦国大名武田信玄が制定した家法。初め 26ヵ条を天文 16 (1547) 年に制定,のち追加して 57ヵ条となる。武田氏による分国支配の骨子を知るうえで好史料。『中世法制史料集』所収。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[上杉謙信]
[生]享禄3(1530).1.21. 高田
[没]天正6(1578).3.13. 高田
戦国大名の雄。越後守護代長尾為景の次男。母は越後栖吉城主長尾顕吉の娘。幼名は虎千代,元服して長尾平三景虎。のち政虎,輝虎と改め,入道して謙信,不識庵と号した。兄晴景は天文5 (1536) 年家督を継いだが次第に対立。同 17年越後守護上杉定実の仲裁を得て晴景から家督を奪い,春日山城主となる。以後国内の統一に努力しつつ,周囲の諸大名と大規模な戦闘を展開した。武田信玄と信濃の覇権をめぐって数度合戦。特に永禄4 (61) 年の川中島の戦いは有名である。一方,関東管領上杉憲政を擁して北条氏康と対立,同3年には関東に侵入し,小田原城を包囲して北条氏を脅かしたが成功せず帰還。憲政から上杉姓を与えられ,同4年関東管領。しかしその後関東経略は進まず,同9年以後は越中を平定し,加賀,能登に進出。毛利氏と連合して織田信長と対決しようとしたが,出陣の矢先に脳卒中で没した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
コトバンクより
2022年出題
戦国時代,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,信濃更級郡の犀川と千曲川との合流点,川中島で天文 22 (1553) 年頃から永禄7 (64) 年頃まで数度にわたって行なった戦いの総称。武田信玄は,本国甲斐より信濃に攻め入り,天文 16年頃から北信の村上義清攻略の軍を起した。同 22年4月,信玄に敗れた村上義清は同年8月,越後に逃れて上杉謙信に頼ったことから謙信対信玄の川中島の戦いが始った。合戦は数多く行われたが,そのうち同 22年8月,弘治1 (55) 年7月,同3年4月,永禄4 (61) 年9月,同7年8月の5度の合戦が明らかである。最も有名なのは,永禄4年9月1日夜から翌2日午後にかけて展開された戦いである。謙信は,8月 14日,1万 3000人余と称する兵を率いて居城春日山城を出発し,北国街道から信濃善光寺平に入り,武田方の高坂昌信の守る海津城の東方妻女山に布陣した。一方,信玄は,同月 18日,2万人余といわれる兵を率いて甲府を出発し,同 24日,川中島をへだてて妻女山を東南にみる茶臼山に布陣した。信玄は,1分隊に妻女山を襲わせ,これによって妻女山を下る謙信を,本陣を含む残る1隊で川中島に迎え討つ策を立て,9月1日夜半これを実行した。一方,謙信は,これより早く妻女山を下り,9月2日未明,川中島に信玄と対戦するにいたった。これは,両軍本陣同士の戦いとなり,謙信みずからが大刀をもって信玄に切りつけたというほどの激戦であった。勝敗は,結局決しなかったが,川中島の地は,以降武田方の領有に帰した。この戦いは,戦国時代最大の激戦といわれ,後世,信玄のとった戦法は「きつつき法」,謙信のそれは「車がかり法」といわれ,江戸時代の軍学に大きな影響を与えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『川中島の戦い』
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧しさらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した。
1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。
第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
2021年出題
伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。
出典 株式会社平凡社 コトバンク
戦国時代,関東に広く勢力をもった戦国大名
始祖伊勢長氏の出身は明らかではない。駿河今川氏の食客であったが,15世紀末伊豆韮山 (にらやま) から相模に進出,小田原を本拠とし長氏の子氏綱から北条氏を称した。孫氏康は支配圏を広げ関東南半を制圧し,上杉謙信・武田信玄と覇を競う戦国大名の雄となった。1590年豊臣秀吉の小田原征討で滅びるまで,5代にわたり領国統治を巧みに行い栄えた。鎌倉時代の執権北条氏と区別するため,俗に後北条氏と称す。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
