2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
古都奈良の文化遺産
東大寺
興福寺
春日大社
春日山原始林
元興寺
薬師寺
唐招提寺
平城宮跡
目次
主に公式ホームページからの抜粋です。
『東大寺の歴史』華厳宗大本山 東大寺HP https://www.todaiji.or.jp/history/
東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を追修するために、神亀5年(728)に建てられた山房(後の金鍾山寺)に源を発し、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格してなった大和国国分寺(金光明寺)を前身とする。天平15年(743)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔が発せられ、都が紫香楽(滋賀県甲賀市信楽町)から平城に還ると、大和国金光明寺で盧舎那大仏の造像工事が始まり、天平21年(749)仏身が鋳造。同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養会が営まれた。その後、西塔や東塔、講堂や三面僧房などが造東大寺司の手によって造営され、東大寺としての七堂伽藍順次整った。
東大寺は国分寺として建立されたので、天下泰平・万民豊楽を祈願する道場であったが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗、さらに平安時代の天台と真言も加えた各研究所(宗所)が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。
平安時代に入ると、斉衡2年(855)の大地震によって落下した大仏さまの頭部は真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊した。しかも治承4年(1180)に平重衡の軍勢により大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼かれた。しかし翌年には俊乗房重源によって復興が着手され、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養が行なわれた。翌文治2年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、建久6年(1195)に大仏殿落慶(供養が行なわれた。こうした復興に伴い沈滞気味であった教学活動も活発になり、鎌倉時代には多くの学僧が輩出した。
ところが永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起こり、二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰した。時まさに戦国時代であったから、東大寺の復興は難渋をきわめ、大仏さまの仏頭も銅板で覆う簡単な修理しか出来なかった。ようやく江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏さまの開眼供養が元禄5年(1692)に、さらに大仏殿の落慶供養が宝永6年(1709)に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行された。
明治時代になって起こった神仏分離令と寺社領没収は東大寺の存立に危機をもたらし、宗制上華厳宗を名乗ることなど寺院改革を迫られたが、それでも明治・昭和時代の大仏殿の大修理をはじめ、諸伽藍の維持に努め、現在に至っている。東大寺はその歴史から貴重な文化遺産を今なお多く蔵しているが、そればかりでなく二月堂修二会をはじめ伝統的な仏教儀礼の宝庫でもあって、毎年日本全国はもとより、世界各地から多くの人々が参詣に訪れている。
『興福寺について』法相宗大本山HP https://www.kohfukuji.com/about/
概要
法相宗の大本山である興福寺。その前身である「山階寺(やましなでら)」は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、 夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても 興福寺の別称として使われてい ます。そして、壬申の乱(672)の後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移され、その地名を取って「厩坂寺(うまやさかでら)」と名付けられます。さらに、和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。
その後は、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。文禄4年(1595)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治政府による神仏分離令や社寺領上知令に伴う廃仏毀釈などにより興福寺は苦境に立たされましたが、寺僧や有縁の人々の努力で復興が進展し、新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。
歴史
興福寺の前身
南都七大寺の1つとして隆盛した興福寺は、中臣鎌足(藤原鎌足)の夫人の鏡大王によって建てられた山背国・山階陶原(やましろのくに・やましなすえはら)の「山階寺」を起源とし、その後は藤原氏の氏寺として年月を重ねてきた。
中臣鎌足は推古天皇22年(614)に大和国高市郡藤原で出生した。父は中臣御食子(みけこ)、母は大伴夫人と伝える。中臣氏は祭祀を司ることを家職とし、鎌足はその任を継承する立場にあったと考えられている。しかし、その鎌足が皇極天皇4年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)や蘇我倉山田石川麻呂らと共に蘇我本宗家を打倒する乙巳の変を起こし、軽皇子(後の孝徳天皇)を擁立して大化改新の原動力となった。中大兄皇子と鎌足の親密な関係は終生持続し、鎌足は内臣として種々の実務に携ったと考えられる。
天智天皇8年(669)、鎌足が重い病に伏した時、夫人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、後に夫人の願いが叶えられた。その仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置され、地名にちなんで「山階寺」と称されたと伝えられている。興福寺の前身・起源とされており、この寺名は鎌足を尊崇する意味において、興福寺の別称として使われてきた。