[北条早雲]
[生]永享4(1432)
[没]永正16(1519).8.15. 伊豆
戦国時代の大名。後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したが,入道して宗瑞と号した。出自は不明で,室町幕府政所執事伊勢氏の一族とも,鎌倉幕府執権北条氏の子孫ともいい,出身地も伊勢,京,備中などの諸説がある。応仁年間 (1467~69) 今川義忠を頼って駿河に下向し,義忠の死後国内が乱れたときにこれを平定し,興国寺城主となった。延徳3 (91) 年堀越公方足利政知の遺児茶々丸を殺して伊豆を領し,明応4 (95) 年相模小田原城主大森藤頼を追出して同城を奪った。永正9 (1512) 年相模岡崎城の三浦義同 (よしあつ) を破り,同 13年同国新井城に三浦氏を滅ぼし,相模を手中に収め後北条氏の基礎を築いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
参考:『分国法』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%9B%BD%E6%B3%95
分国法(ぶんこくほう)とは、戦国時代、戦国大名が分国内での訴訟の公平性を確保するために制定した法令である。
単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士に分国法が定められた。
分国法には先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。
また、分国法は戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と、守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。
分国法は20世紀後半には戦国大名研究の主要なテーマの一つであったが、しだいに研究の優先順位・重要度が低下し概説書などでも記述が減る傾向にある
参考:『大内氏掟書』(PDF)山口県文書館 https://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/archivesexhibition/AW17atsumaru/R04_16.pdf
『大内家壁書』国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023107/1?ln=ja
原文。〈般〉長禄3年から明応4年まで。
〈備〉「田藩文庫目録」(『田藩文庫目録とその研究』)通し番号370。
参考:『大内家壁書』下松(くだまつ)市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht020280
大内家壁書
172 ~ 174 / 1124ページ
大内氏は、分国の統治を進めていくうえで必要な法令を、たびたび制定している。なかでも、教弘・政弘・義興三代の法令をまとめた『大内家壁書』は代表的なものである。壁書とは、必要に応じて布令を守護所の壁に掲示して、領民の生活を規制したものである。
『大内家壁書』には、領政全般にわたるもの、家中の諸士に宛てたもの、寺社に対する布令、領民への指示など、さまざまなものが含まれているが、ここでは領政全般にわたるものと家中へのものについて、いくつか紹介しておこう。
一四五九年(長禄三)五月、山口で夜中に大路を往来すること、辻相撲をとること、路頭で女をとること、夜中に湯田の湯に入ること、京様と号して異装をすること、みだりに他国者を召し使うことなどを厳禁して、分国中にこれを守ることを命じている。これは風俗の矯正とともに、大内氏居館のおかれた山口市中での規律を重視したものである。
一四六一年(寛正二)六月には、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前など、分国中の諸郡から山口までの行程日数と、請文到来の日限を定めた。これは守護所からの召喚状が届いて山口に出頭するまでの日数、および召文に対して請文を提出する日限を定めたものである。それによると、都濃郡は行程二日、請文到来日限一一日となっている。周防国では大島郡島末(東和町)の行程五日、請文到来日限一五日が最も長い。分国内で最も短いのは周防国佐波郡・吉敷郡、および長門国厚東郡の行程一日、請文到来日限七日である。最も長いのは肥前国神﨑郡の行程八日、請文到来日限二一日で、筑前・安芸・石見国がこれに次ぐ。
また、翌一四六二年十一月には、分国中の年貢の麻布および売布の寸尺を定め、一四八四年(文明十六)五月には、金銀の比価を一両=四匁半と公定し、翌八五年四月には撰銭令を出して、分国内の通貨の安定を図っている。さらに、八六年四月には、夜中の大道往来に制限を加え、異相不審の者を制止し、旅人はその宿所を糺したうえで通行を許可することにした。また、薦僧・放下師・猿引などを山口から追放し、職人でも諸人の被官でもない他国者を山口に寄宿させることを厳禁した。翌八七年四月には、長具足や弓・靫を帯したり、笠・羽織・十徳・頰かむり・中帯の異相のままで、あるいは笛・尺八を吹きながら夜中に路頭を往来することを禁じ、違反者は厳罰に処することを命じている。そのため、同年七月には夜廻人数番帳も定めて警備を厳重にしている。そのほかにも、徳政や押買狼藉などについても細かく規定している。
家中諸士の統制も厳重であった。一四六〇年(長禄四)十一月には、御家人が非御家人の子を養子にすることを禁じ、一四八七年(文明十九)七月には、諸人の郎従が御家人を競望することを厳禁した。この二つの法令は、御家人の筋目を正し、主従関係の緊密化を図ったものであろう。
これよりさき、一四八五年十一月には、山口奉行所への諸役人の出仕について、その人数や番帳および掟を定めて、細かく規制している。さらに同年十二月には、分国中の家臣に対して平時の山口出仕を義務づけ、少分限者については在国を一〇〇日に限った。残りの二百数十日は山口で過ごすよう規定したのである。これに違反した場合には、一〇日につき一貫文、一〇〇日に一〇貫文の過怠料を納めさせることにし、この処置に従わない場合には、各自の恩給地を没収することにした。しかし、これは十分に守られなかったらしく、翌八六年十二月には、内密に在宅する者に対しては御家人を追放するときつく申し渡している。また、勘気を蒙った御家人の取り扱いや、喧嘩両成敗の処置についても細かく定めている。
市域に関連するものとしては、一四六七年(応仁元)四月二日の禁制で、鷲頭庄妙見山での庶民の狩猟を禁じた規定がある。
以上、『大内家壁書』を通して、大内氏の分国統治の実態をみてきたが、法令の整備状況は教弘の時代よりも政弘の時代、さらには義興の時代と、より充実され整備されている。それは政弘・義興の時代が政治的にも最も充実していた事実とも一致する。
参考:『相良氏法度』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F%E6%B3%95%E5%BA%A6
相良氏法度(さがらしはっと)は、肥後国の戦国大名である相良氏の分国法である。15世紀末から16世紀半ばにかけて成立。後世、相良氏法度との通称で呼ばれるが、「申定条々」と呼ばれた文書、所謂、壁書(かべがき / へきしょ)の集成で、相良氏壁書とも言う。
概要
広義の戦国相良氏は、文安5年の内訌を治めて球磨郡を統一した永留長重に始まるというのが通説であるが、相良氏の分国法はその息子である第12代当主相良為続から、途中の内乱期(大永の内訌[3])の中断を挟んで、第17代当主相良晴広の代までの歴代4当主によってそれぞれ定められ、追加されることで成立した。その内の3人の当主の名前を冠した3つの壁書があり、すなわち為続法(7ヶ条)・長毎法(13ヶ条)・晴広法(21ヶ条)の計41ヶ条からなる。
相良為続が7ヶ条の壁書を定めたのは、明応2年(1493年)卯月22日であるとの記載はあるが、この法度は厳密には「為続・長毎両代之御法式」の20ヶ条として天文18年(1549年)5月付の家老税所新兵衛尉継恵の文書に記されていたものを出典としており、すでに理想化された過去の両代が定めた20ヶ条として登場したものを後世の史家が便宜上二つに分けたに過ぎない。相良長毎が13ヶ条を追加した日付の記載がなく、後半を制定した年度はわかっていないが、長毎の短い治世期間内であることは確かであろうから1518年以前に成立した模様。『八代日記』によれば、大永の内訌を統一した相良義滋は、52年ぶりの天文14年(1545年)2月5日に義滋法式5ヶ条を制定し、翌年8月15日に義滋御式目21ヶ条を制定して三郡(球磨・八代・葦北)に公布したというが、これらは相良氏法度には含まれていない。一方で、その十年後の天文24年/弘治元年(1555年)2月7日に(義滋の養子の)相良晴広が21ヶ条を制定したが、この晴広21ヶ条と両代20ヶ条を併せた41ヶ条が、相良氏法度である。