鎌足は天智天皇8年10月16日にその一生を終えた。天皇はその前日に大織冠と内大臣の位を授けられ、「藤原」の姓を与えられた。ここに藤原氏が成立する。その後、「壬申の乱」が起こり、672年に天武朝が始まった。都は近江から飛鳥に戻り、鎌足ゆかりの山階寺も飛鳥の地に移った。その場所は大和国高市郡厩坂(うまやさか)とされ、この地名をとって「厩坂寺」と称したことが伝わっている。
藤原不比等
藤原鎌足には貞慧(じょうえ)と不比等(ふひと)という子息がいた。貞慧は学問を好む聡明な人物であったといわれ、出家してから入唐したが、帰国後に惜しくも夭逝した。一方、不比等は鎌足没年の時まだ11歳であった。彼は成長するにつれて、持統朝に頭角を現し、文武朝では刑部親王を助けて「大宝律令」の撰定に主導的な役割を果たすことになる。
不比等には、夫人の加茂朝臣比売(かものあそみひめ)との間に宮子という子女がいた。彼は宮子を文武天皇の夫人とし、大宝元年(701)に首皇子(後の聖武天皇)が誕生。さらに、不比等と継室の県犬養橘宿禰三千代(あがたいぬかいのたちばなのすくねみちよ)との間には、首皇子と同年に安宿媛(あすかべひめ。後の光明皇后)が出生した。
文武天皇は慶雲4年(707)に遷都の意を表し、和銅元年(708)、元明天皇は遷都の詔を発する。この年、大納言であった藤原不比等は右大臣に任命され、平城遷都は不比等の政権下で実施されることになった。不比等は50歳という老域に達していたが、政府の重鎮として最も充実した時期でもあった。
興福寺の創建
飛鳥・藤原京からの遷都は各寺院の移動でもあった。藤原氏の氏寺である厩坂寺も平城京に移された。興福寺の縁起には、和銅3年(あるいは和銅年間)に遷都し、不比等が春日の勝地に造営して興福寺と名付けたと語られており、このことから厩坂寺の移建は、平城遷都の計画と平行して考えられていたといえる。
一方、興福寺の創建が現在の地でいつ始められたかは明確ではない。和銅3年(710)はあくまで遷都の年であり、同年に興福寺の伽藍が完成したわけではない。不比等は遷都の様子を見定めながら、氏寺の移建に取りかかったと考えられている。
さらに、興福寺の寺地である左京三条七坊に及ぶ平城京の条坊整備が遅れたこともあって、興福寺の造営開始も遅れたと考えられている。和銅7年(714)に興福寺が供養されたとする史料があるが、この頃に金堂がようやく完成に近い姿であったと推測される。金堂には、釈迦丈六仏像と脇侍菩薩4躯(2躯の十一面観音像、薬王・薬上両菩薩像)、四天王像などが安置されたと伝えられている。
不比等は養老4年(720)8月に薨去した。この年の10月に「造興福寺仏殿司」が設置され、円堂(北円堂)が創建された。この円堂には、元明太上天皇と元正天皇が不比等の慰霊のために発願し、長屋王に命じて建立されたという。こうした官司による私寺の造営は異例であり、このことからも不比等の偉大さが認識できる。円堂は不比等の1周忌に当る養老5年8月3日に荘厳が完了した。須弥壇には本尊弥勒仏・脇侍菩薩2躯・羅漢像2躯・四天王像が安置された。そして、橘三千代も夫の不比等のために一具の弥勒浄土変像を造らしめて金堂に安置した。
聖武天皇と光明皇后
神亀元年(724)、聖武天皇が即位し、長屋王が右大臣から左大臣に昇格した。同3年、天皇は元正太上天皇の病気平癒を祈念して東金堂を創建。丈六の薬師如来像を本尊として、脇侍菩薩像2躯が安置され、さらに、涅槃像・純銀弥勒仏像・金銅阿弥陀三尊像・弥勒三尊像・維摩像・文殊像・観音像・虚空蔵像・梵天・帝釈天像・四天王像・金剛密迹・正了知神像・羅睺羅像・天女像などが安置され、堂背面には、新羅伝来と伝え られる釈迦三尊像が奉安されていたという。東金堂の須弥壇には、水波紋の瑠璃塼が敷き詰められていたと考えられ、創建当初の華麗な荘厳がうかがえる。
不比等亡き後は長屋王が皇族勢力の雄として存在感を示したが、神亀6年(729)2月、讒訴(ざんそ)によって自経させられた。この年の8月に「天平」と改元され、光明子は従来の伝統を破って初の臣下出身の皇后となった。
天平2年(730)、光明皇后は五重塔の建立を発願し、その年の暮れに完成したと伝えられている。塔は1年足らずという驚異的な早さで建立されたが、安置仏の造立は少し遅れ、天平宝字年間に全て安置されたと考えられている。塔の初層には東方薬師・南方釈迦・西方阿弥陀・北方弥勒の各浄土変像など、多数の諸仏が安置されたという。
当時の藤原氏は、不比等の長男の武智麻呂(むちまろ。後の南家祖)が大納言に昇進し、次男の房前(ふささき。後の北家祖)は中務卿、三男の宇合(うまかい。後の式家祖)と四男の麻呂(まろ。後の京家祖)はそれぞれ参議に列して、中央の要職を占めていた。興福寺の造営は、こうした藤原氏一族の強い権力の下に進捗した。
光明皇后の生母、橘三千代は天平5年(733)1月にこの世を去る。皇后は母の菩提を弔うために、東金堂に対面する西方に西金堂を建立することを発願する。この造営は皇后宮職が関与し、延べ5万5千人の人員と、2千貫文以上の費用を使い、20石9斗1升という大量の漆を使用して安置仏の造立等が行われ、母の1周忌に合わせて完成した。西金堂には釈迦三尊像をはじめ、羅睺羅像・梵天・帝釈天像・四天王像、そして現在も残る乾漆八部衆像・十大弟子像などの諸像が安置された。
伽藍造営完成
西金堂の建立によって伽藍が徐々に整ってきたが、南大門・中門・回廊などの伽藍の中央部分も一部完成したか、あるいは施工にとりかかっていたと考えられている。その他、講堂・食堂・僧房などの建立年次も定かではないが、おそらく天平16年(744)までには完成したものと推定される。更に西院も拡充され、東院伽藍が造営された。
東院は現在の興福寺本坊の東側に隣接する位置にあったと推定されている。この東院伽藍は、天平宝字5年(761)に藤原仲麻呂(恵美押勝)が聖武天皇と光明皇后の慰霊のために発願した西桧皮葺堂をはじめ、天平宝字8年9月の仲麻呂の乱後、称徳天皇の勅によって造られた百万小塔が分置されたという東瓦葺堂(小塔堂)と、藤原永手のために、夫人と子息 の発願によって、宝亀2年(771)に建立された桧皮葺後堂(地蔵堂)があり、さらに僧房と小子房が附属していたという。
このように元明太上天皇・元正天皇・聖武天皇や光明皇后をはじめ、藤原氏が関わった興福寺の造営は奈良時代後期にほぼ完了したものと考えられている。