相良氏法度には、下記の様に土地売買の慣行や銭貨の基準(第5条)についての特徴的な記載があり、戦国時代の日本社会の史料としてしばしば珍重される。また随所に武士道的規範が言外に盛り込まれており、単なる掟に留まらず一種の道徳律ともなっていた。また晴広法には一向宗禁制が複数条で明示されている。
人吉藩では、幾つかの条項を除き、江戸時代まで用いられた。
内容
相良家文書にある壁書案(相良法度)の内容は以下の通り。
(為続法)
買免(かいめん)之事 売主買主過候て、以後子々孫々無レ文候者無二相違一本主之子孫二に可レ返。
無文買免之事、一方過候者、本主可二知行一。
買取候田地を又人に売候て、後其主退轉之時者、本々売主可レ付。
譜代之下人之事者無二是非一候、領中之者婦子によらず、来り候ずるを相互可レ被レ返也、寺家社家可レ為二同前一、其領中より地頭に来り候ずるを婦子は其領主のまゝたるべし。
悪銭之時之買地之事、十貫字大鳥四貫文にて可レ被レ請、黒銭[8]十貫文之時者、可レ為二五貫一。
何事にても候へ、法度の事申出候する時はいかにも堅固に相互に被二仰定一肝要候。忽緒(こっしょ)に候する方は承出、無二勿躰(もったい)一之由堅可レ申候。
四至境、其餘之諸沙汰、以前より相定候する事は不レ及レ申候。何事にても候へ、其所衆以二談合一相計可レ然候。誠無分別子細を可レ有二披露一、無理之儀、被二申乱一候する方は可レ為其二成敗一也、為二後日一申候。
(長毎法)
本田之水を以て新田をひらくによって、本田の煩たる在所者、縦本田より餘候水成共、能々本田の領主に乞候而、領掌ならばひらくべし。
人の内之者、其主人之在所を退出之時、又別人より可二扶持一事、本主人へ案内有之、領掌ならば可二許容一。
牛馬ゆるすへき事、田畠の作毛取納以後たるべし。年明者、在々所々其定のことくたるべし。自然牛馬作毛をそんさし候者、其主人へ損之程可レ有レ禮、過分にそんさし候者、其牛馬を可レ留。
盗たる物を志らす候て、買置候より六ヶ敷(むつかし)子細有、所謂売主を見不レ知物ならば、能々決候而、売主不レ知よしあらば、其科たるべし。
識者の事、篇目一定之時者、死罪、流罪、其時之儀に可レ寄。又無二不審一至二申開一者、虚言を申候人、別而の可レ為二重罪一事。
落書落文取あけあつらひの事、俗出上下によらず可レ為レ科、自然あつかふ者あらば、それを主と心得、則可レ為レ科。
寺家社家によらず、入りたる科人の事、則さたをかへ可レ被二追出一、誠於二重罪者一、在所をきらはず成敗あるべし。
小者いさかひ事、勝負いかやうに候共、主人いろふへからす、互各々の小者之折檻すべし。
用によて、文質物之事、必いつよりいつ迄と定あるべし、それ過候而、請取主ままたるべし。
従(より)二他所一其人を尋来候者之事男女童子等いつれも、縦路次なとにて見合候共、其尋行在所可レ付。
諸沙汰の事、老若役人へ申出候以後、於二公界一論定あらば、申いたし候する人、道理なり共、非レ儀に可レ行、況や無理の由二公界一の批判有といへ共 一身を可レ失之由、申乱者有。至レ爰(ここに) 自然有二慮外之儀一者、為道理者不運の死有云共、彼為非レ儀者の所帯を取て、道理の子孫に可レ與、所領なからん者は、妻子等にいたるまで可レ絶。能々可レ有二分別一。
殊更其あへての所へ行、又は中途邊にても、惣而面に時宜をいふべからさる事。
田畠をうり候而、年季あかざる内に、又別人へ売物あり、又子共を質にふたりの所へをき候、為重罪間、此両條は、いづれも主人より可レ被二取置一、至而面々は、上様より直に可レ被二召上一候。
うりかいの和市の事、四入たるべし、年のきとくによて、斗のかず多少あるべき歟、此ますの外用べからず。
(晴広法)
井手溝奔走題目候、田数次第に、幾度も人かす出すべし、人いたさざる方の水口一同とどむべし。
買地の事、かひ主うり主よりも、井手溝之時、十人ならば五人つづ出すべき事。
田銭ふれの時、五日の内に相揃へきこと。付、かひ地はかひ主うり主半分つづいたすべき事。
検断之所へ、作子置候者、主人可レ返、但當作かり取候者、其年者公役すべし。又置主検断之時者、置主の主人へ可レ付事。
検断之所へ、縁者格譲之時、従二他領一、我々兼日格護[17]候が、帰りに来候などと申候、是は無二検断一さきに、連々彼者之事、そなたへ誂置候由、點合(てんあい)なく候者、可レ為二検断の儘一事。
検断之時、むすめ兼てさきへ約束候共、むかえず候はば、検断ままたるべし。至二其際一請取候はば聟(むこ)可レ為レ科事。
百姓検断之時、殿原に仕候由候共、其地を格護候上者、百姓にふせられるべし、検断ままたるべし。
懸持検断之時、百姓を假屋などと候事候、然と其在所を居屋敷ならず候者、検断ままたるべし。
屋もめ女、女房とかづし候而売候者、ぬす人たるべし、但代物に請候而かづし候者、躰(てい)に可レ寄。
縁者親類と候而養置後、或者売、或者質物になし候者、其科たるべし。其分候者、兼日格護無用候。
売地之事、本作人と候而、いらん無用候、誰人にも可レ売事。
人の下人、身をぬすみ候而出候事候、従二他方一、其身後悔候而、傳言など候者、請返、やとはれ主計成敗あるべし、科人両人同前と候者、聞えがたく候。
人よりやとはれ候而、夜討山たち屋焼之事、やとはれ主雇主同前に成敗。但やとはれ主軈(やがて)而披露候者、可レ寄二時宜一歟。
迯者郡中に留候者、三百文、八代葦北へ留候者、互五百文たるべし、従二他方一来候するは一貫文たるべき也。
他方より来り候する はふり、山ふし、物志り、屋ど(宿)をかすべからず候、祈念等あつらへべからず、一向宗の基ひたるべく候。
一向宗之事、いよいよ法度たるべく候、すでに加賀の白山もえ候事、説々顕然候事。
男女によらず、志らふと(素人)の祈念薬師取いたし、みな一向宗と心得べき事。
男のいとま[23]、然々(しかじか)きれず候[24]女子、そこつに中だち無用たるへき事。
爰元(ここもと)外城町におゐて、なしか何がしの被官などと申候而、別當へなし不レ申候、く勢(曲)事に候。今よりは誰々被官候共、売買いたし候上者、なしか先代のごとくなし可レ申事。付、すり取之事、くみ候而すり申候間、袖をひかへ候する者、志かじか糺明たるべき事。
井手溝のふるの堰(い)杭と樋(ひ)とり申候者、罪科たるべき事。
さし杉[25]その外竹木、あん内なくきり候者、見あひに、主人へあひ點合、其成敗あるべき事。
『塵芥集 家臣が守るべき事柄を定めた、伊達氏の分国法』仙台市 https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c02124.html
表紙写真あり。
塵芥集は,天文5年(1536)伊達稙宗(たねむね)が百数十ヶ条にわたり制定した伊達氏の分国法である。塵芥集とは微細なものを集めたという意で,家臣が日常守るべき事柄について規定したものである。伊達稙宗(1488~1565)は,伊達政宗の曾祖父に当たり,戦国大名伊達氏の基礎を作った。仙台藩四代藩主伊達綱村の代に村田善兵衛親重が献上したとされるこの村田本には,稙宗の署名・花押と制定に参画した家臣の署名・花押がある。縦20.5cm,横18.4cm(仙台市博物館所蔵)
『塵芥集』文化遺産オンライン 重要文化財 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188112
『塵芥集』は伊達家一四代稙宗【たねむね】が天文五年(一五三六)四月十四日に制定した分国法である。
書名の「塵芥」の意味は、世事万般の事項を規定した、和光同塵という吉田兼倶の唯一神道に由来する、謙譲と解するなどの諸説があるが、定まってはいない。
稙宗は、法令を制定するに当たって、第一条に神社、巻末に起請文を置く構成など、体裁を武家法の始である貞永式目に倣っている。
内容は、一七一か条からなり、第一条から七条まで神社、第八条から十五条まで寺院、第十六条から七十五条まで殺害、盗賊等の刑事法、第七十六条から九十一条まで土地法、第九十二条から一七一条まで売買、貸借、質入、婚姻、損害賠償等の規定をすこぶる周密に挙げている。特に刑事法が全条文の約三分の一を占め、他の分国法と比較して詳細を極めている点に特徴がある。
本書の体裁は、藍地丸文繋唐花文金襴後補表紙を装した袋綴装冊子本で、題簽「塵芥集」が付けられ、五九丁からなる。本文は五六丁からなり、半葉およそ九行、一行二二字前後で書写されている。前遊紙一丁に「塵芥集」と首題がある。前文は一丁(表)、次に条目が五二丁(表)まで書き上げられている。五二丁(裏)に稙宗の花押があり、続けて伊達家評定衆起請文が五六丁(裏)まで付されている。巻末に後遊紙二丁(後補、斐紙)の一丁に伊達綱村の識語がある。
起請文に連署する一一人のうち、現状では国分左衛門尉景広、中野上野介親時、冨塚近江守仲綱、浜田伊豆守宗景、牧野紀伊守景仲、牧野安芸守宗興の六人の花押が確認できる。いずれも筆跡に力がなく同筆と認められる。稙宗花押についても、花押形は天文五年ころに間違いないものではあるが、筆運がなく均等に墨がついていることから、花押印と認められる。