興福寺の仏教 興福寺は法相教学の寺院として法灯を護持してきた。その根本教義が「唯識」にあるので、古くは唯識衆(宗)、あるいは法相唯識を宣揚した唐の基(後の慈恩大師)の名をとって、慈恩宗・慈恩教とも呼ばれた。
法相唯識の教義は、5世紀頃のインドで活躍した無著(むじゃく)・世親(せしん)という唯識学派の僧侶によって大成された。そして、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから請来したサンスクリット経典は、玄奘や弟子たちによって漢訳されたが、慈恩大師は、もっぱら唯識経典の訳出、そして論疏の著述を精力的に行い、法相教学の流布に努めた。多くの著書を持つことから「百本の疏主」「百本の論師」と称された。そして唯識を学問として体系化したことにより、法相宗の祖として尊崇されてきた。
その後、法相宗第二祖・第三祖と続く淄州大師慧沼(ししゅうだいし・えしょう)、濮陽大師智周(ぼくようだいし・ちしゅう)をはじめとした中国の学僧によって唯識教学の研究が進み、その果実が入唐僧によって日本に伝えられた。具体的には、孝徳朝の道昭、斉明朝の智通、文武朝の智鳳、元正朝の玄昉が挙げられる。中でも玄昉は、濮陽大師智周を師として在唐18年という長期間にわたって留学し、帰国後は聖武天皇から僧正に任ぜられ、興福寺で法相教学の興隆に大きな影響を与えたと伝えられている。
さて、興福寺の代表的な法会に維摩会(ゆいまえ)があり、これに御斎会(ごさいえ)・最勝会(さいしょうえ)を加えて三会(または南京三会)と称される。この三会の講師になるには、維摩会の研学竪義(りゅうぎ)を修めなければならない。この竪義に至るまでには方広会・法華会・慈恩会の竪義遂行が義務づけられた。これを「三得業(さんとくごう)」と称される。
こうした伝統的な法会の中で「慈恩会」が現在も重きをなしている。これは宗祖である慈恩大師の偉業を称えると共に、法灯護持の念を顕示するものとして厳修され続けてきた。慈恩会は興福寺別当であった空晴(こうじょう)の発願によって天暦5年(951)に始まり、当初は庚申講(こうしんこう)と称されたが、後に慈恩会と称されるようになったとされる。現在では、毎年11月13日(宗祖正忌日)に、会場を興福寺と薬師寺が隔年交代しながら厳修している。法相宗の僧侶としての登竜門として竪義を執行する時もあり、現在の法相宗の最重要法会として位置づけられている。
平安時代の興福寺
奈良時代後期にほぼ完成した興福寺の伽藍は、弘仁4年(813)、当時藤原氏の実権を掌握した北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)が南円堂を創建した。中心伽藍はこの仏殿の建立をもって完成し、その壮麗な大伽藍は官寺と比較しても遜色のない寺観を呈したのであった。平安時代の興福寺は藤原氏の勢力増大に伴い、その庇護によってますます発展した。
神護景雲2年(768)、藤原氏によって創始された春日社は、同じく藤原氏の氏寺である興福寺と次第に神仏習合の関係を築き上げる。興福寺は「春日明神は法相擁護の神」と唱え、天暦元年(974)に社頭での読経が始まり、本地垂迹思想が進むにつれて、興福寺は春日社との一体を主張するに至った。そして、保延元年(1135)に春日若宮を創設し、以来、興福寺による春日社支配が行なわれ、江戸末期まで神仏習合の信仰形態が持続した。
こうした興福寺と春日社との関係は、春日社の神威をかざしての神木動座・入洛強訴という手段に使われ、「山階道理」の言葉が生まれるほど朝廷・廟堂を悩ませた。例えば、寛治7年(1093)の神木動座は、近江守・高階為家に対するもので、近江の春日社領の神人が凌打された報復として為家の流罪を強要し、土佐国に配流させた。このような神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだが、こうした行動が後の平重衡による南都焼き討ちを招いたともいわれている。
興福寺の繁栄と罹災
興福寺は藤原氏と共に隆盛して寺の規模はより一層拡充された。寺僧の住居である子院が寺中・寺外に建てられ、その数は増大していった。この子院の中で格が生じ、公卿の子弟の入寺によって「院家」が成立して貴族化の色調を強めた。さらに皇族・摂関家から入寺した者が門跡となった。門跡は一乗院と大乗院で、一乗院は天禄元年(970)に定昭によって開設され、大乗院は応徳4年(1087)に隆禅が開いた。これが貴種相承となって江戸末期まで伝承された。
興福寺はますます栄え、南都寺院勢力の代表的存在となっていった。しかし、その反面、たびたびの罹災と復興を繰り返したのも興福寺の歴史であるといえる。
興福寺は元慶2年(878)に最初の回禄を経験し、以後、延長3年(925)、寛仁元年(1017)、永承元年(1046)・同4年、康平3年(1060)、嘉保3年(1096)と立て続けに大小の火災にあったが、なかでも、最大規模として記録されるのが治承4年(1180) 12月28日の大火である。これは平清盛が子の重衡に南都進攻を下知し、南下した軍勢と南都勢の合戦から起こったもので、興福寺や東大寺が炎上した。特に興福寺が全山焼亡に等しいまでに延焼したことは、九条兼実の『玉葉』に詳しい。
鎌倉復興造営
治承大火後の復興造営は、各国に割り当てて造営費を分担させられる造国制がとられ、公家(官営)、藤原氏、興福寺の3者によって復興させられることになった。
しかし、復興には長い年月を費やした。源平合戦の影響で出費が遅延したこともあって、当初の計画が変更されたり、造像事業にも影響を及ぼした。
特に、建物が完成している一方で本尊が出来ていないことに業を煮やした東金堂の衆徒が、文治3年(1187)3月9日、飛鳥・山田寺に押しかけ、金銅丈六薬師三尊像(現在の銅造仏頭)を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという行為は、当時の複雑な造営事情を 物語っている。この像は応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祀られたが、このことからも、当時の藤原氏と興福寺の勢力を認識することができる。
なお、仏像などの復興は、康慶・運慶などの慶派仏師が活躍した。彼らの作品は現在も数多く伝存している。また、奈良町の発展に大きく寄与するなど、興福寺の鎌倉復興造営は周辺地域にも大きな影響をもたらした。興福寺はその後、建治3年(1277)、嘉暦2年(1327)、文和5年(1356)、応永18年(1411)に罹災しているが、その都度復興を遂げている。
近世の興福寺