書写年代については、①第一条に「志んしやの事」の「志」と「し」に濁点があり、戦国時代に用いられる三点符を使用している、②花押印とはいえ天文ころの特徴が認められ、書風等を勘案すると、天文五年以降のごく近いころに書写されたものであると考えられる。
本書には、稙宗署名の右脇に擦り消した痕があり、一部に「門」の字が確認でき、臣下の名前であった可能性がある。伝来も、巻末の伊達綱村の識語に延宝七年(一六七九)村田親重から献上されたとある。そうなると、本書は家臣に配布するために制作された写本と想定される。
本書は、分国法の中で条目の最も多く整備されたもので、伊達稙宗による奥州支配を具体的に明らかにする『塵芥集』の最古写本として価値が高い。
参考:『塵芥集』国立公文書館アーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/file/1250128.html
全ページカラー閲覧(ダウンロードも)可能
参考:『塵芥集』国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100368006/1?ln=ja
白黒。閲覧可能
参考:『塵芥集』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B5%E8%8A%A5%E9%9B%86
『塵芥集』(じんかいしゅう)は、陸奥国の戦国大名・伊達氏が制定した分国法。天文5年(1536年)に、伊達稙宗によって制定された。条文はおよそ171条に及び、分国法中最大の規模。体裁に『御成敗式目』の影響が見える他、殺人・強盗など刑事に相当する部分に詳細な規定があること、また地頭の支配権が広く認められている点などが特徴。
概略
塵芥は「ちり・あくた(ゴミ)」の意味であるが、ここでは多数ということで、あらゆる方面にわたり多くの事柄を網羅して作ったという意味である。
戦国期には多くの戦国領主が分国法を作成したが、その中でも特に不出来な分国法として知られ、杜撰な内容から稙宗が一人で作成したと考えられている。
「生口」という特殊な制度があり、伊達家が犯罪捜査をしないため、被害者が自ら捕まえなければならなかった(一種の私人逮捕)。冤罪の場合は50日以内に真犯人(むかい生口)を生きたまま連れて来なければならなかった。
塵芥集が実際に裁判などで使用されたとする史料は存在しないが、仮に使われていたとしてもごく短期間であったと考えられている。また内乱を引き起こし、晴宗や家臣団と対立した結果隠居に追い込まれた稙宗は家中で忌避された存在であったため、塵芥集は「忘れられた分国法」と化し、以延宝8年(1680年)に家臣である村田親重が伊達綱村に献上するまで認知されていなかった。
蔵方乃掟
『蔵方乃掟』(くらかたのおきて)は、塵芥集に先立って天文2年3月13日(1534年)に出された質屋関係の法令13条であり、『塵芥集』が出された後も補助法として存続した。期限計算や質物の損壊、利子計算、質物が盗品であった場合の規定などが定められている。
参考:『甲州法度次第』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E6%B3%95%E5%BA%A6%E6%AC%A1%E7%AC%AC
甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)は、甲斐国の戦国大名である武田晴信(信玄)が天文16年(1547年)に定めた分国法で、甲州法度之次第、信玄家法、甲州法度、甲州式目などともいわれる。初め55ヶ条の基本法からなっていたが、天文23年(1554年)に2条追加されて57ヶ条となった。別本として26ヶ条の抄録本(保坂本)もある。
ウィキソースに甲陽軍鑑の「甲州法度之次第」原文があります。
概要
甲州法度は上下2巻から成る。上巻は57ヶ条からなり、法律規定に関する条項が主で、下巻は99ヶ条からなり、論語・孟子など中国の古典を多く引用する日常行為の規範とするべき道徳論的な家訓集となっている。前者は、領国内の被官階級の秩序や掟、国人や地頭の土地所有や年貢収取を制限し、家臣としての臣従を強制している。債権や土地所有に関する条項も多く見られる。喧嘩両成敗の条項が有名ではあるが、これは成人の場合に限られ、13歳未満の場合、人を殺しても罪に問われることはなかった。禰宜や山伏に関するものや、百姓や下人、奴婢に関する条項もあり、年貢の未進や郷村逃亡などを禁止し、領国秩序の維持を明文化している。ただし、通常、後述の「信玄家法」として論じられることが多いのは後者である。
制定に至る経緯は不明であるが、晴信が父・信虎を追放して十年後に制定されている。条文の検討や推敲には、家臣・駒井高白斎の『高白斎記』における天文16年5月晦日条の記述から、高白斎も関わっていたと考えられている。武田信玄の弟武田信繁がその嫡男「長老」(武田信豊の幼名)に1558年(永禄元年)、99条の家訓(『武田信繁家訓』)を残しているが、これが後に甲州法度次第の元となったともいわれる。『甲陽軍鑑』流布本の品一では55か条と天文23年(1554年)に追加された2か条、末尾に長禅寺住職・春国光新の序文を掲載しており、さらに品二では武田信繁家訓99か条を載せている。江戸時代にはこの形態で「信玄家法」と呼称されており、『群書類従』でもこれを踏襲した。『甲陽軍鑑』伝解本では春国光新の序文は武田信繁家訓のものであるとし、法度から除外している。
東京大学史料編纂所所蔵「甲州法度之次第」が、晴信花押が据えられた26か条であったことから、当初の原形態は26条で、法度施行後に発生した貸借や課税に関する諸問題に対し追加条項を加えて増補され、天文23年7月の追加2か条をもって57か条になったとの説もあるが、26か条は晴信自筆とされてきたものの、実際は筆跡が異なり、内容も略本にすぎることから、後世の抄写本と考えられ、55か条が当初からの基本型であるという異なる説もある。なお、『甲陽軍鑑』流布本に収録されていない3か条を加え60か条とする説もある。
鎌倉時代に制定された「御成敗式目」(貞永式目)のほか特に武田家と同盟関係にあった駿河今川氏の分国法「今川仮名目録」(目録)の影響が指摘されるが、目録の原型となった今川氏親制定の13か条との類似に対し、今川義元の追加した条文の影響は見られない。ただし、「今川仮名目録」の性格を考えると今川領国外でその内容を知ることは困難であったとみられ、それが可能であったのは長年今川氏との取次を務めて、今川氏側からの信頼も厚かった駒井高白斎に対して特別にその内容を教えられた可能性はある。また、法度の制定された天文16年は信濃国侵攻を行っている時期で地頭や百姓層への負担が増大し、法度にはこれに対応する地頭の借財や百姓との衝突に関する条文が見られる。前後武家法における慣習法を受け継いだ喧嘩両成敗は、甲州法度次第に定められてから、普及したといわれる。甲州法度の最大の特徴は、法律の尊重が明記されていることで、晴信自身もその法の対象に含まれており、さらには法の不備あるいは法執行の適正に問題があれば貴賤を問わず申し出るように定めていることで、法の修正の意思すら示したことである。
1580年(天正8年)の写本は、東京大学法学部法制史資料室が所蔵している。
内容
国人・地侍が罪科人の所領跡という名目に土地を処分することを厳禁し、領国全体を武田氏が領有することを定めている。
国人・地侍が農民から理由なく名田を取り上げるようなことを禁止して、農民を保護している。
訴訟時において暴力行為に及んだものは敗訴とする。
年貢の滞納は許さず、その場合には地頭に取り立てさせる(6条)。
家屋税として貨幣で徴収する棟別銭について、逃亡しても追ってまで徴収する、あるいは連帯責任制により同じ郷中に支払わせる。
隠田があった場合には、何年経っていても調査により取り立てる(57条)。
被官について、武田信玄の承諾なく盟約を結ぶことを禁ずる(14条)。
他国に勝手に書状を出してはならないことを定め、内通の防止を図っている。
喧嘩両成敗(17条)
浄土宗と日蓮宗の喧嘩禁止、宗教問答の禁止
分国法は分国内のいかなることも拘束し、末尾の条文には、当主である武田信玄自身も法度に拘束されると記され、法度の主旨に反する言動に対しては身分の別を問わずに訴訟を申し出ることが容認されていた。この条文が実際に機能していたのかは不明であるが、武田氏の徳治主義理念の現れであるとも指摘され、当主自身を拘束する条文や守秘義務のあることの多い分国法が広く領民に知らしめられていることも戦国時代においては特異なものである。
現代への影響
『民法修正案理由書』によると、日本民法典起草の際に参照されたことが明記されており、現行法にその影響が残っているものもある。
旧民法財産取得編第294条(参照前):家督相続人ハ姓氏、系統、貴号及ヒ一切ノ財産ヲ相続シテ戸主ト為ル 系譜、世襲財産、祭具、墓地、商号及ヒ商標ハ家督相続ノ特権ヲ組成ス
信玄家法第40条:親の負物其の子相済すべき事勿論なり。子の負物親方へ之を懸くべからず。但し親借状加筆は其の沙汰あるべし。若し又早世に就き親其の跡を抱ゆるに至っては逆儀たりと雖も子の負物相澄すべき事。