戦国時代ともなると、松永久秀が多聞城を築き、奈良は遂に他国武将の支配を受けた。奈良は戦場にもなり、永禄10年(1567)10月には、久秀の打入りによる大仏殿炎上という事態も起こった。織田信長は足利義昭を奉じて入洛し、やがて政権を樹立した。信長は大和国の検地を行い、寺領の削減を図った。
豊臣秀吉の時代になると、再び厳しい検地を行ったが、文禄4年(1595)の検地で、春日社と興福寺の知行が2万1千余石と定められた。徳川政権下においてもこの知行が維持され、面目を保った。
このように武家の治世に興福寺は衰退の兆しを示すが、これに拍車をかけるような大火に見舞われた。享保2年(1717)正月、講堂・僧房・中金堂・回廊・中門・南大門・西金堂・南円堂などが焼失した火災は、近世最大の災禍であった。再興は進まず、南円堂が寛保元年(1741)にようやく立柱し、中金堂が篤志家の寄進によって文政2年(1819)に仮堂が再建されたのみであった。
明治時代・神仏分離と廃仏毀釈
幕末から明治維新時にかけての興福寺は神仏分離によって動揺した。すなわち、長年にわたる神仏混淆の信仰形態を拒絶され、これによって一乗院・大乗院をはじめ、他の院家も速やかに復飾して春日大社の新社司となり、ほかの諸坊も新神司として春日社への参勤となった。さらに明治3年(1870)の太政官布告によって境内地以外すべて上知ということになった。興福寺は所領を失い、最終的には堂塔の敷地のみが残されるという惨状となり、加えて宗名・寺号も名のれず、まさに廃寺同様の様相を呈した。神仏分離の施策は廃仏毀釈につながり、寺の破壊や撤去が押し進められた。興福寺では築地塀・堂宇・庫蔵等の解体撤去、諸坊の退転が相次いだが、この頃、五重塔が売却されるという噂も広まったが、これはあくまでも伝承の域を出ない。
興福寺は明治8年(1875)から同15年まで、西大寺住職佐伯泓澄によって管理された。この間に興福寺の再興が嘆願され、明治14年に寺号の復号許可が出された。翌年には管理権が興福寺に返還され、その後、紆余曲折を経ながらも興福寺再興に向って動き出し、中金堂の返還や寺僧の増加、あるいは境内地返還による復旧等の将来を展望した計画も立てられた。この間、国の文化財保護政策も進み、明治30年から国宝指定が始まり、同33年から建造物や仏像などの修理が行われた。当時の興福寺の規模は往時と比較すれば隔世の感があるが、廃仏毀釈の混乱から一応の落ちつきをとり戻した。
現代の興福寺
現在の興福寺は、境内地約2万5千坪を有し、昭和34年に竣工した宝物収蔵庫(国宝館)の建設をはじめ、大湯屋・北円堂の解体修理、菩提院大御堂の改築、仮金堂建設、三重塔・南円堂(西国三十三所第9番札所)の修理を完了した。加えて仏像彫刻・絵画・経典・古文書などの保存修理も精力的に行っており、さらに、仏教文化講座や機関誌による伝道などの宗教活動も活発に実施している。
平成3年(1991)には学識経験者からなる『興福寺境内整備委員会』を設置し、平成10年(1998)2月に「興福寺境内整備構想」を策定した。そして同年10月から第1期境内整備に着手し、翌年から国庫補助事業として中金堂・回廊・中門・南大門・北円堂回廊・西室・中室・鐘楼・経蔵の発掘調査を行い、その結果に基づいて基壇の復元整備を順次進めた。
そして平成30年(2018)には、享保2年(1717)に焼失して以降、本格的な復元が叶わなかった中金堂が再建された。今後は、第2期境内整備事業に並行して、令和4年(2022)から、国庫補助事業として五重塔の本体修理に着手する。五重塔の修理は明治35年(1902)以来、実に120年ぶりの修理となる。
興福寺をもっと知る
興福寺と「能」について
現在、興福寺では毎年春・秋の2回、能楽が奉納されています。5月の薪御能、10月の塔影能。ここではその歴史と源流を眺めてみたいと思います。
おおよそ、大寺の伝統的法要は、個人だけの除災招福を願うことはなく、草木国土一切の為の善願成就を祈ります。したがって、その法要の成功がまず大事なことなので、障り害なく無事の完遂を期して結界を張ります。そして、様々な祈願を種々の神秘的祈祷所作のうち、特に人々の目に映り耳に入る所作を外相といいます。当然、その役目は僧侶で、彼らは法呪師と呼ばれました。やがて行法の威力をわかりやすく演技で示す者へ役目が移るようになります。
元々、散楽は中国の芸事で、賑やかな音楽を伴奏に、奇術を行い、呪師や儒者・遊女や占師の物真似を滑稽に演じた民間芸能でした。散楽は日本にも伝わり、それに猿楽(申楽)の字を充てたと言われています。
やがて、散楽は平安時代頃に大寺に所属するようになりました。そして、寺々の大法要に際しては、寺院は所属する彼ら猿楽を専らにする者達に、外相の所作を任せる風になります。彼らは猿楽法師・猿楽呪師と呼ばれ、その所作は「呪師走り」と称されました。
興福寺の法要は全て春日大社の神々の擁護を仰ぎます。例えば往時に厳修されていた西金堂修二会においては、仏に捧げる神聖な薪を春日の花山から運び、それを迎える儀式を猿楽に真似させて神事芸能としました。また、毎夜神々に供え物をして法要の無事を願う神供の式もありました。献ぜられた薪は、式の行なわれる手水屋において焚かれ、その浄火の下で猿楽が演じられ、そこから薪猿楽と称されるようになったと考えられています。散楽を源流とする物真似を主体とした芸才が役立ったというわけです。しかも、絶大な勢力を聖俗両界に及ぼした興福寺と強く結ばれたことは、猿楽が著しく発展する要素となりました。
演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的な部分であって、おそらく演劇的要素は無かったと思われます。しかし南北朝時代に至ると、金春禅竹や観阿弥・世阿弥父子らによって猿楽は芸術の域に高められ、能として大成されたのです。
さて、薪猿楽の呼称は『建長7年中臣祐茂記』2月6日条が初見であると言われています。鎌倉時代初期には、薪猿楽が修二会に際して、春日社頭・若宮と東西両金堂で演じられていたことが分かります。これを主宰したのは、興福寺・譜代の御家人とも言うべき「衆徒(堂衆/僧兵)」でした。彼らは願主(施主)として一切の運営を請負、執行しました。
一方、衆徒は彼らの地領で猿楽を組織し育成しました。磯城郡・結崎の観世座、法隆寺に所属した坂門の金剛座、桜井の山田寺に所属した外山の宝生座、そして、十市郡・竹田の金春座でした。このうち金春座はもっとも早く興福寺に所属しました。
東金堂でも薪猿楽を始めます。西金堂と東金堂はその主催権を巡って争いが起こり、衆徒が仲裁の体をとって、南大門に会場を移します。鎌倉時代の終わり頃の話ですが、実際は衆徒が主催権を召し上げたのです。