民法旧986条(参照後):家督相続人ハ相続開始ノ時ヨリ前戸主ノ有セシ権利義務ヲ承継ス 但前戸主ノ一身二専属セルモノハ此限ニ在ラス
民法896条(現行法):(相続の一般的効力)相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。
つまり、相続において承継されるのは財産権のみに限られると誤解される虞があるところから、負債を始めとする「義務」一般をも原則的に承継することを注意的に規定したのである。
参考:『今川仮名目録』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E4%BB%AE%E5%90%8D%E7%9B%AE%E9%8C%B2#
今川仮名目録(いまがわかなもくろく)は駿河国の戦国大名である今川氏が制定した分国法である。東国では最古の分国法。
大永6年(1526年)4月、今川氏親は33条からなる家法である『仮名目録』を制定する。このころ氏親は病床にあり、草案には家臣や、嫡子の今川氏輝への後継を望み政権を安定させたいという氏親の妻(後の寿桂尼)の意向も大きく反映されたと見られる。天文22年(1553年)2月、今川義元は『仮名目録追加21条』を制定して補訂する。
戦国時代の東国では比較的早い時期に制定された分国法で、甲斐国の戦国大名で、今川氏とは盟友関係にあった武田氏の分国法である『甲州法度次第』(1547年)にも影響を与えている。
今川氏は既に幕府の命令を待たずに遠江国へと進出した時点で守護大名から戦国大名へと立場を変えつつあったが、『今川仮名目録』の成立をもって名実ともに戦国大名としての立場を明らかにしたとされる。更に『追加21条』においては、室町幕府によって義務付けられていた守護不入を否認して完全に守護大名色を払拭した。
内容は、戦国大名の権力誇示というよりも、土地などに関する訴訟の裁定基準といった色合いが強いのが特徴である。
参考:『六角氏式目』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE
『六角氏式目』(ろっかくししきもく)は、戦国時代の分国法の一つ。南近江の六角家で制定された。『義治式目』ともいう。全67条。
制定は永禄10年(1567年)4月。この制定の背景には、永禄6年(1563年)10月に起こった観音寺騒動により、権力拡大を目指していた六角氏が逆に権威を失墜させていたことにあった。六角義治(義弼)が定めたとの体裁を取っているが、六角氏の権威が弱まる中で、蒲生定秀ら有力家臣が式目を起草し、義賢(承禎)・義治父子が承認することで成立した。また義賢・義治父子と20名の家臣との間で、式目の遵守を誓う起請文を相互に取り交わす形式を取っている。
他の分国法と異なり、大名の権力を制限するものとなっている。これは畿内近隣における国人層の強い自立性を示している。その反面、式目制定後は六角氏を中心とした秩序を回復させる動きもみられ、「国法」である式目に従って大名の権力を抑制する代わりに家臣団が大名を支えていくことを再確認したものであったとする評価もある。
また、67か条からなる内容は、債務や民事訴訟に係る民事規定が中心である。原則として在地の慣習法を尊重しているが、一方で領主の結束を図る手段も規定されている。領民に対しては、領主層の恣意的収奪を規制する体裁をとる一方、打ち壊しなど惣村の反領主行動を禁止するものとなっている。
参考:『長曾我部元親百か条』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA%E7%99%BE%E7%AE%87%E6%9D%A1
『長宗我部元親百箇条』(ちょうそかべもとちかひゃっかじょう)とは、土佐国の戦国大名である長宗我部元親・盛親親子が1597年5月10日(慶長2年3月24日)に制定発布した分国法である。
主な内容
喧嘩・口論は硬く停止する。この旨に背き、勝負に及べば理非によらず成敗する。
国家への反逆・国中への悪口・流言蜚語は重罰刑とする。また、賭博禁止・犯人隠匿には連座制をもって処罰する。
喧嘩・博奕・大酒・踊・相撲見物・遊山振舞などは禁止する(備考として、1573年時点では相撲が行われており、『土佐物語』に流れ力士である源蔵の逸話が見られる)。
隠田の禁止。難渋の場合、(百姓の)首をはねる事。
第一鉄砲、弓馬を専ら心がけること。
密懐法。武家の夫は妻が密通を行った場合、妻を殺害すべし。しない場合は夫、妻、姦夫の三者すべて処刑とする