その理由は、修二会の法楽行事化した薪猿楽に人気があったからです。また、衆徒が育てた猿楽座をこれに送り込んだため広場が必要となったからでしょう。この頃に、若宮祭に関する座次が金春・金剛・観世・宝生とした順に決まりました。衆徒らが引き立てて薪猿楽は盛んになったのですが、応安7年(1374)京都・今熊野神社で能会が催されました。見物に来た足利義満は、出演した鬼夜叉(世阿弥)の演技に魅了されます。彼を愛した義満は、大和四座を揃えて薪猿楽に参仕するように厳命します。
その後、義満は頻繁に奈良に下向するようになりました。特に「春日若宮おん祭り」の見物は欠かさず行ったのは、藤氏に代わった大和の主催者であるとする政治的示威、猿楽・田楽などの芸能が気に入ったからであったと言われています。神事・仏事、ことに春日社興福寺の行事の一部であった猿楽は、やがて猿楽能として完成され独立していきました。
室町中期以後の薪猿楽の様子は大乗院尋尊、金春弾竹らの記録によって知られます。それらによりますと、4種の行事が次のような日程で組み立てられていたようです。
(1)2月5日
春日大宮社領での式三番、呪師走り
(2)2月6日より7日間(14日まで雨天順延)
興福寺南大門での猿楽(門の能・薪能)
(3)第3日(順調なら2月8日より4日間)
春日若宮社頭での1座ごとの猿楽(御社上り)
(4)2月10日前後の2日間
一乗院または大乗院での2座ずつの猿楽(別当坊猿楽)
以上のように、盛大に行われていたことがうかがえます。天文元年(1532)頃には、近世の奈良町の原形が出来上がってきますが、興福寺界隈に住む一般の人達、奈良郷民が興福寺薪御能の桟敷見物を許されています。
江戸時代になりますと、徳川家康は猿楽の南都参仕料に380石を衆徒に給します。寛文2年(1662)には500石の加増。薪御能に300石、若宮祭礼に300石、それらを猿楽3座(観世座は江戸に留め置き)で分けます。徳川政権は足利将軍家と同等の保護を加えたわけで、これで「薪御能」も「おん祭り」も立ち直りました。猿楽座の参仕にはいろいろ問題もありましたが、薪御能の番組などが残っております。
さて、明治維新となれば神仏分離の嵐が吹き荒れます。すぐに薪御能・おん祭りは停止されます。春日社興福寺の知行没収は運営にかかる費用捻出ができず、催行を断念するほかなかったのです。
以降も断続的ではありましたが有志の方々の尽力で催行されました。しかし、明治28年(1895)を最後に、それ以降、催行されることはありませんでした。それが復活したのは昭和18年(1943)でした。大戦中にも関わらず、何故それが催行出来たか。それは、当時の興福寺貫首であった板橋良玄が切望した、奈良・興福会(現在の財団法人・興福会の前身)の設立に関係します。本会は昭和17年11月に設立されましたが、その目的は興福寺伽藍ならびに儀式の復興を主眼としたものでした。その中には、儀式部・伽藍再興部とともに能楽部の設置が明示されています。それを承けての薪御能の復活であったわけです。昭和18年5月7日・8日のことです。そして、昭和19年4月4日・5日にも行われました。
ここで注目すべきことは、観客は現在の様に南大門から見ることが出来なかった点です。先に述べたように、室町時代に初めて興福寺界隈の人達が桟敷見物を許されて以来の伝統です。能や狂言は神仏に捧げられるもの。それを見ることは観覧ではなく陪観となるからです。陪観とは神・仏に従って見る心構えが基本となります。
その後は、昭和27年より地方自治体が中心となり、薪御能は四座参勤となる古儀に近い形で行われるようになりました。時期も創始された東西両金堂の修二会に因み、新暦になおして3月14日・15日となりました。現在は5月の第3金曜日・土曜日に行われております。
現在、薪能と称する野外能は全国各地で行われますが、薪を燃やすから薪能ではないことはよくお分かりになったと思います。芸能に昇華した演能は正面で見ようと拍手しようと許されます。しかし、その源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であったことを忘れてはなりません。
なお、10月の第1土曜日にはライトアップされた古都奈良のシンボル・五重塔のもと、仏様に能狂言を奉納する「塔影能」を催行しており、こちらも毎年各地から多くの方々に陪観をいただいております。
古来より連綿と奉納され続けてきた「薪御能」と、秋の行事として定着した「塔影能」。この2つの芸能空間は我々と神仏との境界が開かれ、皆様をきっと時空を超えた世界へと誘ってくれるでしょう。
お酒の話
天平勝宝2年(750)2月、孝謙天皇が唐人李元環に外従五位下を授けるため春日酒殿に行幸します。これが奈良で「酒」が史料として見られる最初のようです。その他に、春日祭神酒として白酒・黒酒および神主酒(一夜酒)が知られていますが、今の清酒とは違います。
平安時代の末頃、神仏習合思想が浸透し、祭政一致が叫ばれるようになりました。大和国の支配を目指す興福寺は、大和は春日の神国と認めるものの、国司を追払ってしまいました。そして、興福寺は春日杜に若宮を創設して春日の祭祀権を奪うことに成功し(保延元年・1135年)、名実ともに大和国の支配者となりました。その後も大和国の守護職としての役割を果たします。
この頃の史料に「元興寺酒座」が記録されています。酒造販売の始まりのようです。春日若宮神人(じにん)で興福寺寄人(よりうど)の身分をもらった人が元興寺付近で営業を始めました。
聖俗両界に絶大な勢力を築いた春日社興福寺。僧兵の親玉として知られる衆徒(しゅと)は、興福寺の御家人のようなもの。それぞれの領地を治め興福寺に年貢を収めます。倉庫となるような建造物は至る所にある。多くの米が集る。大寺には井戸や近くには川があって、大量の清浄な水が確保できる。これだけ条件が揃えば、お酒を造れと言っているようなものです。やがて、興福寺配下の菩提山正暦寺や鳴川寺成身院、影響下の河内天野山金剛寺で僧坊酒が量産されるようになりました。
酒は仏教徒、特に出家者には飲酒戒として自制することが定められています。ところが、戒律の条文には酒造の事も記されます。もとより酒を遠離する事が目的で書かれているわけですが、当時の日本は戒律の遵守がそれほど厳格ではなく、酒造のための好資料となりました。
桃山時代に入ると、莫大な収入に目をつけた秀吉が、僧坊での酒造を禁止して独占しますが、奈良酒や天野酒の人気は世を席捲し、酒・清酒と言えば奈良と指すようになります。秀吉が引き抜いた酒造職人達は伏見や灘などで技を磨いたと言われています。
宝蔵院流槍術の話
宝蔵院流槍術は大和国発祥の武道です。その流祖は覚禅房胤栄であり、興福寺の塔頭子院の宝蔵院に住み、十文字鎌槍を活用した独自の槍術を創始して日本有数の槍術流派の礎を築きました。
興福寺と藤原氏
興福寺の前身は藤原鎌足の病気平癒のため、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建立した山階寺(やましなでら)です。その後、飛鳥に移して厩坂寺(うまやさかでら)を建立。そして平城遷都の際に、藤原不比等が厩坂寺を現在の地に移築し、興福寺と改名します。
藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の1つとして栄え、鎌倉・室町時代には大和の守護職的な勤めをするまでに至ります。藤原氏の繁栄とともに寺領を拡大して、堂塔伽藍が百数十棟、僧侶4000人にのぼったといわれています。
興福寺と災害
興福寺は幾度の火災に見舞われましたが、その度に復興を繰り返し更に寺勢を拡大してきました。その中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大でした(治承大火)。東大寺と共に大半の伽藍が焼失します。その後、興福寺に所属した運慶ら慶派仏師の活躍によって驚異的な復興を遂げます。興福寺には、治承大火の以降に復興された御像が数多く残されています。
『春日大社について』春日大社HP https://www.kasugataisha.or.jp/about/
春日大社のはじまり
神山である御蓋山ミカサヤマ(春日山)の麓に、奈良時代の神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により武甕槌命タケミカヅチノミコト様、経津主命フツヌシノミコト様、天児屋根命アメノコヤネノミコト様、比売神ヒメガミ様の御本殿が造営され御本社(大宮)として整備されました。現在、国家・国民の平和と繁栄を祈る祭が年間2200回以上斎行されています。
その中でも1200年以上続く3月13日の「春日祭」は、現在も宮中より天皇の御代理である勅使が参向され、国家・国民の安泰を祈る御祭文を奏上されます。さらに、上旬・中旬・下旬の語源に関わる宮中の「旬祭」、上巳・端午・七夕などの「節供祭」も平安時代に移され、今に至るまで斎行されています。
平安時代には若宮様が御出現なされ、長承4年(1135)に現在の地に御本殿を創建。その翌年から900年近く続く12月17日の「春日若宮おん祭」は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。この祭の中で8時間にもおよぶ御旅所祭は、古代から中世の大神事芸能奉納祭であり、日本古典芸能史絵巻といえます。なお能舞台の鏡板に描かれた松(影向の松)はこの祭に由来します。
春日大社の御神宝
古来、天皇や上皇の崇敬篤く、また藤原氏の氏神であり関白を始めとする多くの貴族が参拝し、数多くの品々を神様へ奉納しました。その点数と質の高さから春日大社は「平安の正倉院」とも称されます。総所蔵は約3000点におよび、「国宝殿」で展示しています。
千古の森の中の鮮やかな朱塗りの社殿
20年に一度、御社殿を美しくする「式年造替」はこれまで60回を数え、60回を越えるのは「伊勢神宮」と「春日大社」のみです。式年造替では国宝の御本殿4棟以外の62社の摂社・末社も全て美しくします。その他、27棟の重要文化財の建築物があります。
社紋の藤は、「砂ずりの藤」をはじめ、東回廊の御蓋山等の境内各所、さらに「萬葉植物園」の20種200本が、毎年ゴールデンウイークの時期に咲き誇ります。「萬葉植物園」には万葉集に関わる草花約300種がゆかりの万葉歌とともに植えられています。
神山を含む約30万坪の春日大社は世界遺産にも指定され、全国およそ3000社の春日神社の総本社でもあります。
春日山、御蓋山は神山のため、春日大神様の御神域を守るため平安時代に狩猟伐木禁止の太政官符が朝廷より出され、現在まで原生林として保たれています。県庁所在地に原生林が残るのは春日の神域だけで、神様の下で原生林の自然と「神鹿」を始めとする動物と人間が共生する世界です。(「春日山原始林」は国の特別天然記念物)
奈良時代に神様が常陸国から御蓋山へお越しになる時、白鹿にお乗りになって来られたことから、春日神鹿は神様のお供であり、神の使いとして大切に扱われるようになりました。
現在、奈良公園を中心とした地域に約1300頭の鹿が生活しています。このような所は他にはなく、日本のみならず世界中の人が奈良の鹿に魅力を感じ、鹿に合うために訪れます。(「奈良の鹿」は国の天然記念物)
三千基の燈籠
~「昔、春日大社は奈良で一番明るいところでした」~
境内には平安時代より奉納の始まった約3000基の燈籠があります。古くは300年以上の時を経たものも多数あり、社寺の参道に燈籠を並べる風習は当社から始まったとされます。全国にある室町時代の燈籠の7割近くがここにあります。燈籠には毎晩火が入り、そのゆらめく明かりで幽玄な世界が広がる聖域でした。
『春日山原始林(かすがやまげんしりん)』奈良公園HP
みどころスポット
春日山原始林は、1100年以上前に狩猟と伐採が禁止されて以来、春日大社の聖域として守られてきました。国の特別天然記念物に指定されています。
また、自然に対する原始的な信仰が発生して以来の日本人の伝統的な自然観と深く結びついて、今日まで伝えられてきた景観であることから、世界遺産では自然遺産ではなく文化遺産の一要素として指定されています。
こんなにも市街地の近くにある、春日山原始林に触れるには
<<歩くなら春日山遊歩道>>
春日山原始林を周回する全長9.4kmの遊歩道です。鬱蒼と繁茂した巨木には心を癒されます。昆虫や鳥類の観察など、自然とのふれあいの場としても素晴らしいです。 一部で並行する石畳の滝坂の道は剣豪の里柳生に通じる旧柳生街道で、林内所々に石仏が見られます。
Information
有料
供用区間の通行料金 (鎌研交番所→芳山交番所 ※一方通行)
ご注意!原始林保護のため通行は一部分に限られ、林内への立ち入り、火気の使用や動植物の採取は禁止されています。
車種 バイク 軽自動車 小型自動車 普通自動車 バス(マイクロ含)
通行料金 200円 500円 900円 1,000円 1,900円
お問い合わせ先
〒630-8114 奈良市芝辻町543 奈良公園事務所
Tel
0742-22-0375
交 通
JR奈良駅、近鉄奈良駅から奈良交通バス(市内循環外回り)「破石町」下車、徒歩約15分で春日山遊歩道起点へ
※JR奈良駅、近鉄奈良駅から奈良交通バス(春日大社本殿行)「春日大社本殿」下車、徒歩約10分の地点からも春日山遊歩道に入れます。
<<車なら春日奥山道路>>
民営のドライブウエイと連絡して、春日山原始林内の一部を通行できます。
昼なお薄暗く鬱蒼と茂る原始林に接し、自然の探勝が楽しめるこのコースは、観光名所の一つとなっています。車窓から臨む千数百年もたった巨木群との出会いは、自然の偉大さと、森林の恩恵を体感する場でもあります。
『元興寺について』元興寺HP https://gangoji-tera.or.jp/about/
世界文化遺産、古都奈良の文化財
日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺(佛法元興の場、聖教最初の地)です。
AM9:00~PM5:00(ただし入門はPM4:30まで)
大人700円(秋季特別展期間中800円)
中学生/高校生500円(秋季特別展期間中600円)
小学生300円(秋季特別展期間中400円)
30名以上団体600円(秋季特別展期間中700円)
身障者それぞれ半額
境内、飲食禁止
令和7年4月1日より拝観料が改定致します。詳細は新着情報をご覧ください。
●ななまるカード(老春手帳)について
(特別展期間中、地蔵会・節分会等の年中行事の時はご利用頂けません)
駐車場
拝観者のみご利用いただけます
北門駐車場 大型バス2台(無料)…要予約
東門駐車場 乗用車10台 (無料)
8月22日~25日午前中、2月2日〜3日はご利用いただけません。
◎国宝、世界遺産について
世界文化遺産「古都奈良の文化財」は8資産群からなっています。その中で元興寺は史跡元興寺極楽坊境内という狭い空間の、旧僧坊遺構である国宝極楽堂(極楽坊本堂)と国宝禅室(極楽坊禅室)が登録されています。また、東門は重要文化財に登録されています。この寺は、我国最初の本格的伽藍である飛鳥寺(法興寺)が平城遷都により新築移建された官大寺たる元興寺の極一部にすぎません。かつて平城京の東部外京に、興福寺と南北に接した大伽藍は、たび重なる罹災により姿を消し、この一画と史跡元興寺塔跡、史跡小塔院跡、そして寺に由来する奈良町の町名にかろうじて記録される程度となってしまいました。
この忘れ去られ様とした元興寺が世界文化遺産に登録されたのは、一重に戦後の文化財保護法による成果といえます。多くの人々が地道な調査研究を進め、国庫を中心とした多額の資金が注入され、保存事業が行われて、真正性(オーセンティシイ)が証明されたからなのです。
元興寺の所有する建造物、仏像の多くは文化財として指定を受けています。
主な建造物
国宝 元興寺極楽堂(極楽坊本堂)
国宝 元興寺禅室(極楽坊禅室・春日影向堂)
国宝 五重小塔
重要文化財 東門
県指定文化財 小子坊(極楽院旧庫裡)
茶室(泰楽軒)
法輪館(第一収蔵庫・第二収蔵庫)
都市景観形成指定 西室意楽庵(寺務所)
北門
主な仏像
重要文化財 板絵智光曼荼羅(※)、並びに智光曼荼羅舎利厨子
(※秋季特別展期間中に特別公開します)
県指定文化財 絹本智光曼荼羅
重要文化財 木造阿弥陀如来坐像(禅定院多宝塔本尊)
重要文化財 木造聖徳太子立像(十六才孝養像)
重要文化財 木造弘法大師坐像
県指定文化財 木造南無佛太子像(聖徳太子二才像)
重要有形民俗文化財 元興寺庶民信仰資料 60,000余点
市指定文化財 絹本著色弁才天坐像
薬師如来坐像(西国薬師霊場五番)など
史跡
元興寺極楽坊境内、元興寺僧坊、講堂の一部
◎元興神(ガゴゼ)について
その昔、元興寺の鐘楼に悪霊の変化である鬼が出て、都の人たちを随分こわがらせたことがあります。その頃、尾張国から雷の申し子である大力の童子が入寺し、この鬼の毛髪をはぎとって退治したという有名な説話があります。この話から、邪悪な鬼を退治する雷を神格化して、八雷神とか元興神と称することになり、鬼のような姿で表現するようになりました。元興寺にまつわる鬼のことをガゴゼとかガゴジとかガンゴなどの発音で呼ばれ、日本全国にも伝わっているようです。
最近余り見かけなくなったことだが、子供が舌を出し、目の下を指で押さえて、「アッカンベ」とか「ベッ」と言っておどける仕草がありました。鬼事(鬼ごっこ)の古い型で、ベカコは、メカゴー(目掻う)あるいは目赤子ともあるが、「ベカコ」「ベッカンコ」といい、「ベッガンゴ」から変化したものかもしれません。「ガンゴ」は「ガンゴウ」からきており、「ガゴジ」や「ガゴゼ」と同様に元興寺(がんごうじ)から生まれた鬼の言葉のようです。
淡路や徳島方面の古老によると、昔、泣き止まない子どもを論すのに、「ガゴジが来るぞ」とか「ガゴゼが来たよ」と言ったといい、元気の良い子供を「ガンゴ」とか「ガンボウ」と呼んだといいます。
近世の風物や習俗を解いた書物には、子供を威すのに「ガゴジ」、「ガゴゼ」と言って、目を見開き、口を大きく開けて、鬼の真似をすることがあったという。「ガゴゼ」というのは、昔、元興寺にいた鬼のことをいうので、「ガゴジ」(元興寺)といったが、後に寺方が「ガゴゼ」(元興神)というようになったと識しています。
狂言「清水(しみず)」の中で、太朗冠者が清水寺に代参するのを断わる理由として、「ガゴゼが出るから恐ろしくて行けません。」というセリフが今も残っています。
『大和名所図会』の元興寺の項には、「美しい女(おんな)を鬼ときく物を、元興寺(がごじ)にかまそというは寺(てら)の名」と言う狂歌が載せられています。
つまり、元興寺は寺の名よりも鬼の代名詞として浸透していたことが分かります。元興寺の鬼伝説は、「日本霊異記」の道場法師の話がその原型とされています。道場法師は雷の申し子として誕生し、大力となって朝廷の強力に勝ち、元興寺の鬼を退治し、寺田の引水に能力を発揮して功績を上げ、後に立派な法師となったという出世話です。ところが、この中で鬼退治の場面がクローズアップされ、唱導師が解釈を加えて、鬼事(春を迎えるおこない)と結び付けられていったのでしょう。元興寺では鬼を退治した道場法師を神格化して、「八雷神(やおいかづちのかみ)」とか「元興神」と称し、奇怪な鬼面を伝えています。農耕を助け、鬼を退治し、佛法を興隆した鬼神を象徴しているのでしょう。
古来、鬼は闇に隠れ、人を啖(くら)うものとされ、悪鬼邪気の象徴であり、追い払わなければ、春は来ないと言います。この鬼を退治するのに元興神のような鬼を超える鬼神(雷)の存在を想定したのです。元興神のような鬼の御礼や屋根の鬼瓦、「なまはげ」などは、人が避けなければならない恐ろしいもの(悪鬼)なのではなく、悪鬼が畏れる存在(善鬼)なのです。
悪鬼は指が3本とされる。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の煩悩しかありません。智慧と慈悲という大切な2本の指を亡失したのです。鬼神のように活躍する人は、待望したいが似て非なる悪鬼の人は追い払わねば、春は来ないと言うことです。
いずれにしても、鬼は誰の中にも存在することも忘れないでいたいです。
『薬師寺について』奈良薬師寺公式ホームページ https://yakushiji.or.jp/guide/
薬師寺の創建と平城京への遷寺
薬師寺は天武天皇9年(680)に天武天皇が皇后鵜野讃良皇女うののさららのひめみこ(後の持統天皇)の病気平癒を祈って発願されました。しかし、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御され、持統天皇が即位し新都藤原京に薬師寺が造営されました。697年には、本尊薬師如来の開眼が行われ、翌年には構作が終わり僧侶を住まわせたことが『続日本紀』に記されています。710年、元明天皇の命により藤原京から平城京へと遷都が行われます。遷都にともなって薬師寺も平城京右京六條二坊の現在の地へと遷りました。当時の薬師寺は、天平時代までは天下の四大寺の一つとされ、金堂・東西両塔・大講堂など主要なお堂は裳階がつけられ、 その壮麗な姿は「龍宮造り」と呼ばれていました。
しかし、歴史の中で多くの堂塔が火災や地震で失われてしまいました。特に、享禄元年(1528)の兵火は激しく、金堂、西塔、大講堂などが焼失しました。そのなかで唯一創建時から現存するのが東塔【国宝】です。
伽藍の復興
薬師寺にとって失われた伽藍の復興は長年の悲願でした。
昭和43年(1968)、管主だった高田好胤和上は、「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、精神性の伴った伽藍の復興を」と訴え、お写経勧進による白鳳伽藍復興を始めました。
一巻千円(当時)のご納経料をいただき、百万巻のお写経を勧進して金堂復興を目指しました。高田管長は全国を行脚し、お写経を通した「美しい心の再発見」を呼びかけ、昭和51年(1976)に目標の百万巻を達成し、金堂が落慶されました。
お写経勧進による白鳳伽藍復興は平成30年で50周年を迎えました。西塔さいとう、中門、回廊、大講堂、食堂じきどうと白鳳伽藍の主要な堂塔はおおよそ復興され、いにしえの大伽藍がよみがえっています。
薬師寺の伽藍復興は、まさに日本人の美しい心の結晶として行われました。白鳳時代の祈りと昭和、平成、令和の信仰を伝えることが薬師寺の次なる目標です。
1300年伝わる信仰の場所であり、いにしえの奈良を感じていただける地が薬師寺です。
心を癒やし、心を磨きに奈良薬師寺にお参りください。
『唐招提寺とは』唐招提寺HP https://toshodaiji.jp/about.html
唐招提寺とは
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。
現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。
鑑真大和上
688~763年
唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称されました。
天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を踏まれました。
以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。
その渡航の様子は、「東征伝絵巻」(重文)に描かれています。
◎『唐招提寺 金堂平成大修理』大修理に伴う調査と修理の記録映像 https://toshodaiji.jp/movie.html
『平城宮とは』国営平城宮跡歴史公園HP https://www.heijo-park.jp/about/heijokyo/
平城京とは?
平城京は、今から1300年ほど前に、現在の奈良市につくられた都です。平城京を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれています。
本格的な中国様式の都
平城京ができたのは西暦710年。元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都をつくりました。平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安という都でした。
東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形の東側に、東西約1.6km、南北約2.1kmの外京を加えた総面積は約2,500ヘクタール。都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐにのびるメインストリート・朱雀大路は幅約74m。道路というより広場と呼びたくなる広さです。この朱雀大路の西側を右京、東側を左京といいます。碁盤の目のように整然と区画されたスケールの大きな都には10万人以上の人が暮らしていたといわれています。
都の中心は、平城宮
平城京の中心は、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇のすまいである内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まった平城宮でした。東西・南北ともに1 kmの東側に、東西250m,南北750mの張り出し部を持つ平城宮の周りには大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれました。平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々でした。
現在、特別史跡として、世界遺産を構成するひとつとして、だれもが自由に散策を楽しめる平城宮跡。奈良時代の姿を思い浮かべながら、歴史のロマンを感じ取ってください。
なぜ? ふたつの大極殿
大極殿は、天皇の即位などの大切な儀式がおこなわれていた場所です。平城宮にはこの大極殿の跡が2つも残っています。なぜでしょう?
聖武天皇は740年から745年まで、現在の京都、大阪、滋賀と、都を転々と移し替えたのですが、その際それまであった大極殿をあわせて解体、移築しました。745年には再び平城京を都としましたが、このときには以前の大極殿があった東側に新しい大極殿を建てたのです。
現在の平城宮跡にみられる「第一次大極殿」は元明天皇が建てた大極殿、「第二次大極殿」は聖武天皇が建てた大極殿です。
平城京の歴史 https://www.heijo-park.jp/about/history/?doing_wp_cron=1752131950.6496019363403320312500